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歴史各論 三角縁神獣鏡(62) 魏志倭人伝(13)  邪馬壹国は、どこに(10) [三角縁神獣鏡]

まあ、これぐらいで、天体などが観測して、自分のいる位置を知ることが出来たことにします。
 それでは、Google earth を開いてください。帯方郡と狗邪韓国の距離を出したいのですが、両方とも、場所は正確に分りませんので、帯方郡はソウルとし、対馬の間の距離を求めようと思います。
 ソウルの経緯度は、
北緯 37-33-53
東経 126-58-38
 さて、この二点間の距離を求めるのが大変です。地球の赤道の周りは、およそ、40000キロです。経度は360等分ですから、40000÷360=111 分は、これの60分の1 と計算していましたら、これは赤道上の話。北緯を北の方へ移動しますと、地球儀では次第に円は、小さくなっていきますから、なんだか心配になってきました。グラフで、二点間の距離を求めるのと違うのではないか? 調べますと、同じだと書いてあります。ところが、頭が前に進みません。なにか、簡単に計算してくれるものがあるのではないかと探しましたら、見つかりました。
  インターネット川地図 http://uminchu.pepper.jp/river-map/kyori/
 これは利用できるのかどうか、心配ですが、良いのではと使ってみました。

狗邪韓国を飛ばして、ソウル---対馬(品木島)を測定することにしました。

対馬(品木島)
北緯 34-37-56
東経 129-29-22
 直線距離が出ました。方向は、東北東  372km

帯方郡から狗邪韓国は、7000里。狗邪韓国から対馬までは、1000里です。合計、8000里。
帯方郡から狗邪韓国までは、海岸に沿って水行したと書いてありますから、1里を70m
で計算しても、7000里ですと、7000×70=490000 となり、490キロです。
ソウルから対馬までの直線距離が372kmですから、1里を中国の1里で計算したのでは、全く計算が合わなくなります。
 どうやら、帯方郡から、壱岐までは、1里は70m
の計算をしますと、ほぼ、計算が合うことになります。

二回前に使用回しました、「自郡至女王国万二千余里」は、帯方郡から邪馬台国までの道のりです。
12000里ですから、全部、朝鮮の1里(70m) を使用しますと、
  12000×70=840000m=840kmです。

どんどん、南へ針路をとりますと、840 kmで、唐津などは通り越してしまいます。
九州辺りから、進路を東へむきを変えます。840 km が、どのあたりか計算はしていませんが、すくなくとも、奈良の大和は、もっと距離があるでしょう。

魏志倭人伝が正しいとしますと、残念ながら、邪馬台国は、九州にもない、大和(奈良)にもないことになります。

歴史各論 三角縁神獣鏡(61) 魏志倭人伝(12)  邪馬壹国は、どこに(9) [三角縁神獣鏡]

Coogle Earthで、対馬と壱岐を見て頂きましたか。
対馬の広さは、方400里、壱岐は方300里です。これは、面積の単位ですが、ここに書いてある400里と300里は長さです。と云うことは、面積は、二乗比になりますから、
対馬と壱岐の面積比、16対9 になります。おかしいですね。見た感じでは、対馬の方が大きく見えます。
 この話は、250年頃の事です。紀元前後は、国道2号線の辺りは、海岸線だったと思っています。地名で云いますと、岡山駅の辺りは、海でした。それから、250年経っていますから、陸の部分は広くなっていたでしょうが、やはり、16対9どころか、壱岐の方が小さく見えます。
 Coogle Earthではなくて、日本の対馬の地図をご覧ください。Coogle Earthでは、対馬は一つの島の様に見えていますが、もっと、拡大すると、島が多く見えるのでしょう。
 朝鮮半島から船で対馬にやってきますと、対馬海流に流されて、対馬の北の方へ着いたのではないでしょうか。その時に、島が多いとしますと、400里とは書いてありますが、測量を間違えたのではないかと。
陳寿に応援し、陳寿が書いた方400里と方300里は、あくまで正しいとなるように考えるつもりになっています。

 どうして、島の大きさを方400里というような表現を使うのでしょう。
昔は、ある広いところを表すのに、甲子園球場 何個分の広さと云いました。国民皆が甲子園球場をの広さは知りませんが、大阪なら知っています。ドームは、全国あちこちにあるから、これも分りやすいかも知れません。

 【東夷伝】で高句麗は遼東より東に千里、方四千里とあります。これも、対馬や壱岐と同じ、表現です。しかし、壱岐ですと、島の周りを船で測量できますが、高句麗は、陸地ですし、大き過ぎます。 船では測量出来ないし、とうして測量したのでしょう。
 
 測量方法は、私の頭で考れる方法は、天体を利用するしかないでしょう。この頃の中国に六分儀のようなものはあったのでしょうか。
 ヨーロッパですと、確か、紀元前には、既に、有ったように記憶します。そのころ、中国とヨーロッパは交流があったでしょう。交流があったのであれば、当然、天体の利用はあったであろう。
 と勝手に決めることにしました。

 次回につづく。

歴史各論 三角縁神獣鏡(60) 魏志倭人伝(11)  邪馬壹国は、どこに(8) [三角縁神獣鏡]

魏志倭人伝を翻訳された石原道博氏は、末廬は、肥前松浦郡。今の名護屋か唐津付近であろう。梅豆羅、末羅(『古事記』)・松浦(『日本書紀』) と書いておられます。殆どの方は、古事記は、偽書で、日本書紀は正式な歴史書と考えておられますから、上の注釈で、だれでも、信用すると思います。

 かし、宇宙から見た対馬と壱岐し唐津を見たら、3つのところが、等間隔でないことは、直ぐに分ります。
 疑問が生じますと、原点に帰れです。

●原文
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。
漢時有朝見者。今使訳所通三十国。

従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東到其北岸狗邪韓国。七千余里。
始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活、乗船南北巿糴。
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。
東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。
東南至奴国、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸。
東行至不弥国、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千余家。
南至投馬国、水行二十日。官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。
南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳鞮、可七万余戸。

自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳。次有斯馬国、次有已百支国、次有伊邪国、次有都支国、次有弥奴国、次有好古都国、次有不呼国、次有姐奴国、次有対蘇国、次有蘇奴国、次有呼邑国、次有華奴蘇奴国、次有鬼国、次有為吾国、次有鬼奴国、次有邪馬国、次有躬臣国、次有巴利国、次有支惟国、次有烏奴国、次有奴国、此女王境界所盡。

其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。
自郡至女王国万二千余里

一番最後の行に、「自郡至女王国万二千余里」と書いてあります。
 面倒な、間の国は、省略して、帯方郡から邪馬台国までの距離が書いてあります。

こう書いてありますと、ありがたいですね。12000余里です。仮に、1里が70米としますと、12000×70=840000米です。と云うことは、840キロです。少なくとも、帯方郡を中心にして、840キロの範囲の中に、邪馬台国はあることになります。
 邪馬台国がどこか分らないのに、840キロの範囲の内というのは、乱暴です。

 みなさん、早速、魏志倭人伝に書いてある距離を足し算されました。 どう計算しても、
12000余里になりません。そこで、あるところでは、分岐するのだと、いろいろの案を出されましたが、後は、魏志倭人伝は、方角を書き間違えたとか、中国人は、数字はオーバーに書くとか、珍案続出です。

 帯方郡から狗邪韓国までは、本当にどれぐらいの距離があるのか知りたくなりました。
 次回につづく。

歴史各論 三角縁神獣鏡(59) 魏志倭人伝(10)  邪馬壹国は、どこに(7) [三角縁神獣鏡]

陳寿は、帯方郡から邪馬壹国までの行く方法を書いています。その中に、道のりが書いてある所と書いてない所があります。田村氏は、この点を指摘しておられます。
 そして、次の二つを見付けられました。
 朝鮮の帯方郡から壱岐までは韓国の里の単位すなはち70米を採用しました。次は、壱岐から、その後は中国の里の単位をつかったと書いておられます。
 
 先ず、朝鮮の帯方郡から壱岐までは韓国の里の単位すなはち70米を採用しましたの根拠は、「壱岐が方三百里と書かれ、径が23キロの円形の島だったこと」と書いておられます。

 しかし、この意味が分らないのです。
「方三百里」とは、長さかと思いましたが、面積のことが判りました。四角形の周りが三百里の長さの面積を云うらしいです。正確には、方とは正方形の事らしいです。らしいと云うのは、このようなことは当たり前のことで、私だけが知らないらしいです。その証拠にこのようなことは、インターネットには書いてありません。

 壱岐は、地図で見る限り、円形に近いです。円形の面積を出すのであれば、魏志倭人伝を読む限りでは、上陸をしているようですから、島の直径を計れば、半径×半径×円周率で求められますが、どうやら、この頃は円周率の概念はなかった様です。では、どうした測量をしたのでしょう。船で周囲を計ったら周囲が出ます。その周囲と同じ長さで、正方形を作りますと、元の円と正方形の面積は同じですか? 少し、円の方が大きいと思うのです。
 円周率が無かったという私の判断もおかしなものです。3.14という正確な数字は無かったにしても、3ぐらいのことは知っていたと思われます。そうすれば、直径が分れば、面積は分かるだろうとも考えました。
 そうであれば、壱岐の直径は23キロと分かっていると田村氏は書いておられます。又、方300里は、300里を周りとする四角形とする面積らしいですから、300里÷4で、一辺が
75里の正方形とします。そうしますと、75里×75里で、島の面積が出ます。
直径23キロを信用して、(23÷2)×(23÷2)×3.14で、等式が成り立ち、これで1里を計算しますと、田村氏が言われる、1里が70米になりません。
 円周率が無かったという思いながら、3.14を使って計算したのがいけないのだと又、別のことを考えることにしました。

 壱岐の外に、その前の対馬にも大きさが書いてあります。
こちらは、方四百余里です。 壱岐と対馬は、実際にはどれだけ大きさが違うかを見るつもりになりました。
 島の大きさは、数字をみれば分りますが、形を見て大きさを較べようとしますと、資料がありません。
 Coogle Earth を開いて、「対馬」を入力してください。

 魏志倭人伝には、島の間の距離が書いてあります。

朝鮮半島から、対馬までは1000里
対馬から壱岐まで、 1000里
壱岐から末廬まで、 1000里

 Coogle Earthの威力はすごいですね。
朝鮮半島から対馬と、対馬から壱岐までは、ほぼ同じであることが判ります。しかし、壱岐から末廬は1000里もありません。
 魏志倭人伝に書いてあることがね正しいとしますと、末廬は九州の松浦であるというのは、全く駄目であることになります。しかし、末廬は九州の松浦が正しいとしますと、魏志倭人伝は、デタラメを書いたことになります。

もう一つ不思議なことに、壱岐はほぼ、円形ですが、測量した人が、島の周りを船で走ったとしないで、東西南北に、四角形になるようにして図ったのではないかと考えました。
 しかし、対馬は、四角形でもないです。いや、直方体だと考えればと、あくまで、魏志倭人伝が正しいこととして、考えて見ることにしました。

続く。



歴史各論 三角縁神獣鏡(58) 魏志倭人伝(9)  邪馬壹国は、どこに(6) [三角縁神獣鏡]

素人の田村氏の説など、どうでもいいと思われたでしょう。私がなるほどと思っているのであれば、まだしも、首をかしげている事柄を、いくら皆さんに説明しようと書きましても、ご理解頂けないと思っています。

 ただ、自分では、すっきりしないのです。
100年間も、日本の歴史家が、邪馬台国のことを研究しても、なに一つ判っていないのです。
邪馬台国は九州にあるという人や、奈良にあるという人や、四国にあるという人、私のように、岡山県にあるという人など、・・・。 日本には、歴史を学問する人が居ないと云っていいと思います。

 次の所に、邪馬台国をはじめとして、末廬国、奴国、不弥国などがあった所を、地図の上に書いたものを掲載しました。 これは田村誠一氏の 『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の104頁にあるものです。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html 
 ここに図示されている国は、魏志倭人伝に書かれている国々ですが、魏志倭人伝に書いて無くても、これらの国というか、村があったことは、説明できると思います。ただ、魏志倭人伝に書いてある国々と一致しますと、崇神天皇の頃に、崇神天皇が治める国の実質的な国会のようなものが岡山にあったことが、証明できることになります。

 『魏志倭人伝は解けた』のタイトルの小冊子には、その様子が、溢れる様に書いてあります。 この冊子は、次に発行する『燦然と輝いていた古代 総集編 』の下書きになる筈でしたが、「総集編」に書いてあったものは、
 ①陳寿は朝鮮の帯方郡から壱岐までは韓国の里の単位すなはち70米を採用しました。これは壱岐が方三百里と書かれ、径が23キロの円形の島だったことが根拠です。
 ②【東夷伝】で高句麗は遼東より東に千里、方四千里とあり、この一里は460米です。倭国には、この単位を使用すべきでこの為に方角を隠したのです。

②の460米を405米に訂正して、論を進めておられます。
  
 それでも、まだ、都合の悪い箇所なども生じてきます。

このようなことを踏まえて、魏志倭人伝を読んでいます。大半は、田村氏が書いておられることになりました。
 
 どの様に考えたかを次回から、記します。

歴史各論 三角縁神獣鏡(57) 魏志倭人伝(8)  邪馬壹国は、どこに(5) [三角縁神獣鏡]

一里は何mかを考えた方は、いっぱい居られます。出来るだけ、読ませてもらいました。
 次の方の表は見やすいです。
邪馬台国までの里程記述
http://www.k3.dion.ne.jp/~kodaira/sono801.htm
 
一部を抜粋しますと、
① 帯方郡~狗邪韓国   7000余里  実際の距離 750km 1里—105m
② 狗邪韓国~対馬国   1000余里  実際の距離  80km 1里— 80m
③ 対馬~壱岐      1000余里  実際の距離  90km 1里— 90m
④ 壱岐~唐津      1000余里  実際の距離  55km 1里— 55m
 以下、1里の長さが、一定しないので、省略。

 魏志倭人伝に書いてある里数が正しいとしますと、本当は、1里の距離が一定にならなければいけないのに、バラバラであるということは、実際の距離が間違っているか、末廬国と書いてあるのを唐津と比定したからと考える資料になります。
 
 しかし、考え方は良いので、2日に亘って検討を加えましたが、実際の距離を調べるだけでも困難であることが判りました。
 
田村誠一氏は、『魏志倭人伝は解けた』
タイトルの小冊子を作られました。
 B5の紙を片面印刷して二つ折にして、製本してあります。ページ数もなし、発行日も書いてありません。全部で40頁の本です。裏表紙には、次の文があります。
 
私は平成元年に「燦然と輝いていた古代」を出版し続いて「続」「追」を出版しました。近く「総集編」を脱稿します。このパンフレットは要点のみの紹介ですと書いてあります。
 
 「総集編」が完成したのが、平成12年4月29日です。「追」は平成5年8月15日ですから、この間に、作られた冊子になります。

『魏志倭人伝は解けた』に書いてあったことは、
 ①陳寿は朝鮮の帯方郡から壱岐までは韓国の里の単位すなはち70米を採用しました。これは壱岐が方三百里と書かれ、径が23キロの円形の島だったことが根拠です。
 ②【東夷伝】で高句麗は遼東より東に千里、方四千里とあり、この一里は460米です。倭国には、この単位を使用すべきでこの為に方角を隠したのです。
 外にも、沢山の文が書いてありますが、省略しました。

 要は、陳寿は、帯方郡から壱岐までの距離と壱岐から末廬国を、同じ、里数を書きながら、一里の距離は、前者は70米を使用し、後者は460米を使っている。末廬国以降は勿論、
460米を使っているということです。

 この小冊子の制作の意図がよく判りませんが、
「一里の距離は、前者は70米を使用し、後者は460米を使っている」の事は、それまでの本にも、最後に完成した「総集編」にも採用されていません。

 田村氏が、古代史に取りつかれてから、20年を経過しています。 私は、疑問を一杯抱きながら、田村氏が主張されることを全部確認してきました。私は半分強の13年になります。

 紹介しました小冊子は、魏志倭人伝の原文から始まって、先に紹介しました
 ①陳寿は朝鮮の帯方郡から壱岐までは韓国の里の単位すなはち70米を採用しました。これは壱岐が方三百里と書かれ、径が23キロの円形の島だったことが根拠です。
 ②【東夷伝】で高句麗は遼東より東に千里、方四千里とあり、この一里は460米です。倭国には、この単位を使用すべきでこの為に方角を隠したのです。

の内容を発見され、うれしさに溢れた内容になっています。きっと、「総集編」が完成するまで、黙っておけなかったのではないかと想像しています。

 もし、そうであれば、「総集編」に、このことが書いてないといけませんが、書いてありません。きっと、田村氏は、大発見と思われたが、やはり、間違っていたと思われたのであろうと考えて、放っていました。
 
 「韓国の里の単位すなはち70米を採用」に書かれた数字は、始めに紹介しました方の数値に近いですね。

 ここ数日、この事ばかりが頭を駆け巡ります。
 
 次回も、①陳寿は朝鮮の帯方郡から壱岐までは韓国の里の単位すなはち70米を採用しました。これは壱岐が方三百里と書かれ、径が23キロの円形の島だったことが根拠です。

についての事を書いて見ます。

歴史各論 三角縁神獣鏡(56) 魏志倭人伝(7)  邪馬壹国は、どこに(4) [三角縁神獣鏡]

前回は、タイトルに邪馬台国と書いていましたが、〔邪馬壹国〕に直しました。理由は、原文には、邪馬台国ではなくて、邪馬壹国と書いてあるからです。
 邪馬台国ですと、私は、ずっと、〔ヤマタイコク〕と読んできました。原文には、〔邪馬壹国〕だけではなくて、文章の始めの所に、〔従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東到其北岸狗邪韓国。七千余里。〕と書いてあって、帯方郡の〔帯方〕が省略してあるのですから、〔邪馬壹国〕の代りに、省略して 〔倭〕にしたと考えてもいいのですが、始めに〔倭〕を使ったのですから、〔邪馬壹国〕も、〔倭国〕にすればいいのに、陳寿は、〔邪馬壹国〕と書きました。
 魏志倭人伝は、中国人向けに書いたのですが、従郡至倭 と書いたものの、〔倭〕をヤマトと読者は読むことが出来ないと考えたのではないでしょうか。〔倭〕という字は、元々、中国には無かったのに、日本人を表す漢字として作られたのではないでしょうか。
漢和辞典で調べてください。漢字はありますが、熟語はありません。あるとすれば、日本に関する言葉だけだったと記憶します。

次の所に書いています。
倭という字
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/01/post_11.html


〔邪馬壹国〕で〔ヤマト国〕と読むんですよ。漢字は、〔倭〕ですよと陳寿は注意をしたのではないかと考えました。

〔ヤマト〕と読む地名は、日本では、伯耆国に〔大和〕と〔倭〕があります。
 備前に〔夜麻登〕があり、ここには、崇神天皇の伯母の夜麻登登母母曽姫が住んでいました。
 もう一つは、奈良の大和国です。
魏志倭人伝から、邪馬台国を翻訳するのは、間違っていると思います。

と云うことで、
最後の行の〔自郡至女王国万二千余里〕は、夜麻登登母母曽姫が住んでいた、岡山の〔邪馬壹国〕になります。
 
 魏志倭人伝を書いた陳寿は、備前の〔夜麻登〕が〔邪馬壹国〕であることを知っていたのに、100年に亘って、日本の学者が、全員でかかっても、解明できなかったことに、生きていたら、陳寿は大喜びをした思います。ヒミコを卑弥呼と書き、夜麻登を邪馬壹と書き、馬鹿にしました。



次回は、前回の続きで、一里は何mかを考えて見たいと思います。

岡山の〔邪馬壹国 の地図は、 http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html

歴史各論 三角縁神獣鏡(55) 魏志倭人伝(6)  邪馬台国は、どこに(3) [三角縁神獣鏡]

魏志倭人伝は中国人の為に書かれたものです。書いた人は陳寿ですが、陳寿は日本へ来た経験はないようです。資料はどうしたのかと云いますと、三国時代の前に有った時代から資料を得た。---〔倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。漢時有朝見者。〕がそうでしょうか。 〔漢時有朝見者〕は107年の事でしょうか。
 
大半は、難升米等からの報告を元にしたと思われます。 〔今使訳所通三十国〕は、中国の支配が及んでいたと思われます。
 これら以降に書いてあることは、難升米等による測量の成果でしょうか。難升米は卑弥呼が派遣した使者と云うことになっていますが、魏志倭人伝を読む限りでは、ただの使者ではないでしょう。田村氏が言っておられるように魏の国のスパイだったことになります。
 そのつもりで魏志倭人伝を読みますと、時の流れが繋がります。

① 帯方郡から倭国に至るルートが書いてあります。
② 行くための方角が書いてあります。距離や広さも。
③ 途中の国の役人の役職が書いてあります。
④ 海を渡るのか、川を船で移動するのか、歩くのか。そのかかる日数が書いてあります。
⑤ その国の家の戸数が書いてあります。----人口が分ります

出雲風土記をご覧ください。同じように、いっぱいの資料が書いてあります。このように眺めてきますと、両方とも、旅の手引きでもないし、紀行文でもありません。 これは軍事資料であることが判ります。

 例えば、始度一海、千余里至対海国。仮に難升米が測量したとすると、どうして(方法)測量したのでしょう。これは、難しいですね。対馬海流を渡りますから、流されます。要した時間と船のスピードからでは割り出せないと思います。太陽や星から測量するしかないと思います。
 今度は、もし、韓国と対馬までの距離を知りたいと思われたら、どうされますか。
先ず、韓国、対馬、九州が一つの画面で見ることの地図が欲しいですね。案外ありません。
描かれている地図を見付けてください。
対海国を対馬とし、一大国を壱岐として、韓国、対馬、壱岐、九州が見える地図がほしいです。

 原文には、韓国、対馬間は、1000里。対馬、壱岐間も1000里と書いてありました。

 少しぐらい違っても、古代の事だという考えでは、軍事資料になりません。

韓国、対馬間は、1000里。これは、狗邪韓国の位置がどこか正確に分りませんと、いい加減な資料になります。方角は、書いてありません。韓国から、海を渡ると書きますと、南の方向しかないでいいでしょうか。到着地点は、対馬の北の端なのか、真中なのか、南の端なのか、これによって、随分違います。仮に、韓国の南の端から対馬の北の海岸までとしますと、船が実際に走った距離が1000里となります。次は、同じ港を出港して、壱岐の最初の港の北の端の港) までが、2回目の船の進んだ距離になります。
 このように考えませんと、どう見ても、前者の方が、距離が長いように見えます。
地図 http://www.nagasakiguide.net/area/13/map/

 次は、1000里と書いてあります。キロかメートルに換算しませんとピンときません。
一里は、現在の日本では約4km、中国では500m、朝鮮では約400mに相当します。

従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東到其北岸狗邪韓国。七千余里。
 この原文では、帯方郡から狗邪韓国まで7000里です。現在、帯方郡も狗邪韓国も存在しませんから、正確にはどこか分りません。

 今の中国人は分らなくて、当時の魏の国の人には分かるルールがあったのでしょうね。

田村誠一氏は、帯方郡から狗邪韓国まで7000里の一里は、70mだろうと書いておられます。

皆さんでしたら、一里は、何mだと思われますか。

帯方郡は現在のソウルの辺りらしいです。狗邪韓国が、朝鮮半島の南の端だとしますと、
一里が70mとしますと、7000×70=490000m=490kmです。
朝鮮半島の事ですから、400mとしますと、7000×400=2800000m=2800kmです。
どちらが、正しい距離に近いと思われますか。

 次回までに、楽しんで頂ければと思います。

歴史各論 三角縁神獣鏡(54) 魏志倭人伝(5)  邪馬台国は、どこに(2) [三角縁神獣鏡]

魏志倭人伝の原文を覚える為に、何度も眺めてみようと思います。
●原文
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。
漢時有朝見者。今使訳所通三十国。

従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東到其北岸狗邪韓国。七千余里。
始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活、乗船南北巿糴。
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。
東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。
東南至奴国、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸。
東行至不弥国、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千余家。
南至投馬国、水行二十日。官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。
南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳鞮、可七万余戸。

自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳。次有斯馬国、次有已百支国、次有伊邪国、次有都支国、次有弥奴国、次有好古都国、次有不呼国、次有姐奴国、次有対蘇国、次有蘇奴国、次有呼邑国、次有華奴蘇奴国、次有鬼国、次有為吾国、次有鬼奴国、次有邪馬国、次有躬臣国、次有巴利国、次有支惟国、次有烏奴国、次有奴国、此女王境界所盡。

其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。
自郡至女王国万二千余里。

 前回の対海国と一大国は考えて頂きましたか。卑弥呼の時代は、崇神天皇の時代ですが、この頃は、対馬国とは、日本でも云わなかったのではないでしょうか。この頃は、漢字など使っていませんでした。
 古事記が作られたのが、712年です。この中には、紀元前後の事が登場します。島の名前では、筑紫島、伊予島、粟島、伊伎島、津島、隠岐島が登場します。
 このうち、古事記の翻訳本には、伊伎島は、壱岐島である。津島は、対馬であると書いてあります。 だからと云って、魏の国の人が日本にやって来る航路にある島の名前を対馬と云ったことにはなりません。
 古事記が出来た時は、712年。日本に最初に元号が採用された「大化」の時代は、日本において、重要な所は、すべて、中国人に支配されていました。時代は、645年です。 特に、船に関しては、中国の人の方が、優秀であったと見え、瀬戸内海は、完全に支配されていたと考えています。
 陳寿は、魏の国の人ではなく、西晋の歴史家 とされています。233年? - 297年?)。両方に? マークがついていますが、正しいとしますと、250年~290年頃に、魏志倭人伝を書いたと思われます。魏の国の人でないのに書いたということは、頼まれて書いたことになります。この考え方が、正しいとしますと、お金を貰って、国の歴史を書いて、魏の悪口は書くことは出来ないでしょう。
 
 今、田村誠一氏が書かれた 「日魏戦争(1)」を、
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/01/1-89ee.html
に掲載しています。日本と魏の国が、戦争をしていたと、6回に書いておられますが、このような馬鹿げた話は、読んでいても不愉快なのか、誰も読まれません。
 「日魏戦争(6)」まで、有りますから、読んでください。

 田村氏に云わせますと、「日魏戦争」は、難升米をトップにする魏の国と、崇神天皇をトップにする戦争でしたが、実際に戦争をしたのは、卑弥呼の義弟の日下坐王と難升米の戦でした。最後には、難升米は、日下坐王に殺されて、魏の国が日本に敗けたというのが、「日魏戦争」のストーリーです。
 この6回のシリーズを読んでも、なかなか、「日魏戦争」を理解することは、無理のようです。
 仮に、田村氏の「日魏戦争」が本当だとしても、大国の魏の国の国史に於いて、魏が崇神天皇に敗けた等とは書くことが出来ません。
 
 しかし、陳寿としては、書かなくてはなりません。読者は、中国の人たちです。
魏志倭人伝の全体の流れは、偉大な国は、取るに足らない小さな国日本との関わりを書いていたら、2000字の膨大なものになったとみています。

①対海国は何所にあるかといいますと、北岸狗邪韓国から海を渡ったとあります。方角は書いてありません。狗邪韓国が、韓国の国の名前であれば、北岸狗邪韓国ではなく、南岸狗邪韓国と書く筈です。狗邪韓国は、北の端にあると書いたということは、日本の北の端の北岸狗邪韓国、北の海岸にある狗邪韓国となります。陳寿は、狗邪韓国は日本の一部であると見ていたのかも知れません。
 その狗邪韓国から海を渡って、千里行ったところに、対海国に至ったと書きました。
 ②今度は、方角が書いてあります。南へ千里、海を渡ったら、一大国に至ったとあります。渡った海の名前は、「瀚海」と書きました。対海国と一大国の間の海の名前まで知っているのですから、対馬国と対海国とを間違えるわけがありません。「馬」の字と「海」をまちがえたという考えは、お話になりません。

上に書きました魏志倭人伝の最後の行をご覧ください。
 自郡至女王国万二千余里
 郡より女王国に至るには、一万二千余里である。 この意味は、よく判りませんが、
 一行目の「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。」にかいてある〔帯方〕
 は、魏の国の帯方郡と思われます。
「南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月」の文章が、有ります。邪馬台国は、女王の都のある所とありますから、上に書いてある女王国は、邪馬台国のことと思われます。
書き直しますと、
自帯方郡至邪馬台国万二千余里
となります。
 帯方郡から12000余里とは、粁に直すとどれぐらいでしょう。

歴史各論 三角縁神獣鏡(53) 魏志倭人伝(4)  邪馬台国は、どこに [三角縁神獣鏡]

次に、魏志倭人伝の一部を原文で掲載します。これは、インターネットに掲載されていたものを転載させてもらいました。
 原文には、句読点はありませんが、掲載されていた通り、記します。

正史『三国志』魏書・東夷伝「倭人」(略称『魏志倭人伝』)

●原文
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。
漢時有朝見者。今使訳所通三十国。

従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東到其北岸狗邪韓国。七千余里。
始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活、乗船南北巿糴。
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。
東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。
東南至奴国、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸。
東行至不弥国、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千余家。
南至投馬国、水行二十日。官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。
南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳鞮、可七万余戸。

自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳。次有斯馬国、次有已百支国、次有伊邪国、次有都支国、次有弥奴国、次有好古都国、次有不呼国、次有姐奴国、次有対蘇国、次有蘇奴国、次有呼邑国、次有華奴蘇奴国、次有鬼国、次有為吾国、次有鬼奴国、次有邪馬国、次有躬臣国、次有巴利国、次有支惟国、次有烏奴国、次有奴国、此女王境界所盡。

其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。
自郡至女王国万二千余里。

魏志倭人伝を始めて、見られた方、誰かが訳された文章ではなく、ご自分で読んでください。どうしてかといいますと、本職の方が訳されたものは、どうしても正しいと思ってしまうからです。
 例えば、4行目の千余里至対海国は、どの方が、訳されても、
「渡ること千余里、對馬國に至る」と訳されています。

次の方は、http://johokan.net/history/Rekishi/earlyjapan/Yamatai/gi-original.html
 注意書きに、「對馬國 対馬で間違いないだろう。」と書いておられます。本当は、間違いないことを説明しなければなりませんが、これは相当難しいことになります。又、説明できても、説明の文章を書いていますと、

もう一つ霎を挙げておきます。
6行目の「至一大国」です。 翻訳は、「一大國に至る」
註釈には、「一大國 壱岐だろう」と書いてあります。

 どうして、原文に書いてある字と異なる翻訳になるのでしょう。このようなことが許されるのでしょうか。
 この方は、前者は、「渡ること千余里、對馬國に至る」と全く違う国名を書いたのに、後者は、
「一大國に至る」と同じ、一大国という国名を書かれました。
 
 この方に限らず、どの方もこのような翻訳の仕方だと思います。これでは、解読したことになりません。
 本当に、陳寿が魏志倭人伝を書いた時に、中国人が、「對馬國を対海国」と、呼んでいたのでしょうか。「壱岐を一大国」と呼んでいたのでしょうか。はじめから、壱岐だったのを陳寿が勝手に、一大国と書いたのではないでしょうか。

 さあ、みなさん、どの様に思われますか。


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