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No704神武東征(153)  神武天皇(96)  古事記と日本書紀(19) [日本大好き]

前回、
籠神社では、
〔系図だけではなく、彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜ったとあります〕と書いておられますが、息津鏡・辺津鏡の二つの鏡が、天祖からの証拠は、何もありません。息津鏡・辺津鏡が残っていることは確かです。
 と書きました。天祖から息津鏡・辺津鏡を賜ったと云うことは、重要だったことが分かります。

 この話に似たことが、石上神宮の由緒にも書いてありす。こちらの神社には、天津神から受け取ったとされる天璽十種瑞宝が、あったことになっています。(現在はありません) これは、誰が天津神から受け取ったかと云いますと、饒速日命だと書いてあります。石上神宮に持ち込んだのは、誰だとは書いてありません。
 饒速日命から、受け継いだのは、その子供の宇摩志麻治命で、神武天皇が大和御入国に際し天皇をお迎えして、天皇即位元年に瑞宝を奉ったと書いてあります。

 この記述には、おかしい所があります。古事記には、神武東征の目的は書いてありませんが、日本書紀には、「東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟に乗って、とび降ってきた者がある」と。思うにその土地は、大業をひろめて天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心だろう。そのとび降ってきた者、饒速日と云う者であろう。そこに行って都を作るに限ると。
 塩土の爺がしゃべったことにしてあります。

青い山が取り巻いていると云うことは、盆地でしょう。神武東征の最終の地は、奈良でしたから、神武天皇は、饒速日をやっつけるために,16年間も進軍したことになります。
 そして、古事記には、饒速日命は、「天つ神の御子が天降られますと聞いてやってきました」と書いてあります。自分も天つ神の御子であるのに、神武天皇に挨拶にきたとは、おかしなことです。
 その時に、饒速日命は天津瑞を持参し神武天皇に仕えることにしたとあります。
日本書紀では、饒速日命は、云うことを聞かないで、神武天皇には向かって弓を引いた部下のナガスネヒコを殺害したことになっています。
 ということは、自分も天孫の子孫である証拠の天の羽羽矢とカチユキを見せて、悪い部下のナガスネヒコを殺害して、帰順したと書いてありますから、神武天皇の部下になったと云うことです。
 天孫族を証明する証拠の品が、古事記と日本書紀では異なります。日本書紀では、お互いに天孫の子孫であることらしい表現にはなっています。
 天津瑞と云うものが、どのようなものであるか、確かでなかったと云うことと思われます。
ところが、籠神社の伝承では、天祖から賜った息津鏡・辺津鏡であるとし、石上神宮では、天璽十種瑞宝であると云うことになっています。
 しかも石上神宮に持ち込んだのは、饒速日命の子供の宇摩志麻治命が宮中に持ち込み、崇神天皇7年のとき神宮に遷されたと書いてあります。
となりますと、この部分のことが正しいかどうか検証する必要があります。

古事記と日本書紀を比較するだけで、随分、記紀の作者が伝えようとしたこと違うことが分かります。そこへ、籠神社の人、石上神宮の人が、自分たちの都合のよい様に、伝承として残していることが分かります。古事記以外は、すべて、饒速日命のことを書きながら、少しずつ異なっていることが分かります。

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