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No157 遣唐使と郭務悰との関連 [日本の歴史]

下記に遣唐使の1次から12次までの記録と郭務悰の来日を記します。

630年8月――632年    第1次遣唐使        犬上御田鍬、薬師恵日
653年5月  --654年    第2次遣唐使        吉士長丹・吉士駒・高田根麻呂・掃守小麻呂・道昭
654年2月 – 655年  第3次遣唐使        高向玄理・河辺麻呂・薬師恵日
659年閏10月—661年  第4次遣唐使        坂合部石布・津守吉祥・伊吉博徳
661年          大伴部博麻、筑紫君薩野馬ま)ら4人(第4次遣唐使で入唐)、百済救援役
で唐の捕虜となる。

664(麟徳1)5月        郭務悰来日
665年 ――667年      第5次遣唐使         守大石・坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間
                         送唐客使
667(乾封2)11月        劉仁願の使者来日
667年--             第6次遣唐使
669年            第7次遣唐使
          この年   郭務悰ら2,000人を遣わす
702年6月――704年   第8次遣唐使         粟田真人
717年3月—718年     第9次遣唐使       玄昉・阿部仲麻呂
733年4月――735年   第10次遣唐使       ( 一部739年に帰国)
746年            第11次中止       
752年閏3月 –754年   第12次遣唐使       吉備真備

653年5月 第2次遣唐使について定恵(藤原鎌足の長男643~665年)は中国へ。
665年9月、百済を経て帰国したが、12月に奈良県高市郡明日香村小原にて死亡。
 〔608年 薬師恵日は遣隋使の一員として、小野妹子と一緒に中国へ〕

遣唐使の記録は、日本書紀、日本後紀、日本紀略などに書かれているものから、一覧表がつくられ公開されています。
私はウィキペディアというインターネットに掲載されているものを元にして、作成しました。
例えば、702年は、ウィキペディアでは第8次となっていますが、続日本紀を元に第6次としている方も居られます。
 随分違いますから、確認を自分でしなければなりませんが、私がこの一覧表を掲載した意図は別にあります。そちらに注目してください。
 私が知っていた〔遣唐使〕は、日本の政府が自分で船を建造して、自分達で中国に派遣していたと思っていましたが、そうでもないのではないかと思ったからです。
太文字にしたものが真ん中に入っています。663年に白村江の戦いで日本は敗れました。日本書紀の天智元年五月に、「軍船170隻をひきいて、豊璋らを百済に送り」 とあります。どれほど小さな船にせよ、170隻をそろえるのは大変です。作ったとなりますと、相当の日数がかかったと思われます。
 友好的な遣唐使を派遣(3次、4次)しながら、一方では、戦争の準備をしていたことになります。
653年5月 第2次遣唐使に藤原鎌足の長男の定恵が行ってます。さて、どのような位にあったのか判りませんが、年齢はわずか10歳です。最大の権力を持っていた藤原鎌足の長男ですから、形は最高の代表者であったかも知れません。(資料1)
 定恵は12年間、中国で過ごし、665年に遣唐使は派遣されていますが、帰国した便はありませんから、665年9月に劉徳高の船に同乗して帰朝したことになります。
(『日本書紀』孝徳紀、白雉5年2月条注、伊吉博得が云ったこととして、劉徳高の船に同乗して帰朝したことが記されていますから、確かなことです。
駐留軍の最高責任者と一緒に帰国とは、どういうことでしょう。定恵は捕虜になっていて、劉徳高は取引の材料として、定恵を連れてきたと考えるのが、普通です。
定恵はそれから3ヶ月後に死亡しています。(あまり云いたくありません。私の人間性を問われますから。しかし、殺されたのではと思っています。これから、殺されたころされたと書くと思いますが、殆ど、3~4ヶ月で死亡していますから、同じ薬物で殺されたのではないかと推察しています)
  日本書紀は、天智4年に劉徳高が来たことを書きながら、この船に定恵が乗ってきたことは、10年前の孝徳天皇のところに書いたのでしょう。作者は書きたくなかったのだと思います。とはいうものの、藤原不比等の兄ですから、歴史に名前は残したかったのだと思います。

資料1 大唐に発し遣はす大使小山上吉士長丹、副使小乙上吉士駒 駒の更の名は絲 、学問僧道厳・道通・道光・恵施・覚勝・弁正・恵照・僧忍・知聡・道昭・定恵 定恵は内大臣の長子也 ・安達 安達は中臣渠毎連の子 ・道観 道観は春日粟田臣百済の子 、学生巨勢臣薬 薬は豊足臣の子 ・氷連老人 老人は真玉の子。或る本、学問僧知弁・義徳、学生坂合部連磐積を以て増へたり あはせて一百廿一人、倶に一船に乗る。室原首御田を以て送使と為す。…
(『日本書紀』孝徳紀、白雉4年5月12日条)
「定恵は内大臣の長子也」とありますが、日本書紀の作者は、どうして、鎌足・中臣鎌足というように、鎌足という字を入れなかったのでしょうか? 私は不幸な死に方をした兄のことはあまり、目立つように書きたくなかったのではと考えます。話しが飛びましたので、修正です。

結論を書きますと、遣唐使は、朝廷が日本に中国の文明を取り入れるために派遣したのではなく、船の建造や航海術に長けていた中国人が、主体になって行われたものである。そのように顕わに日本書紀に記しますと、傀儡政権でなくなりますので、あくまで、朝廷が主体であるよう記述されたのだと思います。
そのように考えますと、この時に最高の権力を持っていた藤原鎌足も中国の意に沿わなかったため、殺されます。天智天皇も殺されます。そして、大友皇子が傀儡政権のトップに祭り上げられます。
 大友皇子の父は天智天皇ですが、母は伊賀采女宅子娘とありますから、伊賀に住んでいた女性でしょうか? 表現は悪いですが、出自はよくありません。本来なら、天皇になる人でないだけに、傀儡政権の天皇には相応しい人だと思われます。
話しはあちこちに飛びますが、このシリーズでは、全国いたるところに中国人が住んでいたことを述べてきました。
中国にとっては、日本は無くてはならない国であったことが判っていただけると思います。
このように眺めてきますと、どうして天智天皇が、大津のような狭いところに都を作らなければならなかったか。天智天皇が、世継は大海人皇子と考えて、枕元に呼んだのに、何故、大海人皇子は吉野に隠れなければならなかったのか?
なぜ、大友皇子と大海人皇子が戦わなければならなかったか、すべて解けてきます。
日本の歴史は、すべて、天皇家の血の争いによったものである。という日本史が正しいことになっていますが、神武東征は日漢戦争であり、白村江の戦いから壬申の乱までは、日唐戦争であることが判ります。
戦後すぐに、負けた国が勝った国と仲良くして遣唐使を派遣などするでしょうか?
結論を先に書いてしまいましたので、次回から、もう少し掘り下げて調べてみたいと思います。


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コメント 2

降龍十八章

>戦後すぐに、負けた国が勝った国と仲良くして遣唐使を派遣などするでしょうか?

全く同感です。倭と日本(大和)という二重構造があったとしか、考えられません。
まして、軍艦を派遣するぐらいの海軍力のあった日本の遣唐使船が、なぜあんなにチャチなつくりで、頻繁に沈没するのかも謎です。
by 降龍十八章 (2007-12-13 13:10) 

bit

遣唐使船がよく沈んだのは、663年白村江の戦い以降、朝鮮半島経由のルートを採らなかった(政治情勢が変わり採れなかった)からでは。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF#.E8.88.AA.E8.B7.AF.E3.81.A8.E9.81.A3.E5.94.90.E4.BD.BF.E8.88.B9
by bit (2016-12-19 02:25) 

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