So-net無料ブログ作成
検索選択

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(188)   吉野ヶ里(31)  [日本の歴史]

 タイトルは吉野ヶ里なのに、記事は色々の話題が混ざっていて、途中から読まれた方は、意味が良くお分かりになられないのではと、思っています。

 少し、私の考えていることを書いてみます。
九州佐賀県の海に近い所に、「吉野ヶ里遺跡」が有ります。
 遺蹟があることは、早くから(1986年)分かっていたそうですが、1989年(平成元年)2月23日の朝日新聞一面が突如、

”邪馬台国時代の「クニ」”

”佐賀県吉野ヶ里 最大級の環濠集落発掘”

”物見やぐら・土塁 倭人伝と対応”

こんな見出しで飾られました。
 この頃は、ここが邪馬台国という候補地は一杯あったころでした。 しかし、歴史好きの人は、大騒ぎで、連日、吉野ヶ里に詰めかけました。 私もその一人でした。

吉野ヶ里は、邪馬台国では無かったようですが、どのような遺蹟なのかは、説は一杯あります。

私が思っている吉野ヶ里は、『日本中で、作られる絹の集積地』ではないかです。集めた絹は、ここから中国に運ばれました。

 この説は、田村誠一氏が、提唱されたものですが、賛同する人は、どうやら、私だけのようで、正しいことを説明しようと頑張っています。

 説明のメインは、
 ①各地の生産地から、吉野ヶ里までの道を提示すること。
 ②吉野ヶ里までの距離が長いですから、協力者がいなければ、達成出来ない。
   という考えから、これまでに、出雲大社と籠神社を提示してきました。
 ③現在は、吉備国の人が、協力者であったと目星をつけて、記事を書き始めました。
  神武東征のおり、天皇が、一番手コズッタ 相手では無かったかと考えました。
これは、正しかったようです。吉備は大きな古墳が一杯です。造山古墳は、日本中で、
  第4位の大きさです。 前方後円墳後円墳も一杯です。

  古墳が多いということは、多くの人が、死んだのですから、天皇家が勝ったとも考えられますが、その後、  岡山県は、天皇家が支配していたという証拠が見つかりません。
 
 吉野ヶ里は、中国の人が、支配していたのではないかと考えています。その証拠は、一杯ですが、飛ばして、神武天皇は、紀元前、40年頃に、吉野ヶ里を攻撃して、その後、広島、岡山を征伐、そして、奈良の橿原に宮城を定めましたという歴史の流れを考えています。

 岡山では、和解して、奈良に向かったとしますと、その前に、大阪では、ナガスネヒコとの戦いで、苦戦、そして和歌山を経由して、奈良に到達です。
 
 いや、和解では、前は、ナガスネヒコ。後ろは、吉備に挟まれて負けますから、吉備は一応征伐したはずだと考えたり、大筋が定まりません。 と云う次第で、目下、思考停止の状態です。

長髄彦(ながすねひこ)  
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%AB%84%E5%BD%A6
 ウィキペディアでは
長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。
と記し、作り話になっています。

このような解釈としますと、日本の歴史は無茶苦茶ですね

作り話としますと、その後、和歌山に回った話も、作り話になります。

古事記や日本書紀は、都合のいいところだけ、本当の事で、都合の悪い所は、作り話という考えは、悪くはありませんが、その点が、太安万侶が苦心した古事記の文章でしょう。

 正直に凡て、本当のことを書いて居れば、古事記は、とうの昔に、燃やされて、新しい古事記が書かれていたのではと思います。

さあ、私の考えが、認められることはあるのでしょうか。

こうなりますと、私の吉野ヶ里は、最終の絹の集積地というお話は、あやしくなってきます。


参考資料
日本最大級の環壕集落跡「吉野ヶ里遺跡」で邪馬台国ロマンを体感
http://www.tabirai.net/sightseeing/tatsujin/0000033.aspx

吉野ヶ里遺跡の紹介
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=19
nice!(0)  コメント(0)