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No719神武東征(168)  神武天皇(111) 奥津鏡・辺津鏡(7) [日本大好き]

前回の精神文明の存在はいかがでしたか。この件は、ただ、見に行った映画アバター」から連想しただけです。
 前回、石上神宮の十種の神宝を挙げましたので、もう一度、眺めて見たいと思います。
古事記に書かれていた蛇の領布、呉公の領布、蜂の領布のうち、蛇の領布、蜂の領布は、は石上神宮にもありました。しかし、出石神社にあった浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼は、古事記にも、石上神宮にもありません。
 これは、どのように考えたらいいのでしょう。
古事記と、出石神社、石上神宮が、出来た順を調べれば分ると思います。

古事記は、712年完成、出石神社は、社伝によると垂仁天皇の時、天日槍命が来朝し、当地を開拓したので、その徳を敬慕し、命が奉持していた八種の神宝を八前大神として祀ったと書いてありますから、天日槍命は、出石神社が出来るより前にやって来た事になります。 
 垂仁天皇はいつ頃の人か判りませんが、崇神天皇5年の時に、国の民の半分以上が死んだことは、古事記も日本書紀にも書かれていますから、この事件は、中国と朝鮮と日本の記録を元に、考えますと、190~192年頃の伝染病の事件だと思われます。
 此の頃が、崇神天皇5年ですから、仮に、20歳で天皇になられたのであれば、25歳位の頃になります。其の頃に、垂仁天皇が生まれる流れとなり、垂仁天皇が、20歳で天皇になったと仮定しますと、190~192年から、20年後、即ち、紀元後、210年に天日槍命がやって来た事になります。
 所が、古事記に書いてある須勢理毘売が、大国主神に蛇の領布を渡したのは、天照大神の子供とされているスサノオの孫の大国主神の時代ですから、天日槍命より、ずっと、昔の話になります。
 出石神社が出来たのは、仮に、250年としますと、こちらの方が、古くて信用おけめように思われそうですが、残されている由緒が、正しい補償は何処にもありません。

 このように見てきますと、どちらが古いかは、あまり調べても意味がありません。

ただ、云えることは、古事記に書かれている蛇の領布、呉公の領布、蜂の領布の〔領布〕を〔ひれ〕とふりがなをうってあるのは、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼に見られる〔比礼〕はだれが読んでも、〔ひれ〕と読めそうです。
 古事記の翻訳者は、〔領布〕と〔比礼〕は、同じ様なものであろうと考えておられるようです。
 そのような発想が許されるのであれば、現在、神社で使われている神事の道具である〔御幣〕は、何度振られるのか、知りませんが、払い淸める事によって、願い事が叶うのでしょう。
蛇の領布、呉公の領布、蜂の領布を振り回した位で、蛇、呉公、蜂が隊三摺るのであれば、まだ、納得できますが、石上神宮に伝わる、生玉(いくたま) 死返玉(まかるかへしのたま) 足玉(たるたま) 道返玉(ちかへしのたま)は、領布より高級な者の様に尾根も割れます。
 しらべても駄目だと思いますが、石上神宮の由緒は、作られたものだと考えています。

その理由の一つに、石上神宮自体が、無理やりに作られたものではないかと考えています。此の理由は、皆さんに納得していただけるのは、ずっと、先の事になると思っています。

石上神宮の事は、http://asilka.blog61.fc2.com/?q=%C0%D0%BE%E5%BF%C0%B5%DC
に書いていますが、そのうちの(1)を掲載しておきます。

主祭神 
布都御魂大神
布留御魂大神
布都斯魂大神

配祀神
宇摩志麻治命
五十瓊敷命
白河天皇
市川臣命

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E7%A5%9E%E5%AE%AE#.E6.AD.B4.E5.8F.B2 ざっと読んでおいてください。

上の祭神は、石上神宮が平成11年3月に発行した冊子に書かれてある祭神です。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に書かれてあるのは、主祭神は、 布都御魂大神とし、後は、配祀すると書いてあります。ここに書かれていることは、やはりプロの方が書かれたと思いますが、神社で伝承されていることを無視して書いておられます。
 それは根拠がある事だろうと思います。

神社の冊子の編集上、主祭神は 
布都御魂大神
布留御魂大神
布都斯魂大神
 とはじめに書いてありますが、4ページの各祭神の説明では、布都御魂大神
のみに主祭神と記し、布留御魂大神、布都斯魂大神には、主祭神の文字は見えません。

石上神宮の説明を記しておきます。
 布都御魂大神  当神宮の主祭神で、国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊 フツノミタマ」に宿られる御霊威を称えて布都御魂大神と申し上げます。  韴霊は、神代の昔、天孫降臨に際して経津主神・武甕雷神が出雲国稲佐浜に天降って大国主命に国譲りを命ぜられた折りに、建甕槌命が携行された剣です。 その後、神武天皇が御東征になる途次、熊野にて邪神の毒気により遭難された折り、天照大神の詔により再び天降られ、邪神を平定されました。天皇は御即位の後その御功績を称えられ、物部氏の遠祖宇摩志麻治命に命じて宮中に奉齋せしめられました。第十代崇神天皇の七年に至り、勅命によって、物部氏の祖伊香色雄命が石上布留高庭にお遷しして奉祀したのが当神社の創めです。
 太文字で表記したところは、石上神宮の冊子に書かれてあった資料です。

神宮の方に悪いですが、いくら想像力を逞しくしても、

当神宮の主祭神で、国土平定に偉功をたてられた神剣「韴霊 フツノミタマ」に宿られる御霊威を称えて布都御魂大神と申し上げます

と書いてある意味が解りません。
建甕槌命は、日本書紀では、武甕槌命と書いてあります。本文と第一書と第二書の三ヶ所に書かれていますが、全部、武甕槌命です。
出雲国稲佐浜とありますが、これは、古事記に書かれています。
日本書紀では、本文では、出雲の国の五十田狭の小浜とあります。
第一書では、出雲にお降りになってとのみ書いてあります。
第二書では、出雲の五十田狭の小汀です。

大国主命に国譲りを命ぜられたと書いてあります。古事記では大国主神です。
日本書紀では、大己貴神です。 両方とも、大国主命はありません。

本当は、石上神宮は、式内社ですから、特別なことがない限り、昔から、神宮に伝えられている由緒であれば、日本書紀に書かれてある祭神の表記になる筈です。
神宮の発行された由緒の「布都御魂大神」の部分だけを考察した所では、記紀にも書かれていない、「大国主命」が使われていたり、経津主神・武甕雷神と書かれたのであれば、日本書紀の書き方です。古事記には、経津主神は登場しません。古事記ですと、天鳥船神と建御雷神です。

ここに書かれてある由緒は、主に、日本書紀にかかれてあることを基にしておられますが、古事記と日本書紀をごっちゃにしておられます。
この神社は、「第十代崇神天皇の七年に至り、勅命によって、物部氏の祖伊香色雄命が石上布留高庭にお遷しして奉祀した」と書いてありますから、物部氏の歴史なのかもしれません。
そうしますと、『先代旧事本紀』に書かれているのかも知れません。
ただ、この前のページの「略史」の中に、この文章とよく似たことが書かれていますが、「記紀によれば」という文章で始まっていますから、記紀を参考にして、書かれた資料だと思います。

先代旧事本紀にせよ、古事記にせよ、日本書紀にせよ 石上神宮に伝わって来た由緒ではなく、最近、書かれたものではないかと思われます。
 この点は、踏まえて、続きは、石上神宮(2)をご覧ください。

如何でしたか。私は、古事記に書かれている〔蛇の領布、呉公の領布、蜂の領布〕は、太安万侶が、古事記を作ろうとした時に、どこかは分りませんが、伝えられていたものだろうと考えています。
 次回は、古事記に戻って、須勢理毘売と大国主神の二人が、父のスサノオの意地悪から、どのように逃げ出したかを書いてみます。