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日本書紀の完成した日 [日本の歴史]

古事記が完成した日は、古事記の上つ巻の「序をあわせたり」の最後に記されています。
[和銅五年正月廿八日]で判ります。 712年です。

日本書紀は、何時完成したかは、日本書紀には書いてありません。 それだけではありません。日本書紀の作者は、古事記が完成したのを見ながら、日本書紀を書いたと思われます。しかし、古事記を参考にしたことは書きたく無かったのでしょうか。

不思議なことに、古事記も日本書紀も、書き出しは、天と地は、一つの物であったのが、天と地に分かれたと記しています。

これは間違いでしょう。
では、いつから、天と地は分かれたのかと言いますと、証拠になるものは有りません。
古事記では、天と地に分かれたら、直ぐに、[高天原]が出来た。そうすると、何処に居たのか判りませんが、神が高天原にやって来たと書いています。

古事記は、正五位上勲五等太朝臣安萬侶との名前まで記しています。

日本書紀は、作者は書いてありませんから、誰が書いたかは判りません。

しかし、ウィキペディに依りますと、次のように書かれているらしいです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80#日本書紀成立の経緯

日本書紀成立の経緯
、後に成立した『続日本紀』の記述により成立の経緯を知ることができる。『続日本紀』の養老4年5月癸酉条には、
「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」
とある。その意味は
「以前から、一品舎人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」
ということである(ここに、『日本書紀』ではなく『日本紀』とあることについては書名を参照)。
また、そもそもの編集開始の出発点は、天武天皇が川島皇子以下12人に対して、「帝紀」と「上古の諸事」の編纂を命じたことにあるとされる[2]。
さて、ここに記されている『日本紀』は、信頼できるものでしょうか。 信頼できるか出来ないか判らない日本書紀の成立の経緯は信頼できるかどうかを論じても始まりません。
 このように考えますと、古事記も、一時は、江戸時代には、偽書であることが話題になり、略、偽書で有るとされました。
『古事記』偽書説/やまとの謎(48)
http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-c1af.html

しかし、太安万侶の墓が見つかり、今では、古事記は太安万侶が書いたことは正しいことになっています。

奇跡の大発見に静かな山里が沸いた!奈良市「太安万侶の墓」
https://www.travel.co.jp/guide/article/9641/

長い事書いてきましたが、日本の歴史を書くときに、正しいと判る事 (例 太安万侶の墓)を記す事も有効になることが判ります。

現在は古事記に書いてある事は、正しいですが、日本書紀の方が、正しいとして、日本書紀に書かれていることを引用されておられる方がよく見ることが出来ます。

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丸木舟と準構造船の資料 [日本の歴史]

日本列島における原始・古代の船舶関係出土資料一覧
http://icfcs.kanagawa-u.ac.jp/publication/report_05_02_05.pdf

 この資料は、未完成ですが、この資料をすべて、チェックするのは不可能である事が判ります。 しかし、さすがに、回りを海で囲まれた日本だけに、北海道まで含めて、、土偶ではなくて、丸木舟の本体の一部が、発掘されています。


青谷上寺地遺跡 準構造船
http://icfcs.kanagawa-u.ac.jp/publication/report_05_02_05.pdf

ここに書かれている「準構造船」は、日本海でも乗り切る事が出来る船の事らしいですが、土偶の船の場合は、小さいですが、高い波をうち消す事が出来る構造です。 準構造船が全国の港で見つかったかを知る事が大切だと思います。

弥生時代の船
http://www.harc.or.jp/gyouji/pdf/y2015/26kataru_shiryo.pdf
船の舳先が、高くなっているのが特徴です。 高い波をかぶっても、前後の舳先きの部分は、沈まないということでしょうか。

「そのほか土製紡錘車1点, 底部穿孔土器が数点出土した」と記されている事は、この遺跡では、絹で織り物を作っていた事が判ります。

Ⅰ部 表1 船出土遺跡一覧
http://icfcs.kanagawa-u.ac.jp/publication/report_05_02_05.pdf

潤地頭給遺跡---弥生の準構造船
http://www.mueki.sakura.ne.jp/zui-uruuzitoukyuiseki.htm

準構造船の知識は、どうして、日本人は知っていたのでしょえか。

これまで、一度も書きませんでしたが、藤原氏から教えて貰ったのではないか思っています。
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日本の考古学の学者の皆さんに万歳 [日本の歴史]

最古の丸木舟を発見 縄文人の計り知れない航海力 歴史新発見 千葉県市川市の雷下遺跡
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO83454460Q5A220C1000001?channel=DF280120166609
 上記の文章のすばらしい部分を記しておきました。

①発見された舟はムクノキをくりぬいた丸木舟で全長約7.2メートル、幅約50センチ、厚みは船底部の端で約8センチだった。船尾部分が破損しているが、船首部分は約40センチあることから少なくとも7.6メートル以上はある当時としては大型の舟だったようだ。

② 土の重みで全体がほぼ平たんになってしまっている中、舟の両端はわずかに緩やかな曲線がある。船首部分は先が細くなっていてV字型にとがっている。舷側もほとんど残っていないものの、約10センチの立ち上がり部分がある。

③他の丸木舟にも見られるように、火で焦がしながら石器を使って丸太をくりぬく作業をした跡が残っている。全長約2メートルの櫂(かい)とみられる木製品も見つかった。

④縄文時代の丸木舟は全国で約160艘(そう)発見されている。千葉県では全国最多の60艘が出土した。従来ほとんどが4000年~3000年前の縄文後期から晩期にかけての舟で、5500年以上さかのぼれるのは数例しかなかった。これまでの最古は島根大構内遺跡(松江市)の約7000年前だった。

⑤雷下遺跡の半径4キロ圏内には12もの貝塚が密集。明治時代に発掘された著名な堀之内貝塚は台地上に広がり、竪穴式住居の集落跡を示す最初の遺跡として知られる姥山(うばやま)貝塚などもある。これは縄文時代の海岸線が現在よりずっと内陸側にあり、東京湾沿岸が遠浅の海で貝の生息に適した干潟になっていたためと考えられている。

 この文章に貼付された5000年前の貼付地図が素晴らしい。
現在の表示されている地名の所との交流をしようとすると、丸木舟があれば、便利だったと想像できます。
 

⑥縄文時代には驚くほど広域で物流があったことはよく知られている。典型例が青森市の三内丸山遺跡(5500~4000年前)だ。出土した黒曜石、ヒスイ、琥珀(こはく)など北海道や東北をはじめ各地から集まった。蛍光X線分析装置など科学的分析で原産地の推定が
行われている。

以上、素晴らしい文章を上記に書きましたが、千葉県だけではなくて、全国の遺跡のことも、紹介して居られます。
 
 ⑥の三内丸山遺跡は、私も、函館の友人宅も訪問して、その帰りに、楽しんできました。 一日中、三内丸山遺跡を歩き周りました。

あのスケールの大きさは、実感しませんと、文章だけでは説明できないものでした。

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最古の丸木舟を発見 縄文人の計り知れない航海力 [日本の歴史]

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO83454460Q5A220C1000001?channel=DF280120166609
 日本の歴史を知る為には、残されている資料からでは、古事記や日本書紀を遡る文字は無いようです。
そうすると、考古学の知識の助けを借りるしか方法は有りません。

例えば、縄文時代の日本の歴史を知る為には、日本以外の国に残されている資料を借りるか、考古学の知識を借りることになります。
 タイトルに書きましたことを調べる為には、例えば、隠岐島に関しては、次の様な記事があります。

島根県の隠岐産黒曜石は四国や新潟県内でも見つかっている。佐賀県の腰岳産に至っては九州はもとより、対馬海峡を隔てた韓国・釜山の東三洞貝塚や、黒潮の流れが強いことで知られるトカラ海峡を隔てた沖縄県恩納村の仲泊遺跡からも見つかっている。いずれも縄文時代に相当する時期の遺跡だ。

以上のことから、船が使われた事が判ります。

調べましたら、沢山の資料が有ることが判ります。
舟形埴輪(船形埴輪)出土地一覧
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54287495.html

一覧表の右下の部分へ、カーソルを移動しますと、拡大するための四角形のものが現れます。 クリックしますと、一覧表の拡大図が、表示されます。


埴輪があるということは、本物の舟があったことが判ります。
図からの判断は、九州から多く見つかっていることが判ります。

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第一回遣唐使を派遣 [日本の歴史]

5月20日に、古事記と日本書紀(4)-女性の天皇(5)を書きました。
ここの天皇一覧表の三列目に、
34代 舒明天皇 じょめい 629年 第一回遣唐使を派遣
があります。
 気になりましたので、下線を引いておきました。

何が気になったのかと言いますと、何人が、派遣されたのか気になりましたが、それ以上に気になったのが、船はどうしたのかが気になりました。

あまり、日本史として認められていませんが、日本へは、中国から日本の絹を買うために、船がやって来ていたのではと考えていました。
 勿論、貿易の為ですから、大きな船だったであろうとは思っていましたが、今回は、日本から、初めての遣唐使が派遣される事になりましたから、中国の船に乗せて貰うのでは恰好が悪いですから日本で舟を造ったであろうと調べましたら、そのような歴史は見つかりません。
 
 そこで見つかったのが、舟形埴輪でした。
舟形埴輪(船形埴輪)出土地一覧
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/54287495.html
 一覧表は、小さいですので、右下のところに、拡大用の言葉がありますので、クリックしてください。
 この埴輪は、実物を見て来た人が、埴輪に仕立てたのでしょうか。
どうして、そのように思った家と言いますと、全国の分布図があります。
九州の大部分から出土しているのは判りますが、海の無い、内陸部にも出土しています。
 
最も注目すべきなのは、舟の埴輪であるにも関わらず畿内(奈良・大阪・京都・滋賀)が最多で、内陸部のほうが多いことである。

この方よりも、気になったのは、すべての写真を見ますと、「構造舟」と呼ばれる底が二重に?、成っている埴輪があります。この舟は、高い波でも対処できる舟だと説明されています。
 言い変えますと、日本海を渡って行くことが出来る舟を表しているそうです。

航海の安全を祈願して、お守りのつもりで、制作されたのでしょうか。

 このようなことよりも、中国へいくのに、言葉はどうしたのだろうと気になりました。

ここまでは手がまわらず、3日を要して、この原稿を書いています。

629年の時点で、日本の持ち船で、中国をめざしたのだろうなと。

いや、遣唐使は、中国に望まれて出掛けたのではないだろうか。 日本で舟をつくるのは無理なので、中国の船に乗せて貰ったのだろうと・・・・。

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遷都の年表 [日本の歴史]

遷都年 都 天皇
643年 飛鳥板葺宮 皇極天皇
645年 難波長柄豊崎宮 孝徳天皇
655年 飛鳥宮 斉明天皇(皇極天皇)
667年 近江大津宮 天智天皇

672年 飛鳥浄御原宮 天武天皇

694年 藤原京 持統天皇

710年 平城京 元明天皇
740~745年 恭仁京、難波宮、紫香楽宮、平城京 聖武天皇

784年 長岡京 桓武天皇

794年 平安京 桓武天皇

古事記が完成したのが、712年です。日本書紀が完成したのが、720年です。
どうして、このように、同じ頃に、歴史書が作られたのかを探っています。

同じ頃に、女帝が八名も誕生したことが解かりました。 謎、二つに増えました。
八名のうち、四名が、蘇我氏の出身で有ることが解かりました。 
どうして、蘇我氏の方が多いのか。 疑問が、又増えてしまいました。

どうやら、政治が上手く行かないと、遷都をするらしいことが解かりました。

それにしても、上の表で解かることは、頻繁に遷都をしていることです。
①孝徳天皇は、 2年後に、遷都。
②皇極天皇は、 10年後に遷都。
③天智天皇は、 12年後に遷都。
④天武天皇は、 5年後に遷都。
⑤持統天皇は、 22年後に遷都。
⑥元明天皇は、 6年後に遷都。
⑦聖武天皇は、 30年後に遷都
⑧桓武天皇は、 39年後に遷都。
⑨桓武天皇は、 10年後に遷都。

 天皇は、皇居だけを移すのであれば、急げば、1~2年も経てば、移ることが出来ます。
都全体を移動させると成りますと、人民も全員移動することになりますから、 想像もできませんが、10年は掛かるでしょう。
遷都に要する費用はどれぐらいでしょう。

①②④⑥⑨は、どのように理解すれば良いのでしょうか。

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宮城の変遷の資料 [日本の歴史]

前回の時に、遷都の回数が多いと思いましたので、飛鳥~平安の辺りまで、調べて見ました。
飛鳥
飛鳥時代当時に「飛鳥」と称されていた地域は、飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たるあまり広くないところ(平地にかぎれば南北1.6キロ、東西0.8キロほど)と考えられている(岸俊男など)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5#概要

飛鳥 595年 豊浦宮にて即位 崇峻天皇
広義には、飛鳥に宮都が置かれていた崇峻天皇5年(592年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を指す。狭義には、聖徳太子が摂政になった推古天皇元年(593年)から藤原京への遷都が完了した持統天皇8年(694年)にかけての102年間を指す。

595年 飛鳥京
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E4%BA%AC%E8%B7%A1
587年 飛鳥京 崇峻天皇
694年 藤原京
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC#概要
707年 平城京
781年 平安京 桓武天皇

全体の資料がありましたので、次をご覧ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%B1%85#飛鳥の宮

下にスクロールしますと、最後に、掲載。

古事記と日本書紀が誕生した頃(712~720年)が、遷都が頻繁と思っていましたが、
全体の資料を見ていますと、特に、頻繁に、都を変えたようには思えません。

ただ、女帝の時代には遷都が頻繁だったかどうかは、検討していません。

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古事記と日本書紀(4)-女性の天皇(5) [日本の歴史]

 古事記と日本書紀は、天武天皇の時代に、編纂された事になっています。 どうして、日本の歴史書が、二冊も作られたのかを考えています。
 
なんだか、解からなくなってきましたので、この頃の女帝全員を眺め直します。

天皇別一覧表 
http://history.gontawan.com/document-tenno.html----資料元

32代 崇峻天皇 すしゅん 587年 蘇我馬子に暗殺される
33代 推古天皇 すいこ 592年 崇峻天皇の妹。
初の女性天皇
聖徳太子が摂政を務めた
34代 舒明天皇 じょめい 629年 第一回遣唐使を派遣
35代 皇極天皇 こうぎょく 642年
36代 孝徳天皇 こうとく 645年
37代 斉明天皇 さいめい 655年 重祚(35代・皇極天皇)
38代 天智天皇 てんじ 661年 中大兄皇子
39代 弘文天皇 こうぶん 671年 天智天皇の子。またの名を大友皇子
40代 天武天皇 てんむ 673年 大海人皇子
41代 持統天皇 じとう 686年 天武天皇の皇后→持統天皇
都を藤原京に遷都する。
42代 文武天皇 もんむ 697年
43代 元明天皇 げんめい 707年 都を平城京に遷都する。
44代 元正天皇 げんしょう 715年
45代 聖武天皇 しょうむ 724年 東大寺大仏を作る
46代 孝謙天皇 こうけん 749年
47代 淳仁天皇 じゅんにん 758年
48代 称徳天皇 しょうとく 764年 重祚(46代・孝謙天皇)
49代 光仁天皇 こうにん 770年
50代 桓武天皇 かんむ 781年 都を平安京に遷都する。
二点が気になります。

一つは、遣唐使の派遣です。
34代 舒明天皇 629年 第一回遣唐使を派遣

もう一つは、「遷都」です。 三回も行われています。
遷都は、莫大なお金が掛かったのに、どうして、こんなに、何度も、遷都をしたのか気になります。

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『俳句』松尾芭蕉 [日本の歴史]

古事記と日本書紀は、天武天皇の時代に、編纂された事になっています。 どうして、日本の歴史書が、二冊も作られたのかを考えています。

 上記のことを考える時に、その資料となるものとして、古事記と日本書紀を利用してきましたが、前回は、

 安倍仲麿の作った和歌の

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
     三笠の山に 出(い)でし月かも
を紹介しました。これは、5-7-5-7-7 の短文です。


江戸時代になってから、5-7-5の、もう少し、短い短文が、誕生しました。
 俳諧(俳句)です。

和の心・com
https://wabisabi-nihon.com/archives/8099


次の五句の俳句の意味は、和の心・comの作者が書いて居られます。
しかし、それを読まないで、次に掲げた五句をご自分で、どのような情景を読んだ俳句を考えてください。
 仮に、これらの俳句の作者と同じ所に、ご自分が居られても、このような俳句になるとは、限りません。

 不思議ですね。男女、年令によって、異なりますが、10人の人で、同じ所に行って、俳句を作っても、10人とも違った俳句になります。

★ 夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡

★ 閑(しずけ)さや 岩にしみ入る 蝉の声

★ 五月雨(さみだれ)を あつめて早し 最上川

★ 五月雨の 降りのこしてや 光堂

★ 古池や 蛙(かわず)飛び込む 水の音

上の俳句を10人が、読みますと、10人とも、違った意味で読みとります。

日本語は、このようにいい加減なところは有りますが、書いてある俳句は、5-7-5の17文字ですが、意味は解かりますし、読んだ人に伝えることが出来ます。

世界にいっぱいの国があり、大勢の人が居られますが、僅か、17文字で伝えることが出来る言葉は、日本語しかないと思います。
 こうした日本の国だからこそ、女帝の誕生があり、古事記と日本書紀が、天武天皇の時代に、編纂されたのではないかと考えています。

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『古今集』安倍仲麿 [日本の歴史]

古事記と日本書紀は、天武天皇の時代に、編纂された事になっています。 どうして、日本の歴史書が、二冊も作られたのかを考えています。

資料拝借
http://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/007.html

安倍仲麿(あべのなかまろ。698~770)
  19歳の頃、遣唐使として中国の唐へ渡った留学生の一人。時の玄
 宗皇帝に気に入られ、中国名「朝衡(ちょうこう)」として50年以
 上仕えた。一度帰国を許されたが、途中で船が難破して引き返し、
 結局帰れぬまま唐の地で没す。盛唐の大詩人である李白や王維とも
 親交があった

歴史の資料として利用しようとしたものは、
安倍仲麿の作った和歌です。

 天の原 ふりさけ見れば 春日なる
     三笠の山に 出(い)でし月かも

           安倍仲麿(7番) 『古今集』羇旅・406
 この和歌は、唐に居た時に作った和歌とされています。

【春日なる】
  現在の奈良市春日野町あたりの土地で、奈良公園から春日大社ま
 での土地。遣唐使の出発に際しては、春日神社で旅の無事を祈った
 といわれます。
 【三笠の山】
  春日大社後方、春日山原始林の手前にある山。若草山と高円(た
 かまど)山の間にあります。御笠山とも御蓋山とも書きます。
 【出(い)でし月かも】
  「かも」は奈良時代に使われた詠嘆の終助詞です。かつて見た三
 笠山の上に昇る月を表しながら、唐の地で今見ている月を重ねてい
 ます。
この歌から解かることは、唐の人は、安倍仲麿から、女帝の話などを聞いて知っていたのではと、私の推量です。
 それと、日本にわたる事の危険なことも、知っていたと推察しています。

しかし、私の推察は、別の所に有ります。
日本海を流れる海流です。
http://www.nihonkaigaku.org/kids/secret/ocean.html
対馬海流とリマン海流があります。

中国から日本に目指して船を進めますと、対馬海流に乗りますと、途中、嵐が無ければ、長崎から、福井辺りまでの何所かに流れ着くのではないかと考えています。
 この海流がどのようなものか知らないのですが、ヨットのように風の力を借りなくても、日本に着く事が出来ます。少し、考えが甘いでしょうか。
 先日来、北朝鮮の人達のボートが、漂着していますが、この人達は、朝鮮半島から、日本を目指しているから、失敗しているのではないでしょうか。、

奈良に行かれる事がありましたら、是非、三笠山に行って眺めてください。 出来れば、近くに宿をとって、お月さんを眺めてください。

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