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No819神武東征(268)  神武天皇(211)  大物主大神(39) 日吉津村(21) [日本大好き]

神武東征など無かったという方が多いので、そのようなことはありません。これを証明するためには、どうしても、神武天皇という人が実在したのだと証明する積りになっていましたが、日本書紀は、神武天皇のことを書いておきながら、伯耆の国には居なかったと書いています。古事記には、伯耆の国に居たことを書いています。どうにかして、日本書紀に書いてあることが間違っていることの事例として、 大物主大神はやはり、伯耆の国に居たと云うことを説明する気になっていましたが、又、大物主大神を説明するために、稗田阿礼が 日吉津村一帯の神社を調査し回ったことの例として、日吉津村のことをみなさんに知って頂き、日本書紀を書いた人達は、日本書紀と古事記に、「美濃國藍見河の河上に在る喪山はこれなる也」と書きました。
 それだけではなく、この記事が正しいことを、誰が読んでも分かるように、「美濃國」に相川まで、命名していたことになります。 これは、最近見付かったことではなく、いつの時代か分らない位の頃から【美濃の喪山神話】は信じられるようになっていたことになります。

 上に書いてきました「神武東征」などを書きだしまして、並べますと、タイトルになります。
神武東征が架空の事ではなかったことを説明するために、長いこと掛りました。
もう、元に迄戻れませんので、日吉津村のスタートに戻って、なにを書こうとしたのか見て頂こうと思います。
一回目は次に書いています。
No799神武東征(248)  神武天皇(191)  大物主大神(19) 日吉津村
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2010-06-29

読んで頂きましたか。日吉津村のことは、調べてもなにも分かりません。仕方がないので、インターネットだけが頼りになりましたが、日吉津村の歴史のことは、現在の日吉津村の方にも解らなかったようです。
どうして、住民の方が解らないのに、私が知ろうとしたかは、その前を読んでみたら、おかしいなと思ったことが、自分でも読みなおして分かった様です。

 前にも一度書きましたが、調べるうちに、これはもう少し続けて調べようと思ったことがあります。
No799神武東征(248)  神武天皇(191)  大物主大神(19) 日吉津村
の次を見て頂きますと、この神社の由緒が詳しく残っていることと祭神の数が多いことが気になりました。
 このような場合は、歴史上、複雑なことがありましたから、日吉津村は喋りたくないかも知れませんが、喋ろうにも記録が残されていないのかもしれません。
 ここに書かれた由緒は、誰が書いたのかは、分かりませんが、もう一度記します。

蚊屋島神社
鎮座地  西伯郡日吉津村大字日吉津字南屋敷  地図

現在地  鳥取県西伯郡日吉津村日吉津354番

祭神 天照皇大御神、天照高比売命、天若彦神、豊受姫命、大年神、天栲萬幡豊秋津姫命、天手力雄命、級長津彦命、月夜見命、猿田彦大神、神倭姫命、天太玉命、大己貴命、事代主神、素盞鳴尊、金山彦神

由緒 創立年代詳ならざれども、当社は旧天照高比売命を祀りしとの口碑あり、然るに社領証文を始め棟札及び神主裁許状などによれば日吉津村大神宮とも伊勢宮とも、又後には
天照皇大神宮とも記して、専ら天照皇大御神を祀りしが如くに見ゆ、是れ天照の字に泥み
天照大御神と思ひ誤りて大神宮とも伊勢宮とも唱えしものか、此故にや美濃村旧家進氏の雑集紀に「日吉津大神宮」の祭神往古と今と相違有之」と云えり、かく祭神に相違を来たせしも古よりの口伝の捨て難くてか、嘉永の社帳以後は天照高比売命をも合せ祀りしものと思はる、伯耆誌に「郡中顕要の社なり社殿に祭神 天照大御神豊受姫命と記し、衣川氏の作るれる祝詞も(田蓑日記に見ゆ」右の趣なれど確徴ある事を聞かず、又天乃佐奈咩神と称するは前年或人三代実録に因りて設けたる説なりと云へり、今按ずるに三代実録に元慶七年十二月二十八日庚申伯耆国正六位上天照高丹治女神云々授従五位下とある神にはあらざるか、此神は古事記伝に大己貴命の御子高比売(一名下照比売命)にやとあり。 若し然らば天照の文字より誤り伝へて後世伊勢大神宮と称するにや、此他考ふる所無し」と云えへり、又旧神職田口家氏の伝へに、代々弓射る事と雉子の肉を食ふ事を厳く禁ず(当社の氏子鹿の肉を食はずとの伝もあり)之れ天若彦の古事に因みてなるべし、今上の祭神より考ふるに豊受姫命、大年神、天栲萬幡豊秋津姫命、天手力雄命、級長津彦命、月夜見命、猿田彦大神、天太玉命、神倭姫命は天照大御神を主神とせるより祀りしなるべく、大己貴命、事代主神、賀夜奈流美神(以上嘉永以後の社帳に拠る) 天若彦神は天照高日女神を主神とせるより合せ祀りしものならんか、されば当社の祭神は昔は天照高日女神なりしを、何時の頃よりか誤り伝へて天照大御神と変りしも、古き伝への捨て難く天照高丹治女神をも合せ祀ることとなりて主神二柱となりしならんかと云へり、当社往古より蚊屋庄大社として地方の崇敬篤く(氏子二十九ヶ村、往古より蚊屋村の百姓祭礼の節は斎戒して神膳を供し神輿を舁くこと例なりと) 特に国主の崇敬も厚かりしこしは、天文十四年(1544年)尼子氏社領として日吉津浜田を附し造営等のことあり、
杉原播磨守盛重尾高城主たりし時厚く崇敬せられしと、(永禄十年三月二十六日文書) 
吉川氏の時社領四十石五斗一合を附せらる  (天正十九年十二月(1592年)二十日の文書)
中村伯耆守の時四十五石七斗七升四合の社領を寄進す、旧藩主池田氏又厚く崇敬、寛永十年十一月社領六石八斗三升一合を寄進せられ、その後寛文八年十一月社領五石一斗三升八合を加増せられしが、後又宝暦五年四月十六石三斗六升一合を加へらる、かく特に藩主の崇敬の厚かりしことを知るべし、明治維新神社改正の際蚊屋島神社と改称郷社に列せらる、豊受姫命以下の神は境内摂社なりしを此の時合祀せらる、明治四十年二月三日神饌幣帛料供進神社に指定せられ、
大正五年十月日吉津村大字富吉字上屋敷 鎮座 無格社今村神社(祭神素戔鳴尊)
        同村大字今吉字金刀比毘羅前 鎮座 無格社今吉神社(祭神 金山彦、天照皇大御神)を合併す、
同年十月五千石村大字福一字秀坂 鎮座 無格社秀阪神社(祭神 素盞鳴尊)を合併す。
編者曰く、神鳳抄に記せる内宮領に伯耆国三野御厨、久永御厨の二ヶ所あり、三野は美濃なるべく、久永は久米の誤なるべし、されば当神社は美濃の内宮領に発生し神社なりとも思はる、されど天照高日女ノ社のありしことも疑ふべからず(伯耆誌参照)とすれば、或は右の二社が合併せられたるもの即ち蚊屋島神社にあらず屋と思はる記して参とす。
私は、この由緒に書かれてあることがただしいとか、間違っているとかは、調べていません。次の部分だけを問題にしています。

〔此故にや美濃村旧家進氏の雑集紀に「日吉津大神宮」の祭神往古と今と相違有之」と云えり、〕
 この文章の美濃村旧家進氏の雑集紀の部分だけです。このことから、日吉津村には、進氏という人が、美濃村というところに住んで居られた事は確かだと思います。
 所が、美濃村という地名は、伯耆国に広げても、資料からは一切見付かりません。あったことは事実ですから、誰かが、あったことにはしたくなかったことになります。 そのような馬鹿なことはない。美濃村はなにかの間違いであろうと位に思っていました。
が、やはり、日吉津村には、複雑な歴史があるのだと思いました。

それは、以前から、鳥取県神社誌に掲載されている神社の資料を
【おかしな世の中】http://asilka.blog61.fc2.com/ に保管しています。
ここの検索機能を使って、〔蚊屋島神社〕を検索しますと、蚊屋島神社を除いて、19軒の神社がヒットします。
少しだけ記します。

1. 津末神社
西伯郡巌村大字浦津字村西  地図http://www.jinja.in/single/86058.html鎮座地 鳥取県米子市浦津50祭神 素戔鳴尊由緒 創立年月不詳。蚊屋島神社の摂社にして荒神宮と称せしを、明治元年神社改正の際今の社号に改められる。例祭日 10月28日建造物 本殿、拝殿境内坪数 1
asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-280.html
2. 浦木神社
西伯郡巌村大字浦津字清水束  地図3. 稲荷神社
 西伯郡巌村大字今在家字佃  地図山陰本線 伯耆大山駅 南東鎮座地 鳥取県米子市今在家28番祭神 倉稲魂命由緒 創立年月不詳。蚊屋島神社氏子内本村の産土神にして、稲荷大明神と称せしが、明治元年現今の社号に改称せらる。例祭日 
asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-278.html
4. 上部神社
西伯郡巌村大字蚊屋字八幡田  地図  山陰本線 伯耆大山駅 南東鎮座地 鳥取県米子市蚊屋369番http://www.jinja.in/single/86032.html祭神 誉田別尊由緒 創立年月不詳。蚊屋島神社の摂社にして八幡宮と称せしを、明治元年神社改正の際今の社号に改められる。例祭日 10月
asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-277.html

上の浦木神社をクリックしますと、詳しい由緒があります。
祭神 素戔鳴尊
由緒 創立年月不詳。蚊屋島神社の摂社にして荒神宮と称せしを、明治元年神社改正の際今の社号に改められる。

この様に、19ある神社は、全て、蚊屋島神社と関係有ることが分かります。このことが、祭神の数が多いことと関係有ることになります。
 では、それぞれの神社と蚊屋島神社とは、どのような関係があったかは、祭神と氏子の数を調べると有る程度分かるのではないかと思います。 もう一つは、〔明治元年神社改正の際今の社号に改められる〕とありますから、政治的なことがあったことは事実でしょう。
 この話を書きますと、歴史ではなく、現代の日吉津村に生活に関わってきますので、これで止めにします。
 21回にも亘って書いてきましたが、消された〔美濃村〕があったということを説明するだけで時間も労力も掛かりました。
 
 日本書紀を作った人達は、古事記に書いてあることを間違っていることを力説したばかりに、日本の歴史は、日本書紀に書いてあることが正しいと云うことは、現在でも、100%信じられていますから、これを80%にすることすら、困難だと思われます。

 従いまして、神武東征等という話は、議論する価値すら有りません。神武天皇が居られたというようなことを云う人は、天皇崇拝をしている人の戯言となります。それ以前のアマテラス、スサノオ、オオクニヌシ、このようなものは、神話であるということになります。
 
 それにしても、それでも、私の様な仮説をおしすすめますと、キチガイと云うことになりますが、それでは済まない。
 これ以上、日吉津村のことの詮索を進めますと、日吉津村の方の幸せを壊すだけではなく、私の命も危なくなるので、日本の歴史を考えることは止めようかなと考えています。

 阿治志貴高日子根神が壊したと云う、高天原にあった喪屋が美濃国にあったと書いた日本書紀は間違いで、日吉津村の近くの【会見村】にあったことは事実だろうと思います。
 神話ではなかったことになります。

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コメント 3

中山佳久

面白く拝読させていただきました。私は日吉津村の発生から続く家に生まれ育ちました。
蚊屋島神社とは幼少のころからご縁があり、名前も田口神職につけてもらってます。
いろいろ秘匿されている田口家ですが、多少その理由を知っていることもあります。
また、伯耆がとても重要な場所だってことは私も一致しています。
会見郡(今の西伯耆)は大山と日野川水系があり、古代砂鉄の産地であり、古代に鉄を支配する物が
真の王であったと考えています。
そしてその王の鎮座地は旧会見町(現在、南部町)の手間だと確信しています。
アジスキタカヒコネが鎮座していたと。。。
その子孫の紀成盛の末裔が相見氏です。伯耆紀氏はずっと伯耆の国造でした。
会見郡はその相見氏から派生したと考えます。
いろいろ教えていただいたり、意見交換したいこともあります。
フェースブックでお話し出来ればと思います。

米子市、中山佳久で検索して頂けば繋がります。

ご縁ができますことを願っています。
by 中山佳久 (2014-07-10 18:24) 

vetty

ありがとうございました。先日、綾部市の式内社を巡ってきました。知りたい事がいっぱいありますが、余り外部の者が、詮索しては良くないと思いながら、物部氏が解明できるのではと思いながら、次の所に書いています。 綾部市という名前 神話で無かった古事記 
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/f347873a19ec1fbb101c77e1ecb3d819

by vetty (2014-08-08 10:26) 

Bikkle

非常に興味深く読ませて頂きました。
更なる更新を期待しています。
すでにご存じかとは思いますが、「美濃村」について、
日吉津村ではなく、現在の米子市二本木に地名がありました。
(確かバス停の名前も美濃だったような・・・)
ただ、現在は「箕」として旧地域名が用いられていると思います。
此処の近隣にある「箕蚊屋小/中学校」にも名前が残っていますね。
by Bikkle (2016-07-22 02:19) 

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