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歴史各論 牽牛子古墳(10)  柏原の地は都だった(2) [日本の歴史]

柏原の地は都だったことを説明しようとしますと、簡単にはいきません。
 その根拠なるものを知って頂くために、古代人は、大切な場所決めるときには、
ルールを持っていたことが判りました。
次のところにそのことを書いたつもりでしたが、読み返しますと、意味の分らないことを書いています。
No54 古代人のルール その1 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-09-06 このルールはどうして見つかったかといいますと、地名のことを調べていますと、あるパターンが見つかり、ルールを発見したことで判ります。又、あるときには、古事記や日本書紀にも書いてあることが見つかりました。
 ルールはいろいろあるのですが、実例として、柏原にある神武天皇社が、そのルールにはずれているので、おかしいと書いているつもりでしたが、かけていません。

田村氏は、ここに祭られている神武天皇は、実際にいたから、隠そうとした人がいた。それに対して、神武天皇が、この地にいたということを守ろうとしている人が居られたのだと発表されました。
 発表されたことを何度読んでも理解できませんので、柏原にある神武天皇社に行った時に思ったことをそのまま書いたものが、〔柏原の神武天皇社〕です。
 
 この場所へ今、行きますと、又、様子が変わっていると思います。神社の周りにあった集落は、古い建物がありますから、建て替えられることになります。そうしますと、新しい家は少し、道より下がって建てられますと、狭かった道は広くなります。ひょっと、すると神社の正面に、まっすぐな参道が造られているかもしれません。

次に、ルールとはどのようなものかを書いています。
No55 古代人のルール その2
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-09-08
ダブりますが、もう一度記します。
 イザナギとイザナミは、淡路の多賀の地を全体の中心に考えたようです。そして、彼等がどのように日本を次々征服していったかということを古事記は書いています。どんどん子供を生んだという表現を使っています。先ず、水蛭子を産んだが葦舟に入れて流した。そして次に淡島を生んだと書いています。「こも亦、子の例(たぐい)は入れざりき」と記しています。とくべつの島なのだということです。その後に、大八島国かを征服していったのだと書いています。
征服したとは書いてなかったために、日本書紀の作者は、本当に、日本の島々がどのようにできたか、真面目に書いています。
イザナギが、その後、どのようになったかは、日本書紀は「そこで幽宮を淡路洲に作って静かに長くお隠れになった」と記しています。淡路島で死んだとは書いてありませんが、死んだということでしょう。古事記には、「淡海の多賀に坐(ま)すなり」とあり、滋賀県の近江の多賀に居られると書いています。ここで死んだとは書いていません。
 ヒルゼン高原の高天原にいたイザナギは、滋賀県の敵をやっつけるために、移動することになりました。
 滋賀県の多賀神社のある所ではなく、近江八幡市の多賀に移動しました。
 その理由は、
伊弉諾神が滋賀県の近江八幡の多賀へ、東からの侵略に備え、移動します。その留守に、須佐之男命は、地響きが聞こえる程の軍勢をひきつれて高天原に攻めのぼります。
 それを知った天照御大神は、〔我が国を奪おうと思ってやって来た〕と考え、万全の態勢で迎え撃ちます。・・・
 この時の詳しいことは、古事記に書いてあります。
No807神武東征(256)  神武天皇(199)  大物主大神(27) 日吉津村(9)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2010-07-14
近江八幡の多賀は、現在は近江八幡市ですが、当時は、島でした。この島に白王、多賀、宮内、王ヶ浜の地名が、そのまま残っています。イザナギは、だれか判りませんが、白に関係があり、多賀に関係があり、宮があったことを示す宮内があり、浜辺には王の字が残されています。
 伊弉諾神は、これらのことから、白狄人の王と分かりました。これだけで、そのようなことが言えるのかとなりますが、勿論、其のほかに、証拠らしきものが残されています。

 イザナギは、イザナミが死んでしまったので、黄泉之国まで、追いかけていきましたことが、古事記に書かれています。イザナミの醜い姿を見てしまい、身体が穢れたからといって、高天原(ヒルゼン高原)へ帰る途中で禊をします。 これにちなんでその川の名前が、白水川の名前まで残っています。


長くなりますので、続きを次回に書きます。

No530天孫降臨(103) 伯耆国の古墳(2) [日本の歴史]

前回、「ここまで、遡りますと、邪馬台国論争に巻き込まれますから、邪馬台国と廃寺の間の古墳時代に挑戦です」と少し、決心を交えて、古墳時代に挑戦ですと書きました。
困難なことは、覚悟だったのですが、ハイどうぞと、私が望むようなデーターをWEBに書いておられる方はありません。
私のつもりは、例えば、大和や丹後の古墳と伯耆の古墳を比べて、どうやら、伯耆の方が先に造られたとか、邪馬台国は、九州だと言われていますから、九州より伯耆の方が、栄えていたのだということを立証しようという気になっています。
これまでに、書いた国は、大和、丹後、伯耆ですが、古墳の多いとか、大きいものであれば、岡山や大阪の百舌鳥古墳群(堺市)や古市古墳群 (藤井寺市、羽曳野市)そして、埼玉県の埼玉古墳群です。
http://www.juno.dti.ne.jp/~techno/kofun/kyuiruma/sakitama/index.html
上に記しましたアドレスの埼玉古墳群をクリックしてください。見事に一覧表にしておられます。
不満なのは、ここに書いてあるのが、すべてであるのかどうか判らないことです。どの府県でも、すべての資料がないと分析が出来ません。
他の府県は、少しぐらい資料が少なくても良いですが、肝心の鳥取県の古墳の資料がありませんと、全くお手上げです。
資料無しで、私の推理を述べますと、
九州においても、佐賀県と福岡県が、中国系の人と同じ中国でも雲南省や福建省の人が、混じり合って生活していたのではないかと思っています。この人たちは、山口県、島根県へ移動したのではないか。鳥取県、特に昔伯耆の国と言われて所、日野川流域は、天皇家の血を受け継ぐ人が住んでいたのではないか?
これは、紀元前のことです。
山陰へ移動した人はいましたが、当然、瀬戸内海へ入った人もいました。
あの大きな前方後円墓は、どうして出来たのか、全く分かっていませんが、私は自分たちの勢力が大きいことを示すために、だんだん大きいものを造るようになったと考えています。
古墳は、初めは、小さくて円墳を造ったり、方墳を造っていましたが、これが合体したものだと書いておられる方が居られますが、それは間違いだろうと思っています。
始めから、大きいものを造って、古墳時代末期には、前方後円墓は造られなくなったのではないかと考えています。
ということは、関東奈良、大阪、京都、岡山は、同時に大きい前方後円墓を造る競争が行われたのではないかと推察しています。

例えば、はじめに、日本に上陸した大陸の人は、九州に上陸し、その後、東野方へ大移動したというのが、現在の普通の考え方です。
それが正しいとしますと、238年ころに、九州に邪馬台国があり、その後、この国の人が、どんどん、瀬戸内海を通り、奈良で都を定めたことになります。その後、何故か、不思議なことに、全く、和気の分からないことに、全国に、前方後円墳を造りまくる連中が、全国でのさばるようになります。福井県にも、前方後円墳がいっぱいです。どの歴史書にも、その地方の豪族だと書いてあります。
前方後円墳が、東へどんどん伝えられたのであれば、九州の前方後円墓が一番古く、埼玉県の前方後円墳が一番新しいことになります。

古墳時代が解明されれば、日本史の最大の空白部分が解明されるのですが、そのことを考える時の基礎となる資料がそろっていないということは、どう言うことなのでしょうか?

以前に、それでは、私が一覧表を作ってやろうと挑戦したことがあります。京都府の古墳を全部拾う気になりました。
〔京都府の古墳〕http://homepage1.nifty.com/o-mino/page401.html
綾部市の古墳をクリックしてください。綾部市の遺跡は、1229あります。その大半は、古墳です。物部という集落だけで、225の遺跡が見つかっています。地図と分布図を掲載しました。詳細も一覧表にしました。
あまり多くて完成するのをあきらめました。綾部市は、福知山市の東にある町です。調べていませんが、きっと、福知山市も古墳が多いと思います。
古墳が多いということは、死んだ人が多かったということです。戦争が多かったと考えると辻褄が合います。
このような調子で、鳥取県の古墳をすべて、知りたいのですが不可能です。どこで見たのか忘れましたが、鳥取県は、現在の所、6000の古墳が発掘されたと書いてあったように思っています。京都や奈良と同じぐらい多いのではないでしょうか?
鳥取県の面積が狭いことを考慮に入れますと、ひょっとすると、鳥取県が一番古墳が多いのではないかと、推理しています。もし、正しいということになりますと、鳥取県において、天孫降臨が行われた可能性が大きいことになります。

No517 天孫降臨(90) 伯耆国の寺院16) 日本で一番古い(3) [日本の歴史]

鳥取県には、廃寺が22寺ほどあるそうです。資料調べようと思っても、WEBに掲載されているものは、勝手に利用してはいけません。と言っても、掲載しておられる人も、どこかに書いてあるものを参考にされたことになるのですが、著作権というものがあるそうです。
こうなりますと、鳥取県のことを素人が調べることは、不可能です。

そこで、別のことを考えることにしました。 自然科学の世界では、よく法則という者がありますが、割合簡単な構造になっているように思われます。たとえば、水は氷と水蒸気の三つの様に変化します。誰でも知っていることです。氷が溶けていくと水になるのは、昔の人でも知っていたはずです。水を温めると水蒸気になるのも知っていたはずです。水がどうしたら氷になるのか? 寒いと氷になるのですが、零度になると氷になるのは、どうして分かったのでしょう。
誰が発見したのでしょう。 100度になると水蒸気になるのですが、お鍋に水を入れて、温めると水蒸気になります。その時に、蓋をしておきますと、蓋を持ち上げます。
水蒸気には、物を持ち上げる力があることが判ります。この力を利用して、蒸気機関車が作られることになります。
全部を一度に眺めますと、「水」一つを取り上げても、相当複雑なもので難しいものです。ところが,氷から水、水から氷の部分だけですと、それほど難しいものではありません。

そこで、廃寺のことも、極簡単な部分だけに着目することにしました。
なぜ、寺が誰によって、何時などを知ろうとしますと判りません。

奈良時代にあった寺であることが判っているそうです。では、どうして、廃寺になったと思もわれますか?
会見の大殿にある大寺廃寺は、近くに瓦を焼いた所も判っています。 そして、その瓦がいつ頃造られたものであるかは、判っているそうです。本当でしょうか? 日本の瓦は、初めのころは、寺だけに瓦が造られていたようです。土器の様に毎日使うものであれば、少し変わったものを作ろうという気になるかも知れません。しかし、瓦は一度造りますと、同じ職人ですと、同じようなものを作ったのではないでしょうか?
瓦の模様に重点を置く時代の決め方は、危険だと思います。
廃寺は、誰が作ったかと言いますと、その土地の豪族ということになっています。普通は、天武天皇が、后のためにつくったとか、聖武天皇が作ったことが判っているのに、鳥取県の場合は、判らないようです。
大寺廃寺には石製の鴟尾が残っています。1mの高さがありますから、重量は1トンはあるでしょう。これが、建物の上にあるのですから、建物は相当大きいことになります。それほど、大きい建物を有したことになります。
伽藍配置図 (私のものではありません)
http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2005toba/ootera26.jpg鴟尾の写真(私のものではありません)
http://www.nihonnotoba3.sakura.ne.jp/2005toba/ootera21.jpg
唐招提寺の鴟尾
http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/tousyoudaiji.htm
 唐招提寺の鴟尾の写真を見ますと、鴟尾と金堂との大きさが判ります。唐招提寺は天平宝字3年(759)に建てられています。
鳥取県の大きなお寺は、廃寺となっているのに、どうして、唐招提寺やそのお隣の薬師寺は、平城遷都後の8世紀初めに建てられているのに、現在でも残っているのでしょう。

誰が建てたにせよ、何のために建てたにせよ、どうして廃寺になったかは、寺を使っていた人がいなくなったから廃寺になったというのは、間違いないと思います。その寺の周囲に、人は住んでいたはずですが、その人たちはどこへも行かなかったと思われます。

あまり変わらない時に建てられた奈良の建物は残っています。都は奈良から、遷りました。寺が残っているということは、寺に居た人は、残らなかったということになります。移った寺もあったのでしょうか? 全部調べる必要があります。

必要がありますが、今は、鳥取県の廃寺のことです。もう一度、鳥取県に戻ります。

お知らせ [日本の歴史]

いつも 《新しい日本の歴史》を読んで頂きまして、有難うございます。
先日書きましたが、毎日、ウインドウズセキュリティーの部分にウイルスが入り込み、一日、三回のスキャンをしていましたら、どうにか無事でしたが、とうとう、コンピューターが壊れてしまいました。データーもダメの可能性がありますので、当分、お休みにさせていただきます。

時々、覗いてください。


No371 邑久郡の古墳 その3 [日本の歴史]

②丸山古墳では車輪石が、天神山古墳では石釧が出土しています。両方とも、腕輪だと言われていますが、本当にそうなのでしょうか? 車輪石と石釧(いしくしろ) の両方がhttp://www.narahaku.go.jp/resources/kiyo/06/kofun/kofun-06.htm 大量に出土した古墳があります。奈良県川西町の島の山古墳です。全長190mの周囲に周濠がめぐる前方後円墳
であり、奈良県下の前方後円墳300余基中、第20番目の規模です。
 車輸石(オオツタノハ貝・カサ貝)、鍬形石(ゴホウラ貝)、石釧(イモ貝)の3種類の腕飾類の約140点が出土しました。車輸石が約80個でもっとも多く、鍬形石21個、石釧31個が出土しました。 車輸石は、表がすべて上向きに置かれ、鍬形石や石釧とは異なった状況をみせています。 詳しくは次の現地説明会の資料をご覧ください。
http://www.kashikoken.jp/from-site/sima.htm
古墳が大きいから権力が強かったとは限りませんが、その大きさには圧倒されます。川西町の隣は、河合町です。一番低いところで、奈良の水が集まるところです。広瀬神社をはじめとして、竜田神社、法隆寺と続いています。古墳では100基を越える馬見古墳群があります。主なる古墳を歩いてきましたが、天皇家の臭いがする地域です。しかし、この馬見古墳群の中で、一番大きい全長220mの巣山古墳からも、車輸石・鍬形石・石釧がセットで出ていますから、もっと、検討しなければなんとも言えません。島の山古墳の鍬形石、車輪石、石釧の多さは、やはり、誰かに与えるために持っていたと考えてもいいのではないかと思います。
沖出古墳は九州で唯一、鍬形石、車輪石、石釧の3種類がセットで発見されています。
この古墳の主が、東へ移動したとみるのは無理でしょうか? 少なくとも、なんらかの関係があったことは確かだと思います。

ここまで書きかけの記事がありましたので、今年最後の「新しい日本の歴史」を掲載しました。

本当に長いこと読んで頂きまして ありがとうございました。
このシリーズは、はじめに書きましたように、中国は日本の歴史を知らな過ぎる。日本の政治家も知らな過ぎる。政治家は、知って、中国に刺激を与えてもらって、ありがとうございました。と言える様になってほしいと思い書き始めました。
靖国神社の問題になると、待ってましたとばかり、中国と韓国は、昔の恩を忘れたのかと気がくるったように日本を攻撃し、中国は日本と国交断絶状態にしました。
私は日本から、神社と寺院を失くしたら、国が滅びるということを言うためにはじめました。どれほど、日本人は神社と寺院に関わってきたか? 調べたら判ると思いましたが、判るどころか疑問は増えるばかりでした。
しかし、私は少しずつ判ったような気になっています。
現在の日本人の大半は、中国人と朝鮮人ではないかと。そのように考えないと、紀元前どころか、古墳時代も謎という言葉の羅列の歴史になっています。今後、いろいろ発掘が進むでしょうが、謎が深まることがあっても、素人でも納得の行く歴史は解き明かされないと思います。
中国人と朝鮮人が考える「日本の歴史」と日本人の考える「日本の歴史」とはあまりにも違うので、共同で考えようということになりました。
複雑になることはあっても、すっきりした「日本の歴史」が見つかるわけがありません。
しかし、作業は進められています。

まだ、「日本の歴史」は解明されていませんが、私は自分の理解している「日本の歴史」を出発点にしますと、今後、中国と韓国と北朝鮮には。どのような対応をしていけばいいかは簡単にわかるような気がします。歴史は、研究だけしても意味がありません。正しく解明することによって、中国と韓国と北朝鮮と日本が平和に暮らせるようにならなければならないし、そのために何をすればよいかというように、現在と未来に役立たないと研究だけに済んでしまいます。
 
何十年後か判りませんが、世界を制覇するのは、中国かインドだと予想しています。アメリカイギリスも残ることはできないと思います。残るのは、本当の幸せがなにかを知った国だと思います。日本はなる可能性は大いにありますが、崩壊する可能性のほうが大きいです。

それにしても、今年の日本で元気があったのは、歴史家ではなく、運動をしていた人たちです。野球、サッカー、バレーボール、ボクシングなどなど。私は何一つ運動はできませんが、テレビを見ているだけでも、感動を与えてくれました。来年は、少しでも、文化系の人から感動するものを受け取りたく思います。

変な文章が入りました。私の話は、このようにあちこちに飛び理解困難ですのに、お付き合いして頂きまして感謝しています。
 良いお年をお迎えください。 


No370 邑久郡の古墳 その3 [日本の歴史]

もう一度データーを書きます。
丸山古墳は、邑久郡ではなく、備前市畠田・福田・香登本にあります。径50mばかりの円墳。竪穴式石室。長大な刳抜き石棺。舟形石棺。長辺の両端に環状の縄掛突起をもつ蓋は屋根型を示す。三軒の切妻家型や円文を浮き彫りにした装飾石棺。
 出土物----石製の盤、合子、器台と壷、巨大な管玉、車輪石、勾玉、鏡30面以上。(仿製鏡) 石棺の石材は、香川県東部の津田湾の南奥地に産する凝灰岩。
天神山古墳も、邑久郡ではなく、備前市新庄にありますが、道を隔てて長船町です。
全長110mの前方後円墳といわれていますが,前方部が細長く端に向かって傾斜しているところから円墳ではないかと言われています。竪穴石室から舟形石棺が収められていたらしい。
 出土物-----玉類、石釧、貝釧、剣、鉄鏃、鉄斧。舟形石棺のなかに、砂岩製石枕があって、佐賀県の唐津湾南方に産する砂岩と推定されている。
花光寺古墳は、邑久郡長船町服部に所在。細長い前方部を南にした全長110m 。葺き石と埴輪。長持形石棺の祖形とも言える石棺。短辺に付属した石囲い状の副室を持つ。
副室出土品---舶載の内行花文鏡、三角縁三神三獣帯鏡、銅族、素環頭太刀、剣、斧、鉄族、ヤリガンナ。 京都の妙見山古墳と類似。
① 天神山古墳と花光寺古墳は、同一丘陵に作られていますから、時代はあまり離れていないと思われます。天神山古墳は舟形石棺であり、花光寺古墳は長持形石棺の祖形とも言える石棺ですから、天神山古墳のほうが、古いと考えます。
その理由を述べます。
次の図は、間壁忠彦・葭子著「古代吉備史の未知を解く」のP64から拝借しました。

舟形石棺 http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/detail.php?no=542
 上のアドレスで見ていただく方が、早いですが、説明しますと、一つの石を刳り貫いて、浮かべると舟のようになって浮かぶ(木ならば、石でも浮かぶでしょうか)、同じものを作って、上に被せた石棺です。
長持形石棺 http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru2-9.html
 同様に長持形石棺の説明をします。刳り貫き式もあるようですが、一昔前ですと、どの仮定でも、使用しない布団を格納する長持というものが、押入れの下にしまわれていました。直方体のものです。一般の長持形石棺は、6枚の板状の石を組み合わせて、直方体の形にしたものです。
 全国の古墳からは、材質はいろいろで、形も舟形石棺、長持形石棺、家型石棺などが出土しますが、間壁忠彦・葭子氏は、舟形石棺、長持形石棺の分布図を書かれました。
倉敷考古館副館長の時代には、「古代吉備王国の謎」を表しておられます。そして、昭和56年に「古代吉備史の未知を解く」、平成6年に「石棺から古墳時代を考える」を発行されています。はじめは岡山県の石棺の材質だけを調べるつもりが、だれも教えてくれる人がいなくて、すべて一から出発されました。次第に、岡山だけに留まらず、西は九州へ、東は近畿地方と研究は拡がります。失礼な言い方ですが、倉敷考古館からは、研究費はでなかったのではないでしょうか? 現在ですと、車での移動が簡単ですから、経費も日数も掛かりませんが、すべて歩かれたことになります。しかし、訪れるたびに新しい発見があり、その喜びは、文章からあふれ出ています。
 調べ終わったら、古墳から日本史が浮かび上がると思われたのでしょう。研究心はとまるところを知りませんでした。その結果、出来上がった苦心の分布図ですので、断りもしないでここに掲載するのは、申し訳ありません。そのつもりで眺めてください。まだ未完成ですが、みごとな様子を見せてくれています。
 舟形石棺は断然九州しかも、吉野ヶ里のある佐賀県に分布します。そして、香川県、出雲、福井、丹後、そして、吉備です。畿内にもありますが、僅かです。問題は、こうした石棺の材質です。間壁忠彦・葭子氏やその他の方の努力の結果、不思議なことが判りました。岡山にある石棺は、九州の阿蘇石、四国の鷲の山石、火山石,播磨の竜山石であったりします。ほかに、奈良の石棺は、二上山石であり、阿蘇石、四国の鷲の山石、火山石,播磨の竜山石です。福井だけは、地元の笏谷石です。
 この分布図はなにを語っているかといいますと、九州の石工が岡山や近畿にやって来たという事です。勿論、御大将も一緒です。岡山にきましたが、竜山石は取らしてもらえなかったと思われます。
造山古墳の前におかれている石棺はこの古墳の石棺とは限りませんが、阿蘇石だそうです。 http://www.city.okayama.okayama.jp/kyouiku/maibun/ippin/syuzouhin39.html 
 造山古墳の主はを葬るときには、近くから石を調達できなくて、遠い阿蘇から持ってきたことになります。従いまして、岡山県の石棺で阿蘇石からなる石棺は、もっとも、古いと考えます。ところが、対岸の香川県にも進出しました。その後は、九州からではなく、
 
は、四国の鷲の山石、火山石を使うようになります。もつと、時代が新しくなりますと、播磨の竜山石を利用できるようになります。この頃になって、初めて、ここの石切り場の山を竜山と呼んだのだと思います。現在は海岸から離れていますが、近くの地名は、海岸に使われる名前が一杯です。石宝殿の裏山に登りますと、石切り場は海岸のところにあったことが一目で判ります。
では、福井県の舟形石棺は、どうして、地元の石が使用されているのか? 気になるので走ってきました。図にはありませんが、静岡にも一つあります。不思議なことにうんと飛んで、群馬県には、20を越えるそうです。その内に挑戦です。
 間壁忠彦・葭子氏は、この三冊の書物の中で、書ききれないままに、多くの石棺のことを書いておられますが、素人の私には、全く理解できませんでした。本を読もうと何度も挑戦しましたが、理解できませんでした。書かれている古墳は全部行こうと思いました。まだ果たしていませんが、行っただけですのに、次第に、三冊の本を読むことができるようになってきました。
 この分布図から、考えたことは、九州の中国人は、まず、岡山・広島へ、出雲へ、四国へ、丹後へ、福井へ、近畿へとどのような順序ではなく、私は同時に進出し、愛知、静岡、群馬という絹の産地を結ぶ絹の道を作ったのではないかと。
長くなりましたので、次回は、もう少し、書き加えようと思います。


No369 邑久郡の古墳 その2 [日本の歴史]

下図は、邑久郡の地図です。「古代吉備王国の謎」間壁忠彦・間壁葭子著の裏表紙よりお借りしました。(安仁神社の位置と海岸線に色を付け加えました)

牛窓古墳群の西に安仁神社があります。紀元元年のころは、ここが海岸線でした。右上を見て頂きますと、丸山古墳と書かれた円墳があります。その下に、4つの前方後円墳があります。上から天神山古墳、花光寺古墳です。この3つの古墳について考えてみようと思います。 データーは保育者発行「日本の古代遺跡 23 岡山」を参考。

丸山古墳は、邑久郡ではなく、備前市畠田・福田・香登本にあります。径50mばかりの円墳。竪穴式石室。長大な刳抜き石棺。舟形石棺。長辺の両端に環状の縄掛突起をもつ蓋は屋根型を示す。三軒の切妻家型や円文を浮き彫りにした装飾石棺。
 出土物----石製の盤、合子、器台と壷、巨大な管玉、車輪石、勾玉、鏡30面以上。(仿製鏡) 石棺の石材は、香川県東部の津田湾の南奥地に産する凝灰岩。
天神山古墳も、邑久郡ではなく、備前市新庄にありますが、道を隔てて長船町です。
全長110mの前方後円墳といわれていますが,前方部が細長く端に向かって傾斜しているところから円墳ではないかと言われています。竪穴石室から舟形石棺が収められていたらしい。
 出土物-----玉類、石釧、貝釧、剣、鉄鏃、鉄斧。舟形石棺のなかに、砂岩製石枕があって、佐賀県の唐津湾南方に産する砂岩と推定されている。
花光寺古墳は、邑久郡長船町服部に所在。細長い前方部を南にした全長110m 。葺き石と埴輪。長持形石棺の祖形とも言える石棺。短辺に付属した石囲い状の副室を持つ。
副室出土品---舶載の内行花文鏡、三角縁三神三獣帯鏡、銅族、素環頭太刀、剣、斧、鉄族、ヤリガンナ。 京都の妙見山古墳と類似。

さて、私が集めることのできる資料は、全部かきました。これだけを元にして、邑久郡は
どのような状態であったかを考えて見ます。三つの古墳は、現在邑久郡は、無くなって
しまいましたから、行政区域は異なります。そのつもりで読んでください。
最も重要な古墳は、丸山古墳です。円墳で他の古墳より小さいですが、もっとも権力の
あった人の古墳だと思います。その根拠は、仿製鏡ではありますが、鏡30面以上も出土したことです。漢鏡は、中国製であろうが、日本で作られたものであろうが、私は、漢人の物だと思っています。30枚もどうするのだということになります。これは、部下にどこかの地を任せるときに、渡すために持っていたと考えます。多く持っていた人ほど、部下を大勢持っていたことになります。死んだときには、部下は、貰うことはしないで、必ず埋葬したのだと思っています。当初は、日本に来たときに、中国の上官から与えられましたから、舶載鏡となりました。(この部分は、私の想像です) ところが、崇神天皇の御代に、卑弥呼を通じて、新羅と一緒に、任那を作りましたために、中国は、朝鮮半島経由で日本に来ることが出来なくなりました。そのため、後漢は滅びたのではないか(ここも私の想像です。任那がなくなることに日本は拘りました。何故、拘ったか真相は判りませんが、任那は562年まであったことになっています) この話は、ながくなりますので、別の機会に書くことにします。要は、鏡を古墳に埋葬した人は、原則的には、中国人または、ハーフであったと考えると歴史の流れが良くなります。
「鏡30面以上も出土した」古墳のことは、以前に書きました。覚えておられますか?
No144「椿井大塚山古墳は中国人の墓」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page778.html
No143 「黒塚古墳と三角縁神獣鏡」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page777.html
 30枚以上の鏡が埋葬されている古墳は、そう多くはありません。将校級の人であったと
思われます。それも支配地は、邑久郡というよりは、これらの古墳の北側が主体だっ
たのではと思います。
 次回は、三つの古墳の作られた順番を考えます。私のつもりは、岡山県のみならず、二
本中の古墳を古い順番に並べてみるつもりになっています。そのような事ができるのであ
れば、とうにできています。少々の無理はできると思いますが、あらゆることを念頭にい
れて並べてみます。先ずは、この三つからです。


No368 邑久郡の古墳 [日本の歴史]

ただ単に邑久郡の古墳のことを書くのではありません。備前の一の宮が安仁神社から吉備津彦神社に移った理由を知るために、古墳から探ろうと思っています。
 安仁神社がある西大寺一宮の隣は、瀬戸内市牛窓町です。瀬戸内市は、つい最近に牛窓町と邑久町と長船町が合併して誕生した町です。合併前は邑久郡でした。それで、タイトルに邑久郡を使用しました。
 瀬戸内市になってしまいますと、邑久郡が消滅しますが、地図で確かめてください。広大な地域であることが判ります。その入り口の所にあるのが、安仁神社です。邑久の「邑」という字は、村のことですが、中国では単に小さな村ではなく、都があったところに付けられると辞書にあります。久しく続いた都という意味でしょうか? 別の字で、大伯と書いて「おおく」と読むようです。こちらも偉大であるという意味が有るようです。

さて、このようなことを頭に描きながら、さぞかし立派な古墳があるのであろうと期待をして牛窓を訪れました。残念ながら、雨にたたられて、古墳に登ることもできず、古墳をみることもできませんでした。下図は、牛窓神社のパフレットからお借りしました。

見にくい図ですが、位置と古墳の向きだけを確認してください。方向は全部異なっています。5つある古墳はすべて、前方後円墳です。上から順に
天神山古墳---前方部を海に向け、後方部頂上には、竪穴式石室が有ったと思わせる石材があり、埴輪片採取。 全長90m。前方部には、牛窓天神があります。
波歌山古墳---前方部を南西に向けた全長60mの古墳。前方部と後円部に竪穴式石室がみられ、古式の須恵器片が採取。1970年頃消失。
鹿歩山古墳---空濠をめぐらした古墳。全長65m。山の頂上にホテルがあり、駐車場の横にありますが、ただの山に見えるだけです。
二塚古墳-----前方部は南東を向いています。横穴式石室。
黒島古墳-----海上の黒島にある古墳。竪穴式古墳。埴輪、古式の須恵器出土。

黒島古墳を除いてすべて近くまで行きましたが、大きすぎて全体の姿がわかりませんでし
た。それほど大きいのですが、すべて、山の上に造られていますから、造るのには相当大変であったと思われます。古墳が造られた山は、低い山ばかりですが、頂上にあるだけに 造るときは、余計に労力がかかったと思われます。田畑のできる土地は少ないのに、どうして、多くの人が生活していたのか不思議に思いました。黒島古墳が島にあることも考えますと、海運が仕事のすべてであったのではと想像しました。横穴式石室である二塚古墳が一番あたらしいことになります。 埴輪の出土は、天神山古墳と黒島古墳。 古式の須恵器の出土は、波歌山古墳と黒島古墳。このような事から、波歌山古墳---黒島古墳---黒島古墳二塚古墳の順で造られたのでしょうか? すべての古墳から、鏡や鉄器などが出土していませんから、天皇家の一族(イザナギも含むだったのでしょうか? もっと、データーがほしいです。


No367 邑久郡の秦氏 [日本の歴史]

浦上 宏氏のホームページの中に、「須恵郷の秦氏」があります。
http://www.hpmix.com/home/uraura/F2.htm
浦上氏は、二人の秦氏の資料を掲げておられます。以下引用させて頂きます。
秦勝小国
 平城宮木簡に「備前国邑久郡旧井郷秦勝小国白米五斗」という調の荷札と思われるものがある。旧井郷の比定地は不明であるが、秦氏が居住していた郷であることは間違いなかろう。当時の邑久郡は吉井川東部の岡山市、瀬戸内市、備前市香登から海岸沿いで播磨国の境までが邑久郡であった。
秦造国足・秦部国人
 『正倉院文書』に「備前国邑久郡積梨(つなし)郷戸主秦造国足戸口秦部国人沙弥慈良が積梨郷に本貫(本籍地)を持った」旨の文書がある。積梨郷の比定地は牛窓町長浜と邑久町虫明から備前市鶴海にかけての2カ所が候補地であるが確定していない。いずれにせよ秦氏が居住していた郷であろう。 

又、地名として、次の文章を載せておられます。
旧邑久郡域(昭和30年以前の邑久郡)の秦氏に関係する地名 
   松尾ー邑久町尻海。
   松尾坂ー備前市鶴海。
松尾は秦氏の氏神松尾神社を祀った社地に因むものであろう。
   幡・幡池ー牛窓町牛窓。
   半田ー邑久町山田庄・邑久町山手・牛窓町牛窓・牛窓町長浜・牛窓町
       鹿忍。
   半田利(利は里の当て字か)ー岡山市下阿知。
   畑・高畑山ー長船町東須恵。
 秦は幡・半田・畑と当て字されている。半田はハタが訛ったものであろう。 
 
畑、畠の地名は無数にあります。本当の畑地であった可能性のほうが、強いのですが、浦上氏は、次の資料を書いておられます。
現在の畑集落は「備前国絵図」(正保元年(1644))に「東須恵ノ内畠寺村」と書かれている。この畠寺村の山中に大聖寺が建立された。畠寺とは大聖寺に由来する村名で、寺域と思われる場所が「本坊」という地名になっている。
 この寺は備前四十八ヶ寺の中に名を連ねているが、いつ建立されたのか不明である。大聖寺文書(慶安元年(1648))によると、本尊は不動明王で寺域には本堂・阿弥陀堂・薬師堂・拾王堂・寂光堂・鎮守堂・鐘楼堂があり、かつて十六坊あったが今は六坊と書かれている。

「東須恵ノ内畠寺村」とあります。畠寺の畠は,秦氏のハタのことで、畑のことではないと思われます。浦上氏は、あちこちにある「半田」地名も「ハタ」であろうと書いておられます。又、服部村の存在したことも書かれています。どうやら秦氏が住んでいたことは確かのようですが、資料では、正倉院文書ですから、8世紀のことになります。

東須恵は長船町の集落です。一度、車で走っただけではよく判りませんが、長船町という名前から推察しますと、この辺りまで、長い船が近くまで来ていたと思われます。その時は、牛窓のほうではなく、北のほうであったと思われます。

写真http://www.hpmix.com/home/uraura/A4_4.htm#4 に、長船町東須恵の丘陵にある本坊山古墳から出土した陶棺の写真が掲載されています。写真のように切妻形で、複弁蓮華文で飾られています。古墳は7世紀末から8世紀初めころ造られたと推定されています。
と書いておられますが、又かと言われそうですが、これはユダヤ人の陶棺だと思われます。ユダヤ人が、7世紀末頃にいても悪くないのですが、この頃になると、藤原氏の勢力が強くなり、ユダヤ人は出番が無かったと思うのですが、本坊山古墳の時代が、100パーセント間違いが無ければ、絹の生産・収集・販売のシステムは確定していましたが、人種に関係なく、仲良く生活していたことになります。
 浦上氏の資料ばかりでしたが、秦氏の存在は確かなのではと考えました。ただ、最近でも良いのですが、ネット上では、絹が生産されていた痕跡はありません。
次回は、邑久郡の古墳から、探ってみようと思います。


No366 備前の一の宮の謎 [日本の歴史]

なぜ備前の一の宮が安仁神社から吉備津彦神社に移ったかを考える気になっていますが、書く前から、少し無理なような気がしています。
考え方としたら、吉備津彦神社のほうの力が強くなったか、安仁神社のほうが弱くなったかのどちらかでしょう。この力関係が移動する間に、600~800年ぐらいの期間がありますから、この時間的なものをどのように解決するかです。
神武天皇が東征のときに、安仁神社のところで船を泊めた伝承が正しいとしますと、西暦元年の7,8年前のことになります。なぜかと言いますと、神武天皇が奈良の柏原に宮を定めたのが、西暦元年一月一日だからです。
大吉備津彦が、吉備を攻撃したのは、当然神武天皇より、ずっと後のことになります。崇神天皇5年に民の多くが死んだとの記事があります。このときに、孝霊、開化天皇は、インフルエンザに罹ったと思われます。当然、吉備の漢人もこの病気で大勢死んだと思われます。漢人の勢力が弱ったところを攻撃したのではないかと推察しますと、最後に、鬼ノ城で戦いは、192年頃と思われます。
元々、神社があったところに、吉備津彦神社に大吉備津彦が祀られるようになったと思われます。この地には、二つの山があります。北に位置する山は竜王山と呼ばれています。南は茶臼山です。大吉備津彦と漢人が戦う前は、この山の西の麓あたりに漢人が住んでいたので、山はこのように名付けられたのではないでしょうか? 竜王山の北東のところに、吉備津彦神社があり、そこから、西へ1kmのあたりに、吉備津神社が造られています。
吉備津彦神社では、夏至のときに射す太陽は、鳥居を通り神社の鏡を照らすそうです。その本殿の後に竜王山があるそうです。現在の本殿は、昭和十一年に建てられたものですから、はじめからこのような関係に鳥居と本殿があったかどうかは不明です。

No361で書きましたように、吉備の分割はいつ行われたかどうかは判りませんが、大化の改新(645年)以降だと考えています。これは、朝廷が行ったと思われていますが、漢人の人が行ったと考えています。
 ということは、仮に650年ころに分割が行われたとしますと、450年かかって、漢人は、吉備で勢力を取り戻したことになります。その後、漢人が祭る吉備津神社が作られたと思われます。彼らが元々、生活の基盤にしていた竜王山の麓に吉備津彦神社を立てました。
この時は、漢人と天皇との力関係は、同じであったと思われます。吉備津彦神社と吉備津神社の丁度真ん中に、備前と備中の境界ができたことになります。
 しかし、その後、漢人の勢力が強くなり、備後にも、吉備津神社ができ、備中の吉備津神社だけが、式内社になりました。吉備津彦神社は式内社になっていません。
以上が、大吉備津彦を祀る備前、備中、備後の力関係から神社の発生を想像して見ました。
 一方、安仁神社は、備前の一の宮であった時は、天皇の勢力範囲でしたが、いつの頃か判りませんが、式内社になっています。ということは、藤原不比等の勢力範囲に入ったことが判ります。
勢力範囲に入ったということは、武力で制圧したのではないと思います。式内社を通じて近隣で生産される絹を売ることができたのだと思います。従いまして、式内社の周辺の村落は豊かになったと思われます。では、絹が作られていた痕跡があるかどうかです。古墳の中から、絹が出れば、絹が作られていた可能性はありますが、絹はたんぱく質ですから、よほど条件が良くなければ残りません。残っているとしますと、地名と神社に祀られている祭神ぐらいしかありません。
 次回は、邑久郡の地名を調べてみたいと思います。


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