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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(196) 吉野ヶ里(39) [日本の歴史]

 記事が後先になりますが、新しい資料を見つけましたので、再度、地名に付いて考えてみます。

吉野ヶ里遺跡・平成11年~12年度の発掘調査概要

https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/24976/18480_1_%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1%E5%B9%B3%E6%88%9011%E5%B9%B4%E5%BA%A6%EF%BD%9E12%E5%B9%B4%E5%BA%A6%E3%81%AE%E7%99%BA%E6%8E%98%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%81%AE%E6%A6%82%E8%A6%81.pdf

矢印 ↓ をクリックしますと、ページが進みます。右横にページ数字が表示されます。

33ページ を表示してください。


地図の真ん中の「30」の位置が、吉野ヶ里です。

 少し、下に72、78、80、82、83 と横一列に並んでいます。地図の下に一覧表が有ります。
凡て、貝塚です。

「+」をクリックしますと、画面が、大きくなります。 画面の一番右端の立ての列の上と下に、「+」と「ー」があります。どちらかをクリックしますと、画面が上下に移動します。

何時の頃か判りませんが、ここは( 72、78、80、82、83 )海岸線で、人間が住んでいた証拠になります。
 吉野ヶ里から森ノ木貝塚まで、4km程です。

前々回に、上三津西、上三津東、下三津西、下三津東の地名が有ることを見て頂きました。
始めに、三津という地名あり、集落は、どんどん大きくなり、三津西、三津東と分裂し、その後、上三津西、上三津東に発展したのではないかと、推理しました。
 その時に、三津という地名は、「津」と有りますから、海岸線につけられる地名のはずなのに、おかしいなと書いたと思います。

三津は、やはり、海岸線にあったことが、地名から確かめることが出来ました。
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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(195) 吉野ヶ里(38) [日本の歴史]

 二つ前の「ピーリー・レイースの地図 」の話題に戻ります。

 羊の皮で作られた紙と思われる物に書かれた「ピーリー・レイースの地図 」の地図は本物だと思われましたか。
 紀元6000年前と云えば、日本は、縄文時代であったことになります。その頃の日本の様子は何も残っていません。
 ネットで調べた物の中に、二つのことが気になりました。

①日本から発掘された土器の中に、蛇の目が表されたものが、見つかっている。それに加えて、二匹の蛇が捻じれた状態のように描かれているものが多いが、どうして、多いのか、史学会では、説明がなされていない。 多いと書かれていますが、少しは有るのだろうと思いましたら、次のブログで、見事写真を見せられますと、

 蛇は信仰の対象だったのではと、素人でも考えたくなります
https://www.google.co.jp/search?q=%E8%9B%87+%E7%B8%84%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwiNgIuR-NXVAhWDi7wKHTjtDBMQsAQILA&biw=1536&bih=713&dpr=1.25

斎藤守弘著 『神々の発見』では、文章に書いてあったのでは、納得出来ないですが、写真の威力は凄いものです。
各写真をダブルクリックをしますと、大きくなります。

②「ピーリー・レイースの地図 」は、作られたのが、1513年と言われています。コロンブスが、新大陸を発見しましたと言われていますが、そこは現在のアメリカ大陸と呼ばれています。到達したのは、1492年です。「ピーリー・レイースの地図 」が、作られたのが、1513年と言われています。
 もう少し、年代が、降りますと、マゼランの1519年に始まる航海でスペイン船の艦船隊を率いた航海は、マゼランというよりは、スペインが国の事業として行った航海になります。

外には、ポルトガルの航海もありますら、「ピーリー・レイースの地図 」は、作られたのが、1513年と言われていますが、本当は、1492年以前の出来事で、
「ピーリー・レイースの地図 」に刺激されて、ヨーロッパが全体が、大航海にでかけたと考えた方がいいかも知れません。

③日本で発見される縄文土器は、縄目の模様ではなくて、二匹の絡み合っているという見方は、蛇が交尾をする姿だというのは、初耳でした。縄文と見たのが間違いと考える方が、納得いくお話のように思われます。


 なぜ、この様に書いたかと言いますと、

コロンブスなんて遅れすぎ?アメリカ大陸「発見」に関する雑学
https://matome.naver.jp/odai/2136731464934411301

 成る程、このように言えば、どこの国も、初めて発見した人など、だれか判りません。
それ位、古い時代から住んでいた人はいます。
 日本でも、6000年前に住んでいた人はいました。

コロンブスは目的もなしに、只管、アメリカを目指して、船を走らせたのではないでしょう。
「ピーリー・レイースの地図 」とは限りません。 これに代る地図を見てから、確かめるつもりで船を走らせたかも知れません。
 では、その地図を見せろと言われても、残っていない可能性の方が大きいです。

仮に、「ピーリー・レイースの地図 」を見たとして、確かめたくなったとますと、準備はどれぐらい掛るでしょう。

フェルディナンド・マゼラン----1522年
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%BC%E3%83%A9%E3%83%B3

 マゼランの時代の資料を読んでいますと、この頃は、各国が争って、新大陸発見を夢見て、航海に出掛けたことが判ります。

 必要なものは、地図か、水先案内人と成るでしょうか。

斎藤守弘著 『神々の発見』を今、改めて読んでいます。時間は掛かりますが、詳しく研究されています。
先ほど
写真の威力は凄いと書きましたが、斎藤守弘著 『神々の発見』の内容は、それ以上に凄いです。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(194) 吉野ヶ里(37) [日本の歴史]

 <吉野ヶ里 地図>で検索。

始めに、次のタイトルクリックします。
始めに表示された
佐賀県神埼郡吉野ヶ里町 - Yahoo!地図
https://map.yahoo.co.jp/address?ac=41327

をクリックしてください。

吉野ヶ里町(神埼郡)内のよく見られている住所が6つ書かれています。
6つの内、3つの地名に、「田」が付きます。

ここまで、上手く見つかりましたか。
見つからない時は、 「佐賀県神埼郡吉野ヶ里町 - Yahoo!地図」をこのまま、グーグルで検索してください。 一番上に表示されたものをクリックします。

吉野ヶ里町は、環濠集落で有名ですが、このように見ますと、入植した時に、すでに、稲作を知っていたから、「田」の字゛を地名に付けたと思われます。稲作が中心だった所であることが判ります
  大曲と吉田は、どこかで、見た記憶がありますが、外は、始めて見る地名です。

<三津>は、おかしいなと思いました。「津」は元々、船着き場だった所に付く地名です。
<三津>をクリックしますと、四つの津地名がヒットしました。
上三津西、上三津東、下三津西、下三津東

<三津>という地名は、割と早い頃に、入植された所ではないかと推理しました。
どんどん大きくなりましたので、三津東と三津西に分かれました。
次に、上と下に分けて名前を付ける程、発展しました。
上と下とは、北と南に分かれたのでしょうか。

ということで、「上三津東」をクリックします。
①の印が表示された所が、「上三津東」です。
 左上に、「+」と「-」が表示されていますが、「-」を何度かクリックしますと、地図は、小さくなります。上の方に、海が見えてきます。左手に、「唐津」が見えます。
津の地名は、このように海岸の近くに見えます。

このように考えますと、三津は、初めのころは、港に近かったことになります。
しかし、地図で見る限り、海まで、1kmは有りそうです。 紀元元年の頃は、海岸線は、現在よりも、日本の中心に位置しました。
 例えば、現在の国道2号線や、9号線は、昔、海岸線で、多くの人が歩いていましたから、現在でも、主要道路として使われていると考えています。
 一例としましては、大阪の住吉大社の鳥居の前は、国道26号線ですが、鳥居の所から、海の方を眺めて書いた絵が残っています。
 吉野ヶ里と住吉大社の海抜が判れば、港までの距離が判る筈です?


吉野ヶ里の住民は、絹をどこへ運んだかです。地図で見ますと、福岡か、唐津湾か、有明海になります。
地図を注意深く縮尺を変えますと、「吉野ヶ里遺跡」のある所は、吉野ヶ里公園と表示されています。
 「上三津東」より、南に、吉野ヶ里公園が見つかります。
この地図では、分かりにくいですが、北は山岳地帯となっています。

地図は、マウスの左ボタンを押したままにして、上下、左右に動かしますと、地図は移動します。
地図の左の部分も、クリックして、ご覧ください、


「三津」というところは、意外に広いことが判ります。


今度は、「吉野ヶ里遺跡」で検索してください。カラーで、地図が表示されますから、地図上にマウスを移動させて、ダブルクリックをしてください。
地図は大きく表示されます。

地図の右下に地図を大きくしたりする記号があります。
地図を移動させるのは、 マウスの左ボタンを押したままにして、上下、左右に動かします。

 地図は、見るのに慣れることが一番です。


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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(193)   吉野ヶ里(36) [日本の歴史]

 日本の資料では、吉野ヶ里の歴史を解明するには、追いつきませんので、世界に目を移す事にしました。
 そのきっかけになったのは、斎藤守弘著 『神々の発見』1997年6月15日発行です。私の書棚にありました。
 読んだ記憶が有りませんので、50ページほどを、一気に読みました。理解出来ない所が有りましたので、コンピューター調べることにしました。
 
キーワードに「世界地図 古代」を入力し、グーグルで検索しますと、二番目に、
ピーリー・レイースの地図 - Wikipedia がヒットしました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%9C%B0%E5%9B%B3

超現象の謎解き
http://www.nazotoki.com/map.html

 どんどん、コンピューターに現われる「ピーリー・レイース」の記事を読んでいますと、あっという間に、3時間ほど経過していました。

私が一番興味を抱いたの、紀元6000年前のことが、地図に描かれているということです。
①数隻の船の絵が描かれています。
②南極の部分には、「蛇」が描かれている。
③日本で発掘された縄文土器には、「蛇」の姿が刻まれた土器が多いと書かれていました。縄文土器とは、縄の捻じれた模様が有るから名前が付けられているように思われていますが、縄を押し付けて制作したからと言われています。そのような事は当たり前と思っていましたが、著者は、土器に縄を押しつけて作ったことは、立証されていると書いておられます。
 しかし、目玉を書いた理由は解明されていませんが、「ピーリー・レイース」の地図には、南極の所に、目のある蛇が書かれています。

④南極の蛇が図示されている所は、昭和31年(1956年)11月8日、出航式典
を行って、南極を目指し、基地を定めた所が、「昭和基地」です。

南極・昭和基地の紹介
http://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/kansoku/syowabase/syowa.html

 多くの隊員は、学者ばかりですから、昭和基地を定める時に、ピーリー・レイースの地図を知っている人はおられたのではと思いました。

斎藤守弘著 『神々の発見』の本は、読んだのでしょうが、記憶にありません。買った時は、読むうちに、こんな馬鹿な事と思ったのでしょうね。折り目もなく、最後まで読んだ形跡は有りませんでした。

 書棚に目をうつしますと、そのような本が一杯有りましたので、どんどん読み始めました。そして、コンピューターの知識と併せますと、馬鹿げたと思っていた頭は、簡単に洗脳される事と成りました。

『ピーリー・レイースの地図』に書かれていることは、本当の事だなと信じる事になりました。

ピーリー・レイースの地図の事は、 古い本でも、もう一度読んでみると発見があることを知りました。

 私は日本へは、ユダヤ人が紀元前からやって来ていたと何回も書いて来ましたが、そのような古いことは、少し、無理があるなとは思いなが書いてきました。
 その例として、「神」の字が付く、地名とか、人は、ユダヤ人に関係あると書いてきました。
例が多くなれば、証拠がなくても、そのように考えても良いと思いながら、書いてきました。

吉野ヶ里の地名が気になりました。

吉野ヶ里は、神埼郡にあります。
そして神崎市という地名もあります。
同じ神埼でも、郡のほうは、古い時代に付けられて、市の方は、最近になって付けられたのではと思いました。

記録にないような古い時代のことを知るには、地名が役に立ちます。

次回は、吉野ヶ里の地名のことを書きます。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(192)   吉野ヶ里(35)  [日本の歴史]

吉野ヶ里は、日本中で生産された絹を最終的に集められたところだと考えています。
 どうして、ここに集めなければならなかったかです。
 
 ここに集められた絹は、凡て中国に運ばれたと考えています。そして、世界中に運ばれたと考えています。
 どうして、そのようなスケールの大きいことを考えるのかと言いますと、一番に、絹は金銀と同じぐらいの値打ちが有ったらしいからです。
 ただ、運ぶ時には、同じ金額であれば、嵩が多い点は、欠点です。絹を日本から、中国へ運び、イタリアフランスまで運ぶには、船を使わないと、道中、危険と労力が多すぎます。

 現在、船の経路を探っていますが、船の航路が、100%見つかりません。

吉野ヶ里が世界に絹を輸出する拠点であると仮定した場合の有利な点は、次のようになるでしょうか。
 ①港まで、1kmも無かった。
 ②吉野ヶ里の周りにあった集落は、すべて、漢人の集落だったと思えること。
 ③吉野ヶ里が環濠集落であることです。
 ④全国の環濠集落は、漢人によって、支配されていた。

 上に挙げましたことは、どれ一つとして、日本の歴史学界で取上げていないのが、最大の欠点です。

 欠点の最大の理由は、時代が古すぎるからです。2000年前から、吉野ヶ里が誕生したとしますと、絹の歴史は、紀元前からあったようです。しかし、現在の歴史に対する考え方では、記録されたものは、古事記と日本書紀しか残っていません。

世界では、歴史は、6000年前に遡れます。

その話を次回、書いてみます。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(191)   吉野ヶ里(34)  [日本の歴史]

 前2回に分けて、延喜式内社はどのような神社かを書いて来ました。
 書いたものの、読んで納得された方は少ないのではないでしょうか。

式内社とはどのような神社であるかを箇条書きしますと、
①平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典に書かれている延喜式神名帳に記載されている神社。
②政府より、幣帛を受けていた神社
③社格が高かった
④法律書では、律・令・格の施行細則を記していますが。その中の細部の「式」に分類される所に、延喜式内社の名前が書かれています。

何故、3032座の神社が特別なのかは判りません。

延喜式の編纂は、延喜五年(905)八月、時の政府首班であった左大臣藤原時平に対して、編纂の詔命が下り、次の人々が編纂委員に任命されました。
 藤原定国・藤原有穂・平惟範・紀長谷雄・藤原菅根・三善清行・大蔵善行・藤原道明・
大中臣安則が、任命されました。

大化改新(645年)以後は、延喜式の編纂に関わらず、あらゆる点に於いて、藤原氏によって、時代は造られたのではないかと考えています。

それと不思議なのは、法律書であったところの、律・令・格の施行細則を記した所の片隅に、延喜式神名帳がどうして、書き残されたのか理由が判りません。

いくら考えても、判りませんが、多くの式内社を訪問するだけで、その時の朝廷から大切にされていたことが判りました。

「式内社と祭神」の表に書かれている数字が少ない所が、天皇家の勢力が強かった所というのは、田村誠一氏以外、謂われた方はないように思います。

 田村氏は、式内社が、少ない所に目を付けられたのではなくて、多い所に目を付けられました。
全国に一杯あった神社の内、3032社を選んだのは、藤原氏だったということです。

なにを基準に選んだかは、どの歴史書にも書いてありません。

延喜式内社は、幣帛を受けていた神社と書いてあるものが残っているだけです。

幣帛とはなにかは、上に書きましたが、私でしたら、貰っても、あまり嬉しいものは有りません。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(190)   吉野ヶ里(33)  [日本の歴史]

「式内社と祭神」の表は、私が作ったものですが、嘘は書いていません。神社の名前と、祭られている神さんの名前を書きました。
 本当は、祭られている神さんが、どのような神さんかを分析したいのですが、体力不足です。

延喜式神名帳
平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、醍醐天皇により延喜五年(905)八月に編纂を開始、 二十二年後の延長五年(927)十二月に完成した。
 五十巻三千数百条の条文は、律令官制の二官八省の役所ごとに配分・配列され、巻一から巻十が神祇官関係である。  延喜式巻一から巻十のうち、巻九・十は神名帳であり、当時の官社の一覧表で、祈年祭奉幣にあずかる神社二千八百六十一社 (天神地祇三千百三十二座)を国郡別に羅列している。

上記の文章は、
延喜式神名帳 
http://www.genbu.net/engi/
より拝借。

延喜式神名帳は、上記のことより、完成までに、22年間を要したことになります。

私は3132座をできるだけ訪れて見ようと、殆どを車で訪れました。 記録も記憶も残っていませんが、最後の滋賀県の時は、諦めた時は、滋賀県だけで、三年経過していました。
 
滋賀県は、一覧表で見て戴ければ、分かりますが、155座で、三番目に多いことが判ります。

はじめは、湖東を重点的に訪れていました。理由は、こちらでは面白い歴史が見つかると思っていました。
 滋賀県のマップ
http://kofun.info/kofunlistmap/28

 しかし、ある時に、湖西を車で走りましたら、比叡山の山麓に、古墳があるので行きました。古墳は、少し登った所にありました。手の加えられていない、巨大な石で造られた古墳が一杯でした。

 滋賀県訪問の、三年間の内、古墳群に多くの時間を費やす事になりました。
皇子山古墳や百穴古墳をネットで検索して戴きますと、多くの方が、写真を掲載して居られます。 どれほど、高い所に古墳があるか、また、その古墳の立派さを写真でご覧ください。
 私も一杯写真を写しましたが、ハードディスクに保存しただけで、見たことはありません。
「式内社と祭神」の表は、私の独断ですが、式内社が少ない所は、天皇家の支配が強い所です。 但し、927年前後の事に限られます。 多い所は、例えば、住民の人口を調べれば、きっと、多いと思います。

 話はあちこちに飛びましたが、927年前後では、間違いなく、吉備では天皇支配が強かったことになります。

唯、神武東征、紀元元年ころのことですから、927年間ずっと、吉野ヶ里が栄えたとは限りません。

式内社とは、定義は難しいですが、延喜式神名帳に記載される神社を言い、政府より幣帛を受ける神社を言うようです。

明治〜大正期の幣帛料
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%A3%E5%B8%9B

「帛」は布を意味し、古代では貴重だった布帛が神への捧げ物の中心だったことを示すものである。
『延喜式』の祝詞の条に記される幣帛の品目としては、布帛、衣服、武具、神酒、神饌などがある。
幣帛は捧げ物であると同時に神の依り代とも考えられていたため、串の先に紙垂を挟んだ依り代や祓具としての幣束・御幣、大麻なども「幣帛」と呼ぶ。


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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(189)   吉野ヶ里(32)  [日本の歴史]

前回のページを読まれたら、がっかりされたと思います。
こんな歴史なら、もう要らないと思われた方が多くて、きっと、読者は激減と思います。
(激減を書いたのは、2日前です。 750人の方に読んで頂いていましたが、一日に、100人減り。2日で、200人減り、読者は550人になりました)

昨日、岡山県の件(岡山県は、戦後、漢人の勢力地か、天皇の支配する所か)は、解決しました。
 どうして分かったかと言いますと、次のブログを眺めていて、判りました。

次のブログは、私が作ったものです。未完成のものですが、時々、私の頭を刺激してくれます。

式内社と祭神
http://o-mino.la.coocan.jp/page257.html
どうして解決したかと言いますと、神武東征では、広島と岡山においても戦をしたと考えていました。一覧表を見て頂きますと、岡山の文字は無くて、備前と備中と備後しかありません。
 これまでに書いてきました記事には、岡山と吉備と混ぜて使っていますが、頭の中では、岡山で、戦をしたと考えていたようです。

この表は、一目で、何処の国に、延喜式内社が何社在るかを纏めただけのものです。

式内社が制定されたのは、927年です。

 『式内社』をネットで検索しますと、次のように書かれています。
「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。本来「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表を指し、官社帳ともいう。国・郡別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。延喜式神名帳とは、延喜式の成立当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座である。 では、延喜式とはどの様なものかと言いますと、延喜式の内の「延喜」は、平成と同じ様な、時代を表していますから、「式」が何かということになります。

虎尾俊哉著「延喜式」で見ますと、
一般的な用法においての法律や法制という意味を示すばかりでなく、もう少し限定的な意味を持っている。すなわち、「律」「令」「格」というような他の法典とは区別され、しかもこれらの法典とともに一連の体系的な法典を群を形作っている特定の法典を指す言葉なのである。(残念なことに、私には、理解出来ない事柄です) そして、こういう特定の法典 としての「式」、これは実は中国大陸に発達した漢民族の法律文化から学んだものに外ならない。前に引用した七世紀はじめの留学生の帰朝報告に見える意見具申は、そのまま政府に採用されて、その後わが国は唐の法制をとして暫時法典の編纂を行って行ったのである。 と記しています。
 
では、具体的には誰が、いつ頃から、法典の編纂を作り始めたかは、書かれていません。 漢文を読むことが出来る人が、「七世紀はじめ」以降ということになります。

「七世紀はじめ」は留学生が帰国した時です。 その後に、歴史上重要なことが、起こっています。
 645年の「大化改新」です。

「大化改新」の大化は、日本ではじめてつけられた元号の名前です。
こちらも、中国のシステムを取り入れましたから、中国語の理解出来る人しか、出来ない仕事でした。
 
 長くなりましたかので、すべて省略しますが、すべて、藤原氏が行ったことではないかと考えています。 この藤原の名前は、天皇から拝命された事になっています。

又もや、書きはじめの、「式内社と祭神」から離れてしまいました。
 次回にします。


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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(188)   吉野ヶ里(31)  [日本の歴史]

 タイトルは吉野ヶ里なのに、記事は色々の話題が混ざっていて、途中から読まれた方は、意味が良くお分かりになられないのではと、思っています。

 少し、私の考えていることを書いてみます。
九州佐賀県の海に近い所に、「吉野ヶ里遺跡」が有ります。
 遺蹟があることは、早くから(1986年)分かっていたそうですが、1989年(平成元年)2月23日の朝日新聞一面が突如、

”邪馬台国時代の「クニ」”

”佐賀県吉野ヶ里 最大級の環濠集落発掘”

”物見やぐら・土塁 倭人伝と対応”

こんな見出しで飾られました。
 この頃は、ここが邪馬台国という候補地は一杯あったころでした。 しかし、歴史好きの人は、大騒ぎで、連日、吉野ヶ里に詰めかけました。 私もその一人でした。

吉野ヶ里は、邪馬台国では無かったようですが、どのような遺蹟なのかは、説は一杯あります。

私が思っている吉野ヶ里は、『日本中で、作られる絹の集積地』ではないかです。集めた絹は、ここから中国に運ばれました。

 この説は、田村誠一氏が、提唱されたものですが、賛同する人は、どうやら、私だけのようで、正しいことを説明しようと頑張っています。

 説明のメインは、
 ①各地の生産地から、吉野ヶ里までの道を提示すること。
 ②吉野ヶ里までの距離が長いですから、協力者がいなければ、達成出来ない。
   という考えから、これまでに、出雲大社と籠神社を提示してきました。
 ③現在は、吉備国の人が、協力者であったと目星をつけて、記事を書き始めました。
  神武東征のおり、天皇が、一番手コズッタ 相手では無かったかと考えました。
これは、正しかったようです。吉備は大きな古墳が一杯です。造山古墳は、日本中で、
  第4位の大きさです。 前方後円墳後円墳も一杯です。

  古墳が多いということは、多くの人が、死んだのですから、天皇家が勝ったとも考えられますが、その後、  岡山県は、天皇家が支配していたという証拠が見つかりません。
 
 吉野ヶ里は、中国の人が、支配していたのではないかと考えています。その証拠は、一杯ですが、飛ばして、神武天皇は、紀元前、40年頃に、吉野ヶ里を攻撃して、その後、広島、岡山を征伐、そして、奈良の橿原に宮城を定めましたという歴史の流れを考えています。

 岡山では、和解して、奈良に向かったとしますと、その前に、大阪では、ナガスネヒコとの戦いで、苦戦、そして和歌山を経由して、奈良に到達です。
 
 いや、和解では、前は、ナガスネヒコ。後ろは、吉備に挟まれて負けますから、吉備は一応征伐したはずだと考えたり、大筋が定まりません。 と云う次第で、目下、思考停止の状態です。

長髄彦(ながすねひこ)  
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%AB%84%E5%BD%A6
 ウィキペディアでは
長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。
と記し、作り話になっています。

このような解釈としますと、日本の歴史は無茶苦茶ですね

作り話としますと、その後、和歌山に回った話も、作り話になります。

古事記や日本書紀は、都合のいいところだけ、本当の事で、都合の悪い所は、作り話という考えは、悪くはありませんが、その点が、太安万侶が苦心した古事記の文章でしょう。

 正直に凡て、本当のことを書いて居れば、古事記は、とうの昔に、燃やされて、新しい古事記が書かれていたのではと思います。

さあ、私の考えが、認められることはあるのでしょうか。

こうなりますと、私の吉野ヶ里は、最終の絹の集積地というお話は、あやしくなってきます。


参考資料
日本最大級の環壕集落跡「吉野ヶ里遺跡」で邪馬台国ロマンを体感
http://www.tabirai.net/sightseeing/tatsujin/0000033.aspx

吉野ヶ里遺跡の紹介
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=19
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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(187)   吉野ヶ里(30)  [日本の歴史]

前回の記事は、「華中ルート」も存在するのだという大新聞社の読売新聞社が、報道されましたので、気に入らなくて書きました。
 しかし、自分で読み直してみても良く解らない文書ですね。

絹は中国から日本に伝えられたものであるという流れは、定着しているようです。それらに加えて、「最古絹片には華中ルートもある」という記事が、読売新聞の記事です。

吉野ヶ里遺跡は、日本中の絹の集積地であり、漢人が取りしきていたのではと推理しています。ただ、それだけのことですから、この遺跡から、見つかった絹が、日本製の絹であるという資料は見つけていませんが、立岩遺蹟から見つかった絹を調べた結果が、布目順郎著 「養蚕の紀起源と古代絹」に掲載されていましたので、ここに書かれた資料から判断すると、立岩遺蹟の絹は、中国製ではなくて、日本製だと判断しました。

 両国で見つけられた絹が何時作られたかは判りませんが、日本製であったということは、凡ての絹が中国からもたらされたという考えは、改めなければいけないのではと思い始めています。

 今後、発掘される絹は、必ず、布目順郎氏の手法で、①完全度と②繊維断面積を調べますと、日本製の絹を見つけることが出来るのではと考えました。

このように考えますと、世界で発掘される絹は、中国が発祥地という推理は、変えなくてはいけないのではと思いました。
では、中国の外に、どの国で作られたと考える必要があります。桑の木が生えていた国では、養蚕が行われていた可能性が出てきます。
 調べて見ましたが、紀元前に、桑の木があった国が見つかりません。

インドやインドネシアなども、桑の木があった様です。
だから、絹がつくられていたとの証拠にはなりませんが、ユダヤ人が関係していたと考えますと、紀元前の事になりますから、インドやインドネシアも調べて見る必要があります。
 中国は、絹織物の輸出は行いましたが、生糸の生産方法や技術は、制限していたようですので、この点も調べたく思っています。
 

参考資料
世界の養蚕業の変遷
http://www.silk.or.jp/silk_gijyutu/pdf/1-4setsu.pdf

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