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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(191)   吉野ヶ里(34)  [日本の歴史]

 前2回に分けて、延喜式内社はどのような神社かを書いて来ました。
 書いたものの、読んで納得された方は少ないのではないでしょうか。

式内社とはどのような神社であるかを箇条書きしますと、
①平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典に書かれている延喜式神名帳に記載されている神社。
②政府より、幣帛を受けていた神社
③社格が高かった
④法律書では、律・令・格の施行細則を記していますが。その中の細部の「式」に分類される所に、延喜式内社の名前が書かれています。

何故、3032座の神社が特別なのかは判りません。

延喜式の編纂は、延喜五年(905)八月、時の政府首班であった左大臣藤原時平に対して、編纂の詔命が下り、次の人々が編纂委員に任命されました。
 藤原定国・藤原有穂・平惟範・紀長谷雄・藤原菅根・三善清行・大蔵善行・藤原道明・
大中臣安則が、任命されました。

大化改新(645年)以後は、延喜式の編纂に関わらず、あらゆる点に於いて、藤原氏によって、時代は造られたのではないかと考えています。

それと不思議なのは、法律書であったところの、律・令・格の施行細則を記した所の片隅に、延喜式神名帳がどうして、書き残されたのか理由が判りません。

いくら考えても、判りませんが、多くの式内社を訪問するだけで、その時の朝廷から大切にされていたことが判りました。

「式内社と祭神」の表に書かれている数字が少ない所が、天皇家の勢力が強かった所というのは、田村誠一氏以外、謂われた方はないように思います。

 田村氏は、式内社が、少ない所に目を付けられたのではなくて、多い所に目を付けられました。
全国に一杯あった神社の内、3032社を選んだのは、藤原氏だったということです。

なにを基準に選んだかは、どの歴史書にも書いてありません。

延喜式内社は、幣帛を受けていた神社と書いてあるものが残っているだけです。

幣帛とはなにかは、上に書きましたが、私でしたら、貰っても、あまり嬉しいものは有りません。

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