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No512天孫降臨(85) 伯耆国の寺院11) 大寺廃寺(7) [日本大好き]

大寺廃寺から離れるのですが、大寺廃寺から少し、南西に行った所に、西伯郡南部町に
三崎という地名があります。この地名が、前回書きました三崎です。三崎は御崎だろうと書きましたが、三崎山の麓の海抜は、19mですから、岬では無かったかも知れません。ただ、地図で見る限りでは、道路がほぼ東西に走っており、十文字に交わっていますから、新しく出来た道路と思われます。三崎山(殿山)は海抜83mの山で、この真ん中に、殿山古墳があります。
http://map.gnavi.co.jp/search_ss.php?scl=25000&pg=10&nl=35.371258&el=133.355092&lk=31
殿山古墳は、三崎山頂にある山陰地方第一級の前方後円墳。全長約103m。東側の小高い後円部と、西側の低く細長い前方部からなる。

殿山古墳の東の鳥取県西伯郡南部町天万に、大亀塚古墳があります。
概要は、前方後円墳。全長53m、後円部直径33.4m。箱式石棺(現存せず)。前方部幅30m、後円部高さ5m。集成、古墳(前方後円墳)。<立地>丘陵上。<保存状況>石棺破壊。標高30m、水田からの比高15m、造出なし、集濠なし、墳長約53m、後円径約33.4m・高約5m、前方幅約30m・高約5m、後前高差±0m、葺石なし、(内部主体)箱式石棺(盗掘により石棺破壊)。

殿山古墳と大亀塚古墳を直線で結びますと、大山を通ります。
大寺廃寺と久古神社を結ぶ線も大山を通りましたから、これらの人工物は、同じ仲間が造ったと思われます。
天万のように地名に「天」が付くときは、天座、天津、天王があります。
丹波に天照大御神を祭る内宮(皇大神社)があり、しかも元伊勢と言われてきたことは、ここに最初に伊勢神宮があったことです。この真西に天座の地名があり、ここが御座所のあった所です。僅か、それだけのことでおかしいだろうと言われそうですが、ここも高千穂と同じ北緯の線上に並んでいます。天田郡にあるとか、周囲の状況から云えることになります。古代にニニギ命と天照大御神が連絡を取るには同じ緯度にあれば、探し易いことになります。

このように、古代の人は、地名を付けるときや基準になるようなもの決めるときには、このようにルールがあったとみなければ、偶然ではすませないと思われます。

 古事記と日本書紀に大物主のことが書いてあります。古事記には、「こは御諸山の上に坐す神なり」。日本書紀には「私は日本国の三諸山に住みたいと思う」とあります。奈良の三輪山などとは書いてないのに、なぜか、誰もが三輪山と考えておられます。
 どうして、このようなことになったのでしょう。
田村誠一氏は、御諸山は地名・三崎と諸木を結んだ先の山ですから、御崎と諸木で、御諸山と名付けられたのだと言われています。 この説ですと、三崎と諸木は、大山より前から存在していたことになります。
此れは、古事記を作る時に、稗田阿礼が、この辺り一帯にやって来て、久古、大殿に来て、久古神社の話とか、大寺廃寺の話も聞き、その裏山にある三島神社の溝咋姫のことも聞いたのでしょう。御崎の墓にも登ったでしょう。すると、大亀塚古墳の向こうに大山が見えたと思います。そのまま、大山と書きますと、判ってしまいますから、太安万侶は、「御諸山」と書いたのだと思います。三崎も御崎と書き換えました。
 日本書紀の作者は、古事記を見て、一字一句違わないように、書き換え、他の一書によればというような文章を加えることによって、伯耆の国のことは、訳が判らないようにしました。

 すぐ近くの西伯郡大和村大字小波字東岡畑に三輪神社があります。大山の麓になります。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page758.html
神社の由緒には、当神社創立は崇神天皇の御宇、大和国大神神社の御分霊を勧請せるものなりと云ふ、蓋し崇神天皇七年諸国病流行盗賊蜂起の際、国家鎮護の神として大物主命幸魂奇魂を諸国に遷し祀り、大田田根子命をして大神を祭ら給ひしこと旧史に見ゆ、当社は則ち其の一なりと云ふ、昔時今の社地を距る七町余東南の三輪山に鎮座ありて、其境内東西八町南北六町余三峰に分れ、・・・・・。 
 と書かれてあり、奈良から勧請したことになっています。これは逆だと思われます。

天孫降臨の際、最後の談判は「イナサノオバマ」で行われました。この場所は大物主が住んでいた伯耆の三輪神社がある大和村小波浜でした。国土地理院の米子の地図で、大和村(淀江)小波浜は壺瓶山が海にせまって砂浜でなくて岩場ですから、「否砂」です。この付近は日野川が流した砂のために遠浅で小さな波が立つので小波浜(オバマ)です。稗田阿礼はここを訪れて「否砂の小波浜」と表現しました、
 大和村の大は大典、大礼、大葬と同じで大王を意味し、講和の和との組み合わせて講和談判が行われた場所に相応しい地名です。「イナサノオバマ」で講和談判が行われたので大和村の地名がうまれ、地名が古代史を解いてくれる良い例です。
 大物主は大和村小波浜に住んでいるので、大物主が立会で、国譲りを推進した大物主は、漢族の不比等には好ましくない人物です。
 ここまでは、私の推理ではありません。田村誠一氏の推理です。
 太安万侶の策略にかかって、日本書紀の作者は、大物主のことは無茶苦茶に書きました。
古事記に惑わされたのではなく、大物主がユダヤ人であるのと、神武天皇と関係ある人をすへて、伯耆から消そうとしました。
 大物主のことで、すっきりと、説明出来る方は、学者でも一人もおられません。今後も、きっと、新しい説はでないと思います。
 三輪神社は、http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page731.htmlに収録していますが、西伯郡の神社は、まだ、すべてではありませんが、掲載した神社のある場所に、地図に印を付けてください。そして、一つずつ、丁寧に読みますと、どうやら、大殿から淀江に掛けては、紀元前1世紀~紀元後6世紀頃までの中心地であったことが判ります。
 その後、天孫降臨したと思われる倉吉の高千穂を中心とする所は、中国人に支配されることになります。そのため、741年の国分寺を建てるときには、国分寺跡のところに中津が移りました。そして、現在は、もっと、東へ移ったことになります。
 天孫降臨のときに、ニニギに従った人たちは、
鳥取県神社誌 東伯郡 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page727.html
に収録しています。現在でも、残っているということは、中国人に支配されたと言っても、心から従っていたわけではありません。

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