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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(72) 妹伊邪那美神(3) [日本の歴史]

兄弟で結婚することは普通にはありません。別れ離れに成っていて、知りあうことになって結婚すれば別ですが、普通は結婚しません。
 
 普通は結婚しないことを太安万侶は知っていたから、蛭子が生れたと書きました。それだけではなくて、何故、蛭子が産まれかの理由も書きました。
 
於其嶋天降坐而、見立天之御柱、見立八尋殿。於是、問其妹伊邪那美命曰「汝身者、如何成。」答曰「吾身者、成成不成合處一處在。」爾伊邪那岐命詔「我身者、成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處、刺塞汝身不成合處而、以爲生成國土、生奈何。」訓生、云宇牟。下效此。伊邪那美命答曰「然善。」爾伊邪那岐命詔「然者、吾與汝行廻逢是天之御柱而、爲美斗能麻具波比此七字以音。」
如此之期、乃詔「汝者自右廻逢、我者自左廻逢。」約竟廻時、伊邪那美命、先言「阿那邇夜志愛上袁登古袁。此十字以音、下效此。」後伊邪那岐命言「阿那邇夜志愛上袁登賣袁。」各言竟之後、告其妹曰「女人先言、不良。」雖然、久美度邇此四字以音興而生子、水蛭子、此子者入葦船而流去。次生淡嶋、是亦不入子之例。
 原文を読んで頂けましたか。出来れば、ご自分で、読んで下さい。 太安万侶は、どうして、蛭子が産まれただけではなくて、どうしたら、子供が生れるかを次の様に、説明しています。
 「我身者、成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處、刺塞汝身不成合處而、以爲生成國土、生奈何。」
 そして、何故ヒルコが産まれたかを説明しています。
「阿那邇夜志愛上袁登賣袁。」各言竟之後、告其妹曰「女人先言、不良。」
 
ヒルコ  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB%E3%82%B3

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(71) 妹伊邪那美神(2) [日本の歴史]

 古事記の最初の部分を記します。

天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御產巢日神、次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。
次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時流字以上十字以音、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。
上件五柱神者、別天神。
次成神名、國之常立神訓常立亦如上、次豐雲上野神。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。

 この中には、「独神」が3ヶ所登場します。 この独神は、後に登場する「宇比地邇上神、次妹須比智邇去
神」との対比をする事によって、時代は、夫婦の時代になった事を太安万侶は、言いたかったのではないかと推理しました。
 すなわち、夫婦の神は、「宇比地邇上神、次妹須比智邇去神」から始まり、本格的に、天皇家の始まりは、「伊邪那岐神と妹伊邪那美神」と考えました。

 しかし、次の二つの点から、この推理は、間違いではないかと思い始めています。

その1の理由
「独神」を私は「独り神」と読んでいますが、この読み方は間違いで、「どくしん」しかありません。古事記では、書いてある漢字は本来持っている漢字の意味は無くて、「音」のみを表している場合が多いです。
 「伊邪那岐神」は、「イザナギ神」と読み、神の漢字は音ではなくて、神という意味を表しています。(伊=イ、邪=ザ、那=ナ、岐=ギ) そして、「神」の字は、音では無くて、漢字の意味をあらわすとして、読んでいます。

以上の様に、古事記に書かれている漢字は、漢字の音を表す事になっていますが、表すのに、難儀をしたと太安万侶は序文の所に書いています。
そこで、太安万侶は、例外の時は、次の様に、書いています。

古事記の最初の部分の「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此」に於いては、「高天原」の「天」の部分は、「云阿麻。下效此」と断り書きを入れています。
と考えますと、「独神」は、太安万侶の造語であるか、誰か、外の人が、古事記を書き変えた可能性があります。

その2の理由
前回、「伊邪那岐神、次妹伊邪那美神」は、兄妹の事だと多くの歴史家は考えていると記しました。
 太安万侶は、「伊邪那岐神、次妹伊邪那美神」と記して、二人は、兄妹だったことを書き残したかったとしますと、この後に書いた事を書き残したかったと考えるべきだろうと。

 伊邪那岐神、次妹伊邪那美神は、子供を産もうとします。所が、水蛭子が生れた事が記されています。
告其妹曰「女人先言、不良。」雖然、久美度邇此四字以音興而生子、水蛭子、此子者入葦船而流去。次生淡嶋、是亦不入子之例。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(70) 妹伊邪那美神 [日本の歴史]

 前回の各人の誕生日の推定の話題は如何でしたか。

半分以上の方は、なんだ、こんなものと思われたでしょう。
伊邪那岐神まで、遡っても、紀元前250年です。
この計算は、人は、20歳になると子供が生れると仮定しました。 現代風に考えて、30歳になって子供が生れるとの仮定に変更しても、紀元前300年となります。

 と言うことは、日本全土を統治するような時代の始まりは、紀元前200年~300年となります。

ついでに、少し視点を変えますと、時代は天忍穗耳命---天照大御神---伊邪那岐神です。
 おかしなことに、伊邪那岐神と妹伊邪那美神は夫婦なのに、二人ら間に、生れたのではなくて、伊邪那岐神が禊をしているときに、天照大御神が生れたことになっています。

 古事記には、始めの所に、次の文章が有ります・
次成神名、宇比地邇上神、次妹須比智邇去神此二神名以音、次角杙神、次妹活杙神二柱、次意富斗能地神、次妹大斗乃辨神此二神名亦以音、次於母陀流神、次妹阿夜上訶志古泥神此二神名皆以音、次伊邪那岐神、次妹伊邪那美神。此二神名亦以音如上。

今回は、ここに出て来る「妹」に注目したいと思います。
それぞれの神に「妹」が付いていますが、
「伊邪那岐神、次妹伊邪那美神」に見られるように、男の方には、「兄」が付いていません。
この「伊邪那岐神、次妹伊邪那美神」は、兄妹の事だと多くの歴史家は考えていると書かれています。 しかし、その根拠は書かれていません。

妹伊邪那美命
http://dic.pixiv.net/a/%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%8A%E3%83%9F

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(68) 高天原は何処にあったか(13) [日本の歴史]

太安万侶は、700年頃に、「古事記」と題して、天皇家の歴史を書物の形にして、712年に完成させました。
 しかし、現在の歴史家には、認められず、神話の形に書かれた偽書とされています。
 それに対応して、8年後造られた日本書紀が、日本国の歴史を書いた聖書とされています。

それを私は逆で、古事記は天武天皇の要請によって書かれた、日本国の歴史ではないが、天皇家の歴史を書いたものと考えています。

 古事記の出だしの言葉は、「天地初めて、発けし時」で始まる文章ですが、この時代は何時の事かを書かれた歴史家は、少ないのではないでしょうか。

神代とはいつの時代か
http://kqusuo.web.fc2.com/99_blank082.html
 このブログに拠りますと、弥生時代と成るでしょうか。

初代天皇は、神武天皇です。この天皇は、いつ頃の人だと思われますか。古事記には、何時生れたとは記されていません。
 神武天皇は、実在しなかったという論文は、沢山ありますが、これを認めますと、古事記も日本書紀も、嘘が書いてある事になります。

 実在されていたとしますと、
天皇家にとっては、日本は、放っておけない状態となり、漢人の征伐に乗り出すこととなりました。神武天皇が40歳のころです。島根半島にある「日向」を出発して、九州に向います。
 神武天皇は、岡田宮で、1年、阿岐の国の多祁理宮で7年、吉備の高島8年を費やし、計16年を費やし、最後には、奈良でニギハヤヒをとらえます。
 そして、橿原市に宮城を造り、初代天皇と成ります。

先に、神武東征に出かけてのが、40歳のころと書きましたが、根拠はありません。
その後、少なくとも、16年間は、戦いに費やされましたから、最も、頭脳と体力のある頃は、40歳頃だろうと推察しました。

 橿原市に宮城を設けたのは、「紀元元年一月一日」だと考えています。
と言うことは、今より、2017年前の事になります。
そのようなことは誰が決めたのかと云いますと、判っていません。 西暦は、アメリカイギリスフランスが、決めたのかと云いますと、ネットで調べた範囲では、よく判っていません。
 以上の事から、計算をしますと、西暦0年1月1日が、神武天皇の56歳の時になります。
と言うことは、神武天皇天皇の生れたのは、西暦0年より、56年前と成ります。
紀元前、60年ころに神武天皇が生れた頃になります。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(67) 高天原は何処にあったか(12) [日本の歴史]

 タイトルの「高天原は何処にあったか」と随分離れてしまいましたが、高天原は何処にあったかに関する事は、太安万侶は、何も書いていません。
書いたのは、「天地初めて、発けし時」と記したのみです。
 これはいつ頃の事だと思われますか。

 三内丸山遺跡の事は、ご自分で簡単に調べる事が出来る様に、書いておきました。
 
http://jomon-japan.jp/jomon-sites/sannai-maruyama/」を使って、google 
を使いますと、詳しい歴史を調べることができます。
三内丸山遺跡は
縄文時代前期中頃から中期末(紀元前3,000年~紀元前2,200年頃)の、我が国を代表する大規模な集落遺跡です。
と書いてありますが、(紀元前3,000年~紀元前2,200年頃)とは、何時頃のことが、頭に描くことが出来ません。

日本で最多となる土偶約2,000点の出土に加え、低地からの食生活や環境を示す動植物遺存体、木製品、骨角器、編籠、漆製品などの有機質遺物、さらに、ヒスイや遠隔地産の黒曜石、アスファルトなどの交易品も多数出土しています。
北海道産黒曜石製石器  
https://www.google.co.jp/search?q=%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%94%A3%E9%BB%92%E6%9B%9C%E7%9F%B3%E8%A3%BD%E7%9F%B3%E5%99%A8&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwif1ufygubSAhUBxrwKHXZjA-AQsAQIGQ&biw=1379&bih=678#spf=1

②ヒスイ製大珠
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%92%E3%82%B9%E3%82%A4%E8%A3%BD%E5%A4%A7%E7%8F%A0&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwim55eig-bSAhWBgLwKHR1eCvIQsAQIJg&biw=1379&bih=678#spf=1

稲や稗等の栽培もしない人達が、どうして、このような遠い所と交易をしていた事実は、どの様に解釈したらいいのか。歴史のプロの人は、報告していません。

この三内丸山遺跡は、忽然として無くなったことは分っているのですが、その原因は分らないとされています。
 何度も、登場して貰いました田村誠一氏は、この人達は、大陸へ渡り、その後、中山王国を築きましたと推理して居られます。
 ただ、それだけでは無くて、その人達は、日本に、又、逃げてきましたと推理です。

 このように書いてきますと、古事記は大ロマン物語であって、歴史ではありません。

ですから、歴史家は、【古事記】は、神話だと言っておられます。

しかし、私は、タイトルに<神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます>と書いています。
三内丸山遺跡が 縄文時代前期中頃から中期末(紀元前3,000年~紀元前2,200年頃)のものであることは、少しは、お解りになられたと思っています。

では、「天地初めて、発けし時」は、いつ頃のことかは、少しは、推理できたのではと思っています。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(66) 高天原は何処にあったか(11) [日本の歴史]

 青森県に三内丸山遺跡があります。
 ブログは沢山ありますが、遺蹟の全体が判る記事は、少ないです。
 次のブログの記事から、書かれている事を箇条書きにしてみます。
http://jomon-japan.jp/jomon-sites/sannai-maruyama/

① 青森市南西部の八甲田山系からのびる緩やかな丘陵の先端部、沖館川左岸の標高約20mの海岸段丘上に立地する。
  奈良や諏訪や蒜山高原のように、盆地にできた集落ではありません。海岸に近いですが、20mの所にあります。

②縄文時代前期中頃から中期末(紀元前3,000年~紀元前2,200年頃)の、我が国を代表する大規模な集落遺跡です。

③広さは24haに及び、竪穴建物跡、掘立柱建物跡、列状に並んだ土坑墓、埋設土器、盛土、貯蔵穴、道路、大型建物跡などが計画的に配置されています。
 
土坑墓は、村の中にあった様に記憶します。その一番端に犬のお墓もあったのが気になりました。
 村の中にお墓を作るのは、現在、寺の境内にお墓を作るのと同じで、日本の特徴ではないでしょうか。犬も一緒に並べて作るのは、死後の命の捉え方を犬と同一にしたことになります。

膨大な量の土器や石器などが出土した割には、それから判る事が、何故か、書かれていません。
日本で最多となる土偶約2,000点の出土に加え、低地からの食生活や環境を示す動植物遺存体、木製品、骨角器、編籠、漆製品などの有機質遺物、さらに、ヒスイや遠隔地産の黒曜石、アスファルトなどの交易品も多数出土しています。
これらの遺構や出土品は、安定した定住の実態を示していますが、食料残滓(ざんし)や当時の生活環境の分析から、明確な農耕・牧畜を示すものはありません。

稲作も行われていなかったようです。

④竪穴建物をはじめとするさまざまな施設は、長期にわたり同一の場所に造られており、計画的な土地利用の形態を示しています。花粉のDNA分析などからは、ブナ林を中心とする落葉広葉樹が広がる自然環境に、資源の維持・管理を目的とした積極的な関与が行われ、クリ林やクルミ林、漆などの有用な樹種で構成された「縄文里山」と呼びうる人為的な生態系を成立させ、生業を維持していたことが明らかとなっています。
自然資源の巧みな利用により持続可能な定住を実現した土地利用形態は、自然と共生した人類と環境の交渉を示す顕著な見本といえます。

ここには書かれていませんが、この遺跡は、住む人が忽然と居なくなった事が書いてあったように記憶するのですが、私は発掘されて、直ぐに行きましたので、写真に見られる様な、大きな6本の柱が復元されていました。

青森県は、緯度が高いですから、稲作は無理だったのでしょうか。

厖大な出土品があったのですが、人骨の事は書いてありません。出土して居れば、DNAの測定が出来たり、脛が長かったか 短かったかで日本人だったのか、大陸からやって来たなどの区別が出来た様に思われます。
漆が見つかったことは、この漆は、日本から、中国へ運ばれた可能性も考える事が出来ます。

三内丸山遺跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%86%85%E4%B8%B8%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1

三内丸山遺跡----写真豊富
http://inoues.net/ruins/3naitrip.html二ツ森遺蹟----犬の埋葬
http://jomon-japan.jp/wp-content/uploads/2013/07/leaflet_15futatsumori.pdf

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(65) 高天原は何処にあったか(10) [日本の歴史]

 前回は、突然、稲作のことを書きましたので、なんのことかと思われたでしょう。

タイトルに 「高天原は何処にあったか」と書いて、書き始めて 10回目になりますが、古事記を読んでいても、一向に判りません。

 7回目の所で、
私が始めて知ったのは、田村誠一氏です。この方の本を読んでいましたら、佐竹淳如氏の研究成果であると書いてありました。
と書きました。
 その証拠と成る物は、「 神代遺蹟考 」でしたが、復刻版として、現在は販売されていることを記しました。
 田村氏は、この本を元にして、高天原は蒜山高原にあったことを立証されました。

とは云うものの、その証拠と成る田村氏が出版された書籍は一冊も残っていません。

現在の蒜山高原に行っても、高天原が存在した証拠は、なに一つ残っていません。

古事記に残っているものとしては、天照大御神が造った営田の畔を速須佐之男命が壊したと太安万侶は、書き残しています。
 これが事実かどうかを、蒜山高原以外の所では、いつ頃から、稲作が行われていたかを調べるつもりになりました。

全国の稲作を調べる訳に行きませんから、先ずは、東北から調べようと思いました。

何故、そう思ったかと云いますと、田村誠一氏は、
東北に住んでいた人達が、住んで居れなくなって、全員が、中国へ逃げて行った。北京から50キロ程、南東に位置する所に住みつき、中山王国をつくりました。(中山という国名) と著書に書かれました。

地図 http://o-mino.la.coocan.jp/page384.html
 
 この辺りは、元は、狩猟を主として生活をしていた白狄人という人達が住んでいた所で、日本から避難した人達が、住んでいましたが、ここでも、住んで居れなくなり、沖縄や日本に移動したと田村氏は分析して居られます。
 
 分析の手段として、銅鐸の研究をして居られます。
 銅鐸は、いろいろの所から、発掘されていますが、その場所から、2~4km以内の所に、必ず神社があることを調べておられます。

神話ではなかった古事記・伊邪那岐命・伊邪那美命
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2016-12-26

 このように書いていますと、厖大なものと成りますので、古事記に書いてあった
「天照大御神が造った営田の畔を速須佐之男命が壊した」の証拠と、実際に蒜山高原に行きますと、稲作は無理だったはずなのに、「田」の字と付く地名が残っているのは、稲作がいつのことか判りませんが、蒜山高原でも、おこなわれていた事を説明する気になりました。
 田村氏は、中山王国から逃げてきたのは、イザナギとイザナミだとの結論に達しられました。
 このようなことを書いて居られる人は、一人も居られません。

多くの歴史家は、日本人は、すべて、大陸から移動して来たことになっています。そればかりか、文化は、中国と朝鮮から、教えてもらったものばかりという歴史になっています。

しかし、漆は日本から、朝鮮半島を経由して、中国に伝えられたのではないでしょうか。私の持っていた辞書で、英語の小文字のjapanを辞書で引きますと、確か、「漆」がみつかったように思いますが、辞書が無くなってしまって確認出来ません。

話題が外れました。
 
古事記の始めの部分を見ますと、イザナギとイザナミが、どんどん、島を生んだ事になっています。
 そして、ずっと、後から、天照大御神が登場してきます。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(64) 高天原は何処にあったか(9) [日本の歴史]

 稲作の歴史に関する知識は、略、ゼロに近いですので、ネットの力をお借りしたいと思います。
 キーワードを「稲作」で検索しますと、トップに次のブログがヒットします。

1-3 伝わったのは縄文時代の終わりころ-1 米はどこからきたのだろう ...
 始めに、次の様に書いてあります。
「日本では、戦後まもない頃に発掘された静岡県登呂遺跡から水田跡や炭化米、農具が発見され、これにより稲作は弥生時代になって初めて日本に伝えられ たと考えられていました。しかし、弥生時代以前にもイネの栽培が行われていたという確かな裏づけが、昭和35年以降、九州地方の縄文遺跡から発見され始 め、今から約3000年前の縄文時代後期にはすでに大陸から稲作が伝わっていたことは明らかです。それよりも古い時代に原始的農耕が行われた可能性さえあるのです。
 イネが日本にもたらされた最も古い証拠は、縄文時代後期末までさかのぼります。(7)福岡県や(8)熊本県の遺跡の土壌から、この時期のものと推定されるプラントオパール(イネ科植物の葉身にある、ケイ酸を含む細胞)が検出されており、これによってイネの痕跡が確認されています」

 私が小学校入学したのが、戦後の事です。ここに書いてある <戦後まもない頃に発掘された> の事は、小学5~6年に習ったのではないでしょうか。

プラントオパールの名前は、聞いた記憶はありましたが、知らないので、ネットで探しました。
 幾つかの記事を読んだだけですが、プラントオパールが見つかった事は、その地層で、稲が生えていた証拠になると考えていい様です。
 しかし、その見つかった所では、水田の遺構が見つかる事が少ないと書かれています。
と言うことは、この稲は、水田ではなくても、作られていたと考えられます。

 まだ、ここまでしか、知識が有りません。

日本人の起源と縄文稲作、プラントオパール
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html

ここには、プラントオパールの出土例が、31例あげてあります。 まだ、全部読んで居ませんが、これは、とんでもないものを 見てしまったと思っています。

之まで読んだ記事を眺めていますと、
稲作は、何時頃から始まったかはよくわからないことになります。

しかし、古事記では、天照大御神の営田の畔が、須佐之男命によって壊されたと書いてありますから、アマテラスの時代には、稲作が行なわれていたことが分かります。

参考に----01. 縄文稲作はあったか
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html




長い事お休みさせてもらいました。ご迷惑おかけはました。
少し、スピードを遅くして書いてみますので、時々、覘いてください。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます  一言 お詫びを [日本の歴史]

随分前からですが、沢山のメールが入る様に成りました。一日に、1000通を越えるようになりました。 その中に、脅迫まがいのメールが入ります。10分置きに入りますが、
金銭の要求です。5000円ですが、支払いますとそれで終りだと書いてありますが、別の理由が加わり、一層抜けれなく成る事は、何度も経験していますので、 頑張っていました。

 昨日、頭痛がして、ふらつきますので、血圧を計りましたら、どうしても、高い数値が200を越えます。暫く、飲んで居ませんでした血圧を下げる薬を飲みましたが、下りません。 頭痛を止める薬を飲みましたら、頭痛は無くなりました。昨晩から、コンピューターに電源を入れませんで、ストーブの前で、ゴロ寝を半日していましたら、夕刻、血圧は140に下っていました。

 外にも、一杯あります。100億円援助をするから、1000円を送れというタイプです。
半月ほど、無視していましたが、次第にメールの数が増えてきました。 送るとこちらのなにかが 手に入るのでしょうね。 無視していましたら、私は100億円を受け取ったという人から、メールが入るようになりました。
 この人達は、お金に困っていた人らしく、どれほど困っていたが書いてあって、心配いらないですよとのメールです。

 名前の違う人から、私も100億円貰ったとメールが来ました。もう、100人は越えたと思います。
 となりますと、援助をしている人は、一兆円の寄付をしたことになります。 こんな話が、一杯ですが、残ってほしいメールもあり、チェックしては、削除していましたら、頭がおかしくなっています。

一日コンピューターを触らなくて、血圧が下った所で、一ヶ月、コンピューターを休ませようと思いました。200の数字は、何時死んでもおかしくない血圧ですので・・・。

ただ、大変な病気が見つかり、2月6日より、治療をスタートしましたので、一ヶ月経って、又、古事記の話が書けるかどうか判りませんが、しばらく、おやすみさせて頂きます。

 長い文章を読んで頂きまして、有難うございました。


神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(63) 高天原は何処にあったか(8) [日本の歴史]

 如何でしたか。
 古事記の最初に書かれている高天原は、何処だとは書いてありませんが、蒜山高原だと言った人は、佐竹淳如氏で、二番目は、田村誠一氏、三番目は、どうやら、私の様です。

 そりゃ 間違っていると言われた方は私の知る限りでは、どなたも居られません。

ここ暫く、何を考えているかお解りですか。

イザナギとイザナミを祀る神社
http://o-mino.la.coocan.jp/page155.html

を見て頂きました。しかし、全部調べるのは、諦めました。

①イザナギとイザナミを祀る神社は、東北に多い
②イザナギとイザナミは中国の中山王国に住んでいたが、日本に逃げてきました。
③イザナギとイザナミは白狄人である。
④那岐山はイザナギとイザナミと関係があるのではないか。
⑤イザナギとイザナミが住んでいた所には、動物の名前の地名が多い。

以上の事を先日から書いて来たつもりですが、覚えておられますか。

仮に、イザナギとイザナミが日本に大陸からやって来たとしますと、どんどん、その人数は増えたと思います。
 一番に、その人間が生きて行くためには、食べる物を確保しなければなりませんが、現在のことに当てはめると、米が一番だと思います。

そこで、稲作は、いつ頃から行われたかを知るつもりになっています。