No732神武東征(181) 神武天皇(124) 奥津鏡・辺津鏡(20) [日本大好き]
『神代遺跡考』という本を出された人があります。それは、昭和3年、勝山中学の英語の先生で教頭であった佐竹先生です。「高天原は日留山高原だった」の副題がついていたそうです。当時は、このような本を書くことは、国から認められず先生は、京城中学のヒラ教員に格下げされました。この本を五十年後に、中塚貴志という人が復刻され、それを読んだ田村誠一(故人)という人が、国の処置に怒りを覚えることになります。私に言わせれば、気の狂ったように、全国を車で走り回り、佐竹先生が書かれたことを確かめることに没頭されます。
以下は、〔高天原は蒜山だった〕
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2004/11/post_6.html
に書いてあります。国造りをはじめたイザナギとイザナミは、先ず、天の浮橋にたって、天の沼矛を使って造成を始めました。この部分は、何度読んでも、意味が不明ですが、実際に造成が行われたと解釈しますと、中国の雲南省にあった〔滇----さんずい 真〕から持ってきたスコップを使って、苗族の人達が造成しましたと解釈できます。
先ず、建設をするに当って、都に相当するものを蒜山の五合目に、平らな所を作りました。
実際に行ってみましたが、5合目には、小さな祠があっただけで、平らな土地は、良く分りませんでした。木がいっぱい生えていました。地図でこの部分を見ますと、等高線が広いので、傾斜が少ない、即ち、平らな部分であることが分ります。
田村誠一氏が、調査を始められた頃に、此の地へ行かれた時に、この部分の下に当たる所に、建造物や土地の造成に使ったと思われる材木が散乱しているのを見たと書いてあったのですが、その書いたものが見つかりません。
従いまして、田村誠一氏は、オノゴロ島の部分は、前に突きだしていたのではないかと考えられました。
そこには、御所を造ったのではないかと考えました。古事記に書いてある八尋殿です。
古事記に於いては、自分たちが作り上げた所又は、征服した所は、〔島〕と呼び、イザナギとイザナミが生んだと記しています。二人が生んだ所は、オノゴロ島であり、失敗したときもあったようで、それを水蛭子と太安万侶は書いています。その流した川を下って、〔淡島〕を生んだと書いています。旭川をくだって、瀬戸内海に出て、淡路島に上陸、征服、建設したと推理出来ます。その中心地には、現在、多賀という地名のところに、伊弉諾神官があります。
http://www.genbu.net/data/awaji/izanagi2_title.htm
太安万侶が島でありながら、島には加えないと書いた3つ目の淡島、これが淡路島のことです。オノコロ島と淡路島は、自分たちが造り、征服したので、〔古の例には入れざりき〕と太安万侶は記しています。
その後に、一杯の島を生んだことになっています。一番は、〔淡道の穂の狭別島〕です。当時、弓ヶ浜はやっと、出来たか、時には、海が流れ込み、まだ、淡道の穂のようなものでした。その穂の先にある島根半島は、当時は、半島ではなく、島であった筈です。その後、次々と登場する島をイザナギとイザナミは、部下に征服させたと思われます。
どうして、このような理解困難なことを書いたかと云いますと、そのまま、書いたのであれば、あれば、他の豪族に、天皇の歴史、そのものを盗まれるか、消されてしまう恐れがあるので、島の名前と、誰が治めていたかのみを書き記したと思われます。
案の定、712年に完成した古事記は、その行方は分らなくなり、それに変って、誰が作った
か分らせない事になっている日本書紀が、8年後の720年に完成しています。
日本書紀は、その後、朝廷で、歴史の講義をするときに、教科書として使われていたようです。
400年後に、古事記が発見されたことになりますが、太安万侶が心配したことは、完成後、直ぐに、行われたことになりました。
大山・蒜山国立田公園の蒜山高原は広い諏訪湖の半分位の面積の水田か広がっていて、この水田は海抜五〇〇米てす。周囲を一干米級の山か囲んでいて要害の土地です。水田の周囲はなたらかな高原で東西.二〇粁、南北一〇粁の広大な盆地です。太古の時代には盆地は湖水て、一ケ所が切れて旭川となって流れだしました。湖水の湖底が平坦で古代には葦が茂っていました。
この麓に塩釜があり、この塩釜は岡山市を流れる旭川の源流で、大量に水が沸いています。天照大御神とスサノオ命が「ウケヒ」の賭けをしたとき、剣等を水で清めた天ノ真名井はここでした。
蒜山高原は火山灰土のため、地均しした所は砂が舞い上がります。この為に硅酸塩が沢山に含まれた塩釜の水を撒いて砂ぼこりを防ぎました。『記』で塩を垂らしたと書いてあるのは・塩釜の水を使用して土を固めたので、塩釜の地名は古代史を解く鍵でした。どうして、硅酸塩の多い水を掛けると固まり易いことを知っていたのでしょう。
長い年月、硅酸塩は流れて、ヒルゼンの湿地帯にたまりましたから、現在は、旭川になっていますが、それが溜まった地層がある筈です。硅酸塩のことはよくわかりませんが川や海の藻が増えるためには、大切なものだそうです。
オノゴロ島が完成しますと、ここに〔天の御柱〕と〔八尋殿〕を作ったと書いてあります。
田村氏が書いておられました材木の痕跡が、オノゴロ島の麓で発見されるか、オノゴロ島で発見されますと、オノゴロ島の神話は、神話ではなくなります。
私が、中蒜山の五合目まで行った目的は、五合目一帯を歩き回って、材木の欠片でも見付ける積りだったのですが、登るだけでエネルギーを使い果たし、祠を写真に収めて下山するのでした。
古事記では、「その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立たまひき」と書かれています。〔立てた〕ではなく、〔見〕の漢字が入っています。天の御柱に見立てて、それに変るものを造った、八尋殿ほど大きくはないが、それに変るものを造ったということでしょうか。
〔天の御柱〕とはなんでしょうか。
随分以前になりますが、この辺りのことを書いていますから、宜しかったら読んでください。
No454天孫降臨(27) 国土建設と測量
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-10-21
No452天孫降臨(25) 天若日子(4)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-10-19
No453天孫降臨(26) 天若日子(5)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-10-20
以下は、〔高天原は蒜山だった〕
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2004/11/post_6.html
に書いてあります。国造りをはじめたイザナギとイザナミは、先ず、天の浮橋にたって、天の沼矛を使って造成を始めました。この部分は、何度読んでも、意味が不明ですが、実際に造成が行われたと解釈しますと、中国の雲南省にあった〔滇----さんずい 真〕から持ってきたスコップを使って、苗族の人達が造成しましたと解釈できます。
先ず、建設をするに当って、都に相当するものを蒜山の五合目に、平らな所を作りました。
実際に行ってみましたが、5合目には、小さな祠があっただけで、平らな土地は、良く分りませんでした。木がいっぱい生えていました。地図でこの部分を見ますと、等高線が広いので、傾斜が少ない、即ち、平らな部分であることが分ります。
田村誠一氏が、調査を始められた頃に、此の地へ行かれた時に、この部分の下に当たる所に、建造物や土地の造成に使ったと思われる材木が散乱しているのを見たと書いてあったのですが、その書いたものが見つかりません。
従いまして、田村誠一氏は、オノゴロ島の部分は、前に突きだしていたのではないかと考えられました。
そこには、御所を造ったのではないかと考えました。古事記に書いてある八尋殿です。
古事記に於いては、自分たちが作り上げた所又は、征服した所は、〔島〕と呼び、イザナギとイザナミが生んだと記しています。二人が生んだ所は、オノゴロ島であり、失敗したときもあったようで、それを水蛭子と太安万侶は書いています。その流した川を下って、〔淡島〕を生んだと書いています。旭川をくだって、瀬戸内海に出て、淡路島に上陸、征服、建設したと推理出来ます。その中心地には、現在、多賀という地名のところに、伊弉諾神官があります。
http://www.genbu.net/data/awaji/izanagi2_title.htm
太安万侶が島でありながら、島には加えないと書いた3つ目の淡島、これが淡路島のことです。オノコロ島と淡路島は、自分たちが造り、征服したので、〔古の例には入れざりき〕と太安万侶は記しています。
その後に、一杯の島を生んだことになっています。一番は、〔淡道の穂の狭別島〕です。当時、弓ヶ浜はやっと、出来たか、時には、海が流れ込み、まだ、淡道の穂のようなものでした。その穂の先にある島根半島は、当時は、半島ではなく、島であった筈です。その後、次々と登場する島をイザナギとイザナミは、部下に征服させたと思われます。
どうして、このような理解困難なことを書いたかと云いますと、そのまま、書いたのであれば、あれば、他の豪族に、天皇の歴史、そのものを盗まれるか、消されてしまう恐れがあるので、島の名前と、誰が治めていたかのみを書き記したと思われます。
案の定、712年に完成した古事記は、その行方は分らなくなり、それに変って、誰が作った
か分らせない事になっている日本書紀が、8年後の720年に完成しています。
日本書紀は、その後、朝廷で、歴史の講義をするときに、教科書として使われていたようです。
400年後に、古事記が発見されたことになりますが、太安万侶が心配したことは、完成後、直ぐに、行われたことになりました。
大山・蒜山国立田公園の蒜山高原は広い諏訪湖の半分位の面積の水田か広がっていて、この水田は海抜五〇〇米てす。周囲を一干米級の山か囲んでいて要害の土地です。水田の周囲はなたらかな高原で東西.二〇粁、南北一〇粁の広大な盆地です。太古の時代には盆地は湖水て、一ケ所が切れて旭川となって流れだしました。湖水の湖底が平坦で古代には葦が茂っていました。
この麓に塩釜があり、この塩釜は岡山市を流れる旭川の源流で、大量に水が沸いています。天照大御神とスサノオ命が「ウケヒ」の賭けをしたとき、剣等を水で清めた天ノ真名井はここでした。
蒜山高原は火山灰土のため、地均しした所は砂が舞い上がります。この為に硅酸塩が沢山に含まれた塩釜の水を撒いて砂ぼこりを防ぎました。『記』で塩を垂らしたと書いてあるのは・塩釜の水を使用して土を固めたので、塩釜の地名は古代史を解く鍵でした。どうして、硅酸塩の多い水を掛けると固まり易いことを知っていたのでしょう。
長い年月、硅酸塩は流れて、ヒルゼンの湿地帯にたまりましたから、現在は、旭川になっていますが、それが溜まった地層がある筈です。硅酸塩のことはよくわかりませんが川や海の藻が増えるためには、大切なものだそうです。
オノゴロ島が完成しますと、ここに〔天の御柱〕と〔八尋殿〕を作ったと書いてあります。
田村氏が書いておられました材木の痕跡が、オノゴロ島の麓で発見されるか、オノゴロ島で発見されますと、オノゴロ島の神話は、神話ではなくなります。
私が、中蒜山の五合目まで行った目的は、五合目一帯を歩き回って、材木の欠片でも見付ける積りだったのですが、登るだけでエネルギーを使い果たし、祠を写真に収めて下山するのでした。
古事記では、「その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立たまひき」と書かれています。〔立てた〕ではなく、〔見〕の漢字が入っています。天の御柱に見立てて、それに変るものを造った、八尋殿ほど大きくはないが、それに変るものを造ったということでしょうか。
〔天の御柱〕とはなんでしょうか。
随分以前になりますが、この辺りのことを書いていますから、宜しかったら読んでください。
No454天孫降臨(27) 国土建設と測量
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-10-21
No452天孫降臨(25) 天若日子(4)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-10-19
No453天孫降臨(26) 天若日子(5)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-10-20






