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No 315 前方後円墳はどうして、大型古墳からはじまったか [日本の歴史]

300m前後の大きさで、しかも形は仁徳御陵にみられるように周囲に濠を持つ前方後円墳が、近畿地方を中心に、全国に広がりました。このように書くと、近畿ではじめに造られ、地方へ広がったように取られるかも知れません。すべて、調べていませんから、例えば、九州が先であったかも知れません。少なくとも云えることは、これほど、大きくなりますと、「われわれも造ってみるか」というような訳には参りません。墳丘の設計図を持っていた人がいて、次々と造ったとしか考えにくいです。箸墓古墳では、古墳の製造だけではなく、出土遺物に埴輪の祖形である吉備系の土器が認められる点を考えますと、吉備・岡山の人と関係があったと推察するのが、無理がありません。
 しかし、その後、信じられないほど、どんどん造られるようになったことは、どのように理解すればいいのでしょうか?
① お金があった・豊かであった。
② 豊かではなかったが、造る必要があった。
③ 一種の流行であった。

このように、考えていけば、いくらでも考えることは出来ますが、①を口にした以上は、立証しなければ、誰でも言うことができます。③の可能性は充分ですが、立証は相当大変です。そこで、②に挑戦です。
No 314 ホケノ山古墳のことを書きました。この古墳の南に箸墓古墳があります。箸墓古墳の北東に纒向(まきむく)遺跡と呼ばれる集落があります。 ここには、纒向勝山古墳、纒向矢塚古墳、纒向石塚古墳、東田大塚古墳があります。
「WELCOM さくらい」http://www.begin.or.jp/sakura/index.html からデーターを拝借します。
1.纒向勝山古墳
 前方後円墳、全長約110m、後円部径約60m、周濠幅約25m、埋葬部は詳細不明、葺石・埴輪無し。 出土遺物は、主に周濠部より出土。
 木製の刀剣把手・団扇・槽等の祭祀具の他、U字形木製品がクビレ部の周濠から出土しているが、U字形木製品の両先端部が風化により薄くなり尖っている状態は、小立古墳の周濠部から出土した木製石見形盾の脚部の状態に似ている。
2.纒向矢塚古墳
 前方後円墳、全長約96m・後円部径約64m、周濠幅約17~23m、墳頭部に板石が露出し
3.纒向石塚古墳
 前方後円墳、全長96m、前方部長約32m・幅約34m、くびれ部幅約12.8m、周濠幅約20m、葺石・埴輪無し。
 埋葬部詳細不明。石材はなし。周濠より弧紋円盤・鶏形木製品・鋤・鍬・横槌・水槽・建築部材等木製品が出土。
 
4.東田大塚古墳
 前方後円墳、全長約96m・後円部径約64m、周濠幅約21m、葺石・埴輪無し・周濠外堤部に東海系壷片で蓋をした土器棺(中部瀬戸内系)埋納。

すべて、前方後円墳と書いてありますが、これだけでは、よく判りませんが、実際に行って見ますと、直ぐに判ります。資料にどうして、古墳の高さが書いてないのか判りませんが、すべて、平地でしかも低いものです。どれも、100mぐらいの大きな古墳ですが、大きな古墳をいっぱい見てきましたから、それほど大きく感じません。
「WELCOM さくらい」は素晴らしいもので、よく見ますが、難しいことが書いてあります。リンクするときは、トップページにしてください。トップにアクセスしますと、自分が見たいところに到達するのに時間がかかりすぎて、その間に、自分の頭がストップします。学術論文でないのですから、モット、オープンにされると、それに触発されて、どんどんみなさん勉強されると思います。このような著作権があるとか書いてありまして、利用することが出来ません。勿論、著作権があるのですが、私が巻向遺跡のことを調べるとしても、現地に行って眺めるだけです。それだけで、一日かかりました。北海道のかたですと、一週間がかかるでしょう。 私はもっと、ホームページに写真(遠景・箸墓がうつっているもの・三輪山が写っているもの)を掲載して、遠くの人が行かなくても、行ったように報告すべきだと思います。
このホームページに、「纒向遺跡から出土する土器の約15%以上が、大和以外の地域で製作され纏向に持ち込まれたことがわかっている」とあります。搬入土器の出身地を調べてみると、約半数の49%が東海系の土器で、北陸系と山陰系が17%、河内系が10%、吉備系7%、関東系5%、近江系5%、西部瀬戸内系3%、播磨系3%、紀伊系1%となる(『纒向』桜井市教育委員会1980による)。

えらい変な苦情を挟みましたが、言いたいことは、この4つの古墳のデーターが少なすぎるということです。仕方がないので、この資料から考えて見たいと思います。

上記の資料だけでは、あまり多くのことが判りません。共通していることは、周濠があり、葺石と埴輪無い。発掘されていないので、古墳本体は分かっていませんが、どうやら、石棺はなく木棺のようである事です。
出土した土器が、全国からの土器であることを解明されたことは、すごいです。ここは、当時、全国の中心になっていたといえるかも知れません。大都市であった可能性を書いておられるのを見た記憶があります。それは言い過ぎではと思いますが、これから何が出るか判りませんから、断定はできません。どうやら、ホケノ山古墳よりは、古いのではないかと思っています。
ここに書かれていませんが、重要のなことが一つあります。遺跡からは、土器が出土したのですが、この周りからは、発掘されていません。ということは、周りには住んでいなかったのではないかと思います。想像だけですが、この辺りは、当時、湿地帯であったのではないかと思います。各古墳にある周濠は、排水施設だったのではと思うのですがどうでしょうか? 高さがそれほどでもありませんが、葺き石がありません。葺き石は、土砂の流失を防ぐのと、排水の役目をすると思います。(これは、土木学的いえないらしいですが)

ここに住んでいた人たちが、東海系の人のが、49パーセントですから、全体で云いますと、0.15×0.49で 全体の7パーセントの人が東海の人であったということになります。
このシリーズは、今日で、315回目になります。初めから読まれた方は、お分かりと思いますが、埼玉県から運ばれた絹は、静岡県、愛知県、滋賀県などを通って運ばれました。環濠の存在する集落は、関係があったのではないかと推察してきました。奈良では、唐古・鍵遺跡 http://www.begin.or.jp/sakura/karako.htm が絹の集積地と考えています。この遺跡の前が、ここであったのではないかと考えています。

少し、自分に都合よく考えすぎでしょうか?
これが、正しいとなりますと、箸墓古墳がなぜ、造られたかの理由が明らかになります。
この一帯には、ホケノ山で発見されたように、画文帯神獣鏡1面の持ち主は中国人と関係ある人と書きましたが、中国人なのでしょう。この絹は、次は、大阪そして吉備に運ばれました。
京都府の山城町にある椿井大塚古墳http://homepage1.nifty.com/o-mino/page779.html
・ 奈良の黒塚古墳など、全部関係してきます。もう一度、戻って読んでください。

崇神天皇は、相手の本拠地に楔を打ち込んだのだと思います。しかし、崇神天皇は、奈良は危険であるので、殆ど吉備で過ごしたと思います。
天皇だけに限って、前方後円墳をみますと、最初は開化天皇です。開化天皇はどのような人であるかをNo 105 辺りで書いています。ご覧ください。No 106では、初代から9代までの天皇の別名を書いています。
 初 代 神武天皇 神倭伊波禮毘古命
第2代 綏靖天皇 神沼河耳命 カムヌナカワミミノミコト
第3代 安寧天皇 師木津日子玉手見命 シキツヒコタマテミノミコト
第4代 懿徳天皇 大倭日子*友命 オオヤマトヒコスキトモノミコト)*…金+且
第5代 考昭天皇 御真津日子訶恵志泥命 ミマツヒコカエシネノミコト
第6代 考安天皇 大倭帯日子国押人命 オオヤマトタラシヒコクニオシヒトノミコト
第7代 考霊天皇 大倭根子日子賦斗邇命 オオヤマトネコヒコフトニノミコト
第8代 考元天皇 大倭根子日子国玖琉命 オオヤマトネコヒコクニクルノミコト
 第9代 開化天皇 若倭根子日子大毘々命 ワカヤマトネコヒコオオビビノミコト

倭という字が入っています。倭で生まれたか、倭で生活されたから、名前につけられています。あの
有名な邪馬台国です。変な話で、日本史にとって、重要なことの一つであるのに、未だに、邪馬台
国が何処にあったのか判っていません。それどころか、何か新しいことがあるたびに、九州に有利
なものが発掘された。今度は奈良に有利で、ほぼ、奈良にあったことが決定ですなどと、新聞報道
されます。 遺跡が発掘されるたびに、このようなコメントが溢れるのはおかしいと思います。普通に
考えれば、未だに、決着が付かないということは、きゅうしゅうでもないし、奈良でもないことになりま
す。

その後、崇神天皇はなくなりますと、此れでもかと、自分達の力を見せ付けるために、古墳を造りま
した。
これで、あの場所に、大型の前方後円墳が造られたこが説明できたことになります。

では、どうして、あの形であったのかは、次回にします。


No 314 前方後円墳と方向 [日本の歴史]

前方後円墳は、誰が四角形の部分を前に決めたのかは知りませんが、丸い部分には、亡くなられた方が埋葬され、遺族・家来たちが、四角のところで、お祀りをしたということになっているらしいです。だから、四角の方が前だというのが判りません。屁理屈を言わないで、四角のほうを前ということにしておきます。
 前方部の中心と後円部の中心を結び、前方部から後円部に向かって、その線を延長しますと、被葬者にとって、大切なところへ到達するのではないかと想像しています。例えば、その人にとって、大切な人が住んでいるところとか、昔、被葬者が住んでいた故郷とかです。
百舌鳥古墳群では、西や南を向いている古墳があります。その先は、日本であったり、朝鮮であったり、中国であったりしてもいいはずです。

日本の古墳は、4世紀から7世紀の間に集中的に造営され、その数は、10万とも言われています。その真偽は確かめるには、労力が多く掛りすぎます。4世紀から7世紀に限定しなければ、鳥取県だけでも、6000は超えると思います。京都府も7000は越えるのではないでしょうか?
 4世紀から7世紀の間に、前方後円墳のような特異な形をした古墳が、爆発的に増えました。この古墳は、日本独自の墓制とも言われてきましたが、1980年代に朝鮮でも見つかり、朝鮮半島源流説が唱えられるようになりました。何でも朝鮮から伝わったという考え方は感心しません。自分の国の前方後円墳のこともよく判っていないのですから、暫く朝鮮の学者に任すべきかと思います。
興味のある方は、韓国にある前方後円墳
http://toron.pepper.jp/jp/kodai/nicchou/kofunkr.html をどうぞ。

そこで、前方後円墳について、私の頭の中でもやもやしていることを書いてみようと思います。判らないから、もやもやしている訳です。判っていないくせに、河内の古墳のことに手を出し、その一部を知るために、前方後円墳のことを考える気になっています。おかしいところがありましたら、注意してください。

現在のところ一番古いと言われている前方後円墳に、
奈良のホケノ山古墳 
http://www.begin.or.jp/sakura/maho.htm#top 
http://www.begin.or.jp/sakura/maho1.htm 
http://www.kashikoken.jp/from-site/2000/hokeno.html があります。

ホケノ山古墳第4次研査 報道発表資料によりますと、
(1)茸石を備えた前方後円墳としては箸基古墳よりもさらに古く、現時点では最古に位置づけられる。
(2)長大なコウヤマキ製の刳抜式木棺をすでに採用している。3世紀中葉以前の木棺としては、現在までに知られている最も長い木棺である。
(3)銅鏡、銅鏃、鉄製刀剣類、鉄鏃、鉄製農工具類からなる豊富な副葬品を有する。中国鏡や素環頭大刀は大陸との交渉をうかがわせる遺物である。
(4)埋葬施設上に二重口縁壺を方形に配列することは、前期古墳の墳頂部における方形壇、方形区画や壺・埴輪の方形配列につながる可能性がある。
(5)木槨は弥生時代の大型墳墓では類例が知られているが、前方後円墳で確認されたのは初めてである。また、石囲をともなう点は特徴的であり、規模的にも現在知られるわが国の木槨としては最大である。

なかでも、画文帯神獣鏡1面(「吾作明竟」から始まる計56文字の吉祥銘文入りの「同向式」) 内行花文鏡1面の破片2点 画文帯神獣鏡2面の破片数点 の出土は、被葬者は中国人であるか、中国人となんらかの関係があったと思われます。

ホケノ山古墳の直ぐ南に、箸墓古墳(はしはかこふん)があり、その南には、巻向古墳群があります。これらの古墳との関係も述べなければなりません。しかし、大和古墳群調査委員会は、3世紀中葉以前の木棺と発表しましたから、そんなことを云われたら、自分達の立場がないと、自分の説を述べて、この発表は間違いであると発表しておられる方もあります。100年後の古墳であるとの意見です。このように、プロの間でも、もやもやしている事柄です。興味のある方は、「ホケノ山古墳」で検索されれば、楽しむことが出来ます。私は楽しんでばかりおれませんから、マイ・ウェイを行くことにします。

  
上の図は、ホケノ山古墳の前に掲げられているものです(上)。確かに、前方後円墳ですが、どちらかというと、円墳とした方がいいような古墳です。円墳に祭祀場を付け加えた感じです。京都府綾部市の私市古墳(下の図)には、少しだけ出っ張った部分があります。祭祀を行うのに、充分な広さです。只、私市古墳は、埴輪などから考えて、5世紀半ばの築造とされています。
上空からの写真 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page497.html 
前方後円墳の始まりは、案外このようなものであったかも知れません。
別の角度から考えます。
他のときの発表の資料に、棺の木片を「炭素14年代測定法」で分析したところ、西暦200年前後に伐採した木を使用したとみられるとのことです。これが正しいとしますと、210~220年頃の築造となります。
ところが、プロの間でも、箸墓古墳はいつごろの築造か判らなくても、ホケノ山古墳の方が古いことは、確からしいからです。箸墓古墳は奈良県桜井市箸中に所在する、最古級と考えられている大型の前方後円墳です。
現在は、宮内庁により第七代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととびももそひめのみことおおいちのはか)として管理されています。では、孝霊天皇はいつごろの人かといいますと、此れが良く判りません。 崇神天皇は、200年前後の人と思っています。(350年頃と云っておられる方もあります)。そこから、単純に天皇一代を20年としますと、140年頃となります。
 ホケノ山古墳は、分類すれば、前方後円墳に近い前方後円墳ですから、この際、仲間から降りていただきますと、箸墓古墳が一番古いことになります。結論だけをのべますと、箸墓古墳は卑弥呼(崇神天皇の妹)ではないかと考えます。そして、死後、崇神天皇が築造しました。そのご、自分が死んだときは、側に葬ってもらいました。ところが、隣ではなく、隣は景行天皇の墓があり、その隣が崇神天皇のお墓ということになっています。景行天皇の墓が、崇神天皇の墓であれば、辻褄は合います。
 前方後円墳は、円墳に方墳が合体した、円墳に四角の祭礼の場所が加わったなど、いろいろ説がありますが、上のように見てきますと、次第に大型の古墳が造られのではなく、突然大型古墳出現といった感じです。 その後、気が狂ったように、全国で造られる様になりました。 
方向の話が出ないうちに、終わることになりました。
次回は、なぜ 急に大型の前方後円墳が出現したかを述べてみようともいます。


No 313 古市古墳群を眺める [日本の歴史]

少し、お粗末な図ですが、古市古墳群です。蛇行している線は、大和川。南に分岐している川は石川。川の北が柏原市。南が藤井寺市。一番北にあるのが、最も古い津堂城山古墳。雄略天皇がその南西にありますが、これは円丘墳です。その他は前方後円墳です。
 百舌鳥古墳群と違って、古墳の方向が、すべて異なっている所を見て頂ければと思います。藤井寺市のホームページ http://www.city.fujiidera.osaka.jp/rekishitanbou/kofun/sorakara/sorakara.html にきれいな図があります。

古市古墳群の場所は大阪府の東南部、藤井寺市から羽曳野市にかけてです。 古市古墳群には、前方後円墳31基、円墳30基、方墳48基、墳形不明14基、計123基から構成され、群中には墳丘長200m を超える巨大な前方後円墳6基を含んでいます。
城山古墳     長持形石棺。
允恭天皇陵-----------墳丘長230m、前方部幅160m、後円部径140mを測る前方後円墳です。墳丘は三段に築かれ、二重の堀。出土埴輪等から5世紀後半に築造された古墳。 この古墳の周りには阿蘇溶結凝灰岩製の家形石棺や多量の副葬品が納められた唐櫃山古墳や長持山古墳、その他、衣縫塚古墳、宮の南塚古墳、御曹子塚古墳など10基近く。
仲哀天皇陵----------神巧皇后との間に応神天皇が生まれる。ミサンザイ古墳と呼ばれています。墳丘長242m、後円部径148m、前方部幅182mを測ります。くびれ部両側に造出。
応神天皇陵----------メッキを施した馬具が出土。円筒埴輪や円形埴輪なども出土。
仲津姫皇后陵------応神天皇の皇后。応神天皇陵の北東。直ぐ近くにある。堤上にも埴輪出土。その特徴から5世紀前半に製造されたと考えられており、応神陵から出土された埴輪より古い。

仁賢天皇陵--------ボケ山古墳。総長175m、墳丘長は122mで、墳丘長では古墳群の中で10番目の大きさです。前方部が大きく広がる形が特長で、古墳群の中では新しい時期に作られた古墳です。 前方部の北西側の堤の斜面では、2基の埴輪窯あり。

よく判らないのです。天皇の関係が、ゴタゴタです。それから、允恭天皇陵の周りに、阿蘇溶結凝灰岩製の家形石棺が見つかっている。これは、重要なことです。阿蘇からわざわざ、石を運んだことを表わしています。高槻市の今城塚古墳もそうです。【今城塚古墳と阿蘇の凝灰岩】http://homepage1.nifty.com/o-mino/page821.html において書きましたので、
読んでください。京都・八幡市の茶臼山古墳の石棺が舟形石棺で、しかも、阿蘇の凝灰岩板石です。 阿蘇の麓にいた中国人が来たとは限りませんが、関係があったと見ています。
 応神天皇陵から、メッキを施した馬具が出土したとあります。このような技術はこのころ、日本にあったのでしょうか? 無かったとしたら、神巧皇后が朝鮮征伐をしたときの戦利品ではないでしょか?
神巧皇后は、天皇でもないのに、天皇以上にその歴史が記されています。記述が少ないのも不自然ですが、あまり多く書かれているときは、不自然です。神巧皇后のことをそれだけ、説明しなければならなかったのではないかと考えています。
 神巧皇后は朝鮮征伐をしたことになっていますが、朝鮮の人は、簡単に服従したのではないか思います。ということは、神巧皇后は、新羅の人だったのではないかと疑っています。そのようなことを考えますと、応神天皇陵も応神天皇の墓ではなく、倭の五王のはかではないか? 高槻市の今城塚古墳も倭の五王ではないかと。-・・・・少し、脱線がすぎました。このページは、古墳の向きがまちまちであることを書くつもりでした。

古市古墳群と百舌鳥古墳群を比べた時は、古市古墳群のほうが古いのではないかという仮説です。古市古墳群における被葬者は、結構、いろいろのグループの人が混っていたのではないか? すこし、遅れて造られた百舌鳥古墳群では、二つの勢力に絞りれるようになった。即ち、西向きに古墳を造る勢力と南向きに前方後円墳を造るグループに分かれた。
 奈良の平城京の北側にある佐紀盾列古墳群は、すべて同じ方向に向いています。奈良の大和・柳本。箸中古墳群は、様々の方向です。
 大型古墳時代が、400年近く続いたのですが、全体の流れをみるとき、古墳の方向は重要なのではないかと思っています。
 なぜ、重要なのかを次回に推理して見ます。


No 312 百舌鳥古墳群を眺める [日本の歴史]


左の斜線、大阪から和歌山までの国道26号線。 2番目右下の方向へ南海高野線 
3番目左下の方向へ、JR阪和線です。 2番目と3番目の交差している所の駅は三国ヶ丘

古墳の分布図ですが、極く、一部です。
①田出井山古墳(反正陵)  7番目の大きさ(堺市で)
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/database/hanzeiryo.html
②大仙山古墳 (仁徳陵)  1番目(日本で)      長持形石棺
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/database/nintoku.html
③乳岡古墳        6番目(堺市で)      長持形石棺
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/database/chinooka.html
④ミサンザイ古墳(履中陵) 3番目 (日本で)  
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/database/rityuuryou.html  
  以上、南向きの前方後円墳

⑤長塚古墳     墳丘は全長約100m、後円部径約55m、高さ約7.5m、埴輪出土
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/database/nagatsuka.html
⑥大塚山古墳 消失 5番目 (堺市で) ミニチューア土製品を伴う家形埴輪

⑦いたすけ古墳
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/database/itasuke.html
⑧御廟山古墳   墳丘は、全長約186m、後円部径約95m、高さ約17m、4番目(堺)
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/database/gobyouyama.html
⑨ニサンザイ古墳 墳丘の規模は全長約290m、後円部径約156m、  8番目(日本)
http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/database/nisanzai.html
⑩尼塚古墳
  以上、西向きの前方後円墳

堺市のホームページからデーターをお借りしますと、百舌鳥古墳群は、台地の上に築かれていて、仁徳陵古墳(大仙古墳)や履中陵古墳(石津ヶ丘古墳)を中心に、東西・南北とも4kmほどの範囲に広がっています。造営は、4世紀の末から5世紀の初め(古墳時代中期)に始まって、6世紀の後半頃(古墳時代後期前半)まで続き、その間に100基を超える古墳が築かれました。
 現在、半壊状態のものを含め、前方後円墳21基、円墳20基、方墳5基、形態不明1基の47基の古墳があります。もとは、100基を超す古墳がありましたので、半分以上がなくなったことになります。
詳細は、古墳一覧 http://www.city.sakai.osaka.jp/kofun/database/index.html をご覧ください。
百舌鳥古墳群は150年ぐらいの間に、100基も造られたことになります。仁徳陵古墳だけでも、16年かかったと計算されています。それぞれ、発掘された古墳から出土したものを比較検討することによって、いろいろのことが判ると思いますが、資料が手に入りません。入るごとに考えたことを書くことにして、どうして、仁徳陵古墳(全長約486m、後円部径約249m、高さ約35m、前方部幅約305m、高さ約33m)のような大きい古墳を造る必要があったのか? 造る人をどうしたのか? 造るお金はどうしたのか? 何故鍵形なのか? 知りたいことはいっぱいです。判ったら書こうと思っていましたが、それでは、いつになっても書けませんので、疑問は疑問のままで、私の推察も混ぜながら書いてみようと思います。
地図を載せました。①~④までは、南向きです。⑤~⑩は、西向きです。この地域は、きれいに分かれているのが気になりました。岡山県も沢山の古墳がありますが、こちらは、いろいろの方向が見られます。
左の斜線は国道26号線ですが、この直ぐ西に、海岸線があります。正確に、国道の海抜を測定しますと、全部一緒なのではないかと推察しています。もし、一緒であれば、①~④は海岸線に平行に造られたことになります。誰が言われたか忘れましたが、外国から来る人を驚かせるためという説明も悪くありません。大きく見えます。ただ、4世紀の末から5世紀の頃に、どんどん外国から船が来て、驚いてくれたかという事です。こちらは、それで解明できたことにします。ところが、⑤~⑩は、どうして、東西に向けて造られているのかとなりますと、説明出来ません。
 同じ方向を向いている古墳は、なんらかで共通するものが有るのではと思います。田出井山古墳とミサンザイ古墳は、もし、発掘されたら、長持形石棺が出土するのではないか?
乳岡古墳の墳墓であろうと推察します。
①~④の被葬者と⑤~⑩の被葬者は、違うグループの人達であると推察します。前者は天皇陵であったから、後者は天皇陵ではない。
 ニサンザイ古墳は、巨大であるだけに、どの天皇か判りませんが、宮内庁が反正天皇の空墓として陵墓参考地に指定し、管理しています。仮に天皇で無いとすれば、誰だとなりますが、倭の五王の一人という事になります。天皇家は、海岸寄り。倭の五王は、山に近いところに位置することになります。古墳の大きさは、大きいことによってメリットは考えにくいです。ジャンボ飛行機ならば、一度に大勢が運べます。しかし、要する費用は、ダイヤモンドと一緒で、大きさが倍になれば、費用も技術も4倍になると思われます。誰かと大きさを競ったことになります。


No 311 河内の古墳群 [日本の歴史]

河内は、読んで字の如くで、河の内側を言いますから、全国にいっぱいあると思います。今回、取り上げようとおもう河内は、大阪の河内です。大阪と奈良を分ける山が北から、生駒山、信貴山、葛城山、金剛山と連なっています。その信貴山と葛城山の間に、裂け目ができて、奈良盆地に貯まっていた水が、西側の大阪側に流れ出しました。
 その一番狭いところが、亀の瀬峡谷と呼ばれ、この狭いところを国道25号線やJR関西線が走っています。勿論古代も奈良から大阪へ抜ける主要道路だったと思われます。
大阪側に出た所が、現在の柏原市です。
No 200~208(http://homepage1.nifty.com/o-mino/page852.html )までで、柏原市の様子を書きました。
柏原市から、西へ目を移してもらいますと、隣が藤井寺市、その西隣が堺市です。前者には、古市古墳群、後者には、百舌鳥古墳群と呼ばれる数多くの古墳が存在します。数が多いだけではなく、日本で一番大きい大山古墳(伝仁徳天皇陵)・ミサンザイ古墳(伝履中天皇陵)があり、後者には、誉田御廟山古墳 (伝応神天皇陵)・岡ミサンザイ古墳 (伝恵我長野西陵・仲哀天皇陵)等があります。前方後円墳、円墳、方墳をすべてあわせますと、両者とも100基を数えます。
  河内は河の内ならば、淀川と大和川の間かと思っていましたが、どうやら勘違いをしていました。上のタイトルが正しいかどうか自信がなくなってきましたが、柏原市から西一帯あたりと思っていただければと思います。

天皇家の家来のような存在の宮内庁の人が、ずっと、先祖伝来で、大仙陵古墳を仁徳天皇陵だと言い伝えて来たのですから、間違っていても別に構わないと思うのですが、誰が言い出したのか知りませんが、正確なことは判らないのだから、仁徳天皇陵という言い方は良くないのだと現在では、大山陵古墳と呼ぶことになっています。天皇が、今日は仁徳天皇を偲んで、久しぶりにお墓参りをしようかと思っても、黙って行かないといけないことになります。いつの時代かに、違うことが判ってから、訂正すればいいのに、誰の意見が強く通されているのか、不思議なことです。 こんなことも考えながら、眺めています。
 なかなか上手く書けないのですが、地図を全体的に眺めて頂き、この辺りは地形的にみても重要な地点であった。墳墓の大きさと数の多さからみても重要な地点であったことを見て頂こうと思いました。

百舌鳥古墳群 http://megasite.cool.ne.jp/Mega/Kodaishi/kodai05/Mozu/mozukofun.htm
百舌鳥古墳群を歩く http://www.hpmix.com/home/setsuya/AI3.htm


No310 奈良時代の経済の中心は絹と米 [日本の歴史]

このタイトルは少し、オーバーだったでしょうか?  だったのではないか。これから調べたいというところです。少し、頭の整理をしようと思います。
No306からNo309まで、奈良時代の絹の生産地、その分布、価格などを見てきました。絹の値段が、稲束と文で記録されていました。

『続日本紀』の和銅8年(708)5月のところに、「壬寅 始行銀銭」とあります。同年8月に、「己巳 始行銅銭」とあるから、流通したことはしたと思われますが、711年(和銅4年)には、流通を促進するために蓄銭叙位令が発布された。これは、従六位以下のものが十貫(1万枚)以上蓄銭した場合には位を1階、二十貫以上の場合には2階進めるというものです。この法律は変なもので、確かに、物を買うときに、他の貨幣に変わるものではなく、銅銭を使うようになったのですが、金持ちは、それを貯えて位を挙げようとしたために、銅銭は流通しなくなったので、800年には廃止されています。
 貨幣として有名な和同開珎は、708年から流通したことになっていますが、上に書いたようにあまり流通していなかったのではないかと推察しています。ただ、畿内だけではなく、地方でも発見されており、広く使われていた可能性もあります。正倉院の古文書にのこっている数値は、一般庶民が使っていたものかどうかが、問題です。使っていたとしますと、一般庶民も字を書くことが出来たことになります。
この分野は、私が知らないだけで、詳しいことが研究されているのかもしれません。
さて、絁が600文となりますと、一体どれほどの和同開珎を支払うことになるのでしょうか? 和同開珎一枚が、一文でしょうね。 現在のように、何種類もの硬貨が無かったのですから、一枚でしょう。となりますと、600枚です。これでは、銅貨は通用しづらいです。
ただ、絹も品質がいろいろですから、軽いので貨幣としては便利ですが、絹の目利きが必要であったことになります。

それでも、やはり経済の中心をなすものは、絹と米であったのではと考えています。

それがどうしたのだと言われそうですが、私の頭の中にあるのは、全国に現在でも存在する式内社と呼ばれる神社の存在です。
No307において、気比神社のことを書きました。
日本書紀の持統紀6年9月(692年)のところに、「越前国の司白蛾を献る。戊午、詔して曰く、白蛾を角鹿郡の浦上之浜に獲たり。故れ封を笥飯神(けひのかみ)に増すこと廿戸、前に通はす」の事です。
どうして、神社が関係あるのだと思いましたが、絹の値段がこれほど高価となりますと、話が違ってきます。式内社には、朝廷から幣帛といって絹を賜っていたことが分かっています。絹ぐらい、少々もらっても仕方が無いと考えていましたが、神社としては、貰った絹は貨幣として、米にも変えることが出来たのですから重要な物であったことになります。
式内社に祭られている祭神は、すべて、日本書紀に使われている漢字が使われています。
 神社に届けられる幣帛には、勿論、絹もセットになっていたと思われます。式内社は朝廷が指定したと思われていますが、日本書紀を著した藤原不比等のグループの支配下に置かれた神社と思われます。
 表現を変えますと、経済の面でも、藤原不比等のグループが支配していたことになります。 


No309 奈良時代の絹の値段 [日本の歴史]

どのような事柄でも、記録しておくことは重要であるということを知りました。
布目順郎著『養蚕の起源と古代絹』P139~155に「奈良時代の繭糸製品の価格」というタイトルで、価格の一覧表ならびにそれに対する考察をしておられます。書かれてあることが、はじめて目にするもので、一筋縄でいきません。私なりの解釈を記しますが、興味がありましたら、確認してください。
 データーは712年から780年までのものです。例えば、天平元年(729) 上絁 400文、上糸 100文とあります。 絁と糸がどのように違うのか判断できませんが、品質に見た目で値段が4倍の差があるほど、違いがあったことが判ります。 ここに記載された絁の長さや重さが記されていませんが、出典の続日本紀にも書かれていないのかどうかは、確かめていません。もし、続日本紀にも書かれていないとしますと、当時は、絁といえば、どれぐらいの量であるかは決まっていたことになります。

天平2年(730) 布(段) 70束 とあります。これは織物ですが、書いてないところを見ると、幅は決まっていたのでしょう。70束は、稲の70束になります。750年ころは、1束の稲から米が5升取れたそうです。1升ビンは、水ですと約1.8リットルです。重さでいいますと、1.8キログラムです。5倍しますと、9キログラムです。現在の米の価格を知りません。5000円ぐらいですか? 布1段は、350000円となります。どこか間違っているでしょうか?
 貨幣以前は、絁や絹織物、綿、糸、鉄などがあったらしいですが、稲束が主流で、平安時代ころまで続いたらしいです。絁の値段は、60束の数字見られますが、普通の絁は、600文、720文が見られますが、紫綾絁は1200文、緋綾絁は1323文で高価です。黄絁は370文で安い所をみると品質が悪いのでしょうか?

天平宝字4年(760) 絁と記載されて、価格と地名が書かれています。
安芸絁(600文)、讃岐絁(660)、丹波絁(680)、但馬絁(669)、因幡絁(614)、遠江絁(646)、越前絁(635)、備中絁(630)、下野絁(620)、美濃絁(655)、常陸絁(630)。
上記の価格は、殆ど、正倉院にある古文書からのものです。ほぼ、同じような価格帯ですが、因幡絁の(614文)のような半端な価格がでるのでしょうか?
その他の資料によりますと、生産地によっても当然価格がことなっていますし、生産された年によっても品質に差があったことが判ります。
 ゆっくり眺めていますと、もっと、いろいろのことが発見できるような気がします。

どのような事柄でも、記録しておくことは重要であるということを知りました。


No308  奈良時代の養蚕の分布 [日本の歴史]

布目順郎著『養蚕の起源と古代絹』P88~90において、いろいろの絹が、いつ、どこの国から、送られてきたか、絹に関する出来事の記録など、75例収録されています。出典も書かれています。正倉院に残っている古文書・続日本紀、常陸国風土記・令義解の名前が見られます。
ただ、残念なことは、西暦703年から775年までの記録だけです。推古12年(604)に制定された17条憲法の16条に書かれていた頃より、100年も後のことになります。
 
例えば、和銅5(712) 錦、綾。  伊勢、尾張、参河、駿河、伊豆、近江、越前、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲、播磨、備前、備中、安芸、紀伊、伊予、阿波、讃岐。出典は、続日本紀5となっています。
 これは、絹糸ではなく、織物の状態で納入されたもののようです。
和銅7(714) 養蚕。出羽国。とあります。絹を納めたとはありませんが、出羽国ではじめて養蚕を始めたというニュースの収録と思えます。
絁(あしぎぬ・絹より、少し太めの絹? )の例が多いです。事項の欄に、桑と麻もあり、綿とだけ記載されたものもあります。掲載されている一覧表は、どうやら織物に関する記録がなされている事項を一覧にしてあるようです。間違って伝えますと、申し訳ありませんので、ご自分で確かめて頂く事にしまして、掲載されている3つの表から導くことができる結論だけを記します。
 奈良時代に蚕糸業が行われたとみなされる国を記しますと、出羽、下野、上野、信濃、美濃、近江、越中、能登、越前、常陸、上総、武蔵、相模、甲斐、伊豆、駿河、遠江、参河、尾張、伊勢、伊賀、河内、丹波、丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、播磨、美作、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、紀伊、伊予、阿波、讃岐、土佐、筑前、筑後、豊後、肥後、日向、大隈、薩摩の49ヶ国です。この数字は、全国数の3/4に当たります。

奈良時代に養蚕が行われなかった国は、陸奥、飛騨、佐渡、越後、下総、阿房、志摩、山城、大和、摂津、和泉、淡路、豊前、肥前、隠岐、壱岐、対馬です。
これらの結果は、記録として残っているもののみからの推察に過ぎません。

700年から775年の間に、ほぼ、全国において絹が作られていたことになります。不思議なことは、諏訪神社が多い越後が何故、そして、畿内の志摩、山城、大和、摂津、和泉の記録がどうしてないのでしょうか?
ここに書きましたほかに、絹の断面積と完全度の計測によっての絹の品質の考察などもされており、多くの研究から得るものは多いと思われます。ただ、私にとっては、難解な部分が多いので、興味のあった事項のみの紹介をしました。 


No307 奈良時代の養蚕 [日本の歴史]

推古12年(604)に制定された17条憲法の16条に
「民を使うに時を以てするは古の良典なり。故に冬の月には間(時間)有る。以て民を使うべし。春より秋に至るまでは農桑の節(季節)なり。民を使う可らず。其れ農(農業)せざれば何をか食(くら)はむ。桑(養蚕)せざれば何をか服(き)む」

17条憲法のーは、憲法と書かれていますが、現在にみる憲法とは異なります。この16条などは、民が守るべきことではなく、為政者が心得ておかなければならないことが書かれています。聖徳太子としては、税金の元になる農業と養蚕を最重要とするだけでなく、農民に対する労わりの大切さを記しています。人間が生きていくために必要な衣食住のうちの、衣食に関することを書き留めています。蛇足になりますが、鉄が大切であるなどは書かれていません。
どのような法律でも、必要になってからしか作られないものです。大化の改新(645)によって、中国の方式が取り入れられ、所謂租庸調の制度が行われます。この時ほど、整備されていたとは限りませんが、強制労働が課せられていたが、為政者は自分達の都合で労働をさせて、不満があったから聖徳太子は、16条に加えることになったと思われます。大化の改新の50年ほど前のことになります。
このことから、別の方向から眺めますと、600年頃は、麻のような繊維より、日本では絹が一般庶民でも使われていたと推察できます。

少し、後の世になります。日本書紀の持統紀6年9月(692年)のところに、「越前国の司白蛾を献る。戊午、詔して曰く、白蛾を角鹿郡の浦上之浜に獲たり。故れ封を笥飯神(けひのかみ)に増すこと廿戸、前に通はす」とあります。白蛾がどのようなものか判りませんが、日本書紀に書きとめるほど、大切な事柄だったのでしょう。このころですと、品種改良を人工的に行っていたのでしょうか?  偶然手に入れることになったかは不明です。
封は封戸、前に通はすは「前通」が本文です。前の通りでは、おかしいです。やはり、加増されたとすべきでしょう。気比神社が貰ったのはどういうわけでしょうか?  (一戸につき、租の半分と庸・調の全部を被給者の収入とするらしいですから、廿戸分は相当な額になります。白い絹が出来たのでしょう) 絹は、神社ごとに集めていたのでしょうか?


No306 銅鐸に描かれた絹関連の道具 [日本の歴史]


上の絵は、銅鐸に描かれた絵を一部、切り取って並べたものです。それぞれ、持っているものに注目してください。「工」の字の形をしています。その他に共通するものは、頭が丸いこと。胸が三角に描かれている。座っている様子を表しています。他の銅鐸に描かれている持ち物は、弓や杵であったりして判りやすいですが、「工」の字の形の道具は不明です。Dに描かれている下の二つは、魚にしか見えません。魚だと断定して、この道具は、魚を取る道具だと云っておられる方もおられます。また、イナゴを追う道具に「工」の字の形の道具があるそうですが、現在その道具は、発見されていません。
Aは香川県で見つかった大橋八郎銅鐸です。この銅鐸には、トンボ、カマキリ、イモリ、サギ、スッポンなどと、狩猟、脱穀、穀物倉が描かれています。上の図はなにか不明と言われていた物です。Bは谷銅鐸と書かれていますが、出所地が判りません。CとDは神戸市灘区の桜ヶ丘銅鐸です。神戸市立博物館http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/001.htmlに所蔵されている14個の銅鐸のうち、4号、5号銅鐸と呼ばれるものです。
この4枚の図は、布目順郎著『養蚕の起源と古代絹』のP407に「銅鐸面にみられる工字形器具を持つ人物画像」とタイトルをつけて、収録された図です。
布目順郎氏は、「桛 考」と題して、P405~428を費やして、この工字形器具は、紡織のときに、糸を巻きつけておく桛(かせ)であろうとしておられます。膨大なページを使って、論証しようとされていますが、これで間違いないという訳にはいきませんが、要点のみを箇条書きにします。
① 伊勢神宮に現存する桛は銅鐸の絵と寸法が異なるが、使われていたことがわかる。
② 東南アジアで使われている桛は、銅鐸の図とほぼ同じ寸法である。
③ 静岡県白岩遺跡出土の桛(弥生時代後期)は、寸法の比は、銅鐸と同じである。
④ 1972年、中国の雲南省江川李家山にある、戦国末から漢初に至る間の古墳群から、工字形銅器が5個出土している。これらの5つのものは、別々の墓からでたもので、銅製の紡輪、巻経杆、梭叧、繞綫板などと一緒に出土していることからみて、おそらく日本の桛に相当する器具であるに違いないと控えめに断定しておられます。
⑤ 甲骨文字にも工字形はえがかれている。

上記の銅鐸に、仮に、絹織物に使われたと思われる工字形器具を描いたとしますと、出土した所で絹が作られていたことになります。では、香川県や、神戸市灘区で絹が作られていたことの立証が必要になります。銅鐸が発掘されているところは、畿内を中心にして、西は出雲、東は静岡県ですが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡でも出土していますから、今後、どこから発見されるか判りません。吉野ヶ里遺跡のように、離れたところから出土したことを考えると、ここでは、銅鐸の制作はしたが、出雲の人に売ったという考え方も成り立ちますから、神戸市灘区で絹が作られていたことを必ずしも説明しなくても良いかも知れません。
銅鐸も銅鏡も避けては通れない部分ですが、これに手をだしますと、此れだけで数年、もっと多くの年月が必要としそうです。本日は、銅鐸があった頃に絹織物をつくる道具が描かれていたことのみの紹介をしました。では、いつ頃のことなのかといいますと、此れがまた、難解のシロモノです。紀元前200年頃でもあるようで、紀元後であるようでもあります。荒っぽく弥生時代ということにしたく思います。

ただ、これだけにしようと思っていたのですが、嫌なものを見てしまいました。神戸市立博物館にある銅鐸ですが、灘区桜ヶ丘町から発掘されたのですが、博物館のホームページの解説には、「14個の銅鐸のうち1~3号銅鐸は流水文(りゅうすいもん)銅鐸で、1号銅鐸は身の中央よりやや上に影絵風の絵画文で飾った横帯があり、2号銅鐸は身の中央にシカの列を線描で鋳出している。
 4~14号銅鐸は袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸で、4~5号銅鐸は身の両面の4区内にいずれも線描の絵が鋳出されている。6号銅鐸が最も大きく、高さ64.2cm、最小は14号銅鐸で21.4cm。
 銅戈7本は長さ27.2~29.0cmでほぼ大きさがそろっており、樋(ひ)を複合鋸歯(きょし)文で飾った大阪湾型銅戈である」と書かれています。なんだか、自分で持っていたのではなく、収集していたか、誰かに与えるために所持していたようにも思えます。九州方面は、銅戈はの地域と思っていたのに、一緒に出土したとなるとその謎を解きたくなります。出来れば、誰かにお任せしたく思っています。