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No298 倭文神社はなにを教えてくれるか [日本の歴史]

倭文神社は、全国に14社存在します。この神社は織物に関係がある神社です。このことは、No292で記しました。ただ、全国にある倭文神社の所在地だけです。
倭文神社は、「しとり」「しずり」と読まれます。「しず」「しつ」と付く地名は、絹に関係があったのではと推察しています。
 大きいところでは静岡です。静岡は、賤機山から取られたと言われています。「賤」という字は、「いやしい」と読み、あまり良い意味ではありません。それでも取り入れたということは、明治の人は、賤機山が絹の機織(はたおり)と関係があったことを知っていたのでしょう。滋賀県には賤ヶ岳(しずがたけ)が有ります。麓の大音(おおど)では、現在でも絹糸が作られており、三味線の糸の製造が行われています。
http://homepage2.nifty.com/onsa/archv_shamisenito.pdf
鳥取県に志津があります。ここには倭文神社があります。茨城県那珂市静に静神社があります。
http://www.genbu.net/data/hitati/sizu_title.htm

地名は調べていません。どなたかが、全国規模で調べていただければ、有り難いです。

以前に、「倭」という漢字のことを考えたことがあり、文章にしました。もう一度、書いてみます。
倭を分解すると、人と禾と女になります。
①禾は、あわ。いね。禾科(カホン)の植物、または穀物の総称と辞書にあります。
象形文字で、しなやかに穂がたれた低い粟の姿から出来た文字です。
②禾に女が加わり、委です。しなやかに力なく垂れる様子。
  委は字音は、い(ゐ) 意読は、ゆだねる(ゆだぬ)/ まかせる(まかす)/ すてる(すつ)/
  おちる(おつ)/ すえ(すゑ)/ つまびらかに
  意味---カシオのEX-wordには
ゆだねる(他人のいいなりになる)。 / まかせる(なりゆきのままになる)。
すてる(手を離してほっておく)。 / おちる(ためておいてある)。
曲がりくねったさま。 / すえ(曲がりくねった端)
つまびらかに。細かい末端まで。
「字通」には-
委は稲魂を被って舞う女の形で、その姿のしなやかなさまをいう。--形声
意味はしたがう、低い姿勢。/ 倭遅は、はるかに連なるさま/ わが国の古名。

同声には、萎、痿、逶、があり勿論、すべて「い」と読み、すべて意味は、しなだれて、ぐんにゃりしているさまです。
「矮」――「わい」意味は、短くて曲がっているさま。
中国でも、「倭」を使った熟語は、少ないらしく、「倭遅」しか掲載されていません。
中国の資料に掲載されているのは、「倭奴」「倭寇」「倭種」「倭漢」「倭刀」「倭人」
とあり、すべて、倭の字は、日本の意味で使われています。案外、「倭」の字は、日本人を現すために作られた漢字かも知れません。

③委に人偏がついています。倭になります。
漢和辞典をひきますと、字音は 「わ」と「い」です。
「名付け」として、 かず しず まさ やす やまと が掲載されています。慣例として、このようにも読むということです。 倭を「やまと」と読むのは、知っていますが、字典には、「わ」と「い」だけです。 倭文と書いて、「しとり」「しどり」「しずり」と読みます。別の漢字で書きますと、静織(しどり)です。

  呉織と漢織と書いて、「くれはとり」「あやはとり」と読みます。呉は「くれ」漢は「あ
や」ですから、織は「はとり」と読むことになりますが、漢和辞典では、「しき」「しょく」「おる」しかありません。
この二つは、呉の国の織物・漢の国の織物という意味でしょう。倭文は倭の国の文(織物)という意味になります。
ただ、日本書紀の応神天皇の37年春のところに、日本からの求めに応じて「呉の王は、工女(ヌイメ)の兄媛・弟媛・呉織・穴織の四人の婦女を与えた」という記事が載っています。大阪府池田市に呉服(クレハ)神社があり、「呉織・穴織」の二人が祀られていますから、記事に見られることは実際にあったと思われます。となりますと、「呉織」は、工女の名前ということになります。
  このようなことから、元々、絹のことを日本では、「しづ、又は、しつ」と読んでいたのではないでしょうか?  
そこで、中国人が、日本の絹織物ということで、「倭文」と書いたのでしょう。 このように考えないと、
「倭文」を「しとり」とは読むことは出来ません。

さて、愈々、本論です。国譲り(アマテラスがオオクニニシに国を譲るよう命令する)は、高天原から、葦原中国に征服者が移動したと受け止められています。高天原は、地上に存在するのではなく、天上界にあるものとされています。葦原中国は、どこか良くわからないことになっています。国譲りの交渉は、最終回には、出雲のイナサノオバマで行われました。それは、何処だといいますと、出雲大社から少し、西へいきますと、海岸に出ます。ここが、稲佐の浜ということになっています。
 これは、日本書紀に、そのように書いてあるから浜に名前をつけたのでしょう。国譲りの交渉が行われたときは、まだ、出雲大社はありません。このような淋しい所の浜に名前がついていたのでしょうか? おかしいことだらけですが、どの本を読んでも、定説のように書いてあり、読んだ皆さんも信じておられるようです。
 日本書紀を読んでください。国を譲ったオオクニヌシは、自殺(?)したことになっています。勿論、出雲大社などは建ててもらってはいません。しかし、多くの方は、大社のことは古事記に書いてあるから、補って、大社を建ててもらって、現在でもあることにしています。 長くなりましたので、次回に続きを書きます。


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