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No192 籠名神社祝部海部直氏系図 [日本大好き]

京都府の天橋立のところにある籠神社に、籠名神社祝部海部直氏系図なるものが残されています。

「海部氏系図」には、下記の二種類のものがあります。
A『縦系図』---歴代の名前を縦一列に記した系図
B『勘注系図』----注釈が入って詳しい系図

 奈良時代初期の『記紀』の完成より百年も前、聖徳太子や蘇我馬子らが国史の編纂を企画して、諸国の豪族から家伝の歴史を集めたことがありました。この時、饒速日命の子孫で丹波国の豪族で、国造でもあった海部家の海部直止羅宿禰が『丹波国造本記』なる一族の史書を編纂して朝廷に献上し、それとは別に似た内容の自家用をつくって保存しました。
 止羅宿禰の三代あとの養老五年(721)になって、これを数人で修選して『籠名神社祝部氏之本記』としました。これは『日本書紀』が編纂された翌年です。海部家としては、日本書紀に書かれていることが、自分達にとって、面白くなかったのかも知れません。

それから平安前期に、第三十二世の海部直田雄祝が勅命をうけ、過去の史料をもとに朝廷
に差し出すための自家の系図を作成し、『籠名神社祝部氏系図』と名づけて丹後の役所に提
出、同時に同じ内容の副本をつくってこれにも役所の丹後國印をうけて神社に保存しまし
た。
丹後國印は各宮司の上に押印されて、その数28個になりますが、薄く読みづらいものでしたが、昭和62年、村田正志氏の鑑定により、丹後國印の四文字であることが確認されました。この系図のはじめに、丹後国与謝郡従四位下籠名神と記されていますから、従四位下になった貞観十三年(871)から従四位上に昇格した元慶元年(877)の間に、系図が作られたことが判ります。これがA『縦系図』です。
丹後國印の印があるということは、重要なことで、この系図が西暦870年台に作られたことが間違いないということです。
一番の問題点は、第四世から第十七世までが抜けていることです。抜けたのではなくやはり、書きたくなかったのでしょう。この第四世から第十七世にかけての時代は、大和朝廷でいえば〈倭迹迹日百襲姫命〉や崇神天皇の時代前後に相当していますし、『魏志倭人伝』でいえば〈卑彌呼〉の時代とその前後に相当しています。

是に対して、B
第三十三世の海部直稻雄が、仁和年中(885~889年)に、それまでの《籠神社》の秘史をもとにして『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』なる詳しい説明つきの系図をつくりました。それが伝わっている『勘注系図』です。これには、『縦系図』で抜けていた大和朝廷確立期の海部氏の先祖(つまりは〈饒速日命〉の子孫)のことも記されています。このように、『勘注系図』は『縦系図』より詳しいですが、写本ですから、現存のものは、江戸時代初期のものと言われています。だから、初めに作られたときと内容が異なっている可能性はあります。
その内容は、『古事記』『日本書紀』などとはかなり違っていて、海部氏と遠い親戚の物部一族が編纂したとされる『先代旧事本紀』に似ているそうです。例えば、大和朝廷の神武天皇と張り合った〈饒速日命〉の子孫を重要視しているそうです。

このような事から、徳川光圀が有名な『大日本史』の編纂を計画したとき、この『勘注系図』の存在を知って見たいと申し入れましたが、断ったとの話もあり、昭和51年まで公開されることはありませんでした。海部氏が、天皇家と同じ祖先であるということを自分から言い出すのは、恐れ多いことであるような文章が『古代海部氏の系図』金久与市著に書かれていますが、偽書と言われてはいますが、『先代旧事本紀』などと平行して読みますと、朝廷の正史を書き換えるもので、時代によっては、発表しておれば、取り潰しにあっていたと思われます。
 私の講釈など聞いても仕方がありませんので、次回には、その内容の一部を書いてみます。


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コメント 3

せいすいえいこ

突然失礼いたします。ウィキペディア「海陽町」歴史項目の書き込み者です。(旧海部町含む)

「海部但馬守は1352(正平7)年に細川顕氏(あきうじ)によって、山城国久世荘の乱暴人を排除するよう命じられた。(国宝「東寺百合文書」による。)」という、平成7年版「海南町史」からの文があります。

阿波海部は、徳島県南端ですが、1445年には兵庫から京都へと、多量の木材を搬入していたらしいです。それからすると、ここに出てくる海部氏が郷里海部氏であっても不思議ではないような気もしますが、海部は、他に丹後・尾張・紀伊・豊後などにもあります。これらについての検証もないと、確かさがはっきりしません。

1352年の東寺百合文書の記事が丹後海部氏でないと言える理由には、どのようなものが考えられるでしょうか。それとも、丹後海部氏である可能性もあるのでしょうか。

検索でこのホームページを見つけましたが、私の疑問の答に該当する部分がわかりませんでしたので、ご迷惑とは思いましたが、メールしました。よろしくお願いいたします。
by せいすいえいこ (2008-01-14 12:40) 

vetty

海部氏のこと---せいすいえいこへ
残念ながら、私には回答する知識がゼロです。
ただ、どうして、海部氏のことを載せたかと言いますと、乗せて置きますと、いつでも見ることが出来るからです。「古代海部氏の系図」から見ますと、現在の天皇家よりも上に立つようなことが書かれていることになります。しかし、私がこれまでに、調べてきたことから推察しますと、籠神社は、元伊勢だと言っておられますが、そうではないような気がしています。(私は大江町の皇大神社と思っています) 一方、籠神社に居た人は、中国から来た人ではないか(根拠なし)。そして、彼らは、綾部、丹波、山城へ進出したものと、亀岡から豊能町へ抜けて、茨木、そして、河内一帯に住むことになったと推察しています。
しかし、この仮説が、証拠を書きながら、皆さんの前に書くことが出来るのは、何時のことやらです。
あちこちに見られる周溝墓は、すべて、彼らのものではと思っていますが、そうなりますと、生駒の大阪よりの麓は、すべて、彼らが住んでいたのではないかと想像しています。
それゆえに、仁徳御陵などは、あのような大きな古墳を造って自分たちの力を見せつけたのではと思っています。
 このように考えますと、1352年の東寺百合文書の記事が丹後海部氏でないと言える理由には、どのようなものが考えられるよりも、丹後海部氏である可能性もあるのことになると思います。話は、違いますが、今は、伊勢を調べていますが、どんどん、中国人の勢力が強くなっているような気がしています。最終的には、全国、どこも藤原氏によって、征服されたと考えています。 (こんな話、認めて貰えることはあるのでしょうか)。また、海陽町を読ませて貰います。
by vetty (2008-01-17 17:46) 

曲学の徒

完成しておりませんが私の勘注系図の研究です。
ご批判賜れば光栄です。
by 曲学の徒 (2011-08-19 23:27) 

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