No543 天孫降臨(116) 九州・立岩遺跡(2) [日本大好き]
さて、立岩遺跡に住んでいた人たちは、どうして、三方から山に囲まれた嘉穂盆地という奥まったところに住んでいたかと言うことです。古代は、殆ど、海岸線に住んでいたと思われます。とは言うものの、水がなければ生きていけませんから、河口に住んでいたと思われます。しかし、本当に河口ですと、川が氾濫する度に流されてしまいますから、少し、上流に住まいを定めたと思われます。
遠賀川の上流ですから、遠賀川にそって、地図を眺めてみようと思います。
右岸は北九州市です。左岸は遠賀町です。「田」の付く地名を探してください。遠賀町では、光田と片牟田がありますが、光田は海抜4m、片牟田は2mです。立岩の住民が生きていた時は、海の底です。友田、山田がありますが、山の中です。
稲作は、当初、川の傍の湿地帯で行われたと推察します。はじめから、畝を作り高いところで作られたのではないと思います。
ただ、イザナギから追放されたスサノオが、高天原のアマテラスに別れの挨拶にやって来た時に、大暴れをしたことを「また田の畔を離ち、溝を埋むるは・・・」のように表現していますから、この頃には、すでに、田は畔を作っていたことが判ります。
今度は、北九州市です。ゼロです。中間市でしょうか、「吉田」が見えますが、標高3mです。ここは、すぐ東が山ですから、海岸線で、「吉田」は田であった可能性はあります。
新幹線が、遠賀川を跨ぐところでも、標高は3mです。この辺りでも海が来ていたことになります。
直方市になるのでしょうか、「亀ノ甲」という地名と、「和田」という地名が見えます。「亀ノ甲」は鳥取県と岡山県にあります。ここは亀甲船を作っていたところではないでしょうか?形は前と後が、とがっていて、狭いところでも、向きを変えなくて良い船で、浅い川でも自由に使うことができる船だったと推察します。 もう一つの特徴は、底が浅かったので、何処までも上流まで使うことが出来たと思います。
「和田」の地名は、西日本にいっぱいありますから、別の角度で追及が必要と思われます。
鯰田、勢田、多田、吉田、横田、菰田、頴田 どんどん、増えてきます。全部が古い地名とは限りませんが、田を作り、地名が必要になったから、どんどん作られることになりました。
とは言うものの、あまり米を作るには適していなかったのではないでしょうか? 三方が山に囲まれていますと、山に降った雨は、全部、遠賀川に流れこむと推察されます。その度に、洪水がおこり、土砂も流れた筈ですが、地図を見る限りでは、あまり、平野はできなかったようです。
如何ですか? このように考えてきますと、立岩遺跡に住んでいた人たちは、どうして、このような所にすんでいたかの疑問は、当然出てきます。
紹介しました WEBの方は、その理由を「そのような袋小路のような場所からなぜ古代の優れた遺物が出土したのか、ということですが、嘉穂盆地は遠賀川によって外界と繋がるだけではなく、山に囲まれ条件的には厳しかったとは言え形の陸上交通の要衝でもあったと考えられるのです」と書いておられます。
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page080.html
では、紀元前後に、どのような陸上交通の要衝であったのかは書いておられません。
次回は、陸上交通の要衝であったかどうかを検討は、後に回すことにして、立岩遺跡に住んでいた人たちは、との様な人たちだったのかを述べてみたいと思います。
遠賀川の上流ですから、遠賀川にそって、地図を眺めてみようと思います。
右岸は北九州市です。左岸は遠賀町です。「田」の付く地名を探してください。遠賀町では、光田と片牟田がありますが、光田は海抜4m、片牟田は2mです。立岩の住民が生きていた時は、海の底です。友田、山田がありますが、山の中です。
稲作は、当初、川の傍の湿地帯で行われたと推察します。はじめから、畝を作り高いところで作られたのではないと思います。
ただ、イザナギから追放されたスサノオが、高天原のアマテラスに別れの挨拶にやって来た時に、大暴れをしたことを「また田の畔を離ち、溝を埋むるは・・・」のように表現していますから、この頃には、すでに、田は畔を作っていたことが判ります。
今度は、北九州市です。ゼロです。中間市でしょうか、「吉田」が見えますが、標高3mです。ここは、すぐ東が山ですから、海岸線で、「吉田」は田であった可能性はあります。
新幹線が、遠賀川を跨ぐところでも、標高は3mです。この辺りでも海が来ていたことになります。
直方市になるのでしょうか、「亀ノ甲」という地名と、「和田」という地名が見えます。「亀ノ甲」は鳥取県と岡山県にあります。ここは亀甲船を作っていたところではないでしょうか?形は前と後が、とがっていて、狭いところでも、向きを変えなくて良い船で、浅い川でも自由に使うことができる船だったと推察します。 もう一つの特徴は、底が浅かったので、何処までも上流まで使うことが出来たと思います。
「和田」の地名は、西日本にいっぱいありますから、別の角度で追及が必要と思われます。
鯰田、勢田、多田、吉田、横田、菰田、頴田 どんどん、増えてきます。全部が古い地名とは限りませんが、田を作り、地名が必要になったから、どんどん作られることになりました。
とは言うものの、あまり米を作るには適していなかったのではないでしょうか? 三方が山に囲まれていますと、山に降った雨は、全部、遠賀川に流れこむと推察されます。その度に、洪水がおこり、土砂も流れた筈ですが、地図を見る限りでは、あまり、平野はできなかったようです。
如何ですか? このように考えてきますと、立岩遺跡に住んでいた人たちは、どうして、このような所にすんでいたかの疑問は、当然出てきます。
紹介しました WEBの方は、その理由を「そのような袋小路のような場所からなぜ古代の優れた遺物が出土したのか、ということですが、嘉穂盆地は遠賀川によって外界と繋がるだけではなく、山に囲まれ条件的には厳しかったとは言え形の陸上交通の要衝でもあったと考えられるのです」と書いておられます。
http://home.b06.itscom.net/kodaishi/page080.html
では、紀元前後に、どのような陸上交通の要衝であったのかは書いておられません。
次回は、陸上交通の要衝であったかどうかを検討は、後に回すことにして、立岩遺跡に住んでいた人たちは、との様な人たちだったのかを述べてみたいと思います。
2009-03-26 07:35
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