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No542 天孫降臨(115) 九州・立岩遺跡 [日本大好き]

又、九州の遺跡の話に戻ります。福岡市の須玖岡本遺跡と前原市の三雲・井原鑓溝遺跡群を前に見てきました。前漢の鏡が出土しているので、前漢の人が、九州にやってきて、住んでいたのだろうと考えましたが、それは違って、魏志倭人伝に書いてある伊都国だった所だと書いてあるものが多かったです。
 同じ資料を眺めるだけの判断ですから、どうしようもないなと思い、魏志倭人伝にかいてある【女王國の東、海を渡る千余里、また國あり、皆倭種なり、また侏儒國あり、その南にあり。人の長三、四尺、女王を去る四千余里。また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし。 倭の地を参問するに、海中洲島の上に絶在し、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかりなり】の部分のうち、「また裸國・黒歯國あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし」の裸國・黒歯國が、ニュージランドのマオリ族ではないかと提示しました。

 「船行一年にして至るべし」の文章は、ニュージランドに行くのに、一年掛るというだけの話ではありません。その事実が判ったということは、行って帰って来た人がいたから分かったということです。
 しかし、同じ、航海の方法で、No539 で【1975年12月13日、沖縄県本部半島で開催されていた沖縄国際海洋博覧会場に「チェチェメニ号はあらわれた。中央カロリン諸島(現在はミクロネシア連邦)のサタワル島を10月27日に出発して以来、ルッパン船長以下6名がミクロネシアの伝統航海術を駆使してこのシングルアウトリガー・カヌーをあやつの、48日間、3000キロメートルにおよぶ距離を乗り越えてやってきたのだ。」】と記し、一年もかからないことを見て頂きました。
 
 このようなことを云っても、須玖岡本遺跡や三雲・井原鑓溝遺跡群に埋葬された人が、中国人である証明にはならないようです。しかし、この調子ですべての遺跡・古墳を眺めていきますと、中国人と考えませんと、辻褄が合わないことになると思います。

 今回は、同じ福岡県ですが、立岩遺跡を見てみようと思います。
 いつもの様にデーターを記します。

立岩遺跡
所在地  福岡県飯塚市  遠賀川上流の嘉穂盆地の飯塚市に存する。
 1963年~1965年の調査で、43基の甕棺墓を発掘。
 その内、5基の甕棺墓から10面の前漢鏡を出土。 弥生中期後半の遺跡。
甕棺墓には、番号が付けられて、10号甕棺墓 棺内から
        漢鏡     6面
          重圏銘帯鏡    3面  15~18cm
          連弧文銘帯鏡  3面
        中細銅矛   1
        鉄剣      1
        鉄ヤリガンナ 1
        砥石      2


漢鏡 6面 が見つかった10号甕棺墓は、一つの墓から、6面も見つかっています。後の4面は、
一つの甕棺から、一つずつ見つかりました。
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page080.html
のWEBには、次の様な文章があり、書かれてある文字について分析を試みておられます。

〔合計10面の前漢式鏡が出土しています。その内容は連弧文鏡と呼ばれるものが5面、重圏鏡と呼ばれているものが5面で、何れの鏡にも文字が鋳出してありました。これらの鏡に鋳出してある文字には奇妙な特徴があります。出土した銅鏡にしばしば見られるような欠失や腐蝕等によって判読不能な部分はなく、文字自体は完全に読めるのですが、それらの文字を繋ぐと文として意味が通じないほど、文章としての文字の脱落が見られるものが含まれているのです。〕

書かれてあることにたいしては、私は知識がありませんので、興味のある方は、参考にしてください。
このWEBに書かれてあることで、私が興味を持ったことは、四つあります。
①西側の手に当たるのが背振山系で佐賀県との境をなしているのに対し、東側の手に当た
るのが福岡県の最高峰英彦山(1200m)を主峰とした英彦山山系で、大分県とを分
けております。また、福岡県はほぼその中央部を南北に連なる936mの三群山を主
峰とした三群山系によって東西に分けられます。三郡山系にはそれ程高い山はあり
ませんが、600m以上の山並みが続いておりますので古代においては山系に隔てら
れた東西の交通は現在考えるほど容易ではなかったと思われます。現在では6本の
道路が通じておりますが、裏を返せば30Kmほどの間隔に6本しか道がないというこ
とを見てもこの山系が古代に果たした役割(障害)が想像されます。

 と言うことは、三方、山に囲まれた遠賀川の上流にどうして、生活をしていたかという疑問です。WEBでは、その理由を「そのような袋小路のような場所からなぜ古代の優れた遺物が出土したのか、ということですが、嘉穂盆地は遠賀川によって外界と繋がるだけではなく、山に囲まれ条件的には厳しかったとは言え陸上交通の要衝でもあったと考えられるのです」と書いておられます。
②これらの鏡は、飯塚市教育委員会編による「立岩遺跡」報告書によると、2期も前漢中期(宣帝や元帝の時代:BC74~33)と断定されたと記しあります。しかし、その大切な鏡を20年ほど持っていたのであれば、埋葬された人々は、紀元後250年頃の人だということになります。それでは、何のために、2期も前漢中期の鏡だと断定したのか意味がありません。
③出土の状況を次のように述べておられます。
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page067.html

「34号と名付けられた甕棺の中からはほぼ完全な形の人骨が出土し、その右腕には14個のゴホウラ貝の腕輪が嵌めた状態で、又腹部からは鉄戈が、頭部からは前漢式鏡が出土しました。この人物は30歳前後の男性で身長は166cmと推定されています。当時としては大柄で、半島系の人物と考えられ、頭骨は形質的に現在の半島中部の人に近いようです。当時この地域を支配していた人物の出自を物語っていると思われます。

 また、ゴホウラ貝は沖縄付近を北限として南方の暖かな海に生息する貝で、そのつやのある綺麗な色や質感から古代では宝物とされていたようで、北部九州の弥生時代遺跡から多く出土しています。立岩遺跡からは合計83個という出土数の多さから見て、偶々何かの事情で手に入れたとは考えにくいと思います。この時代に、はるか離れた南海方面との交易ルートが確立されていたと考えて良いのではないでしょうか。北部九州にいた人々の交流は、大陸方面に限らず相当広範囲に及んでいたことが窺われます。」

④次は、絹のことについて「立岩から出土した剣や鉄戈などには絹の撚糸が巻かれていたり、平織の絹片が付着しているものがいくつか見つかっております。」と書いてあります。

この四つの見方は、賛成です。それぞれについて、私なりのコメントを付け加えようと思います。

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