No37 ユダヤ人と牛
ユダヤ人が流浪を始めましたが、どのような辺鄙なところでも安心して住むことが出来き無かったのでしょうか? 部族間でも仲良くできなかったのでしょうか? 又の機会に調べてみたいですが、世界各地に散らばって行ったようです。
少人数で、新しい国で生活を始めますと、3代も経過すると、その国に溶け込まないとなかなか生きていくことは困難なのではないでしょうか? 同じ民族で固まって生活しない限りは、結婚を繰り返すことによって、同化することになります。ただ、習慣などは残っていくもので、ユダヤ人が日本人のルーツであると主張しておられるヨセフ・アイデルバーグ氏は、習慣が似ていることを指摘し、又、共通の言語が多いことを理由に、「大和民族はユダヤ人だった」という本を書いています。その中の一つである「牛」について書きます。
メソポタミアの都市「ウル」で生れたユダヤ人の始祖であるアルバハムが、この都市の建設にどのように関わったか、また、この都市でどれぐらいの日を暮らしたかは、不明ですが、都市名のウルは、重要な意味を持っていたと思われます。
ウルは、ウル語では、ウル族、牛族、ウル人の意味があるそうです。ウルが付くものとして、都市名でウルク、ウルビはウル部族があります。
確かめていませんが、朝鮮語ではウは牛、ソも牛だそうです。合わせて「ソウ」ですが、「ソウル」という地名がありますから、気になります。
牛はウル王朝では聖なる獣であったらしいです。詳しくは知りませんが、インドでは、牛は成獣として扱われ、道の真ん中を歩いていても、人のほうが避けて通ることを聞いた記憶があります。牛の信仰は、インドからユダヤに伝わった可能性はありますが、そうであれば、現在のイラクでものこっていてもよさそうです。この点は不明です。
イスラエルを後にした十部族の大半は、西の方へ移動したといわれていますから、インドに到達し、仏教にも影響を与えたかも知れません。
問題は、日本にも牛の信仰があるかどうかです。京都の八坂神社に牛頭天王が祀られています。どうして、ここに祀られているかの説は、いくつかありますが、その内の一つに、次のものがあります。「高麗の調使であった伊利之(いしり)の後裔・八坂氏が朝鮮の牛頭(ごず)山に祀る牛頭天王を移したことに始まるともいわれています」。伊利之は『新撰氏姓禄』に八坂造の祖の意利佐の名が見えますから、渡来人であり、朝鮮にいるときに祀っていたものかもしれません。ただ、牛頭天王は神さんではなく、『伊呂波字類抄』に「天竺北方の九相国に吉祥園があり、牛頭天王はその城の王で武塔天神とも云う。」とあり、仏教上のものとされています。
このように話しが複雑な所へ、八坂神社の祭神は、天照大神の兄弟であるスサノオノミコトとなっています。スサノオノミコトと牛頭天王は、同一のものであるとなっています。私の町には、式内社が二つありますが、両方ともスサノオノミコトを祀っていて、昔は、牛頭天王社とも呼ばれていました。
「ソ」「ウ」「ウル」は牛でしたが、「グ」も牛だそうです。「グ」が「ゴ」に変化することはあるのでしょうか? 朝鮮の「牛頭山」は、「グズセン」とでも発音するのでしょうか?
とすれば、インド、朝鮮を経由して日本に牛頭天王が伝えられたのかも知れません。
「日本書紀」の一書には、スサノオミコトが高天原から出雲に行く前に、その子イソタケル神をひきいて、新羅国のソシモリ(曽尸茂梨)へ行ったという文があります。
朝鮮の高霊にはその昔「ソシモリ山」と呼ばれていた山が実際にあったそうです。その山は高霊の現加耶山。加耶山とは、仏教が伝わって以降の呼び名であって、古代には「牛の頭の山」と呼んでいたというのです。「牛の頭」は韓国語よみで「ソシモリ」。この説になりますと、ソシモリとスサノオノミコトが結ばれる点ではすっきりしますが、「ゴズ」という読み方は消えてしまいます。
ユダヤ人とスサノオノミコトの両方が牛と関係あるようなことになってきました。
このことは、又の機会にして、別の角度から、その2にて、「ユダヤ人と牛」を探って見ます。
No36 ユダヤ人とはどのような人でしょうか
ユダヤ人は「牛の民」と呼ばれていたとインターネットで読んだ記憶があるのですが、確かな証拠がありません。全く知識がないのに書く気になりまして、すべて借り物でと考えました。インターネットと私が持っている本をどんどん読むのですが、さっぱり頭に残りません。原因の大半は、私の頭の悪さと老化にあるのだと思いますが、それにしても全く残りません。
他に原因があるのではと頭を回転させますと、私の頭が、こんな古い話は、どうせ当てにならないと判断しているからだと思います。私の頭がどのように拒否しているか記しまして、ユダヤのことを一緒に勉強しようと思います。
ユダヤ人が最初に居たと思われるところは、ペルシア湾から入った所、現在のイラクです。地図を開きますと、ユーフラテス川とチグリス川があります。この川の間で、世界四大文明が発祥したと中学校?で習ったように記憶します。メソポタミヤ文明です。ここでは、どうやら、シュメール人が住んでおり、シュメール語が使われていました。紀元前3500
頃に、最古の楔形文字(くさびがたもじ) が発明されて、粘土版にいろいろのことが残されているらしい。この文字は、その後、近隣の民族でも使われるようになり、メソポタミア地方で、3000年にわたって使用されたとされています。現在、どこに保存されている粘土版にどのようなことが書かれているかというようなことは判りませんが、歴史の流れは、次のようになっています。
① 紀元前4000年頃、メソポタミア最南部の古代シュメールの都市国家ウルという都市が建設された。旧約聖書には「カルデア人のウル」と記されている。イラクのバグダードの南東約300km、ユーフラテス川の南にある。現在名はテル・アルムカイヤル。
② 旧約聖書の冒頭の創世記によれば、ウルにおいて、アブラハムが誕生。妻サラとの間に、イサクが誕生、イサクの子ヤコブを共通の祖先としてイスラエル12部族が派生する。
③ 紀元前3500年頃に大洪水があり、ウルの都市は、壊滅状態になる。
④ その700年後ころには、旧約聖書の「ノアの洪水」に記録されているところに因ると、激しい雨が毎日毎晩、降り続き、それが40日続いた。
⑤ 紀元2600年頃、ウル第一王朝が出来る。
歴史の流れを見ましたが、どこにもユダヤ人は出てきません。ユダヤ人の歴史に出てくる最初の人は、アブラハムは、シュメール人が築いた都市国家ウルの出身であることはわかります。そして、その都市ウルは、旧約聖書には「カルデア人のウル」と記されていますから、都市の生活者の大半は、カルデア人であることになります。いろいろの民族が住んでいたと思われます。
ユダヤの族長、アブラハムは「ウル」からユーフラテス川の上流の「ハラン」に一族を連れて移動します。ユダヤ民族は族長に率いられて、地中海沿いに南下をして、死海のほとりに住むようになります。
映画「十戒」を二度見た記憶があります。古くて忘れた部分が多いのですが、砂漠を流浪するイメージが残っています。また、現在のイラクも砂漠しか頭に浮かびません。都市ウルが建設された頃は、メソポタミアは、緑がいっぱいの楽園だったのではないでしょうか?現在のレバノンには、レバノン杉がびっしりあった事が、花粉から確かめられています。その下流が砂漠であるわけがありません。
旧約聖書に記録されている「ノアの洪水」は、ある程度事実でしょう。砂漠で40日も雨が降ることはありません。地上から上昇した水分が雨ですから、メソポタミア一帯は、森林に包まれていたことになります。
都市ウルは、最近になって遺跡の発掘が進み、4mの土砂で埋まっていることが判っています。一度の洪水ではなく、何度もの洪水の結果と思われますが、全員が殆ど死ぬような洪水に見舞われ、ユダヤ民族は流浪の旅にでることになったと思われます。是までに調べた所では判りませんが、この歴史以前に、都市ウルの上流において、次々と都市がいっぱい生れ、その都市の人間の活動によって森林が減少し、洪水の増加となったのでしょう。
自然破壊の結果によって、追い出されたアブラハムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などを信じるいわゆる聖典の民に、「信仰の父」とみなされていますから、ユダヤ人の生活では、高度な文明が、長く続いていたのだと思います。ユダヤ教を信じる人はいましたが、ユダヤ人と特定できる人種は存在しなかったのではが私の印象です。
ユダヤのこと、少し判っていただけたでしょうか? 始めに書きましたように、全く知らなかった世界です。ここが間違っていますと、以後がよくありません。間違いがありましたら、教えてください。
次回は、「ユダヤ人と牛」で書いてみます。
No35 韓神は日本の建国と関係があった?
どこの国でも、自分の国を意識しだしますと、国の始めはここだと言いたくなります。そして、建国記念日を定めています。日本の場合は、日本書紀に書かれている初代の天皇が奈良の橿原に宮を建てたと書かれていますので、この年の元旦にしようということに明治5年に定めたようです。
ただ、すんなりと決まったのではなかったようです。
当初は1月29日だったが、次の年には3月にし、その後、神武天皇即位の日・紀元前660年1月1日を新暦(グレゴリオ暦)に換算した2月11日を祝日と定めたらしいです。
この日を建国記念日とは言わないで、1948年(昭和23年)までは紀元節と呼ばれてきました。
一度、昭和23年に廃止された建国記念日を定め直すことは、大変であったようです。復活したのは、18年後の昭和41年です。どのような曲折があったか調べていませんが、年月の長さから推察しますと、相当の異論があり定めることが困難であったことになります。しかし、名前は変わりましたが、同じ2月11日に決定しました。
神武天皇即位の日・紀元前660年1月1日を建国記念とするには、誰が考えても正しいとは思えません。それでも2月11日と決定するには、他に理由があったのではないでしょうか?
三代実録には、856・857・860・868年以外は毎年、2月と11月の丑の日に、園韓神祭が行われたことが、記されています。原文の一部を記します。
『三代実録』巻一天安二年(八五八)十一月廿日丁丑◆廿日丁丑。停園韓神祭。自此之後。鎭魂新甞等諸祭皆停止。』詔山城國司令停警固。
『三代実録』巻五貞観三年(八六一)十一月十九日己丑◆十九日己丑。園并韓神祭如常。
『三代実録』巻六貞観四年(八六二)二月十四日癸丑◆十四日癸丑。祠園并韓神如常。』
『三代実録』巻七貞観五年(八六三)十一月十二日辛丑◆十二日辛丑。園并韓神祭如常。
『三代実録』巻九貞観六年(八六四)十一月十八日辛丑◆十八日辛丑。園韓神祭如常。
『三代実録』巻十貞観七年(八六五)二月十三日乙丑◆十三日乙丑。園韓神祭如常。』
『三代実録』巻十一貞観七年(八六五)十一月十二日己丑◆十二日己丑。園韓神祭如常。
「園韓神祭如常」と極、普通に毎年行っていることを記録しています。毎年、同じであれば、書かなくてもいいようなものですが、初めからずっと、書かれている重要事項ではないでしょうか?
もう一つ重要なことがあります。園韓神祭は、毎年2月と11月に行われますが、日はまちまちです。すべて、しかし「丑の日」です。これは、「牛の日」ではないかと思われます。
ユダヤ人は、牛の民とも呼ばれています。神武天皇は、神倭伊波禮毘古命と言われたことが、古事記に記されています。No32にて、名前の最初に「神」が付く人はユダヤ人と仮定しますと、いろいろの分野で、説明が無理なくできます。
園神と韓神がユダヤ人であるのではなく、天皇がユダヤ人であるので、2月と11月の「丑の日」に拘って園韓神祭が行われたのだと思います。
ということは、天皇家は、ユダヤ人と朝鮮人の血が流れていることになります。そして、日本の建国を行ったのは、神武天皇であることは動かせないので、「建国記念日」を2月11日に定めたことになります。
建国記念日の2月11日の「2と11」の数字は、紀元節の2月11日ではなく、宮中で行われている園韓神祭の祭り日である2月の2と11月の11の数字を取ったものでしょう。
一般国民に公表はされませんでしたが、この事実を説明された極一部の人が納得したということで、18年間定まらなかった「建国記念日」が2月11日に決定したと推察しました。
No34 韓神と天皇の関係
No 33 に於いて、韓神のことを書きました。資料を3つ掲げましたが、どの資料にも書きたくないので、著者は宮中で祀られているとは書いていません。天皇家が祀っているなどは勿論書いていません。このように、意地悪く眺めていると、天皇家と関係があるのではないかと思えてきます。続けて、他の資料に当たって見ます。
資料4 出所不明です。
【園韓神】
○宮内省内に皇室の守護神として祀(マツ)られていた園神と韓神。
◎平安遷都以前からその地にあり、移転しようとしたが神勅があって皇室の守護神として祀られることになったという。平安時代には陰暦2月と11月の丑の日に、園神祭とともに韓神祭が盛大に行なわれたが、中世以後衰微し、廃絶。
◎園神は南、韓神は北に祀られていた。
【園神】
○宮内省内に皇室の守護神として祀(マツ)られていた神。
「そのかみ(園神)」とも呼ぶ。参照⇒からのかみ(韓神),そのからのかみ(園韓神)
◎韓神である大己貴神(オオナムチノカミ)の和魂(ニギミタマ)としての大物主神(オオモノヌシノカミ)。
① 資料4は、私の資料集の中にありますが、どこからとったのか判りません。平安遷都以前からその地にあり、移転しようとしたが神さんから抗議を受けて移転を中止したことは重要ですが、確かめる必要があります。
② いろいろ調べていますと、最後には、大物主神に行き当たり、そこでストップです。奈良の大神神社の祭神です。大神神社になにか秘密があるから、訳が判らなくなのだと思われます。
資料5
後拾遺和歌集 十六雑 少将内侍
ちかきだにきかぬみそぎをなにかその から神までは遠く祈らん
資料 6
神楽歌 採物
みしまゆふ かたにとりかけ かたにとりかけ 我から神のからをぎせんや
からをぎせんや
やひらでを 手にとりもちて われから神の からをぎせんや
からをぎせんや
資料 7
「古事類苑」や「有職故実大辞典」に詳しく書かれていることが判りました。
あまり詳細ですと、本論と離れますので、少しだけ記述します。
① 園韓神祭---平安京宮内省内に鎮座していた園神・韓神の例祭。式日は2月春日祭の後の丑の日と、11月新嘗祭の前の丑の日。
②園韓神社の名前は、『延喜式』神名帳に「宮内省坐神三座(並名神大、月次新嘗)」
とみえ、『拾芥抄』宮城指図などの古図にもみえる。
③祭神--------『大倭神社註進状』は園神を大物主神に、韓神二座を大己貴命・少彦名命にあて、『古事記伝』は『古事記』にみえる「曾富理神を園神もしくは韓神のうちの一座にあてる説を掲げている。
資料8
司馬遼太郎の文章として、次のような文がありました。
司馬は、薩摩焼の陶工を題材にした『故郷忘じがたく候』(文春文庫)のなかで、陶工たちがあがめる韓神(からかみ)の玉山宮について、こう記しました。
「(玉山宮の)社家屋敷は、大地のはずれにある。その前は、一望の麦畑で
あり、いかにも天が広く地があかるく、神々の神遊びの庭としてこれほどふさ
わしいところはあるまいとおもわれた。
神遊びといえば、この小さな山の上の韓神の社に、京の祇園八坂神社から
毎年、会合の招待がくるという。八坂神社というのは全国に7千ほどある。祭
神はスサノオノ命(みこと)である。命は出雲に住んでいたが、どやら韓国の
新羅が故郷であったのか、新羅のソシモリにも住み、日韓の間を往来していた
とも日本書紀などで書かれているから、この神は古代に日本列島にきた韓人た
ちが奉祭していたものかもしれず、京の八坂神社も薩摩苗代川の山の上に鎮ま
る玉山宮の祭神とが、たがいに同族であるがために毎年招待状を送っているの
であろう」
この司馬遼太郎の文章読んで、氏は、もっと詳細を知っていたが、小説という衣をつけて料理をされたのではと考えました。
資料9
藤川万希子氏の文章に次の文章があります。(インターネットより)
「また、貞観年間に選定された『儀式』の園ならびに韓神(からかみ)の祭の条には園神社、韓神神社の神殿前で十一月の新嘗祭の前の丑の日と二月の春日祭の後の丑の日に御巫らの歌舞が行なわれ、これを『儀式』では神楽と呼んでいる。園神は新羅系、韓神は百済系の渡来神いわゆる今来(いまき)の神である。宮廷御神楽の「みたまふり」とその歌舞は日本固有のものだけではなく、外来の要素も強いことが伺われる。」
資料10
文徳実録・三代実録には、856・857・860・868年以外は毎年、2月と11月の丑の日に、園韓神祭が行われたことが、記されています。
No33 韓神と園神
この神は、以前に気になり、少し調べてみましたが、行き詰ってそのままにしていたものです。資料は少ないです。専門家の論文は、6件ありますが、読んでいません。いくつかの資料を掲げます。
全般に、言えることは私には、意味がよく理解できないということです。表現を変えますと、奥歯に物が挟まった感じがするということです。本当は知っているのに、少ししか書いていないのではないかと。
資料① 岩波書店 広辞苑 第4版 第1版発行 1955.5.25
第4版発行 1991.11.15
韓神 「からのかみ」に同じ。 神楽歌、韓神「われ-韓招せむや」
からのかみ (朝鮮から渡来した神の意か) 守護神として宮内省に祀られていた神。
大己貴(おおむなち)・少彦名(すくなぴこな)二神をさすという。
韓神祭 宮内省に祀ってあった韓神の祭。
古くは、陰暦二月と十一月に行われた。
園韓神 園の神と韓の神。古くから大内裏の宮内省に祭られた。
私が考えたこと。
① 韓神の説明になっていない。書いた人は説明をしたくなかったが、広辞苑から外すわけにはいかなかった。「からのかみ」に同じと書いてありますから、「からのかみ」をひいて見ますと、「からのかみ」は、韓神のこととなっています。本当は少し意味が違って使われていたはずです。
② からのかみ (朝鮮から渡来した神の意か)と、疑問文になっています。わからないのであれば、書かなければいいし、書いたところが意味の無い文章です。どうしてこんな文が入っているのでしょう? それに、朝鮮から渡来した神とは、どういうことでしょうか?
③ 私が推察するには、朝鮮からやって来た人が祀っていたことは確かなのでしょう。ところが、この神は、宮中神の中でも特別と見えて、他の神と分けて記されています。天皇家が特別に祀っているということは、天皇家と関係があるのでしょう。関係があるとは書けないし、書いておきたいしというのが、広辞苑の編集者の苦労された所でしょう。
④ 確か、一度改定版で削除されたと思います。(?)
資料② 大言海 冨書房発行 大槻文彦著 昭和7年10月28日 発行
記載なし。
昭和7年発行の時点で、記載をしないでおこうとの判断になった。又は止めさせられた。
資料③ Kokugo Dai Jiten Dictionary. Shinsou-ban (Revised edition) c Shogakukan 1988.
国語大辞典(新装版)c小学館 1988.
からかみ
(朝鮮から渡来した神の意)昔、守護神として宮内省の中にまつられていた神。平安時代には、韓神の祭が盛大に行なわれた。
韓神の祭(まつり)昔、宮内省の中にまつられた韓神社の祭。上代には陰暦2月と11月の丑の日に、園神祭(そのかみのまつり)とともに行なわれた。中世以後衰微し、廃絶。《季・春》
この資料は簡潔で、良くわかります。資料②と違って、「朝鮮から渡来した神の意」と断定しています。
良く理解できないのが、「守護神として宮内省の中にまつられていた神」とうち、守護神です。護る神ですが、なにを護るのかといいますと、この文面からは宮内省を護るとしか受け取れません。宮内省も判らないのですが、これはどうやら、昔 八省あった役所名のようです。そこで、国が管理していた神を調べたものを下に掲げます。
[官衙神]
神祇官の御巫祭神(八神殿と云ふ)、座摩御巫祭神、御門巫祭神、生島御巫祭神、
太政官の厨主神、外記庁の守神、
宮内省の園神社、韓神社、
縫殿寮の御匣殿神、縫殿神、著酒神、
陰陽寮の守護神、
織部司の辰巳隅神、戌亥隅神、
大膳職の御食津神社、火雷神社、
高倍神社、大炊寮の大八島竃神、斎火武主比命、庭火皇神、
主殿寮の寮家、釜殿、松山、炭山等の神、
内膳司の忌火庭火神、平野竃神造酒司の大宮売神社、酒殿神社、園池司の御気津神
各役所に祀られている神の名前を見ていますと、よく判りませんが、この神さんなら、祀られていても良いかなという気がしないでもありません。しかし、宮内省の園神社、韓神社は、意味が判りません。宮内省の中に宮中があるのでしょうか?
「守護神として宮内省の中にまつられていた神」の文には、「皇室の守護神」であることが抜けていることになります。国語大辞典の編集者も書きたく無かったのだと思います。
No32 頭に「神」がつく、神と人
神湯村の星ケ山と下関・彦島とを結んだ線上に、
①三次盆地 ②日本ピラミッド ③神武の安芸の可愛宮があります。
日本ピラミッドから星ケ山を目標に進むと、その線上に神代川、神郷(新見)、矢 神村、神代村、神庭(カンバ、勝山)、神戸、神湯村と神がつく地名が続きます。ヨーロッパの中世の都市の中央に広場があります。神庭はこの広場で、ここがユダヤ人の政治の中心です。八神(ハガミ)と神庭は同じ緯度です。
広島県庄原市の西部、東城町と総領町に隣接する庄原市本村町に葦嶽山(あしだけやま)があります。この山は、何処から見ても、三角形にみえて、誰にでも判りやすい目安になる山です。(滋賀県の三上山もどこからも見え、三角形です) また、ここは神石郡であり、葦嶽山のすぐ東の山が御神山です。
星の神 香香背男が、移動するときには、道を間違えないように、目標と成るものが必要でした。何処からも見え、同じ三角形の形をしている山が一番でした。どの山も、三角形であることは、無理ですから、ある程度は人工の力を加え形成したと思われます。葦嶽山がピラミッドでないとしても、目標にしたのは、確かだと思えます。
このように眺めていきますと、神の字がつく地名は、ユダヤ人と関係が有りそうです。神武天皇は東征のときに、ユダヤ人の助けを借りていますが、安芸の可愛宮をここに定めるときにも、ユダヤ人の助けを借りたと想像できます。
そこで、頭に「神」がつく、神と人について考えてみたいと思います。
①神産巣日神 この神は古事記の最初に登場する三柱のうちの一です。
②神大市比売--大山津見神の娘 スサノオの一番目の妃 大年神とうかの御魂を産む
③神阿多都比売---別名--木花之佐久夜毘売 (ニニギと笠沙の岬で出逢い求婚される)
石長姫神(いわながひめのかみ)・木花知流姫神(このはなちるひめのかみ)・神大市姫神 (かむおおいちひめのかみ)の姉妹
③神活須毘神--大年神妃の一である伊怒比賣の親
④神屋楯比売— 事代主神の母 (大国主神の一番目の妃)
⑤神渟名川耳尊--イスケヨリ姫と神武天皇の間の子供(のちの綏靖天皇)
⑥神八井命 — イスケヨリ姫と神武天皇の間の子供
参考・比売多多良伊須気余理比売=媛蹈鞴五十鈴媛命(紀)
⑦神倭伊波禮毘古命 (日本書紀では、神日本磐余彦火火出見天皇)
参考に。
鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノカミ)は日子穂穂出見命と豊玉姫命の子。神武天皇の父。
日子穂穂出見命は、高天原から地上に降ってきた天孫邇邇芸命の三人の子供のうちの末子。別名は、山幸彦、火遠理命(ホオリノミコト)、天津日高(アマツヒコ)日子穂穂出見命、彦火火出見尊。
木花之佐久夜毘売(コノハナノサクヤビメノミコト)の別名は、神阿多津比売命(カミアタツヒメノミコト)、豊吾多津媛命(トヨアタツヒメノミコト)、神吾田鹿葦津姫命(カミアタカアシツヒメノミコト)、酒解子神(サケトケノコノカミ)、木花知流比売命(コノハナチルヒメノミコト)、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
天照大神から神武天皇までの系図を記します。
天照大神--天忍穂耳命--邇邇芸命--火遠理命--鵜葺屋葺不合命--神武天皇
検討します。
①神武天皇は、このままでも名前の先頭に神の字が付いていますが、諡号は、神倭伊波禮毘古命です。このように一番前に〔神〕の字が付いている人は、ユダヤ人であると仮定しますと、例えば、神武天皇が東征を行ったときに、なぜユダヤ人が援助をしたか理解できます。諡号の一番前は、このように人種を表しています。次の〔倭〕は出身地または、実務を取っていた場所です。〔伊波禮〕は所謂呼び名。〔毘古〕は性別を表します。
神武天皇がユダヤ系であるということは、父母のどちらかが、ユダヤ系であることになります。
父は鵜葺草葺不合命、母は豊玉姫命。鵜葺草葺不合命の父母は、日子穂穂出見命(火遠理命)と豊玉姫命。日子穂穂出見命の父母は、邇邇芸命と神阿多津比売命(木花之佐久夜毘売)です。ここで、ユダヤ人の血が入っています。
②大年神と伊怒比賣の間に大国御魂神、韓神、曾富理神、白日神、聖神が生まれた。大年神の母は、神大市比売で、伊怒比賣の母は、神活須毘神です。
大国御魂神は、崇神天皇のときに宮中において天照大神とともに祀られていた神でしょうか? 現在宮内省で祭られている神が三座あり、それは園神と韓神が二座です。どうして祀られているのかと云いますと、ユダヤの血が流れているからといえば、ある程度説明がつきます。
③イスケヨリ姫と神武天皇の間の子供は、神渟名川耳尊と神八井命です。ここにも、〔神〕が付けられています。前者は二代の綏靖天皇です。
〔神〕がつく人間が、ユダヤ系の人であると仮定しますと、前回書きました高松塚古墳の主の棺おけにユダヤのマークが入っていたのも、当然のことですし、伊勢神宮の献灯に書かれた印が、ヒツコイぐらいに、三つも入れても宮内庁から苦情がでないのも納得できると思います。
No31 高松塚古墳とユダヤの関係
現在、高松塚古墳の壁画の処理が問題になっていますが、壁画ではなく、出土した木簡に記された文様に注目し、「天皇家とユダヤ人」を書かれた篠原央憲氏が居られます。No29に紹介しましたトケィヤー氏とマックレオドのことを「まえがき」に書いて出発されていますから、こうしたことが頭にあって、木簡に記された文様に注目されたと思われます。
書き出しの文は、「奇妙なことの一つは、昭和四十七年三月、奈良県の明日香村で発見された高松塚古墳出土品のなかの小さな遺物にあった。
高松塚古墳からは、例の有名な彩色壁画をはじめ多くの遺物が発見された。壊されたまま
の漆塗木棺や、人骨、大刀装具(銀製)、海獣葡萄鏡、玉類、土器、棺の透し金具などであ
った。
問題は、木棺の中央にある直径10.8センチの唐草模様の入った透し金具にあった。その
金具の真ん中に、なんとユダヤのへロデ大王の紋が彫られてあるのであった。そのまた中央の紋が、ユダヤ王朝の紋であった。死体を安置した木棺の中央の飾り金具ののだ。これを指摘されたのは民間のユダヤ史研究家・川瀬勇氏であった」
ところが、ここにもう一つ不思議なことがあるのを、川瀬勇氏が指摘されたと次の文を書いています。「伊勢の皇大神宮の内宮と外宮を結ぶ参道に立つ、百個近い石灯龍のあかり窓に、このへロデ王の紋が描かれていることであった。その石灯籠には、一番上に当然のことながら、日本の皇室の紋章である菊の紋が浮き彫りされ、その石のあかり窓に、このヘロデ王の紋があり、さらに驚くベきことには、その下の石の台座に、ユダヤのダピデ大王の、カゴメ印の紋が彫られてあるのだった」
この事実から皇室とユダヤが関係あるようなニューアンスで多くの本に書かれています。ところが、この菊の紋は、単純な紋ですから、日本では皇室の紋と誰でも思いますが、世界中を見渡せば、何処にでもあるかもしれません。具合の悪いことに、ユダヤのメッカ、エルサレムにある二千年前に作られた城壁に、同じ菊の紋があるということを篠原央憲氏は指摘しておられます。それだけではなく、氏は詳しく調べ、古代ユダヤでは、神殿や宗教の中心地や、重要人物のお棺の模様などにも使われていることを確かめておられます。
伊勢神宮の灯篭の三つのマークは、すべてユダヤのものとみたのでは、意味がありません。やはり、上の菊は、皇室、下の二つはユダヤのものと考えた方が自然です。
少なくとも、関係があるかどうかはべつにして、関係があるのだと言うことを世間に知らせたい人がいたことは確かでしょう。篠原央憲氏は一歩踏み込んで調べています。
献灯の依頼者の一人は、当時の神宮庁長官の二荒伯爵であり、もう一人は当時の奉賛会会長の森岡善照実業家です。実際に施工したのは、西宮の石材店であることも判っています。
詳細は「天皇とユダヤ人」を読んで頂く事にしまして、依頼者が、単にお金持ちの信者が献灯したのではなく、実際に見られますと判りますが、あれほど背の高い異様ものは他には無いと思われます。依頼者は余程、三つのマークを強調したかったのだと思います。
では依頼者は誰かと言いますと、ユダヤ人と皇室しかありません。皇室が関係ないと思われるのであれば、いつでも立て直すことは可能ですが、立て直されてはいません。
話しははじめに戻りまして、高松塚古墳の木簡に記された文様は、後世の人が介入できないものですから、ある程度ユダヤと関係があったのかもしれません。
No30 ユダヤ人と日本人の似ているところ
ラビ・M・トケイヤーは著書『ユダヤと日本・謎の古代史』より、似通った点を拝借してみます。
神社についてです。
① 拝殿と本殿とに分かれている。
② 神官は白い下袴をつけている。古代ユダヤの神殿の僧侶も同じものを着けている。
③ その年にとれた初めての収穫物を神前に供える。
④ 神官はお祓いをする。古代ユダヤの僧侶もヒソップという木を使って清めの儀式を行う。
⑤ 偶像を使わない。鏡が使われる。
⑥ 護符、ユダヤではメズサと云って、小さな紙に聖書の一節を書いて壁に貼ったりする。日本でもお守りを貰ってきて、「火の用心」と書いたものを張ったり、「合格祈願」のお守りを腰にぶら下げたりする。
⑦ 神社に赤色を使用する。
⑧ 神官が烏帽子を被る。
⑨ 神社の入り口に手を洗うところがある。
⑩ 灯心の火は、二十四時間燃え続ける。
ユダヤの神殿のことは調べることが出来ませんので、そんなものかなと思うしかありませんが、神社以外では、塩によって清める。お風呂に入るときは、身体を洗ってから入る。山伏が頭の上につけている兜巾(トキン)などは写真が掲載されていますが、全く同じものと言っていいようです。
偶然に通っているのだということもできますが、これほど多くの点で似ているとなると学問的に調査する必要がありそうです。
トケイヤー氏は、「多くの外国人たちが日本へ旅行にやってきて、羽田空港に降り立つ。そして、日本の国技である相撲を見に行ったとしよう。その時、キリスト教徒たちは羽田に着いたときから全く混乱した違和感を抱いているだろうが、ユダヤ人の旅行者に限っては、何か家に戻ってきたような親近感があり・・・・・」と述べています。キリスト教徒たちが違和感をかんじるかどうかは別にして、「何か家に戻ってきたような親近感」はトケイヤー氏のみ感じるのではなく、仲間の人たちが感じるのでしょう。
普通は、どこの飛行場におりたっても初めは緊張感が伴うものです。
こうした気持ちは以外に大切かと思います。
だから、日本人の先祖はユダヤ人であるというのではなく、いろいろの方向から、調査するに値するものと考えます。
No29 ユダヤ人と日本人の関係
ユダヤ人と日本人について書かれた書物には、次のものがあります。(著者外国人)
① ラビ・V・M・ソロモンは著書『ユダヤ人の秘密』
「日本のしきたり、ものの考え方、哲学といったものの中に、ユダヤ人と非常に似ているところがあるのに気付いた」
② ラビ・M・トケイヤーは著書『ユダヤと日本・謎の古代史』
「心情的にユダヤ人は、日本人と非常に近いものを持っていると感じ取っている」
③ モルデカイ・モーゼは著書『あるユダヤ人の懴悔・日本人に謝りたい』
「個人的交際においても、日本人は対外となると、古来の伝統的美徳を完全に発揮している」
④ ヨセフ・アイデルバーグは著書『大和民族はユダヤ人だった』
「伝統をよく調べてみると、日本人は帰らざるイスラエル10支族の子孫ではないかと思われる」
⑤N・マックレオド著『日本古代史の縮図』
「日本人だけがその他の東洋民族とは全く異なった文化や行動様式をもつており、それがどうして起こったかというと説明が付かない。しかし、古代ユダヤ人が住み着いたとすれば、よく理解できる」
N・マックレオドはスコットランド人で学者ではなく、商人ですが、150年ほど前に来日し、日本の歴史を調べ、1875年に横浜で『日本古代史の縮図』を発刊しましたが、再版されていませんので、手に入れることは出来ませんが、②の11ページ以降に紹介しています。日本人の食事習慣や日常生活まで観察して、「旧約聖書に見られるさまざまな事柄が、明治維新直後の日本人の生活全般にわたって認められる」と報告しています。彼の書物は、発売後、無視されたようですが、彼がユダヤ人でもなく、キリスト教徒でもないだけに、全文を読みたいものです。
話しは変わりますが、外国ばかりで仕事をされた三家族の方と食事をする機会がありましたが、日本人はあまり、良く思われていないが一致した意見でした。特に、中国人と朝鮮人には、良く思われていないではなく、韓国人にいたっては、93%の人が日本人は嫌いであると新聞に書かれていました。日本史に興味を抱いて、まだ数年しかなりませんが、現在の日本人は、8割は先祖が中国人と朝鮮人であるように思えています。そうであるのに、ユダヤ人は、殆ど、日本人のことを良いように捉らえています。
例えば、『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者エズラ・ヴォーゲル、『それでも日本は成長する』の著者ハーマン・カーン、『第五世代電算機』の著者エドワード・ファウンゲンバウムなどなどは皆、ユダヤ人です。
最後に、1922年に来日したアインシュタイン博士は、続けられる世界の争いを収束させることのできるものは、武力や財力ではなく、あらゆる国の歴史を遥かに越えた、最も古く、最も尊い家柄でなくてはならないと日本のことを持ち上げています。
No28 ユダヤ人が絹を運んだルート 2
〔「ちゅうか」と呼ぶようになったのは、まだ中和村になっていない頃の小学校で「ちゅうか」の名前を使用していましたが、明治22年6月1日町制制度によって5ヶ村を統合した際、この「中和小学校」の「中和」を採って「中和村」としました〕
とありますが、普通は、江戸時代から「中和」という地名があり、その村にできた小学校だから、「中村小学校」と名前をつけます。小学校のあるところが、村の中心だったように思われます。意味は、中和村のホームページ(村の紹介)に書かれています。
私は別のことを想像してみました。
中和村は、かつて、大庭郡と言われたところにありました。神さんの庭があったところです。
中和村は、〔ちゅうか〕と読んでいますが、呉音で、〔くわ〕が近い音らしいです。日本のお金の単位は、円ですが、英語ではYENと書き、発音は〔ゐえ〕らしいです。これと同じでしょうか? 今の日本語では無くなった音のようです。大庭の中心だから、〔中和〕。ところが、役場のある地名は、〔下和〕です。ということは、〔和〕という地名があって、〔上和〕〔中和〕〔下和〕に分かれたと思われます。現在は、〔上和〕という地名はありません。〔初和〕という地名はあります。
中和村を過ぎます、すぐに蒜山高原になります。蒜山高原には、ユダヤの臭いはありません。多くの絹を運んだとしますと、その後もやはり、川を利用することになりますが、旭川ともっとも近い川は福本川になります。この川を下りますと、天神川、そして東郷湖です。古い地図を見ますと東郷池となっています。池と湖はどのように違うのか解りませんが、紀元前には、内海になっていたのではないでしょうか? もし、そうであれば輸出港であった可能性はあります。いつでも出航できるわけではないので,安全に船待ちの必要がありましたから、絶好の港でした。湖の東西に、倭文神社があります、輸出だけではなく、久米郡と同じように生産地だと思われます。
東郷湖の少し、西に「上神」「下神」という地名があります。読み方は。「上神」は、〔かずわ〕、「下神」は〔しもつわ〕です。これは、普通は読むことが出来ませんから、特殊な地名だと思ってもいいでしょう。
<中和村のHPの係りの中島さんに〔初和〕--ハツワ、〔下和〕--シタワ、お年よりはシタオと読んでいると教えてもらいました> 雰囲気が、上神」は、〔かずわ〕と似ています。この地名もユダヤ人のものでしょう。想像を膨らませますと、上神に天香香背男命が、住んでいたのではないでしょうか?
と言いますのは、集落が大きくなってきますと、地名は、東西南北をつけたり、上下をつけたりします。従いまして、多くの場合はその地名は並んでありますが、この地名は、少し離れています。
川の上流にある村を上山田、下流にある村を下山田というように名づけます。離れていると言うことは、上神が先にできたと思われます。上は位の上のことだとしますと、天香香背男命が住んでいたにふさわしい地名のように思います。吉備のほうに住んでいたのではなく、生産と輸出の両方に携わっていたのでしょう。
絹のルートは吉備に始まって、東郷湖が終点となります。






