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私のつぶやき  その10 [思うままに]

その9において、私の病気についてお知らせしました。気が進まないのですが、先生の薦めで、放射線治療を受けることになりました。治療は、39回受けるのですが、ただ、39回受けるだけでは治療にならないのです。
 いくつかの条件が、身体に揃っていないと放射腺の効果がありませんので、その身体を作るために、3日間練習しました。 これから、毎日、薬を飲んで、その体調になるように練習をして、9月11日から、39回の治療に進みます。
 
 3日間の中には、MRIの検査もあり、この3日間だけで、疲れてしまいました。
坐っているのが、しんどいので、食事の後は、朝寝、2時間、昼寝2時間、夜は8時就寝で、寝てばかりになりました。
 心配していましたこのブログは、どうにか、動いてくれますが、立ち上がるのに、長時間を要したり、立ち上がらない時は、強制的に、電源を切っています。

 私の吉野ヶ里の話は、なかなか、元に戻れず、秩父の話で、もたもたしています。又、神武東征で、難儀をしていた吉備の話も、その後、天皇の勢力地になりませんと、16年も戦をした意味がありません。
 その後、出雲や丹波のように、吉備が、吉野ヶ里の協力者になったことを書こうと思っているのですが、秩父でストップしています。

私のブログで、何度も紹介しました田村誠一氏の著書から、第6話 「正史だった古事記」を紹介しようと考えています。

 帯広発~大阪行 
http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/
 カテゴリー---田村誠一著 をクリックしてください。

吉野ヶ里の記事に、割り込んで、ややこしいですが、面白く無いようでしたら、飛ばして、吉野ヶ里の方だけ読んで下さい。



田村誠一氏の著書
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html


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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(187)   吉野ヶ里(30)  [日本の歴史]

前回の記事は、「華中ルート」も存在するのだという大新聞社の読売新聞社が、報道されましたので、気に入らなくて書きました。
 しかし、自分で読み直してみても良く解らない文書ですね。

絹は中国から日本に伝えられたものであるという流れは、定着しているようです。それらに加えて、「最古絹片には華中ルートもある」という記事が、読売新聞の記事です。

吉野ヶ里遺跡は、日本中の絹の集積地であり、漢人が取りしきていたのではと推理しています。ただ、それだけのことですから、この遺跡から、見つかった絹が、日本製の絹であるという資料は見つけていませんが、立岩遺蹟から見つかった絹を調べた結果が、布目順郎著 「養蚕の紀起源と古代絹」に掲載されていましたので、ここに書かれた資料から判断すると、立岩遺蹟の絹は、中国製ではなくて、日本製だと判断しました。

 両国で見つけられた絹が何時作られたかは判りませんが、日本製であったということは、凡ての絹が中国からもたらされたという考えは、改めなければいけないのではと思い始めています。

 今後、発掘される絹は、必ず、布目順郎氏の手法で、①完全度と②繊維断面積を調べますと、日本製の絹を見つけることが出来るのではと考えました。

このように考えますと、世界で発掘される絹は、中国が発祥地という推理は、変えなくてはいけないのではと思いました。
では、中国の外に、どの国で作られたと考える必要があります。桑の木が生えていた国では、養蚕が行われていた可能性が出てきます。
 調べて見ましたが、紀元前に、桑の木があった国が見つかりません。

インドやインドネシアなども、桑の木があった様です。
だから、絹がつくられていたとの証拠にはなりませんが、ユダヤ人が関係していたと考えますと、紀元前の事になりますから、インドやインドネシアも調べて見る必要があります。
 中国は、絹織物の輸出は行いましたが、生糸の生産方法や技術は、制限していたようですので、この点も調べたく思っています。
 

参考資料
世界の養蚕業の変遷
http://www.silk.or.jp/silk_gijyutu/pdf/1-4setsu.pdf

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