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No825神武東征(274)  神武天皇(217)  大物主大神(45) 三輪神社の由緒(4) [日本大好き]

前回の由緒の4行分を検討します。

当神社創立は崇神天皇の御宇、大和国大神神社の御分霊を勧請せるものなりと云ふ、蓋し崇神天皇七年諸国病流行盗賊蜂起の際、国家鎮護の神として大物主命幸魂奇魂を諸国に遷し祀り、大田田根子命をして大神を祭ら給ひしこと旧史に見ゆ、当社は則ち其の一なりと云ふ、

〔当神社創立は崇神天皇の御宇、大和国大神神社の御分霊を勧請せるものなり〕と社記にかかれてある神社は、全国に73社あるそうです。(『神奈備 大神 三輪明神』より)
『大神神社史料・第九巻・分祀要覧』には416社が幾錆されているそうです。

本当ですと、この416社が、どのような経緯で分祀されることに至ったかを調べてからでないと、鳥取県の西伯郡大和村大字小波字東岡畑に鎮座する三輪神社が、分祀されたものではないという結論は、無理です。それどころか、私は畏れ多くも、奈良の大神神社は、こちらの神社から、行ったのだという積りになっています。

 416社も検討して居れませんから、次の2社だけを見ます。

兵庫県三田市 三輪神社
http://homepage2.nifty.com/miwakaikan/soudai/saizin.htm

祭神、大己貴神は、大国主神の幸魂【さきみたま】(人に幸福を与える神の霊魂)奇魂【くしみたま】(不思議な力を持つ神霊)でいつも私達の日常生活が健康で、豊になるようにお守りになっている大神であります。・・・・天平神護元年(765年)九月攝津の国に大和の大神神社封石【ふうこ】25石を置き、後に5石を追加・・・・・

何度も読みましたが、意味がよく解りません。大己貴神を祀ってあるのですが、大己貴神は想像上の神の様です。
昔、大国主神という神がおられましたが、その神さんの幸魂・奇魂をどのようにして、抜き取ったのか判りませんが、「魂」を祀って、その「魂」のことを大己貴神と言いますと書かれています。
この書き方は、確か、日本書紀に書かれてある内容に似ていたように思います。


三輪神社
岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪1322
http://miwajinja.com/index.html

当社、三輪神社(みわじんじゃ)は揖斐郡の総鎮守として古来から崇められてきました。
神武天皇の御世、諏訪大社のご祭神、武御名方富命が当地に三輪明神を祀られたと伝えられます。当社では、大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、またの御名を大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)と申し上げています。所謂ダイコクさまとして広く信仰されております。 この時移り来た三輪族の人々は、農耕に従い美しい農耕地を開発しました。この三輪の地は、かつて大神郷(おおみわごう)と云われ、奈良時代には存在していました。当郷に残る、口分田の跡や、続日本紀に記述される三輪氏の八蹄馬献上の記録からも、三輪の地の歴史を見ることができます。当社はこの地を開拓した、三輪族によって祀られたと云われています。現在、美濃の地域には三輪郷、三輪氏、三輪神社など、三輪(美和、大神)という地名や人名などが多く残されています。

〔揖斐郡の総鎮守〕の意味が分かりません。これを調べていますと、切りがありませんので、兎に角、立派な神社だと考えることにします。

〔神武天皇の御世、諏訪大社のご祭神、武御名方富命が当地に三輪明神を祀られたと伝えられます〕
 この部分は、正しいと思われますか。
学者によって、見解は異なりますが、私は、神武天皇は、紀元前50年頃に生れて、紀元後50年頃に亡くなられたと考えています。生前中、16年間に及ぶ、神武東征といわれる戦争をおこない、紀元元年1月1日に奈良の柏原に宮城を定めたと考えています。
 一方、〔諏訪大社のご祭神、武御名方富命〕は、古事記には書かれていますが、〔建御名方神〕と記されています。
 神武天皇と武御名方富命は時代が全くことなるように思います。
ところが、ややこしいことに、私は〔建御名方神〕は、大国主神の子供ですが、大国主神はスサノオ命の孫だと考えていますが、スサノオの命の五代目の孫だと云う方も居られまして、そうしますと、同じような時代になってくるでしょうか。
 
 この辺りの事は、古事記と日本書紀に書いてあることが全てですから、どれも、確実なことにはなりません。

 ついでのことに、私が理解していることをもう少し書きますと、アマテラスとスサノオは同時代の人です。アマテラスの孫がニニギ命です。アマテラスが、大国主神に、領地を明け渡す様に、命令し、大国主は従いましたが、息子の建御名方神は従わないで、力比べをして、負けて諏訪湖の所まで逃げたことになっています。
 その後、何代か経て、神武天皇の時代になります。ご自分で検証して頂ければと思います。
ただ、言えることは、古事記に書いてあることは、正しくないことになっています。日本書紀には、建御名方神の名前はありません。では、どうするか。これだけで、一年位かかりますが、私のようなことを云う人は、誰も居られませんから、私が間違っていることになります。
この神社では、大物主大神と大国主大神は同じ神さんだと書いておられます。
私は別の人だとおもいますが・・・・。

 揖斐郡の三輪神社の事を調べるだけで、この調子です。
416社が、どこにあるかを調べるだけで、相当、時間を要すると思います。

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古代史が好き

管理人さまの神社を参考にさせてもらいました。
上里神社 清谷です。
御鎮座の由来と云へるものに、神倭天皇日向より東夷平定に山陽より給ひし際、伯耆氏稲飯命に神懸坐て曰く、神倭天皇東夷平けむと、皇軍を山陽の国に進め給ふ、汝稲飯長人吾神魂を三子の嶋に対へる地の朝日の只刺夕日の日蔭る清の地に神籬を真日向に建て、吾神魂を齋奉れ、三子嶋に対へる海も陸も平かならん、吾は久志振陀計に天津神床を遷せし天津日高彦神なり、神伴に天津児屋根命、天鈿女命座しきとの神勅を畏み齋神籬を建て仕奉りし天の神の宮なりき、この里を清谷と曰ひしは、天上の清麗美潔の神地を遷したまひし御神霊を齋き奉る里と云ふ意を以て清谷と命名せしと伝ふ。
 「神倭天皇」とはニニギの尊のことです。
 「東夷」とは大国主一族のことです。驚きました。
 「久志振陀計に天津神床を遷せし天津日高彦神」とは、高千穂と同じ丘陵に天皇の居所を移したニニギの尊のことです。
 「神伴に天津児屋根命、天鈿女命座しき」とは、天津児屋根命も天鈿女命も御所に一緒にいるということです。
 「山陽」はいまの山陰・山陽ではありません。日向を後の者が解釈して付け加えた。
 「三子の嶋」は長瀬高浜遺跡のあった当時の嶋か。
自分なりの解釈
 ニニギの尊は大宮より皇軍を進めて大国主一族を平定に来た。清谷からみれば、大平山の東側の長江に大国主一族が祭られており、クシフルタケさらには清谷より東の大平山や東郷池周辺に住んでいた大国主一族を大虐殺した。
by 古代史が好き (2010-08-18 20:30) 

古代史が好き

訂正です。
「山陽」とは大平山より南にあった地域のことか。単に南ということか。
 「神伴に天津児屋根命、天鈿女命座しき」とは一緒に祭神として祭るということ。
 三子とは巫女のこと。長瀬高浜遺跡からは女性の遺体が見つかった。
by 古代史が好き (2010-08-18 21:17) 

古代史が好き

高江神社の祭りでは、海辺で「浦安の舞」を4人の巫女が舞う。
うちの娘も舞いました。
by 古代史が好き (2010-08-18 22:04) 

vetty

三子嶋ついて 鳥取県の神社をすべて、掲載していますが、なに一つ調べたわけではありません。もう、年齢的に調べるのは無理だと思っています。やはり、現地に行って、地形や隣の神社のことも分らないと無理のように思います。鳥取県の方々で、大いに、ああでも無い こうでもないと議論していただければと思います。ただ、三子嶋は、このブログで検索しますと、隠岐島のことを書いた二つがヒットします。私は、イザナギ、イザナミ、アマテラス、アマテラス、スサノオが、日本に亡命していて、住んでいた所だと考えています。その後、日本本土に
上陸。そして、ヒルゼン高原へ移動したのだと推理しています。別にこのお話でもなくて結構です。日本史解明のイトグチは、鳥取県と岡山県と兵庫県ではないかとかんがえています。

by vetty (2010-08-19 16:42) 

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