No233 宗像地方の弥生時代 [日本大好き]
保育社「日本の古代遺跡・福岡県」のデーターから、宗像地方の弥生時代を眺めます。
「福岡平野における甕棺墓の盛行に対し、この地方は皆無といっていいほどである。冨地原梅木遺跡で中期棺が一基発見されているほかは、久原遺跡や吉留京田遺跡の小児甕棺墓若干くらいのものである。甕棺墓にかわって、土壙墓が盛行となる」と書かれています。
福岡地方の甕棺を利用した人たちとことなる人たちが遅れて住み始めたと思われます。
今川遺跡 紀元前160年ころ。
今川遺跡---津屋崎町宮司の海岸砂丘上にある弥生時代前期初頭の遺跡。断面V 字形の径60メートルの環溝に、住居跡、貯蔵穴がある。住居跡は環溝より古い。
韓国の松菊里などでみられる朝鮮無紋土器文化の住居跡に類似する。鉄鏃、銅鏃、銅ノミ。磨製石鏃、石斧、石錘、打製石鏃。黒曜石片、勾玉、管玉、夜臼式土器、板付Ⅰ式土器片など出土。
光岡長尾遺跡--V 字溝を持つ。標高30mの丘陵上にある。 径42~46m。溝の深さは3m。溝中には弥生前期末~中期初頭の土器、石器が多量に堆積。陶塤(とうけん・土製の笛)出土。 陶塤は全国の七遺跡から出土。
釣川遺跡---弥生時代から古墳期までの遺跡。
久原遺跡---33基の土壙墓発掘。
以上がデーターです。最も、注目されるのは、
①今川遺跡と光岡長尾遺跡にみられる、断面がV 字形の環溝を持っていることです。
②土笛は山口県綾羅木遺跡出土例が初見で、その後日本海側の弥生遺跡を中心に10数箇所、58個あまりが出土しています。島根県では松江市西川津町のタテチョウ遺跡出土の完形品が初見であるが、その後の調査でタテチョウ、西川津両遺跡合わせて38点が出土し、全国出土数の約7割を占めます。土笛を出土する遺跡が弥生時代前期に限られています。タテチョウ遺跡では銅鐸の石製の舌が、1997年(平成9)西川津遺跡では銅鐸が発見されています。
綾羅木郷遺跡は、竜王山の東麓を源とする綾羅木川の堆積作用によって形成された綾羅木平野の北側、鬼ヶ城山地から延びる洪積台地の西端部に立地する。今川遺跡と同様に、 環濠を有します。竜王山は岡山県だけで11ありますが、この山の麓には、中国人が住んでいたと推察しています。
綾羅木遺跡と弥生の土笛--- http://www2.gol.com/users/nojiri/history1.htm#s8
京都府峰山町の途中ヶ丘遺跡からは弥生時代前期末の溝から陶けん(土笛)が出土した。
http://inoues.net/tango/tochugaoka.html 土笛の写真があります。この笛は中国由来とされている。
京都府竹野遺跡出土において、土笛が見つかっています。久美浜町の浜辺にある集落の跡地・函石浜(はこいしはま)遺跡で2000年前の古代中国の貨幣が発見されました。
これは「貨泉」と呼ばれ、西暦一五年頃の中国で造られたものです。持って楽しんでいたのではなく、短い期間ですが、流通していたのではないでしょうか?
http://www.kirameki-story.tv/back41.html
扇谷遺跡(峰山町)
途中ヶ丘遺跡から2kmのところにある扇谷遺跡から、土笛が見つかっています。それと、高地性大環濠集落です。V字形の環濠は、内濠は延長1km、最大幅6m、深さ4mと、九州の、それより大型です。1世紀末~2世紀初めのものと考えられています。
http://inoues.net/tango/ohgidani.html
鳥取県・青谷上寺地遺跡からは、土笛は8つ見つかっています。
http://www.pref.tottori.jp/bunka/aoyakamijichi/
この遺跡には、環濠はありません。
静岡県・伊場遺跡でも、土笛が見つかっていますが、ここ以外は、すべて、日本海側に集まっています。
V字型をした環濠は、防御のためのものと思われます。大きいほど、襲われれば困るものを村の中に、持っていたと思われます。
宗像市に居た漢人が、丹後半島に移動したのでしょうか? または、上に書きました、山口、鳥取、京都、静岡の土笛を持っていた人たちは、連携していたのでしょうか?
そんな土笛ぐらい、どこにでもあると思いたいですが、それほど、出土しないのであれば、各遺跡は、関係があると疑っても良いことになります。
素人なりに考えますと、「弥生時代前期末」とかの表現を読んだ途端に、思考が停止します。最近のように、弥生時代が、どんどん縄文時代に食い込んでいるようでは、日本の古代史はめちゃくちゃでする。
少なくとも、宗像地方の弥生時代は、伊都国、奴国の人とは、少し毛色の変わった人たちであったようです。
No232 沖ノ島の縄文・弥生時代はあったのか [日本大好き]
あったという根拠は、
「沖の島・祭祀遺跡」http://inoues.net/ruins/okinosima.html の中に、出土した土器や石器が陳列されている写真の掲載とその展示物に添えられている説明文があるからです。
その説明文を以下に、記します。
沖ノ島は祭祀遺跡であるとともに、縄文・弥生時代の重要な遺跡である。すでに、先史時代、人びとは、季節を選んで玄界灘の小島に仮泊して、漁を行ったのであろう。すでに、縄文前期(BC3000ころ)からの土器が出土するとともに、石鏃・石銛・刃器・石匙など各種の石器もある。これらの石材は黒曜石が多いが、沖ノ島では原石は得られず、大分県の姫島や佐賀県の腰岳産のものである。
「沖の島・祭祀遺跡」の中を見た限りでは、「縄文・弥生時代の重要な遺跡」とは、現在も船着場になっていると見られる防波堤にみえるところの上の方らしいです。そこで、「先史時代、人びとは、季節を選んで玄界灘の小島に仮泊して、漁を行ったのであろう」という文章が生まれたのではないかと思います。
しかし、「縄文前期(BC3000ころ)からの土器が出土」となりますと、残念ながら、インターネットの画面だけでは判断できません。
沖ノ島中から、遺跡が出土するのであれば、このような判断になりますが、一ヶ所の遺跡だけでは、出土物があるだけでは、縄文遺跡とは呼ばないのではないでしょうか?
ここで仮泊した人びとは、どこからやってきたのでしょうか? 60kmも離れた本土には魚がいなかったのでしょうか?
仮に、福岡の宗像市からやって来たとします。これを調べようとしますと、私にとっては、大変であることが判りました。福岡県は、どこにあるか知っているのですが、宗像市はどこか判りません。インターネットで地図を見たらすぐに、判りましたが、イメージがわきません。福岡県の地図を買ってくることにしました。
立岩遺跡がどこにあるのか判りません。有名な須玖岡本遺跡・三雲南小路遺跡のデーターは、揃えたのに、頭が回転してくれません。これが、一日かけて、自分で走ってきますと、データーも勝手に頭に入ってくれます。
そこで、保育社「日本の古代遺跡・福岡県」のデーターを借用して考えることにします。
本土側の縄文・弥生時代は、どのようであったかを見たいと思います。
前置きが長かったのは、これから述べることが、トンチンカンなことになるかも知れません。その時は、指摘してください。
「日本の古代遺跡・福岡県」の124ページです。
鐘崎貝塚
宗像地方の旧石器、縄文時代の研究は、空白に近い。あとで記す桜京古墳の近くの池から、旧石器の発見を聞く程度である。沖ノ島には、縄文時代前期後半の曽畑式土器が顕著である。中期末までは瀬戸内系の土器もある。後期はとだえて、晩期中ごろの土器が若干ある。関係石器もたくさん出土している。
鐘崎貝塚は、玄海町大字上八にあって上八貝塚とも呼ばれるが、旧村名の鐘崎村のままに鐘崎貝塚が一般的だ。海浜の砂丘上にある縄文時代後期の貝塚で、1932年(昭和7年
)、田中幸夫が発見、調査し石銛や骨製ヤスも出土している。その後、正式調査がなく、不明な点が多い。
以上が、「日本の古代遺跡・福岡県」に書かれている文章の一部ですが、遺跡は存在したが、詳細は、よく判っていないということです。
むなかた電子博物館というホームページ
http://www.d-munahaku.com/history/list/list.html に、鐘崎貝塚は約3000年前ごろと書いてあります。「沖の島・祭祀遺跡」の中で、記されていた、約3000年前ごろは一致しますから、鐘崎貝塚の人が、沖ノ島へ行っていた可能性はあります。
ところが、「日本の古代遺跡・福岡県」の本の139ページに次の図が掲載されています。

この図は遠賀川流域の貝塚遺跡の分布を表したものです。図をうまく張り付けることが出来なかったのでも見難いとおもいますが、雰囲気だけつかんで頂ければと思っています。
真中に、少し色の濃くなったところがありますが、これは、海がここまで来ていたと思われます。地図の下にある方が、古い時代には、ここまで海が新入していましたから、古い遺跡があります。次第に海は上の方へ、後退していきますから、以前は海であったところが、海岸になり、貝塚遺跡が出来たと思われます。とは言うものの、海岸は、常に川に沿ってあったことが見て取れます。
左の支流に目を向けてください。1新延遺跡(前、中、後期) 次は、2.古月貝塚(前、中、後期)と書いてあります。ということは、先ほど書きましたが、海は、どんどん後退したのではなく、縄文前期の前、中、後期に亙って、この遺跡で住んでいたことになります。
新延遺跡の人々は、中海の海辺を中心にして、生活をしていたのであって、沖ノ島まで魚を取りに行った可能性は少なくなります。
では、沖ノ島にあった縄文時代の遺物は、やはり、彼らは沖ノ島の南のところで生活していたのでしょうか? 縄文前期(BC3000ころ)から住んでいたが、BC2000年ころの遺物がないということは、死に絶えて、350年ころに、本土から誰かがやってきて、大陸へ行くときには、島に立ち寄り、祭祀を行っていた。このような歴史があったように書いてあります。
この間に、弥生時代がありますので、次回は、弥生時代のことを勉強しようと思います。
No 231 宗像大社で出土した鏡 [日本大好き]
米子の宗形神社は、鳥取では一番古い神社であるように、多くの人がインターネットで書いておられます。根拠は書いておられませんが、殆どが、日本書紀に書かれていることが主になっているようです。そこで、前回は、本当に古いのかどうか 探ってみようとしました。
延喜式に書かれている胸形神社は、現在では、宗形神社に変わっているところを見て頂きました。現在の祭神が、日本書紀に書かれている祭神と同じであるところも見て頂きました。
式内社は、日本書紀を編纂した藤原不比等が制定し、実際にあった神社がある所の地名も、すべて変更したのではないかと考えています。しかし、このようなことを言う人は、気違いということになると思います。
なぜかと言いますと、法律を作り整備し、延喜式を作ったのは、当時の政府が行ったことです。これは、現在の歴史では確定しています。私が言うようなことを認めますと、これまで、30年、40年と歴史の研究をしてこられた方は、自分の研究をすべて、否定しなければなりません。
このことは、動かせない歴史的事実ですが、宗像大社の一つの神社がある「沖ノ島」のようなところでは、人は住めないだろうと単純に考えただけですが、変なことになってきました。沖ノ島の遺跡から、多くのものが、出たそうで、全部国宝だというのです。国が国宝に指定したものを簡単に覆すことはできないことだと思います。
しかし、えらいことになりました。鏡がいっぱい出土したと、写真が公開されていました。
「沖ノ島祭祀遺跡」http://inoues.net/ruins/okinosima.html
このホームページを造られた方は、ご自分で宝物館へ行って写真を撮られたのですね。大概、撮影禁止ですのに、いっぱい掲載しておられます。他のホームページをみますと、写真は数枚です。
銅鏡のことは皆目わからないのですが、「どことなく、変だな」という感じがします。写真には、なんという銅鏡であるか、名前が判るようにしておられます。
拾い出しますと、
①だ龍鏡
②獣帯鏡
③夔鳳鏡
④内行花文鏡
⑤三角縁神獣鏡
⑥三角縁二神二獣鏡
と数えることができます。この他にも、いっぱいあるようです。
一番おかしいなと思ったのは、銅鏡は、殆どお墓から出土しています。お墓以外から出土したものは、京都府の籠神社に残されている漢鏡ぐらいです。全部割れていません。お墓から出土したものは、殆ど、割れていて「破鏡」と呼ばれています。
鏡は、外国で作られたものと、日本で作られた鏡があります。宗像大社の鏡は、どちらが多いのだろうか? どうして割れていないのだろうか? ①だ龍鏡 はどのような鏡で、どのような目的で作られたのか、知りたくなりました。
以前にも、知りたくなり本を購入し、データーを蓄えようとしました。
「鏡」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page426.html に書きましたが、なにも解らずでした。あまりにも多いデーターに押し潰された思いがしました。
それでも、今回は、一からもう一度、鏡のことを知るつもりになっています。鏡の全容が判ってから文章に書くのであれば何時の事になるのか分りませんので、書きながら考えることにします。
これまでに判ったことは、宗像大社の見解は、どうやら、鏡は神社に奉納されたものであるらしいです。奉納されたのであれば、はじめから、最近まで全部揃っていてもおかしくありませんし、割れていないのも、納得です。
しかし、奉納されたのであれば、それはそれで解明されなければならないことは、いっぱいでてくると思われます。
例えば、ある時代の鏡だけ無かったとします。では、何故なかったのか 説明できなければなりません。 誰が奉納したのか、その証拠を提示しなければいけないと思います。
発掘されたときの状態が、写真に収められていると思われますが、公開しなければと思います。
宗像大社に出土した鏡について、ある程度私が納得出来ましたら、書いていくつもりです。
No 230 米子の宗形神社は古い神社 [日本大好き]
古事記の「誓約」のことが書かれてある最後の所に、次の文があります。
多紀理毘売命は、胸形の奥津宮に坐す。
次に市寸島比売命は、胸形の中津宮に坐す。
次に田寸津比売命は、胸形の辺津宮に坐す。
この三柱の神は、胸形君等のもち拜く三前の大神なり。
「この三柱の神は、胸形君等のもち拜く三前の大神なり」とよく似た表現は、日本書紀の「誓約」のことについて記述したところの本文あたるところに「これが筑紫の胸肩君らがまつる神である」と書かれています。
720年に古事記が完成したときに、米子の宗形神社を訪れた稗田阿礼は、いろいろ古老から話を聞いて、上の四行の文を書いたと思います。この時に、神社の名前は、「胸形」と言い、地名も「胸形」と言われたから、「胸形の奥津宮」と表現しました。
「奥津宮」は、「奥の宮」か、海岸にある一番奥にある所に造った宮という意味ではないでしょうか? このように考えますと、地図を眺めますと、「奥谷」が近くに見つかります。この地は、ずっと、以前から奥まって谷を形作っていたところではないかと想像します。
神社の伝承によりますと、
神社の創建は、祭神が船で、米子市長砂町小林に着いたとありますから、その船は、後に石に化したと伝えられ、この所を御船塚と称していた。この船塚は、明治の末頃には、茅などの生えた百坪ほどの広い砂丘であったものが、昭和の始め頃には、田圃の中に、一抱えほどの石のある葦などの生い茂った、一坪ばかりの砂地として残されていたが、終戦後切り崩され、更に埋め立てて宅地とされたと言われています。
明治の末で、このような状態の所でしたから、2000年前は、「奥谷」と辺りは、陸地であったと思われます。
「胸形君等のもち拜く三前の大神なり」と書かれてある「三前」は、御崎、岬であったと思われます。
「辺津宮」は、どこが判りませんが、海辺にあったのでしょう。「中津宮」は、「奥津宮」と「辺津宮」の間あり、「三前」まで並んであったのではないでしょうか?
米子市の宗像から、南に目を移しますと、「三崎」と「諸木」があります。 ついでに、岸本町に「久古」という地名が見つけることができます。ここに久古神社があります。
それが、どうしたのだと言われますと、それでお仕舞です。しかし、田村誠一といわれる方は、「三崎」と「諸木」と「久古」を結びますと、直線で結ばれますと。それだけではなく、その先端は、大神山神社であることに気がついたと言っておられます。
このことは、歴史を覆すほどのことであるだけに、これまでに、何度も書こうと試みましたが、上手く書くことができませんでした。
記紀が完成した時には、宗形神社も大神山神社もすでにありました。大神山神社の祭神をみますと、神社の由緒では、大穴牟遅神となっています。奥宮 大己貴神となっています。大己貴神は日本書記の書き方です。大穴牟遅神は古事記の書き方です。
鳥取神社誌をみますと、「官国弊社」として、三社が、特別にはじめに記されています。その三社は、宇倍神社、名和神社、そして、大神山神社が挙げられています。
ここ書かれている大神山神社の祭神は、大己貴命、大山津見神、須佐之雄神、少名毘古那神となっています。
この神社は、古くからあり、勢力の強かった神社と思われますが、皆さんが書いておられることを読めば、訳の分からない部分が多いことに気が付きます。それだけ、複雑な歴史を潜ってきた神社であることが、推察できます。
書けば書くほどに、皆さんを混乱にさせるかと思いますが、少し、書いてみますと、
大国主神が少名毘古那神と全国を指導して回っていましたが、少名毘古那神がいなくなり、困っていた時の様子を古事記では、次のように書いています。
ここに大國主神は愁いて、言われました。「吾獨(ヒトリ)して何(イカ)に能(ヨ)く此の國を作り得ようか。孰(イズレ)の神と吾(ワレ)と能く此の國を相(アイ)作ろう耶(ヤ)」と。是の時、海を光らして依(ヨ)り來る神がありました。其の神が言われるには、「能く我が前を治めるならば、吾は能く共に相作り成しとげよう。若(モ)し、不然(シカラズ)ば、國は成り難(ガタ)いでしょう」と言われました。爾に、大國主神が曰(モウ)されますには、「然(シカラ)ば、治め奉てまつるには、奈何(イカ)なる状態がいいでしょう」。「吾をば、伊都岐奉于倭(ヤマト)の青垣の東の山上に、伊都岐(イツキ)奉れ」と答えて言われました。此は御諸山(ミモロヤマ)の上に坐す神なり。
其の神とは、大物主の神ですが、その神が言うには、私は、「此は御諸山(ミモロヤマ)の上に坐す神なり」と言ったことになっています。歴史の学者は、この御諸山は、奈良の大神神社の後ろの三輪山だと言っておられます。
この部分だけを読めば、そのとおりかも知れませんが、古事記のこれより前の部分もすべて読んで頂きますと、おかしいところがいっぱいであることが分かると思います。
古事記に書かれた御諸山は、太安万侶が考えた山の名前だと田村誠一氏は述べておられます。
これを数行の文章では、とても、説明することができません。
紀元前の人は、太陽を利用した知識を利用することにより、自分たちの住むところを決め、宇宙の法則の中に、置くことによって、幸せをつかもうとしたのではないかと想像しています。そのために、基準ななるものを定めたと推察しています。日本中に存在する「高尾山」は、彼らの目印になり、全国どこへでも行くことが出来たと考えます。伊勢の「神島」 、岡山・笠岡市の「神島」も基準になったところです。
このページでは、このことを述べるのが、目的ではありませんが、太安万侶は、奈良の大神神社の大物主はまちがいですよと、警告したのだと思っています。それは、その後ろに、漢人の五人の男が、どのような男であるかを書いています。
古事記の誓約は、太安万侶の苦心の作であったことになります。
随分、話がとんでしまいましたので、なんのことかお判りになられなかったのではないかと思います。古事記に書かれてある三人姉妹の部分に登場する地名が、すべて、伯耆国に今でも存在していることを見て頂きました。
参考に、
これらのことを地図だけではなく、実際に体で知るために、この近辺を走ってきました。その時に考えたことを書いています。http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page511.html
久古神社と大神山神社をご覧ください。 久古神社の祭神が重要です。
古事記が書いて置きたかった事 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page308.html
No 229 胸形神社と宗形神社 [日本大好き]
むなかた神社と呼ぶ神社は、全国に6000社ほどあり、九州にある宗像大社は、その総本社であると書いています。総本社の意味がよく判りませんが、宗像大社ですべてを取り仕切っているのでしょうか? 「むなかた」と読むことができる漢字には、宗像、胸形、宗形があります。
宗形神社を調べましたら、
鳥取県米子市宗像298 式内社
岡山県赤磐市是里3235 式内社
愛知県稲沢市国府宮1-1-1 尾張大國霊神社の摂社 国府神社別宮 式内社
正三位上宗形天神
がありました。
栃木県小山市寒川1730 には、式内社の胸形神社がありました。
このうち、米子市にある宗形神社の資料を書いてみます。
http://www.genbu.net/data/houki/munakata5_title.htm より拝借します。
創建年代は不詳であるが、往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている。
平安初期の斉衡三年(八五六)に宗形の神に神階五位上が増叙された旨、文徳実録(日本六国史の一)に所載されている。醍醐天皇の延長五年(九二七)に勅撰された延喜式神祇の巻に、伯耆国六社(会見郡では胸形神社と大神山神社)の一として、国幣小社に列格されている。
宗形神社写真-- http://yonago.sanin.jp/p/kankouguide/1/22/
屁理屈をこねますと、「創建年代は不詳である」と書きながら、「往古宗像氏族が、祖先神である宗像三女神を奉じて九州からこの地に来着し、これを斉祀したのが起源と伝えられている」とあります。宗像氏族が、この地に来着したのであれば、およそ何時頃か判りそうなものです。
上に書いてあるとおり、伯耆国には、式内社は六社しかありません。藤原氏不比等は、伯耆にある天皇家に関連するものは、悉く消そうとしたとみています。最大のものは、神武天皇です。日本書紀には、三姉妹はスサノオの子供と書きながら、他の一書には、アマテラスの子供だと書いてあり、宗像大社の由緒には、アマテラスの子供であるとされていることは、前回に書きました。
アマテラスの子供を祭るのであれば、米子の宗形神社は、消し去るか、一層のこと、宗像大社と同じ、宗像神社とすれば良かったと思います。
延喜式には、胸形神社とされているのに、現在は宗形神社となっています。それなのに、地名はなぜか、宗像になっています。
由緒詳細をhttp://homepage1.nifty.com/o-mino/page303.html に記録しています。
これは長い年月の間に、胸形神社は宗形神社に代わりましたが、宗像神社にはならなかったのだと思っています。ということは、胸形神社の抵抗があったのだと考えます。由緒にあるように、宗像大社から勧請されたのではなく、逆で、米子にあった胸形神社を無理やりに九州へ移動させたのではないでしょうか?
長くなりますので、どうして、そのように考えるようになったかを次回書きます。
No47 オセアニア大航海展 [歴史番外編]

昨日、大阪府・吹田市の国立民族学博物館に行ってきました。「オセアニア大航海展」開催中でした。先日来、九州の宗像大社の沖ノ島に祀られているタキリ姫のことを書いています。沖の島は行ったことがありませんが、インターネットで見ただけでは、このような島には、人は住んでいなかったのではないかと書きました。しかし、昨日、見学をしているうちに、書き直さないといけないのではないかと思っています。その他、いろいろ新たらしいことを、勉強をしてきました。
オセアニアの島々で、人間が入っていない島はないこと。現在住んでいる人たちのルーツは、世界史の常識では、アフリカが人類発の地ですが、その後、時代が下りますと、中国大陸から移動したことが図示されていました。この小さな船が3000kmを公開した舟と思うのですが、それにしても小さい船です。どこかの古墳の壁に、確か、2本の棒を描いた船があったような記憶があります。こんな船が日本にもやってきたのでしょうか?
内容は、オセアニアの人たちが、これまでどのような歴史を経て現在の生活があるかを民族学の立場から解明し、みなさんに提供しようという企画です。
紀元前の人たちが、行き当たりばったりではなく、星と太陽と海と動物たちが提供してくれるデーターと長年の先祖からの伝承だけで、航海をしていた様子を浮き彫りにしています。わたしの疑問は、なぜ、荷物も積むことができない小さな舟で航海する気になったのか理解できませんが、金がほしい、こしょうがほしい、絹がほしいだけでは解けないものがあることが判りました。
上の写真をクリックしますと、大きくなります。
僅か、数分見ただけのビデオと購入した展覧会用の冊子の知識から判ったことは、ハワイからタヒチまでは往復していたようですし、ハワイからサタワル、パラオを経由して、現在の航法を使わないで、日本まで航海したホクレア号は、紀元前でも、航海の可能性を実証しています。
また、別のチェチェメニ号がミクロネシアのサタワルから沖縄まで航海したことも知りました。チェチェメニ号はその後、日本まで来て、現在、常設展示場にあります。このことは、帰宅してから知りましたので、よく観察してきませんでしたので、また、見に行こうと思っています。
民族学博物館の30周年特別展です。近くの方は、一見の価値ありとお勧めします。
No 228 大国主神とタキリ姫のデート [日本大好き]
宗像神社のことは、楽しんで書くつもりでしたのに、神社の由緒に噛みつくことになってしまいました。
この号は、楽しんで頂けるように書きだそうと思っています。
前回、読んで頂きましたように、多紀理毘売命は、田寸津比売命、市寸島比売命の三姉妹は、スソノオの子供として生まれたのですが、アマテラスは、すぐに、筑紫に行かせたことになっています。そして、タキリ姫は沖ノ島に行かせました。
どう考えても納得いきません。三姉妹であれば、一緒に住んでいたはずです。
古事記では、降臨した話は書いてありません。今、多紀理毘売命は、胸形の奥津宮に坐す。
次に市寸島比売命は、胸形の中津宮に坐す。次に田寸津比売命は、胸形の辺津宮に坐す。
と、別々に祀られていますと、神社の名前が書いてあるだけです。
古事記の原文と読み下し文は、「天の安の河の誓約」
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page284.html にあります。
祭神をどのように考えるか、難しいところがあります。たとえば、江戸時代にある村で、新しく神社を作ることになったとします。その時は、村人でどこの神さんに来て頂こうかとなるのでしょう。自分たちと関係のある神さんに来て頂くことになります。この三姉妹の神に来て頂くことを勧請と言っているようですが、私には、よく理解できません。この場合、三姉妹は、この村に住んだことはありませんが、三姉妹は、一番はじめの神社に祀られているのであれば、その神社の近くに住んでいたと考えるべきです。
『ウィキペディア(Wikipedia)』宗像大社は、全国に六千余ある宗像神社の総本社であると書いています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%83%8F%E5%A4%A7%E7%A4%BE
宗像大社の由緒が正しいとしますと、タキリ姫は宗像市に住んでいたことになり、大国主神との出会いがあったから、結婚することになったと思われます。そのようなことはあり得ないでしょう。あれは神話なのですからとの言葉が返ってくるかも知れません。とすれば、そのような神話を元に、どうして、由緒を書きあげるのですかと言いたくなります。
調子に乗って、「祈願案内」を見てみます。
交通安全・家内安全・業務安全・商売繁盛・心願成就・病気平癒・学業成就・旅行安全・厄除け・方位除・安産・初宮・身体安全
以上のことが、祈願しますと、かなえられることになっています。旅行安全ぐらいが関係あるでしょうか? 後は、皆さんで考えて頂ければと思います。大国主神はどこに住んでいたのでしょう。
本題に入ります。タキリ姫は宗像市に住んでいたことが判りました。では、大国主神はどこに住むんでいたのでしょうか?
スサノオは、八岐大蛇を退治した後に、結婚に良いところを探して、出雲の須賀についたと日本書紀に書かれています。そして、生まれたのが大己貴神(おおあなむちのかみ) と書かれています。どうして、この字を(おおあなむちのかみ)と読むのか知りませんが、古事記に大国主神の別の名前が大穴牟遅神と書かれているからだと思います。大穴牟遅神ですと、(おおあなむちのかみ)と読むことは、現代の人でも、素人でも読むことができます。
スサノオの子供として、大己貴神(大国主神)が生まれたことは、日本書記の本文に当たる所に書かれています。その後ろには、こんな伝承もありますと、6冊の本があることが記してあります。日本書紀の編纂者は、それだけ、自分たちは、沢山の資料を集めましたよと書いた形式を取っています。だから、古事記より日本書記の方が正確だと言っておられる方が大勢おられます。
私は、そうではないと考えています。この部分は、古事記では、どのように書いてあるか読んでください。前回に書きました「誓約」のところも、同様ですが、古事記に書いてあることは、理解できません。(古事記は712年・日本書記は720年完成。日本書紀を作る時に、古事記を参考にしたはずです)
日本書紀の編纂者も理解できなかったのだと思います。
今回は、理解のできなかった様は、もっと、ひどかったようで、6冊もありますから、日本書紀の編纂者は難儀したようです。
第一書だけでもご覧ください。大己貴神はスサノオの子供ではなく、5代の孫だと書いています。
例えば、邪馬台国はどこにあったか という本を書くとします。今、いろいろの説が100あるとします。あるからと言って、全部紹介したら、本はどれだけ分厚い本になるでしょう。日本史を語ろうとするときに、すべて書けば正確かといいますと、混乱するだけです。
あまりにも、他の資料とかけ離れているときは、資料として除外する方が親切というものです。スサノオの子供と5代の孫では、全く信頼おけなくなります。
話題がそれましたので、修正します。生まれたのは、出雲かも知れませんが、成長するにつれて、名前がどんどん変わられたことが書いてあります。葦原色許男神の別名があります。これは、播磨のあたりで活躍した頃に付けられた名前らしく、兵庫県に三木市があります。
ここに、
1. 御坂神社 志染・御坂字宮ノ東 (みさか)
2. 郷社御酒神社 細川・垂穂字前田 (みさけ)
3. 社三坂神社 久留美・加佐字宮本
4. 村社三坂神社 細川・豊地字上ノカチ
5. 村社御酒神社 別所・石野字三坂山
6. 村社美坂神社 別所・東這田字前山
7. 無格社御坂社 志染・吉田
8. 無格社御坂社 志染・安福田
があります。この中に、葦原志許男命の祭神を見ることができます。この辺りで、大国主は活躍したのだと考えています。
お国主は、因幡の兎の話にあるように、多くの兄弟がいたことが、古事記には書かれています。日本書紀には書かれていません。書きたくなかったことになります。多くの兄弟から、その後、苛められます。
その後、大穴牟遅神と呼ばれる時に、スサノオが住んでいる根の国を訪れ、スサノオの娘の
須勢理毘賣と意気投合しますが、スサノオは認めません。スサノオにも苛められますが、二人は駆け落ちをすることになります。
この時の様子は、古事記に詳しく書いてあります。
「根の国訪問」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page379.html に書いてあります。
できれば、ご自分で原文を読んでください。
「根の国訪問」のその4に、大国主が行ったところが書いてあります。
「於宇迦能山【三字以音巳】之山本。於底津石根。宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】而居。是奴也。」
迦能山之山本は、迦能山の麓のことです。今は、ここに「山本」ではなく、「倭」という集落があります。字名は、「大国」です。ここに、底津石根。宮柱布刀斯理と書かれた宮殿を建てたことになります。
日野川を上って行きますと、溝口町があります、目を西の方へ移しますと、西伯町があります。この町は、以前大国村と呼ばれたところです。150000分の1の地図でもなぜか、倭という地名が載っています。国土地理院「母里」に掲載されています。こちらには、「やまと」と振り仮名が付いてます。ここに賀茂神社があります。祭神は、別雷神、大巳貴神、神武天皇、倉稲魂命ほかです。神武天皇がこの辺りと関係があるということです。この神社の由緒に、大国村倭字神田鎮座の田辺神社祭神倉稲魂命を合祀したとあります。倉稲魂命は伏見稲荷の祭神、宇迦の御魂と同一人物で、大国主神の庶兄弟の一人です。神社の背後にある山が宇迦の山です。
ついでに、地図を眺めてください。 八十神が、大穴牟遲神を苛めるところで、「至伯岐國之手間山本云」という文章があります。手間の山本は、手間山の麓だと思いますが、大国村の倭のすぐに、「手間」という地名があります。嘘のようですが、一度確認してください。
伯耆の国には、不思議なことに、古事記に登場している地名が残されています。
日本書記は、伯耆の国のことは、悉く抹殺したと考えます。見事に消したのですが、古事記に書かれている地名までは消すことが出来なかったのだと思っています。
如何ですか? 大国主は伯耆の国に住んでいました。その時、タキリ姫は、大国村の倭から海の方へ眼を移しますと、宗像という地名の所に住んでいました。
宗像を地図の上で見つけて置いてください。
No 227 宗像大社の由緒 [日本大好き]
No225 において、「少し、疲れましたので、切り口を変えて楽しもうかと思っています」と書き始めました。
福岡県の沖の島には行ったことがありませんが、資料を見た限りでは、あのような狭いところで住むことが出来たのだろかと、少し茶化す気持ちでした。
最近、体力がなくなりまして、250mぐらいの山を登るのが大変です。琵琶湖の竹生島は、同じくらいの高さです。島へは船で行きますが、桟橋に着きますと、平らな所はありません。ひたすら、階段を登るだけです。
沖の島は、周りが竹生島の2倍です。縄文・弥生の遺物が残っているのですから、縄文時代から人が住んでいたことになります。
少し調べていますと、結構データーが頭に入ってきます。私にとって、何が一番気に入らないかと言いますと、由緒に、宗像大社の存在の根拠が、日本書紀に書かれていますとあることです。
いろいろ調べて行きますと、この宗像大社が、ここに以前からあったことを日本書紀に書いたのではないかと疑えるからです。(本当はなかったのに)
インターネットから、宗像大社の由緒を引用して、眺めてみます。
「大社は天照大神の三柱の御子神をおまつりしています。この三女神のお名前は、田心姫神(たごりひめのかみ)湍津姫神(たぎつひめのかみ)市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)と申し上げ、沖ノ島の沖津宮には田心姫神、大島の中津宮には湍津姫神、田島の辺津宮には市杵島姫神がそれぞれおまつりされています。この三宮を総称して宗像大社と申します。
ここ宗像の地は、中国大陸や朝鮮半島に最も近く、外国との貿易や進んだ文化を受け入れる窓口として、重要な位置にありました。 日本最古の歴史書といわれる「日本書紀」には、天照大神の「永遠に皇室をお助けし、皇室からも厚いお祭りを受けなさい」との神勅(天照大神のお言葉)により、三女神がこの宗像の地に降りられ、おまつりされるようになったことが記されています。
特に沖津宮がおまつりされている沖ノ島は、九州と朝鮮半島とを結ぶ玄界灘のほぼ中央にあります。また、女性はこの島には渡れず、今でも古代からの風習をそのまま守り続けている神の島でもあります。
この島からは、鏡、勾玉、金製の指輪など、約十万点にのぼる貴重な宝物が見つかりました。これらの宝物は国家の繁栄と海上交通の安全を祈るために、神様にお供えされたものです。その内容や遺跡の規模の大きさなどからも、沖ノ島は「海の正倉院」ともいわれています。この神宝は、辺津宮神宝館に所蔵、展示されております。」
疑問に思ったことを書いてみます。
①「大社は天照大神の三柱の御子神をおまつりしています」
古事記には、三姉妹はスサノオの子供だと書いています。日本書紀は、どのように書いてあるか、ご自分で調べませんと、頭に入りません。
アマテラスが管理する高天原を攻撃しにやってきたスサノオは、ただお別れの挨拶に来ただけだと弁解します。信じられないアマテラスは、「誓約 うけい」をして、どちらが正しいか、決めようとします。ここの部分を書いたところで、古事記では、三姉妹はスサノオの子供だと書いています。日本書紀も、本文に当たるはじめの部分には、スサノオの子供だと書いてあります。その上に、「これが筑紫の胸肩君らが祭る神である」と書いています。ということは、日本書紀が書かれた715年ころには、宗像大社は存在したことになり、日本書紀では、そこで祭られている神の由来を述べていることになります。
日本書紀では、この説のほかに、3冊の書物があり、そこには、これこれのことが書いてありますという編集になっています。
最初に書いて一書を読んでください。アマテラスが三姉妹を生んだと書いています。続けて、スサノオが五人の男の子を生んだと書いてあります。そこで、アマテラスは、三姉妹を筑紫の国に降ろされて、「お前たち三柱の神よ、海路の途中に降り居りて、天孫を助けまつり、天孫のためにお祀りされよ」と言われたことになっています。
②【最古の歴史書といわれる「日本書紀」には、天照大神の「永遠に皇室をお助けし、皇室からも厚いお祭りを受けなさい」との神勅(天照大神のお言葉)により、三女神がこの宗像の地に降りられ、おまつりされるようになったことが記されています】と大社の由緒に書かれている根拠は、日本書紀の一書によっていることが解かると思います。
③ 【最古の歴史書といわれる「日本書紀」には】と書かれた文章があります。別に、これでもかまわないと思います。学者の方で、古事記はニセモノであると断言しておられる方がおられます。となりますと、「日本書紀」は最古の歴史書となります。
私が、これまでに、調べてきた経過から考えますと、日本書記は、古事記を見ながら、自分たちの都合の悪い歴史的な部分は、末梢しながら書いたように考えています。
④ ①に書きましたように、日本書紀には、大陸へ行くときの海路の中継地のように書いてあります。第三の別書にも、そのような記事が書いてあります。「日の神は、三柱の女神を葦原の道の中の宇佐嶋に降ろされた。いま海の北の道の中に鎮座しておられる」がそれです。
⑤宗像大社では、祭神を田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神と書いています。これは、日本書紀に書いてある祭神です。古事記では、多紀理毘売命は、田寸津比売命、市寸島比売命はです。
どなたも、日本書紀に書かれている祭神と古事記に書かれている祭神が、違うことになんら、疑問を持っておられません。読み方は殆ど、同じですが、漢字は、100%日本書記の方が、読むのが難しいです。
これは、日本書紀の作者が、古事記を見ながら、編纂した理由の一つだと考えています。
このようなことを考えていますと、宗像大社の由緒は、どなたか判りませんが、昔から伝えられている由緒ではなく、歴史のプロに書いて貰われたのだと思います。
No226 多紀理毘売命は胸形の奥津宮に坐す [日本大好き]
「多紀理毘売命は、胸形の奥津宮に坐す」は古事記に書かれている文章です。胸形の奥津宮は、九州の宗像市の洋上の沖の島にあると言われています。
「沖ノ島祭祀遺跡」http://inoues.net/ruins/okinosima.html
から、データーを拝借します。
「沖ノ島は玄界灘のまっただ中に浮かぶ周囲4キロ・高さ243mの孤島で、古代より航路の道標とされてきた神体島である。対岸の内地から海上約60kmにあり、韓国の釜山まで 145kmである」
拝借しながらもケチを付けるのは、申し訳ないのですが、「古代より航路の道標とされてきた神体島」というのは、本当でしょうか?
高さ243mでは、あまり遠くから見つけることはできないのではないでしょうか? 九州から出かけるときは、ある程度方向を定めて船を進めますと見つけることはできますが、朝鮮から来るときは、無理でしょう。もっとも、星による観測で航行していたのであれば、見つけることはできますが、寄港すればメリットがあるのであれば立ち寄るでしょうが食料も水もなければ、危険な島に立ち寄る必要はありません。
この島に行ったこともないし、見たこともありませんので、別の島で考えてみます。
琵琶湖に竹生島があります。周囲の長さは2km、高さは197m。一方、沖の島の方は、周囲の長さは4km。高さは243m。
竹生島は一度行ったことはあります。観光と宗教関係の人は住んでおられると思いますが住むところではないでしょう。上まで息が切れるほどの階段が続いていました。島の周りに湖底遺跡があり、縄文・弥生時代のものが見つかっているそうですが、住んでいた説明はついていないようです。
竹生島は、周りが水ですし、魚もいたでしょうから、人間は生きていくことは出来たと思います。沖の島の周囲は、竹生島の倍ですから、面積は4倍あることになります。縄文時代のものが出土していますから、縄文時代に人が住んでいたことになります。仮に稲作ができないとしますと、この島の広さで生きていくことはできたのでしょうか?
こちらは周りが海ですから、飲み水の確保が重要です。
(H19.12.04追記--飲み水の件ですが、「島内は、天然記念物である亜熱帯植物が、群生しており、この森を、源泉とした、湧水が、年中絶えることなく、湧出しております。」とhttp://www.geocities.co.jp/Technopolis/5856/jinjyabukkaku/okinosima.htmlにかかれていますから、飲み水はあることになります)
こんな所で、多紀理毘売命は、なにをしていたのでしょう。古事記では、三姉妹は誓約のときに、スサノオの子供として生まれたとあります。しかし、日本書紀では、アマテラスの子供として生まれたとあります。
宗像大社のホームページ http://www.munakata-taisha.or.jp/yuisho.html
では、【日本最古の歴史書といわれる「日本書紀」には、天照大神の「永遠に皇室をお助けし、皇室からも厚いお祭りを受けなさい」との神勅(天照大神のお言葉)により、三女神がこの宗像の地に降りられ、おまつりされるようになった】と記し、三姉妹は、皇室の一族として扱っておられます。
いろいろのことを書きましたので、なにを言いたいのか、ボヤケテしまいました。
極、普通に考えますと、こんな所に三姉妹が住んでいたはずがありません。いくら、天照大神から言われたからといって、ここで、お祭りをすることが、永遠に皇室をお助けすることになるのでしょうか?
おかしなことばかりですが、写真をみますと、宗像大社は歴然と存在しています。これは、どのように考えたらいいのでしょう。
No 225大国主神、タキリ姫と結婚 [日本大好き]
少し、疲れましたので、切り口を変えて楽しもうかと思っています。
大国主神とタキリ姫とは結婚して、阿遲鉏高日子根神と妹の高比賣命を生みました。妹の亦名下光比賣命と言います。此の阿遲鉏高日子根神は。今では迦毛大御神と言います。
と古事記に書かれています。
「大国主の神裔」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page408.html
タキリ姫には、他に二人の姉妹がいます。
タキリ姫は、多紀理毘売命と書き、亦の名は奥津島比売命と言います。
他の二人は、
イチキシマ姫(市寸島比売命。亦の御名は狭依毘売命)と言います
タキツ姫(多岐都比売命)と言います。
この三人娘は、スサノオがアマテラスに別れの挨拶に来た時に、あまりにも荒々しい勢いで高天原に駆け昇ってきたので、アマテラスは、スサノオが殺しにやって来たと勘違いします。
ただ単に、別れるために来たことを証明するために、「誓約うけい」ということを二人で行います。
古事記に書かれている「誓約」は、意味が良く理解できませんが、誓約の結果、三姉妹がスサノオの娘として生まれたと書かれています。
それは、どこかといいますと、高天原の「天の安の河」を挟んで、二人は対峙して、天の真名井の水を口に含んで行ったとあります。
「天の安の河の誓約」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page284.html
その後、三人の娘は、高天原から降りて、次の所に住んでいたようです。そして、現在でも、ここに祀られていますということだと思います。
多紀理毘売命は、胸形の奥津宮に坐す。
市寸島比売命は、胸形の中津宮に坐す。
田寸津比売命は、胸形の辺津宮に坐す。
この三柱の神は、胸形君等のもち拜く三前の大神なり。なり。
と古事記は書いています。
「天の安の河の誓約」を読みましても、スサノオが勝ったと宣言していますが、どうして
勝ったのか理解できません。理解できないことは、
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page284.html に書いておきましたが、本日は、こ
のことは、そのまま置いておきまして、別の所に注目しようと思います。
上に書きましたように、古事記には、「多紀理毘売命は、胸形の奥津宮に坐す」と書いて
います。では、胸形の奥津宮は、どこにあるのかと言いますと、古事記の翻訳者の倉野憲
司氏は、欄外の注として、福岡県宗像市沖の島と書いておられます。
これは本当でしょうか?
「沖の島・祭祀遺跡」http://inoues.net/ruins/okinosima.html
「宗像大社」http://www.geocities.jp/ja6dwq/jinjyabukkaku/munakata-taisya.html
私も資料はもっていませんので、上のページを見ました。これを見ていますと、先に書き
ました「これは本当でしょうか?」は消えうせてしまいます。
沖の島は、縄文時代からの遺跡が揃っており、人々が昔から生活していたことが判ってい
ます。神社も無理やり造られたものではなく、歴史のある神社のようです。
それでも、私には、単純なことですが、引っかかるものがあります。
次回は、そのことを書いてみます。






