So-net無料ブログ作成
検索選択

No714神武東征(163)  神武天皇(106) 奥津鏡・辺津鏡(2) [日本大好き]

どうやら、奥津鏡・辺津鏡は、自分たちが由緒正しいことを示す重要なものであったらしいです。
 その外のものとしては、剣と玉、珠も重要であったようです。此れらのものは、自分たちの出生の証ではなく、いろいろの力を持っていたようです。
 古事記では、大国主神が、難儀に出合った時に、助けてもらった話が掲載されています。

 大国主神は、全国を行脚したらしく、その崇敬者たちが、神社を建て、大国主神を祭神として祀っていることから、日本建国に重要な人であったことが、推察されます。
 大国主神が住んでいた所に拠って異なる名前が使われていたらしく、古事記の作者は、5つの名前を書いています。
 
 兵庫県三木市には、三坂神社とか御坂神社の祭神として葦原色許男神の名前で祀られていますから、この辺りに住んでいたと考えてもいいのではないかと思います。
1.  御坂神社    志染・御坂字宮ノ東   (みさか)
2.  郷社御酒神社  細川・垂穂字前田    (みさけ)
3.  社三坂神社  久留美・加佐字宮本
4.  村社三坂神社  細川・豊地字上ノカチ
5.  村社御酒神社  別所・石野字三坂山
6.  村社美坂神社  別所・東這田字前山
7.  無格社御坂社  志染・吉田
8.  無格社御坂社  志染・安福田
 等があります。

 古事記では、上記の記事に続いて、〔稲羽の素莵〕の話が挿入されています。この部分は、神話の代表として捉えられているため、学者によって、解釈の仕方は色々です。
 確かに、書かれてある内容は、現代の人には、理解困難なところがいっぱいですが、前回、出石神社の祭神として、書かれていた玉津宝・珠二貫・振浪比礼・印浪比礼・振風比礼・切風化礼の部分を物語風に書いたのではないかと考えています。

 大国主が結婚した人は、
八上比売  須勢理毘売  沼河比売  多紀理毘売  神屋楯比売命
鳥耳神  日名照額田毘道男伊許知邇神  葦那陀迦神  前玉比売
比那良志毘売  活玉前玉比売神  青沼馬沼押比売  若盡女神
遠津待根神
です。 この中の八上比売との結婚に至るまでの話が、〔稲羽の素莵〕の物語になります。
〔稲羽の素莵〕では、大国主神は、大穴牟遅神と呼ばれていたことになります。この物語では、大国主神の兄弟は、八十神いましたと書かれていますが、古事記では、それほど多くは記述されていません。大国主神は、兄弟の中では、位が低かったらしく、大きな袋を背負わさせられていたようです。
 兄弟たちは、伯耆の国に、住んでいたようですが、兄弟皆で、大旅行に出発しました。行き先は、因幡国の八頭郡八上に住んでいる八上比売がお目当ての様で、皆が結婚したいと思う程の素晴らしい女性だったと思われます。

現在、八上に売沼神社があり、八上比売が祀られていますから、この神社の近くに住んでいたと思われます。http://www.genbu.net/data/inaba/menuma_title.htm
 
 八上比売は、大国主神にとって、最初の妃ですから、日本書紀に書かれていてもいい筈ですが、書かれていません。このことが、重要だと考えています。又、式内社であることと、八上比売を祀って在るのであれば、神社の名前が、八上比売神社とか、八上神社であってもいいのですが、売沼神社となっています。式内社になったのは、何時のことか判りませんが、900年頃にできた延喜式の神名帳に載っている神社ですから、古い神社です。
 この様に、誰かが八上比売という名前を消そうとしたと考えますと、実際に実在した人であると考える根拠になります。
 
 〔稲羽の素莵〕の中では、奥津鏡・辺津鏡も、剣や玉、珠も登場しませんが、大国主神が、いじめられた兎を助けたことが、縁になって、一番下っぱの大国主神が、八上比売と結婚することになります。
 それが、一応、八十神の皆からの怨みを買うこととなり、その後、苛められます。
 物語りは、苛められたことになっていますが、理由は別にあったのではないかと考えています。

No713神武東征(162)  神武天皇(105) 奥津鏡・辺津鏡 [日本大好き]

石上神宮で、瀛津鏡、辺津鏡が伝えられています。現存はしていません。京都の籠神社には、息津鏡・辺津鏡が現存しています。『先代旧事本紀』には、沖津鏡、辺津鏡が記されているそうです。
 この鏡は、兵庫県の出石神社に、残されているそうです。
出石神社のデーターを記しておきます。

鎮座地 兵庫県出石郡出石町宮内。 地図
http://www.chizumaru.com/map/map.aspx?x=485543.146&y=127724.028&ex=485543.146&ey=127724.028&SCL=2358&tab=&lk=&msz=1&svp=&&Write=ON

祭神 出石八前大神・天日槍命。

由緒 
 旧国幣中社(現、別表神社)。祭神、出石八前大神・天日槍命。社伝によると垂仁天皇の時、天日槍命が来朝し、当地を開拓したので、その徳を敬慕し、命が奉持していた八種の神宝を八前大神として祀った。八種神宝とは、玉津宝・珠二貫・振浪比礼・印浪比礼・振風比礼・切風化礼・奥津鏡・辺津鏡であり、このことは既に『延喜式神名帳』にも八座の神として明記され、名神大社となっている。更にこれより先、天平九年(七三七)神戸租調稲およそ一六八〇束を充て、承和一二年(八四五)七月に従五位下となり、貞観一六年(八七四)三月には正五位上に叙せられている、但馬国一宮として崇敬されて来た当社であるが、戦国時代に入ると、天正年間(一五七三-九二)豊臣氏のために社領を没収された。江戸時代には出石城主歴代の尊崇をうけ、小出、仙石両氏が社殿を造営した。本殿三間社流造、檜皮葺、本殿の前面に切妻造の幣殿が連なり、更にその前に舞殿形式の拝殿(入母屋造平入)が連なっている。社宝としては、重文指定の脇差一振(南北朝時代、銘但州住国光)がある。例祭一〇月二〇日、その他御年花祭(おはなびらまつり)が一月二二、二三日に行われる。≪神社辞典

由緒に書いてあることが、正しいとしますと、祭神は、玉津宝・珠二貫・振浪比礼・印浪比礼・振風比礼・切風化礼・奥津鏡・辺津鏡の八つの宝物だと云うことになります。この八つの宝物のことをそれと、出石八前大神と呼ぶと書いてあります。そして、この辺りを開拓した天日槍命が祭神なっています。

このパターンは、石上神宮で見ました。こちらは、祭神のすべてをまだ、眺めていませんが、祭神は、
布都御魂大神
布留御魂大神
布都斯魂大神です。この中の一つの神は、布都御魂大神当神宮の主祭神で、国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊 フツノミタマ」に宿られる御霊威を称えて布都御魂大神と名付けたとありました。
神剣が、祭神かと
 もっとも、石上神宮では、この外に、宇摩志麻治命、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、白河天皇、市川臣をも配祀去れています。

 宝物は、8つであったり、10であったりしますが、この二つの鏡のことは、どうやら重要であったらしい事が、判ります。
 古事記にも残されていますので、次回は、奥津鏡と辺津鏡のことを書いてみます。

No712神武東征(161)  神武天皇(104)  石上神宮のこと(5) [日本大好き]

前回では、石上神宮には、瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、品品物比礼の十種の神宝は、残されているのでしょうか。
 と書きましたが、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D
に、次の様に書いています。
石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。
 おかしいですね。布留御魂神が十種神宝のことであるのですと、石上神宮はご神体を無くしたことになります。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。
というエピソードを掲載しています。
 石上神宮がいう瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、品品物比礼のことは、略史と書いてあるから、もっと詳しいことがあるのかもしれませんが、前回書いたこと以上はありません。

 『ウィキペディア(Wikipedia)』は、十種神宝のことは、次の様に記載しています。
『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。
分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。
十種神宝の内容は以下の通りである。
沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

前記の沖津鏡(おきつかがみ) の「沖」に注目してください、籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明ですが、国宝とされています。なぜ、国宝なのでしょう。公にされた『海部氏勘注系図』が本物であるので、国宝なのであれば分かりますが、関連書物には、写真が掲載され、籠神社神宝 息津鏡と書いてあります。「沖」ではなく、「息」です。石上神宮の由緒では、瀛津鏡と書かれています。「沖」ではなく、「瀛」です。この字は、『先代旧事本紀』にかかれてあるのかどうか、確認はしていません。

石上神宮の由緒を作られた時に、書いた人は、どこかにあった資料を参考にされたと思いまいが、そこに、瀛津鏡、辺津鏡と書いてあったのでしょう。「瀛」のような複雑な漢字を「おき」と読むことは、知っている人は少ない筈です。
 このように、難しい漢字を使用した人は、日本書紀を書いた人と同じような人だと思います。古事記にかいてある人名や地名、神の名など、ことごとく、読むことができませんが、古事記にそれと似たようなものが書いてあることは、間違いありません。
 瀛津鏡、辺津鏡のことが、『先代旧事本紀』に書いてあるとしますと、日本書紀と同様に、自分たちの先祖のことを書き残そうとしたことが、確かであると考えられます。
 
 ただし、正確に書き残したのではなく、競争相手の、天孫族のことは、極力書かない手法を取ったのだろうと見ています。

先に書きましたように、天璽瑞宝十種は饒速日命が天神御祖から授けられたと『先代旧事本紀』に書いてあるとしますと、籠神社に残っている沖津鏡・辺津鏡も、天神祖から貰ったとされていますから、全く同じことになります。
 籠神社に伝わる話を『先代旧事本紀』は導入したのでしょうか。

石上神宮の由緒では、瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、品品物比礼の十種の神宝があると書いてありますが、どのように素晴らしい神宝であったことは書いてありません。

No711神武東征(160)  神武天皇(103)  石上神宮のこと(4) [日本大好き]

布都御魂大神に続いて、布留御魂大神も良く理解できません。しかし、頭から否定しないで、このようなことは有り得たのではないかと考えることにしました。

 石上神宮発行の冊子に、布留御魂大神の説明として、
 〔璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)に宿られる御霊威を称えて布留御魂大神と申し上げます〕と書いてありました。
 この文章は、私には、理解しにくいのですが、自分なりの解釈として、〔布留御魂大神とは、天璽十種瑞宝という10種類の瑞宝が、それぞれ有している優れた威力、そのものが、余りにも、偉大すぎますので、この威力の中に、きっと、神が宿っているのだと考え、その神に名前を付けました、その名は布留御魂大神です〕と書きました。

あるものが持つ力が余りにも、大きいものであるとき、それに神を感じるということは古代にはあったのではないかと思われます。その代表は、太陽でしょう。その偉大さに、思わず、ひれ伏したり、手を合わせるという行為が行われた可能性はあります。
 もっと小さなものでも、あったと思われます。それは、大きな岩であったり、大きな木です。そのような岩や木に注連縄をまきつけてあるのは現代でもみることが出来ます。

所が、このようなことを多分に否定されるであろう科学者が、〔私は神を見た〕と云われたことがあります。
 それは、アメリカの宇宙飛行士が云われたことです。このことに関しては、多くの人がホームページに書いておられます。次のタイトルがその一例ですが、〔飛行士たち〕と書いてある通り、一人ではなく多くの人が、神の存在を信じるようになられたことが分かります。

神を語る宇宙飛行士たち 
http://blog.livedoor.jp/pape2005/archives/50991826.html

アポロ15号飛行士ジム・アーウィンと云う方は、神の実在を自分だけで信じているのではなく、人につたえるという伝道活動をしておられます。

天璽十種瑞宝を持っている人は、当然、神のような人になります。瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、品品物比礼の十種の神宝は、天祖から天照国照彦天火明櫛玉饒速日命が賜ったものだとされています。そのようなことは、何処に書いてあるかと云いますと、籠神社に残されてある資料に書いてあるそうです。

京都府の丹後に籠神社があります。
http://www.motoise.jp/main/saishin/kono/index.html
 神社のホームページを開いて頂きますと、祭神が書いてあります。

主祭神は、彦火明命と記されています。
亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。尚、彦火火出見命は、養老年間以後境内の別宮に祭られて、現今に及んでいる。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられる。又別の古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い、又彦火火出見命の御弟火明命と云い、更に又大汝命の御子であると云い、一に丹波道主王とも云う。

ここに書いてあるから、天孫族の人のうち、十種神宝を持っている人が、正しく系統を引き継ぐ人とは限りませんが、その様なぼんやりした表現を用いて、石上神宮の祭神の一人である布留御魂大神は、偉大な神であり、それをお守りする石上神宮は、何処の神社よりもありがたい神社なのです。 と云われているのでしょうか。
 次回は、瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、品品物比礼の十種の内の瀛津鏡、辺津鏡のことをかいてみます。

No710神武東征(159)  神武天皇(102)  石上神宮のこと(3) [日本大好き]

石上神宮の祭神は、いかがでしたか。
 布都御魂大神
布留御魂大神
布都斯魂大神
が祭神です。この中の一つの神は、布都御魂大神
 当神宮の主祭神で、国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊 フツノミタマ」に宿られる御霊威を称えて布都御魂大神と申し上げます。

何の事かお分かりですか。この神は、布都御大神であれば、国土平定に偉功を立てたと云えるかも知れますが、布都御魂大神とは、布都御大神と云う人が居られて、その人の魂と云うことになります。布都御大神は亡くなられても、魂は、残っていると云うことになります。
 国土平定に偉功をたてられた神剣と書いてあります。神剣がやくだったとは云いますが、
「偉功をたてられた」と県に敬語を使うのでしょうか。それだけではありません。この剣は「韴霊 フツノミタマ」という名前が付いていて、この剣には、御霊威というものが備わっていると云うのです。御霊威をたたえて、布都御魂大神と申しますと書いてあります。
どうして、霊威の前に「御」が付いているのでしょう。
布都御魂大神の中に、「御」が使われ、最高に敬意を表したと思われるのですが、その割に、神剣は亡くなってしまったことになっています。
 このようなわけの分からない事を堂々と書いて、平気なのですね。どして、兵器なのでしょうか。
 きっと、云い伝えられたからだと思います。
こんなグチを書いていても、切りがありませんから、今度は、祭神の二番目に書いてある
布留御魂大神について書きます。これも以前に書いて保存してありましたので、そのまま、転移します。

次は、祭神の内の布留御魂大神のことです。前回と同様に、石上神宮の説明を記しておきます。
布留御魂大神
 天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)に宿られる御霊威を称えて布留御魂大神と申し上げます。
 天璽十種瑞宝とは、瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、品品物比礼の十種の神宝で「天下萬物聚化生大元乃神宝」とも称えられ、神代の昔、饒速日命が天降られる時に、天津神が「若し痛む処あらば、茲の十宝をして、一二三四五六七八九十 ひとふたみよいつむゆななやここのたり」と謂ひて振るへ。ゆらゆらと振るへ。此く為さば、死れる人も生き反らん」と教え諭して授けられたものです。後に饒速日命の御子宇摩志麻治命から神武天皇に奉られ、天皇御即位元年十一月に天皇と皇后との御為に大御寿命の長久を祈られる時に用いられました。これが鎮魂祭の始めです。其の後宮中で
韴霊の御前に奉祀されていましたが、崇神天皇七年に韴霊と共に石上布留高庭に遷されました。

以上が、石上神宮が発行された冊子に書かれてある布留御魂大神の解説です。

前回に続いて、書いてあることが、全く理解できません。前回も理解できないのですが、書かれてある文章が、云い伝えられた由緒ではなく、後の世の人が作った文だと思ったことだけを書きました。どうして、布都御魂大神のことは、解明しないで、布留御魂大神のことを考えるのかと云いますと、、布留御魂大神の説明に書いてあることの方が、書いてあることが多いので、自分で考えることが出来ると思ったからです。
 今度は、逃げないで、布留御魂大神のことを考えて見ようと思います。

天璽十種瑞宝(あまつしるしとくさのみずのたから)に宿られる御霊威を称えて布留御魂大神と申し上げます。

この文章を私なりに書き直しますと、
布留御魂大神とは、天璽十種瑞宝という10種類の瑞宝が、それぞれ有している優れた威力、そのものが、余りにも、偉大すぎますので、この威力の中に、きっと、神が宿っているのだと考え、その神に名前を付けました、その名は布留御魂大神です。
 どうして、布留と云うのか、どうして御魂が付くのか、それは今問題にしないことにします。
先ず、漢字から勉強です。天璽十種瑞宝の中の「璽」です。少し大きくします。

字音は ジ慣。呉、漢 はシ。
≪名付け≫ しるし
≪意味≫ しるし、また、特に天子の印章。秦(シン)以前は諸公・卿大夫(ケイタイフ)の印もいったが、秦の始皇帝以後、天子の印のみをいうようになった。
≪解字≫ 会意兼形声。爾(ジは、はんこの形を描いた象形文字で、璽の原字。上部はつまみで左右に飾りのひもがついており、下は印にほった文字のかたち。璽は爾が後に指示詞に用いられるようになったので意符の玉を添えたもの。璽は「玉+音+音符爾」。紙などに押してくっつける印。くっつくの意を含む。) 広辞苑より

次は、瑞と云う漢字です。
字音はズイ 呉/ スイ 漢
≪意読≫ しるし。みず(みづ)
≪名付け≫ たま・みず
≪意味≫①しるし。領地や爵位を与えたしるし。とする形のよい玉。
 ②甘露や美しい雲など、天の神が善政をほめてくだすしるし。めでたい兆候とされる。めでたいさま。
≪解字≫会意兼形声。右の字は、端正の端(かたちがととのう)の原字。端はそれを音符とし、玉を加えた字で、形のととのった玉。

なんだか、一層、複雑になりわけが分からなくなりました。

まあ、無理やりに解決させることにしますと、天璽十種瑞宝とは、天子のものであることを表す10種類のありがたい宝物となるでしょうか。

由緒では、其のあとに、〔神代の昔、饒速日命が天降られる時に、天津神が・・・・・〕という文章がありますから、天津神から、血統が正しい人に、位を譲った証拠として、天璽十種瑞宝を受け継いだと云うことでしょうか。

天璽とは、天子の印ではなく、天津神のしるしとして、代々譲渡し、伝えられたと云うことでしょう。
いい変えますと、天璽十種瑞宝を受け継いだ人が、正統な天津神であると云うことになります。
古事記では、ニギハヤヒが、差し出した印は、天津瑞と書かれています。日本書紀で、その品を、天の羽羽矢と歩靫 を挙げています。
お解りになられましたか。
では、石上神宮には、瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、品品物比礼の十種の神宝は、残されているのでしょうか。
 これらの品は、饒速日命が持っていたのですから、祭神は、どうして、饒速日命になっていないのでしょう。
 死反玉、道反玉、蛇比礼はどのようなものか、分かりませんが、死反玉、この玉を振ると、死んだ人も生き返らせることが出来たのでしょう。

このような非科学的なことですが、当時は、可能になった。だから、その威力は、神としか考えられないので、布留御魂大神とした。
布留は、天璽十種瑞宝の品を使うときは、〔振る〕から名付けられたのでしょうか。

No709神武東征(158)  神武天皇(101)  石上神宮のこと(2) [日本大好き]

資料の保管庫(おかしな世の中)にあった資料を転載します。

主祭神 
布都御魂大神
布留御魂大神
布都斯魂大神

配祀神
宇摩志麻治命
五十瓊敷命
白河天皇
市川臣命

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E5%AE%AE#.E6.AD.B4.E5.8F.B2 ざっと読んでおいてください。

上の祭神は、石上神宮が平成11年3月に発行した冊子に書かれてある祭神です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に書かれてあるのは、主祭神は、 布都御魂大神とし、後は、配祀すると書いてあります。ここに書かれていることは、やはりプロの方が書かれたと思いますが、神社で伝承されていることを無視して書いておられます。
 それは根拠がある事だろうと思います。

神社の冊子の編集上、主祭神は 
布都御魂大神
布留御魂大神
布都斯魂大神
 とはじめに書いてありますが、4ページの各祭神の説明では、布都御魂大神
のみに主祭神と記し、布留御魂大神、布都斯魂大神には、主祭神の文字は見えません。

石上神宮の説明を記しておきます。
 布都御魂大神
 当神宮の主祭神で、国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊 フツノミタマ」に宿られる御霊威を称えて布都御魂大神と申し上げます。
 韴霊は、神代の昔、天孫降臨に際して経津主神・武甕雷神が出雲国稲佐浜に天降って大国主命に国譲りを命ぜられた折りに、建甕槌命が携行された剣です。
その後、神武天皇が御東征になる途次、熊野にて邪神の毒気により遭難された折り、天照大神の詔により再び天降られ、邪神を平定されました。天皇は御即位の後その御功績を称えられ、物部氏の遠祖宇摩志麻治命に命じて宮中に奉齋せしめられました。第十代崇神天皇の七年に至り、勅命によって、物部氏の祖伊香色雄命が石上布留高庭にお遷しして奉祀したのが当神社の創めです。

 ゴシックで表記したところは、石上神宮の冊子に書かれてあった資料です。

神宮の方に悪いですが、いくら想像力を逞しくしても、

当神宮の主祭神で、国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊 フツノミタマ」に宿られる御霊威を称えて布都御魂大神と申し上げます

と書いてある意味が解りません。
建甕槌命は、日本書紀では、武甕槌命と書いてあります。本文と第一書と第二書の三ヶ所に書かれていますが、全部、武甕槌命です。
出雲国稲佐浜とありますが、これは、古事記に書かれています。
日本書紀では、本文では、出雲の国の五十田狭の小浜とあります。
第一書では、出雲にお降りになってとのみ書いてあります。
第二書では、出雲の五十田狭の小汀です。

大国主命に国譲りを命ぜられたと書いてあります。古事記では大国主神です。
日本書紀では、大己貴神です。 両方とも、大国主命はありません。

本当は、石上神宮は、式内社ですから、特別なことがない限り、昔から、神宮に伝えられている由緒であれば、日本書紀に書かれてある祭神の表記になる筈です。
神宮の発行された由緒の「布都御魂大神」の部分だけを考察した所では、記紀にも書かれていない、「大国主命」が使われていたり、経津主神・武甕雷神と書かれたのであれば、日本書紀の書き方です。古事記には、経津主神は登場しません。古事記ですと、天鳥船神と建御雷神です。

ここに書かれてある由緒は、主に、日本書紀にかかれてあることを基にしておられますが、古事記と日本書紀をごっちゃにしておられます。
この神社は、「第十代崇神天皇の七年に至り、勅命によって、物部氏の祖伊香色雄命が石上布留高庭にお遷しして奉祀した」と書いてありますから、物部氏の歴史なのかもしれません。
そうしますと、『先代旧事本紀』に書かれているのかも知れません。
ただ、この前のページの「略史」の中に、この文章とよく似たことが書かれていますが、「記紀によれば」という文章で始まっていますから、記紀を参考にして、書かれた資料だと思います。

先代旧事本紀にせよ、古事記にせよ、日本書紀にせよ 石上神宮に伝わって来た由緒ではなく、最近、書かれたものではないかと思われます。
 

No708神武東征(157)  神武天皇(100)  石上神宮のこと [日本大好き]

ずっと、タイトルに「古事記と日本書紀」とつけて、記紀にかいてあることを比べることに拠って、神武東征のことの真相に迫る積りでしたが、次第に離れて行きます。

No696神武東征(145)  神武天皇(88)  古事記と日本書紀(11)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2009-12-24
 にも書きましたが、日本書紀は、
「天孫が降臨されてから、百七十九万二千四百七十余年になる。」と云う文章を書いています。誰が読んでも、信用できません。信用しないのであれば、日本書紀は信用できないと云ってしまいますと、日本書紀は読むに値しません。

 しかし、何故、このような馬鹿げた数字を書いたのかと考えますと、日本書紀の編集者は、神倭伊波礼毘古命のことを書いておきながら、天孫降臨などは、昔過ぎて分らないのだと読んでいる人に思わせようとしたのだと考える外、理由が見つかりませんと書いています。
 この部分に限らず、日本書紀は、自分にとって都合の悪いことは、書かないのであれば、それはそれでいいのですが、神倭伊波礼毘古命のことは、消し去ろうとしていることが分かります。
 しかし、そのことは、日本書紀だけとは限りません。
籠神社に残されている海部氏系図(勘注系図)も、第四世から第十七世までが抜けているそうです。

No704神武東征(153)  神武天皇(96)  古事記と日本書紀(19)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2010-01-08
 ここには、私は、次の様なことを書いています。
〔この話に似たことが、石上神宮の由緒にも書いてありす。こちらの神社には、天津神から受け取ったとされる天璽十種瑞宝が、あったことになっています。(現在はありません) これは、誰が天津神から受け取ったかと云いますと、饒速日命だと書いてあります。石上神宮に持ち込んだのは、誰だとは書いてありません。
 饒速日命から、受け継いだのは、その子供の宇摩志麻治命で、神武天皇が大和御入国に際し天皇をお迎えして、天皇即位元年に瑞宝を奉ったと書いてあります。〕

饒速日命のことを籠神社では、彦火明命 亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神でありと書き残し、石上神宮では、饒速日命の子供の宇摩志麻治命が天璽十種瑞宝を受け取ったとしています。
 
では、天璽十種瑞宝とはどのようなものかと云いますと、
石上神宮が発行された冊子に書かれてある布留御魂大神の解説の中に、次の様に説明してあります。
天璽十種瑞宝とは、瀛津鏡、辺津鏡、八握剣、生玉、足玉、死反玉、道反玉、蛇比礼、品品物比礼の十種の神宝で「天下萬物聚化生大元乃神宝」とも称えられ、神代の昔、饒速日命が天降られる時に、天津神が「若し痛む処あらば、茲の十宝をして、一二三四五六七八九十 ひとふたみよいつむゆななやここのたり」と謂ひて振るへ。ゆらゆらと振るへ。此く為さば、死れる人も生き反らん」と教え諭して授けられたものです。後に饒速日命の御子宇摩志麻治命から神武天皇に奉られ、天皇御即位元年十一月に天皇と皇后との御為に大御寿命の長久を祈られる時に用いられました。これが鎮魂祭の始めです。其の後宮中で
韴霊の御前に奉祀されていましたが、崇神天皇七年に韴霊と共に石上布留高庭に遷されました。

意味はお分かりになりましたか。
前二つの瀛津鏡、辺津鏡は、籠神社に伝えられた息津鏡・辺津鏡に当たると思われます。それは、辺津鏡が共通だからです。
 歴史に興味のない方ですと、息津鏡はどのように読むのか判りません。瀛津鏡になりますと、歴史家でも読めない人がおられると思われます。
 瀛津鏡のような表記は、何処で去れていたのでしょう。どこかに書いてあったか、息津鏡・辺津鏡とかいてあり、息津鏡と書いてあるのを〔オキツカガミ〕と読むのを知っていたが、同じ漢字は使いたくなかったのだと思われます。
 どうして、そのように思うかと云いますと、古事記に書いてある地名や神の名前は、日本書紀にも出てきますが、日本書紀の編集者は、ことごとく書き換えました。日本書紀だけではなく、式内社にかかれてある神社の祭神も書き換えました。
 と云うことで、石上神宮の由緒をはじめに書いた人は、日本書紀を書いた人と同じひとか、日本書紀を勉強した人だったと推察します。
  そんな馬鹿なと思われる方が、大半だと思われるでしょう。
嘘だと思われたら、古事記と日本書紀をすべて、自分で読んで、一つずつ、名前を対比させてかかれたらいいと思います。うんざりするほどあります。
 それが終わりましたら、全国にある10万を超える神社の祭神を全部、書き出されたら解ります。
 鳥取の神社を全部書きうつしています。全部自分でされることです。
 その一部は、http://asilka.blog61.fc2.com/
に掲載中です。 
 次回も、石上神宮のことを書いてみます。

No707神武東征(156)  神武天皇(99)  籠神社の鏡(3) [日本大好き]

籠神社に残っている鏡のことを伝世品というらしいです。その品の出所のイワレがはっきりしていて、代々、そのことが伝えられて、現在の残っている鏡のことになります。

 では、誰が伝えて来たのかと云いますと、ずっと、宮司をしてこられた海部家とされています。前に紹介しました『古代海部氏の系図』(金久与市著)に書いてあることを転載します。
19ページ
籠神社と海部家
 籠神社は延喜式内、山陰道一之宮であり、社格も延喜式では名神大社に仕える宮司家が、神社の始まり以来、現在にいたるまで連綿として世襲で仕えている。最初に私がお眼にかかった宮司は、昭和六十年に亡くなられ、現在の宮司は第八十二代の海部光彦氏である。
 宮司家は古来、海部直(アマベノアタイ)とよばれ、丹後国造としての伝統をもつ。丹波国は後に但馬国と丹後国に分れる。それほど丹波国は大国だったのである。
 古い神社に仕える宮司家が、かつての国造であり、連綿として今日にいたっている点では、出雲大社の千家宮司家や阿蘇神社の阿蘇宮司家、あるいは和歌山の日前神宮・国懸神宮の紀宮司家も同様である。
 こうした古い歴史をもつ籠神社に、他の古社に見られない、きわめて貴重な品、〔鏡〕と〔系図〕が伝えられてきたのである。
以上です。

この文章から、判断しますと、宮司家は国造であったように取れますが、国造だったとは書いてありません。
24ページには、次の様に金久与市氏は、書いておられます。
籠神社の神職、海部氏は古代から連綿として宮司の職についており、「本系図」には直系の子孫だけが縦に記録されている。
 二行省略
 この系図には始祖の彦火明命から平安時代初期の海部直田雄祝まで記載されており、各代の宮司(祝)の上には合計二十八箇の朱印が押されている。 

三行省略
 つまり、この系図は海部氏が作成したのち、丹後国庁に提出して承認をうけ、さらにそれを大和朝廷が公認したものとして、その価値が再認識されることになったのである。

この「本系図」に、彦火明命は天照大神の孫であることを記したところがあると、金久与市氏は、書いておられます。
 以上、抜き書きばかりで、判りにくいと思われますが、この「本系図」は、海部家の系図と云うことになります。海部家の初代が、彦火明命であることになります。

問題の息津鏡・辺津鏡のことは、どのように伝えられてきたかは、同じく、31ページに書いてあります。
「勘注系図」のはじめにに、「天祖が二璽神宝すなわち息津鏡と辺津鏡を天鹿児弓と天羽々矢をそえて火明命に授けた」と記されている。

古鏡を専門とする樋口隆康(京都大学名誉教授・橿原考古学研究所長)の鑑定では、
籠神社の鏡は、日本出土のものではない。

どちらが、息津鏡・辺津鏡と呼ばれるか判りませんが、大きい方が、息津鏡らしい。
①17.5センチ 息津鏡の文様は「内行花文鏡」、「長宜子孫」という字が書かれています。
 紀元一世紀後半 (前漢時代の後期)
②9.5センチ 辺津鏡の文様は「蓮孤文昭明鏡」 後漢時代

この鏡が、仮に天照大神から貰ったとしますと、其頃より、時代が新しいことになります。
神武天皇の父の鵜葺草葺不合命か、その前の日子穂穂出見命、その前の瓊瓊芸命あたりから貰ったことになります
彦火明命は、瓊瓊芸命の兄ですから、父親の天忍穂耳命か、祖父の天照大神からもらったことになります。
 天照大神や素盞鳴尊などは、中国を追われて日本へやって来た筈です。追い出した漢人が作った鏡を、天孫族の証しとして貰ったと云うのは、理屈にあいません。

樋口隆康氏の鑑定が正しいとしますと、中国で作られた鏡を紀元前150年ころに貰ったというのは、間違いでしょう。
 九州からは一杯出土しています。
調べたわけではありませんが、「内行花文鏡」は中国人の将軍級のお墓から出土しています。ただし、殆どが御墓から出ています。

 少なくとも、二枚の鏡は、同時に受け取ったのではないと思われます。
しかも、貰ったのは、九州の将軍から、部下として、漢人であることを証明するために、与えられたものと思われます。
 漢人でもないのに、与えられたのでしょうか。

籠神社の由緒には、おかしいことが書いてあります。 彦火明命の別名がいっぱい書いてありますが、その一人として、饒速日命が書いてあります。
この人は、奈良に降臨していた人で,神武天皇に降伏した人です。
そうなりますと、彦火明命は中国人であったとしますと、漢鏡を部下になる証しとして、受け取ったことになります。
 ただ、九州の官人としても、天孫族の超大物でしたから、漢鏡を与えた可能性はあります。
内行花文鏡が出土した古墳は、
京都木津町に椿井大塚山古墳があります。ここでは、三角縁神獣鏡32面が出土した。内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡が出土。
老司古墳 福岡市南区老司四丁目から内行花文鏡が一面出土。
貴山銚子塚古墳 福岡県糸島郡からも出土。

所が、上記にあげました3つの遺跡からは、三角縁神獣鏡が出土ています。この鏡は、魏の国が、卑弥呼に与えた100枚の鏡ではいかと話題になっている鏡です。
となりますと、これらの鏡が出土した古墳は、2世紀の頃の古墳ではないでしょうか。

これはえらいことになってきました。銅鏡の研究をしなくてはなりません。

少なくとも、籠神社に伝わっている二面の鏡は、年代も違うし、天孫族の人が、漢鏡を与えられたというのもおかしなことですから、息津鏡・辺津鏡であるという神社の説明は、一時お預けと云うことになると思います。

No706神武東征(155)  神武天皇(98)  籠神社の鏡(2) [日本大好き]

前回に続いて、
No193 籠名神社祝部海部直氏系図  その2 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-10-19-1
にも書いていますので、再度、掲載します。

『縦系図』がどのようなものかは、写真が、次のページにあります。
http://www.city.miyazu.kyoto.jp/bunkazai/data/1.html
丹後國印の印があるということは、重要なことで、この系図が西暦870年台に作られたことが間違いないということです。偽物でないことは、確認されましたが、中に書かれていることは、正しいとは限りません。
一番の問題点は、第四世から第十七世までが抜けていることです。抜けたのではなくやはり、書きたくなかったのでしょう。この第四世から第十七世にかけての時代は、大和朝廷でいえば〈倭迹迹日百襲姫命〉や崇神天皇の時代前後に相当していますし、『魏志倭人伝』でいえば〈卑彌呼〉の時代とその前後に相当しています。
役所に届け出たのに、第四世から第十七世までが抜けていたというのが納得いきません。
第三十三世の海部直稻雄が、仁和年中(885~889年)に、それまでの《籠神社》の秘史をもとにして『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』なる詳しい説明つきの系図をつくりました。それが伝わっている『勘注系図』です。これも公開はされましたが、私は手元に持っていません。
 私が持っている田村誠一著『西暦は日本の建国紀元だった』のP142 に第四世から第十七世までを補った一覧表が掲載されています。それを掲載しておきます。
海部氏系図(勘注系図)
 初代  彦火明命 
 児   天香語山命(亦名手栗彦命)
 孫    天村雲命
 三世孫   天忍人命(亦名倭宿禰命)・
 四世孫  天登目命
 五世孫  建登米命
 六世孫  建田勢命
 七世孫  建諸潟命
 八世孫  市大稲日命
 九世孫  大那毘命 
 十世孫  小縫命
 十一世孫  天御蔭命
 十二世孫  建稲種命
 十三世孫  志理都彦命
 十四世孫  川上眞稚命
 十五世孫  丹波大矢田彦・建振熊宿禰
 十六世孫  丹波国造大倉岐命(亦の名大楯縫命)
 十七世孫  丹波国造明国彦命
 十八世孫  難波根子建振熊宿禰
 十九世孫  丹波国造建振熊宿禰
 二十世孫  丹波国造海部直都比
 二十一世孫 丹波国造海部直縣
海部直第81代の宮司・海部穀定師より、直接系図を見せて貰われた金久与市氏は、この系図を解読、研究された結果を『古代海部氏の系図』という本にされました。ここに書かれているものは、上に書いたものと、若干異なるところがあります。
 次のホームページをご覧ください。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/6-6syodai.htm この方のほうが、データーがいっぱいです。殆ど、一緒ですが、少し違います。
同じ、資料をもとにして調べた結果が違うということは、どういうことでしょうか?
『勘注系図』に書かれていることの解釈が、素人では難しいということだと思います。

次の文章は、籠神社のホームページ 
http://www.motoise.jp/main/saishin/kono/index.html
に掲載されていた、籠神社の祭神です。
彦火明命 亦名 天火明命・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命、 又極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神と異名同神であり、その御祖の大神(下 鴨)も併せ祭られているとも伝えられる。
どうして、こんなに又の名があるのでしょうか? 正しいことはよく判らないということだと思います。古事記に登場するニニギ命の兄である天火明命は、籠名神社祝部海部直氏系図では、「彦火明命」になっています。その彦火明命が、饒速日命でもあると書いてあるのです。
饒速日命は、神武天皇が東征を行った時の最終目的地の奈良を支配していた大将です。
神武天皇は、ニニギ命の曾孫です。饒速日命はニニギ命の兄ですから、4代離れています。1代で、単純に20歳年ますと、神武東征は、天皇が50歳ぐらいの時のことですから、饒速日命は110歳ぐらいであったことになります。
三世孫の天忍人命が、神武天皇と同年輩ということになります。
なぜ 国宝で確かなものであると認められているのに、このようなケチを付けるのかと言いますと、ある旅のホームページに籠神社の紹介の文章に「奈良時代の養老三年(719年)に丹後一の宮に定められた丹後第一の大社です。 籠神社の歴史は神代の時代までさかのぼり、伊勢神宮の元になったとされています。 伊勢神宮はここから伊勢へ移されたので、籠神社は元伊勢ともよばれています。」
と書いてあるからです。養老三年(719年)に丹後一の宮に定められた丹後第一の大社という文章が正しいとしますと、この年は、日本書紀の完成した720の一年前だからです。
勿論、籠神社は式内社です。
 私がこれまでに、調べてきた資料によりますと、籠神社は元伊勢ではないと思います。

No192において、「止羅宿禰の三代あとの養老五年(721)になって、これを数人で修選して『籠名神社祝部氏之本記』としました。これは『日本書紀』が編纂された翌年です。海部家としては、日本書紀に書かれていることが、自分達にとって、面白くなかったのかも知れません」と書きました。
719年、720年、721年と続くとは、不思議なことです。藤原不比等は、奈良に大神神社を無理やりに造ったと考えています。籠神社は造らなくてもありましたから、一宮にしました。
備前の一の宮が、3つもある不思議を解明しようと【楽しい人生】
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/
のNo62~65までに書きました。こちらは、何故、3つもあるのか解明はできませんでしたが、その一つである石上神社は、その後、奈良の石上神宮に移ったらしいです。この神社は、物部氏の総氏神である布都御魂大神を主祭神としています。
この物部氏のことを調べようとしますが、皆目判らない一族であることが判ります。唯一と言っていいと思われる『先代旧事本紀』というものが、残っているのですが、これは、日本の偽書であることが確定しているそうです。
次回は、伝わっている 息津鏡・辺津鏡について書きます。

No705神武東征(154)  神武天皇(97)  籠神社の鏡

籠神社には、祭神である彦火明命が天孫である証拠の系図が残っています。そのほかに、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜ったとされる鏡が残っています。
 神社では次のように書いておられます。
〔昭和六十二年十月三十一日(旧暦九月九日・重陽の節句)に二千年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えた之の二鏡は、元伊勢の祀職たる海部直の神殿の奥深くに無二の神宝として安置されて、當主から次の當主へと八十二代二千年に亘って厳重に伝世され來ったものである。日本最古の伝世鏡たる二鏡の内、邊津鏡は前漢時代、今から二〇五〇年位前のものである。
 又、息津鏡は後漢時代で今から一九五〇年位前のものである。そしてこの神宝はその由緒が国宝海部氏勘注系図に記載されており、又當主の代替り毎に 、口伝を以っても厳重に伝世されたものである。
 現存最古の国宝海部氏系図並びに今回発表の二千年前の伝世鏡は、當社の元伊勢たる史実を実証するものであろう〕
 この様に書いてありますと、だれもが、信用しないということはできません。

しかし、なんでも信用しないで、一応、押さえておく必要はあります。以前に、書いたものがありますので、もう一度、記します。

No192 籠名神社祝部海部直氏系図
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-10-19
 京都府の天橋立のところにある籠神社に、籠名神社祝部海部直氏系図なるものが残されています。
「海部氏系図」には、下記の二種類のものがあります。
A『縦系図』---歴代の名前を縦一列に記した系図
B『勘注系図』----注釈が入って詳しい系図
 奈良時代初期の『記紀』の完成より百年も前、聖徳太子や蘇我馬子らが国史の編纂を企画して、諸国の豪族から家伝の歴史を集めたことがありました。この時、饒速日命の子孫で丹波国の豪族で、国造でもあった海部家の海部直止羅宿禰が『丹波国造本記』なる一族の史書を編纂して朝廷に献上し、それとは別に似た内容の自家用をつくって保存しました。
 止羅宿禰の三代あとの養老五年(721)になって、これを数人で修選して『籠名神社祝部氏之本記』としました。これは『日本書紀』が編纂された翌年です。海部家としては、日本書紀に書かれていることが、自分達にとって、面白くなかったのかも知れません。
それから平安前期に、第三十二世の海部直田雄祝が勅命をうけ、過去の史料をもとに朝廷
に差し出すための自家の系図を作成し、『籠名神社祝部氏系図』と名づけて丹後の役所に提
出、同時に同じ内容の副本をつくってこれにも役所の丹後國印をうけて神社に保存しまし
た。
丹後國印は各宮司の上に押印されて、その数28個になりますが、薄く読みづらいものでしたが、昭和62年、村田正志氏の鑑定により、丹後國印の四文字であることが確認されました。この系図のはじめに、丹後国与謝郡従四位下籠名神と記されていますから、従四位下になった貞観十三年(871)から従四位上に昇格した元慶元年(877)の間に、系図が作られたことが判ります。これがA『縦系図』です。
丹後國印の印があるということは、重要なことで、この系図が西暦870年台に作られたことが間違いないということです。
一番の問題点は、第四世から第十七世までが抜けていることです。抜けたのではなくやはり、書きたくなかったのでしょう。この第四世から第十七世にかけての時代は、大和朝廷でいえば〈倭迹迹日百襲姫命〉や崇神天皇の時代前後に相当していますし、『魏志倭人伝』でいえば〈卑彌呼〉の時代とその前後に相当しています。
是に対して、B
第三十三世の海部直稻雄が、仁和年中(885~889年)に、それまでの《籠神社》の秘史をもとにして『籠名神宮祝部丹波国造海部直等氏之本記』なる詳しい説明つきの系図をつくりました。それが伝わっている『勘注系図』です。これには、『縦系図』で抜けていた大和朝廷確立期の海部氏の先祖(つまりは〈饒速日命〉の子孫)のことも記されています。このように、『勘注系図』は『縦系図』より詳しいですが、写本ですから、現存のものは、江戸時代初期のものと言われています。だから、初めに作られたときと内容が異なっている可能性はあります。
その内容は、『古事記』『日本書紀』などとはかなり違っていて、海部氏と遠い親戚の物部一族が編纂したとされる『先代旧事本紀』に似ているそうです。例えば、大和朝廷の神武天皇と張り合った〈饒速日命〉の子孫を重要視しているそうです。