No445天孫降臨(18) 倉吉の近くの神社 [日本大好き]
倉吉の近くに、次の神社があります。
倭文神社 東伯郡舎人村宮内
祭神 建葉槌命、下照姫命(下照比売)、事代主命(事代主神)、建御名方神、
少彦名命(少名毘古邦神)、天稚彦命(天若日子)、味耜高彦根神(阿遅志貴高日子根神)
倭文神社 東伯郡北谷村志津
祭神 経津主神、武葉槌命、下照姫神、伊弉諾命、伊弉冊神、誉田別命、国狭槌尊
波波伎神社 東伯郡日下村(倉吉市) 福庭
祭神 事代主神、下照姫神、天稚彦神、建御名方神、味耜高彦根命(阿遅志貴高日子根神)
狭依比売命、多紀理比売命、多岐都比売命
この三社は、すべて、式内社です。 伯耆国には、式内社が6社しかありません。
次のページで確認してください、
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page279.html
式内社は延喜式という法律書の中の神社についてかいてある所に掲載されている神社です。朝廷から幣帛料を授かる由緒ある神社であるとされていますが、殆どの神社には、皇祖神であるアマテラスが祀られていません。また、書かれてある祭神が、日本書紀に書かれてある神の名前と同じであることから、日本書紀を編纂した藤原氏が式内社の祭神を無理やりに書かされたと推理しています。
表現を変えますと式内社は、藤原氏の支配下にあったと思われます。それは、8世紀~9世紀頃に、確定したのではないでしょうか?
上に書きました三社は、天孫降臨の時ではありませんが、8世紀~9世紀頃には、存在したのではないかと思っています。
倭文神社という神社は全国に、14社あります。織物に関係がある神社です
【298 倭文神社はなにを教えてくれるか 】に書いておきました。
その内、丹後に2社、伯耆に2社あります。伯耆は、それだけ重要であったことになります。倭文神社があった国は次の所で確認してください。
【No292 秩父の絹が吉野ヶ里まで】http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-01
この14社の地域を中心に、絹が移動していたと考えていいと思います。
二つの倭文神社の前に、波波伎神社の祭神をご覧ください。味耜高彦根命以外は、すべて、古事記に書かれてある神の名前です。
波波伎神社は、式内社ですのに、藤原氏の命令を聞かなかったか、その後、いつか元の名前に書き換えたかです。最も、多紀理比売命は、古事記では、多紀理毘売命と書かれていますが、日本書紀では田心姫と全く異なりますので、古事記の表示ということにしました。
このような状態ですから、式内社に指定したものの、波波伎神社辺りの住民は、藤原氏の言うことを聞かなかったか知れません。
歴史資料3 波波伎神社 県社 式内社 http://asilka.blog61.fc2.com/category4-2.html
倭文神社を眺めてください。
宮内にある倭文神社は、建御名方神を除いて、すべて、日本書紀に書かれている表記の仕方です。藤原氏に言われた通りに、祭神の名前を書き換えました。
注目して頂きたいのは、建葉槌命と武葉槌命と経津主神です。
先ず、建葉槌命と武葉槌命です。 これは、きっと、「タケハツチノミコチ」と読むのだと思います。日本書紀には、武甕槌と書いてあります。「命」は両神社ともつけて、袼をあげました。精一杯の抵抗をしたのでしょうか?
もう一つは、経津主神です。読み方はフツヌシノカミと思われます。
日本書紀では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのはフツヌシであると記されています。そして、フツヌシは香取神宮で祀られている神です。
武甕槌命と経津主命、は、藤原氏の守護神です。
志津に鎮座する倭文神社は、式内社に指定された時に、藤原氏の守護神を祭るように命じられたと思います。神派、いつの日か、武甕槌命を武葉槌命に書き換えて抵抗したのではないでしょうか?
この三者を持ち出しましたのは、ここに書かれてある祭神は、すべて、天孫降臨のときにも登場する神だからです。
葦原の中ツ国を明け渡した大国主命は祀られていませんが、事代主神は、大国主命主が一番に、どの様に返事をするだろうかと云って、挙げた名前の息子です。
経津主神、武葉槌命がダメ押しに交渉に出かけましたら、上手く交渉が成立しましたが、
建御名方神が、最後に抵抗するので、武甕槌命と勝負になり、建御名方神は負けて、諏訪まで逃げたことになっています。
日本書紀と古事記と式内社と天孫降臨を、ごちゃ混ぜに書きましたが、このようなことから、天孫降臨は、伯耆の国で行われたのではないかと推理しています。
倭文神社 東伯郡舎人村宮内
祭神 建葉槌命、下照姫命(下照比売)、事代主命(事代主神)、建御名方神、
少彦名命(少名毘古邦神)、天稚彦命(天若日子)、味耜高彦根神(阿遅志貴高日子根神)
倭文神社 東伯郡北谷村志津
祭神 経津主神、武葉槌命、下照姫神、伊弉諾命、伊弉冊神、誉田別命、国狭槌尊
波波伎神社 東伯郡日下村(倉吉市) 福庭
祭神 事代主神、下照姫神、天稚彦神、建御名方神、味耜高彦根命(阿遅志貴高日子根神)
狭依比売命、多紀理比売命、多岐都比売命
この三社は、すべて、式内社です。 伯耆国には、式内社が6社しかありません。
次のページで確認してください、
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page279.html
式内社は延喜式という法律書の中の神社についてかいてある所に掲載されている神社です。朝廷から幣帛料を授かる由緒ある神社であるとされていますが、殆どの神社には、皇祖神であるアマテラスが祀られていません。また、書かれてある祭神が、日本書紀に書かれてある神の名前と同じであることから、日本書紀を編纂した藤原氏が式内社の祭神を無理やりに書かされたと推理しています。
表現を変えますと式内社は、藤原氏の支配下にあったと思われます。それは、8世紀~9世紀頃に、確定したのではないでしょうか?
上に書きました三社は、天孫降臨の時ではありませんが、8世紀~9世紀頃には、存在したのではないかと思っています。
倭文神社という神社は全国に、14社あります。織物に関係がある神社です
【298 倭文神社はなにを教えてくれるか 】に書いておきました。
その内、丹後に2社、伯耆に2社あります。伯耆は、それだけ重要であったことになります。倭文神社があった国は次の所で確認してください。
【No292 秩父の絹が吉野ヶ里まで】http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-08-01
この14社の地域を中心に、絹が移動していたと考えていいと思います。
二つの倭文神社の前に、波波伎神社の祭神をご覧ください。味耜高彦根命以外は、すべて、古事記に書かれてある神の名前です。
波波伎神社は、式内社ですのに、藤原氏の命令を聞かなかったか、その後、いつか元の名前に書き換えたかです。最も、多紀理比売命は、古事記では、多紀理毘売命と書かれていますが、日本書紀では田心姫と全く異なりますので、古事記の表示ということにしました。
このような状態ですから、式内社に指定したものの、波波伎神社辺りの住民は、藤原氏の言うことを聞かなかったか知れません。
歴史資料3 波波伎神社 県社 式内社 http://asilka.blog61.fc2.com/category4-2.html
倭文神社を眺めてください。
宮内にある倭文神社は、建御名方神を除いて、すべて、日本書紀に書かれている表記の仕方です。藤原氏に言われた通りに、祭神の名前を書き換えました。
注目して頂きたいのは、建葉槌命と武葉槌命と経津主神です。
先ず、建葉槌命と武葉槌命です。 これは、きっと、「タケハツチノミコチ」と読むのだと思います。日本書紀には、武甕槌と書いてあります。「命」は両神社ともつけて、袼をあげました。精一杯の抵抗をしたのでしょうか?
もう一つは、経津主神です。読み方はフツヌシノカミと思われます。
日本書紀では葦原中国平定でタケミカヅチとともに降ったのはフツヌシであると記されています。そして、フツヌシは香取神宮で祀られている神です。
武甕槌命と経津主命、は、藤原氏の守護神です。
志津に鎮座する倭文神社は、式内社に指定された時に、藤原氏の守護神を祭るように命じられたと思います。神派、いつの日か、武甕槌命を武葉槌命に書き換えて抵抗したのではないでしょうか?
この三者を持ち出しましたのは、ここに書かれてある祭神は、すべて、天孫降臨のときにも登場する神だからです。
葦原の中ツ国を明け渡した大国主命は祀られていませんが、事代主神は、大国主命主が一番に、どの様に返事をするだろうかと云って、挙げた名前の息子です。
経津主神、武葉槌命がダメ押しに交渉に出かけましたら、上手く交渉が成立しましたが、
建御名方神が、最後に抵抗するので、武甕槌命と勝負になり、建御名方神は負けて、諏訪まで逃げたことになっています。
日本書紀と古事記と式内社と天孫降臨を、ごちゃ混ぜに書きましたが、このようなことから、天孫降臨は、伯耆の国で行われたのではないかと推理しています。
2008-10-12 05:19
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