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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(210)ヒルゼン高原の神社 [日本の歴史]

古事記を読んでみます(208)で、ここに書いてある神社の祭神を確かめてくださいと書きましたが、確かめられましたか。

日本大好きNo119 隠岐島の渡来人は、ヒルゼン高原に移動
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-08  ここに、書いたものを少し、転記します。
福田神社-川上村
天照大御神 稲田姫 上筒之男命 宇賀之御魂 ウケモチ 大国主命 オオゲツ姫
大物主命 大山咋命 大山祇命 カグツチ 神倭磐余彦神(神式) ククノチ 
猿田彦命 志那津彦神 志那津姫  素盞鳴命 瀬織津姫 底筒之男命 玉依姫
豊玉彦命 豊玉姫 中筒之男命 品陀和気命 ミツハノメ ヤチマタヒコ 
ヤチマタ姫
長田神社---八束村
天津日子根命 天忍穂耳命 天菩卑能命活津日子根命 伊邪那岐命 伊邪那美命
市杵島姫命 息長帯姫命 熊野久須卑命 闇オガミ 事代主命 神功皇后 
高オガミ 多岐津姫命 武甕槌命 田心姫命 二二ギ命 経津主命
茅部神社--川上村
足名槌命 天児屋根命 大綿津美命 神直日神 菅原神 武内大臣 手名槌命
御年神
加茂神社--八束村
味スキ高日子根命 金山比古命 来名戸神 木花佐久夜姫 佐田比古下照姫 
速秋津比'古命 速秋津比売 別雷命
中和神社…中和村
大年神 久那止神 狭依比売 植山姫命 速玉男命 泉津事解男命 
徳山神社--川上村
手力男命 水分神
注_福田神社、長田神社の順に重複した祭神は省略

以下、興味がありましたら、
日本大好きNo119 隠岐島の渡来人は、ヒルゼン高原に移動
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-08
をご覧ください。

 次の祭神の方が見やすいかも知れません。
蒜山高原に渡来した神々
http://o-mino.la.coocan.jp/page686.html
.
銅鐸の歴史~銅鐸はイザナギ系の集団によって使われていた1
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=138044
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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(209) 隠岐 [日本の歴史]

前回、ヒルゼン高原へは、いろいろ所から、人々がやって来たことを見て頂きました。
隠岐の人達も、やって来ました。
証拠は、有りません。証拠らしきものは、ヒルゼン高原にある神社の祭神と、隠岐の神社に祭られている神さんとが、同じだと言うぐらいです。

このお話は、何度も紹介しています田村誠一氏が主張して居られます。

これは、確かめることが大変です。ヒルゼンも隠岐も、私は行ってきました。できるだけ、全部行くつもりでしたが、多くて、とても全部は行けませんでした。両方とも、一部の神社に行っただけです。
自分の目と頭で、確かめることはできませんでした。

田村誠一氏は、両方とも、きっと、行って来られたと思います。

ですから、書いて居られる記事は、どの著書でも、自信満々です。


倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史 古事放談 3-5------ これは、田村誠一氏の著書の一部です。

 隠岐が日本国の最初の地点だとすれば、先ず古事記の記述をみることである。古事記では隠岐の三つ児の島を生んだと書かれている。
 隠岐は島前(ドウゼン)、島後(ドウゴ)に分けられ、この間はフェリーでも一時間半位かかる位離れている。
 しかも島前は三つの島からなって居るので、もともと島後を隠岐と古事記は考えていたことが分る。島後を生んだとは書かれてないが、本州は大倭豊秋津島を生んだと書かれている。
 従って古事記では日本の起点は隠岐になっている。さもないと隠岐は四っの島であるから三っ児では矛盾が生じることになる。
 古事記に「子淡道之穂之狭別島」を生んだとあり、解説書はこれを淡路島としているがこれもおかしい。
 これは島根半島のことで、古代には米子から夜見浜が淡道として通じている穂すなはち先にある幅が狭い島のことであ。
 米子の「子」がここに登場する。淡道は狭別島の形容詞と考えるべきではないか。
 島根半島の島を書き忘れてよいだろうか。

田村氏の記事は、如何でしたか。 「子淡道之穂之狭別島」のように、意味は判らない様にして、太安万侶は古事記に書いたことが分かります。
そして、このような僅かな部分を元に、イザナギが、隠岐からやって来たことを導こうとしています。


※ 田村誠一氏は、古事記を元にして、 多くの著書を書かれました。

田村誠一氏の著書
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html

①②③⑦の表題の部分をクリックしますと、本をすべて、読むことが出来ます。

第十二話は 次ノアドレスに掲載しています。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/03/post-d7cd.html

 この外に、小冊子は沢山あります。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(208)  ヒルゼン高原 [日本の歴史]

ヒルゼン高原に行かれたことはおありですか。

ひるぜん高原へいこう ~岡山県・蒜山観光協会ホームページ~
http://www.hiruzen.info/

ヒルゼン高原は、 漢字で書くと蒜山高原であることが解かります。 しかし、この名前は、いつ付けられたのかは、調べていませんが、新しいと思います。

このように、観光で売り出されているのに、どうして、誰も読むことが出来ない 「蒜」を使っておられるのでしょう。

「蒜」の漢字の意味は、ネギ・ニンニク・ノビルなどの総称です。古い言葉です。ひるぜん高原には、昔から、蒜がいっぱいあったかどうかは調べていません。

紹介しました観光協会のホームページには、「ひるぜん高原」でなにをする? がありますが、
≪日本の古代史・発祥地≫を付け加えたいと思います。

と言っても、現地に行かれて、土地の方に、質問されても、全くご存じないと思います。

出来れば、予定されている日数に、もう一泊多くして、 写真の真ん中の山の五合目まで登って下さい。
 
外に、一杯楽しむ所がありますが、
歴史や神社を知りたい方は、

ヒルゼンへ行こう
http://cms.top-page.jp/p/maniwa/hiruzen/4/7/ 


ここに書いてある神社の祭神を確かめてください。
 この人達は、どこからやって来たか、判りませんが、隠岐の神社に祭られている神さんと同じだと思います。
 
ということは、隠岐に住んでいた人は、ヒルゼン高原にやって来たと考えても悪く有りません。
 神社は、沢山ありますが、全部行きませんと、このような発想は理解では来ません。

出来れば、春に、木々に雪が残っていて、雪が、バサー と落ちる頃に、電話を下さいとホテルの方に、頼まれたら良いと思います。

 古事記の初めに、次のように書いてあります。
「次に国稚く、浮かべる脂の如く水母(クラゲ)なす漂へる時に、葦牙のごとく萌えあがる時に、成りませる神の名は・・・」

 これは、勿論、太安万侶が書いたのですが、ヒルゼン高原に行った稗田阿礼が、その様子に感激して、太安万侶にお喋りしたのだと思います。

 では、これがお分かりになられた方は、その時に、もう一度、ひるぜん高原を訪れてください。
 この時は、中蒜山には、雪が残っていると思います。
ここの五合目に、御所がありました。


日本大好きNo119 隠岐島の渡来人は、ヒルゼン高原に移動 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-08

日本大好きNo120 高天原はヒルゼン高原だった
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-09


※ヒルゼン高原は、地元の方は、現在、ひるぜん高原とひらがなを使っておられますが、
私の記事では、古くから呼ばれていたであろう蒜山(蛭山)高原の時代から呼ばれていたというか、太安万侶が、頭に描いていた頃からの歴史的な意味合いで、カタカナの「ヒルゼン高原」にしました。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(207) 古事記の初めの部分 [日本の歴史]

古事記の初めの部分を二回見て頂きました。
一つは、イザナギとイザナミが、天つ神の皆さんの要望から、どんどん国を生んだことが書いてあったことです。その結果として、現在では、全国の殆どの府県にイザナギとイザナミを祀る神社がある所を見て頂きました。

もう一つは、太安万侶は、知っていることを全部書きますと、古事記を処分される恐れが有りますので、天武天皇の希望に沿う様に、隠せる部分は、最大に判らないように書きました。しかし、天皇が望まれている『諸家の賷る帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多くの虚偽を加ふ。』部分は、すべて、正しくなるように書きました。

古事記の前半の部分に書かれていた記事に、「水蛭子」があります。太安万侶はどうして知っていたのでしょう。
 現在の日本人で、「水蛭子」を知っている人は、殆どおられないと思います。 実際に見た人は、お医者さんでも、少ないと思います。

 太安万侶は、どうして、水蛭子が生まれたかを説明しています。

このようなことは、天皇の歴史を書く場合に必要ありません。
どうして、書いたのでしょう。

古事記の初めの部分をもう一度書きます。
『天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな獨神と成りまして、身を隠したまひき』
ということは、イザナギとイザナミが、隠岐にはじめてやって来たどころではありません。
 その後、ずっと、後になってから、あちこちから、多くの人が、「高天原」にやって来たと太安万侶は、書きました。

「天」という漢字は、普通は、「テン」と読むのですが、「アマ」と読むのだと、太安万侶は記しています。
 
 倉野憲司氏の翻訳本には、削られていますが、古事記の原本には、次のように書かれています。
「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、」

一番最初の「天」はテンと読みます。「天地」で、テンチです。
訓高下天、云阿麻。下效此----高より下の天は、阿麻(アマ)訓ずる。 
下效此----以下に出てくる「天」も此れに従う。
 別天神、天の沼矛、天浮橋、天の御柱、天一根 このように、沢山、書かれていますが、全部、テンとは読まないで、アマと読んで下さいと書いてあります。
しかし、翻訳者の倉野憲司氏は「アメ」とフリガナを打っておられます。

 私は全くの素人です。倉野憲司氏は、古事記のプロの中のプロですから、倉野氏が間違っていると、書くのは、私の間違いになるでしょう。

はなしは、変わりますが、「高天原」というところへ、ぞくぞくと、神が集って来たと太安万侶は書きましたが、「高天原」は何処だということが、判りませんでした。
そこで、高天原は、此処だと名乗りを上げるところが一杯出てきました。

高天原とは?
http://takama.sakura.ne.jp/takama
 
 名乗って居られる所には、行ってきました。( 地元の皆さんは、一所懸命に、宣伝に努めておられますから、どこの町だとは書きません) ヒントは、古事記に書いてあるだけですから、貴方の所は、間違っていますとは、誰にも言えません。歩いていますと、高原にやって来ました。そこには、杭があり、そこに、「ここが高天原」という表示がしてありました。 本当の高原でしたが、2000年前に、人が住んでいた証拠の遺蹟は有りませんでした。

しかし、太安万侶は、そのようなことにならない様に、高天原の天は、「阿麻」と読むのだと書きましたから、
高天原の読み方は、  ----タカアマハラ、タカアマガハラ タカマのはハラ 位でしょうか。
しかし、現在では、「タカマガハラ」と読むようです。

読み方はどれでも良いとして、何処にあると書きますと、古事記は、処分されてしまいますから、「高天原」と書きました。
高原ですよ。 天つ神の聖地ですよ。 
と命名したのでしょう。 しかし、何処にあるかわからないと困りますから、「水蛭子」のはなしを挿入しました。

 二人が出会った時に、「女先に言へるにより良からず」と書いてあります。 女性であるイザナミの方から、挨拶の言葉を発したのが良く無かった。だから水蛭子が生まれたのだと長々と書いてあります。

 私は、高天原は「ヒルゼン高原」のことだと考えました。

正しいかどうか行ってきました。いや、正しいだろうと確かめる為に、行ってきました。

 もし、古事記ができて、直ぐに、ヒルゼン高原と分かって居れば、ヒルゼン高原にあった御所の跡などは、根こそぎ壊されていたと思われます。

 太安万侶は、どうして、「阿麻」と読むのだと書いたと思われますか。 高天原という地名は、初めからあったのではありません。 高天原は、勿論、高原でしたが、漢字の間に、「天」を入れたのは、太安万侶です。

 太安万侶は、ヒルゼン高原のことを、稗田阿礼から聞いたと思います。 
 なにを聞いたかと云いますと、

①阿礼がヒルゼン高原を訪れたのは、春のまだ、少し雪が残っていた頃だったと思います。 それは、如何して判るかと云いますと、 太安万侶は、古事記に次のように書きました。
 
「国稚く浮きし脂の如くして、、海月(くらげ)」なす漂へる時、葦牙の如く萌え騰がる物によりて成れ神の名は」

この文章の意味を書いた人は、田村誠一氏より他に見た事がありません。
 
木々の枝に残っている雪が、太陽に当たって、キラキラと輝いている様子を、「脂の如くして、、海月(くらげ)」と表現されました。海月は勿論、海にいるくらげ(水母)のことです。 奈良育ちの太安万侶は、海で泳いでいるクラケなど、見たことがないでしょう。 これは、稗田阿礼が話したことをそのまま、書いたのでしょう。

② 葦牙は、太安万侶の造語でしょう。 ヒルゼン高原は、はじめは、湖だったと思います。湖岸は、葦が一杯生えていましたが、その後、水は流れ出しましたが、古事記の後の方に、「水蛭子」を葦船に乗せて流したと書いてありますから、こんな話も、阿礼から聞いたのでしょう。

 雪が、枝から落ちると、 葦を覆っていた雪も落ちて、雪の重みで、垂れていた葦が、跳ね返ります。 ぐんぐん、伸びてくる様子を表現しています。

③この様子は、ヒルゼン高原に住んでいる者にしか判らないと田村誠一氏は、著書に書いておられます。 ということは、田村氏は、ヒルゼン高原に住んでおられたのです。(正確に表現しますと、別荘?を持っておられました)

④古事記のこの部分は、翻訳に苦労されています。 みなさんはどのように書いておられるか、古事記の解説書を読んでください。特に、葦牙に苦労されています。

如何でしたか。 このように解釈しますと、古事記のこの部分は、太安万侶の最大の「名文」と思われませんか。

この文章を読んで、ここは、ヒルゼン高原だと、すぐに分かっておれば、今頃のヒルゼンにある神社は、壊されて、半分も残らなかったと思います。

 そうしますと、隠岐の人が、ヒルゼン高原にやって来た事も判らなかったことになります。





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私のつぶやき  その12 [思うままに]

暫く、「私のつぶやき」は書きませんでしたが、コンピューターの状態はよくありません。
症状はいろいろです。
その一つを書きますと、毎日、記事を投稿しています。

コンピューターでは、作業は完了したことになっていて、間違いがありましたら、訂正出来ることになっていますが、「ブログを見る」をクリックしても、前日の記事しか、表示されません。
 しかし、読んで頂いているみなさんのコンピューターでは、表示されているらしく。読まれた皆さんの人数は、どんどん増えて行きます。

 私のコンピューターを一度終了させれば、表示されるかと思って、その様にしたり、いろいろ試しましたが、自分のブログは読むことができません。
 
 次の日には、必ず表示されます。

外にも、おかし箇所は、一杯有りますので、いつ使えなくなっても、良い様に、先日、完成している記事を、一日に2回、掲載しました。

 こうすれば、改善されるかと思ったのですが、同じでした。

もう一つ書きますと、コンピューターを立ちあげるのに、時間が掛かります。それに関わらず、作業を進めますと、「ポイントが足りませんから増やしてください」と表示されます。

そこで、どんどん、きっと、読まれないであろうと思われる記事を消去していますが、追いつきません。
 仕方がないので、立ち上がるまで、待っています。

「私のつぶやき」は、今回で12回目ですが、コンピューターの動きを軽くする為に、殆ど、消去しました。


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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(206) 古事記の序文 [日本の歴史]

タイトルには、「古事記の序文」と書きましたが、古事記では、「古事記上卷 幷序」と書いてあります。

原文
於是天皇詔之「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭、既違正實、多加虛僞。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削僞定實、欲流後葉。」

翻訳文---倉野憲司校注「古 事 記」より
 ここに天皇詔りたまひしく、「朕聞きたまへらく、『諸家の賷る帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多くの虚偽を加ふ。』といへり。今の時に當たりて、其の失を改めずは、未だ幾年
も経ずしてその旨滅びなむとす。これすなはち、邦家の經緯、王化の鴻基なり。故これ、
帝紀を撰錄し、舊辭を討覈して、僞りを削り實(まこと)を定めて、欲後葉(のちのよ)に流(つた)へむと欲(おも)ふ。」

間違いは、正しておかないと、「未だ幾年も経ずしてその旨滅びなむとす」=自分達、天皇家は滅びてしまうだろ

こんな凄いことが書いてあるのに、誰もここを読まないで、古事記の本文の小さな部分ばかり見ている様に思います。

太安万侶は、古事記を書くにあたって、古事記のこの部分が、ケシカランと言われない様に、最深の注意を払って、天皇家の歴史を書いたと推理しています。

しつこい様ですが、一番大切な部分を記します。

「朕聞きたまへらく、『諸家の賷る帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多くの虚偽を加ふ。』

天皇は、つぎのように
聞きました
『諸家の賷る帝紀及び本辞、既に正実に違ひ、多くの虚偽を加ふ』と書いてあります。

帝紀及び本辞はどのようなものか判りませんが、天皇家で代々、伝えられているものでしょう。その様なものを、どうして、諸家も帝紀及び本辞を持っているのでしょう。

それだけではなくて、
其の内容が、正しく無いどころか、多くの虚偽が書きくわえられている。

ということを朕は人づてに聞きましたと書いてあります。

 「朕聞きたまへらく」とは、天皇が、幽閉されている状態であると、田村誠一氏は、著書に書いて居られます。

このようなことを書いていいのかと思われますが、田村氏は、著書に於いて、天武天皇がどのような人であるかを詳しく書いて居られます。

私が調べた所では、兄の天智天皇と弟の天武天皇は、発病されてから、4ヶ月で亡くなられています。

 この時代は、白村江の戦いや、壬申の乱などがあり、大変な時代だったと思われますが、そのようなことも、織り込んで、正しい天皇家の歴史を書こうとされたと推察します。太安万侶にとっては、苦心の多かった古事記だったと思っています。

、「古事記上卷 幷序」は、天皇に対して、太安万侶が、上奏文の形として書いたものだと思います。

その上奏文は、偽物だと言う人が、明治以降になって現れました。
何故、偽物かと云いますと、人によって、違いますが、有る人は、文章の書き方が、本文と全く違うから、後の世になって、書き加えられたのは間違いない。 有る人は、最後に書いてあるサインの肩書は、このようには書かれなかった。 この指摘は、相当、重要視されたらしく、 古事記は、太安万侶が書いたものでないと断定する人が増えて、古事記は、偽書の説は、強くなったようです。
 しかし、その後、奈良で、太安万侶のお墓が見つかりました。

 その中に書いてあった墓誌の最後に、太安万侶の肩書が書いてあり、、「古事記上卷 幷序」に書いてあったものと同じでしたから、偽書説は、無くなったようです。






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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(205)古事記に登場 [日本の歴史]

太安万侶は、古事記の始めは、天地初めて発けし時、高天の原に成れる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣。次に神産巣日神。この三柱の神は、みな獨神と成りまして、身を隠したまひき。
と記しました。
次の二柱の神も獨神で身を隠したまひき。 この併せて、五柱の神は、「別天つ神」ですよと断りました。

次は国之常立神から伊邪那美神までを神世七代と言います。
(上の二柱の独神は各一代という。次に雙へる十神は、各二神を合わせて一代という)

此処までの部分は、大切な部分なのに、正確に翻訳された方はおられません。

「別天つ神」「独神」はどのようなことでしょうか。
 太安万侶は、一気に、大切な神の名前を分類して、記しました。妹の字が付いているのは、女性でしょう。
 天つ神の神が皆集まって、伊弉諾命と伊邪那美命に命令しました。
とは、書かないで、「この漂へる国を修め理り固め成せ」と言依さしたまひき。(委任)と有ります。

 ここまでの部分は、意味が不明な部分が、一杯です。

しかし、イザナギとイザナミの二人に、日本の国の建設をお願いしたことになっています。

始めに、伊弉那岐神と書いてあるのに、どうして、直ぐに、伊弉那岐命と書いてあるのでしょう。「天の浮橋」に立って、沼矛を指し降ろしと書いてありますが、翻訳物の倉野憲司氏も、この部分の翻訳は、困っておられます。

①「天つ神の神が皆集まって、伊弉諾命と伊邪那美命に命令しました」の部分の事から、この頃の日本は、合議制の国であったことが判ります。
②伊弉諾命と伊邪那美命は、先ず、持参してきた沼矛をもって、天の浮橋にたって、オノコロ島をつくりました。
③結婚した二人には、水蛭子が生まれたことを記しました。
④次は、淡島を生みました。次々と島を生みました。
⑤次に隠岐の三子島を生みきとあります。

 太安万侶は、次々と生んだ島の名前を列挙しています。

このように眺めてきますと、日本を建設したのは、イザナギとイザナミということが判ります。
 太安万侶は、どうしてこのようなことを知っていたのでしょう。太安万侶は、奈良に居ただけで、自分で、調べることはしなかったのではないかと思っています。
古事記の制作を命じたのは、天武天皇ということになっていますが、その時に、稗田阿礼という人が協力するようにと序文に書いてあります。
 稗田阿礼という人は、一度耳にしたことや目にしたものは、忘れないという青年で有ったことを記しています。
 すべて、書いておきますと、悪用されますから、すべて、覚えて、太安万侶に報告。それらの資料を元にして、太安万侶が古事記を作ったことになっています。

 太安万侶は、天武天皇に依頼されたことを自分なりに、解釈して、序文に書かれたことを念頭に置いて、古事記を制作しました。
 
天武天皇はどのように言われたか 覚えておられますか。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(204)遮光器土偶(4) [日本の歴史]

 前回の続きです。
田村氏は、
「竪穴住居の内部は非常に狭いので周囲に砂を盛るか板を置いて片足を挙げて胡坐をかく姿勢にしないと家族は入りきりません」と書いて居られます。

 これは、津軽の亀ヶ岡遺蹟か、八戸市の是川の歴史資料館か、南郷村の個人の資料館
を訪問された時に、作られていた縄文人の家を見て書かれた事です。

土偶だけを見るのではなくて、このように、資料館などを見ることも大切であることを教えてくれます。

この三軒の資料館の方が、これまでに、考えられた古代の住居を復元されていたのだと思います。この辺りは、2000年前も寒かったのだと思います。
 しかし、一年中寒いはずはないでしょう。ですから、家の中が、煙いっぱいになるのは、冬だけでしょう。

 遮光器土偶は、きっと、女性だと思いました。首に巻かれているのは、ビーズのネックレスでしょう。
 厚めの服の所為でしょうか。 やや肥満に見えるのは、2000年前の美人のタイプだったのでしょう。それにしても、思い体重を支えるには、脚が細すぎるように思いました。服は、一見、革製のようにも見え、温かそうに見えます。

 家の中で、女性の姿を見ながら、作ったのであれば、一杯有った写真でも、いろいろの土偶があっても良いですが、同じような体型であったということは、自分達の理想と思える土偶を作って、祭りやお祈りなどの時に飾ったのでしょう。
 後に、中国から伝えられた仏像が、取って変ったと見るのが、自然だと思います。

中山王国の地図は見て頂けましたか。
北京の西南に位置しているのと、その広さを見て頂くだけです。
しかし、注意して、他の地名も見て頂きますと、中国の国名は、一字ですが、中山王国は、「中山」の二文字です。

だから、中山王国は、日本人が、東北地方から、行って作った国と言えませんが、1981年3月に、「中国戦国時代の雄、中山王国文仏展」が行われました。
 ここで展示されたものから、田村氏は、展示されていたものは、日本人しか作れないものだとの説を展開されました。
 賛同する人は、誰も居られませんでしたが、私は、写真は素晴らしいものだと思いました。この写真の黒色の陶器は、日本では見ることが出来ないと思っています。
170ページに及ぶ、立派な冊子は、写真と其写真の解説でいっぱいです。
展覧会には、私も行きましたが、忘れています。
写真は何度でも、ゆっくり見ることが出来ます。

14点の編鐘があります。順番に叩いて、音階を出していたことが直ぐに、判ります。
猿の燭台も素晴らしいです。
 二匹の金の首輪をしたシェパードの骨もありました。 犬を大切にしていたことが判ります。殺してでも、犬にお供をさせたことが判ります。

 解説書は、アマゾンで、価格一円で販売されています。ついでのことですから、二冊購入されても値打ちが有ると思います。
 どうして、このような黒光のする陶器を、作ることが出来たのかの謎を追求するだけでも、値打ちが有ると思います。

 
イザナギ、イザナミ命隠岐に渡来   44  -76- http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2015-11-19  

イザナギとイザナミ命は、どうして隠岐に渡ってきたと思われますか。 古事記にも日本書紀にも書かれていません。 中国の中山王国から、全員が、日本に逃げてきたとしますと、古事記や日本書紀の助けでは間に合いません。 他に、証拠を見つけなくてはなりません。 こう考えても、証拠らしいもは、見つかりません。

こんなバカなことはあり得ないということになります。
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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(203)遮光器土偶(3) [日本の歴史]

 今日は、遮光器土偶は、先日見た、脚が片足無くなった土偶をみた感想を書こうと思っていました。
 しかし、少し時間が経過すると、足の下から、写した写真を見つけました。ということは、足は壊れていなくて、片足がない土偶だったことになります。


「遮光土器 謎」をキーワードにして、検索しましたら、一杯ヒットとしました。

遮光器土偶の謎
http://www.globe.sh/guzzi/joumon01/joumon-3.htm

オーパーツの基礎知識/遮光器土偶 | ムー PLUS
http://gakkenmu.jp/archive/4564/

③その正体は宇宙人か……遮光器土偶の謎 | PANGEA~知らなかった地球 ...
pangea-earth.net/?p=513

④縄文時代に製作されていた土製の人
pangea-earth.net/?p=513

タイトルだけでも、ご覧ください。

私は現在のところ、①遮光器土偶の謎 を全部読みました。②は少し読みました。知りたかったことは、
36.7センチという大きさを知りたかったのです。

写真で見た感じでは、相当大きな土偶だと思っていました。
 

『神々の発見』斎藤守弘著に詳しく取上げておられましたので、少し、調べてみようと思っていました。

幾つかのブログをチラっと見た所では、斎藤守弘氏の書いて居られる

実に驚嘆すべき縄文の宇宙観、生命観、人間観の統一表現であり、上衣の精緻な沈線のデザインのひとつひとつが、彼らの切実な祈念をそこに刻み込んだ神聖な、〝呪文〟でもある」は有りませんでした。

この土器は、ウイキーペディアに拠れば、
この遺跡は、津軽藩の2代目藩主である津軽信枚が1622年にこの地に亀ヶ岡城を築こうとした際に、土偶や土器が出土したことにより発見された。

とされています。

確か、1.5メートルの深さのところから発掘されたと記憶します。これぐらい深い所であれば、江戸時代までですと、圧力が加わって、壊れるだろうと簡単に考えました。 しかし、写真が多くなりますと、壊れている土偶は、あまり無かった様に思います。

確か、田村誠一氏も、著書に書いて居られたのではないかと、数冊を読み返しましたら、
「縄文人が建国した中山王国」というタイトルの最初のページに、片足の土偶の写真と土偶の解説を書いて居られるのを見つけました。

忘れていました。
 田村氏の日本の歴史は、東北が重要な所であったことが、メインになっています。

 田村氏の見かたを少し、書いてみます。 少し長いですが、辛抱してください。


煙に苦しんだ縄文人

 津軽の亀ヶ岡遺蹟と八戸市の是川の歴史資料館と南郷村の個人の資料館を訪れて縄文人が消えた利用が分かりました。竪穴住居の内部は非常に狭いので周囲に砂を盛るか板を置いて片足を挙げて胡坐をかく姿勢にしないと家族は入りきりません。  暖を取るために大きな枝は燃やせなくて燃やすものは湿った葦です。これだと煙って目が開けられません。このために今まで言われて来た遮光マスクの革の着物ではなくて、目を塞げるマスクが必要でした。  冬中手持ち無沙汰ですので粘土をひねくり回して出来上がったのが縄文土器です。南郷村におびただしい玩具の様な小さな粘土細工があり、冬の退屈な日々を過ごす為に作ったことが分かります。大人は複雑な火炎土器を作ったのも暇つぶしで日用品ではありません。  この様な冬の生活に耐え兼ねて紀元前七世紀に縄文縄文人は全員津軽平野に繁っていた葦で船を造って中国に渡り北京の南に四国位の広さの中山王国を建国しました。中山王国建国が紀元前五三〇年で、これは縄文人が消えた時期と一致します。  縄文人は高い文化を既にもっていたので戦争が無ければ文化はどんどん進歩します。文化が進み過ぎると周囲の国が征伐するのが常識です。

中山王国の地図
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9B%B3&tbm=isch&imgil=jFuoqOdPT-uNVM%253A%253BlR5RAhnFffmhIM%253Bhttps%25253A%25252F%25252Fblogs.yahoo.co.jp%25252Fsanokuangxian%25252F36379711.html&source=iu&pf=m&fir=jFuoqOdPT-uNVM%253A%252ClR5RAhnFffmhIM%252C_&usg=__U-jOqJsF8vAIqJ27rTNzcZUJxvc%3D&biw=1536&bih=742&ved=0ahUKEwiZjbXux-7VAhVLPrwKHU9DBZwQyjcIMw&ei=sRaeWdnwO8v88AXPhpXgCQ#imgrc=jFuoqOdPT-uNVM:&spf=1503532063430

< 中山王国 > 見つかりましたか。  --- 時間がありましたら、中国も見てください。他の地図をクリックしますと、その地図が表示されます。  国の名前がどんどん変わっています。 地図が間違っているのでしょうか。 中国は、日本より、国の盛衰が激しいということでしょうか。 北京は見つかりませんね。

如何でしたか。 こんな歴史は初めて見られたと思います。 東北に済んでいた日本人が北京の近くまで逃げて来て、住んでいた。 それも、イザナギとイザナミが率いる人だったというお話です。

「縄文人は高い文化を既にもっていた」の部分の証拠は書いてありません。しかし、他の部分否定はできないと思います。

「縄文人が消えた時期」も、正確には、何時かは分かっていませんが、これは事実らしいので、田村氏の記事は、誰にも否定できないと思います。
 
どうして、中山王国のことを書かれたかといいますと、別の所で、根拠を書いておられます。

「縄文人は高い文化を既にもっていた」の部分は、斎藤守弘氏が、『神々の発見』一冊を使って、解説して居られます。

話題は突然、古事記のお話になります。
太安万侶は、古事記の初めの所に、島を一杯生んだと記しています。

伊邪那岐神と伊邪那美神が島を生んだということは、次々と日本を征服したことだろうと推察します。

その証拠の一つとして、全国に伊邪那岐神と伊邪那美神を祀る神社が出来ました。

何時の時代のことか判りませんが、現在、全国にある伊邪那岐神と伊邪那美神を祀る神社を紹介します。

イザナギ・イサナミを祭った神社
http://o-mino.la.coocan.jp/page154.html
 殆どの府県に神社があることを確認してください。


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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(202)遮光器土偶(2) [日本の歴史]

 土偶の写真はご覧になられましたか。歴史の好きな方でしたら、一度は見られたと思いますが、あれほど沢山の写真は始めて見ました。

もう一度掲載します。
 遮光器土偶---写真
https://www.google.co.jp/search?q=%E9%81%AE%E5%85%89%E5%99%A8%E5%9C%9F%E5%81%B6&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwjT9pXooefVAhVFXLwKHdsqC_oQsAQINQ&biw=1536&bih=766

遮光器土偶の意味は判りましたか。 私も、この写真を知るまで、遮光器を付けた土器。遮光器とは、東北で、雪の多い地域では昼間あるくときには、眩しいので、メガネを掛けるそうですが、そのメガネを掛けた土偶だから、遮光器土偶と名付けられたことは知っていました。
 それ以上の事は、知りませんでした。それが、先日、紹介しました『神々の発見』斎藤守弘著に詳しく取上げておられましたので、少し、しらべてみようと思っていました。

しかし、
実に驚嘆すべき縄文の宇宙観、生命観、人間観の統一表現であり、上衣の精緻な沈線のデザインのひとつひとつが、彼らの切実な祈念をそこに刻み込んだ神聖な、〝呪文〟でもある。
と書かれた部分には、賛同できませんでした。

この部分は、斎藤守弘氏の受け止められた遮光器土偶からのメッセージのような書き方です。
 しかし、普通に考えますと、遮光器土偶を作った人は、およそ、2000年程前の人が作った土偶でする。2000年後の人が、見つけてくれて、その人達に、自分達のメッセージを伝えようと思った可能性はゼロです。

 斎藤守弘氏は、なにも遮光器土偶を見たから、昔の人からのメッセージだとは書いて居られません。
外に、ストーンサークルの不思議(あまりにも大きすぎて、地上にいたのでは判らない)のこと等も書いて居られて、メッセージと受け取るべきだろう位のお気持ちは持たれたのでしょう。
 作った人も、誰かを驚かせてやろう位の気持ちは有ったかもしれません。

私も斎藤守弘氏の真似をして、遮光器土偶を眺めて、なにを思ったかを書いてみます。

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