No356 邪馬壹国と邪馬台国 [日本の歴史]
「No354 夜麻登と大倭と倭と日本と大和 」はいかがでしたか? 「ヤマト」という読み方のものを並べました。もう一つあります。邪馬壹です。これも「ヤマト」です。
中国の歴史書である魏志倭人伝には,中国の帯方郡という所から、12000余里離れた所に、卑弥呼という女王が治めている邪馬壹国があることを記しています。西暦で言いますと、238年頃のことです。当時の中国では、この「邪馬壹国」をどのように読んでいたか判りませんが、現在の日本人は、「ヤマタイコク」と読みたい方が多いようです。私は、No354とNo355のことから、「ヤマトコク」と読みたいのですが、無理のようです。
「ヤマタイコク」と読みたい方は、魏志倭人伝を書いた陳寿と言う人が、「邪馬壹国」と書いた「壹」という字が、「臺」であったものを書き間違がったのであろうと決めて「邪馬臺国」と読むことにしました。「壹」は「壱」と字の異字です。「臺」は「台」と言う字の異字です。そこで、現在は、邪馬壹国のことを邪馬台国とかいて、「ヤマタイコク」と読ませています。
もし、陳寿が間違っていなかったとしますと、邪馬壹国は、邪馬壱国と表示されます。
これですと、「ヤマイッコク」としか読むことが出来ません。「壹」の字の士の部分の下に、口を入れた字が「臺」ですから、漢字を陳寿が間違った可能性はありますが、陳寿は日本に来たことがないのですから、誰かから聞いたことになります。
日本人が、日本には多くの国があるが、邪馬壹国という国があると言ったとしますと、それは誰であるかは、記録にありませんから不明と言うことになります。記録に残っているものから誰が魏の国に伝えたかと考えますと、238年に倭の女王が大夫である難升米らを魏の国に使わしたと、魏志倭人伝に書いてありますから、難升米から伝えられたと考えると無理がありません。
難升米が卑弥呼の部下であれば、大切な事ですから古事記か日本書紀に残っていても良いのですが、日本には難升米も卑弥呼の名前も残っていません。
おかしなことだと思われませんか? 中国の歴史書に卑弥呼と書いてあるから、卑弥呼は居た。では、卑弥呼とはだれであるか? 判らないのに、卑弥呼の墓は、奈良の桜井の箸墓古墳であるとか、無いとか多くの方が語っておられます。日本の記録には、邪馬壱国など残っていないのに、これは陳寿が書き間違ったから、本当は、邪馬台国と書くのだ。
では邪馬台国は何処にあるのかと言いますと、魏志倭人伝に邪馬壱国へ行く順序が書いてあるので、その文章の解釈によって、邪馬台国は九州であったり、奈良であったり、四国であったりします。
「又日子坐王をば、旦波国に遣はして、玖賀耳之御笠を殺さしめたまひき」これは、古事記の崇神天皇のところに書かれている文章です。
日子坐王は、古事記では開化天皇の子で崇神天皇の弟とされています。
日本書紀にも崇神天皇が、丹波に丹波道主命を派遣したとあります。同じ崇神天皇の御世ですし、丹波のことですから、日子坐王と丹波道主命は同一人物のようです。古事記では、玖賀耳之御笠を殺したとありますが、日本書紀では書いてありません。時代から推察しますと、当時、旦波国にいたのは、卑弥呼であり難升米であったのではないか? 玖賀耳之御笠と難升米は、同一人物ではないかという疑問を、「新しい日本の歴史」の№110~126までを使って書いています。
まとめますと、
① 崇神天皇が、200年頃の天皇である立証
② 崇神天皇のことを述べるために、神武天皇がいつ頃の人かを述べました。
③ 魏志倭人伝は、歴史書ではなく、難升米からの軍事報告書であったこと。
④ 卑弥呼は女王どころか、京都府の大江町で、現在の伊勢神宮が出来る前に、元伊勢と呼ばれている皇大神社で、アマテラス大神をお祀りしていました。だから、卑弥呼(日巫女)です。
⑤ 卑弥呼は、難升米によって、捉えられていました。卑弥呼は、崇神天皇と同じ母を持つ、妹である御真津比売です。この卑弥呼を助けるために、崇神天皇は、腹違いの日子坐王を救出に派遣します。
⑥ しかし、その前に卑弥呼は、玖賀耳之御笠によって殺されます。この事実は、魏の国に伝えられて、陳寿は、「卑弥呼以死 大作塚径百余歩 徇葬者奴婢百余人」と簡単に記されました。
「難升米と玖賀耳之御笠は同一人物」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page738.html
は、No117 です。この前後を読んでください。
難升米は、魏の国が派遣したスパイであろうと推察しています。その根拠は「難升米と玖賀耳之御笠は同一人物」の前後を読んで頂きますと、うっすらお判り願えるのではないかと思います。魏志倭人伝に、陳寿は卑弥呼が魏の国に部下である難升米が使いにだしたように書いていますが、難升米に軍旗を渡したことが記されています。日本における司令官に任命したことになっています。
この頃の崇神天皇は、身に危険が迫っていましたから、奈良と備前の大倭を行き来していました。そして、狗奴国には、日子坐王が居ました。 そして、国の行政を行うところは、現在の古都で崇神天皇の伯母さんである夜麻登登母母曾毘売命が実務を取り仕切っていました。
魏の国との外交は、丹後の卑弥呼を通じて行われていました。
では、何故 卑弥呼が大江町のようなところでアマテラス大神をまつっていたのか? なぜ、卑弥呼が大江町で外国からの人を受け入れていたのか。説明されなければならないことは一杯です。
そのことを知るために、丹後から上陸した中国人は、由良川を遡って、綾部市、丹波、園部、亀岡そして、京都へ。一方、九州から上陸した呉の国の人は、漢の時代の人たちと共に、河内、奈良、山城、城陽と勢力を広めたはずだと、中国に関係ありそうなところは、訪問して、記してきました。
「新しい日本の歴史」のNo127~170辺りまでです。それぞれの文章は、関係が無いために、読んでいただいてもよく理解できなかったのではないかと思いますが、中国の為政者がどのように変わっても、中国人は日本の絹なしでは、国が成り立たなかったのではないかと思われます。
中国人は、モンゴルの人や匈奴は脅威で、長城の建設は、ずっと、続けられたと思われます。それでも、防ぐことができなかったこともありますが、彼らは、モンゴルの人や匈奴の馬には、どうしても勝てなかったという話をどこかで聞いた記憶があります。そのため、恐れながら、貿易は行われていたようです。そのとき、馬と交換に絹が使われていたというのも聞いたことがあります。では、中国のどこで絹が取れていたのかと言いますと、記録はあまり無いのではないかと思っています。日本から手に入れた絹が重要であったのではないでしょうか? これからの研究課題です。
そして、天皇家と血縁関係を結ぶことによって、平和的に、絹をつくり、販売・運搬する機構を作り上げます。645年に、元号を制定、国の機構を中国風に改め、大化改新を行います。
日本を支配下に置くことに成功しますが、それに反抗したのが、天智天皇です。天智の野望は、朝鮮の白村江で打ち砕きます。中国は、郭務そうという名の占領軍司令官を日本に派遣し、傀儡政権の樹立をもくろみますが、壬申の乱で、天武天皇に負けてしまいます。
中国人と天皇とは、互角であったと思われますが、天武天皇は、暗殺の手が近づくのを知り、古事記の編纂を命令します。しかし、そのときは、既に、遅くて天武天皇は暗殺され、712年に完成された古事記は没収され処分されてしまいます。古事記に代わって、これが正しい日本の歴史書というべき、日本書紀が720年に完成します。すべてを完成させた藤原不比等は、日本書紀の完成を見たか見なかったか判りませんが、死んでしまいます。その後、藤原氏の栄華が続いたことは、誰でも知っている事です。
上手く書けませんが、駆け足で、歴史の流れを書きました。しかし、初めて読まれた方は、何故の連発になると思います。間をうめていくのが、これからの仕事です。
いまは、岡山県のことを調べていますので、次回から、又、岡山県に戻ります。
郭務そうは占領軍司令官のことは、 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page789.html
天武天皇は、暗殺の手が近づくNo265 http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/2006-06-30
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