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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(179)   吉野ヶ里(22) [日本の歴史]

 
紀元前の神武東征の時代から、急に、斉明天皇の時代のことで恐縮ですが、660年の百済滅亡をうけて決定した朝鮮半島への派兵した白村江の戦いの時のことを書いて居られます。
 次のブログを読んで下さい。

幻の「吉備王国」の実像
http://bushoojapan.com/walker/2014/10/16/32397 この時に派兵した人数が、20000人だったから、現在、邇摩という町があると書いて居られます。
風土記では、661年、斉明天皇一行が下道(しもつみち)郡に宿泊したとき、家が多く建っている様子を見て、兵士を徴募したところ、2万人が集まった。天皇は喜んで、その土地を「二万(にま)郷」と名付けた。この土地を後にあらためて、「邇摩(にま)郷」といった、とある。
邇摩郷があったのは岡山県倉敷市。地図を開くと、高梁(たかはし)川の西岸に上二万・下二万という地名が残っている。風土記が書き留めた「邇摩郷」の最有力候補地だ。
現在の地名は、邇摩ではなくて、上二万・下二万の名前で残っています。



白村江の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#.E5.80.AD.E5.9B.BD.E8.BB.8D  
この時の派兵した舟の数は、1000隻と言われていますが、その内の水軍の400隻は、戦わずして、周りから火の矢を浴びせられて、燃えたと読んだ本には書いてありました。

どうしてかと言いますと、古い話ですから、確かではありませんが、400隻は、簡単に、河口からどんどん、入って行けたらしいです。 気が付いたら、河口は、塞がれて、中国の水軍と陸からの陸軍から、火を浴びせられて、戦わずして、全滅したと理解していました。
 
おかしいですね。
日本の二万の派兵は、そんなに、多いのかと思いましたが、
上記のブログでは、中国軍の人数は、130000人と書いてあります。

この戦いは、私が読んだ、二冊の本の知識によると、始めは、百済が、唐・新羅連合軍  と戦ったが、百済が、負けて来たので、日本に助けを求めて来たので、出撃したことになっていました。  しかし、これは、嘘で、その証拠として、日本軍は、河口では、狭いですから、陸からの攻撃は、簡単であった筈ですが、奥深くまで、侵入することが出来ました。 ここは、負けた百済の兵隊がいた筈ですが、このときは新羅連合軍がいて、日本軍をたたけたはずです。

今日は、白村江の戦いの事ではなくて、
「斉明天皇が兵士を徴募したところ、2万人が集まった」という、一見馬鹿げた話ですが、私は信じました。
 斉明天皇とは、天智天皇と天武天皇のお母さんです。

 この後に、日本では、壬申の乱がありますが、これは、天皇家の相続争いということになっています。

壬申の乱の原因
http://www12.plala.or.jp/rekisi/jinnsinn.html

しかし、そうではなくて、
田村誠一氏の著書 
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html
第19話として、『壬申の乱は日唐戦争』のタイトルで、こんな話は、聞かれたことのない本を出版して居られます。

私はこれは、正しいと思っています。
何故かと言いますと、天智天皇と天武天皇は、具合が悪くなってから、4ヶ月で亡くなられています。

証拠は有りませんが、田村氏は、毒殺されたと書いておなられます。

古事記をかくように太安万侶に命令したのは、天武天皇です。

現在、日本人が、古事記や日本書紀から学んだ、日本の歴史は間違っていると思います。


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