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最新全国古墳の数、多い順ランキング! [日本の歴史]

http://kofun.jp/diary/5176.html

(平成24年度調査)に拠れば、全国に存在する埋蔵文化財包蔵地数(古墳・横穴)は
158905です。
 確認した訳ではありませんが、古墳が作られるようになったのは、3世紀頃からの様です。
前回、紹介しました 「稲荷山古墳出土鉄剣」は、金象嵌の材質調査の結果に拠り、
辛亥年は471年が定説とされています。(一部に531年説もある)
 この数字は、証拠の物件が有りますので、ほぼ、正しいとされています。

と言うことで、日本に置ける古墳は、3世紀頃より、作られ初めて、471年頃までは、不確かではありますが、それよりも古い古墳と、その後に作られた古墳に分けられます。

最新全国古墳の数、多い順ランキング!(平成24年度調査)
http://kofun.jp/diary/5176.html
 この資料に拠りますと、全国に存在する古墳の数は、総数:158905 になります。

この数を多いと見るか、少ないと見るかは、私にはよく解りません。
府県別の資料から、私が住んでいる大阪の周囲はどれぐらいかを示しますと、
1位)兵庫県:18841 3位)京都府:13089 8位)奈良県:9617 13位)大阪府:3424
21位)和歌山県:1694。 合計 46665

46665/158905×100=29.36

大阪を含めて、周辺府県には、全体の29.4%の古墳が有ることになります。

 どうして、兵庫県は こんなに多いのでしょうか。

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仁徳天皇古墳の倍塚詳細・資料 [日本の歴史]

先ず、下記のアドレスから、仁徳天皇の資料に移動して、タイトルを選択してください。
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/hakubutsukan/kofun.html#cmsNINHYA04

4、5番目が該当します。

先ず、4番目のデータを見ます。
仁徳天皇陵古墳の陪塚のデータ
 陪塚とは、大きな古墳(主墳)の周辺に造られた小型の古墳の中で、主墳に付属するような位置に計画的に配置され、かつ同じような時期に造られた古墳をさします。古墳の形は方墳や円墳が多いのですが、帆立貝形の前方後円墳もあります。元々は中国の陪葬墓のような、主墳に葬られた人に、死後の世界でも付き従うために葬られた近親者や従臣、お供の人々の殉葬墓と考えられていました。しかし、最近の研究では、百舌鳥御廟山古墳の陪塚で、多量の滑石製模造品を埋納したカトンボ山古墳のように、特定の副葬品のみを埋納した古墳が多く確認され、本来主墳に副葬するはずのものを、周辺に造った小型の古墳に種類別に副葬品のみを分納した場合もあることがわかってきています。帆立貝形の前方後円墳では人体埋葬が認められる例が多く、近親者や従臣の古墳とみられます。それに対して方墳や円墳では特定の副葬品を多量に埋納した古墳が多いようです。


A.宮内庁指定陪塚-12基
い号飛地 孫太夫山古墳 1,380平方メートル 後円部墳丘のみ指定
ろ号飛地 竜佐山古墳 1,828平方メートル 墳丘のみ
は号飛地 狐山古墳 407平方メートル 残存墳丘のみ
に号飛地 銅亀山古墳 590平方メートル 残存墳丘のみ
ほ号飛地 菰山塚古墳 804平方メートル 残存墳丘のみ
へ号飛地 丸保山古墳 2,399平方メートル 後円部墳丘のみ
と号飛地 永山古墳 5,458平方メートル 墳丘のみ
ち号飛地 源右衛門山古墳 870平方メートル 墳丘のみ
り号飛地 坊主山古墳 167平方メートル 残存墳丘のみ
本陵内(甲号-茶山古墳、乙号-大安寺山古墳、丙号-樋の谷古墳)
B.仁徳天皇陵古墳の周り(陪塚の位置)にあった古墳-19基(消滅した古墳を含む)
C.仁徳天皇陵古墳の周り(陪塚の位置)に現在残っている古墳-16基

各、陪塚の写真、詳細は、この資料の下に、記されています。


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仁徳天皇陵と稲荷山古墳出土鉄剣 [日本の歴史]

続けて、別々に、仁徳天皇陵と稲荷山古墳出土鉄剣
のことを見て頂きました。

今日は、両者を一緒に、考えてみます。

 仁徳天皇は、16代天皇です。
https://www.sakai-tcb.or.jp/spot/detail/126

クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓、5世紀中ごろ築造とされ全長約486mの日本最大の前方後円墳。百舌鳥耳原三陵の一つで、墳丘は3段に築成され三重の濠がめぐり10基以上の陪塚があります。-----超巨大古墳

「稲荷山古墳出土鉄剣」 の事から、鉄剣の持ち主が、21代雄略天皇(倭の五王の武)であることが判りました。 
 
雄略天皇御陵
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/021/index.html

仁徳天皇陵が、世界一の巨大古墳であるのに、5代後の雄略天皇の御陵は、円墳でしかも、小さな古墳です。

稲荷山古墳出土鉄剣は、金を使って漢字が書かれていました。 金だからと云って、別に驚く事ではありませんが、この程度の剣は、日本では、作る技術が無かった様に、他の資料では書いてありました。
それ故に、この剣は、貴重な剣でありましたから、金を使って、保存したと思われます。 それにしても、どうして、鉄の部分は、残ったのでしょう。

古墳自体は、3世紀位から、全国で造られるようになり、4世紀頃には、巨大化したとされていますが、資料が沢山でてくるのは、良いですが、私の頭は混乱です。

雄略天皇が、稲荷山古墳出土鉄剣を持っていたと言うことは、取上げたか、中国人から貰ったかは判りませんが、交流が有ったことは確かの様です。

古事記や日本書紀に書いてあるからというような証拠では無くて、物的証拠で、前回述べましたように、この刀の持ち主は、雄略天皇であることは確かであると思います。

もう一つ、雄略天皇の頃には、巨大な古墳が造られなくなったのは、各天皇の実力が小さくなったのか、お金が少なくなったのか、いろいろ検討が必要になりました。


中国製武器の鉄剣、関東稲荷山で出土   97  -129-  田村誠一氏の意見
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2016-03-01

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大仙陵古墳【仁徳天皇陵】の陪塚その他/百舌鳥古墳群: [日本の歴史]

http://wildblue.hatenablog.jp/entry/2017/05/03/%E5%A4%A7%E4%BB%99%E9%99%B5%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E3%80%90%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%B5%E3%80%91%E3%81%AE%E9%99%AA%E5%A1%9A%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96/%E7%99%BE%E8%88%8C%E9%B3%A5%E5%8F%A4
是は、私のページではありません。
以下 この図に対する私のコメントです。

上記のアドレスをクリックしますと、大仙陵古墳【仁徳天皇陵】の古墳と周囲の古墳が図示されます。
青色の古墳は、明らかに、大仙陵古墳を取り囲んで作られており、大仙陵古墳と何らかの関係がありそうです。
 大仙陵古墳に、接するように有る古墳は、10。
 やや近くに有る物を含めますと、13.
 形は、前方後円墳、円墳、方墳です。

永山古墳(前方後円墳/全長100m/時期:5世紀) №8の古墳です。
大きさから判断すると、少し大きい様に思われて、仁徳天皇天皇と関係無い様にも思われますが、関係有るとしますと、仁徳天皇が崩御されて、すぐに、追いかける様にして、造られた墳墓でしょうか。

仁徳天皇の墳墓に接近して造られたお墓は、「陪塚」と呼ばれていますが、多くの資料を読む限り、すべて、仁徳天皇の関係があるとは限らないように思われます。

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稲荷山古墳出土鉄剣2 [日本の歴史]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F%E9%89%84%E5%89%A3#.E9.8A.98.E6.96.87.E3.81.AE.E5.86.85.E5.AE.B9

この銘から辛亥の年に作られたことが分り、471年と解読されている。これは雄略天皇の年代にあたっていた。  更に鉄剣の主は「シキ宮のワカタケル」に仕えたと書かれていた。倭人はもともと漢族に圧迫されて安住の地を求めて渡来したのである。この倭人の国に中国製の鉄剣が出土した以上、倭人の敵が関東まで占領していた

代   数 :第21代
■天 皇 名 :雄略天皇
(ゆうりゃくてんのう)
■御   父 :允恭天皇
■御   母 :皇后忍坂大中 命
■御 陵 名 :丹比高鷲原陵
(たじひのたかわしのはらのみささぎ)
■陵   形 :円丘
■所 在 地 :大阪府羽曳野市島泉8丁目
■交通機関等 :近鉄「高鷲」下車 北へ0.6km
■陵印保管場所 :古市陵墓監区事務所

埼玉稲荷山古墳出土金錯銘鉄剣の金象嵌銘文の蛍光X線分析
http://www.tobunken.go.jp/~ccr/pdf/42/pdf/04201.pdf

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稲荷山古墳出土鉄剣 [日本の歴史]

稲荷山古墳出土鉄剣

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F%E9%89%84%E5%89%A3#銘文の内容

稲荷山古墳出土鉄剣は、国宝です。国宝足るの所以は、

上記アドレスに書かれた資料によりますと、

115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。


金象嵌の材質[編集]
2000年と翌2001年にかけて行われた、金象嵌の材質調査(蛍光X線分析)によって、象嵌に使われている金には、銀の含有量が少ないもの(10%ほど)と多いもの(30%ほど)の2種類あることが判明した。その2種類の金は、表は35字目、裏は47字目から下の柄側には銀の含有量が少ないもの、切先側には銀の含有量が多いものが使われている。2種類の純度の違う(結果として輝きの異なる)金を鉄剣銘文の上下で使い分けた理由は不明である。[7]
(蛍光X線分析)とは、どの様なものか知りませんが、材質が、2種類の金が使用されていたと言うことは、素晴らしい発見です。普通ですと、少し、削り取っての分析ですが、これが正しいとしますと、資料には、全く傷を付けないで分析したことが判ります。

保管場所は、我が家から遠いため、いくのには、勇気が要ります。でも、自分の目で、実物は見たいものです。

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中国製武器の鉄剣、関東稲荷山で出土 [日本の歴史]

タイトルの記事は、田村誠一氏の著書のタイトルです。

その内容は、次のようになります。

東日本から出土した鉄剣は全て中国の鉄を鍛えて作っていた。これは新日鉄の研究所で研究した結果、鍛造方法まで分ってきた。又西日本から出土した鉄剣も日立金属の研究で日本の砂鉄は使われてなかった。鉄剣は武器である。大東亜戦争で日本軍が弾薬を現地で製造してもこれは日本製と考えることだ。漢の銅鏡を模倣した銅鏡が日本国内で作られても、倭人が使用する目的だとの証拠が現われない以上、漢の銅鏡分けて、別物と考えることはおかしい。これは漢族が副葬品として国内生産したに過ぎない。  さてこの中国製の武器である鉄剣が関東の稲荷山から出土した。これには百十五字の文字が刻まれていた。この銘から辛亥の年に作られたことが分り、471年と解読されている。これは雄略天皇の年代にあたっていた。  更に鉄剣の主は「シキ宮のワカタケル」に仕えたと書かれていた。倭人はもともと漢族に圧迫されて安住の地を求めて渡来したのである。この倭人の国に中国製の鉄剣が出土した以上、倭人の敵が関東まで占領していた。

此処までは、著書の129ページの文章です。この著書は、私は持っていませんが、記事は、持っておられる方が、全部、書き写して、送って頂きました。


稲荷山古墳出土鉄剣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F%E9%89%84%E5%89%A3#.E9.8A.98.E6.96.87.E3.81.AE.E5.86.85.E5.AE.B9

---私のコメント---
今回のページの論法は、正しいですね。僅か、百十五字の文字ですが、それ以上のことを教えてくれます。

次のページは、「真説建国史」の最初のページです。 このページの次のページは、一番上の行の文字をクリックしますと、次のページが表示されます。 戻るときは、左の部分をクリックしますと、1ページずつ戻ります。

真説建国史のあらまし
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2015-06-07

「真説建国史」を始めるにあたって
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2015-06-05-1


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天皇に関する資料 その2 天皇御陵一覧 [日本の歴史]

天皇御陵一覧
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/

このページの資料は、個人的に、複写して利用することは、構いませんが、私が複写・掲載することは、著作権の侵害になりますので、出来ません。

例として、下記のように、分類して、どのようなことが判るかを調べてください。
①府県別の所在地----どの府県が多いか、どの地域から、増えて行ったか。
②陵墓の形----府県別で、形の特徴があるか。
③大きさ----大きい程、建設費が高く付きますから、費用は、誰が負担したかは気になる所です。
 
③の大きさは、一番気になる所です。
仁徳天皇
http://www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/016/index.html

仁徳天皇の御陵は、日本で一番大きいだけではなくて、世界でも、巨大らしいです。

どうして、このような巨大な御陵の建設が必要だったことは、興味があります。

ネット上に有る理由は、「自分の権力の大きさを誇示する為」が大部分です。
本当でしょうか。

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天皇に関する資料 その1 歴代天皇一覧 [日本の歴史]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7#歴代天皇一覧
 
資料があまりにも厖大なため、素人の頭では処理できませんから、ウィキペディアに依る資料を拝借しようと思います。

上のアドレスをクリックしますと、初期天皇の実在性が表示されますので、ここから、始めますと、10代天皇までは、実在しなかったことになり、このあたりの時代の日本の歴史は、判らなくなりますので、

4番目を選択してください。


はじめて、ご覧になる方は、丁寧に、20代天皇まで、ご覧ください。
 私は、一番に、天皇の年齢を見ました。 100歳超える天皇が多いですね。

140歳という数字も目に入ります。

私は 現在、78歳です。 これからの高齢に向かう生活をどうしようかと、真剣に考えています。
一応、90歳までは生きるだろうと思っています。 それは、如何してかと云います、私の両親は、母は、いろいろありましたが、二人とも、93歳まで生きました。 

この話は、又、別の機会に書こうと思いますが、 初代天皇のころは、100歳近くまで、生きる事が出来たのではと思っています。 ただ、生きることができたのではなくて、生き生きと生きる事が出来たのではと考えます。
 そのように考えませんと、巨大な古墳は、生まれなかったと思います。

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日本の古墳はなぜ巨大化したのか [日本の歴史]

 ネットに置いて、タイトルの記事が見つかりました。
古墳が増えるようになったのは、三世紀頃からとされていますが、これをはじめて、指摘された方は、凄いなと思っています。なにが凄いのかと云いますと、現在のように、コンピューターの無いころに、記録を纏めるだけでも大変です。 その以前に、自分で、実際にある古墳を眺めてくるだけでも大変です。

 確かめていませんが、どうやら、大きな古墳は、全国的に、見つかっている様です。

日本の古墳はなぜ巨大化したのか
http://akihiko-shibata.hatenablog.com/entry/2018/03/25/162939
このブログには、 次のような文面が見られます。

 古墳造りに費やす労力は、当時の工法としては大変なものでした。たとえば、大仙陵古墳の造築には、最盛時に1日当たり2000人が動員されたとして、延べ約680万人の人員と、約16年の歳月を要したと計算されています。これ程の人員と時間と財を投じて、古墳を造る意義は何だったのでしょうか。そして、古墳が巨大化した理由は何だったのでしょうか。
 巨大化した日本のお墓に関する記事は、外にも一杯ネットで見ることが出来ます。
次の二つの記事は、私が、はじめて知った知識です。

世界三大墳墓の大きさ比較
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/sei/sandaifunbo.html

世界一大きな墓・仁徳天皇陵
https://www.theeleventhhouronline.com/spot/tomb.html

日本の天皇は、亡くなられますと、確か、宮城は、新たに建設されたと理解しています。これだけではなくて、この時に、多くの場合は、遷都も行われました。

遷都の費用まで、計算された記事はみたことは有りません。お墓より多くの費用が掛かったことは確かでしょう。

このように考えますと、日本と言う国は、裕福な国であったことになります。

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