So-net無料ブログ作成

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(119) 大河原神社の祭神(3) [日本の歴史]

 前回は、祭神に脱線しました。
もう一度、大河原神社の祭神のことに戻ります。

 大河原神社の祭神は、次の祭神です。
 祭神 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命、大物主命、須佐之男尊、誉田別尊、大日孁尊、大山祇命

 この祭神は、大河原神社に残されています。神社の所在する所は、鳥取県日野郡日光村大字大河原字宮川 にみられる様に、「大河原」という所にあり、大河原という地名は、現在も残っています。

この神社には、稗田阿礼も訪れたのではないかと考えています。
さて、底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命という神に注目しますと、こんな神が、
712年の頃に、存在していたのでしょうか。

 私は、稗田阿礼が、訪れた時には、祭神として、底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命、大物主命、須佐之男尊、誉田別尊、大日孁尊、大山祇命の名前が書かれていたのだと思います。

 これを聞いた太安万侶は、
 
大綿津見神
http://japangod.dip.jp/%E5%A4%A7%E7%B6%BF%E6%B4%A5%E8%A6%8B%E7%A5%9E%EF%BC%88%E3%82%AA%E3%82%AA%E3%83%AF%E3%82%BF%E3%83%84%E3%83%9F%EF%BC%89.html

中津綿津見命、上津綿津見命の三人の神を入れたお話を創作したのではと考えています。この三人の神さんが、居たのではなくて、大河原神社に祭られていたことは確かだろうと推理しています。


問題は、大河原神社は、白水川の上流で、海の近くではありません。どうして、このような所に、海の神である大綿津見神が祭られていたかです。

上に書きました解説では、

【ご神徳】
海上安全・漁業繁栄・家内安全・病気平癒・学業成就・安産等
【伝承地】
特定した場所は無く主に沿岸部、海、川など水に近いところに見られる
と書いて居られます。

 これが正しいとすると、大河原神社に海の神が祭られていることは、間違っていることになります。
太安万侶も、大綿津見神、中津綿津見命、上津綿津見命を交えた神が居られた事を書きました。
私は白水川の深い所と中間の深さと、浅い所で、禊をしたと考えました。

ところが、大綿津見神が海の神であるとしますと、白水川のお話は全く意味をなさなくなります。
そこで、伊邪那岐神は、川ではなくて、海で禊をしたと書いて居られる方がネットで見ることが出来ます。

神様辞典 古事記を彩る神々
http://bihadasabo.net/culture/goddic_kojiki_008.html

このブログはまだ、始めの三行だけは読みましたが、全部は読んでいません。間違っていると思いました。
何故なら、この方は、古事記に書いてある神から、考えを進めておられますが、古事記は、天武天皇の依頼により、書かれたものであることを抜きにして書いて居られます。

この事は、序文に書いてあります。現在のままでは、中国人にやられてしまうと書いてあります。
このような状態の時に、太安万侶は、古事記に書いてあるような神話を書いたのでしょうか。
 太安万侶は、白水川の上流の大河原という所に、大綿津見神、中津綿津見命、上津綿津見命が、実際に守るために、駐屯していたのだということを書き残そうとしたと考えています。

書いたものは、直ぐに、取上げられて、燃やされてしまいます。そして、日本書紀が作られたと推理しています。

欄外
祭神の事は、次の所にも、書きましたので、ご覧頂けましたらと思います。

「おかしな世の中」で、カテゴリー 「隠岐」を選んで下さい。
http://asilka.blog61.fc2.com/


神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(118) 大河原神社の祭神(2) [日本の歴史]

 祭神とは?
①祭神論争
http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E7%A5%AD%E7%A5%9E%E8%AB%96%E4%BA%89#.E6.A6.82.E8.A6.81

この記事は、私の全く知らなかったことばかりです。誰が書かれたか判りませんが、この記事を読むだけで、明治五年(AD1872)時点に於いては、一神教のキリストと、日本の伊邪那美神とを、似たような神に捉えています。誰も、祭神とはどういうものだと言うことを、全く知らなかったことが判ります。

②ウィキペデイアに拠れば、祭神とは、次のように書いてあります。
現在、多くの神社では、日本神話に登場する神を祭神としているか、日本神話の神と同神であるとしている。
元々神道は海・山・川などを畏敬の対象の神体とする自然崇拝から始まったものであり、初期の神社では、そこに祀られる神には特に名前はないか、不詳であった。記紀や万葉集などでも、祭神の名が記されているのは伊勢神宮、住吉神社などごくわずかであり、ほとんどの神社の祭神は、鎮座地名や神社名に「神」をつけただけの名前で呼ばれていた。延喜式神名帳でもほとんどの神社は社名しか記されていないことから、延喜式が編まれた10世紀初頭ごろまではほとんどの神社の祭神には特に名前がついていなかったことがわかる。

この後に、同じぐらいの長さの文章が書かれています。祭神の事を説明するには、これだけでは、無理がありますが、上に紹介しました記事だけでも、少なくとも、間違いが一杯あります。

a---「現在、多くの神社では、日本神話に登場する神を祭神としている」
 多くの神社に残されている伝承を集めたものが日本神話と呼ばれるものでしょう。

b---「元々神道は海・山・川などを畏敬の対象の神体とする自然崇拝から始まったものであり」
 隠岐に和気能須神社(ワケノスジンジャ)があります。この神社の解説書に次のように書いてあります。
「明治13年、戸数僅かに三戸なりしが鳥取県岩美郡網代村、田後村、岩戸村の三村より漁民の移り住むもの頗る多く、今や三百五十戸にいたり」とあり、祭神は、和気能須命のみです。これから判ることは、地名や村があったのではなくて、心の糧にしていた先祖、又は、神に相当するもがあり、それは、和気能須と呼ばれていたので、祠を造り、それを和気能須神社と名付けたと思われます。 しかし、祭神は和気能須命のみです。
ということは、出来た時の神社の氏子は、三戸でしたが、明治十三年には、三百五十戸になった筈です。では、現在は、何戸かは調べていませんが、現在は、四百戸としますと、氏子は四百戸かも知れませんし、五十戸の家の方は、他の神社の氏子になって居られるかも知れません。
 又は、変わって来られた網代村、田後村、岩戸村の皆さんも、和気能須命を信じておられたから、移り住まれたかも知れません。
 調べが可能であれば、祭神とは、どういうものであるか解明できるかも知れません。

和気能須神社
http://www.genbu.net/data/oki/wakenosu_title.htm  同じく、西郷湾沿いに水祖神社(ミオヤジンジャ)があり、祭神は、水祖神 です。水祖命ではありません。  近くの集落なのに、和気能須命と水祖神のように、神さんの呼び方が、「神」と「命」の二通りがあることが判ります。  これも、理由がわかれば、祭神の捉え方が判ると思われます。 <5月25、26、27日 念願の隠岐へ行ってきました。30の神社を訪問しました。疲れまして、まだ、恢復しませんので、これから、頭に残った事の整理をするつもりです。この島の祭神を調べると、祭神とは、どういうものかは、少しは判るのではと思っています。両社の祭神は、和気能須命と水祖神です。すぐ近くの神社ですのに、どうして、命と神かお解りですか。> 水祖神社  http://www.genbu.net/data/oki/mizuso_title.htm

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(117) 大河原神社の祭神 [日本の歴史]

祭神 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命、大物主命、須佐之男尊、誉田別尊、大日孁尊、大山祇命
 
大河原神社の祭神は、どうして、こんなに多いのでしょう。
きっと、歴史の好きな方は、直ぐに返答をされると思います。
それは、ある神社と合祀したからだと。

では、合祀とは何だと言いますと、ウィキペディアに拠りますと、

ある神社の祭神を、別の神社で合わせて祀ること(寄宮)。または、一つの神社に複数の祭神が祀られている状態のこと(相殿)。 合祭(ごうさい、がふさい)とも言う。
前者の合祀には、本殿で祭神を一緒に祀る本殿合祀と、神社の境内に元の神社を移転し境内社とする境内合祀、離れた飛地境内に移転し境外社とする飛地境内合祀の3種類がある。
明治から大正にかけての神社合祀令では多数の神社が合祀の末、廃社された。これら廃社された神社の中には、後に合祀されていた祭神を戻し(復祀)、再建されたものもある。
これでお解かりになられましたか。解ったと思われた方は歴史の好きな方だけだと思います。
 A神社の祭神が、底津綿津見命で、B神社の祭神が、大物主命であったとします。

B神社を祀っていた人達が、全員亡くなられたとします。するとB神社のお世話をする人達が、居なくなりますと、A神社の人達が、お世話をしようと決めたとします。近くであれば、お世話は出来ますが、少し離れていますと、次第に出来なくなります。そこで、B神社の社に代るものとして、小さな社を造って、その社には、B神社と名前を付けて、A神社の境内に祭神だけを祭って貰います。
 そんなことが出来るのでしょうか。 私には、判りません。

合祀の基本は、このようなものだと、自分なりに解釈しています。しかし、明治時代に、政府が、国の方針として、合祀を行ったことが、ネットで見られます。

明治末期の神社合祀
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%90%88%E7%A5%80#.E5.B2.A1.E5.B1.B1.E8.97.A9.E3.81.AE.E7.A5.9E.E7.A4.BE.E5.90.88.E7.A5.80
 ここの説明には、
神社合祀政策は1906年(明治39年)の勅令によって進められ、全国で1914年までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。和歌山県や愛媛県もそれについで合祀政策が進められた。しかし、この政策を進めるのは知事の裁量に任されたため、その実行の程度は地域差が出るものとなり、京都府では1割程度ですんだ。

この様に記されています。
では、どうして、各県において差が生じたかと言いますと、「祭神」の違いによると思われます。
と書きましたが、では、祭神とは何だと言いますと、説明ができません。
 次回に、祭神とはどのようなものかということを書いてみよと思います。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(116) 大河原神社と吉原神社 [日本の歴史]

この両神社は、ネットで検索しても、詳しい資料を得ることができません。
 随分以前に、調べた物をネットに掲載していましたが、それもグーグルの検索では表示されません。

 もう一度、作り直しましたので、次に掲載します。

大河原神社
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-640.html
所在地  鳥取県日野郡江府町大河原840番
     鳥取県日野郡日光村大字大河原字宮川 (発行・平成元年8月発行・掲載)

祭神 底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命、大物主命、須佐之男尊、誉田別尊、大日孁尊、大山祇命

由緒
由緒 創立年代不詳、旧山王権現龍王権現石牛王と称せしを、明治元年神社改正の際大河原社と改められ、同五年村社に列す、同六年大河原神社と称す、誉田別尊以下の神も往古より当社の末社として境内及村内に鎮座ありしを明治四年合祭せらる。



吉原神社
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-641.html 現在地 鳥取県日野郡江府町吉原283-2

祭神 稚日女命、底筒男命、中筒男命、表筒男命、大日孁尊、大山祇命、美佐々伎命、誉田別尊、天津児屋根命

由緒 創立年代不詳、旧若宮大明神と称す、明治四年吉原社と改称せられ、同五年子守神社の摂社となる。同六年吉原神社と改めらる、明治四十一年四月日光村大字吉原字児守谷鎮座村社子守神社(祭神 底筒男命、中筒男命、上筒男命、大山祇命、美佐々伎命)
を合併す、昭和八年十月同村大字吉原字西成ノ二鎮座村社西成神社(祭神 大日孁尊、誉田別尊、天津児屋根命)を合併す。



次の記事は、私が、両社の考察をしています。
吉原神社と大河原神社  古事記を読む
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2010/10/post-1517.html 

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(115) 大河原と吉原(3) [日本の歴史]

この大河原と吉原という地名は、はじめからあった所に、神社を造って、住まわれたから、大河原神社の名前が付いたのではありません。同じく、吉原という地名があったから吉原神社と名付けられたのではありません。

 この神社へは、稗田阿礼は、実際に行って、太安万侶に報告したのだと思います。
稗田阿礼が行った時は、既に、住民は住んで居られたのですが、この辺りは、あまり木は生えていなかったのではないか。「原」は字の通り、一面、草原だったのだと考えています。
 この地名は、太安万侶が頭の中で考えたのではないかと思います。
何故かと言いますと、現在の地図からは、大河があったように思えないからです。あったのは、「川原」でした。流れていたのは、白水川でしたが、大王であるイザナギの「大王」を表す、「大」を付けましたから、「大川原」ではなくて、「大河原」と古事記に書き残したのではないでしょうか。一方の「吉原」の吉という字は、太安万侶が使ったのではないかと考えています。
 
「大河原」に対して、「吉原」ではないでしょうか。 
「吉」の意味は、
①「よい」

 ア:「優れている」、「立派」(例:吉士)

 イ:「道徳的に(人々が善悪をわきまえて正しい行為をなす為に、
    守らなければならない規範(手本)に従っていて)正しい」
   (同意語:善)(例:吉士)

 ウ:「めでたい」、「喜ばしい」(例:大吉)(反意語:凶)

 エ:「運が優れている」

②「さいわい(幸福、幸せ)」

③「ついたち」(例:吉日)

④「めでたい儀式」(例:吉礼)


人名用漢字の新字旧字:「吉」と「吉」
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2011/05/19/yoshi/ 話題は、古事記から離れてしまいましたが、この大河原と吉原という地名は、現在も存在し、そこには、大河原神社と吉原神社があります。

両神に実際に訪れて、この神社の歴史は、どの様に伝えられているか調べる必要があります。
 何故、古事記に残っている神の名前が、祭神として残されているのか。


以下、お知らせします。 明日から、2泊3日で、隠岐へ行ってこようと思っています。 従いまして、毎日、書いていますブログは、休ませて頂きます。 隠岐には、現在、150ほどの神社があるらしいですが、以前は、もっと、多くて、180ほどあったらしいです。 どうして、こんなに多いのかは分かりませんが、 現在、祀られている神さんは、隠岐に移住されてこられた皆さんが、大切にしてこられた神さんです。あまりにも多いのは、隠岐が、日本民族が、いろいろの意味で、作られた所ではないかと考えているから確かめたくなり、行ってこようと思っています。 2日では、なにも調査することはできませんので、住んで居られる皆さんと風土と景色を肌で感じてこようと考えています。 この多くの神社で祀られている神さんは、すべて、古事記に書いてある神社ばかりと田村氏は著書に書いておられますので、これは、私が調べなくても、確かだと考えています。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(114) 大河原と吉原(2) [日本の歴史]

このブログを読んで頂いて居られる方は、必ず、古事記は一部にせよ、読まれたと思います。
 「上津綿津見神と上筒男神が生まれました。底に潜ってミソギをしていたら、底津綿津見神と底筒男神が生まれたと書いてあります」の部分を読まれたら、あれ! と思われたのではないでしょうか。
 古事記の始めのところに、登場する神の名前です。

田村氏は「それにしても、太安万侶は見事です」と書かれました。 私もこのように思いましたが、この後に、上津綿津見神と上筒男神が生まれました。底に潜ってミソギをしていたら、底津綿津見神と底筒男神が実際におられたという話が展開します。  

底津綿津見神は、海の神さんです。底筒男神は、陸の神さんです。

私は、やっと、最近になって、この地に、底津綿津見神を祭る皆さんが、現在でも、住んで居られることは事実だなと考え始めました。

あれ! と思われた方は、古事記を読んだ時に、そんな神の名が、書いてあったのを覚えておられた事になります。

このページでは、「ナイス」をクリックされる方は、10人位おられると嬉しいですが、きっと、無理でしょう。偉そうに言いますが、私がやっと、最近になって、田村誠一氏の著書が理解できるように思えるようになったからです。

稗田阿礼は、この二つの神社も訪れたのだと考えています。そして、二つの村のことを太安万侶に報告したと思われます。

久古神社がある岸本町の辺りは、天皇家の人が住んでいました。ここ、大河原と吉原のあたりにも、天皇家の人達が住んでいました。
 溝口町の東にあります「鬼住山」周辺には、中国人が住んでいました。

太安万侶は、このようなことを書き残そうと、古事記を書いたと思われますが、鬼住山に中国人が住むのは、無理矢理、理解しようと思えば、出来ますが、イザナギが、黄泉の国へ言って来た話は、とても理解できません。

と言う次第で、現在は、古事記は、いい加減な本で、神話ばかりが書いてある書物と言うことになっています。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(113) 大河原と吉原 [日本の歴史]

前回は、阿波岐原を見て頂きました。原の前の「アハキ」という地名と見ました。そう仮定しますと、田村氏は阿波岐原も、禊をした様に書かれていましたから、「大瀧」も禊をしたことになり、矛盾を生じます。
 橘の小門をくぐって、阿波岐原を眺めますと、「大瀧」が見えるのかも知れません。すると、大瀧は地名ではなくて、滝壺のある所、大はイザナギをあらわすのかも知れません。

この部分は、田村氏は、ご自分の著書に次のように書いて居られます。

では、どうして太安万侶は、このようなミソギのストーリーを作り出したのでしょう。稗田阿礼は資料を集めるために、あちこち歩きましたが、日本海からヒルゼン高原に至るには、日野川を遡り、溝口町のところで、白水川に入ります。地図で確かめてください。大滝、吉原、中大河原、大河原という地名が並びます。この地名を結ぶ線は、ヒルゼン高原へ行くメインの街道であったと思います。吉原には、現在、吉原神社があります。祭神は、底筒男神、中筒男神、上筒男神です。大河原に大河原神社があります。この神社の祭神は、綿津見神三柱(底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神)です。  稗田阿礼が紀元700年ころに、この辺りを歩いた時には、すでに、これらの神社があったのだと思います。そして、これらの子孫の方が、この辺りに住んでおられ、言い伝えを聞かれたと思われます。  このあたりは、行ったことはありませんが、大山の麓から樹木がしげるところを抜けて行きますと、言葉を変えますと、樹木が尽きる(竺紫ツキシです。筑紫ではありません)。この頃は、ブナ林が続いていたと思います。稗田阿礼は、大きなブナの林が尽きたと思ったでしょう。 稗田阿礼は、目の前に河原が出現したときに、勿論、こんな山の中に、地名はありませんから、この様子を太安万侶に語ったでしょう。 太安万侶は、この地のことを「竺紫の日向の橘の小門の淡き原」と表現しました。この辺りは、最も日当たりの良いところですから、最近まで日光村と呼ばれていました。大きな橘の木があったのでしょう、その木が門のようになっていたことを稗田阿礼は、お喋りしたと思います。淡き原は、草がわずかしか生えていない河原です。  太安万侶がどうして、ここでイザナギが、ミソギをするという発想が生まれたかは判りません。禊は、もともと、日本人がもっていたものかどうか分かりません。ユダヤ人には塩で清めるという歴史があるようには読んだことがあります。  それにしても、太安万侶は見事です。川の浅いところで、ミソギをしていたら、上津綿津見神と上筒男神が生まれました。底に潜ってミソギをしていたら、底津綿津見神と底筒男神が生まれたと書いてあります。  底津綿津見神と底筒男神とは、役割がどのように違うのか判りませんが、海を司る人たちであったと思われます。海の仕事をする人が、どうして、山の中で生活していたのでしょうか? 皆さんで考えて頂ければと思います。

この同じ所を田村氏も歩かれたのだと前回書きました。しかし、ここへは行かなかったと書いて居られます。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(112)  竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原(2) [日本の歴史]

 前回、古事記に「竺紫」と書いてあったのを日本書紀を作った人は、「筑紫」と書き換えました。これだけでは、どうして、書き換えたかは判りませんので、もう一度、眺めてみます。

①古事記では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」
②日本書紀では「筑紫日向小戸橘之檍原」と表記はほぼ同じ。

 「小門」は、「小戸」に書き換えられています。
「門」が「戸」に書き換えただけです。
 翻訳者は、
「小門」----「をど」
「小戸」---- 「川の落ち口」

「橘」
1. コウジ・コミカンなど食用柑橘(かんきつ)類の古名。
「右近(うこん)の―」
2. みかん科の常緑高木。葉・花に芳香がある。ニホンタチバナ。

「阿波岐原」---あはきはら
「檍原」----①檍の読み方は、 ロク、オク いき、もちのき あおき、ふなき
      ②常緑樹の称,柾の別称、または、桑の品種


(1)日本書紀の作者は、意味が判らないので、「小門」から「小戸」に書き換えました。門ではなくて、戸が付いているのだと思ったのでしょうか。
(2) 「阿波岐原」を「檍原」に書き換えました。 古事記のほうは、万葉かなの様ですから、「あは?き」か、「あはき」でしょうか。日本書紀の作者は、どのように読むのか判りませんので、当てはまるような「檍」を採用しました。
(3) 日本書紀のように判断しますと、「橘」と「檍」と二つの木の名前が、並ぶことになって、全体の意味が取れなくなります。

以上の資料から、橘の木で、小さな門の形を形成した阿波岐原と呼ばれている所にやって来て、禊をしました。
 その場所の地名は、「大瀧」でした。

このような「大瀧」の風景を太安万侶は、態々書いたと言うことは、稗田阿礼が、ここへ行って、其の時の様子を太安万侶に報告したのだと考えます。

古事記の翻訳をされた田村誠一氏もまた、「大瀧」へ行かれたのだと思います。

その証拠は、「大瀧」の近くに、吉原という地名があり、吉原神社が、所在したことを書いています。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(111)  竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原 [日本の歴史]

伊邪那岐命が、伊邪那美命の追手から、逃れた時に、「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」に於いて、禊をされたと古事記には記されています。

 古事記には、「竺紫の日向」と記されて、日本書紀には、「筑紫日向」と記されているために、筑紫がどこにある地名かが問題になっています。
ウイキペディアを拝借しますと、

筑紫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E7%B4%AB
 九州の全体を指しているとか、筑紫野市の一部などと、いろいろ比定されていますが、これらの事から、古代に九州にあった地名とされているようです。

 若し、これが正しいとしますと、禊をした川が流れていなければなりませんが、川の名前は見当たりません。

宮崎の神話、イザナギの禊(みそぎ)
http://powerspot-kyushu.pome.in/miyazaki/myth/izanagi/
【宮崎】心洗われるみそぎの聖地!江田神社
http://www.9navi.jp/eda-shrine.html

禊をしたのは、川ばかりだと思っていましたが、宮崎県の池だと書いて居られます。確かに、池でも、身体を洗うことは出来ますが、普通は、池は水が溜った状態のものが多いです。唯の水浴びではありません。八雷神の世話になりながら、身体が、腐敗をはじめていたイザナミを見たイザナギは、自分の身、全身が、穢れてしまったと思い、禊をしたくなったと太安万侶は、記しました。
 しかし、其の時のイザナギの思いを、充分には表現出来なかったと思います。

太安万侶は、そのようなことではなくて、底筒男命外の神のことを記しています。このことは、次回に書きます。

伊邪那岐命は、大瀧という所で、禊をしたのですが、なぜ、此処になったかは、古事記に次のように書いてあります。
「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に堕り潜きて滌ぎたまふ時成りませる神の名は、八十禍津日神、次に大禍津日神。

 田村氏は、次のように、書いて居られます。
「上つ瀬は大山三の沢で流れは、急で禊はできません。下つ瀬は白水川で流れが弱くてここでも禊は出来ません。上つ瀬から下つ瀬に変わるところが滝壺で大王の伊邪那岐命が禊わしたので、大瀧の地名です
「白水川の源が大瀧で、大はイザナギを意味します。イザナギが大瀧で禊をしました。ここは林が尽きた場所から竺紫(ツクシ)と書かれ橘の枝をくぐった草が淡い川の滝壺で禊をしました」

 ①古事記では「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」。
 ②日本書紀では「筑紫日向小戸橘之檍原」と表記はほぼ同じ。

日本書紀は、古事記を参考にし作られましたが、古事記の「竺紫」がどこか解らなかったと思われます。「筑紫」は九州にありますから、「筑紫日向」と書き換えたと推察します。
しかし、この時は、「日向」の地名は無かったのではないでしょうか。

 「日向」だけではなくて、「筑紫日向」と書き、日向という地名までつくったのではないでしょうか。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(110)  別天つ神五柱(22) [日本の歴史]

前回の大坂神社の分析は、如何でしたか。
 田村氏の分析では、イザナミが、治療するために、溝口町の近くにあった御墓原に居りましたのを、ヒルゼン高原に連れ戻す為に、迎えに行きました。しかし、1500人ほどの鬼に追いかけられました。

溝口から、日野川を少し、下った「白水」というところから、イザナギは、白水川に沿って、大山の方へ、逃げました。1500人の追手を振り切った所が、「大坂」だと田村氏は、著書に書いて居られます。白水から大坂までは、ずっと、長い長い坂道だったのだと思います。

 この坂道は、田村氏は、歩かれたのだと思います。
 それは、どうして分かるかと言いますと、次の所で、禊をしたと書いてあるからです。

 伊邪那岐神が、禊をした所は、次のところです。

①古事記では「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」。 -----阿波の国
②日本書紀では「筑紫日向小戸橘之檍原」と表記はほぼ同じ。----福岡県

グーグルで、竺紫と筑紫を検索してください。 場所は、九州と四国になっています。

田村氏は、古事記には、正しいことが書いてあると、書き上げた著書の中で、「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」のことを書いておられます。

田村氏の著書  http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html
の最後の4冊に詳しく書いて居られます。

ここに書いてある「日向」は、竺紫や筑紫にある日向という意味だと思います。
田村氏の説の鳥取県にある日向とは、随分、違いがあります。遠く離れ過ぎています。

調べていませんが、「日向」は、太陽が良く当たる所とか、一日中、太陽の方を向いているとかの意味ではないでしょうか。となりますと、全国、到るところに「日向」が有る筈です。小字地名にも在ると思います。

日向(ひなた) http://www13.plala.or.jp/okuwarashina_web/hinata.htm

日向国 ひゅうがのくに
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD-121039