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No334 古事記に書かれていた天武紀 [日本大好き]

タイトルは、「古事記に書かれていた天武紀」としましたが、古事記には、天武紀どころか、推古天皇までしか書かれていません。推古天皇はかかれてあるとは言うものの、50字にもおよびません。仁賢天皇以後は、書かれているものの、内容は乏しいものになっています。
 
 こんなことを言い出した人は、今までになかったと思います。古事記と日本書紀は、両方とも天武天皇が、作るよう命令したことになっています。ところが、古事記は、偽ものであるという学者が優勢らしく、日本書紀に書かれていることのほうが、正しいと考える人が多いらしいです。
壬申の乱については、古事記には、全く書かれていません。天武天皇が、命令したのですから、古事記には、天武天皇のことが、最も、正しく、分量も沢山書かれていてもおかしくありません。壬申の乱のことどころか、天武天皇のことも書いてありません。そのあたりが、古事記の偽物説がでてくるところでしょうか?

全く、古事記に書かれていないのはまだしも、判りますが、日本書紀に、詳し過ぎるほど書かれていることが納得いきません。私とすれば、人間、言い訳が過ぎるときは、言い訳しなければならないことを表現していると思っています。
 
 では、どのように考えたら良いかといいますと、古事記には、天武天皇の御代まで、詳しく書いてあったと考えています。古事記は、712年に完成したことになっていますが、記録に残っているところでは、400年経過してから、写本が見つかっています。何冊か見つかっているそうですが、当然、すべてを比較研究して、原の古事記はどのようなものであったの研究はされたと思われます。しかし、専門的すぎるためでしょうか? 素人の私の目には触れません。

 これほど長い年月が経ってから発見されたということは、代々、隠すことが受け継がれてきたのではなく、隠さなければならないことを知っている人も居なくなっていたのではないかと思われます。そこで、偶然、発見された可能性はあります。
 最も古いものは、真福寺本という写本ということになっています。写本ということは、写す元になった本があったはずです。それが、太安万侶が書いた原本だったのか、その原本を写した写本であったのかは、判りませんが、その元になる本は残っていません。

 ただ、古事記は、400年後に見つかったのですが、それ以前に見つかったらしきことが、
「弘仁私記」という書物に書いてあるそうです。 この本は、812年に多朝臣人長という人が書いた本です。
日本書紀は、できてから後、月日が経つにつれて難解なものとなったのでしょうか、それとも、日本史を勉強するときの教科書として日本書記を使って、講義が行われていたそうです。
「弘仁私記」はそのときの講義録らしいです。
「弘仁私記」を直接みたことは無いのですが、古事記ができてから、100年目に当るときの講義のときに、多朝臣人長は古事記の話をしたようですが、評判が良くなかったようで、古事記を擁護するような内容を「弘仁私記」に書いているそうです。
 多朝臣人長と太朝臣安麻呂は直接のつながりは無いかも知れませんが、100年ぶりに古事記を実際に目にしたのでしょう。同じおお族の一員として、太安万侶の自慢話でもしたのかも知れません。その広義の内容は、ある書物によりますと、日本書紀より、古事記についての方が、量が多いらしいです。そのことから考えますと、同じおお族として、100年も古事記が隠され、ほおって置かれた古事記のことを書かずには居れなかったのでしょうか?

 勿論、このことで、古事記があることは知れることになりましたが、没収されたのでしょうか? 古事記は見ることはできなくなりました。
その後、愛知県の真福寺という寺に保存されていた古事記の写本を本居宣長門人でもあった尾張藩士の稲葉通邦が発見します。1371年に真福寺の僧・賢瑜(けんゆ)が写したものが現在の残っている最も古い「古事記」の写本です。多朝臣人長が古事記を見つけてから、実に560年後にはじめて世の中に出たことになります。
この真福寺本といわれる写本には、奥書が付いていて、
弘長三年五月廿七日記之
    正二位行権大納言兼右近衛大将藤原朝臣在判
とあり、この人が写本をしたのでしょう。
(正二位行権大納言兼右近衛大将藤原朝臣は、藤原通雅のことだといわれています)

よく調べていませんが、どうして藤原氏は、古事記を捨てないで写したのでしょう。もし、独断が許されるなら、奥書を書いた藤原氏は、いろいろの所に手を加えたか、都合の悪い所を削除したのではないかと考えました。そして、完成後、原本は捨てたのでしょう。
 
 その根拠となるものは、真福寺本中巻奥書にあります。
 その一部を記します。
「本云此書難得之由人以称之就中於中巻諸家旡之只在鴨院
文庫云々而不慮得之好文之到歟自愛之其時?1煩虐病宿執之餘
予自校之深納函内恥莫外見更    弘長三年五月廿七日記之
    正二位行権大納言兼右近衛大将藤原朝臣在判

文永十年二月十日被召大殿御前御雑談之次此中巻事取被出
本自所持之由中入之條頗無念之間年来不審之趣言上畢
而同十二日以女房奉計傳菅二品良頼卿迄下賜御本紙?2家門之
而目何事加旃哉神之冥助也君之高恩也君之宜為後昆稽古之計
即加校合同十四日朝付二品返上畢
正議大夫卜   在判

本云
 弘安五年九月一日申下一條殿御本書写畢可秘蔵々々
                   祭主 在判
其時?1煩虐病宿執之餘 のうち、国文大系では、〔其〕は、〔于〕と
している。 意味は、「~に於いて」「~に」 
 ?1は 人偏に棄の字に読めますが、国文大系では、「僕」としています。「虐」は、「瘧」としています。

「其時?1煩虐病」の部分ですが、明らかに、?1の部分は、人偏に棄の字に読めます
が、国文大系では、「僕」と読んでいます。そう読みませんと、意味が通らないからでしょう。では、「其時僕煩虐病」としてもどのような意味なのか判りません。「虐」は、「瘧」
と読むことにしています。「瘧」は「おこり」ということになり、腎臓病だそうです。意味が判らないからと言って、勝手に漢字を変えて、病名を変えるのは、どうかと思います。
人偏に棄の字という字は、存在しません。 「其時僕煩虐病」その時に、虐病という病気を煩っていたらしいですが、人偏に棄の字という字をどうして作ったかと見るほうが、正しいのではないでしょうか? そのような病気なのに、部屋に籠って、本を写しましたとかいたのではないでしょうか?
誰にも判らない病気を書きました。「私は仮病を使ってかきました」とふざけたのではないでしょうか?
?1 は、人を棄てたと、藤原朝臣在判はかいたのではないでしょうか?

兎に角、古事記の原本には、藤原不比等にとって、都合の悪いことが書いてあったから、712年から、僅か、12年後に、日本書記が完成しました。古事記は、残って貰っては困りますから、藤原不比等は、古事記を没収したと推理されます。 
この時に、古事記に手を加えたのであれば、その後、そのまま、世の中に通用していても良かったはずです。
その後、無くなったということは、改竄されずに、処分されたと思われます。しかし、実際には、400年後に見つかりましたから、藤原氏にとっては、誰が読んでも、古事記は、そのままでは困ったはずです。日本書紀は、藤原氏にとって都合の良いように書かれていましたから。

 どれほど、日本書紀を作るために、藤原不比等は苦労をしたかは、別の機会に示したいと思います。

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