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No818神武東征(267)  神武天皇(210)  大物主大神(38) 日吉津村(20) [日本大好き]

前回、私は古事記には、〔古事記には、「会見(アイミ郡)の河上の喪山」と書かれていたのでしょう。会見を藍見河と書き改めるだけでは、判らなかったらいけないので、美濃国と付け加えました〕
と推測というよりは、そうあってほしいという願望をくわえて、記しました。
 
 それは、現在でも、漢字は違いますが、〔会見〕という地名が、日吉津村の近くに存在するからです。所が、この〔会見〕という漢字は、ウィキペディアでは、〔古代から中世にかけては会見もしくは相見と両方の表記が存在し、会見(あいみ)の表記に統一されたのは近世以降である〕と書いてあります。
 おかしいですね。相見郡ではなく、会見郡ははじめから有った筈ですが、相見が使われるようになったと云うことでしょうか。
 
 ところが変な話をWEBから見付けました。
【美濃の喪山神話】です。http://www.cbr.mlit.go.jp/kisokaryu/bunko/1/kobore64.htm
日本書紀が記した喪山は、高天原にあった喪屋のところへお葬式に行った阿治志貴高日子根神が、死人と間違われて、怒って喪屋を壊した為に、喪屋は壊れてしまい下界の美濃國藍見河の河上に落ちて山となったと日本書紀に書いてあります。壊れた喪屋が高天原からおちたとしても、それが山になるほど大きかった筈がありません。
 このような作り話であるのに、その喪山が存在していると云うのです。

この中に、「ここでいう喪山が府中の葬送山古墳であるとすると、藍見河は当然、相川に相当することになります」と書いてあります。
 見事に相川<藍河>が登場してきます。

このことから、会見郡であった地名が、会見郡と相見郡とが使われるようになったのでしょうか。しかし、近世になってからだと云うことでしょうか。

なぜそうなったかは、推測の域を出ませんが、【美濃の喪山神話】には、次の様なことも書いてあります。
「ところが、喪山については、他に美濃市大矢田にある大矢田神社を中心とした一帯にあるとする説もあり、この場合、藍見河は長良川か或いはその支流ということになります」と記事は、続き、江戸時代の学者が真面目に研究したことが記されています。

 如何ですか、日本書紀に書いてある相川<藍河>は、美濃に実在していて、一方、古事記が書いた「美濃國藍見河の河上に在る喪山はこれなる也」と書いてあるのに、私の様に、これは、伯耆の國の会見村の話なのだといくら声を大きくしても、誰も見向きをしないことになります。
 伯耆の国に、会見ぐんは、あっても会見村などありはしないのですから。

 あまりも長くなりましたので、もう終わりにしようと思います。
もう一度、次回、お付き合いください。

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