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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(170)   吉野ヶ里(13) [日本の歴史]

前回の倭文地名は、難読地名ですから、ユダヤ人と関係が有りますと書きました。 少し、無理かも知れませんが、「神」という字が付く人名や地名もユダヤ人と関係あると考えますと、楽しくなります。

有名な所では、神武天皇が有ります。この天皇は、吉野ヶ里を攻撃したと考えています。そんな馬鹿なと思われるでしょう。このようなことを言われた方はおられません。
神武東征という言葉がありますが、確か、全部で、16年間掛かった戦争と考えています。
鳥取県の日向を出発してから、吉野ヶ里を攻撃します。その後、吉備を制覇、奈良までの長期の戦争です。
 こんな長期の戦争などはあり得ないでしょう。全行程も長いです。地図なども無い時代でした。
 しかし、これが、すべて、ヨダヤ人の支援があったと考えますと、可能です。
 ユダヤ人は、自分の現在いる所の緯度・経度を知っていたからです。ユダヤ人は、日本だけではありません。日本の絹をヨーロッパまで、運んでいたと考えています。

 この事は、みなさんに知って頂こうと、『神武天皇は吉野ヶ里を攻撃した』のタイトルで、2006年4月に出版しました。
 さて、本屋さんで、売って頂こうと思いましたら、このような個人が出版した本は、扱ってくれないことが判りました。ということで、1冊も売れませんでしたので、知人に貰って頂きました。
 遠くの人には、お送りしましたが、誰一人として、届いたとの返事もなく、勿論、読後感想のハガキも頂く事はありませんでした。
 
 このような世の中を惑わすような人間は、相手にされないことが判りました。

しかし、懲りないで、次回から、少し、吉野ヶ里が神武天皇にヤラレタことを書いてみます。

私のつぶやき その1 [思うままに]

いつも、「新しい日本の歴史」を読んで頂きまして、有難うございます。古事記のことに取りつかれてから、もう、15年以上になります。しかし、正確なことは判りません。
 
どうして、このように長いこと、関わっているかと言いますと、田村誠一氏の影響が大きいです。

できれば、田村氏の歴史に対する考え方を、多くの方に知って頂こうと、毎日、ブログに掲載してきましたが、最近、止めにしようかなと考え始めています。

 一番の理由が、毎日書くのも大変ですが、原稿を書く、能力がなくなったことに気付いたからです。
田村氏の書いて居られる事は、最近でこそ、理解できるようになりましたが、始めのうちは、理解できませんでした。

 古事記が取上げていることは、紀元前から始まっています。現在とは、2000年の隔たりが有ります。
この時間を越えて、古事記や日本書紀からの知恵を借りて、古事記を読んで来ました。

と書きましたが、古事を読まない日は有りませんが、日本書紀は殆ど読んで居ません。

こんなことを書きながら、私の[新しい日本の歴史]を書くスピートを落としつつ、書くことを止めようかと考えています。


 時々、「私のつぶやき」も覗いて下さい。

 田村誠一氏の著書をご覧ください。
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html


田村誠一氏はどのような人
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2016-10-06

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(169)   吉野ヶ里(12) [日本の歴史]

 吉野ヶ里と直接関係は有りませんが、絹の生産と関係のあるものに、倭文神社があります。
倭文の由来 http://www.minamiawaji.ed.jp/shitoori_jhs/fuudoki/01rekishi/01yurai/index.htm
倭文は、<しずり、しどり>と読みます。 このように、普通には読むことのできない言葉や地名は、ユダヤ人と関係あると考えています。

 どうして、そう考えるのかと聞かれても、よう返事はできません。 このような例を一杯見てきました。

 以前に、都を高天原から高千穂へ移す時のことを書いた時に、高千穂は、だれでも、宮崎県にあると思っているのに、鳥取県にある高千穂を見て頂きました。
 その時に、地図も添付して見て頂きました。
 いらないことかなと 思いながら、地名高千穂を見つける時に、書かれている地名をご覧ください。 下種、上種の近くに高千穂がありますと書きました。 倭文神社もありますと書きました。地名は、志津です。
 
 この倭文神社が、絹織物と関係ある神社ですので、書きました。

さて、倭文神社はどれぐらいあるかと言いますと、
① 倭文神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E6%96%87%E7%A5%9E%E7%A4%BE

②倭文神社―――写真多し
http://鳥取遊戯.com/archives/1365

倭文神社と吉野ヶ里遺跡とは、関連が有るかどうかは、調べていません。

倭文のことは、一杯調べました。 一部を記します。

No21 倭文神社は織物の神を祭ります..
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/m/article?name=2005-06-23

伯耆国久米郡           伯耆国川村郡
駿河国富士郡           伊勢国鈴鹿郡
丹後国与謝郡           丹後国加佐郡
因幡国高草郡           美作国久米郡
伊豆国田方郡           近江国滋賀郡

これらの国には、式内社が多く、三角縁神獣鏡も出土しています。

 倭文神社の祭神は、武葉槌命・武羽槌雄命(たけのはづちおのみこと)・建葉槌命・天羽槌雄神・天羽槌命・経津主命(ふつぬしのみこと)です。 神社によって異なります。
前三つの神は、漢字は異なりますが、どうにか読み方は同じです。なぜ 漢字の表記が違うのかは重大なことですので、別の機会に書きます。

以下、現在の倭文神社の所在地を記します。
① 奈良県北葛城郡当麻町加守  ②三重県鈴鹿市加佐登町   ③ 富士宮市星山           
④ 静岡県田方郡伊豆長岡町江間    ⑤ 山梨県韮崎宮久保  
⑥ 茨城県那珂郡瓜連町   ⑦ 大津市坂本本町   ⑧ 伊勢崎市東上宮町380        
⑨ 京都府綾部市今田町津ノ上1010  ⑩ 京都府与謝郡野田川町三河内   
⑪ 兵庫県朝来郡生野町     ⑫ 鳥取市東伯郡北谷村志津               
⑬ 鳥取県 東伯郡東郷町宮内754   ⑭ 鳥取県倉吉市志津 
⑮ 岡山県久米郡倭文中村柚木 

倭文神社の所在地は、三角縁神獣鏡の出土地とほぼ重なります。
驚くべきことに、絹織物の協同組合が、各府県にありますが、これも重なります。
現在の絹織物の産地は、2000年前から続いていることになります。

絹は日本発の製品だった----これは私のブログです。
http://o-mino.la.coocan.jp/page112.html

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(168)   吉野ヶ里(11) [日本の歴史]

 環濠集落(かんごうしゅうらく)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%B0%E6%BF%A0%E9%9B%86%E8%90%BD
一部抽出します。
周囲に堀をめぐらせた集落(ムラ)のこと。水稲農耕とともに大陸からもたらされた新しい集落の境界施設と考えられている。
水堀をめぐらせた場合に環濠と書き、空堀をめぐらせた場合に環壕と書いて区別することがある。
「環濠」と「環壕」のルーツはそれぞれ、長江中流域と南モンゴル(興隆窪文化)であると考えられており、日本列島では、弥生時代と中世にかけて各地で作られた。

 全国に沢山有りますが、私が訪れた遺蹟では、次の遺蹟が有りす。
• 池上・曽根遺跡大阪府和泉市と泉大津市にまたがる)
• 稗田の環濠集落(奈良県大和郡山市)----吉野ヶ里遺跡と、違うタイプ。
• 唐古・鍵遺跡(奈良県田原本町)

どの遺蹟にも共通することは、遺蹟の周囲に、濠か壕を巡らせ、外部から攻撃を防いだ構造になっています。ということは、それだけ、大切なものを持っていたことになります。

 全部ではありませんが、近くには、敵を早く見つけれる様に、高地性集落が作られているように思います。 

吉野ヶ里遺跡では、 鉄、銅、宝石等よりも、絹を保存していたのではないかと考えています。

少し、荒っぽいですが、吉野ヶ里遺跡は、これらのことから、漢人が、使っていた集落の可能性が強いと思われます。
 それどころか、全国に見られる環濠集落は、漢人が造り上げた集落ではと考えて、もう一度、調べ直す必要があるように思えます。


神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(167)   吉野ヶ里(10) [日本の歴史]

 次は丹波と丹後です。
さて、丹波の何処が、絹の生産地であるというようなことを書いたものは見つけることはできません。

この頃は、前漢の武帝の侵略が激しかった時です。  次のようなことが古事記に書いてあります。  天照大御神は、倉吉平野平定のために、天菩比神を遣わしました。しかし大国主神に媚びて三年たっても復奏しません。 次に天若日子を遣わせた時には高御産巣日命と天照大御神と連名で命令しています。この連名の時は、高御産巣日命・通称高木の神が天照大御神の代行をしていました。  この間に、天火明命が丹後に移って、しかも筑紫の吉野ヶ里と同盟を結んだのです。  天若日子を遣わせた時は天照大御神は丹波で苗族を入植させるのに手が離せなかったのです。  天照大御神は急遽丹波に都を移して苗族を入植させて天火明命の勢力の南進を防ぎました。この時の丹波の宮が大江待ちの内宮で御坐所が内宮の真西の天座です。  ここの内宮には円錐形の城山(別名、日室嶽)があり遠方から目標になり、、しかも伯耆の高千穂と同じ緯度です。蒜山高原には他所には見られない特殊な地名が沢山あります。これと共通化一字だけ真似た特殊な地名が内宮の周辺に見つかり蒜山高原から遷都したことは明らかです。  更に伯耆の大山と大江山は緯度が殆ど同じで、天照大御神の後続部隊は迷わずに蒜山高原から移って来られます。
以上、田村誠一氏の本よりコピーしました。
天座という地名があることを地図で確かめてください。(大切なことです)

上記の文を読んで頂きますと、田村氏は、この地に行かれた事が分ります。 私も、自分の目で確かめようと行ってきました。地名は勿論のこと、城山は、整形されたと思える形をしていただけでは無くて、 近くにある皇大神社や摂社が、七十八座周囲に祭られているのも、見てきました。

その後、至る所で、整形したと思われる山に出合いました。

古代史は、現場に行ってみるしか、証拠をつかむことはできないと思います。
ここは、是非、訪れてほしい所です。

元伊勢内宮皇大神社
http://www.jalan.net/kankou/spt_26441ag2130010675/
ここは、元伊勢と言われている所です。
こんなものは、重要でないと思われるでしょう。

皇大神社 -----写真多し
http://www.geocities.jp/k_saito_site/doc/tango/motoisenaikuooe.html

元伊勢
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E4%BC%8A%E5%8B%A2  
ここを訪れて以降、元伊勢と言われる所を随分訪れました。
どれほど行ったか記憶は有りませんし、その後、考察もしませんでした。
しかし、吉野ヶ里以上に、古代史を考える時は、重要だと思っています。
是非、どなたか、研究をしてほしい分野です。

ここに収録されている。元伊勢一覧をご覧ください。そして、全部実際に訪れてください。

丹波に綾部市があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%BE%E9%83%A8%E5%B8%82#.E7.B6.BE.E9.83.A8.E5.B8.82.E8.A8.AD.E7.AB.8B.E4.BB.A5.E5.89.8D
以下、 上記より抜粋
京都府綾部は、古代には丹波国漢部(あやべ)郷と呼ばれ、「綾部」(あやべ)は、江戸時代初期までは、「漢部」(あやべ)と記されていた。古代には綾織りを職とする漢部(あやべ)が居住していたとことに由来する。漢部は朝鮮半島から渡来した漢氏(あやうじ)が支配した部(べ)であった。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(166)   吉野ヶ里(9) [日本の歴史]

 全国の絹生産地から、吉野ヶ里へ絹を送るとしますと、、生産地と何らかの約束をする必要があります。
 紀元前後のことですから、其頃に、契約を結び、その証拠として契約書のようなものは存在しません。

 前回は、籠神社にその様なものが存在することは期待できませんが、海部直伝世鏡「息津鏡」「辺津鏡」が残されていることを紹介しました。
 そして、その時の所持していた人が、海部氏であることも見て頂きました。

 ただ、「息津鏡」「辺津鏡」が存在しているだけでは無くて、海部直伝世鏡の鏡であることは、間違いないことを証明された国宝級であることが重要です。
海部氏は、ここから直接に、中国と絹の貿易をしていた証拠はありませんから、吉野ヶ里と繋がりが有った人として、候補として考えて見ました。

次の候補地は、出雲です。
 次の一覧表は、全国の式内社の一覧表です。

全国の式内社の一覧表
http://o-mino.la.coocan.jp/page257.html  
出雲は、式内社の多い部類に入ると思います。 式内社でない神社もあるのですが、もともとあった神社を取り囲むように式内社が作られたと考えています。
 考えているだけで、調べたことが有りません。
 調べる為には、出雲の地図の中に、式内社の位置と式内社で無い神社を色別に表示したいのですが、それが出来ないのでしていません。
 
根拠は有りませんが、考えたことをいくつか書いてみます。
①式内社の数が100を越える所は、漢人が支配する国だと推理しています。

②出雲の近くに伯耆が有ります。伯耆は、天皇家の人が、早くから住んでいたと考えています。なのに、式内社は、6社しかありません。 これは、927年の頃の状態です。ということは、天皇家の神社は書いていませんが、天皇家の力が強いから、漢人の力は少ないと考えます。(伯耆とはどういう意味か判りますか)

③紀元前後の頃は、九州北部は漢人の集落が多かったと思いますが、927年の頃は、関西に移動したことが分ります。(この間、900年も経過していますから、どのように移動して行ったかの説明が必要だと思います)

④爾佐能加志能為神社には天照大御神は祭られていますが、外の神社には、天照大御神は見当りません。これはどのように考えるかは、みなさんにお任せします。
(おかしいですね。式内社は政府公認のように思われていますが、天照大御神を祀る神社は、皆無と言っていいと思います) 900年も経っている天照大御神のことは、見事に式内社選定から外された事が分ります。
 それだけ、天照大御神は、天皇家の象徴のような神であったことが判ります。

⑤大己貴命は一杯祭られています。 大国主は多くの別名を持ちます。大己貴命もその一つです。どうして、一杯の名前が有るのでしょう。大己貴命は、日本書紀に書かれている名前です。
 この事から、927年から、漢人では無くて、藤原氏の時代が確立したと考えています。


参考に
素性が分らない河内の祭神   96  -128-
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2016-02-29

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(165)   吉野ヶ里(8) [日本の歴史]

吉野ヶ里の事を知るために、建御名方神が古事記にどの様に書かれているかを見て頂きました。

太安万侶は、建御名方神の事に付いて、「信濃(しなの)(長野県)の諏訪湖に逃げ,その国をでないとちかってゆるされ」と記しました。
この書き方では、意味を理解出来る方はおられなかったのだと思います。

これらの事から、諏訪湖の辺りで、絹を作っていた人が居られた事は分かりました。
建御名方神は、出雲の人と交流が有ったことも推察できると思います。

外に、絹を作っていたのではと思われる所として、籠神社があります。

籠神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE#.E5.9B.BD.E5.AE.9D
籠神社に対する解説は、次の僅か二行です。

籠神社(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。式内社(名神大社)、丹後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

注意したいものは、二つです。
①海部氏系図(附 海部氏勘注系図)(古文書)----国宝
②海部直伝世鏡「息津鏡」「辺津鏡」
息津鏡(おきつ)は後漢代の作と伝えられ直径175mm、辺津鏡(へつ)は前漢代の作と伝えられ直径95mm。「海部氏系図」の勘注系図にも記載があり、天祖が火明命に授けたという。出土品でない伝世鏡では日本最古という。なお、鏡の名は十種神宝のうち2鏡と一致するが、関係は明らかでない。

「出土品でない伝世鏡では日本最古という」ということは、古さから考えても、国宝級と言っていいと思います。

海部氏----どのような人か
http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_195.html

海部氏・尾張氏らの一族や丹波・丹後とも関係有ることが分ります。天皇家には入らない人達であったことになります。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(164)   吉野ヶ里(7) [日本の歴史]

 吉野ヶ里のことを、少し書きましたが、なかなか上手く書けません。長い事読んで頂きましたが、「吉野ヶ里」の事だけでも、どなたにも疑問を抱かれない様に書こうと思いますと、毎日、書いても、一年で終わるかどうか分りません。

吉野ヶ里遺跡は、日本人の遺跡では無くて、漢人の遺跡ではないかと考えています。
 ただ、漢人が絹を生産していただけではなくて、日本中の絹を集めて、中国に運んでいたのではないかと考えています。

考えていますと書きましたが、系統立てて、私は上手く説明出来ない状態にいます。

このお話の大部分は、田村誠一氏が発表された事です。

例えば、建御名方神が居られます。この神は、どの様な神か、ご存じですか。

ネットで、検索しましたら、いろいろの方が、解説して居られます。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 を下に転記します。

建御名方神 たけみなかたのかみ
「古事記」にみえる神。
大国主神(おおくにぬしのかみ)の子。国譲りの際,武甕槌神(たけみかづちのかみ)と力くらべをして敗れ,信濃(しなの)(長野県)の諏訪湖ににげ,その国をでないとちかってゆるされた。諏訪大社の祭神。

これで、どの様な神かお分かりになられましたか。 こんな短い説明で解かる訳がありません。

朝日日本歴史人物事典の解説は、詳しいです。 しかし、これで分かっておられるから、皆さんは、諏訪神社にお参りされるのでしょうか。

理解するためには、諏訪神社がどのような神社であるか、調べますと少しは分かります。
諏訪湖の近くにある諏訪神社は、諏訪大社と呼ばれています。有名なお祭として、「御柱祭り」が有ります。

 随分前になりますが、二泊三日を掛けて、御柱祭に行ってきました。
御柱祭(おんばしら)は7年目毎、寅と申の年に行われます。

帰ってから、いろいろ調べましたが、手に負えないことが分りました。
分かったことは、古事記に書いてある事でした。

「大国主神(おおくにぬしのかみ)の子。国譲りの際,武甕槌神(たけみかづちのかみ)と力くらべをして敗れ,信濃(しなの)(長野県)の諏訪湖ににげ,その国を出ないとちかってゆるされた。諏訪大社の祭神。」

武甕槌神(たけみかづちのかみ)らが葦原の中つ国の国譲りを大国主命に迫ったとき、大国主命の命令で武甕槌神と力比べを行った。

力比べをした所は、葦原の中つ国の近くであったと思われます。ということは高天原のどこかでしょうか。

 高天原は蒜山高原と考えています。建御名方神は、蒜山高原の近く辺りから、諏訪湖まで逃げたことになります。この遠い道のりを逃げ通したことになります。 その役だったこととして考えれる事は、二つ考えれます。
 逃げた道を良く知っていたことです。 その道には武甕槌神を応援する人が居たことです。
 そのために、必死の追手に捕まらなかったのですが、とうとう、諏訪湖で捕まってしまいました。

 ヒルゼン高原も元は、湖でした。 建御名方神は、諏訪湖の湖岸に住んでいました。

そして、絹を作り、あちこちに運んでいたのではないかと推理します。 
力比べをした時は、出雲に行ってたであろうと推理しています。

建御名方神は、諏訪辺りのボスでありましたが、田村誠一氏は、絹の運び屋だったという記事を書いて居られます。
 その根拠は、
「信濃(しなの)(長野県)の諏訪湖ににげ,その国をでないとちかってゆるされ」です。

田村誠一氏のこのような古事記の解釈は、許されるのでしょうか。

建御名方神は、殺されるのではなくて、その後も、諏訪大社の主であることを許されました。

今日、書きましたことは、秩父の絹は、建御名方神によって、運ばれていたというお話です。
でも、諏訪から、どの道を通って、吉野ヶ里まで、絹を運んでいたかを説明をしなければ、単なる思い付きの歴史になります。
田村氏は、厖大な著書に書かれました。そこには、吉野ヶ里が、全国の絹の集積稚であることを書いて居られます。

田村誠一氏の著書 、
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(163)   吉野ヶ里(6) [日本の歴史]

 ここ数回にわたって、発掘された資料から、どの様に考えるかを見ました。
私が予想していました通り、アクセス数は、半分に減ってしまいました。

 ということは、皆さんは、考古学のプロになられる訳ではありませんから、今さら、考古学を勉強しても仕方がないと思います。
 それで、これからは減らして行こうと考えています。

唯、役に立つのは、日本に残されているものとしては、古事記と日本書紀だけだと思います。
外国のものとしますと、中国韓国のものになります。

一番難儀なことは、どうにか、古事記は天皇家優先に書かれたものであるので、その点を考慮しながら、利用しませんと、間違った判断をすることになります。
 問題は、日本書紀ですが、私はこれから勉強することになります。しかし、こちらも、外の方が翻訳されたものを利用して、判断することになります。

 そのようなことよりも、日本書紀は、古事記を参考にして、書かれたものではないかと考えています。
 田村誠一氏は、古事記と日本書紀を比べながら、両方に書かれていることで、どの部分が間違っているかを指摘されています。
 この点をあまり、強調されたために、出版された著書は、すべて、無くなってしまったと思っています。

 現在、私が持っている著書に刺激されて、毎日、日本の歴史は、このようなものだったのではと、書いています。 しかし、困った事が次々と起こってました。

田村氏が書かれた事を読んで頂きまして、みなさんに判断して戴く必要がありますが、全部紹介しますと、きっと、私のコンピューター壊れてしまうのではないかと考えています。

これを防ぐために、新しいコンピューターを購入して、古いコンピューターの内容をすべて、コピーして、いつ壊れても良い様に、使おうと思ったのですが、新しいコンピューターは、私にとっては、全く別のもので、もう、半年になるのに、利用出来ないでいます。
私の頭が古すぎて、利用出来ないのです。

所が、3ヶ月程前に、データーが破壊されましたので、直ぐにも対応してくださいと表示されましたので、従いましたら、10分ほど掛かって終了したのですが、騙された様でした。 この使ったソフトを購入するようにとのメッセージがありましたが、コンピューターはその後、調子が悪いので、困っています。
仕方が有りませんので、購入していました、2台のハードディスクに、保存しています。

所が、最近、困ったことがおこりました。
始めにコンピューターの電源を入れますと、立ち上がるのに、時間が掛かります。その上に、立ち上がったと思ったら、「メモリが足りません」と表示されて、ドキュメントが表示されなくなりました。
 暫くして、もう一度、挑戦しますと、厖大なドキュメントが表示されました。確か、全部で、7ギガの容量を使っているとの表示が有りましたので、必要無い、ものは、消去していますが、追いつきません。

 ドキュメントにある古いものは、ハードディスクに移して、元の記事を消去しましたら、どうにか動いています。

 上手く、書く事が出来ないのですが、今回は、歴史の事は、書かないで、困ったことばかり書いてしまいました。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(162)   吉野ヶ里(5) [日本の歴史]

 日本で初めて元号が使われたのは、645年の大化改新の時からです。 この時は、元号が「大化」とされました。
 このような、事があってから、67年後の712年に、天武天皇から、依頼されていた『古事記』が編纂されました。

これまでに見てきました吉野ヶ里遺跡の様子は、紀元後300年より、712年までが抜けています。その後は、規模は縮小されて、600年頃までは、そんざいしたのかどうかも判りません。
 しかし、今、見て頂いているブログは、紀元後、3世紀頃までのことを記しています。

 利用してきましたブログの次のページの項目は、
埋蔵文化確認調査です。
 
①旧石器時代---ナイフ形石器、台形石器、尖頭器が出土。包含層・遺構はほとんど残っていない。
 この事から、旧石器時代には、吉野ヶ里遺跡は存在しなかった。

②縄文時代---存在したが、よく解っていない。土器からいつの時代であるかは、今の資料では、無理でしょう。(昔は、土器を調べると時代が判ると言われていましたが、私は無理だと考えています)

③弥生時代---問題は、あのような立派な、甕棺は、日本全国で発掘されているのでしょうか。 九州北部だけですと、この地域は、中国から近いですから、漢人が渡来と考えた方が、無理がありません。

④弥生時代---さらに、環壕を伴った大集落と甕棺墓を中心とする墓地群が予想される。
  この表現も、吉野ヶ里遺跡の歴史は、よく解らないと言うことでしょう。
 

環壕を伴った大集落だけに絞りますと、全国に、環壕集落が見つかっています。


 遺跡名 所在地  時代 掲載日 追加・訂正日

1 吉野ヶ里遺跡
佐賀県 B.C250-A.D300 H16.08.04 H16.08.14

2 唐古・鍵遺跡 奈良県 B.C180-190より

リンク

3 下之郷遺跡
滋賀県 B.C200-100マデ H16.09.14 H16.09.15

4 池上・曽根遺跡 大阪府 B.C100より



5 平塚川添遺跡
福岡県 B.C1~AD4 H17.12.08
リンク


これらの遺跡も、中国人の遺跡だとしますと、日本の歴史は、無理をしなくて、説明できるような気がします。

⑤古墳時代-------日吉神社付近に3基ほどの古墳状の高まりを確認。
 古墳が初めて造られたということは、特に位の高い人が出現したということでしょう。

そうだとしますと、吉野ヶ里を漢人の拠点としますと、中国でも、同じ頃に、古墳がつくられていた考える必要があります。 確認していません。

 日本人の古墳としますと、日本で最初の古墳ということになるでしょうか。 全く、考えていませんでしたから、これから確認することになります。

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