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No156郭務悰の足跡  その後 [日本の歴史]

671年01月02日------大友皇子が太政大臣となった。
671年01月13日------百済鎮将の劉仁願が、李守真等を遣わして、上表した。
671年07月11日------唐人李守真等と百済の使人らは共に帰途についた。
671年11月02日-----、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐の四人が唐から来ました。彼らが申すには、唐国の使人郭務悰等600人、送使沙宅孫登等1400人、総計2000人が、船47隻に乗り、比知島に停泊、相談した結果「いま我らは人数も船数も多い。突然彼の地に入港すれば、防人たちは驚いて矢を射て戦おうとするだろう。そこで道久等を遣して、前もって来朝の意を伝えたし」とのことです。
と、11月10日に、対馬国司が使いを太宰府に遣わして報告した記事があります。
671年12月03日------天智天皇が近江宮で崩御。
672年03月18日------内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇崩御を郭務悰等に告げた。是に、郭務悰等は、みな喪服を着て、三度哀の礼を奉じ、東に向って首を垂れた。
672年03月18日------郭務悰等は再拝し、書函と信物を献上した。
672年05月12日------甲冑弓矢を郭務悰等に賜る。この日、郭務悰等への賜物は、全部で[あしぎぬ]1673匹、布2852端・綿666斤だった。
672年06月30日------郭務悰等が帰途についた。

671年の郭務悰等の来日は、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐の四人が、どのような人たちかが判りませんが、前回以上に軍事的なところがあったのでしょう。目的は、軍事的圧力を加えることにあります。
11月2日に来日して、1ヶ月後に天智天皇が近江宮で崩御されたことになっています。
なぜか、崩御の知らせは、3ヶ月も経ってから、筑紫にいる郭務悰等に告げら
れました。そして、郭務悰等への賜物は、全部で[あしぎぬ]1673匹、
布2852端・綿666斤が渡されました。 これらの品物は、彼等が喜ぶ
品であったことがわかります。
仕事をすべて終えた-郭務悰は、672年06月30日に帰国の途につきました。

終えた仕事とは、
① 天智天皇を殺し
② 大海人皇子を吉野に追いやり、
③ 大友皇子を天皇にする。
 そして、究極の 中国の傀儡政権を樹立することを、成功させました。


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降龍十八章

郭務悰は大海人の援軍としてきたという説もあります。
劉仁願や郭は半島土着の唐人なので、野心があり、完全に唐側というわけではないらしいです。
とても複雑ですね。
by 降龍十八章 (2007-12-13 13:06) 

上村主です

全くの推察で申し訳ないですが
白村江敗戦後の占領政策で大友皇子、後の弘文天皇は占領軍の司馬氏です
近江令を発動します
ここらで新しい冠位の制定が在っていますが、これは占領軍の制定したもので天武後に変更されています
伊勢王・薩夜麻 は倭国王族傍系で半島でも人脈が厚く唐の則天武后とも仲が良かった(朝鮮と倭国とは王系の繋がりが密)
唐 高宗(天皇)の権威が衰えて、則天から倭国占領軍に追討の詔が
おりた、これが壬申の乱です・薩夜麻は官軍として勝利し天皇を号した

by 上村主です (2016-12-29 22:29) 

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