No519 天孫降臨(92) 伯耆国の寺院18) 日本で一番古い(5) [日本大好き]
廃寺がどうして生じることになったかと言いますと、人間がいなくなったからだと思っています。
では、住民全員がいなくなることはあるかということになります。
崇神天皇の御世に疫病が大流行して、国民の半分が死んだ記述が、古事記と日本書紀に書かれています。
古事記の原文は「この天皇の御世に、疫病起こりて、人民死にて尽きむとしき」の短い文章です。古事記は漢字ばかりで書かれていますから、元の漢字の文章は、「此天皇之御世役病多起人民死為尽」(役はにんべんです)のわずか15文字です。是だけの情報ですが、その後、天皇にとっては、大変なことであったことが、この後の記述から想像できます。
人民が死に尽きるほどですから、毒物や細菌では起こりえません。やはり、スペイン風邪のようなものであったと考えるしかありません。
日本の記録は是だけですが、189年に漢の元号が3回も変わっています。反逆・革命が起きても3回も変わることはないでしょう。188年から189年にかけてインフルエンザが発生して、日本に伝染したことになります。
こんな時代に中国と交流がないというのが、現在の日本の歴史学界の常識ですが、私は頻繁に交流があったと思っています。中国人は、紀元前200年から日本に来ており、この頃には瀬戸内海全域を占領していたのではないかと思われます。そのときの本拠地は吉備ではなかったかと考えます。
戦争ではなくても中国人に死者が多く出て、吉備に古墳が多い理由の一つにもなったと思われます。
朝鮮の古代史『三国史記』の新羅の193年に倭人が飢えて千人も渡来した記述があります。飢饉はいろいろの原因で起こりますから、192年に稲の作付けが出来なくて米の収穫が出来なかったから、193年は飢えたと考えますと、日本でインフルエンザが発生したのは、190年~192年の間と思われます。
国民の半分が死んだ記述は、ヤマトだけのことではなく、日本全体のことと思われます。
感染は、中国から来た人によって、もたらされたと思います。この頃は、中国から船でやってきますと、九州ではなく、山陰地方の海岸に着いたと思われます。淀江町の所は、中国からの港だった可能性があります。そのために、全員に近い人が感染したかも知れません。
192年に稲の作付けが出来なくて米の収穫が出来なかったから、193年は飢えたと考えますと、193年に倭人が飢えて新羅のへ千人も渡来した記述に一致するかも知れません。
ただ、その後の古墳時代には、沢山の古墳が造られていますから、寺を管理する人が、居なくなったのは、983年以降ということになります。
すぐ隣に、妻木晩田遺跡があります。こちらは、弥生後期に栄えた遺跡ですから、参考にならないかも知れませんが、一応チェックが必要と思われます。
では、住民全員がいなくなることはあるかということになります。
崇神天皇の御世に疫病が大流行して、国民の半分が死んだ記述が、古事記と日本書紀に書かれています。
古事記の原文は「この天皇の御世に、疫病起こりて、人民死にて尽きむとしき」の短い文章です。古事記は漢字ばかりで書かれていますから、元の漢字の文章は、「此天皇之御世役病多起人民死為尽」(役はにんべんです)のわずか15文字です。是だけの情報ですが、その後、天皇にとっては、大変なことであったことが、この後の記述から想像できます。
人民が死に尽きるほどですから、毒物や細菌では起こりえません。やはり、スペイン風邪のようなものであったと考えるしかありません。
日本の記録は是だけですが、189年に漢の元号が3回も変わっています。反逆・革命が起きても3回も変わることはないでしょう。188年から189年にかけてインフルエンザが発生して、日本に伝染したことになります。
こんな時代に中国と交流がないというのが、現在の日本の歴史学界の常識ですが、私は頻繁に交流があったと思っています。中国人は、紀元前200年から日本に来ており、この頃には瀬戸内海全域を占領していたのではないかと思われます。そのときの本拠地は吉備ではなかったかと考えます。
戦争ではなくても中国人に死者が多く出て、吉備に古墳が多い理由の一つにもなったと思われます。
朝鮮の古代史『三国史記』の新羅の193年に倭人が飢えて千人も渡来した記述があります。飢饉はいろいろの原因で起こりますから、192年に稲の作付けが出来なくて米の収穫が出来なかったから、193年は飢えたと考えますと、日本でインフルエンザが発生したのは、190年~192年の間と思われます。
国民の半分が死んだ記述は、ヤマトだけのことではなく、日本全体のことと思われます。
感染は、中国から来た人によって、もたらされたと思います。この頃は、中国から船でやってきますと、九州ではなく、山陰地方の海岸に着いたと思われます。淀江町の所は、中国からの港だった可能性があります。そのために、全員に近い人が感染したかも知れません。
192年に稲の作付けが出来なくて米の収穫が出来なかったから、193年は飢えたと考えますと、193年に倭人が飢えて新羅のへ千人も渡来した記述に一致するかも知れません。
ただ、その後の古墳時代には、沢山の古墳が造られていますから、寺を管理する人が、居なくなったのは、983年以降ということになります。
すぐ隣に、妻木晩田遺跡があります。こちらは、弥生後期に栄えた遺跡ですから、参考にならないかも知れませんが、一応チェックが必要と思われます。
2009-02-01 10:42
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