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歴史各論 三角縁神獣鏡(76) 魏志倭人伝(27) 邪馬国は、何所に(24) [三角縁神獣鏡]
今日は、奴国です。
日本の歴史家は、おかしいですね。魏志倭人伝のことについては、これでもか云うほど、研究をされています。そして、邪馬台国は、九州だとか、奈良だとか結論付けておられますが、日本の歴史書には、邪馬台国も卑弥呼も登場しません。
卑弥呼が死んだ年は、およそですが、分かっています。248年頃です。そうであれば、崇神天皇の時代だと思います。調べてください。崇神天皇は、300年以降の人だとされています。
そうしませんと、崇神天皇が倭国を支配していた時には、邪馬台国をはじめとして、一杯国があって、お互いが戦をしていたと云われています。
だから、どうしても、崇神天皇は、300年以降に居られたことになります。
いや、そんなことはないぞとウィキペディアの先生は、次のように書いておられます。
生まれは 紀元前148年
崩御は、紀元前29年1月9日
自分の兄弟の生年月日すら、忘れかけているのに、紀元前の人の死んだ日が分っているのです。きっと、日本書紀に書いてあるのでしょうね。
しかし、神武天皇だけは、およそ いつ頃に生れたかは判るのです。神武東征が行われて、最後の敵を奈良でやっつけた年を、紀元元年一月一日と決めて、日本人ではなくて、ユダヤ人が、自分たちのものとして、世界中で使っていました。世界中に日本から絹を運んで生計を立てていたユダヤ人は、商売をするうえで、世界に共通する暦は無くてはならない物でした。
どうして、ユダヤ人が、神武天皇が、戦争に勝ったことを知っていたかと云いますと、自分たちが、神武天皇を助けていたからです。
神武天皇は、戦争に16年以上費やしています。きっと、20年はかかったと思います。戦争に出かけたのが、仮に、20才の時であれば、神武天皇は、紀元前40年の生まれになります。40才の時に、出陣したのであれば、紀元前60年の生まれになります。
他の天皇の生れは、よく判っていませんが、天皇が、20才の時に、長男が生まれたとしますと、崇神天皇は、10代の天皇ですから、10×9で、180才、神武天皇より遅い年代となります。
神武天皇が、仮に、紀元前60年の生れであれば、崇神天皇は、紀元後、120年の生まれになります。前後、20年の余裕を見ても、崇神天皇は、紀元後、100年~140年の生まれになります。
間違っても、紀元前とか、300年後の生まれなどにはなりません。
寄り道が多くなってしまいました。
卑弥呼が死んだとされる248年頃は、崇神天皇の時代です。
魏の国が、どうして、自分の国の歴史書に日本のような遠い国のことを書いたのかと云いますと、日本が重要だったからです。
従いまして、邪馬台国は、無かったと云われる方もおられますが、間違いでしょう。私は、有ったと考えています。
日本の歴史書である古事記には、「奴国」のことが書いてあります。それなのに、誰も「奴国」のことは書いておられません。
古事記のどこに書いてあるか、探しておいてください。
日本の歴史家は、おかしいですね。魏志倭人伝のことについては、これでもか云うほど、研究をされています。そして、邪馬台国は、九州だとか、奈良だとか結論付けておられますが、日本の歴史書には、邪馬台国も卑弥呼も登場しません。
卑弥呼が死んだ年は、およそですが、分かっています。248年頃です。そうであれば、崇神天皇の時代だと思います。調べてください。崇神天皇は、300年以降の人だとされています。
そうしませんと、崇神天皇が倭国を支配していた時には、邪馬台国をはじめとして、一杯国があって、お互いが戦をしていたと云われています。
だから、どうしても、崇神天皇は、300年以降に居られたことになります。
いや、そんなことはないぞとウィキペディアの先生は、次のように書いておられます。
生まれは 紀元前148年
崩御は、紀元前29年1月9日
自分の兄弟の生年月日すら、忘れかけているのに、紀元前の人の死んだ日が分っているのです。きっと、日本書紀に書いてあるのでしょうね。
しかし、神武天皇だけは、およそ いつ頃に生れたかは判るのです。神武東征が行われて、最後の敵を奈良でやっつけた年を、紀元元年一月一日と決めて、日本人ではなくて、ユダヤ人が、自分たちのものとして、世界中で使っていました。世界中に日本から絹を運んで生計を立てていたユダヤ人は、商売をするうえで、世界に共通する暦は無くてはならない物でした。
どうして、ユダヤ人が、神武天皇が、戦争に勝ったことを知っていたかと云いますと、自分たちが、神武天皇を助けていたからです。
神武天皇は、戦争に16年以上費やしています。きっと、20年はかかったと思います。戦争に出かけたのが、仮に、20才の時であれば、神武天皇は、紀元前40年の生まれになります。40才の時に、出陣したのであれば、紀元前60年の生まれになります。
他の天皇の生れは、よく判っていませんが、天皇が、20才の時に、長男が生まれたとしますと、崇神天皇は、10代の天皇ですから、10×9で、180才、神武天皇より遅い年代となります。
神武天皇が、仮に、紀元前60年の生れであれば、崇神天皇は、紀元後、120年の生まれになります。前後、20年の余裕を見ても、崇神天皇は、紀元後、100年~140年の生まれになります。
間違っても、紀元前とか、300年後の生まれなどにはなりません。
寄り道が多くなってしまいました。
卑弥呼が死んだとされる248年頃は、崇神天皇の時代です。
魏の国が、どうして、自分の国の歴史書に日本のような遠い国のことを書いたのかと云いますと、日本が重要だったからです。
従いまして、邪馬台国は、無かったと云われる方もおられますが、間違いでしょう。私は、有ったと考えています。
日本の歴史書である古事記には、「奴国」のことが書いてあります。それなのに、誰も「奴国」のことは書いておられません。
古事記のどこに書いてあるか、探しておいてください。
歴史各論 三角縁神獣鏡(75) 魏志倭人伝(26) 邪馬国は、何所に(23) [三角縁神獣鏡]
末廬国は、正確には、どの辺りか判りませんが、島根半島だと思われます。その後にはいくつかの国が書いてあります。国名を書いた地図は、以前に見て頂きましたが、もう一度、確認してください。
http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/2012012309200975e.jpg
今回は、不弥国です。この国名もあまり悪い漢字は使われていません。一大国のきと同様に、陳寿が付けた国の名前ですから、漢字に意味があります。
「弥」は、普通は、私は「や」と読んでいました。この字の異体字は、「彌」です。これですと、「み」です。【字通】によりますと、「み、び」しかありません。と云うことは、中国人は、「ふみこく」か「ふびこく」です。「み」は呉の使い方。「び」は漢の使い方ですから、
「ふびこく」と呼んだのでしょうか。
さて、「弥」の意味は、 ①ひさしい ②ひさしきにわたる、おわる あまねく、きわめる ③ひろい、とおい、おおきい、ふかい ④みちる、みたす、おおう ⑤いよいよ、ますます
この漢字の成り立ちは、この意味の前に、いっぱい書いてありますが、理解困難ですので、省略しました。
【字通】では、良く使われる意味でしょうか。・
「広く端までいきわたる」「いつまでも程度がおとろえない」というようにつかわれるとかいてあります。 この意味に否定の「不」がついていますから、「今では、力が行き渡らなくなった国」となるでしょうか。
末廬国は、島根半島だとおもわれますと前回、記しましたが、此れでは範囲が広すぎますので、〔末 まつ〕の字に拘りますと、島根半島の真ん中に、松江があります。これから以後の国までは、松江を起点にしますと、松江の東百里に不弥国があるとされています。百里は、100×400で、4000m=40kmになります。この地域は、大栄町の高千穂がある所です。ここは、瓊々杵命が、蒜山高原の日留宮から、遷都した所です。
高千穂は北緯35度27分上にあります。同じ、北緯35度27分上をもう少し、西へ行きますと、「宮内」という地名があります。こみは、神武天皇が、ここに宮城を定めた所です。
「高千穂・東伯郡」は瓊々杵命が、「宮内・西伯郡」は神武天皇が治めていたのですが、末廬国から40kmとなりますと、「高千穂」が当てはまります。
陳寿は、紀元前120年ころには、瓊々杵命が、この地方を収めていたことを知っていたのでしょう。昔は、政治が行き渡っていたのに、今では、さびれてしまっている国があると書いたことになります。
このようなことを調べたのは、卑弥呼の部下の難升米ということになります。難升米は、太夫の称号を付けていますが、魏の国が派遣したスパイであったことになります。
方角も、距離も正確に測量していたことが判ります。
北緯35度27分上には、天皇に関係のある遺跡や地名が並んでいますので、天神ラインと呼んで、紹介しています。
次の辺りに書いています。
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2593826/
天神ライン---日ノ御碕―---粟島—佐陀川河口—小波浜—上淀廃寺--岩塚古墳---宮内(西伯郡)—高千穂(東伯郡)—岡益・梶山古墳—出石-―天座—皇大神社
http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/2012012309200975e.jpg
今回は、不弥国です。この国名もあまり悪い漢字は使われていません。一大国のきと同様に、陳寿が付けた国の名前ですから、漢字に意味があります。
「弥」は、普通は、私は「や」と読んでいました。この字の異体字は、「彌」です。これですと、「み」です。【字通】によりますと、「み、び」しかありません。と云うことは、中国人は、「ふみこく」か「ふびこく」です。「み」は呉の使い方。「び」は漢の使い方ですから、
「ふびこく」と呼んだのでしょうか。
さて、「弥」の意味は、 ①ひさしい ②ひさしきにわたる、おわる あまねく、きわめる ③ひろい、とおい、おおきい、ふかい ④みちる、みたす、おおう ⑤いよいよ、ますます
この漢字の成り立ちは、この意味の前に、いっぱい書いてありますが、理解困難ですので、省略しました。
【字通】では、良く使われる意味でしょうか。・
「広く端までいきわたる」「いつまでも程度がおとろえない」というようにつかわれるとかいてあります。 この意味に否定の「不」がついていますから、「今では、力が行き渡らなくなった国」となるでしょうか。
末廬国は、島根半島だとおもわれますと前回、記しましたが、此れでは範囲が広すぎますので、〔末 まつ〕の字に拘りますと、島根半島の真ん中に、松江があります。これから以後の国までは、松江を起点にしますと、松江の東百里に不弥国があるとされています。百里は、100×400で、4000m=40kmになります。この地域は、大栄町の高千穂がある所です。ここは、瓊々杵命が、蒜山高原の日留宮から、遷都した所です。
高千穂は北緯35度27分上にあります。同じ、北緯35度27分上をもう少し、西へ行きますと、「宮内」という地名があります。こみは、神武天皇が、ここに宮城を定めた所です。
「高千穂・東伯郡」は瓊々杵命が、「宮内・西伯郡」は神武天皇が治めていたのですが、末廬国から40kmとなりますと、「高千穂」が当てはまります。
陳寿は、紀元前120年ころには、瓊々杵命が、この地方を収めていたことを知っていたのでしょう。昔は、政治が行き渡っていたのに、今では、さびれてしまっている国があると書いたことになります。
このようなことを調べたのは、卑弥呼の部下の難升米ということになります。難升米は、太夫の称号を付けていますが、魏の国が派遣したスパイであったことになります。
方角も、距離も正確に測量していたことが判ります。
北緯35度27分上には、天皇に関係のある遺跡や地名が並んでいますので、天神ラインと呼んで、紹介しています。
次の辺りに書いています。
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2593826/
天神ライン---日ノ御碕―---粟島—佐陀川河口—小波浜—上淀廃寺--岩塚古墳---宮内(西伯郡)—高千穂(東伯郡)—岡益・梶山古墳—出石-―天座—皇大神社
歴史各論 三角縁神獣鏡(74) 魏志倭人伝(25) 邪馬国は、何所に(22) [三角縁神獣鏡]
<丹波国が伊都国> これは、田村誠一氏著『燦然と輝いていた古代・追』の115頁のコピーです。
末廬国から東南五百里(二百粁)に丹波があります。郡使の往来常に駐まる所とあり、由良川の勅使の地名が当時の名残です。この近くが天津の地名で魏志倭人伝に載せられていた津で、ここで受け取った文書等は間違いなく女王に届けられました。 この女王は夜麻登国(邪馬台国)におられた崇神の代行をしていた、伯母の夜麻登登母母曽姫です。文書等は天津から由良川、加古川経由で邪馬台国の女王に届けられました。特に差錯するを得ずと断られたものは崇神宛の文書も女王に届けることが厳重に守られたことです。これは崇神の隠れ場所を敵に分らせないためでした。 伊都国とは伊勢大神の都の意味です。崇神の妹はこの皇大神社で天照大御神のお奉りをしていたので日神子(ヒミコ)です。日神子に卑弥呼の下卑な当て字がされました。 卑弥呼は妻帯することは許されません。景初三年には八五才位で難升米はこんな年寄を人質にして、城の中の一室に閉じ込め、飲食を運ぶ男性一人しか入室を許さないで外部と隔離されていました。 人質を奪われないために物見櫓を設け、城柵を巡らせて武器をもった魏の軍隊が守っていました。この城があった所が福知山の北にある鬼ヶ城です。 この様な環境におかれているのに学者が漢の橋頭堡だった吉野ヶ里を邪馬台国だと国民を欺いて、邪馬台国の女王にしています。
以上です。如何でしたか。なんだか小説のような雰囲気ですが、
①東南五百里(二百粁)---一大国までは、一里が70mでしたが、一大国からは、一里は400mになっています。五百里に400を掛けた計算の数字と、実際の距離は、ほぼ一致します。
②勅使、天津の地名は、地図で確かめてください。
③由良川、加古川経由の意味が判りますか、全国に沢山の分水嶺がありますが、ここには、海抜100mの分水峰があります。水分かれという所に公園が造られています。不思議な所です。一度、訪れてください。 日本海から船で上り、船で加古川を降って瀬戸内海へ出ることの出来る場所です。JR福知山線が通っていますが、乗っていても分水嶺を超えても気が付かないそうです。
④卑弥呼は妻帯すること—-この部分は、田村氏のミスではないかと思います。
⑤伊都国とは伊勢大神の都の意味---この部分は、相当な説明が必要に思われます。
⑥福知山の北にある鬼ヶ城----ここも訪れてください。
末廬国から東南五百里(二百粁)に丹波があります。郡使の往来常に駐まる所とあり、由良川の勅使の地名が当時の名残です。この近くが天津の地名で魏志倭人伝に載せられていた津で、ここで受け取った文書等は間違いなく女王に届けられました。 この女王は夜麻登国(邪馬台国)におられた崇神の代行をしていた、伯母の夜麻登登母母曽姫です。文書等は天津から由良川、加古川経由で邪馬台国の女王に届けられました。特に差錯するを得ずと断られたものは崇神宛の文書も女王に届けることが厳重に守られたことです。これは崇神の隠れ場所を敵に分らせないためでした。 伊都国とは伊勢大神の都の意味です。崇神の妹はこの皇大神社で天照大御神のお奉りをしていたので日神子(ヒミコ)です。日神子に卑弥呼の下卑な当て字がされました。 卑弥呼は妻帯することは許されません。景初三年には八五才位で難升米はこんな年寄を人質にして、城の中の一室に閉じ込め、飲食を運ぶ男性一人しか入室を許さないで外部と隔離されていました。 人質を奪われないために物見櫓を設け、城柵を巡らせて武器をもった魏の軍隊が守っていました。この城があった所が福知山の北にある鬼ヶ城です。 この様な環境におかれているのに学者が漢の橋頭堡だった吉野ヶ里を邪馬台国だと国民を欺いて、邪馬台国の女王にしています。
以上です。如何でしたか。なんだか小説のような雰囲気ですが、
①東南五百里(二百粁)---一大国までは、一里が70mでしたが、一大国からは、一里は400mになっています。五百里に400を掛けた計算の数字と、実際の距離は、ほぼ一致します。
②勅使、天津の地名は、地図で確かめてください。
③由良川、加古川経由の意味が判りますか、全国に沢山の分水嶺がありますが、ここには、海抜100mの分水峰があります。水分かれという所に公園が造られています。不思議な所です。一度、訪れてください。 日本海から船で上り、船で加古川を降って瀬戸内海へ出ることの出来る場所です。JR福知山線が通っていますが、乗っていても分水嶺を超えても気が付かないそうです。
④卑弥呼は妻帯すること—-この部分は、田村氏のミスではないかと思います。
⑤伊都国とは伊勢大神の都の意味---この部分は、相当な説明が必要に思われます。
⑥福知山の北にある鬼ヶ城----ここも訪れてください。
歴史各論 三角縁神獣鏡(73) 魏志倭人伝(24) 邪馬はじめ国は、何所に(21) [三角縁神獣鏡]
末廬国は、正確には、どの辺りか判りませんが、島根半島だと思われます。その後にはいくつかの国が書いてあります。国名を書いた地図は、以前に見て頂きましたが、もう一度、確認してください。
http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/2012012309200975e.jpg
末廬国の近くの国は、不弥国と奴国なのに、陳寿は何故か、伊都国を書きました。
原文は、〔東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。〕です。
全部見たい方は、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page290.html をご覧ください。
伊都國の説明は、僅か、43文字です。紀元前から、中国人がいっぱいであった出雲と一部、重なる末廬国でも、〔有四千餘戸〕と書かれているのに、伊都国は、〔有千餘戸〕は、少し少ない様に思いますが、又の機会に検討する必要があるように思われます。
一番大切なことは、陳寿が書いた倭の国の中で、唯一、蔑む漢字が使われていない国です。
陳寿は、伊都国とは、どのような国かと云いますと、〔世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐〕と書きました。
①皆統屬女王國--女王國に統屬していた。一番前の〔皆〕はどういうことでしょうか。よく判りませんが、女王國(邪馬台国)直轄の国だったのでしょうか。
②世有王---〔世〕とは、代々と云うことでしょうか。王が居た。
③郡使往來常所駐---〔郡使〕とは、何所の郡使でしょうか。これまでにあった郡は、帯方郡がありました。中国からやって来る郡使の往来が有って、駐留した。
この3つの事柄は、つながりがありません。
陳寿は、末路国の次に書きたかったから書きましたが、伊都國のことは、良く知らなかったのでないでしょうか。女王國の直轄の所だと思いながら、簡単に、〔世有王〕と書きました。直轄ですと、王などはいない筈なのに、〔世有王〕と書きました。
田村誠一氏は、『燦然と輝いていた古代・追』の115頁に、<丹波国が伊都国>とのタイトルで、文章を書いておられますから、次回、そのまま、紹介します。
http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/2012012309200975e.jpg
末廬国の近くの国は、不弥国と奴国なのに、陳寿は何故か、伊都国を書きました。
原文は、〔東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。〕です。
全部見たい方は、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page290.html をご覧ください。
伊都國の説明は、僅か、43文字です。紀元前から、中国人がいっぱいであった出雲と一部、重なる末廬国でも、〔有四千餘戸〕と書かれているのに、伊都国は、〔有千餘戸〕は、少し少ない様に思いますが、又の機会に検討する必要があるように思われます。
一番大切なことは、陳寿が書いた倭の国の中で、唯一、蔑む漢字が使われていない国です。
陳寿は、伊都国とは、どのような国かと云いますと、〔世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐〕と書きました。
①皆統屬女王國--女王國に統屬していた。一番前の〔皆〕はどういうことでしょうか。よく判りませんが、女王國(邪馬台国)直轄の国だったのでしょうか。
②世有王---〔世〕とは、代々と云うことでしょうか。王が居た。
③郡使往來常所駐---〔郡使〕とは、何所の郡使でしょうか。これまでにあった郡は、帯方郡がありました。中国からやって来る郡使の往来が有って、駐留した。
この3つの事柄は、つながりがありません。
陳寿は、末路国の次に書きたかったから書きましたが、伊都國のことは、良く知らなかったのでないでしょうか。女王國の直轄の所だと思いながら、簡単に、〔世有王〕と書きました。直轄ですと、王などはいない筈なのに、〔世有王〕と書きました。
田村誠一氏は、『燦然と輝いていた古代・追』の115頁に、<丹波国が伊都国>とのタイトルで、文章を書いておられますから、次回、そのまま、紹介します。
歴史各論 三角縁神獣鏡(72) 魏志倭人伝(23) 邪馬はじめ国は、何所に(20) [三角縁神獣鏡]
今回は、もう一度、一大国に戻って書いて見ます。
大陸からは、多くの人々がやって来ていたことは誰でも否定はされないと思います。しかし、紀元前200年からと云われますと、そのような馬鹿な云われる方が多いと思います。
一例を挙げますと、秦の始皇帝が、徐福なる人に不老長寿の薬を探してくるように、命令した事は、此れこそ、伝説として中国には残っていたらしいです。しかし、最近は、実際にあったこととして、認められるようになっています。
日本にも、徐福の名前が、全国のあちこちに、伝説として残っています。その内容たるは、3000人を超える老若男女の人たちがやって来たというものです。
3000人を超えるということ、老若男女となりますと、移民を目的としたものではと考えてもいいと思われます。
仮に、本当としますと、10人乗りの船では、300艘いることになります。後漢の軍隊は巨大なものでしたから、大きな船で、しかも頻繁に日本にやってきました。
魏志倭人伝には、壱岐島の事は、一大国と書いていますが、一大国は魏志倭人伝だけで、他の時代には、一支国となっています。
従いまして、陳寿が間違ったのだという歴史家もおられるそうです。
しかし、中国の資料では、次の様になっています。(ウィキペディアより)
魏略逸文 [編集]
『翰苑』巻30にある魏略の逸文に次のとおり記述される。
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
— 『翰苑』卷三十魏略逸文
梁書 [編集]
『梁書』 巻54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭に次のとおり記述される。
始度一 海闊千餘里 名瀚海 至一支國 又度一海千餘里 名未盧國
— 『梁書』 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
隋書 [編集]
『隋書』巻81 列傳第46 東夷 俀國で隋使の裴清らが訪れた国である。
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國
後漢は、魏国より、時代は、古いですが、歴史書は、魏志倭人伝より後に作られました。魏志倭人伝を参考にしたと思われる所がありますが、何故か、〔一大国〕のことは書いてありません。
このようなことを総合すると、230年ころは、一支国と中国では呼んでいたのではないでしょうか。そうだとすると、 〔一支〕に意味があるはずです。
〔一支〕の中の〔支〕の漢字は、〔シ〕と読むだけで、〔キ〕とは読めません。
〔支〕の漢字はどのように使われたかと云いますと、熟語を見ると推察は出来ます。
しかし、長崎県壱岐市芦辺町にある一支博物館は、〔イキシ〕と読んでおられますから、中国では読まなくても、日本では〔イキシ〕と読むのでしょう。
〔支〕のつく熟語を挙げて見ます。支局・支線・支店・支部・支流/気管支
支流、支出、四肢、分岐、
〔支〕を使った漢字----枝、岐、肢,㕝
殆どの熟語は、分かれることを著したり、分岐点を著しているようです。
〔一支〕は、中国からやって来た時に、一番最初に分岐する所にある島を著しているのではないでしょうか。
当初、日本にやって来た人たちは、そのまま、真っ直ぐ、南に進めば九州に行くことが出来ました。前漢の時代は、殆ど、そうだったと思います。後漢の時代になりますと、壱岐の所は、行先が、別れる所であったのではないでしょうか。
しかし、その内に、九州に居た中国人は、一支で、東に別れる人と、九州に行く人に別れたと思います。
東へ進んだ人は、瀬戸内海に入る人と、日本海に行く人に分かれたと思います。
三番目に分かれたのが、末路国だと思います。
どのように分かれたかは、魏志倭人伝に書いてあります。
大陸からは、多くの人々がやって来ていたことは誰でも否定はされないと思います。しかし、紀元前200年からと云われますと、そのような馬鹿な云われる方が多いと思います。
一例を挙げますと、秦の始皇帝が、徐福なる人に不老長寿の薬を探してくるように、命令した事は、此れこそ、伝説として中国には残っていたらしいです。しかし、最近は、実際にあったこととして、認められるようになっています。
日本にも、徐福の名前が、全国のあちこちに、伝説として残っています。その内容たるは、3000人を超える老若男女の人たちがやって来たというものです。
3000人を超えるということ、老若男女となりますと、移民を目的としたものではと考えてもいいと思われます。
仮に、本当としますと、10人乗りの船では、300艘いることになります。後漢の軍隊は巨大なものでしたから、大きな船で、しかも頻繁に日本にやってきました。
魏志倭人伝には、壱岐島の事は、一大国と書いていますが、一大国は魏志倭人伝だけで、他の時代には、一支国となっています。
従いまして、陳寿が間違ったのだという歴史家もおられるそうです。
しかし、中国の資料では、次の様になっています。(ウィキペディアより)
魏略逸文 [編集]
『翰苑』巻30にある魏略の逸文に次のとおり記述される。
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
— 『翰苑』卷三十魏略逸文
梁書 [編集]
『梁書』 巻54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭に次のとおり記述される。
始度一 海闊千餘里 名瀚海 至一支國 又度一海千餘里 名未盧國
— 『梁書』 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
隋書 [編集]
『隋書』巻81 列傳第46 東夷 俀國で隋使の裴清らが訪れた国である。
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國
後漢は、魏国より、時代は、古いですが、歴史書は、魏志倭人伝より後に作られました。魏志倭人伝を参考にしたと思われる所がありますが、何故か、〔一大国〕のことは書いてありません。
このようなことを総合すると、230年ころは、一支国と中国では呼んでいたのではないでしょうか。そうだとすると、 〔一支〕に意味があるはずです。
〔一支〕の中の〔支〕の漢字は、〔シ〕と読むだけで、〔キ〕とは読めません。
〔支〕の漢字はどのように使われたかと云いますと、熟語を見ると推察は出来ます。
しかし、長崎県壱岐市芦辺町にある一支博物館は、〔イキシ〕と読んでおられますから、中国では読まなくても、日本では〔イキシ〕と読むのでしょう。
〔支〕のつく熟語を挙げて見ます。支局・支線・支店・支部・支流/気管支
支流、支出、四肢、分岐、
〔支〕を使った漢字----枝、岐、肢,㕝
殆どの熟語は、分かれることを著したり、分岐点を著しているようです。
〔一支〕は、中国からやって来た時に、一番最初に分岐する所にある島を著しているのではないでしょうか。
当初、日本にやって来た人たちは、そのまま、真っ直ぐ、南に進めば九州に行くことが出来ました。前漢の時代は、殆ど、そうだったと思います。後漢の時代になりますと、壱岐の所は、行先が、別れる所であったのではないでしょうか。
しかし、その内に、九州に居た中国人は、一支で、東に別れる人と、九州に行く人に別れたと思います。
東へ進んだ人は、瀬戸内海に入る人と、日本海に行く人に分かれたと思います。
三番目に分かれたのが、末路国だと思います。
どのように分かれたかは、魏志倭人伝に書いてあります。
歴史各論 三角縁神獣鏡(71) 魏志倭人伝(22) 邪馬はじめ国は、何所に(19) [三角縁神獣鏡]
末廬国はどこにあるか。殆どの方は、九州に在るとされています。以前に、田村誠一氏の 『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の104頁にある地図を紹介しました。
100%に近い方が、馬鹿げたと思われたと思います。しかし、もう一度もご覧ください。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html
なにを見るかと云いますと、国名だけで結構です。
不弥国、奴国、狗奴国、投馬国、邪馬台国、伊都国 です。この中には、蔑む漢字もありますが、これまで、見て来たように、最高に侮辱して呼んでいたと思います。邪馬台国も、日本では、漢字を使わない頃から、ヤマトと読んでいたと思います。漢字が使われるようになってからは、〔夜麻登〕と書かれていました。現在の岡山の辺りです。この三文字には、漢字の意味はありません。音だけです。
魏志倭人伝では、末路国のことはどのように書いてあるかと云いますと、次の二行です。
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。
対馬や一大国に比べますと、少し、良く書いてあります。それでも、草木茂盛、行不見前人とは、どの様な状態か、倭人伝を読んだ人は、ひどい所だと思います。しかし、その前の〔有四千餘戸〕で、悪口は、薄められています。人は住んでいるのだと。
〔好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之〕陳寿は、誉めたのでしょうか。舟はあったはずなのに、その事は書かないで、素潜り漁法だと書いています。川ですと、上流下流せき止めますと、手掴みが可能です。スノコを使って、勝手に魚があがってくるような方法、網で獲るとかあります。網は出土しませんが、網に付ける石の重りなどは、見つかっていますから、いろいろ漁法はあったはずです。
この様に考えてきますと、陳寿は誉めたのではないだろうと判断したいところです。
100%に近い方が、馬鹿げたと思われたと思います。しかし、もう一度もご覧ください。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html
なにを見るかと云いますと、国名だけで結構です。
不弥国、奴国、狗奴国、投馬国、邪馬台国、伊都国 です。この中には、蔑む漢字もありますが、これまで、見て来たように、最高に侮辱して呼んでいたと思います。邪馬台国も、日本では、漢字を使わない頃から、ヤマトと読んでいたと思います。漢字が使われるようになってからは、〔夜麻登〕と書かれていました。現在の岡山の辺りです。この三文字には、漢字の意味はありません。音だけです。
魏志倭人伝では、末路国のことはどのように書いてあるかと云いますと、次の二行です。
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。
対馬や一大国に比べますと、少し、良く書いてあります。それでも、草木茂盛、行不見前人とは、どの様な状態か、倭人伝を読んだ人は、ひどい所だと思います。しかし、その前の〔有四千餘戸〕で、悪口は、薄められています。人は住んでいるのだと。
〔好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之〕陳寿は、誉めたのでしょうか。舟はあったはずなのに、その事は書かないで、素潜り漁法だと書いています。川ですと、上流下流せき止めますと、手掴みが可能です。スノコを使って、勝手に魚があがってくるような方法、網で獲るとかあります。網は出土しませんが、網に付ける石の重りなどは、見つかっていますから、いろいろ漁法はあったはずです。
この様に考えてきますと、陳寿は誉めたのではないだろうと判断したいところです。
歴史各論 三角縁神獣鏡(70) 魏志倭人伝(21) 邪馬はじめ国は、何所に(18) [三角縁神獣鏡]
末廬国は、元々、日本にあった国名ではなく、陳寿が付けた名前ではないでしょうか。
この国の前は、一大国でした。後漢の時代には、「一支国」と呼んでいたのではないでしょうか。それを陳寿が、「一大国」に書換えました。その理由は前回に書いています。
そのようないい加減な事と思われるかと思いますが、漢字で書いてある地名や国名はつける時に、誰にでも解るように書いたと考えています。
では、末廬国には、どの様な意味があるかを考えて見ます。
【漢字資料23 末と廬 】のタイトルで、〔楽しい歴史〕に収納しましたので、ご利用下さい。
大切なことですので、今回は、以下に、掲載します。
漢字資料23 末と廬 『字通』より転載。一部省略。
利用の目的。 魏志倭人伝に「末廬国」があり、どのような意味を成すかを探る。
〔末〕
指示---木の枝の末端。 その部分に肥点を加えて、その部位を示す。末端であるから、弱小、終末の意がある。
無・莫などと音が通じ、比定詞に用いる。
意味
①すえ、こずえ、さき ②こな、しも、おわり、えだは ③よわい、かいか、小さい ④くず
〔廬〕
声符は盧。
〔設文に「寄(カリヤ)なり、秋冬には去り春夏には居」とあって、農耕の時に寄宿する田中の廬舎をいう。
服喪するときに居るところ。そのような儀礼の場に忌小屋として用いるのが原義〕
意味
①かりや、ものかりや、いみのかりや ②いおり、かりずまい
③やどる、はたご ④いえ、書斎などをいう ⑤とのいの間、 宿直室
以上の事から、末廬国は、田村氏が、推理された通り、中国の人が読めば、〔いみのかりや〕のような、最終地点を思わせるような所を意味するように思います。
『字通』より転載しましたが、省略下部分に、〔いみのかりや〕を思わせるようなことが書いてありきす。ご自分で確かめてください。
今までに、調べた漢字は、【楽しい人生】のカテゴリー歴史資料に収めています。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/
この国の前は、一大国でした。後漢の時代には、「一支国」と呼んでいたのではないでしょうか。それを陳寿が、「一大国」に書換えました。その理由は前回に書いています。
そのようないい加減な事と思われるかと思いますが、漢字で書いてある地名や国名はつける時に、誰にでも解るように書いたと考えています。
では、末廬国には、どの様な意味があるかを考えて見ます。
【漢字資料23 末と廬 】のタイトルで、〔楽しい歴史〕に収納しましたので、ご利用下さい。
大切なことですので、今回は、以下に、掲載します。
漢字資料23 末と廬 『字通』より転載。一部省略。
利用の目的。 魏志倭人伝に「末廬国」があり、どのような意味を成すかを探る。
〔末〕
指示---木の枝の末端。 その部分に肥点を加えて、その部位を示す。末端であるから、弱小、終末の意がある。
無・莫などと音が通じ、比定詞に用いる。
意味
①すえ、こずえ、さき ②こな、しも、おわり、えだは ③よわい、かいか、小さい ④くず
〔廬〕
声符は盧。
〔設文に「寄(カリヤ)なり、秋冬には去り春夏には居」とあって、農耕の時に寄宿する田中の廬舎をいう。
服喪するときに居るところ。そのような儀礼の場に忌小屋として用いるのが原義〕
意味
①かりや、ものかりや、いみのかりや ②いおり、かりずまい
③やどる、はたご ④いえ、書斎などをいう ⑤とのいの間、 宿直室
以上の事から、末廬国は、田村氏が、推理された通り、中国の人が読めば、〔いみのかりや〕のような、最終地点を思わせるような所を意味するように思います。
『字通』より転載しましたが、省略下部分に、〔いみのかりや〕を思わせるようなことが書いてありきす。ご自分で確かめてください。
今までに、調べた漢字は、【楽しい人生】のカテゴリー歴史資料に収めています。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/
歴史各論 三角縁神獣鏡(69) 魏志倭人伝(20) 邪馬壹国は、どこに(17) [三角縁神獣鏡]
一大国の次は、道のりは書いてありますが、方角は書いてありません。殆どの方は、南へ南へとやってきましたから、当然南の方角に、末廬国があると思われました。現在の人は、どうして、方角が書いてないと不思議に思われなかったのでしょう。
南に末廬国があると思われた一例を紹介します。
邪馬台国を行く http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai02.htm の筆者も、南に船を進めましたから、九州に到達です。唐津市名護屋浦を末廬国とされたようです。全部手際よく纏ておられますから、読んでください。次は、伊都国に行ったとしておられます。
伊都国は、「イツコク」ではなくて、「イトコク」と読まれたようです。イトと読むことができる地名が、現在もあります。糸島半島、怡土平野があります。勿論これだけではなく、発掘された遺跡が多いことも、根拠になっていると思われます。
魏志倭人伝では、邪馬台国の北に、21ヶ国があったと記されていますが、「邪馬台国を行く」の筆者は、「英彦山」を邪馬台国としておられます。そうしますと、邪馬台国も、
21ヶ国-----次有斯馬国、次有已百支国、次有伊邪国、次有都支国、次有弥奴国、次有好古都国、次有不呼国、次有姐奴国、次有対蘇国、次有蘇奴国、次有呼邑国、次有華奴蘇奴国、次有鬼国、次有為吾国、次有鬼奴国、次有邪馬国、次有躬臣国、次有巴利国、次有支惟国、次有烏奴国、次有奴国、此女王境界所盡。
すべてが、山の中に国があったことになります。 すこし、無理のような気がします。
次の行先の末廬国は、どのような国だと思われますか?
漢字で書きますと、末廬国ですが、中国の人は、どのように発音したと思われますか。
「末」は、常読--バツ、マツ、すえ です。字音-----マツ、マチ 呉。バツ 漢。
魏の国の歴史書ですから、漢の国の使い方を採用したいところです。しかし、なぜか、殆どの人は、末廬国をマツロコクと読んでおられます。田村氏は、中国人には、末路国と聞こえたであろうとしておられます。
末路というような熟語は無いだろうと思っていましたら、『字通』に末路が掲載されています。どの様に使うのかといいますと、「唐の末路」と云うように使うそうです。
末路に繋がるような末廬国は行きたくなくなります。
長くなりそうなので、次回に、もう少し、精しく調べて見ます。
南に末廬国があると思われた一例を紹介します。
邪馬台国を行く http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai02.htm の筆者も、南に船を進めましたから、九州に到達です。唐津市名護屋浦を末廬国とされたようです。全部手際よく纏ておられますから、読んでください。次は、伊都国に行ったとしておられます。
伊都国は、「イツコク」ではなくて、「イトコク」と読まれたようです。イトと読むことができる地名が、現在もあります。糸島半島、怡土平野があります。勿論これだけではなく、発掘された遺跡が多いことも、根拠になっていると思われます。
魏志倭人伝では、邪馬台国の北に、21ヶ国があったと記されていますが、「邪馬台国を行く」の筆者は、「英彦山」を邪馬台国としておられます。そうしますと、邪馬台国も、
21ヶ国-----次有斯馬国、次有已百支国、次有伊邪国、次有都支国、次有弥奴国、次有好古都国、次有不呼国、次有姐奴国、次有対蘇国、次有蘇奴国、次有呼邑国、次有華奴蘇奴国、次有鬼国、次有為吾国、次有鬼奴国、次有邪馬国、次有躬臣国、次有巴利国、次有支惟国、次有烏奴国、次有奴国、此女王境界所盡。
すべてが、山の中に国があったことになります。 すこし、無理のような気がします。
次の行先の末廬国は、どのような国だと思われますか?
漢字で書きますと、末廬国ですが、中国の人は、どのように発音したと思われますか。
「末」は、常読--バツ、マツ、すえ です。字音-----マツ、マチ 呉。バツ 漢。
魏の国の歴史書ですから、漢の国の使い方を採用したいところです。しかし、なぜか、殆どの人は、末廬国をマツロコクと読んでおられます。田村氏は、中国人には、末路国と聞こえたであろうとしておられます。
末路というような熟語は無いだろうと思っていましたら、『字通』に末路が掲載されています。どの様に使うのかといいますと、「唐の末路」と云うように使うそうです。
末路に繋がるような末廬国は行きたくなくなります。
長くなりそうなので、次回に、もう少し、精しく調べて見ます。
歴史各論 三角縁神獣鏡(68) 魏志倭人伝(19) 邪馬壹国は、どこに(16) [三角縁神獣鏡]
どうして、一大国と名前が付けられたか判りましたか。 そんなこと解るわけがありません。しかし、考えて見るのは悪くありません。
考えるヒントは二つです。前回、書きましたように、自分達以外の中国人には、日本へ来てほしくないからです。前漢の時代から、多くの中国人がやってきました。 秦の始皇帝は、不老長寿の薬を求めてくるように、多くの人を派遣しました。どうやら、目的地は、日本の様でした。
その1
一大国は、何故か、魏志倭人伝だけに書いてあります。他の所では、一支國と書いてあります。
魏略逸文
『翰苑』巻30にある魏略の逸文に次のとおり記述される。
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
— 『翰苑』卷三十魏略逸文
梁書
『梁書』 巻54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭に次のとおり記述される。
始度一 海闊千餘里 名瀚海 至一支國 又度一海千餘里 名未盧國
— 『梁書』 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
隋書
『隋書』巻81 列傳第46 東夷 俀國で隋使の裴清らが訪れた国である。
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國
— 『隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國
以上の事から、壱岐は、一支國と書いてあったのを陳寿が、一大国と書換えた。
田村誠一氏、曰く、「一大国」と書いてあるのを当時の中国人が読めば、誰でも、「一番大きい国」と思います。方300里です。 対馬は、方400里で一大国より大きいですが、その代わり、あきれるほど、何も取り得の無い島でだと書いてあります。
もう一つのヒントは、どこへ行くにも、全て、方角が書いてあるのに、一大国から末廬国へ行くには、方向が書いてありません。
きっと、陳寿が忘れたのだろうと考えたら、魏志倭人伝は全て、信用出来なくなります。
次回に、この点を書いて見ます。
先日書きましたように、いろいろの事を考える所に、解決の道が拓けます。
考えるヒントは二つです。前回、書きましたように、自分達以外の中国人には、日本へ来てほしくないからです。前漢の時代から、多くの中国人がやってきました。 秦の始皇帝は、不老長寿の薬を求めてくるように、多くの人を派遣しました。どうやら、目的地は、日本の様でした。
その1
一大国は、何故か、魏志倭人伝だけに書いてあります。他の所では、一支國と書いてあります。
魏略逸文
『翰苑』巻30にある魏略の逸文に次のとおり記述される。
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
— 『翰苑』卷三十魏略逸文
梁書
『梁書』 巻54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭に次のとおり記述される。
始度一 海闊千餘里 名瀚海 至一支國 又度一海千餘里 名未盧國
— 『梁書』 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
隋書
『隋書』巻81 列傳第46 東夷 俀國で隋使の裴清らが訪れた国である。
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國
— 『隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國
以上の事から、壱岐は、一支國と書いてあったのを陳寿が、一大国と書換えた。
田村誠一氏、曰く、「一大国」と書いてあるのを当時の中国人が読めば、誰でも、「一番大きい国」と思います。方300里です。 対馬は、方400里で一大国より大きいですが、その代わり、あきれるほど、何も取り得の無い島でだと書いてあります。
もう一つのヒントは、どこへ行くにも、全て、方角が書いてあるのに、一大国から末廬国へ行くには、方向が書いてありません。
きっと、陳寿が忘れたのだろうと考えたら、魏志倭人伝は全て、信用出来なくなります。
次回に、この点を書いて見ます。
先日書きましたように、いろいろの事を考える所に、解決の道が拓けます。
歴史各論 三角縁神獣鏡(67) 魏志倭人伝(18) 邪馬壹国は、どこに(15) [三角縁神獣鏡]
その後、最初に登場する国は、対馬の事らしいですが、対海国と書いてあります。
この国は、どのような国かといいますと、
始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活、乗船南北巿糴。
「其」は前に書いてある対海国の事でしょう。大官(大は一番偉い官吏) は良いですが、その人の名前でしょうか。役職名でしょうか。卑狗(ひく)は、卑しい意味の感じが二つ並んでいます。邪馬台国の狗と云うことでしょう。副官は、卑奴母離です。「奴」は1召使。金で買われた住み込みの使用人。②奴れいのように地位が低いさま。また、能力の劣ったさま。
「所居絶島」は人の住んでいる所は、絶島。(離れ小島ですめるような所ではない)
「方可四百余里」の広さである。よく判りませんが、若し、一里が70mとしますと、28000mの周囲を持つ、正方形の広さ。と云うことは、一辺が7km四方の広さと云うことになります。
其の他の様子は、「土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活」は、漢字を並べ替えながら読むことが出来文です。このような状態だから、
最後の「乗船南北巿糴」の文章があります。
食海物を求めて、船で南北に買い物に行ってますということでしようか。
対海国は、住んでいる一番偉い人は、卑狗と卑奴だし、島はすめたものではありませんと書いてあります。
次は、
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
対海国は、どうやら、日本で読んでいる対馬のようですが、どうして、対海国と書いたのでしょう。
今度は、日本で壱岐と呼んでいる島です、陳寿は一大国と書きました。
原文は次のものです。
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
「瀚」は、「カン」と読み、広い。広大なさま。
又南渡一海千余里---一大国は、対海国より南の方角で、1000里余の所にあります。
官亦曰卑狗---大官ではなく、ただの官です。大官よ位が低い?
副曰卑奴母離---両方とも、前記の対海国と同じ、表記ですから、卑狗と卑奴母離は、人の前ではなく、職種のようです。つまらぬ役職です。
方可三百里---対海国に比べますと、小さな島です。
多竹木叢林、有三千許家---竹や木で鬱蒼としているが、家は、3000件程あります。
差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴------畑ではなく、田が有るらしい。しかし、島民を養うだけの量は無い。----どうしてわかったのでしょう。
亦南北巿糴—と書いてありますが、北には、貧しい対海国があるだけですから、九州の本土に買い物に行ったと思われます。
この島も、やって来ても駄目ですよ。と報告書を書きました。
国の名前が、どうして、壱岐ではなくて、「一大国」なのでしょう。
考えておいてください。次回に検討します。
この国は、どのような国かといいますと、
始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活、乗船南北巿糴。
「其」は前に書いてある対海国の事でしょう。大官(大は一番偉い官吏) は良いですが、その人の名前でしょうか。役職名でしょうか。卑狗(ひく)は、卑しい意味の感じが二つ並んでいます。邪馬台国の狗と云うことでしょう。副官は、卑奴母離です。「奴」は1召使。金で買われた住み込みの使用人。②奴れいのように地位が低いさま。また、能力の劣ったさま。
「所居絶島」は人の住んでいる所は、絶島。(離れ小島ですめるような所ではない)
「方可四百余里」の広さである。よく判りませんが、若し、一里が70mとしますと、28000mの周囲を持つ、正方形の広さ。と云うことは、一辺が7km四方の広さと云うことになります。
其の他の様子は、「土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活」は、漢字を並べ替えながら読むことが出来文です。このような状態だから、
最後の「乗船南北巿糴」の文章があります。
食海物を求めて、船で南北に買い物に行ってますということでしようか。
対海国は、住んでいる一番偉い人は、卑狗と卑奴だし、島はすめたものではありませんと書いてあります。
次は、
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
対海国は、どうやら、日本で読んでいる対馬のようですが、どうして、対海国と書いたのでしょう。
今度は、日本で壱岐と呼んでいる島です、陳寿は一大国と書きました。
原文は次のものです。
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
「瀚」は、「カン」と読み、広い。広大なさま。
又南渡一海千余里---一大国は、対海国より南の方角で、1000里余の所にあります。
官亦曰卑狗---大官ではなく、ただの官です。大官よ位が低い?
副曰卑奴母離---両方とも、前記の対海国と同じ、表記ですから、卑狗と卑奴母離は、人の前ではなく、職種のようです。つまらぬ役職です。
方可三百里---対海国に比べますと、小さな島です。
多竹木叢林、有三千許家---竹や木で鬱蒼としているが、家は、3000件程あります。
差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴------畑ではなく、田が有るらしい。しかし、島民を養うだけの量は無い。----どうしてわかったのでしょう。
亦南北巿糴—と書いてありますが、北には、貧しい対海国があるだけですから、九州の本土に買い物に行ったと思われます。
この島も、やって来ても駄目ですよ。と報告書を書きました。
国の名前が、どうして、壱岐ではなくて、「一大国」なのでしょう。
考えておいてください。次回に検討します。
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