No328 堀に水の無い前方後円墳 [日本の歴史]
前方後円墳の周濠は、初期のものは、排水施設、巨大古墳のものは、耐地震施設と結論に無理やりに持っていきました。無理があるものの、このように考えますと、まだまだ前方後円墳の研究はすることがいっぱいです。
そうしますと、どうして、群馬県に大きな前方後円墳があるのか。この前方後円墳は、近畿地方の前方後円墳とどのような関係があるのか。次第に判ると思います。それも、古墳前期の築造などという判りにくい表現は、古墳を始めてみた人には判りません。せめて、230年頃(30年前後幅あり) と書きますと誰にでも理解できます。
周濠の水は、役立っていることを書いてきました。そこで、水が無い周濠のことを書いてみようと思います。
その1. 神戸市垂水区の五色塚古墳です。

写真の下部は、南で右下の三角部は瀬戸内海です。
堀に当たる所は、周りの普通の道路より、随分下方にあります。正確ではありませんが、東側では3mほどだと思います。幅も随分あると思われます。ところが、西側では、道路面との差は、1mです。その堀の底に当たる所に、現在は、古墳の管理事務所が建てられていまして、道路との差は、50cmぐらいではないでしょうか? 前方部に当たる所の西側は、住宅が密集しており、堀らしきものはありません。私は水がないので、堀という漢字を使いましたが、五色塚概要を記した冊子によりますと、現在の後円部をめぐる周濠の大きさは、ほぼ築造当時を保っている。 修復する前に撮影したと思われる航空写真が掲載されていますが、古墳全体は木が生えて、堀も木又は草で覆われているように映っていて、水は無いようです。
写真の下部は、南で右下の三角部は瀬戸内海です。
電車によって切り取られた部分に濠があったと考えられますが、あったとしても後円部にある濠は、深くはありません。しかし、何らかの役に立っていたのではないかと想像しています。少ない写真から想像しますと、復元される前には、既に濠には水がなく空堀であったと思われます。古墳の崩壊は進み、葺石は長年の間に、持ち去られたのかも知れませんが、半分ぐらいに減り、崩壊が始まっていたようです。濠は関係なしに崩壊が始まっていたのかもしれませんが、私は五色塚古墳は、前方後円墳の模範になったと思っているだけに、せめて濠の発掘だけでもしてほしいなと思っています。元々はもっと深い濠だったのではないか知りたいものです。
その2 椿井大塚山古墳
所在地は京都府山城町です。木津川が大きくカーブしているところから、少し北に位置します。

見学のしおり2から拝借しました。丘陵地にあります。後円部のやや下に弧を描いた部分が見られます。この部分にJR奈良線が通っています。この工事(昭和28年)のときに発見された古墳です。写真に見られるように、前方部は住宅地に置き換わっています。後円部の中心は、高さは20mほどあると思われます。前方部は住宅を建てるときに、削られたかどうか確かめていませんが、後円部よりは随分下にあります。
後円部の後(写真では上)の方に、堀があったのではないかと思える幅10m(?)の空き地が存在していました。全体を見た感じでは、古墳全体に木が生えていて、普通の山にしか見えません。堀はあったが、古墳は崩壊し山と一体になった雰囲気です。
ただ、形からいいますと、これと同じ形のものが、ヒルゼン高原の中蒜山五合目にあったのではないかと想像しています。そして、古事記と日本書紀に「オロゴロ島」と書かれているのが、そうで、後の世に、同じ形のものを神戸市垂水区にイザナギのお墓として五色塚古墳として造られたのではないか? 映画のストーリーのようなものを頭に描いています。
No327 前方後円墳のその他の考察 [日本の歴史]
如何でしたでしょうか? 私の仮説。前方後円墳が1800年もなぜ壊れなかったかに対する仮説です。えらそうに仮説と書きましたが、このような考えは、仮説とは言わないで、単なる思い付きといいます。単なる思い付きは良くないと、末永雅雄氏は、著書『古墳』において書いておられます。
一行目に書きました〔1800年〕は、一般の常識から考えますと、あり得ない数字です。一般の常識とは、なにか判りませんが、殆どの書物では、前方後円墳は4世紀後半から7世紀とされています。しかし、これでは、崇神天皇より以前の天皇の墓は、あってはおかしいことになります。崇神天皇は350年ぐらいに考えておられる方が殆どです。これを250年とか、200年などにしますと、弥生時代です。このような頃に、巨大な古墳を造る技術が無かったはず、あのような大きな古墳は、天皇家のものであるという考えを進めますと、初代から9代までの天皇は実在しなかったことにしないと考古学と歴史が整合しないことになります。
しかし、「前方後円墳が1800年もなぜ壊れなかったか」と疑問を投げかけるだけで、なにか仕掛けがあったはずだと考えますと、私の無理やりの仮説が生まれます。この仮説は、正しいということを立証しようとしますと前方後円墳に関するもっと、詳細な研究が必要になります。たとえば、仁徳御陵の周りの土のボーリングを行います。周囲の土も御陵と同じように軟弱な土だと推察します。そうすれば、御陵を測量しなくても推論は可能です。まだまだ実験をしなければならないことが一杯あると思います。
その内のいくつかを書いてみます。
① 古墳の斜面の傾斜。 仁徳御陵は、ほぼ、20~22度の傾斜があるそうです。これは、4の長さの棒を垂直に立てます。土と棒が接する所から水平に10の長さの棒を伸ばします。二本の棒の先端を結びますと20~22度を得ることが出来ます。10と10の棒ですと、45度。正三角形を作ると60度。このように角度を正確に作る知識はあったことになります。エジプトでは、まだ。0の概念がないときに、ルートの概念があったことは、1.41421356・・をヒトヨヒトユニヒトミゴロと覚えた記憶はどなたにもあると思います。この概念は、ピラミッドの建設に使われたはずです。
20~22度の傾斜に意味があるはずです。壊れにくかった傾斜です。これを実験で確かめるのは簡単です。
② 古墳を造るときに、土を盛って造るのであれば、突き固めなければ崩れてしまいます。二枚の板で空間をつくり、その間に土を入れて少しずつ、圧力をかけて固める方法を版築といいます。土に草や礫をまぜることによって、強固なものが出来上がります。この技術は中国人の得意とするところです。此れぐらいのことは、中国人に教えてもらえば、直ぐに会得できる事ですから、版築技術を用いてあるから築造は中国人によるものと断定することは出来ません。しかし、技術というものは、盗めそうで盗めないものですから、やはり、中国人の関与があったのでないかと、疑ってみる必要はあると思います。ところが、日本の古墳には、版築は初期に使われたが、殆ど無いといわれています。その理由は、中国の方法でやっても、硬くならないからだそうです。中国の黄土のように粒子の細かい土壌であってはじめて、石のように堅くなるらしいです。では、ただ単に、土を叩いて固めただけであろうと考えられています。例えば、新しく造成した宅地では、何年か判りませんが、そのまま、家を建てないで、放置されています。同じことで、仁徳御陵も15~20年ほどかかったであろうという推定は、この辺りの知識も入っていると思われます。
③ 拘りますが、私は、15年も寝かせなくても、現在の家は100年ぐらいはもつと思いますが、水害には、ひとたまりもありません。1800年は無理だと思います。それでは、どうしたら、硬くなるかです。思い付きを述べますと、プロの方から叱られるかもしれませんが、塩化カルシウムか、塩を混ぜれば強くなるのではないかと推察しています。
それは、なぜかといいますと、古事記にイザナギとイザナミが日本列島を作った話が載っています。最初にできたのが、オノコロ島です。
「ここに天つ神諸の命もちて、伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神に【この漂へる國を修め理り固せ成せ。】と詔りて、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。故、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして畫きたまへぱ、塩こをろこをろに畫き鳴らして引き上げた
まふ時、その矛の末より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき。これ淤能碁呂島なり。」
このオノコロ島は、蒜山高原の中蒜山の中腹に造ったときの造成地ではないかと私の著書「古事記の新しい読み方」において、書きました。この造成地が、前方後円墳の形をしていました。そして、イザナギの子孫たちが、後の世に、神戸の垂水において、五色塚古墳をつくったのだという夢物語も書きました。現在書いているシリーズ「新しい日本の歴史」のNo317~318に書きましたので、もう一度読んでください。
調べれば、私の推理が正しいか間違っているか、直ぐに判ります。各古墳の土に水をかけて、その水の塩分の濃度を測定すればいいことになります。塩分は、認められなくても、他の物質が発見できるかも知れません。
以上で、御仕舞にします。
仁徳御陵を発掘するのも良いですが、別にしなくても、このように考えていくと、発掘する前に準備をすることは一杯あります。準備もしないで走りますと、高松塚古墳の壁画のようなことになります。
No 326 前方後円墳と周濠 その3 [日本の歴史]
木村悌二氏の話によりますと、大山古墳のまわりでは、1mも掘りますと、水が出るそうです。ある書物によると、濠を掘って古墳が完成したら、堀に水を張って完成ということが書いてありました。木村悌二氏の話が本当であれば、この文章は間違っていることになります。1m掘った辺りの土は、水分を多く含んでいることになります。そのような土で33mの山を築くことが出来るのかという事です。大山古墳の濠に水を引くといっても、現在は、そのような川は無いそうです。常に濠に水を溜めていることになります。古墳に降った雨が土にしみこんで濠に貯まったとも考えられますが、それでは不足するのではないでしょうか? どこかから、地下水が流れ込んでいることになります。堀を掘るしりから、堀に水が貯まって困ったのではないでしょうか?
もし、そうだとしますと、地下水の噴出すところには、直接、川を作って、海の方へ誘導する必要もあったと思われます。現在の第三濠のなかに樋の谷と呼ばれるところがあります。幅20m、深さ5mほどあって人の手が加わった排水施設とみられます。
大山古墳の堀の深さは、4mぐらいだそうです。始めはもっと深かったかもしれませんが、堆積物がたまって、4mなのかもしれません。
このように見てきますと、大山古墳の地下の部分は、水分の多い軟らかい土でできているのではないでしょうか?
話題はまったく異なります。聖武天皇のころ、全国に国分寺が建てられました。七重の塔が建てられました。東大寺にも七重の塔が東西に建てられました。現在は残っていませんが、記録の上では、日本の塔は、倒れたことが無いそうです。殆どが火災によるものと思われています。これは地震のときに、揺れに任せるように造られているからだそうです。これを参考にしたのかどうか判りませんが、現在の超高層ビルでは地震の揺れや風圧にある程度建物を任せる『柔構造』の建築が殆どだそうです。更に、昨今建設される超高層ビルは、基礎部分に油圧装置(油圧ダンパー)を取り付けたり、その他いろいろの仕掛けを設けることによって耐震性を強めています。
世紀の大工事とされた明石大橋があります。これは、橋けたは、海底の岩盤に固定してあったとおもわれます。この橋が完成してすぐに、阪神大地震がありました。位置が少し、ずれたそうですが、倒壊しませんでした。私は素人ですので、固定してあったのに、なぜ、倒壊しなかったのかは、橋の重力は、橋桁にかかっているのではなく、両方に立てられた塔から吊ってあるから、あまり、橋桁にかかっていないのではないかと思いました。(自信なし) ということは、『柔構造』ではなかったのかも知れません。勉強する必要はあります。
最近、私が考え到達した周濠の役割です。耐震構造であったのではないか、です。
地下にある古墳が地震の被害など遭わないといわれる方があると思います。阪神大地震の時は、地上の電車は、おもちゃをひっくり返したような有様でした。ところが、神戸市の地下を走る電車は、殆ど被害を受けず、地下の安全性が立証されました。
ところが、同じ神戸市の東灘区と灘区には伝説に彩られた3つの古墳が残されています。処女塚(おとめづか)古墳(東灘区)は古墳時代前期に築かれたと思われる前方後方墳で、1985年(昭和60年)に遺跡公園として整備されています。
東求女塚古墳(東灘区)は阪神電鉄の施設工事によって崩されましたが、 処女塚古墳と同じ頃に築かれたと思われる前方後円墳です。
西求女塚(にしもとめづか)古墳(灘区)も前方後方墳です。この古墳は、慶長の大地震による地滑りや崩れた石室の跡などが確認された他、三角縁神獣鏡が7面出土しています。(鏡が残っているということは人の手によって破壊されたのではないことになります)
地下の古墳でも、地震によって崩壊することがある例になります。
話題は変わりますが、奈良に纏向遺跡という名の遺跡があります。No315において取り上げました。この遺跡にある古墳のデーターをもう一度、掲載します。
1.纒向勝山古墳
前方後円墳、全長約110m、後円部径約60m、周濠幅約25m、後円部高さ8m。埋葬部は詳細不
明、葺石・埴輪無し。 出土遺物は、主に周濠部より出土。
木製の刀剣把手・団扇・槽等の祭祀具の他、U字形木製品がクビレ部の周濠から出土している
が、U字形木製品の両先端部が風化により薄くなり尖っている状態は、小立古墳の周濠部から出
土した木製石見形盾の脚部の状態に似ている。
2.纒向矢塚古墳
前方後円墳、全長約96m・後円部径約64m、周濠幅約17~23m、高さ約5m。墳頭部に板石が露出し
3.纒向石塚古墳
前方後円墳、全長96m、前方部長約32m・幅約34m、くびれ部幅約12.8m、高さ6m。周濠幅約
20m、葺石・埴輪無し。埋葬部詳細不明。石材はなし。周濠より弧紋円盤・鶏形木製品・鋤・鍬・横槌・水槽・建築部材等 木製品が出土。
4.東田大塚古墳
前方後円墳、全長約96m・後円部径約64m、後円部の高さ約7m。周濠幅約21m、葺石・埴輪 無し・周濠外堤部に東海系壷片で蓋をした土器棺(中部瀬戸内系)埋納。
すべて、近くにありますので、実際に見に行き、そして、登ることができる古墳は登ってきました。4つの古墳に共通することは、すべて、箸墓古墳の近くにあって、箸墓古墳よりも造られた時期が早いのではないかといわれています。(古墳前期)そして、高さは5~8mと低いものです。この辺りは、纏向遺跡と呼ばれていますが、人はもう少し、東の丘陵地帯に住んだのではないかと想像しています。よく検討はしていませんが、湿地地帯であったのではないかと想像しています。従いまして、ここでの周濠は、古墳を造るための土の採取と、古墳に水分を与えるのではなく、排水用だったのではないかと推察しています。
以上のことから、はじめの頃は、土の採取と排水用であったものが、大型の古墳に変化するにつれて、耐震に対する機能を有すようになったのではと思っています。
No325前方後円墳と周濠 その2 [日本の歴史]
日本放送出版協会発行『歴史への招待12』P150に、大山古墳を古代工法(機械を使わない)と現代工法で工事をした時の費用が試算されています。大林組の計算によるものです。
直接工事費
1. 準備工事 8億1500万円
2. 外濠・内濠掘削 115億7900万円
3. 客 土 工 279億5600万円
4. 葺 石 工 61億7900万円
5. 埴 輪 5億0300万円
6. 石 室 6億8400万円
7. その他 5億9300万円
共通仮説費 5億1800万円
現場管理費 16億0200万円
一般管理費 57億9900万円
見積額合計 562億2800万円
苦労して計算された数字ですのに、許可なしで転載しました。大いに有効に利用させていただこうと思います。大林組は、此れまでに、ピラミッドの築造の試算をされたり、出雲大社の試算などもされています。こんな数字はあてにならないと言われる方もおられるでしょうが、その場合はどこが当てにならないのか、指摘し自分の試算を出さなければならないと思います。
表を眺めてみます。外濠・内濠掘削、客土工、葺石工の費用は、材料が無料ですから、運搬に要する人件費ということになります。埴輪の制作費も同じことが言えますが、こちらは、30000個と推察されていますから、金額はこんなものでしょうか? 石室(石棺)は、兵庫県高砂市の竜山石とされていますから、切り出しと運搬に此れぐらいの数字にはなるのではと思われます。
葺き石は、ただ、石を並べるだけのように思えます。客土を積無作業は、土を固めるよりも簡単に見えますが、これは、神戸市の五色塚古墳の経験が加味されているのではないかと思います。五色塚古墳は、神戸市が6ヶ年計画で、工費を7600万円ではじめました。ところが完成したのは、10年後で、総工費は当初の4倍近くの2億5200万円になったそうです。始めの計画では、古代工法で葺き石を積むはずでしたが、古代工法は、前方後の一部だけで、途中から前方後はコンクリートで裏ごめされた工法に変更されました。始めの計画で続けていますと、経費と時間は、まだまだ増えたであろうといわれています。それだけではなく、今頃は、あちこちで崩壊がおこり修理をしなければならなかったと思われます。
古墳の崩壊はやはりすると思っています。理由は簡単です。毎年、日本のどこかで、山崩れがあって、多くの人が亡くなっています。それも、殆ど人間が手を加えた所で起こっています。ということで、以下軽く読んでいただければいいと思います。
私は、前方後円墳のことは、日本史の中で重要な位置を占めていると思っています。書かれていることを読んでも、どの古墳が誰のものと判った古墳は皆無と云っていいと思われます。今日行ってきました滋賀県の雪野山の麓の古墳群でも、5世紀半ばの豪族の古墳とありました。円墳が沢山並んでいました。近くに八幡社がありましたから、応神天皇と関係がありそうだとか、朝鮮の人と関係がありそうだとか書いてあると面白いのですが、なにも判っていないらしいです。円墳群の中に、一基だけ前方後円墳がありました。後円部に横穴式石室があり、前方部には、二つの小さな横穴式石室がありました。竪穴式ですと,後から上から穴を掘って、作れないことはありませんが、横穴式石室には大きな石が使ってありましたから、この古墳ははじめから三基の大小の石室を同時に作ったことになります。また、上に登りますと、石室の入り口の反対側の円が大きくなっています。はじめは、丸く造ったのだが、大きい方へ崩れたのだと思います。
この解説は、素人の私が考えただけですが、説明板の解説は、面白くも何もありません。
同じ、面白くないのであれば、1mほどの種類の違う蛇二匹が前を横切りました。〔蛇に注意してください〕と書いておくのもサービスです。
長い文を書きましたが、なにも判っていない古墳群です。これは、有名でないから此れでもいいかもしれませんが、堺市の大山古墳は、日本一大きいし、昔から仁徳天皇陵といわれていますのに、大山古墳と訂正されました。それであれば、何故、仁徳天皇の可能性は少ないのか簡単に説明が無ければいけないと思います。詳しく知りたい人は、堺市の博物館にいけば判ります。発掘はされていませんが、石棺の模型が置いてあります。この石棺は明治時代に一部分が露出していて、その報告書に基づいて復元してあるらしいです。
このような調子で書いていますと、判っているようで皆目わかっていない。だから、大山古墳と改名されたことになります。一言でいいますと、古墳に関しては、なにも分かっていないことになります。銅鐸・三角縁神獣鏡も同様です。だれが、何のために作ったのか。判っていることは、土器が正確にいつの時代のものか判っている事です。それをもとに、三角縁神獣鏡が出土した古墳がいつ造られたかを推察して古い順に並べますと、どうなるのでしょう。全国規模でならべた資料は見たことがありません。
前方後円墳と周濠のタイトルが、さっぱり、関係ないことを書いています。頭の中は、周濠のことを調べると、前方後円墳が浮かび上がるのではないかと、期待しながら、考えています。
上に書きましたデーターによると、確かに客土の確保のために、周濠は必要であったと思われますが、全費用の大半を占めるということは、それ以上に必要性があったのではと推察しています。
No324 前方後円墳と周濠 [日本の歴史]
この件は、私には荷が重すぎますが、考えれることは考えて見ます。工学的に詳しい方は、周濠が前方後円墳の崩壊に役立っていることを教えていただきたく思います。
大神神社の近くで、平地に造られた箸墓古墳があります。古墳は、桜井市大字箸中に所在し、全長約280m、後円部径155m、前方部長125mの前方後円墳です。過去五回の周辺部発掘により、出土した土器より、3世紀半ばから後半に築造されたとされています。ごく一部の発掘のデーターによりますと、古墳の周囲には幅約10m程度の周濠と、その外側に基底幅15mを越える大きな外堤が巡っていた可能性が高くなりました。(発掘調査報告書 http://www.begin.or.jp/sakura/hasihaka1.htm )
ここでは、古い前方後円墳でも、周濠があったということの例として、挙げるだけにします。
箸墓古墳と同じように平地に造られた古墳が大阪府堺市にあります。大山古墳といわれる古墳です。仁徳天皇陵といわれている古墳です。公開されていませんから、確かなデーターではありませんが、古墳のデーターは
墳長およそ486m。前方部は幅305m、高さ約35m。後円部は直径245m、高さ約33m。三重の濠の外周は2,718m、その内側の面積は464,124m²という。墳丘の両くびれ部には造出しを持つ。また、現在の目の周濠は三重ですが、外の濠は、1896年(明治29年)に掘り直され、整備されたものです。(『堺市史続編』)。
一番に問題になるのは、高さだと思います。土を積んでいけば、いくらでも高くなります。世界的に見ると、寺院でも、古墳でも、神に近づけるように願ったのでしょうか? ヨーロッパの寺院は誰にでも判ります。古代となりますと、やはり、エジプトのピラミッドだと思われます。此れも、始めから石やレンガを積み重ねたのではないと思います。何度も失敗を繰り返しながら、建造され、その一部が残っています。よく写真などで目にするピラミッドは、階段ピラミッドと呼ばれます。第3王朝時代にサッカラにジェセル王が築いた物がその始まりとされています。当初は日干し煉瓦による方形のマスタバとして建立されたが、後に煉瓦を積み上げて階段状の巨石建造物と変わって行きます。完成時の寸法は東西約121m、南北約109m、高さ約60m。所謂、塔でありますと、基礎の部分も上も同じ大きさですが、ピラミッドを建設する時、高さ約60mにするには、、下の部分は、東西約121m南北約109mが必要であったということになります。
もう一度、大山古墳をみます、墳長およそ486m。前方部は幅305m、高さ約35m。高さが半分であるのに、基礎部にあたる部分の長さは、3倍です。日本で一番大きな大山古墳は、900km上空の人工衛星ランドサットからも鮮明に見ることができたと言われました。(現在は、それより小さい北朝鮮のミサイル発射台の写真も写ります)、秦始皇帝の墓やピラミッドより大きいのだと自慢しても始まりません。基礎部を大きくしないと、35mの高さにできなかったのだと思います。技術上は、ピラミッドの方が上であったと思われます。
私は前方後円墳が、巨大であるのに、1800年もどうして潰れなかったのか、なにか仕掛けがあったのではと順番に考えてきました。奈良に限ってみますと、
馬見古墳群http://www4.kcn.ne.jp/~ntsuchi/kofun-N2.htmlは丘陵地に造られています。奈良でももっとも低い所ですから、奈良盆地の水がすべて集まってきて、河合の地名がつけられている所です。大阪から大和川を上ってきたところですから、古代には重要だった所になります。
平城京跡の北側にある佐紀盾列古墳群
http://banmas.at.webry.info/200604/article_7.htmlも丘陵地です。柳本古墳群 http://www.bun-eido.co.jp/publish/culture/himiko/p216.pdf#search=%22%E6%9F%B3%E6%9C%AC%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4%22 も同様です。
ところが、古墳の建設は、一時、奈良から河内平野に移動した感じがあります。例えば、山の中腹にある崇神天皇陵も立派な周濠があります。水はどうするのだろうと思っています。このように、丘陵を削ってつくった前方後円墳と河内の平地に造った前方後円墳とは、工法は当然違ったはずです。
大山古墳の濠は、どうして必要であったかを考えたら、簡単です。古墳に積む土をその場所で確保したのだ。正解です。正解ですが、そうは簡単にいかない部分があります。
現在ですと、人口島(関西空港)を造るときの土は、山から島まで、ベルトコンベアで運びます。ところが、当時は、トラックもありませんから、全部、人間が手で運ぶことになります。当時ですと、近くから運ぶことになります。一番近いのは、古墳の裾に当たる所に穴を掘って、その土を使えばいいことになります。大山古墳の場合は、10m掘りますと、計算上は、土が足りることになります。
まっすぐに掘りますと、古墳の高さは、堀の下から計算しますと45mになります。底辺を大きくしないと、古墳は崩壊します。真っ直ぐに掘らないで斜めに掘ってあるのでしょうか? 確認していません。
実際の大山古墳では、10mほど掘りますと、濠からでた土で古墳を築くことが出来ましたが、足らなかったようです。濠は二本ありますから、両方を合わせると、5m掘れば足りる計算になります。しかし、実際の濠は、どこの古墳でも、垂直に掘られてはいなくて、U字形をしているそうです。これらのことをすべて、計算された方が、大林組の木村悌二と言われる方です。氏の計算では、濠からの土は、必要な量の2分の1であったと計算されています。
では、どこから不足の土を持ってきたか。『巨大古墳』森浩一著において、「大山古墳の
西南の台地で、コンターラインが内湾しているところがあります。大林組の木村悌二氏は、この場所を採土場に考えています」とあります。日本放送出版協会発行『歴史への招待12』P145において、梅原末治氏の昭和30年の報告書で、「濠からの土だけでは不足する」ことをあげて、スタッフで、周囲を探したところ、「西南700mの地点に土取り場と思える窪地を発見した。そこを土取場と設定した」と書いてあります。少なくとも方角は、木村悌二氏と同じ方角になります。そんな簡単に決めて良いのかと言えます。少なくとも両方の土質を調べる必要があります。現在のところ、古墳の調査はさせてもらえませんから、此れぐらいで仕方が無いでしょう。
前述の梅原末治氏の昭和30年の報告書に、「仮に一立米の土量の運搬距離を平均250m
と見て、それを一日一人とすると、全土量に要する人員は凡そ1406000人に近いものとなる。従って一日1000人を使うても四年に近い年月が土量運搬だけにかかるわけで、実際の上では、それを整美な形に仕上げなければならず、更に夥しい人員と時日を要したことは疑を容れないわけである」とあります。先に書きました採土場は、750mですから、3倍になります。
モッコで運べは、そうだろうが、リヤカーぐらいのものはあったのではないかと想像することは出来ます。現在のところ発見されていません。それよりも、モッコで運んだのではないかという証拠があります。『歴史への招待12』P146に大阪府高槻市にある昼神車塚古墳の昭和51年~54年に行われた構造調査の報告書のことを書いておられます。
「その際の断面写真が、実に興味深い事実を物語っていた。まず、すぐに気づくのは、あちこちに点在する椀をふせたような黒い土である。この容量はほぼバケツ一杯にあたるという。調査にあたった高槻市教育委員会の話では、土をモッコで運び、ひっくりかえしたあとではないかという」と。
昼神車塚古墳のほうが、新しい古墳であることがわかっていますから、大山古墳の築造のときも、モッコが使われていたと推察できます。
周濠のことを書くつもりが、土のことを書くだけで、終わりました。長くなりましたので、続きは次回にします。
No323 前方後円墳と埴輪 [日本の歴史]
前方後円墳からは埴輪が、出土することが多いようです。各地において復元された前方後円墳や円墳では、古墳の周りや上に並べて公開されています。どのような目的で使われたかは、殆ど、祭祀を行うときの飾りと捉えておられるようです。
出現した流れをみますと、古墳時代の初め(2世紀はじめ?)のころは、円筒埴輪しか見られなかったが、その後、家形埴輪のほか、蓋(きぬがさ)形埴輪や盾形埴輪をはじめとする鶏形埴輪などの形象埴輪が現れます。さらに、古墳時代中頃からは、巫女などの人物埴輪や馬や犬などの動物埴輪が登場します。と書きましたが、各前方後円墳が、本当に、造られた年代が、確定しているのかといいますと、疑問な所が多いように思われます。それは、一緒に出土した土器によって決められているからだと思われます。
円筒埴輪には、円筒形のもののほかに、壺形・朝顔形埴輪などと次第に複雑なものになった物や、吉備地方に始まったとみられる特殊器台形土器などがあります。全部、一纏めに考えることは無理があるように思えます。

上の写真は、神戸市の五色塚古墳の円筒埴輪の様子です。上の写真の手前の大きい埴輪は、朝顔形埴輪、次の三つは、普通の円筒埴輪です。後円部の頂上の周囲に並べられています。下の写真は、それを前方部から見上げた図です。円筒埴輪の中ほどに、隆起した筋が見えますが、この形によって、制作年代を決定しておられる学者の発表を見たことがあります。
この円筒埴輪には、その筋の間に、三角や丸の穴が開けられていますが、写真には写っていません。続けて五色塚古墳の場合を見てみます。


下の写真は、後円部から前方部を眺めたものです。二段目と三段目の間の水平面の左端に並べられています。概略には埴輪は、深さ40~50cm程度と書かれています。
上の写真は、円筒埴輪に鰭がついたものが、三つ並んだ状態写真がありましたので、無断で掲載しました。鰭は完全に復元された埴輪の写真をみますと、鰭までは、ほぼ、下から5分の4となっています。他の古墳の写真では、3分の2は、埋まっているように見えるのもあります。従いまして、頂上部分の埴輪は、上の写真のように並んでいたかも知れませんが、下段・中段の円筒埴輪は、5分の4が土の中に埋まっていたことになります。
その他にわかっていることを書いておきます。
① 鰭は、左右対称に上の方に付けられているもの、段違いに付けられているものがあります。右の写真の少し重なっているように見えます。左の二つは、少し隙間があるように見えます。すべて同じ間隔で設置されていたものが、ずれたのか、意図があって間隔がちがうのか判断は難しいですが、後者だと思います。鰭自体の役目は、位置のずれを少なくするためだと思われます。
② 埴輪の底には、突き固めたと思われる二層の土があったそうです。どのような役目でしょうか?石も入っていたらしいですが、これは崩れたときに周りにあった石が入ったと思われます。
③ 円筒埴輪を設置するときに、前方部東側中段では、6本目ごとに底部を高くして設置してありました。その他は逆に、底を掘り下げて設置してありました。6本目ごとということは、そのようにする理由があったから、そのようにしたと考えます。
④ 五色塚古墳では、埴輪は10mに18本ぐらいの割合でたてられていましたから、推定で墳丘全体で、約2200本あったと思われます。
⑤ 西隣にある小壷古墳からも墳頂とテラスの2段に、鰭付円筒埴輪と家形埴輪が発見されている。家形埴輪は祭祀に使われたとしても、こちらはすべて発掘されていませんが、推定で320本ほど使われていることになります。
以上のことから、円筒埴輪は、装飾にしては、数が膨大すぎます。もっと、重要な役目をもっていたと考えるべきかと考えます。
これは、豪雨というか、短期間に集中して雨が降ったときに、古墳の崩壊を防ぐ装置ではないかと思います。
その理由を箇条書きにして書きます。
① 円筒埴輪は水平部に設置されていますが、傾斜との境から、1.5m~2mの内側に設置されています。やはり、肩の部分が崩壊しやすいのは、現在の道でも同様です。路肩から崩れます。飾りであれば、水平部の一番山側の方が、壊れる可能性は少ない?です。
② 底には、突き固めたと思われる二層の土がありました。円筒埴輪は素焼きですから、中に入った水は、下に漏れていきます。漏れにくくしたと思われます。
③ 円筒埴輪には、三角、四角、丸の穴があいています。この穴から、雨水が、円筒埴輪の中に入るようにしたと思われます。入った水が多すぎた場合は、上から溢れて葺き石の上に流れ、5パーセントの水が又、土中に浸みこんだと思われます。
④ 朝顔形埴輪は装飾のように思えますが、無理に役目を与えるとしますと、円筒埴輪と近くの雨水を直接受け止めることによって、円筒埴輪の周りの土が軟らかくなることを防いだと思われます。土の中の水分が集中豪雨によって、一時に増えるのを、円筒埴輪に保水し、時間をかけて古墳に浸透するようにしたと思われます。
それでは、此れぐらいの保水で集中濠を乗り切ることが出来るのか、検討します。
次のデーターは、ここ20年ぐらいの大被害をもたらした集中豪雨のものです。
1982年7月23日 長崎県長与町(1時間雨量187mm) 長崎市(1時間雨量127.5mm)
1999年10月27日 佐原市(1時間雨量152.5mm)
2000年9月11日 - 12日 名古屋市およびその周辺(名古屋市で2日間に一年の降水量の1/3を超える567mmの降水量)
2004年7月12日 - 13日(新潟県栃尾市で日降水量422mmに達するなど)2006年8月22日 - 大阪府(1時間雨量 大阪府豊中市110mm)
集中豪雨は、バケツをひっくり返したように降りますが、よう続いて3時間ぐらいでしょうか? そうしますと、上の数字を3倍しますと、400~500mmです。太文字で書きました、名古屋の場合は、567mmで多いですが、これは、2日間です。
500mmということは、50cmです。
五色塚古墳の発掘報告書では、深さ40~50cm程度と書かれていました。これ充分であることが判ります。上記のデーターは、20年間のデーターですから、100年に一度では、もっと、降ったかもしれませんが、飽くまで短時間の豪雨が、山を崩して土砂流になることは防げると思われます。
現在の山での工法はどのようになっているのでしょうか? 私の知っているのは、山の斜面は、コンクリートで固められています。中の構造は判りませんが、斜面の表面はには、水抜きのパイプが、いっぱい見えており、雨の時は、パイプから雨水が流れ出ているのを見ることができます。
豪雨時の崩壊防止の説には、問題があります。円筒埴輪を設置しますと、周りの土の圧力で、円筒埴輪が壊れるのではないかという心配です。これは、実験で直ぐ判明することです。桶のタガのように、数本の隆起が設けられています。これは、設置するときに揃えやすくするためと思っていましたが、タガをつけることにより、強度を増すのかもしれません。これも実験でわかる事です。 円筒埴輪は集中豪雨からの防御装置。
No322 前方後円墳の作り出し [日本の歴史]

上の図は、集英社発行の日本の歴史の「倭人争乱」から無断拝借しました。前方部と後円部の境あたりに、濠に突き出た部分を「作り出し」と云っています。上の図は、誉田山古墳(応神陵)の図式です。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)や奈良のコナベ古墳にも見られます。勿論、「作り出し」がないもの、片方だけにあるものなどが見られます。
五色塚古墳にはありません。
作り出しの部分は、現物を見たことがありませんので、何のために造られたか判りません。古墳が造られた当初は、どの古墳にも無かったのではないでしょうか? 何年か後に、この部分に力が加わって、膨らんできたのではないでしょうか? 錘の役目として、「作り出し」を設けて、崩壊を防いだ。ちょっと、単純すぎるでしょうか? 片方だけのもあるということは、そちらだけで済んだという事です。
円墳には、「作り出し」をもったものが、いっぱいあります。これは、祭壇のような感じが見受けられます。
よく判りませんが、前方後円墳の作り出しは崩壊を防ぐ装置のように思えてなりません。
⑤の内部にジヤリが使われている ⑥ 表面に草木があるは、やはり、崩壊を防ぐのに、役立っているように思いますが、残念ながら、学問的な説明が出来ません。
現在でも、河川の土手は、芝生が植えられています。多くの古墳では、草だけでなく、大きな木も生えています。この木によって、古墳の形は崩れた部分もあるかもしれませんが、全体の保存に役立ったことは推察できます。
No321 前方後円墳の排水装置 葺き石 [日本の歴史]
葺き石とは、屋根を桧皮で葺く様に、古墳の表面に隙間がないぐらいに角のない石を並べた状態の石を言います。
http://kobe.cool.ne.jp/ttt_ttt/field/neighbor/5shiki/5shiki01.htm
葺き石の働きは、想像するまでもなく、石を葺かないで、土のままにしておきますと、降った雨のための土砂は流失しますが、それを防ぐことは明らかです。また、降った雨はやはり古墳の中に入ることも確かですが、どれぐらい防ぐことができるのか、実験で調べるべきですが、データーはあるのかもしれませんが、見たことはありません。私の推理ですが、当てずっぽうですが、95パーセントは防げるのではないかと思っています。そうでなければ、No319 のような小山の崩壊が起こって、1600年ももたなかったと思います。
と言うことで、葺き石のことをもう少し詳しく書いてみようと思います。データーは、前回と同様に、五色塚古墳のものを借用します。
① 五色塚古墳は、三段の構造になっています。各段の境目には、2mほどの水平の部分があります。前方後円墳部の葺き石のデーターは、
上段 106800個 386トン
中段 136500個 429トン
下段 696000個 232トン
後円部の葺き石のデーターは、
上段 276500個 869トン
中段 195000個 614トン
下段 822700個 274トン
② 葺石のすぐ下には、小砂利を混ぜ合わせた砂質土が厚さ10~20cm敷き詰められている。これは、葺石がずり落ちるのを防ぐのと、雨水を石の下の砂利層を流れるようにして、古墳の中に浸透しないようにする装置でしょうか?
③ 葺石の大きさ
中段に使用されている石は、径15~30cmの円礫。下段は5~10cm程度の円礫。
下段が大きい石で、上に行くほど小さいのであれば判らないでもないが、なにか理由があるのでしょうか?
④ 葺石の石質
上段・中段は花崗閃縁岩雅多く、黒雲母花崗岩やサヌカイトも若干含まれる。
下段は古生層系チャート、径硅石がもっとも多い。若干砂岩、流文岩、花崗岩系の礫やまれに、硅化木の礫も含まれている。
⑤ 石の産地
上・中の葺石の産地は不明であるが、地質学的には淡路島が有力。日本書紀に明石海峡に船を編んで淡路島に渡して、淡路島の石を運んだという記述がある。
下にしようされている礫の組成は、垂水礫層の中の礫の組成と一致するから、付近の海岸や河川で採取したものであろう。ということは、途中で足らなくなった?
これは、可能性はあるものの、納得いかない点もあります。
現在みることの出来る五色塚古墳は、元の古墳を壊さないように、50cm盛り土をして
その上に葺石を並べてあるそうです。従いまして、元の古墳より大きいものとなっています。この方式がはじめから決定していたのかどうか判りませんが、
面白いことがP35に書いてあります。整備事業は、前方部の整備(Ⅰ・Ⅱ期—前期)と後円
部・小壷古墳の整備(Ⅲ期—後期)に区分して行われたようです。
最初の基本方針通り、「復元」することを目標にしたため、築造当時の葺石が残存する部分はそのまま残し、石の不足している部分を補うという形で設計・施行が行われていると書いています。
その後、続けて「前方部のうち43・44年度工事は、葺石と盛り土との間に若干の砂を使用する方法をとり、石はいわゆる空積とした。その結果、雨水で砂が流れ出し、葺きあげた石が沈みはじめるとともに、石が動きやすくなり、葺石の間から雑草が生えやすいこともあきらかになった。 埴輪溝の位置に暗渠を設けていたが、埴輪溝の破損が著しいため、昭和45年度より、復元方法を若干変更した。その結果、葺石の裏ごめをコンクリートにかえ、葺石の沈下・落下を防ぐとともに雑草の生えるのを防ぎ、暗渠の構造に改良を加えることによって埴輪溝の破損を防止した」
その他、復元に際しての苦労話が書かれていますので、興味のある方は、「史跡 五色塚古墳」を買い求めて、ご覧ください。もっとも、1982年の発行ですから、現在は販売されていないかもしれません。(神戸市教育委員会発行です)
面白いことがP35についての私のコメントです。
復元するつもりでしたが、復元できなかったことが書いてあります。本当は、一部は復元して、一部を復元しないと、その差が判って良かったのです。セメントで固めてしまわれました。
もとの形にしたら、1年もしない内に、葺石が浮き上がってしまったことが書いてあります。
御陵の発掘を宮内庁が認めないと、どの本でも考古学者が不満を述べておられますが、今度、発掘するときは、古墳がどうして崩壊しないように作ってあるのか、中の出土品以上に重要なことを知っておこなう必要があると思います。
大阪府狭山市に狭山池があります。これは、単に池だと思われていましたが、川をせき止めたダムであることが判りました。古墳どころではありません。崩壊しないように造りませんとダムになりません。大阪府は、ここに博物館を造りました。http://www.sayamaikehaku.osakasayama.osaka.jp/ 一度行かれることをお勧めします。
このダムは版築という工法が使われています。廃寺に行きますと、基壇がこの方法で作られているため、残っていることが多いです。新しい所では、法隆寺の土塀もこの方法で作られているので、目にすることが出来ます。
これは中国の殷の時代から行われていることで、日本に中国人によって伝えられたと思われます。
ところが、前方後円墳は、当然、版築方法が用いられてもいいはずですが、あまりどのようにつき固めたのか、書物には書かれていません。もし、版築方法が見られるのであれば、必ず書いてあると思います。
と言うことで、前方後円墳は中国人でない人が造ったと考えています。前方後円墳は朝鮮で見つかりましたから、朝鮮から伝えられたと書いてある物もありますが、これから研究される部門だと思います。
中国人ではなく、朝鮮人でもないとしますと、私には、イザナギとイザナミを崇拝する人々だったのではないかという推理が生まれます。銅鐸を使っていた人たちです。
そこで、イザナギの系統の人たちが、造った五色塚古墳を真似して、その後の古墳が造られたのではないかという珍説が生まれました。
上記の膨大な石を仮に、淡路島から船で運んだとしますと、どれぐらいの労力がいるか計算してください。
近くの川から石を集めたとありますが、一度、ご自分で近くの川へ行ってください。近くに、川がありません。石の分析は、やり直す必要があると思われます。
日本書紀ができたときに、この五色塚古墳は、誰のお墓か判らなかったようです。そこで、日本書紀は、「「播磨に詣りて山陵を赤石に興つ。仍りて船を編みて淡路島にわたして、その嶋の石を運びて造る」と記しています。
仲哀天皇の皇子・カゴ坂王・忍熊王が、あとから生まれた幼い王(後の応神天皇)に、皇位がいくのを恐れて、明石海峡で、仲哀天皇の墓を造るのを口実に、明石海峡で沢山の船を集めて、山口県から母である神功皇后と皇子が戻ってくるのを、待ち伏せをしていたことを書いています。古事記でも、王子の名前は、香坂王と忍熊王と書かれて日本書紀と異なりますが、香坂王と忍熊王が反逆を試み、征伐されたことを書いています。両方に書かれていますから、征伐されたことは、事実のようです。
この部分は、理解に苦しむことが書かれており、以前に私もカゴ坂王・忍熊王のことを書いていますが、訳の判らないことを書いています。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page386.html
この付近には、日本書紀に登場する神社が、現在でも、西から神戸市の長田神社、生田神社、住吉神社(大阪の住吉神社ではありません)、西宮市の広田神社と存在し、歴史的に重要な位置を占めていたことがわかります。 この四つの神社を一纏めにした研究は必要なように思われます。
No320 前方後円墳の排水装置 [日本の歴史]
前方後円墳が壊れない理由は、排水装置にあると考えます。古墳に見られる構造らしきものは、
① 円形と方形との組み合わせの形そのもの、 ② 葺き石 ③ 造り出し ④ 埴輪
⑤ 内部にジヤリが使われている ⑥ 表面に草木がある ⑦ 環濠
排水装置に関するものとして、これ以外には無いと思われます。順番に考えて見ます。
① 鍵形の形が、古墳を安定させる上で役立っているか。 役立っているから、あの形になったはずと単純に考えていました。しかし、順番に考えて行きますと、あまり役立っていません。一番安定しているものですと、三角錐です。次は四角錐です。エジプトのピラミッドになります。これらの形ですと、自分の重力で崩壊することはないのでしょう。円墳ですと、自分の重さは、均一に全体に分散しますから、やはり崩壊しにくいと思われます。
前方後円墳の場合は、後円部のほうが、普通は高さが高いですから、体積が多い分、重さがかかります。やはり平等に掛るでしょうか? 一方、前方の重さは、方形ですが、バチ形になっていますと、皆目判らないことになります。単純に考えますと、前方と後円に歪な力が加わるのではないかと、推察しています。 それは、此れまでの古墳が壊れたときに、どこを修理したかで判ると思います。もし、理論上、崩壊しにくいとします。そうであれば、この形は意味があって造られことになります。 もし、理論上、崩壊しやすいのに、何千年も崩壊していないのであれば、境目になにか、装置を施してあることになります。発掘するときは、注目すべきところです。
五色塚古墳の場合は、元々、丘陵地であった部分に盛り土を施して、古墳がつくられたらしく、雨水は浸みこんでいき、地山に到達した後は、浸み込み難くなります。そうしますと、水は弱い地盤をめがけて流れ込みます。同じところへ流れ込みますと、その場所が崩壊することになります。
五色塚古墳の復元概要によりますと、前方部と後円部の境であるくびれの下の段に、排水施設があった書かれています。
くびれ部分近くに排水のために手を加えたと思われる三ヶ所検出され、写真の左端は、砂利・礫が上の部分に在ります。右はしの部分は、下段の裾まで続いています。しかも、下にいくにしたがって、広がっています。しかも、地山に食い込んで造られていることから、排水施設だと思われます。このような排水施設が、作られたときからあったとしますと、その技術はどこからきたのか知りたいものです。もう少し、詳しく書きますと、敷かれていた石は、径15cm~20cmの礫がが詰められており、礫と礫の間に、土師器片が検出されたと書かれています。この部分が、崩壊してきたので、崩壊の程度に応じて、修理をしたと思われますが、そうなりますと、墳墓を造ってから、長い間、墓守がいたことになります。
以上のことぐらいしか判りません。此れだけの材料から考えますと、鍵形が崩壊しにくい形であるとは、考えにくいです。 どなたか、工学的に詳しいかたは、教えてください。

写真は平面に見えていますが、斜面です。右の砂利が敷かれた部分が、流れやすくした部分、即ち排水施設と思われます。下が広がっていると言うことは、豪雨になっても対処できるようにしたと思われます。
No319 前方後円墳 なぜ壊れない [日本の歴史]
前方後円墳の築造時期は三世紀中葉から六世紀末ないし七世紀初頭までと言われています。9代天皇である開化天皇は、実在しない天皇であるという説が強いように思われています。2代から9代までは、記紀に書かれている内容があまりにも少なくて、異常である。この間の天皇は、捏造された天皇であると断定されている方もおられます。私は実際におられたと思っていますが、データーが少ないだけに、実在しているとも断定もできません。
神武天皇は実在しないという人もおられるそうです。その説も面白いですが、その説を主張される人は、全国にある神武天皇を祀る神社は、すべて、誰が、イタズラで作りましたというように、証拠を提示して説明しなければなりません。
私は、神武天皇も2代から9代の天皇もおられたと思っています。この頃の天皇が在位されるのは、10~20年ぐらいが多かったように思われます。記紀に残されている寿命は当てにならないという方もありますが、結構、長生きであったのではないかと考えています。
それとタイトルの「前方後円墳 なぜ壊れない」とは、どのような関係があるのかと言われそうです。ある学者は、崇神天皇が亡くなられたのは、紀元後、350年とされています。
私は、それは間違っているのではないかと考えています。
崇神天皇5年の御代に、人民が、半分ほど死ぬことが起こったと古事記は記しています。何故、それほど多くの人が死んだかといいますと、インフルエンザが流行ったと思われます。それは、189年から192年のころです。この前の年に、一年で2人の中国の皇帝が亡くなっています。一年に二人が死んだから、インフルエンザとは限りませんが、その後、朝鮮へ日本人が、助けを求めてやってきたと言う記録が朝鮮にあります。No144、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page736.html も参考にしてください。
この時に、日本でも、8代孝元天皇と9代開化天皇が続けてなくなっています。この事件を契機として、全国において、神に祈ることが奨励されたのではないでしょうか? それまでは神社らしき建物はなく、神代を表わす岩があったり、大木があったところに、神社としての建物を作るようになったのではないかと、これこそ、想像しています。
このインフルエンザは、中国人が、持ち込んだもので、武蔵から吉野ヶ里まで、絹を運んでいた中国人が一番影響を受け、吉備における軍事力は弱くなったはずです。鳥取県に隠れていた孝霊天皇は、吉備津彦命に攻撃を命令します。そして、中国人は壊滅状態になりました。
この私の推理によりますと、開化天皇の崩御は、190年ころのはずです。孝霊天皇の娘である倭迹迹日百襲媛命が、崇神天皇の代行を岡山の大倭で行っていたときに、やはり、インフルエンザに罹ったのではないかと思っています。奈良の箸墓古墳は、倭迹迹日百襲媛命との伝承がありますが、倭迹迹日百襲媛命は、備前の古都村の浦間茶臼山古墳に葬られ岡山神社に祭られていることを、No116で述べましたので、確かめてください。
話題の多い箸墓古墳は、崇神天皇の妹の卑弥呼の墓であることも、前に述べています。
こちらは、230年ころの事です。
古墳時代は、「前方後円墳の築造時期は三世紀中葉から六世紀末ないし七世紀初頭まで」ではなく、二世紀の終わりから、六世紀末ないし七世紀初頭までと、100年の違いが生じます。
そうしますと、大型の前方後円墳が築造されたのは、250年ぐらいの間ですから、全国であちこちに造られても、辻褄が合います。150年では、百舌鳥・古市古墳群すら、造ることが出来ないことになります。
えらい長いことかかりました。初期に造られてから、これらの古墳は1800年が経っていることが言いたかったのです。壊れて、石室だけになったのは、蘇我馬子の墓と言われている飛鳥の石舞台ぐらいです。後は、変形はあったり、後世の人に壊されたものはあっても、辛うじて形を留めています。
話は全く変わりますが、仁徳御陵を訪れ、次に履中御陵に行こうと車を走らせましたが、すっと、行くことが出来ません。小高い丘が公園の中にありましたから、登って様子をみようと車を止めました。その小山のある位置ですが、記憶があいまいです。履中天皇の御陵の直ぐ北にある公園です。大仙公園の一部ではなかったように思います。残念ながら、その全景の写真はありませんが、数枚掲載します。
No1
No2

No3

No4

No5

No6

No1が全景に近いです。No6が履中天皇の御陵です。南側にあります。この小山は、始めてみた時は、履中天皇の御陵の陪塚だと思っていましたが、説明板がありませんので、公園の遊び場として造られたと思います。しかし、壊された陪塚を復元したのかなとも思いました。
この小山はきれいな円形をしていますが、No1の真ん中が、崩壊しています。 一見すると、滑って遊べるように、ここだけ芝を植えなかったのかとも想像しました。左の部分に見える土の部分は、階段になっていて、丸太を使って造られています。右の斜面の白い部分は、コンクリート製の階段です。この階段の向こう側は、No3に見られるように、川原の丸い石で崩れないようにして、水平の部分は、植木が植わっています。No2、No4、No5は、No1の崩壊の部分を横からと上から撮影したものです。
この小山はどうして造られたのか、堺市に尋ねれば分かりますが、私の想像では、御陵の方から見ますと、陪塚に見えるように造りましたが、壊れないように、南面以外は、段々畑のように造園し、植木を植えて崩壊を防ぎました。
No1の右下の部分に白い部分があります。この部分は玉石を貼り付けてあります。この部分から、排水できるように作られたのではないかと想像しました。
この小山がいつの頃に造られたか判りませんが、新しいように思えました。仮に10年としますと、既に、10年で崩壊を始めています。とても、1800年も持ちません。
現在の土木工学を使って、この状態ですから、前方後円墳はどうして、壊れないのか不思議でなりません。
次回は、土木の知識ゼロの私が、この謎に挑戦しようと思います。






