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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(178)   吉野ヶ里(21) [日本の歴史]

 この様に眺めますと、岡山県は、天皇家の勢力範囲のように思えます。

しかし、岡山県には、竜王山が一杯有ります。
岡山県内の竜王山
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1qen02NyYyoVibAaPKLgp-6plJcg&hl=en_US&ll=34.73505291017903%2C133.83132950000004&z=10 この山の麓の集落は、漢人と関係が有るかどうかは、解りませんが、大阪府では、茨木市と箕面市の近くの能勢町に竜王山が有りますので、登って来ました。

全国の竜王山
http://vbsoft.sub.jp/hana/takatori30.html

これだけ、山の名前だけの竜王山が有るということは、龍という字は、中国人に関係が有ることが多いですから、全国的に、もう少し、検討を加える必要があります。

さて、岡山県の竜王山と吉野ヶ里とがどの様に関係が有るのかは、これからの研究になります。
 少なくとも、この二つの勢力が争ったのと、大型の古墳が、一杯あり、神武東征に、広島で5年、吉備で8年掛かった証拠として良いと思われます。

神武東征に16年掛かった内の、8年が、吉備で費やされた事になります。

私も岡山県の探索に、一日は、本土と笠岡市の高島で二泊してきました。

岡山までは、車で行きましたが、カーナビに竜王山が表示されます。暫く走っていますと、又、竜王山の麓を走っていることになり、これはカーナビが壊れたかと思うほど、竜王山を眺めることになりました。

 これは、竜王山を少しずつ、形を変えて、目印にしたかと考えましたが、全国に有ることは、これでは、説明が付きません。

 何故 吉備にこんなに多くの竜王山があり、大きな前方後円墳があるのでしょう。


神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(177)   吉野ヶ里(20) [日本の歴史]

次のブログは、私が書いたものではなくて、田村誠一氏が書かれた著書
第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
第二話 結言 page—55

55ページを、私の「楽しい人生」というブログに紹介したものです。

http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/12/page55-c9f5.html
久しぶりに覗いてみましたら、誤字が一杯です。このブログは、最近、書き込みが出来なくなりましたので、訂正出来ません。ご自分で訂正しながら読んで下さい、

この著書は、殆どのページに、ページ一杯に地図が掲載されています。
(こんな本を見られた事はないと思います。僅か、63ページの冊子ですが、半分近くが、地図を占めています)

54ページの地図は、大江町を流れる由良川の地図です。書かれている地名の半分以上の地名に丸で囲み、記しを付けておられます。

北から、 城山、天座、稲荷、天ヶ峰、皇大神社、内宮、宮、豊受神社、天田内、金屋、大呂、天王地、下天津
  これだけの地名から、
「 第二話 結言 page—55 」の文章を書かれた事になります。


次のブログも、田村氏のブログです。
福ノ神族のパターン認識  page—2
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/10/page2-4099.html


岡山県は、多くの方が、地名に特徴があるのに、気付かれた事になります。

岡山県内の「福」地名
http://miwa1929.mond.jp/index.php?%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E5%86%85%E3%81%AE%E3%80%8C%E7%A6%8F%E3%80%8D%E5%9C%B0%E5%90%8D#idbab814

No346 笠岡市の高島は、天皇家にとって重要な所だった

http://o-mino.la.coocan.jp/page1065.html
これは私のブログです>

田村誠一氏の著書 をご覧ください。
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html

このページのニ番目に書かれた本が、『地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ』です。
55ページのタイトルが、<格言> です。

田村誠一氏の著書のページの「地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ」をクリックしますと、

私のブログの「楽しい人生」のページに移動します。
このページの一番上にある部分をクリックしますと、55ページの前後のページに移動します。
但し、地図のページはありませんが、 第二話の全ヘージを読むことが出来ます。

吉備に何故 前方後円墳が多いのか。神武東征が、何故、吉備で8年間も掛ったのか、説明した方は、知りません。
 私が書いた本でもないのに、そのまま、このような形で、掲載することは、著作権違反だと思います。

「楽しい人生」は、振り返りますと、私たちに日本国にとって、一番大切な 電磁波の恐ろしさを書いています。
 出来れば、消したい所ですが、このブログは、全く、私が触る事が出来なくなりました。
消したいと思われる人も沢山居られると思います。 しかし、私は日本の歴史よりも重要な事だと思っています。 
最近、全国的に、異常な暑さと、各地で、豪雨と川の決壊が起こっていますが、関係あるのではと、心配しています。



神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(176)   吉野ヶ里(19) [日本の歴史]

 前回の記事は、そんな馬鹿なと思われたでしょう。
 
両方とも、証拠が有ります。
岡山県の場合は、此処だけで、神武天皇は8年間も掛かりました。
そんな長いこと戦争が出来るわけはないと思わるでしょう。
それだけ手強かったことになります。

この頃の戦争は、兵隊の食料は如何して確保したと思われますか。

「岡山県 古墳」をキーワードして検索しますと、「岡山県 古墳の数」がありましたので、こりれをクリックしますと、
①最新全国古墳の数、多い順ランキング!(平成24年度調査) | 古墳に ...が有りましたので、クリックしますと、

次の結果が手に入りました。
1位)兵庫県:18841
2位)鳥取県:13459
3位)京都府:13089
4位)千葉県:12750
5位)岡山県:11726
6位)広島県:11255
7位)福岡県:10776
8位)奈良県:9617
9位)三重県:6993
10位)岐阜県:5110


三番目のタイトルをクリックしましたら、

②岡山に謎の巨大古墳 墳長350メートル、出入り自由
https://style.nikkei.com/article/DGXLASFK18H3D_Y5A410C1000000?channel=DF130120166109&style=1
造山古墳が全国4位の巨大古墳であることが判ります。


 当時は、岡山ではなくて、吉備と呼ばれていました。


③吉備国の古墳 - TOK2.com
http://17.pro.tok2.com/~kmlife/it-town/minamishinogoze/rekisi/rekisisabu-a/kofun/kofun-a.htm
このブログは、素晴らしいものです。一目で判ります。巨大な前方後円墳は、仁徳御陵のある大阪が一番多いと思っていましたが、吉備も多いですね。

どうして、こんなに多いと思われますか。

簡単です。死んだ人が多かったからです。
戦争が激しかったからです。

大きな古墳を造る事が出来たのは、裕福だったからです。 造る人がいたからです。
大きい古墳は、権力者の古墳でしょう。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(175)   吉野ヶ里(18) [日本の歴史]

 前回、次のように書きました。

岡山県にいた漢人と北九州にいた漢人の挟み撃ちにあいます。
その為に、日本人を北九州に入植させる必要があります。

岡山県にいた漢人とは誰の事で、九州のどのあたりだと思われますか。
 漢人は、古代の中国人で、日本にやって来た人です。 漢人(かんじん)は、中国人のことですが、日本にやって来て住みついた人は、漢人(あやひと)と、私は読んでいます。
日本にやって来た人の事を古くは、帰化人と呼ばれていましたか、今は渡来人と言います。

渡来人(とらいじん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E6%9D%A5%E4%BA%BA#.E3.80.8C.E5.B8.B0.E5.8C.96.E4.BA.BA.E3.80.8D.E3.81.A8.E3.80.8C.E6.B8.A1.E6.9D.A5.E4.BA.BA.E3.80.8D
①台湾の北に、大きい範囲に福建省があります。その中に、福鼎市、福州市、福清市が有ります。
 外に、福州市、福安市、福瑤列島を見つかります。
インターネットで、寧徳市の福鼎が有ります。

②福の字のつく地名
http://o-mino.la.coocan.jp/page518.html 以上の事から、中国の福という所から、日本にやって来て、福という地名を付けたかどうかは、解りませんが、なんらかの関係が有るから、住みついた所に「福」という名前が残っていると推理しています。

現在の住民の方の血液を調べますと、1000年経っていても、有る程度は判ると思います。

福岡県の神社
https://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E3%81%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE
 ここの神社の祭神を調べます。

田村氏は、入植させたと著書に書いて居られるのですが、それを信用するだけで、どこの神社の祭神が、神武天皇や天照大御神を祀るからと、提示出来ていません。

中国の福建省の大きめの地図を買ってください。 新しい地図は、奇麗ですが、略字を読むことが出来ませんから、購入する時は、略字がないか確かめてください。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(174)   吉野ヶ里(17) [日本の歴史]

 2000年前に、日本国という概念はあったかどうかは判りませんが、この頃の時代を考えることの出来る人でないと、古事記は解けないと思います。

何分、2000年前の人は、どのようなことを考えていたかを知る必要があると思います。
(出来るわけはありません。でも、そう心得ませんと、古事記を正しくよむことは出来ないと思います)


神武東征は、本当は、東では無くて、鳥取県から吉野ヶ里のある西へ行ったのです。
鳥取県の高天原から、はじめから吉野ヶ里を叩いておいてから、奈良を目指しませんと、岡山県にいた漢人と北九州にいた漢人の挟み撃ちにあいます。
その為に、日本人を北九州に入植させる必要があります。

これは、当時、世界で最強の中国に勝つための最低の戦略です。

第二次世界大戦後、 日本は、二度と戦争をしません。 平和憲法を作って、軍隊どころ、日本を守ることを忘れた日本人は、今、女性の国防大臣の上げ足ばかりをとって、降ろそうとしています。
 九条憲法を改正して、自衛というものを考えている自民党政府を叩いて、潰そうとしています。
誰が潰そうとしているかは判りませんが、潰れつつあるとこを書いてみます。

①7月9日、青森県東北町長選は 無所属の新人 蛯名鉱治氏(57)が初当選した。町の行政とは、言え、素人の人を選んだということは どういうことでしょうか。

町だから、その方が良いと思われたのでしょうか。
 
②仙台市は、7月23日に市長選挙が行われました。
結果は、
与野党が対決する構図となった仙台市長選挙は23日に投票が行われ、無所属の新人で、
ここも、新人であったことになります。
新人と云えば聞こえがいいですが、政治の素人に、市町を任せるということは、その町の崩壊です。
③ この傾向は、大阪市市長選挙にも、既に現われました。
 現在の市長は、昭和50年生まれですから、現在、42歳です。市長になられた時は、40歳です。
現在、私のような高齢者が全国的に増えています。
 これからも、恐ろしい勢いで増えるこの世代のことを考えることの出来る人は、50代以上の地方の町会議員、市会議員、国会議員で無いと務まらないでしょう。

 大阪という町は、首長を選ぶ時に、変わった選び方をします。その代表は、横山ノック氏です。選んで置きながら、メディアは最大に叩きました。

この横山氏を叩いたのは、メディアです。

あまりにもひどいので、ブログというものを初めて作りました。
ノック氏の事件を考える!!
http://o-mino.la.coocan.jp/index.htm

事件は、平成11年4月10日だったと思います。
余りにも、メディアの対応が酷いので、思ったことを書きました。

事件の内容を見て頂きますと、このページだけを見ても、朝日が一番ひどかったのだと思います。
http://o-mino.la.coocan.jp/jiken-naiyou.htm

その次は、毎日です。読売は、一番多い間は、読売新聞です。わが家では、読売と新聞を取っていたので多いこともありますが、毎日、どれぐらいひどい報道されたか、図書館に保存されている新聞で確かめられれば判ります。

朝日と毎日は、テレビを見ていて、ひどいので、図書館の新聞も見ました。

この事件から、テレビと新聞は、注意して見て、読むようになりました。

 この時に、日本で横山ノック氏を援護したのは、私が一人だったと思います。

大阪府民は、選んでおきながら、冷たい態度でした。


私の原稿は、気が付いたら、無茶苦茶脱線していました。

 全く、吉野ヶ里と関係ないと思われるでしょう。

関係ありません。 長くなりましたので、次回に続きを書きます。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(173)   吉野ヶ里(16) [日本の歴史]

 神武天皇が率いる軍隊は、「舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい」と記しました。ここに書かれた舟はどれぐらいの舟を言うのでしょう。
 紀元前の頃のことですから、10人前後の舟でしょうか。人、食糧、武器などを積み込んだとしますと、100隻ぐらいてしょうか。
 すると、1000人ぐらいの軍隊でしょうか。

 そう考えますと、前回の古事記の「日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした」というのもおかしなことになります。

「日向の高千穂」とは、古事記の場合は、ヒルゼン高原から、瓊瓊芸命が降臨してきた鳥取県の大栄町ですが、「葦原中国」とありますから、もう少し、北の海岸に近い、葦原にあった国ではと推察します。

少し、時代は違いますが、高千穂の場所を追求しています。高千穂は宮させ危険と云うのは、100%間違っています。

高千穂は鳥取の大栄町にあった
http://o-mino.la.coocan.jp/page718.html

「日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした」という文章からは、出発前に住んでいた日向の高千穂=葦原中国を安全にする為に、自分達の反対勢力を退治に行くことになります。
 当時は、九州の福岡辺りは、漢人によって、日本侵略が始まっていたいたと思います。

ただ、この解釈ですと、16年間の戦を終えた時には、奈良の柏原に都を定めましたから、鳥取県の高千穂に戻ってくることは無かったことになります。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(172)   吉野ヶ里(15) [日本の歴史]

 もう一度、神武東征を決心した経緯を記紀は、どの様に、記しているか確認します。

古事記
神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウツサヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。

日本書紀 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降って179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。



先に、日本書紀の方から、検討します。
「東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたい」と書いてありますから、塩土老翁神は、東のほうの事を知っていたことになります。

ネットをお借りして、「塩土老翁神」はどのような人であったかを調べてみます。
① 海の神様として知られる「塩土老翁神」。
 塩土老翁神は、神話の海幸彦・山幸彦の話に登場し、兄の釣り針を失くして困っていた山幸彦に海神(わたつみ)の宮への道を教える神です。

②仕事の神様   塩土老翁神
http://advice-navi.com/oshiete/god/05siotutinooji.html
塩土老翁神を祀る神社の本拠地、宮城県の塩竈神社の社伝によると、天孫降臨に先立って高天原(たかまのはら)から使いとして地上に降りた武甕槌命(たけみかづちのみこと。鹿島神)と経津主命(ふつぬしのみこと。香取神)に道案内をしたのが塩土老翁神です。
 そして諸国を平定した後、塩竈の地にやってきました。二神は去りましたが、塩土老翁神はこの地に留まり、人々に漁業や製塩業を教えたと伝えられています。

塩土老翁神は、海神とも云われるらしいですから、
次の所も、参考にしてください。

ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AF%E3%82%BF%E3%83%84%E3%83%9F
以上の事から、日本書紀を書いた人は、塩土老翁神のことは、ある程度、知っていたから、
神武東征を薦めたことにしています。
 それにしては、「塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたい」の表現は、間違っています。美しい国があるのではなくて、素晴らしい国があるから、行ってみようと書くべきでしょう。

今度は、古事記です。
「日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした」
ということは、日向の高千穂は、住みにくくなっていたことになります。
どうして、住みにくいのでしょうか。
 高天原で生活していた天皇家の人達は、住みにくくなったから、瓊瓊芸命は、高千穂に降臨した筈です。
 「東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く」と記されています。
  日向から出発したのですが、「舟軍を率いた彼らは」 、と記されているということは、
出発地点は、舟に乗って、出発したことになります。

日向は、港であったことが判ります。 
ここに記されている日向が、宮崎県の高千穂の近くでは、港が有りません。

「舟軍を率いた彼らは」とは、大きな船で無かったことになります。

では、軍隊は、何人ぐらい軍隊だったのでしょう。

私のつぶやき その2 [思うままに]

 次の記事を読んで下さい。

複数の渡来民族
 田村誠一著 『燦然と輝いていた古代・続』の始めからの記事です。
  平成元年8月15日発行

 世界中の主立った国は、紀元前の古い歴史が詳細に述べられています。しかし、我が国に限って七世紀までの歴史は、曖昧模糊としています。
この根本的な原因は、従来の学者が多数の渡来した民族が融和して、単一民族の大和民族が生まれたと、考えて来たためです。
 最近はテレビのお陰で私たちの人相は勿論のこと、風俗習慣にいたるまで、雲南方面の少数民族と、非常に良く似ていることが分りました。更に新羅だけとは共通した遺蹟等が多いことも分かりました。
 更に縄文文化が発達した所に、ATLウィルスを持った人が多くて、しかも不思議なことにこのATLウィルスをもった人は、中国大陸や朝鮮半島には皆無でした。
 世界の国の中で異なる民族が、融和して混血して単一民族が、生まれた例は見当たりません。複数の渡来民族が渡来して、民族間の闘争が続いて来たとして、古代史を考え直す必要があります。
 渡来したからには、渡来人に関する外国の文献を調査することです。例えば魏志倭人伝で、倭人の風俗習慣は海南島と同じだとあり、当時はここの平野部には苗族が、住んでいました。しかも現在も私達の風俗習慣から人相まで、似ています。
 唐書には新羅は苗族だと書かれています。朝鮮の古代史「三国史記」によると新羅の初代の王は赫居世で、倭人だと書かれています。更に、この人物は紀元前70年生まれと明記してあります。
 唐書で高句麗と百済は扶余の別種とあり、騎馬民族です。この地域は、紀元前から漢族の植民地だったことは後漢書に書いてあります。従って例えば平壌の古墳の主は、騎馬民族でなくて、漢族の将軍たちです。
 我が国に平壌付近の遺蹟と似た遺蹟なり出土品があることは、漢族が騎馬民族を軍隊にして、進駐してきた証拠で、吉野ヶ里は漢の橋頭堡です。
 魏氏倭人伝を丁寧に読めば卑弥呼は鏡を貰っていません。卑弥呼は苗族だから貰う根拠がありません。梱包が二つに分けられ鏡は、難升米が受け取っています。
 苗族の天皇がどうして漢族の王朝、唐や宋に使者を派遣する根拠があるでしょうか。藤原鎌足も宗書に書かれた倭の五王も漢族です。
 我が国の建国以来の歴史を書いた史書が、古事記と日本書紀です。古事記は712年に完成し、これから僅か8年遅れて、720年に日本書紀が完成しました。古事記には序文があり、これは苗族の建国史です。
 古事記と日本書紀とは、一字一句異なります。これはマクロの事実です。これは『記』を参考にして、『紀』を作為的に編集した証拠です。

以下、八行省略

28年前の田村氏が考えられたことです。 この文章を初めに書いてから、一気に222ページの文章を書かれたと思います。
 
 出来れば、この本を一冊読んで頂ければ良いのですが、きっと、手に入らないと思います。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(171)   吉野ヶ里(14) [日本の歴史]

 神武天皇が吉野ヶ里を攻撃したというお話は、きっと、どなたも馬鹿らしくて、読む気がしないと思います。
 きっと、読者は半分以下というよりは、ゼロに近くなります。

 私のブログは、残念ながら、殆ど読んで頂けません。毎日、50~100人ぐらいの方に読んで頂いています。
 その方が、他の記事もアクセスされますから、一日に、400~500回のアクセス総数です。
 50~100人の方が、同じ方ですと、嬉しいのですが、偶々、私のブログに到達されたですと、読んで頂いても殆ど、理解出来ないと思います。
 本当は、初めての方が読まれても、感心して戴けるよう記事を書いているつもりですが、なかなか力不足で、ご理解して頂けないようです。 古事記の勉強は、諦めることになりました。

 神武天皇が、奈良まで進軍して都を橿原市のところに定めたストーリーは、古事記に書いてあります。

古事記には、次のような経過になっています。
ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E6%9D%B1%E5%BE%81#.E5.8F.A4.E4.BA.8B.E8.A8.98  

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。
 浪速国の白肩津[1]に停泊すると、ナガスネヒコ(ナガスネヒコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。

上記と同じ、ウィキペディアに拠れば、、
日本書紀を元にした東征は次の様になります。

『日本書紀』では 神日本磐余彦天皇(カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降って179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作りたいと言って、東征に出た。

ここから私の考えを記します。
東征に出たのは、「45歳(数え)の時、」と分かっています。 それから16年掛かって、橿原に都を建設しました。
 場所は、現在の橿原神宮の所です。
その証拠と言ってよいかどうか判りませんが、その隣りに、神武天皇の御陵があります。

 さあ、本当に戦争に勝たれたのでしょうか。

キーワードを「神武天皇  東征」にして、検索してください。
 出来れば、全部、コピーして、読んで下さい。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(170)   吉野ヶ里(13) [日本の歴史]

前回の倭文地名は、難読地名ですから、ユダヤ人と関係が有りますと書きました。 少し、無理かも知れませんが、「神」という字が付く人名や地名もユダヤ人と関係あると考えますと、楽しくなります。

有名な所では、神武天皇が有ります。この天皇は、吉野ヶ里を攻撃したと考えています。そんな馬鹿なと思われるでしょう。このようなことを言われた方はおられません。
神武東征という言葉がありますが、確か、全部で、16年間掛かった戦争と考えています。
鳥取県の日向を出発してから、吉野ヶ里を攻撃します。その後、吉備を制覇、奈良までの長期の戦争です。
 こんな長期の戦争などはあり得ないでしょう。全行程も長いです。地図なども無い時代でした。
 しかし、これが、すべて、ヨダヤ人の支援があったと考えますと、可能です。
 ユダヤ人は、自分の現在いる所の緯度・経度を知っていたからです。ユダヤ人は、日本だけではありません。日本の絹をヨーロッパまで、運んでいたと考えています。

 この事は、みなさんに知って頂こうと、『神武天皇は吉野ヶ里を攻撃した』のタイトルで、2006年4月に出版しました。
 さて、本屋さんで、売って頂こうと思いましたら、このような個人が出版した本は、扱ってくれないことが判りました。ということで、1冊も売れませんでしたので、知人に貰って頂きました。
 遠くの人には、お送りしましたが、誰一人として、届いたとの返事もなく、勿論、読後感想のハガキも頂く事はありませんでした。
 
 このような世の中を惑わすような人間は、相手にされないことが判りました。

しかし、懲りないで、次回から、少し、吉野ヶ里が神武天皇にヤラレタことを書いてみます。