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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(235)伊邪那岐神(4) [日本の歴史]

前回の古事記を読んでみます(234)において、書きました「大発見をしたように思えた」とは、
 太安万侶が、古事記に書きました「宇摩志阿斯訶備比古遲神此神」は、高天原の雪解けの春に、ブナの木に積っていた雪が落ちた時に、下に積っていた雪が崩れ、下に生えていた葦が見えました。
 その葦の芽が、牙のように尖っていたから、神が誕生したと思った太安万侶は古事記に書いた

と書きました。

 このお話は、実際にこのようすを見たのは、太安万侶ではなくて、稗田阿礼だ、いや、太安万侶だと、二点三点しましたが、始めに私が知ったのは、田村誠一氏だ・・・・・と書きましたから、読者のみなさんは、馬鹿らしくなられましたので、このようなことを現在の人で、信じろと言う方が無理だろうと思うようになり、私の考えでは、現代の方には、納得していただくのは無理だなと考えました。

 古事記の解明は、諦めることにした時に、「ぶらタモリ」という番組で、高野山の事が取上げせれ、空海の事が、半分を占めたでしょうか。

空海は、現在は、高野山の奥の院で、籠っておられて、56億7千万年後に弥勒菩薩が次の仏陀になって衆生を救うとされているという話が、テレビで、話されていることを知りました。
 その証拠として、一日、二回、空海に、着替え、三人の僧侶によって、運ばれている所も、放映されていました。

このようなことを私はブログに書こうとしていましたが、古事記のお話と、空海のことを平行して、書く事は不可能だなと諦めることにしました。

このブログのタイトルは、以前と同じですが、これから、空海のことも、「宇摩志阿斯訶備比古遲神此神」も、一時ストップして、伊邪那岐神が、どうして、古事記に登場したかを書くつもりにしています。

伊邪那岐神が、古事記の初めの所に、何故、太安万侶が書いたかは、不明です。

しかし、多くの神の中では、その役割を太安万侶はハッキリ書きました。

イザナギとイザナミと二人で、国土の建設をした神です。
しかし、この二人のことは、すぐ、登場したあとに、直ぐに、太安万侶は、淤能呂島を造った。そして、そこに「八尋殿」を造ったとかきました。

では、その二人は、どこから、高天原にやって来たか。

このようなことは古事記には、書いてありませんので、私が、中国にあった中山王国からやって来たことを書きました。

こんな話を書いた歴史家は、ゼロです。

こうなりますと、どの様に、理屈をこねても、古事記などは、読み説くことはできません。

古事記に書かれている神ではなくて、現在の日本人が考えている神とは、どのような神かを探っていましたら、空海の時より、もっと、以前に、日本人は、神の存在をどのように考えていたのかを知りたいと思ってい他のでしょうね。
以前から、買って、読まないで積んでおいた『日本人の神さま』を27ページまで、読んだだけで、日本人は、紀元前より、神さん存在をしっていたことを知りました。

 そんな古い事は、古事記と日本書紀以外に書いたものはありません。
あると言われる方は、一杯ありますが、この話も取り込んで、書くことは不可能です。

ただ、今の私には、大事件と思えることを発見しました。
①空海のこと
②神さんのこと
 
を織り混ぜながら、私が抱いている神のことなどを書いてみようと思っています。そして、勿論、古事記に登場する、神のことを考えようと思っています。

次回は、昨日、行ってきました。 関宿のことを書きます。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(234)伊邪那岐神(3) [日本の歴史]

古事記のはじめから読むつもりになっています。
古事記の訳本を開き、確かめながら読んで下さい。

伊邪那岐神以外の神は、名前は分かっていますが、どのような神かが、判りません。
私としては、解かるのは、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神だけです。この神は、古事記の文面だけから、判断すると、高天原の雪解けの春に、葦原から芽が出たようすを太安万侶は、記し、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神の誕生を理解したつもりで、ブログを書いていましたが、雪解けの中から、神の出現を感じ取られる読者はおられませんでした。

なんだか、大きな発見をしたように思えたのは、この世の中で、神の存在を信じる人が、おられないから、当然かと思いました。

この話は、伊邪那岐神の所に書いてありました。

古事記の訳文(倉野憲司著)から抜粋します。

これが淤能呂島なり。
その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。

イザナギとイザナギは、天つ神から命令されて、高天原にやって来ました。そして、「天の御柱を見立て、八尋殿を見立て」と書いてあるように、高天原な宮殿を建てたことになります。

 この八尋殿とは、どのようなものかと言いますと、ネットで調べますと、みなさん、堂々と書いて居られますが、あま良く解っておられないようです。

何故かと言いますと、書かれている高天原がと何処にあるか判らないのですから。

字面からのみ、判断すると、「八尋殿」の尋とは、両手をいっぱいに広げた時の長さをいうらしいです。それが、八つですから、仮に、一尋が1mとしますと、僅か、八メートルの宮殿と成ります。
 ネットで見ますと、「積もって生成されたオノゴロ島。そこに建てた巨大な殿舎。」というような意見もありますが、私は、オノゴロ島は、ヒルゼン高原の中蒜山の五合目に造られたと考え、実際に訪れて、頑張って登って来ました。

ここには、宮殿の欠片もありません。小さな祠があるだけです。

「中蒜山 祠」で検索しますと、一杯、表示されます。
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%AD%E8%92%9C%E5%B1%B1%E3%80%80%E7%A5%A0&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwil96_otrnWAhUEwrwKHQhdCO0QsAQILA&biw=1457&bih=696

写真だけでは判り難いですが、巨大な宮殿どころか、平らな面積は少なかったと思われます。
このようなことを考えますと、イザナギとイザナギは、命令された国造りは、結婚をして夢一杯の大きな住まい建設をしたと思います。でも、八尋の掘立小屋でしたが、二人にとっては、夢いっぱいの大きな家だったと思います。

これは、現代でも、同じでしょう。間借り生活だった新婚生活でも、二人の家は、素晴らしいものですが、二人で小さな家を建てた時は、「八尋殿」と云えるかも知れません。

私は、全部、両親に準備をして貰いましたから、この様な発想は出来ません。



 このように考えますと、太安万侶は、結構ロマンチックな考え方をする人だったと思われます。
「を見立て、八尋殿を見立てたまひき」と太安万侶は、書きました。
二つも「見立て」を並べました。

天の御柱を本物の神に見立てて、神さんに、八尋殿に収まって貰いました。

古事記が書かれた頃には、自分達のまわりには、家族を守って下さる神が存在すると考える人達が居られた事になります。

 何時の時代かと言いますと、紀元前のイザナギとイザナギが住んで居られた時代と成ります。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(233)伊邪那岐神(2) [日本の歴史]

前回の続きの「天の御柱」を考えてみます。

「天の御柱」ほど、皆さん、考えが、違うのには、驚きました。

先ずは、次のブログをご覧ください。

天之御柱とは どのようなものでしょう
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2004/12/post_3.html

 どうして、これが一番かと言いますと、忘れていましたが、これは私のブログでした。
随分、調べた上で、記事を書いていますが、よく解らないと書いています。


キーワードを「天御柱」に定め、検索しますと、沢山ヒットします。
①天御柱(アメノミハシラ)-----オノコロ島に建てた柱・竜田大社の祭神
http://nihonsinwa.com/page/990.html

②第64話 イザナギ・イザナミの神様、天の御柱を巡る-------柱の事
http://soseinippon.way-nifty.com/shinto/2012/07/post-8269.html

③国生み------淤能呂島に建てた柱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%94%A3%E3%81%BF

④見立天之御柱----見立てて建てた柱
http://www.musui.com/hosai/vanilla/2013/05/post-6.html

⑤しんのみはしら【心御柱】----出雲大社
https://kotobank.jp/word/%E5%BF%83%E5%BE%A1%E6%9F%B1-82417


大きく分けますと、御柱は、本当の「柱」と神の名前とになる様です。

本当の柱の方で、態々、見に行ったのが有ります。 

諏訪大社です。


諏訪大社で行われる御柱祭の時に、建てられる柱---この柱は、一番大きい柱でしょう。

7年に一度の天下の大祭 http://www.onbashira.jp/about/onbashira/

 御柱とは、どのようなもの  柱は柱ですが、次のように巨木です。
 御柱そのものは、長さ約17m、直径1m余り、重さ約10トンの巨木。柱を山から里へ曳き出す「山出し」が4月に、神社までの道中を曳き、御柱を各社殿四隅に建てる「里曳き」が5月に、上社・下社それぞれで行われます。諏訪の人々は氏子として全精力を注いで16本(4社×4本)の柱を地区ごとに担当します。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(232)伊邪那岐神 [日本の歴史]

イザナギとイザナミは、古事記では、前の方に登場します。

どのように書かれているかと言いますと。
①次伊邪那岐神、次妹伊邪那美神。此二神名亦以音如上。

次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。

②於是天神、諸命以、詔伊邪那岐命・伊邪那美命二柱神「修理固成是多陀用幣流之國。」賜天沼矛而言依賜也。故、二柱神、立訓立云多多志天浮橋而指下其沼矛以畫者、鹽許々袁々呂々邇此七字以音畫鳴訓鳴云那志而引上時、自其矛末垂落之鹽累積、成嶋、是淤能呂嶋。自淤以下四字以音。

天津神たちが話し合って、イザナギとイザナミに
「この漂ってる国を固めて完成させなさい」と命じ、天の沼矛(アメノヌボコ)を渡しました。

二柱は天の浮橋(アマノウキハシ)に立って、天の沼矛を海に突き刺してかき回しました。そしてコロコロと鳴らして引き上げると、矛の先から塩がしたたり落ちて、積もっていきました。それが島となりました。これがオノゴロ島です。

以上の事から、
天津神たちが話し合って、イザナギとイザナミに
「この漂ってる国を固めて完成させなさい」と命じ、天の沼矛(アメノヌボコ)を渡しました。
 そして、オノゴロ島を造りました。

伊邪那岐神と伊邪那美神の二人の神が、初めて国土建設をしたことが書いてあります。

正確に言いますと、国土とは言えません。
この島に天降り、天の御柱を立てて、「八尋殿」を立てたと書いてあります。
広大な御殿でしょうか。
それよりも理解できないのは、「天の御柱」です。

似たものに、天の沼矛、天の浮橋があります。
この「天」は、「テン」とは読まないで、「阿麻 アマ」と読むと古事記の初めの方に書いてあった「天」だと思われます。
これは、「天つ神」の「天」だと思われます。

「天の御柱」はどのような柱は、次回に考えます。

「吾が身は成り成りて、成り合はざる処、一処あり」と答へたまひき。









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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(231)鶴の恩返し(2) [日本の歴史]

 鶴の恩返し
 隠岐の伝承----酒井菫美
①タヌキの恩返し----海士町保々町
②カエルの恩返し---知夫村古海
③蟹の恩返し--------知夫村古海
④大蛇の恩返し---五箇村
⑤鶴女房----海士町保々町

島流しされた人----どうして、流されたか知りたい。   
724(神亀元)年、隠岐は配流の地(島流しの場所)として定められ、

 ①柿本躬都良(みつら)---宮廷歌人・柿本人麻呂の子
   
 ②船親王と石川永年
 ③小野 篁  (たかくら(802~853))
   https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E9%87%8E%E7%AF%81

 ④文覚上人 (もんがくしょうにん (1139~1203))
⑤後鳥羽上皇 (ごとばじょうこう (1180~1239))
⑥後醍醐天皇 (ごだいごてんのう (1288~1339))

調べは、まだ、途中ですが、私が考える日本の歴史は、伊邪那岐神と伊邪那美神が、国を生んだと古事記には書いてあります。
この二人は、中国の中山王国(北狄)からやって来たのではないかと推理しています。
紀元前の事です。

その前に日本にやって来た人達が、太安万侶は、古事記に書きました。
その神の名を下に書きます。
①天之御中主神
②高御產巢日神
③神產巢日神
④宇摩志阿斯訶備比古遲神此神
⑤天之常立神
⑥國之常立神
⑦豐雲野神
⑧國之常立神
⑨豐雲上野
⑩宇比地邇神
⑪妹須比智邇神
⑫角杙神
⑬妹活杙神
⑭意富斗能地神
⑮妹大斗乃辨神
⑯於母陀流神
⑰妹阿夜上訶志古泥神
⑱伊邪那岐神、妹伊邪那美神

以上の神の内、どのような神であるかが、やっと、解かったのが、伊邪那岐神、妹伊邪那美神です。次に解かったのが、

④宇摩志阿斯訶備比古遲神此神
です。
この神の誕生は、高天原の春の事です。 ブナ木に積っていた雪が下にすべりおちた時に、雪の下から、飛び出して来た葦から生まれたので、 「④宇摩志阿斯訶備比古遲神」と名前を付けました。

こんなことで、神が生まれるとは、信じられませんが、太安万侶は、その様に考えて、書きました。

日本の建国の初めに登場した歴史上有名な神・18名を書いたのに、どのような神を書いたのか判らないようでは、古事記を読んだことになりません。
伊邪那岐神、妹伊邪那美神は、中山王国からやって来たと書きましたが、その直ぐ後が良くありません。
水蛭子を生みました。次に、淡島を生みました。---と続きます。 始めから、水蛭子が生まれたことは、書かなくても良いことです。 と思いますが、太安万侶は、書きました。 なぜか、知る必要があります。

このように考えてきますと、次に判り易いのは、「④宇摩志阿斯訶備比古遲神」です。

私は、神の誕生を「雪の下から、飛び出して来た葦」から、神の誕生を感じたのだと書きました。
読者の方には、神の誕生を感じられた方が居られませんでしたが、感じたのは、稗田阿礼のように書きました。みなさんの反応がないので、ひょっとすると、神が生まれたと思ったのは、稗田阿礼から話を聞いた太安万侶だろうと書きました。 それでも、読まれる方は、どんどん、減りますので、田村誠一氏が、高天原に別荘を持って居られて、神の誕生を感じられたのではと、話をどんどん、変更しました。

古事記のことを10年以上考えて、いろいろ書いてきましたが、誰一人、なるほどとのコメントもありません。と言うことは、私の古事記には、神話が書いてあるのではなくて、天皇家の歴史が書いてあるのだという本論は、無理だろうと考えて、終りにしようと思っていました。
唐突な話ですが、「ぶらタモリ」のテレビをみていましたら、高野山を訪れる番組でした。
空海のことは、なにも知らないので、感動して、ネットの記事を読みました。
同時に、ひょいと、本立にたててあった『日本人の神さま』戸井田道三著には、火の神からイロリの神等が記されていました。

なにが分ったかと言いますと、時代によって、人間の心というものは、こうも違うものかと言うことが感じ取れました。今、『日本人の神さま』の同じ所を読みなおしている所です。

神の誕生を「雪の下から、飛び出して来た葦から」から、神の誕生を感じたのだ」というのを皆さんにわかって頂くこと自体が間違っていたなと思っています。

と言う次第で、
タイトルの「神話ではなかった古事記」は、自分では正しいと思っていますが、中止にしようと思っています。
しかし、自分は、信じていますので、タイトルはそのままで、続きは書いてみようと思っています。

長い事、有難うございました

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(230)鶴の恩返し [日本の歴史]

『鶴の恩返し』を知らない人は、次のアドレスクリックしてください。
http://iroha-japan.net/iroha/D02_folktale/05_tsuru.html
読んで頂けましたか。
 書いてある通りですね。 だけど、こんなことあり得ないですね。
上記に書かれたストーリーでは、一枚の着物が出来ましたが、作っている最中は、見ないで下さいと言われたのに、見てしまいましたので、鶴は助けてもらったお礼に自分の羽を使って織りましたとの設定です。
 私が、気になったのは、
①「鶴の恩返し」のような話は東北地方を中心に伝承されており、全国に点在していますが、どれも少しずつ違います。

②絵本などで私たちが読んだことのある「鶴の恩返し」は、実は1949年に戯曲作家の木下順二が発表した「夕鶴」という物語が基となっています。
①特に東北が多いとい傾向は、古代には、東北の方が、文化が高かったと言うことを随分前に、紹介した記憶があります。

②そうかと思えば、最近の絵本に書かれた子供理解出来る作品は、「戯曲作家の木下順二が発表した「夕鶴」という物語が基となっています」と言うことになりますと、古い「鶴の恩返し」と分けて考える必要があります。

その辺りを分析されたブログがあります。
鶴の恩返し
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E3%81%AE%E6%81%A9%E8%BF%94%E3%81%97
概要として、次のように書いてあります。
一般に「翁が罠にかかった鶴を助け、その鶴が人間の女性に姿を変えて翁とその妻に恩を返す」という筋立てが知られているが、類似する話は日本全国で報告されており、文献・伝承によって細部で差違が見られる。
• 鶴を助けた人物が翁ではなく若者である。
• その若者と人間に化けた鶴が世帯を持つ異類婚姻譚である。この類型は「鶴女房(つるにょうぼう)」と    して知られる。
• 老夫婦ではなくて、老爺の一人暮らしであった。
• 鶴は買ってきた糸でなく、自分の羽毛で機を織り、そのせいで日に日に痩せ細る娘を見かね、怪訝に     思った翁が、機織りの部屋を覗く
• 娘が鶴に戻り若者の元を去った後、若者は自分の行いを悔やんで僧となる。
   一説には唐代のものとされる「鶴氅裒(かくしょうほう)」の寓話が原型であるという[1]。
   古今東西に広く見られる「見るなのタブー」をモティーフとした物語の一つでもある。
   ①唐代のものとされる「鶴氅裒(かくしょうほう)」の寓話が原型
     これが正しいとしますと、この話が残っていた所では、中国人が住んで居られたという考えは成り立      ちます。
   ②古今東西に広く見られる「見るなのタブー」のケースは、鶴の恩返しに限らず、一杯有ります。

 このように分析されてしまうと、面白くも何もありませんが、
 始めに、書きました「書いてある通りですね。 だけど、こんなことあり得ないですね」では、それでお仕舞い です。
 話題は代わりますが、
今年の5月25日~5月27日まで、念願の隠岐へ、行ってきました。目的、島ですのに、神社が多いので、出来るだけ全部を回るつもりで出掛けました。

隠岐島の神社
http://o-mino.la.coocan.jp/page213.html  

息子に会社を休んで貰って、レンターカーで巡りましたが、道が少ないのと、神社が山の中腹にあるために、期待したほど、めぐることはできませんでした。
 何度か前に、その時に、本屋さんで、民話の本を見つけて買って来たことを書きました。

 あまりにも沢山の民話が収録されていますので、民話から、歴史書に書かれている以外の事が発掘出来るのではないかと思っています。

隠岐島のことで、次の二つを書いていますので、ご覧戴ければと思います。

隠岐島に逃げて来た人たち
http://o-mino.la.coocan.jp/page657.html


逃げてきた人たちが日本を作った
http://o-mino.la.coocan.jp/page658.html

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(229)古事記の神さん(7) [日本の歴史]

前回、二つの事件がありましたと書きましたが、この事件という日本語は間違っているかもしれません。
 1つは、「ぶらタモリ」の番組を見て、信仰というものは、どういうものかの入口を見た様な気がしました。

2つ目は、ふるさとの民話は、歴史ではありませんし、信仰でもありませんし、昔から、語られて来たことです。
 『鶴の恩返し』というお話があります。助けた鶴に恩返しをして貰うストーリですが、私の部屋は絶対見ないでくださいと言われていたのに、見てしまったというお話です。

『鶴の恩返し』を知らなくて人は、次のアドレスクリックしてください。
http://iroha-japan.net/iroha/D02_folktale/05_tsuru.html

 先日来、「宇摩志阿斯訶備比古遅神」の神さんが、古事記に書いてある話を書いてきました。どうして、このような長くて、読むこともできない神を太安万侶が、古事記に書いたかを知って頂こうと思って書いてきましたが、読んで頂いている皆さんに、どの様に考えれば、ヒルゼン高原で生活していたら、「神の誕生」を感じることが出来るかを書いてきました。
しかし、誰一人として、神の誕生を感じる方がおられないことは、記しました。
 神は、このような時に感じるのだなと言うことを色々書きましたが、これは、私は感じたことは有りません。
 これは私が考えたことではなくて、田村誠一氏が考えられて、「田村誠一の著書 を出版されて、読みましたが、長いこと掛って、これは正しいなと思う様になりましたが、難解なものでした。

 難解なのは、今でも、難解なのですが、このまま、みなさんに読んで頂だかないで、私が考えたこともやめにして、田村氏の著書の「第六話」正史だった古事記 を私のブログに1ページずつ掲載しました。 それをこのブログにお知らせしましたら、60人ぐらいの方が、読んで下さいました。しかし、本で無いので、読みにくい様ですね。 10日程で、10分の1ぐらいの方になってしまいました。

木に積っていた雪が落ちて、下にあった葦に積っていた雪も落ちますと、下から、元気よく芽を吹いた葦を見た古事記の作者は、神を感じられたことになります。
 と書きましたが、これまでに、12年間かかって、やっと、「宇摩志阿斯訶備比古遅神」も理解して頂けないので、やはり、世間の方が、思っておられる「日本書紀は、正書」、古事記は偽書をくつがえすことは無理だなと、諦めようと考えていましたら、
「ぶらタモリ」の番組を見て、空海は、若くて、人間とはどのようなもので、空海の場合は、「神」ではありませんが、自分が生き仏になって、困っている人を助けようとして、高野山の奥の院に、籠られたことを知りました。

そんな大層なことを私が皆さんにお知らせすることは不可能ですが、「ぶらタモリ」の番組の高野山の番組のVDVを購入して、見るだけではなくて、今度は、自分の脚で、家から、高野山まで、歩かれますと、神も仏も理解出来るのではと思いました。
 家からはよう歩きませんが、せめて、高野山の電車の駅から、宿坊までは、歩こうと思っています。
 イスラム教も、キリスト教も、よう解決していないことが、空海を通じて解決できるかな考え始めています。
 大事件でしょう。12年間かかって、「神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(229)」は、失敗でしたが、その前に、次回は、『鶴の恩返し』のことを書きます。


参考に
「ぶらタモリ」の番組の内容ですが、相棒の女性と、高野山詣でです、前回の続きで、
 テレビの広告をご覧ください。

84 高野山の町~高野山は なぜ“山上の仏教都市”に?~
http://www.nhk.or.jp/buratamori/yokoku.html#koyasan

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(228)古事記の神さん(6) [日本の歴史]

先日来、「宇摩志阿斯訶備比古遅神」と言う神は、稗田阿礼が、木に積った雪が落ちる様を見ていて、その下に繁っていた葦の上に積っていた、雪が落ちますと、雪の重みで曲っていた葦が、勢いよく姿を表しました。その様子が、葦が牙をむくように見えたので、 その姿に神の誕生を感じ、「宇摩志阿斯訶備比古遅神」と名前を付けました。

 葦が茂っていたとは、この前には、書いてありません。書いてないのに、分かったということは、高天原は、この時は、高原でしたが、高原の前は、湖でした。
 それは、高天原が、ヒルゼン高原が、紀元100年前頃は、まだ少しは、湖は残っていたのではないかと推理します。

ネットでヒルゼン高原の誕生を調べて見ました。

蒜山高原の誕生
http://cms.top-page.jp/p/maniwa/hiruzen/5/4/3/

以下、記事を無断拝借します。素晴らしい内容です。

東西20km、南北10kmに広がる蒜山盆地は、その昔、南の中国脊梁山脈から日本海に傾いていました。
約100万年前頃、火山の活動により蒜山三座が誕生した。それまで川は中国山地から北へ流れていた。蒜山三座の出現により、流れは西に方向を変え、上蒜山の西側より日本海側へ流れ込むようになった。更に約35万年前、大山の噴火によって西側がせき止められ、蒜山原湖が誕生した。
南を中国山地、北を蒜山三座に囲まれた200km平方の蒜山原湖には珪藻(けいそう)が繁茂した。珪藻は珪酸質の殻を持つため、死後からは湖底に堆積していった。珪藻が生息していたのは5万年間と推定され、珪藻土の最も厚いところは約100mに達するとも言われている。
その後も大山の噴火活動は続き、現在の真庭市蒜山地区西部あたりは噴出物で埋まっていった。逆に湖の東部は旭川水系の浸食を受け、湖水は南へと流出し始めた。やがて湖は干上がって消滅したが、珪藻は化石となって残った。蒜山高原の誕生である。

以上ですが、紀元前後の頃は、まだ、少し、湖岸は残っており、葦が生えていたと推察します。

 太安万侶が天武天皇から、間違っている帝紀と本辞を正しくしないと、「今の時に当たり、その間違いを改め無かったら、未だ幾年もしない内に、その旨滅びなむとす」と言われたと序文に記しました。

従いまして、この序文のことを知っているのは、稗田阿礼か、太安万侶しかいないと思って、始めにここを訪れたのは、稗田阿礼と考えました。しかし、こんな寒い特に、このような湖岸で太安万侶も住んで居なくても、一度、ヒルゼン高原を訪れたのではと考えて、前回は、太安万侶が、「宇摩志阿斯訶備比古遅神」の存在を感じたと考え直しました。

所が、この時点、どちらにしても、雪の落下---葦の雪が崩れ---葦の葉が飛び出した この様子を太安万侶が「宇摩志阿斯訶備比古遅神」と書いたのだ思ったのは、田村誠一氏では無かったかとは、以前から、考えていました。
 それは、田村誠一氏の著書に、「ここに住んでいたものなら、直ぐに判ることだ」と書いてありました。著書は、厖大な量です。どこに書いてあったか、その後、確かめていませんが、発行書は、始めから、岡山県真庭郡川上村と記し、番地まで、書いてあります。

第十九話から、大阪市内が発行書になっています。
以上のことから、岡山県真庭郡川上村での住まいは、夏だけの避暑地と勝手に考えていました。しかし、夏でも、湖岸であったことや、葦原であったことは知って居られましたから、「ここに住んでいたものなら、直ぐに判ることだ」の言葉は、想像だけだと思っていました。
発行日は、1984/11/21ですから、21年前の事です。

それでも、私は信仰心が全く有りませんから、お墓参りはしますが、もし、ヒルゼン高原で、別荘を持っていても、春の雪の季節を愉しむ趣味は有りませんから、原稿を投稿したものの、これは、やはり、駄目だなと思っていましたら、私の考えを変えさす、二つの事件 がありました。

 テレビは、ニュースと相撲ぐらいしか見ないのですが、昨晩は、「ぶらタモリ」を見ました。

そして、もう一つは『日本人の神さま』 戸井田造三著を寝間に持ちこんで、27ページ迄、読んで、これだと思いました。

この本は、買った記憶もありません。勿論読んだ記憶もないのですが、きっと、10ページ程読んで面白く無いので、本立てで眠っていたと思います。(こんな事もあるのですね)

27ページまでの概要です。
戸井田氏の友達は小学校の先生をして居られたのですが、授業で「かぐや姫」の話を取上げた時、ある男子生徒が、後日、かぐや姫の話は、嘘だと言ってきました。

 どうしてかと言いますと、生徒は竹屋の息子さんで、お父さんは、毎日、毎日、沢山の竹を切っているが、かぐや姫をみたことがないと。
 いろいろ説明して、かぐや姫の話は、あり得ないことですが、もう少し詳しくお話をされましたが、説明できなくて困られたというお話です。

 私はこの本を読んで、どうしたかといいますと、26ペ―ジまで、読んで、これは面白いと思って、寝ましたが、起きてから、これを書いています。

以下、戸井田氏の記事です。   次回に続く

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(227)古事記の神さん(5) [日本の歴史]

神を近くに感じることは有りますか。
大切なことは、例えば、ハイキングに行って、自然界にどっぷり、使っても、自然に神を感じる人は、少ないでしょう。
と成りますと、古事記のこの部分を理解出来る人は、少ないと思います。

前回、葦牙を見たのは、稗田阿礼と書きましたが、案外、太安万侶が、雪が積もる木の上から、雪が解けて落ち、下の雪の下から、葦が元気に、姿を表しました。 その葦は、既に、牙のように、尖った、姿をしていたのを見て、その自然の元気さに、神を感じたのは、太安万侶だったかも知れません。
その神に「宇摩志阿斯訶備比古遅神」と名前を付けました。

これは、太安万侶の「阿斯訶備」を翻訳者が、勝手に「葦牙」と読み変えただけかもしれません。
ヒルゼン高原の冬は、厳しくて、長いと思います。古事記が描く、時代は、700年頃です。現在より、日本全体は寒かったと思います。又、長い冬があける雪解けの時は、一層春が来た気分になると思います。これは大いなる喜びです。
雪の下から、葦が牙をむくように、雪の下から覗いた時、神の姿を見たと思います。
そして、その神の名前を 「宇摩志阿斯訶備比古遅神」と呼びました。

では、その前に登場した神の名も、雪の下からやって来たのかと言いますと、太安万侶は、幾つもの神の名を記し、この人達は、「別天つ神」と記しました。
「天」は、「テン」ではありません。「アマ」と読んでくださいと太安万侶は、古事記に書きましたのに、翻訳者の倉野憲司氏は、翻訳本には書かれませんでした。
原文には、天之御中主神の次に、「訓高下天、云阿麻。下效此、」と書いてあります。

「訓高下天、云阿麻。下效此、」の部分を翻訳者は、全く書いて居られません。
きっと、意味が判らなかったのだと思います。

普通は、天の字は、「阿麻」とは読みませんが、「阿麻」と読んでください。これから後にも、「天」の字が登場しますが、「以下は同じように読んで下さい」=「下效此」と記しました。

この部分は、凄く重要な所だと思います。「天」の字の付く人達は、大陸からやって来ました。 稲作をする人達です。
日本には無かった稲作を伝えましたから、その後は、日本は、食糧には困りませんでした。
この後には、日本の国を建てなおしたのは、伊邪那岐神と伊邪那美神だと書いています。
本当に、建国の立役者です。

もう一度、古事記を読んで下さい。 
命令したのは、「天つ神」です。二人の神(イザナギとイザナミ)は、「天の沼矛」貰って、、一任されました。(言依さしたまひき)
「天の沼矛」とは、現在でいうスコップのことです。
「天の沼矛」と書いてありますから、「天つ神」の人達がもって来た道具です。

その内に、古事記は、イザナギとイザナミは、どんどん国を生んだと書いてあります。

その証拠は、全国に、イザナギとイザナミを祀る神社がありますから、分かります。

問題は、それほど、凄い神は、どこからやって来たかは、古事記は書かないで、初代の神武天皇が誕生したことを記しています。

これ以降も、天皇を中心に古事記は書かれています。

この偉大なる初代の神武天皇は、どのように偉大であったかは、記していませんが、本当は、記されていましたが、消されたのではないかと考えています。

どうしてかと言いますと、天皇よりも、本当に建国したイザナギとイザナミもどの様な人かを書くべきでしたが書いてありません。

そこで、二人の先祖は、東北地方に住んでいた人達が、理由は判りませんが、中国に渡りました。中国の北狄辺りに住んでいましたが、又、日本に大移動して来た人達が、イザナギとイザナミだという歴史を、先日まで、書いてきましたが、残念ながら、賛同を得ることはできませんでした。素人の私が、中国の北狄からやって来たことを導いたのですが、無理の様でした。


別に、賛同して戴かなくても良いのですが、現在の日本の歴史は、紀元前に日本に住んでいた縄文人と弥生人が、そのまま、現在の日本をつくったのだという歴史が正しいことになっています。

そうかも知れませんが、この辺りの説明がされていません。
どの人も、納得のいく歴史でないと歴史とは言えません。


もう一度、原文一部を記します。
天地初發時、高天原成神名、天之御中主神、訓高下天、云阿麻。下效此、次高御產巢日神、次神產巢日神。訓高下天云阿麻下



天照大御神を指導者とする人が、大陸から連れて来た人ですと書きました。

古事記は、むずかしいですね。

唯、宇摩志阿斯訶備比古遅神は、古事記に書いてある神であって、実際に信仰の対象になる神ではありませんと書きましたが、次の神社では、祭神になっています。


物部神社 別天神
島根県大田市川合町川合1545
胸形神社
栃木県鹿沼市村井町1088
出雲路幸神社
京都府京都市上京区幸神町303
間山豊富神社
長野県中野市大字間山字宮上262

次のブログより、拝借しました。

宇摩志阿斯訶備比古遅神を祀る神社
http://www.genbu.net/saijin/umasiasikabi.htm
四社も見つかったのであれば、宇摩志阿斯訶備比古遅神は高天原で見つかったとは限りません。
しかし、高天原に存在した宇摩志阿斯訶備比古遅神が、その後、上記に移動して、祀られているのかも知れません。
この様な時には、現地の神社へ行って、宮司さんのお話を聞く必要があります。


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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(226)古事記の神さん(4) [日本の歴史]

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(223)古事記の神さん
 において、
古事記では、伊邪那岐神と伊邪那岐命と二種類の神の名前が書いてあることを書きました。
日本書紀では、古事記と競う様に、「尊」を付けて、「国常立尊」と書いています。

「天地が開けた始めに、国土が浮き漂っていることは、たとえていえば、泳ぐ魚が水の上の方に浮いているようなものであった。そんなとき天地のなかに、ある物が生じた。形は葦の芽のようだったが、間もなくそれが神となった。国常立尊と申上げる」

----大変貴いお方は「尊」といい、それ以外のお方は「命」といい、ともに、ミコトと読む。以下、すべてこれに従う-----

次の部分は、おかしいですね。
----大変貴いお方は「尊」といい、それ以外のお方は「命」といい、ともに、ミコトと読む。以下、すべてこれに従う-----

前半は、許せるとしても、後半の「ミコトと読む」。命の部分は、ミコトと読むのは、良いですが、「尊」をミコトと読みなさいと言うのは、無理でしょう。

ただ、神武天皇と崇神天皇の事を「ハツクニシラススメラミコト」と読ませる記もありますが、意味は、「ハツクニシラス」は名前ではなく、初めて天下や国を治めたという意味の和風謚号だと言われています。
最後にある「ミコト」は、天皇の事を言う様に見えますが、神武天皇と崇神天皇のお二人の天皇のときだけに用いられるようですから、天皇=ミコトでは無い様です。
天皇=スメラミコト呼称するようです。

この後に、多くの神が登場しますが、天照大御神の後、瓊瓊芸命---火遠理命---葺不合命---
神倭伊波礼毘古命(第一代神武天皇)と天皇になる前の関係ある神を登場させています。
 太安万侶は、天照大御神~神倭伊波礼毘古命の間に、多くの神の名前を入れて、古事記が、序文に書かれて有る様に、天武天皇の依頼により、古事記を作る理由を書きました。

特に、後ろの部分を読んで下さい。
天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合命以前を上巻となし、神倭伊波礼毘古天皇以下、品陀御世以前を中巻となし、大雀皇帝以下、小治田大宮以前を下巻となし、并せて三巻を録して、慎みて献上る。

 この文で、締めくくり、天皇に献上した形になっています。

どのように読んでも、序文全体を流れる内容は、天皇家の覚書を記しましたとの内容になっています。

であるのに、古事記の初めの部分は、
「天地初めて發けし時、高天の原に成れる神の名は、・・・」と地球が出来た頃からの記事からスタートしています。
 
 次に、「高天の原」という聞いたことのない地名を挿入しました。
この「高天の原」は、明治になる迄、どこの地名か判りませんでした。 ヒルゼン高原の事だったのです。

序文に天皇の依頼に対して、天皇家のことを記しましたと書きながら、古事記の本文は、出だしから、「高天原」や「オノゴロ島」と意味不明の事を書きましたから、読者はチンプンカンプンな文章で、半分、書いてあることが解らなくなりました。

日本書紀を作った藤原氏にとっては、都合が良かった事になります。 古事記の訂正文と思われる日本書紀という歴史書を僅か寝八年のさいげつで完成させました。

その後、100年間は、「古事記」は見つかりませんでしたから、日本における唯一の歴史書になりました。

「高天原」と「オノゴロ島」のことは、天皇家の人であれば、直ぐに、理解出来るように古事記を書いたと考えます。

平成の現在でも、歴史家のプロと言われる人でも、古事記の序文は、後の世の人が、作ったことが明らかで、日本書紀を真似して作った偽書であるという方が居られます。

 偽書と思わせる程、太安万侶の古事記は、作者の意図がわからなくなっていまして、成功だったと考えます。

 
以上が、私が主張しています「古事記は、神話ではなかった」と根拠になっています。

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