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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(115) 大河原と吉原(3) [日本の歴史]

この大河原と吉原という地名は、はじめからあった所に、神社を造って、住まわれたから、大河原神社の名前が付いたのではありません。同じく、吉原という地名があったから吉原神社と名付けられたのではありません。

 この神社へは、稗田阿礼は、実際に行って、太安万侶に報告したのだと思います。
稗田阿礼が行った時は、既に、住民は住んで居られたのですが、この辺りは、あまり木は生えていなかったのではないか。「原」は字の通り、一面、草原だったのだと考えています。
 この地名は、太安万侶が頭の中で考えたのではないかと思います。
何故かと言いますと、現在の地図からは、大河があったように思えないからです。あったのは、「川原」でした。流れていたのは、白水川でしたが、大王であるイザナギの「大王」を表す、「大」を付けましたから、「大川原」ではなくて、「大河原」と古事記に書き残したのではないでしょうか。一方の「吉原」の吉という字は、太安万侶が使ったのではないかと考えています。
 
「大河原」に対して、「吉原」ではないでしょうか。 
「吉」の意味は、
①「よい」

 ア:「優れている」、「立派」(例:吉士)

 イ:「道徳的に(人々が善悪をわきまえて正しい行為をなす為に、
    守らなければならない規範(手本)に従っていて)正しい」
   (同意語:善)(例:吉士)

 ウ:「めでたい」、「喜ばしい」(例:大吉)(反意語:凶)

 エ:「運が優れている」

②「さいわい(幸福、幸せ)」

③「ついたち」(例:吉日)

④「めでたい儀式」(例:吉礼)


人名用漢字の新字旧字:「吉」と「吉」
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/wp/2011/05/19/yoshi/ 話題は、古事記から離れてしまいましたが、この大河原と吉原という地名は、現在も存在し、そこには、大河原神社と吉原神社があります。

両神に実際に訪れて、この神社の歴史は、どの様に伝えられているか調べる必要があります。
 何故、古事記に残っている神の名前が、祭神として残されているのか。


以下、お知らせします。 明日から、2泊3日で、隠岐へ行ってこようと思っています。 従いまして、毎日、書いていますブログは、休ませて頂きます。 隠岐には、現在、150ほどの神社があるらしいですが、以前は、もっと、多くて、180ほどあったらしいです。 どうして、こんなに多いのかは分かりませんが、 現在、祀られている神さんは、隠岐に移住されてこられた皆さんが、大切にしてこられた神さんです。あまりにも多いのは、隠岐が、日本民族が、いろいろの意味で、作られた所ではないかと考えているから確かめたくなり、行ってこようと思っています。 2日では、なにも調査することはできませんので、住んで居られる皆さんと風土と景色を肌で感じてこようと考えています。 この多くの神社で祀られている神さんは、すべて、古事記に書いてある神社ばかりと田村氏は著書に書いておられますので、これは、私が調べなくても、確かだと考えています。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(114) 大河原と吉原(2) [日本の歴史]

このブログを読んで頂いて居られる方は、必ず、古事記は一部にせよ、読まれたと思います。
 「上津綿津見神と上筒男神が生まれました。底に潜ってミソギをしていたら、底津綿津見神と底筒男神が生まれたと書いてあります」の部分を読まれたら、あれ! と思われたのではないでしょうか。
 古事記の始めのところに、登場する神の名前です。

田村氏は「それにしても、太安万侶は見事です」と書かれました。 私もこのように思いましたが、この後に、上津綿津見神と上筒男神が生まれました。底に潜ってミソギをしていたら、底津綿津見神と底筒男神が実際におられたという話が展開します。  

底津綿津見神は、海の神さんです。底筒男神は、陸の神さんです。

私は、やっと、最近になって、この地に、底津綿津見神を祭る皆さんが、現在でも、住んで居られることは事実だなと考え始めました。

あれ! と思われた方は、古事記を読んだ時に、そんな神の名が、書いてあったのを覚えておられた事になります。

このページでは、「ナイス」をクリックされる方は、10人位おられると嬉しいですが、きっと、無理でしょう。偉そうに言いますが、私がやっと、最近になって、田村誠一氏の著書が理解できるように思えるようになったからです。

稗田阿礼は、この二つの神社も訪れたのだと考えています。そして、二つの村のことを太安万侶に報告したと思われます。

久古神社がある岸本町の辺りは、天皇家の人が住んでいました。ここ、大河原と吉原のあたりにも、天皇家の人達が住んでいました。
 溝口町の東にあります「鬼住山」周辺には、中国人が住んでいました。

太安万侶は、このようなことを書き残そうと、古事記を書いたと思われますが、鬼住山に中国人が住むのは、無理矢理、理解しようと思えば、出来ますが、イザナギが、黄泉の国へ言って来た話は、とても理解できません。

と言う次第で、現在は、古事記は、いい加減な本で、神話ばかりが書いてある書物と言うことになっています。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(113) 大河原と吉原 [日本の歴史]

前回は、阿波岐原を見て頂きました。原の前の「アハキ」という地名と見ました。そう仮定しますと、田村氏は阿波岐原も、禊をした様に書かれていましたから、「大瀧」も禊をしたことになり、矛盾を生じます。
 橘の小門をくぐって、阿波岐原を眺めますと、「大瀧」が見えるのかも知れません。すると、大瀧は地名ではなくて、滝壺のある所、大はイザナギをあらわすのかも知れません。

この部分は、田村氏は、ご自分の著書に次のように書いて居られます。

では、どうして太安万侶は、このようなミソギのストーリーを作り出したのでしょう。稗田阿礼は資料を集めるために、あちこち歩きましたが、日本海からヒルゼン高原に至るには、日野川を遡り、溝口町のところで、白水川に入ります。地図で確かめてください。大滝、吉原、中大河原、大河原という地名が並びます。この地名を結ぶ線は、ヒルゼン高原へ行くメインの街道であったと思います。吉原には、現在、吉原神社があります。祭神は、底筒男神、中筒男神、上筒男神です。大河原に大河原神社があります。この神社の祭神は、綿津見神三柱(底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神)です。  稗田阿礼が紀元700年ころに、この辺りを歩いた時には、すでに、これらの神社があったのだと思います。そして、これらの子孫の方が、この辺りに住んでおられ、言い伝えを聞かれたと思われます。  このあたりは、行ったことはありませんが、大山の麓から樹木がしげるところを抜けて行きますと、言葉を変えますと、樹木が尽きる(竺紫ツキシです。筑紫ではありません)。この頃は、ブナ林が続いていたと思います。稗田阿礼は、大きなブナの林が尽きたと思ったでしょう。 稗田阿礼は、目の前に河原が出現したときに、勿論、こんな山の中に、地名はありませんから、この様子を太安万侶に語ったでしょう。 太安万侶は、この地のことを「竺紫の日向の橘の小門の淡き原」と表現しました。この辺りは、最も日当たりの良いところですから、最近まで日光村と呼ばれていました。大きな橘の木があったのでしょう、その木が門のようになっていたことを稗田阿礼は、お喋りしたと思います。淡き原は、草がわずかしか生えていない河原です。  太安万侶がどうして、ここでイザナギが、ミソギをするという発想が生まれたかは判りません。禊は、もともと、日本人がもっていたものかどうか分かりません。ユダヤ人には塩で清めるという歴史があるようには読んだことがあります。  それにしても、太安万侶は見事です。川の浅いところで、ミソギをしていたら、上津綿津見神と上筒男神が生まれました。底に潜ってミソギをしていたら、底津綿津見神と底筒男神が生まれたと書いてあります。  底津綿津見神と底筒男神とは、役割がどのように違うのか判りませんが、海を司る人たちであったと思われます。海の仕事をする人が、どうして、山の中で生活していたのでしょうか? 皆さんで考えて頂ければと思います。

この同じ所を田村氏も歩かれたのだと前回書きました。しかし、ここへは行かなかったと書いて居られます。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(112)  竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原(2) [日本の歴史]

 前回、古事記に「竺紫」と書いてあったのを日本書紀を作った人は、「筑紫」と書き換えました。これだけでは、どうして、書き換えたかは判りませんので、もう一度、眺めてみます。

①古事記では「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」
②日本書紀では「筑紫日向小戸橘之檍原」と表記はほぼ同じ。

 「小門」は、「小戸」に書き換えられています。
「門」が「戸」に書き換えただけです。
 翻訳者は、
「小門」----「をど」
「小戸」---- 「川の落ち口」

「橘」
1. コウジ・コミカンなど食用柑橘(かんきつ)類の古名。
「右近(うこん)の―」
2. みかん科の常緑高木。葉・花に芳香がある。ニホンタチバナ。

「阿波岐原」---あはきはら
「檍原」----①檍の読み方は、 ロク、オク いき、もちのき あおき、ふなき
      ②常緑樹の称,柾の別称、または、桑の品種


(1)日本書紀の作者は、意味が判らないので、「小門」から「小戸」に書き換えました。門ではなくて、戸が付いているのだと思ったのでしょうか。
(2) 「阿波岐原」を「檍原」に書き換えました。 古事記のほうは、万葉かなの様ですから、「あは?き」か、「あはき」でしょうか。日本書紀の作者は、どのように読むのか判りませんので、当てはまるような「檍」を採用しました。
(3) 日本書紀のように判断しますと、「橘」と「檍」と二つの木の名前が、並ぶことになって、全体の意味が取れなくなります。

以上の資料から、橘の木で、小さな門の形を形成した阿波岐原と呼ばれている所にやって来て、禊をしました。
 その場所の地名は、「大瀧」でした。

このような「大瀧」の風景を太安万侶は、態々書いたと言うことは、稗田阿礼が、ここへ行って、其の時の様子を太安万侶に報告したのだと考えます。

古事記の翻訳をされた田村誠一氏もまた、「大瀧」へ行かれたのだと思います。

その証拠は、「大瀧」の近くに、吉原という地名があり、吉原神社が、所在したことを書いています。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(111)  竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原 [日本の歴史]

伊邪那岐命が、伊邪那美命の追手から、逃れた時に、「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」に於いて、禊をされたと古事記には記されています。

 古事記には、「竺紫の日向」と記されて、日本書紀には、「筑紫日向」と記されているために、筑紫がどこにある地名かが問題になっています。
ウイキペディアを拝借しますと、

筑紫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E7%B4%AB
 九州の全体を指しているとか、筑紫野市の一部などと、いろいろ比定されていますが、これらの事から、古代に九州にあった地名とされているようです。

 若し、これが正しいとしますと、禊をした川が流れていなければなりませんが、川の名前は見当たりません。

宮崎の神話、イザナギの禊(みそぎ)
http://powerspot-kyushu.pome.in/miyazaki/myth/izanagi/
【宮崎】心洗われるみそぎの聖地!江田神社
http://www.9navi.jp/eda-shrine.html

禊をしたのは、川ばかりだと思っていましたが、宮崎県の池だと書いて居られます。確かに、池でも、身体を洗うことは出来ますが、普通は、池は水が溜った状態のものが多いです。唯の水浴びではありません。八雷神の世話になりながら、身体が、腐敗をはじめていたイザナミを見たイザナギは、自分の身、全身が、穢れてしまったと思い、禊をしたくなったと太安万侶は、記しました。
 しかし、其の時のイザナギの思いを、充分には表現出来なかったと思います。

太安万侶は、そのようなことではなくて、底筒男命外の神のことを記しています。このことは、次回に書きます。

伊邪那岐命は、大瀧という所で、禊をしたのですが、なぜ、此処になったかは、古事記に次のように書いてあります。
「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に堕り潜きて滌ぎたまふ時成りませる神の名は、八十禍津日神、次に大禍津日神。

 田村氏は、次のように、書いて居られます。
「上つ瀬は大山三の沢で流れは、急で禊はできません。下つ瀬は白水川で流れが弱くてここでも禊は出来ません。上つ瀬から下つ瀬に変わるところが滝壺で大王の伊邪那岐命が禊わしたので、大瀧の地名です
「白水川の源が大瀧で、大はイザナギを意味します。イザナギが大瀧で禊をしました。ここは林が尽きた場所から竺紫(ツクシ)と書かれ橘の枝をくぐった草が淡い川の滝壺で禊をしました」

 ①古事記では「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」。
 ②日本書紀では「筑紫日向小戸橘之檍原」と表記はほぼ同じ。

日本書紀は、古事記を参考にし作られましたが、古事記の「竺紫」がどこか解らなかったと思われます。「筑紫」は九州にありますから、「筑紫日向」と書き換えたと推察します。
しかし、この時は、「日向」の地名は無かったのではないでしょうか。

 「日向」だけではなくて、「筑紫日向」と書き、日向という地名までつくったのではないでしょうか。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(110)  別天つ神五柱(22) [日本の歴史]

前回の大坂神社の分析は、如何でしたか。
 田村氏の分析では、イザナミが、治療するために、溝口町の近くにあった御墓原に居りましたのを、ヒルゼン高原に連れ戻す為に、迎えに行きました。しかし、1500人ほどの鬼に追いかけられました。

溝口から、日野川を少し、下った「白水」というところから、イザナギは、白水川に沿って、大山の方へ、逃げました。1500人の追手を振り切った所が、「大坂」だと田村氏は、著書に書いて居られます。白水から大坂までは、ずっと、長い長い坂道だったのだと思います。

 この坂道は、田村氏は、歩かれたのだと思います。
 それは、どうして分かるかと言いますと、次の所で、禊をしたと書いてあるからです。

 伊邪那岐神が、禊をした所は、次のところです。

①古事記では「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」。 -----阿波の国
②日本書紀では「筑紫日向小戸橘之檍原」と表記はほぼ同じ。----福岡県

グーグルで、竺紫と筑紫を検索してください。 場所は、九州四国になっています。

田村氏は、古事記には、正しいことが書いてあると、書き上げた著書の中で、「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」のことを書いておられます。

田村氏の著書  http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html
の最後の4冊に詳しく書いて居られます。

ここに書いてある「日向」は、竺紫や筑紫にある日向という意味だと思います。
田村氏の説の鳥取県にある日向とは、随分、違いがあります。遠く離れ過ぎています。

調べていませんが、「日向」は、太陽が良く当たる所とか、一日中、太陽の方を向いているとかの意味ではないでしょうか。となりますと、全国、到るところに「日向」が有る筈です。小字地名にも在ると思います。

日向(ひなた) http://www13.plala.or.jp/okuwarashina_web/hinata.htm

日向国 ひゅうがのくに
https://kotobank.jp/word/%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD-121039

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(109)  別天つ神五柱(21) [日本の歴史]

前回の最後に又、「大」の字の付く「大瀧」が出てきました。 田村誠一氏は、「大」の字の付く地名は、「大王」を表す事が多いと書いて居られます。
そう言われれば、大きな坂があるから「大坂」と云うのもおかしいですね。

前回、大坂神社を眺めていた時に、「大倉」の外に、「大原」もあり、大の字が付いた地名が、気になったのですが、其のままにしていました。後から気になりましたので、もう一度、調べてみようとしましたら、二度と現われることはありませんでした。「大倉」と言うからには、ここには大きな倉庫があったか、「大倉」と言う人が住んでおられたのかも知れません。

https://www.mapion.co.jp/m2/35.33225282,133.49792527,16 
ここに、大倉、大原がみつかりました。

 地名と人名は、大いに関係が有ると思います。

前回、紹介しました大坂神社は、五軒の家があったことが、資料から見つかりました。
伝承ですが、寛文元年と言いますと、1661年です。

 祭神が重要です。祭神は 猿田彦命,大山祇命です。
成立した時の住所は、旧住所 岩美郡小田村大字大阪字宮山です。

大坂神社ができた時の地名が、 「大坂」という大字があり、五つの家族が、住まいを定めて、「宮山」という地名を付けたと考えると、不自然ですね。 五家族が家を建てられた時に、神社を建て、その名を「大坂神社」と名付けたことになります。 そして、その後、この辺り一帯を、「大坂」と余所の集落の人が、大坂と呼ぶようになった。
 如何ですか、私の無理矢理の考え方は?

こうなりますと、この神社の写真、五家族のお名前、この辺りは、本当に坂があるのか知りたいですね。

「大」の字の付く地名は、「大王」を表す事が多い」という田村氏の発想は、誰も認め無いですが、正しいのではないかと思っています。

田村氏の著書  http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html
の最後の「西暦は日本の建国紀元だった」ノ37ページに
伊邪那岐命は白王のサブタイトルに、次の文章が有ります。

「途中大坂でやっと伊邪那美命を追いはらって禊をしました」と書いています。
伊邪那岐命は、黄泉の国から逃げてきましたから、地上に出るまで、坂が続いていたと言うことでしょうか。

このように考えますと、稗田阿礼は、大坂神社も訪問して、太安万侶に報告する時に、
日野川の白水から白水川を遡り、「大坂」まで来て、一服してたことをお話したのではないでしょうか。
 この同じコースを田村誠一氏は、実際に歩かれたのではないでしょうか。

田村氏は、次の大瀧というところでは、裸になって、滝壺で滝に打たれたのかも知れません。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(108)  別天つ神五柱(20) [日本の歴史]

もう一度、「鳥取県 白水川」をキーワードにして検索してください。
画面でダブルクリックしますと、大きな地図に変わります。

 地名大坂の近くに、「大坂神社」が有ります。 なんでも、調べてみます。

大阪神社」は見つかりますが、「大坂神社」は、鳥取県神社誌で調べても掲載されていません。ネットでも、見つかりません。

鳥取県神社誌で調べる方法は、ご存じですか。
Goggleを使います。 「鳥取県神社誌」 を入力。

トップに表示される次のものをクリック
国立国会図書館デジタルコレクション - 鳥取県神社誌
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1050476/2

 右の黒い部分にカーソルを移動しますと、三角形が表示されます。 右側は、ページの最初です。 クリックしますと、2~3ページへと移動します。

「大坂神社」は岩美郡に所在しますから、1ページと2ページに掲載されている筈ですが、見つかりません。
 
 偉そうに書いていますが、使い方を忘れていました。掲載されていませんので、 1時間も掛かって、此処まで、思いだしたのです。
 仕方が有りませんので、いろいろ検索しましたが、ヒットしません。

諦めかけていたら、見つかりました。
 鳥取神社誌 岩美郡
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page723.html
 
これは、以前、私が作った岩美郡の神社の資料です。
苦労して、作ったことも忘れていました。
 明治元年に大坂神社から、大阪神社に改正されていたことが判りました。

大坂神社の資料を次に示します。
大阪神社   岩美郡
CATEGORY/歴史
旧住所 岩美郡小田村大字大阪字宮山
地図 http://loco.yahoo.co.jp/place/g-AXmr3O60ahE/?genrecd=0424002
現所在地 鳥取県岩美郡岩美町大坂22番

祭神 猿田彦命,大山祇命
由緒 古老の伝に寛文元年此の地に創立すと謂ふ、大山祇命は古くより同社地に鎮座地せられしが、明治元年八月合祀し大阪神社と称す。

丁寧に地名を見ますと、

地図を、上へどんどん移動しますと、「大瀧神社」が有ります。ここの地名は大瀧です。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(107)  別天つ神五柱(19) [日本の歴史]

溝口あたりから、北の方へ、「大」の字の付く地名を探して下さい。
大江、大平原、大殿、大寺、大原があります。この内、大殿にある廃寺に行ってきました。

石製鴟尾
http://www.houki-town.jp/new2/5/3/4/  
地名に、「大」の字が付く地名は、大王を表す事が多いということは、田村誠一氏が、力説して居られることです。
「大江」は、福知山の大江が有りますから、大殿、大寺に行こうと思いましたが、意味が良く解らないままに、大寺廃寺に行きましたが、ネット荷書かれている心礎・仏堂・回廊跡は、見ることが出来なくて、写真にある「石製鴟尾」だけを見ることになりました。
 少々、がっかりしましたが、ここは重要な所だなと思う様になっています。
 特に、鳥取県の「大」の字が付く地名は、気になります。

国土酉院 1:50000 の地図には、白水という地名は載っていません。 この地名は、大山のほうから流れてくる「白水川」が日野川に合流する所の地名です。別段、大きい集落でも無いので、国土地理院では、掲載しなかったようですが、ネットで 「鳥取県 白水川」を入力して検索しますと、地図が表示されます。
 この地図の右上に、「大坂」の地名が見えます。
 
 田村誠一氏は、イザナミのお見舞いに行ったイザナギは、八雷神に囲まれているイザナミを見てしまいます。そのイザナミの身体には、蛆虫が湧いていました。
 自分の姿を見られたイザナミは、伊弉諾神を捕まえるべく、追いかけることになります。

イザナミの追跡に対して、イザナギは、いろいろのものを投げて、防衛を試みます。それらの一つとして、イザナギは黄泉比良坂に「千引の岩」(ちびきのいわ。千人の力でようやく動かせるという巨岩)を敷きイザナミの追手を防ごうとしました。

 「千引の岩」を置いたと言うことは、それ以上の人数で、追いかけたことになります。そうしませんと「千引の岩」動かせないことになります。
 イザナミの世話をしていたのは、僅か 八人の雷神ですから、1500人の黄泉軍を副えて、追わせた。
前回、記しました溝口町の近くある鬼住山に住んでいた漢人も、一緒に追い掛けました。

この辺りの古事記の原文を次に、書きます。
」是以、一日必千人死・一日必千五百人生也。故、號其伊邪那美神命、謂黃泉津大神。亦云、以其追斯伎斯此三字以音而、號道敷大神。亦所塞其黃泉坂之石者、號道反大神、亦謂塞坐黃泉戸大神。故、其所謂黃泉比良坂者、今謂出雲國之伊賦夜坂也。

「一日必千人死・一日必千五百人生也」とあり、話題は異なりますが、1000と1500人です。
「千引の岩」を動かす為には、1000人では足りません。 1500人の漢人が、出動したと思われます。
「一日必千人死・一日必千五百人生也」の部分は、鬼住山から出動した漢人の人数を言うための伏線ではないでしょうか。
このように考えませんと、鬼住山の事が浮いてきます。

太安万侶は、溝口を挟んで、西と東に、天皇家の人と漢人が、対峙しながら、住んでいたことを書き残したかったのではないでしょうか。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(106)  別天つ神五柱(18) [日本の歴史]

前回、「御墓原」は「会見町」と書きましたが、溝口町かも知れません。
溝口町の東側に鬼住山の地名があります。この地名がどうしてつけられたのか判りませんが、本当の鬼などは居ないのに、「鬼が住んでいた山」と名付けられたことになります。全国に、鬼が住んでいたというお話は一杯あります。

キーワードに「鬼住山」と入力しますと、次のブログがトップに表示されます。

鬼住山(きずみやま おにずみやま 標高 329.92m)
http://www.geocities.jp/biotop21/kizumi.htm   少し、始めからの文章を記しますと、次のようになります。

「日本最古の鬼伝説の山だ、と伝えられる一帯の山だ。隣にある笹苞山(さすと 511.50m )とセットの山塊だ。米子道の谷川トンネルの上にあり、日野川を挟んだ対岸のとっとり花回廊や鬼っ子ランドからもよく判る。電波塔が建っているので車道もあるようだが、出来れば歩程を見つけたいとやってきた。この上流域にも、鬼退治伝説の鬼林山(1031m)がある」

外に、一杯ありますから、いくつか読んでください。

 もう少し、スクロールしますと、ここから、見える大山写真を見ることが出来ます。

鬼退治伝説の鬼林山(1031m)がある」と書かれていて、鬼林山も、この近くにあることが判りました。

鬼とは、この頃(古事記が書かれた712年)、中国人が住んでいたことを、どこかで、読んだと理解しています。

前回の「御墓原」一帯は、伊邪那岐神と伊邪那美神のお話でしたから、太安万侶は、天皇家と中国人との支配していた地域を書き残そうとしたのではないかと考えています。

伊邪那美神のお墓は、どこに作ったかは、古事記に書いてありますので、次回は、もう一度、この事に付いて書いてみます。

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