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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(91)別天つ神五柱(3) [日本の歴史]

古事記を読む時の基本は、訳本を読んでも、読んだことになりません。何故かと云いますと、前回書きましたように、訳本(岩波文庫 倉野憲司校注)には、太安万侶が、一々、注意書きを書いたのに、其の部分が翻訳されていないからです。

古事記は、歴史書ではありません。 日本書紀も歴史書ではありません。だからと言って、これに代る歴史書はありませんから、ここに書いてある事から、この部分は、正しい部分だとか、少し、膨らませて、紀元前、300年頃の歴史を推理するなど、古事記の研究は欠かせないものだと思います。

 前書きが長くなりましたが、古事記の始めの部分では、太安万侶はなにを言いたかったかと云いますと、
一番に、建国を始めた所は、「高天原」であった。
次に、始めた人は、五人の神々であったこと。
次に、その五人の神は、寄り抜かれた「天つ神」であったこと。
次に、国土の建設は、合議制であって、その指導者に選ばれたのは、伊邪那岐命と伊邪那美命であったこと。

 如何ですか、このように考えていく時に、太安万侶は、どうしてこのように注意書きを入れなければならなかったか。その理由を考えない訳にはいきません。

 古事記は、天皇家の歴史を書いたものであると考えています。 日本書紀は、古事記に八年遅れて完成したものですが、誰がつくったとは書いてありません。 書く事は出来なかったのだと思います。
 古事記は、天武天皇の要請によって作られ事になりましたが、遅れて完成しました。一方の日本書紀は、証拠はありませんが、藤原不比等によって、作られたのではないかと考えています。
 このことの証拠らしきものとしては、「壬申の乱」があります。この乱は、皇族同士の争いとされていますが、私は日本と唐(中国)の戦いだったと考えています。

私のブログに、「帯広発~大阪行」が有ります。
http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/
このページは、カテゴリ別に、整理しております。 画面をどんどん下へ移動させますと、
 左側に、カテゴリ118と表示した所があります。これをクリックしますと、
壬申の乱(125)  日唐戦争(67) 大海人皇子(24)  最後に と表示されて、数字は違いますが、12回目の記事がヒットします。 ここには、5回分が収められています。

では、一回目を見る時は、下にスクロールして、先ほどの、カテゴリーをクリックします。
ここで、検索の欄に、「壬申の乱(1)を入力しますと、ヒットします。


壬申の乱(1) 日本の歴史の不思議
http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/blog-entry-532.html

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(90)別天つ神五柱(2) [日本の歴史]

 逆戻りしたついでに、「別天つ神五柱」のことをもう一度書いてみます。

太安万侶は、文章を書くときに、注意書きを書いています。下線の部分です。
原文は、縦書きされていますから、(訓高下天、云阿麻、----高の下の天を訓ずる時は、阿麻アマと云う。  下效此 以下は此れに效う)
 
天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御產巢日神、次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時流字以上十字以音、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。

 次の三ヶ所も、太安万侶の注意書きです。読んで下さい。
①「流字以上十字以音」
②「此神名以音」
③「訓常云登許」
④「訓立云多知」


 読めましたか。
① 流の字より上の10字は、音だけです。 漢字の意味はありません。
② この神の名---宇摩志阿斯訶備比古遲神は、音だけです。漢字の意味なし。
③常の漢字は、「登許—トコ」と云う。音だけです
④立の漢字は、「多知タチ」と云う。 

 以上の事から、「天之常立神」の読み方は、「アマノトコタチ」と読みます。

岩波文庫の「古事記」翻訳本は、この下線の部分の翻訳はされていません。この部分は、太安万侶が拘った重要な部分ですから、正しい原文で、確認する必要があります。

グーグルで、「古事記の原文」 を入力しますと、探したい言葉を入力する言葉を書きこむところが表示されます。例えば、 「天之常立神」を入力します
次に、古事記を検索する←click! をクリックします。
古事記の原文を検索の「」の中に、天之常立神を入力しますと、

「古事記 上-2 神代記」と 斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。上件五柱神者、別天神。次成神名、國之常立神訓常立亦如上、次豐雲上野神。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。次成神名、宇比地邇上神、次妹須比....→ このページで合計1件ヒット

と表示されます。

多い時は、画面一杯で、何処に、検索語が有るか判りません。
この様な時は、「古事記 上-2 神代記」をクリックしますと、もう一度検索画面が出ますから、ここへ、もう一度、「天之常立神」を入力しますと、次回、表示された文面には、「天之常立神」は黄色に表示されて確認が簡単になります。

「伊邪那美命」で検索しますと、11ヶ所表示されます。 少し、練習しますと、直ぐになれます。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(89)別天つ神五柱 [日本の歴史]

 前回の淤能呂島の解析はいかがでしたか。

 復習しますと、
①淤能碁呂島は、伊弉諾命と伊邪那美命が最初に造った御所だったことになります。
②淡路島も島ですが、これは、自分が造った島ではなくて、二人が、日本にやって来た時に、ここを根拠地にしようと決めた所で、自分達が日本に来てから、手に入れた所では無いですから、淤能碁呂島も淡島も「子の例には入れざりき」と記しました。

と云うことは、その後、伊弉諾命と伊邪那美命とは、沢山の国を生んだと記していますが、これらの島は、戦ったり、話合ったりして、獲得した島と思われます。

古事記の本文を後ろに戻りますと、
天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神の神
を上げて、太安万侶は、この五人の神は、「別五柱の神」だと記しました。

これで、少し、日本の歴史の始めの部分に到達したことになります。

高天原にやって来た人達は、五人組の別天つ神で、その次に、高天原にやって来たのは、神世七代と云われる人達です。この七人のうち、最後にやって来たのが、伊弉諾命と伊邪那美命です。
 この二人は、どこから来たと思われますか。 ヒントは、太安万侶が書いてくれました。

 伊弉諾命と伊邪那美命が淤能碁呂島を造成する時に、「天の沼矛」を準備して、「天の浮橋」に立って、沼矛を使って、「こおろこおろ」と、漂える国から淤能碁呂島を完成させました。
「天の沼矛」と「天の浮橋」には、「天」時が含まれています。 沼矛がどのようなものか判りませんが、天の国から持参した道具でしょう。一番に頭に浮かぶものは、スコップでしょう。堅い木が材料で、先の方は、平らな板を差し込んだスコップ様の物ではないでしょうか。

「天の浮橋」が分かりませんが、これは、多分、太安万侶の造語ではないでしょうか。太安万侶は、古事記の始めに、「高天原に成れる神の名は」と書き始めましたが、この高天原は、何処に在るのかは、書きませんでした。
しかし、それらしいヒントになるものは書きました。
①「国稚く浮し脂のごとくして、海月(くらげ)なす漂える時、葦牙の如く萌え騰がる物によりて・・・」と、木の枝に積っていた雪が溶けだして、くらげが漂っているようだと、表現しています。落ちた雪の下から、葦が顔を出しましたが、葦は、牙を出すかのように、勢いよく、伸び始めました。
  これは、ヒルゼン高原の住民で居られた田村誠一氏は、この高原は、ヒルゼン高原の事だと思われて、古事記の研究をはじめられました。

 古事記は、稗田阿礼が多くの神社や村を調べられて、その資料を元にして太安万侶が古事記を作ったことになっています。 稗田阿礼は、ヒルゼン高原の住民だったと思います。

蒜山高原では、朝には、必ず、雲海が発生します。
田村氏は、中蒜山の五合目に、日留宮が築かれたとしておられます。 この五合目あたりに、雲海が掛かります。
 このような話は、稗田阿礼から、太安万侶は聞いたでしょう。

 中蒜山の五合目が淤能碁呂島であるなどと、古事記に書いて居れば、直ぐに、遺蹟は、壊されて残らなかったと思います。
 これからでも、遅く無いと思います。発掘調査をすれば、少しは、その証拠は見つかるのではないかと思っています。

参考に---小さな発見 天沼矛-----私の書いたもです http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2014-10-29

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(88) 淤能碁呂島(2) [日本の歴史]

 ネットに見られる淤能呂島を紹介します。

①淤能碁呂島(おのごろじま)は実在した!
 http://ameblo.jp/kengonagai/entry-10327284007.html   淤能碁呂島=絵島

②オノコロ島
http://nihonsinwa.com/page/762.html
オノコロの由来は「自ずと(おのずと)」「凝り固まる」

③淤能碁呂島(おのごろじま)は 能古島
http://hisamitsu.exblog.jp/24203776/ 未だ 謎だとされておりました

 どなたも、正解は書いて居られません。
それでは、私の考えを
 太安万侶は、高天原にやって来た神々を紹介しました。

その後に、次のように記しました。
「ここに天つ神諸々の命もちて」・・・・。 伊邪那岐命と伊邪那美命に 「この漂へる国を修め理り固め成せ」
と命令しました。
 天つ神とは誰であるかも、太安万侶は、記しています。 「五柱の神」です。 と記しておきながら、「別天つ神」だと断っています。

大切なことは、日本の建国は、合議制であったことが解ります。 そして、国作りは、伊邪那岐命と伊邪那美命に託されたことも判ります。

そして、最初に作ったのが、 淤能碁呂島です。


① 「島」とありますから、周りは、水か海水に囲まれた島になります。しかし、島は生まれるものではなくて、私たちが生まれる前に、出来たものです。

②この島は、伊弉諾命と伊弉冉命の二人で、天の沼矛を用いて、天の浮橋の上に立って、この漂えるものをかき混ぜて、鹽を持ちあげた時に、滴が落ちて、それが重なり出来た島です。
(この地は火山灰地の造成地ですので、ひるぜん高原にある鹽釜の水を使って、地固めをして、島を造りました)
③天の沼矛(斧でしょうか)を使って、「こおろこおろ」と鹽を持ちあげて、島を造りました。
 これで、「おのころ、オノコロ」と島を造った。

④出来た島に御柱を立てて、八尋殿(御所)を造りました。

⑤この後に、水蛭子を生んだとあります。

⑥次に淡島を生みました。

⑦しかし、淤能碁呂島も淡島も「子の例には入れざりき」と記しています。


以上のことより、淤能碁呂島は、伊弉諾命と伊邪那美命とが造ったのですが 「淡島」は、古事記には、「淡路島」と書いてあったものを、日本書紀を書いた人が、「淡島」と書き変えたのではと考えています。

とすれば、、淡路島(淡島)は、立派な島ですが、太安万侶は、「子の例には入れざりき」と記しています。
淡路島が、どうして、自分たちの子には入れないのかといいますと、淡路島は、伊弉諾命と伊邪那美命がこの島にやって来た時に、既に、淡路島はあり、敵を倒したのではなくて、伊弉諾命と伊邪那美命が、ここを根拠地に定めたのではないでしょうか。 ここには、現在、伊弉諾神宮があります。
 
淤能碁呂島の方は、島と名づけましたが、水に囲まれた島ではなくて、この島は、造成地だったから、「子の例には入れざりき」と、断りを入れました。
 
では、この後に、どんどん 国を生んだと、太安万侶は、記しました。 本当は、どんどん、制覇したのでしょうが、軟らかく、国づくりしちことを表現したのでしょう。

参考資料
伊弉諾神宮
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%BC%89%E8%AB%BE%E7%A5%9E%E5%AE%AE 淤能碁呂島は、中蒜山の五合目に在る日留宮のある所です。

日留神社は、高天原の中心だった
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page485.html


神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(87) 淤能碁呂島 [日本の歴史]

雪解けが始まる頃に、高天原という高原に、三人の神がやってきました。その神の名前は、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神です。この神々は、独身の神で、高原から身を隠したと記しました。
 「高原から身を隠した」と云うことは、その後、居なくなったのかと云いますと、その後、高御産巣日神は、全く居なくなったのではなくて、古事記に、この名前は、三度登場します。

その1
是以八百萬神、於天安之河原、神集集而訓集云都度比、高御產巢日神之子・思金神令思訓金云加尼而、集常世長鳴鳥、

ここでは、高御産巣日神、本人ではなくて、その子供のことが書いてあります。

その2
随分、後の方に、葦原中国を平定したことが記されています。
 天照大御神之命以「豐葦原之千秋長五百秋之水穗國者、我御子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命之所知國。」
 この文から始まる所です。
 ここには、
「爾高御產巢日神・天照大御神之命以、於天安河之河原、神集八百萬神集而、思金神令思而詔」に見られる様に、高御產巢日神と天照大御神之命が、一緒になって、高天原を取り仕切った様に書いてあります。
 高御產巢日神・天照大御神之命は、三ヶ所あります。
そして、高御產巢日神は、高木神と同じだと記しています。

と云うことは、「天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神」の神は、高天原にやってきましたが、直ぐに、高原から、下りて行ったことになります。
 高天原に、住むことが出来るかどうか、調べに来たのでしょう。

この三人と別に、宇摩志阿斯訶備比古遅神と天之常立神の神を併せて、「別天つ神」と記しました。
 太安万侶は、この高原にやって来た五人の神を特別な「天つ神」であると言い、その後、この高原に日本を建設したことを記しました。 この高原の間に、「天つ神」の「天」を入れて、「高天原」としたと思われます。
 そして、次に重要な神、七人の名前を記しました。

特に、重要な神の名は、伊邪那岐命と伊邪那美命でした。

二人は、結婚をして、はじめに産まれた子が、「水蛭子」だった記事を挿入しました。

以上が、「妹伊邪那美神」の妹をどうして、太安万侶が付けたのかが気になって、16回も書いて、読んで頂きましたが、読み直していましたら、
 この前の部分に、二人は、淤能呂島を生んだことを太安万侶は、書いています。

太安万侶は、どこから、淤能碁呂島という名前を見つけて来たのか調べました。直ぐに分かるだろうと思いましたが、全く判りません。 と云う次第で、こんな長い文章に成りました。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(86) 天地初めて發けし時 [日本の歴史]

 前回までは、伊邪那美神の前に、どうして、「妹」の字がついているかを調べていましたら、16回も書く事になりました。
太安万侶は、日本の歴史を書くにあたって、「天地初めて發けし時」と書き始めました。是は、日本の歴史の始めは、上の方には、天が出来、下の方には、地が出来て、その後、空と地面が誕生したという意味でしょうか。
そうだとしますと、その前は、天と地は、一緒くたになっていたと言うことでしょう。表現を変えますと、天と地は、どろどろに、一体になっていたことになるでしょうか。
そうだとしますと、日本どころか、太安万侶は、地球が出来る前のことを考えたことになります。

「天地初発之時」の部分を倉野憲司は、岩波文庫の『古事記』と云う翻訳書に於いて、「天地初めて發(ひら)けし時」と翻訳されました。
是は、前後の意味から勝手に翻訳すれば、「天地初めて誕生した時」となるでしょうか。

「初発(ショハツ)のときと、其のまま読んで」読者にまかせた方が良かったのではないでしょうか。古事記に使われている漢字は、日本書紀のように、漢字そのものが持つ、意味を表さないで、音だけを表していることが多いです。
しかし、ルールに従わないで、「初」の漢字が持つ、意味を表すとしますと、「初発」という熟語が、あることはあります。意味は、「はじまり、おこり」と辞書にあります。
「発」は漢和辞典では、 はなつ、おこる、おこす、ひらく、あばく と記します。

「発」を使った熟語を、数えてみます。
1. 〈ハツ〉
1. 1 矢や弾を放つ。「発射・発砲/不発・暴発・連発銃・百発百中」
1. 2 出かける。たつ。「発車・発着/始発・出発・進発・先発・遅発」
1. 3 外部や世間に向けて出す。「発券・発行・発信・発送・発注・発売・発布・発令/増発・乱発」
1. 4 外に現れ出る。生ずる。生じさせる。「発火・発芽・発癌 (はつがん) ・発現・発光・発散・発情・発生・発電・発熱/揮発・蒸発」
1. 5 物事を始める。行動を起こす。事が起こる。「発案・発議・発語・発想・発奮/偶発・続発・突発・奮発・自発的」
1. 6 隠れていたものなどを明るみに出す。ひらく。あばく。「発掘・発見・発明/開発・啓発・告発・徴発・摘発」
1. 7 外に向かって伸び広がる。「発育・発達・発展」
1. 8 (「撥」の代用字)はねかえす。はね上げる。「挑発・反発」
1. 9 (「溌」の代用字)とびはねる。「活発」
1. 10 (「醗」の代用字)かもす。「発酵」
1. 〈ホツ〉始める。起こす。起こる。「発願・発起・発作・発心・発足・発端」

沢山あって迷いますが、次の発の使い方がなじむのではと思います。
1. 4 外に現れ出る。生ずる。生じさせる。「発火・発芽・発癌 (はつがん) ・発現・発光・発散・発情・発生・発電・発熱/揮発・蒸発」
太安万侶は、書き始めて、直ぐに、「水蛭子」の事を書きました。この事は、16回にわけて書きましたが、インドの哲学書に、
「ヤマとヤミーとの名の双生児—兄妹」が知る逸れていることと、宇宙の創造
再創造 (pratisarga)、宇宙の周期的な破壊と再生
野事が書かれていることを紹介しました。

次の所に書きましたから、参考にしてください。
神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(84) 妹伊邪那美神(15)

太安万侶は、インドの哲学書を読み、古事記の最初に、「天地初発之時」い「水蛭子」のことをかいたのではと考えました。

「天地初発之時」の始めの翻訳を間違ったために、古事記の解読が上手く行かないで、今では、神話ばかりが書かれた、歴史書ではなくて、偽書扱いになったのではと考えています。
「神話ではなかった古事記」のタイトルは、「古事記は、天皇家の歴史を記したもの」を表しています。
①高天原の「天」は、日本にやって来た天つ神の天です。
②その高天原に、自分達の住処を造ろうと、始めは独身の人達、三人が、調査にやって来て、下山しました。
③次に、やって来たのは、七組の人達です。二人は、独身の神です。五組の10人は、夫婦です。子供が産まれても、育てることができるかを調べに来たと思います。
④ ③の最後にやって来たのが、伊邪那美命と伊邪那岐命です。
 この夫婦の時に、水蛭子が産まれました。
⑤この後、太安万侶は、伊邪那美命と伊邪那岐命が、次々と島を生んだ記事を書きました。その島の名前は、現在でも、殆ど、残っています。






神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(85) 妹伊邪那美神(16) [日本の歴史]

 日本書紀は、蛭児の事は、全部で、六ヶ所に書かれています。

その内の第一書には、次のように記します。
遂爲夫婦、先生蛭兒、便載葦船而流之。次生淡洲、此亦不以充兒數。故、還復上詣於天具奏其狀、時天神、以太占而卜合之、乃教曰「婦人之辭、其已先揚乎。宜更還去。」
蛭児は、三年経っても良くならないので、葦船に乗せたと記されています。
次生淡洲----これは何処だと思われますか。

別の一書には、
 次生蛭兒。雖已三歲、脚猶不立、故載之於天磐櫲樟船而順風放棄
 三歳になっても、立つことが出来ないので、天磐櫲樟船(アメノイワクスフネ。堅固な楠で作った船)に乗せて流した。

日本書紀では、この部分は、第十書まであって、詳しく書いてある一面、これだけの伝承が有ると言うことは、良く解らないのだと書いたのでしょうか。

 私は日本書紀を書いた人は、蛭児とは、どのような胎児だったのを知らなかったのではないかと推理しました。

都会に住んでいる者には、「蛭」とはどのようなものとは、見る機会がありませんから、判りませんが、50年も前ですと、水田にも居ました。その他、川や沼にもいました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB_(%E5%8B%95%E7%89%A9)
(写真あり) 川に入りますと、膝の辺りまで、くっついてきました。

 従いまして、太安万侶も、 ヒル(蛭)は知っていたと思います。
蛭とは書かないで、「水」を加えて、「水蛭子」としたと思います。古事記に書かれている「水蛭子」は、日本書紀の作者は、知っていましたが、「蛭児」と書き、「三歳になっても、立つことが出来ないので、流した」と記しました。と云うことは、蛭のような胎児では無くて、始めから足はあったことになります。
 
「蛭児」は、不具者ではなくて、未熟児だと思います。 まだ、人の形もしていない胎児のことを言うのだと思います。
 従いまして、三年間、育てたが、立てないから流したというようなことは無いと思います。
 ネットで、調べましたが、私が書いたようなことを書いた記事は見つけることが出来ませんでした。

 <ヒルコ>は人間に限りません。動物の世界では、再三あるわけではありませんが、見ることは出来ます。 太安万侶は、どのように記したか、自分で、古事記を読んで確かめてください。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(84) 妹伊邪那美神(15) [日本の歴史]

 どうして、太安万侶は、古事記の流れと関係無い「水蛭子」のことを挿入したかに拘っています。
 太安万侶は、インドの哲学書に書いてあったことを、誰かから、聞いたのではないかと考えましたが、絹を運んでいた中国人か、ユダヤの人しかありません。

妹伊邪那美神(13)に、「 ひー、ふー、みー、よー」のお話を紹介して、中国大陸を通って、絹が運ばれた証拠を紹介しました。
 ユダヤ人は、北緯とか、東経という言葉は使わなかったですが、自分が現在居る位置は、知っていました。
 ユダヤ人は、シルクロードを経て、パルチイアやローマまで運んでいたことを、フランス人のパリーゼが、1865年に、『絹の道』に書いています。
 
 ここには、ヨーロッパから、インドの西海岸迄が記されています。シルクロードには、海のシルクロードまであったことが判ります。
 
 陸路を移動する時に、いくら自分のいる場所が判っていても、山や大きな川にさえぎられて、前に進むことが出来ないことが多いです。海は、船が沈没するおそれはありますが、多くの荷持を運ぶことが出来ます。そして、最短コースを移動できます。

 話題は変りますが、妹伊邪那美神(12)に書きました「ヤマとヤミーとの名の双生児—兄妹」のことは、古事記に書かれている形とピタリと合いますから、太安万侶は、インドの哲学書を目にしたことは確かでしょう。

この哲学書には、どのようなことが書いてあったかと云いますと、

参考文献 ウィキペディアより
プラーナにはパンチャ・ラクシャナ(pañcalakṣaṇa)つまり以下の五つの主題が備わっているとされる。

創造 (sarga)
宇宙の創造
再創造 (pratisarga)
宇宙の周期的な破壊と再生
系譜 (vaṃśa)
神々と聖仙の系譜
マヌの劫期 (manvantara)
人祖マヌより描かれる人類史
王朝史 (vaṃśānucarita)
日種族・月種族の家系に至る諸王朝の歴史
ただし、これらはむしろプラーナの原型・古型となった古史古伝の特徴と考えるべきで、現存のプラーナにはこうした要素は一部しか、また少ししか含まないものもある。

引用は、此処までです。

如何ですか。 「宇宙の創造」から始まっています。

古事記の方は、次の詞から始まっています。
天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御產巢日神、次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。

天と地は、どろどろと、一体になっていたのが、分かれたのだと、一言で書いています。
「天地初發之時」と書きだして、天と地が、分れたことから書き始めました。

太安万侶は、このインドの哲学書を目にしたとは思われませんか。

この本は、中国にも伝えられています。この経路で、日本に入ったことは、確かでしょうが、ユダヤ人が、日本からインドまで、海のシルクロードを使っていたとしますと、こちらの経路から手に入れたと考えても良いです。
インドにも絹の歴史がありますから、日本の絹がインドに伝わったのでは、探して見ましたが、これは、インドの歴史がわかりませんと、解決に成りません。


神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(83) 妹伊邪那美神(14) [日本の歴史]

 前回は、ユダヤ人がインドを経由して、ローマ等に、絹を運んでいた証拠が書かれてあると思われましたか。
 残念ながら、そのようなことを書いたものは、残っていません。

間接的に、分かっていることを繋ぎ合せて、歴史を浮かび上がらせれば、正しい歴史が判る筈です。
 次のブログは、田村誠一氏の著書をそのまま、掲載したものです。

古事記が解いた古代史  シルクロード(1)
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2013/09/1-2825.html

 上2行のうち、左側をクリックすると、前のページです。右側をクリックすると次のページです。
 シルクロードという言葉は、良く使われますが、そのような名前がついた道があったわけではありません。紀元前から、絹は中国からヨーロッパに運ばれていましたが、そうした道の総称です。
19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』において、使われたことになっています。
 このように定義しますと、出発点は、中国ではなくて、日本だと言えます。

太安万侶が、書き残した「妹伊邪那美神」の話は、古事記より古いものは無く、8年遅れて完成した日本書紀には、古事記よりも詳しく書いてあります。
 古事記を参考にして日本書紀を作った人は、いろいろ調べたので、古事記より調べたので、詳しいと思われるかも知れませんが、何故か、古事記に書いてある水蛭子と違って、蛭児と書いています。

 日本書紀の資料に拠りますと、産まれた蛭児は、三年経っても、立つことが出来なかったので、葦の舟に乗せて流したと書き記しました。
 
 凄いですね。日本書紀が書いたことは本当のことで、次のような伝説と神社が現在もあります。
ネットで見つけましたので、西宮神社と 越木岩神社は、どの様にして産まれたかが判ります。
前者は 昔の人が考えられたことで、後者は、現在の方が、考えられたことになるかなと思いました。

西宮神社 由緒 御鎮座伝説
http://nishinomiya-ebisu.com/history/history01.html

久遠の生命の泉
http://tingokokka.blog.fc2.com/blog-entry-356.html

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(82) 妹伊邪那美神(13) [日本の歴史]

 日本の絹は、全国から九州吉野ヶ里に集積されて、その大半は、中国人が、購入し、中国に運び、ビルマ、中近東を経由して、ユダヤ人が、ローマ、スペインに運んでいたと考えています。
 その証拠として、日本で使っている数字の一つとして、「ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ」があります。是は、日本の数字と思われるでしょうが、絹が、中国から、ビルマ当たりまで、運ばれる地域でも、残っているそうです。

 これは、元々、数字で無くて、ユダヤ人のお祈りの言葉にあるそうです。(ひふみ祝言葉)
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1361674353

「天岩戸騒動 ひー、ふー、みー、よー」
http://blog.goo.ne.jp/n_ishii517/e/075fc51b33b15c2e69825f4ac1cafff8

このようなことで、ユダヤ人が絹を運んでいた証拠になるでしょうか。

もう一つ、言葉の研究をご覧ください。
これは、田村誠一氏の書籍の47ページの文章です。

倭国ゼロ世紀 第12話 河を忘れた古代史
古事放談 3-1

http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/05/3-1-e5b5.htm
是は、日本人が、どこからやって来たかの証拠です。
チベットででも、1,2,3,4を使っていた人がいたと言うことです。勿論、ワン、トゥー、スリでは無くて、イチ、ニー、サン、 と云うことは、縄文人は、どのような言葉を使っていたか分かりませんが、「ひー、ふー、みー、よー」を使っていた人と、「イチ、ニー、サン」を使っていた人が、日本にやって来たことになります。

 では、日本のどこへやって来たと思われますか。 私は隠岐にやって来たのではと考えています。本当かどうか、五月中に、隠岐に行って来ようと思っています。他にも一杯、隠岐にやって来た人達が、自分の使っていた言葉を使っている内に、日本語が形成されたのではないかと考えています。
 と書きましたが、この考えは、田村誠一氏が考えられたものです。


ある国の歴史を語る時には、どこかに書かれていた説話とか伝説を引用して、この国の歴史は、このようであったという論法が使われます。

 その点、上に掲げた二例は、説話ではなくて、事実を上げたものです。

遠く離れたチベットと日本で、1,2,3を使う時に、「ひー、ふー、みー」を使っていたことは、確かとしますと、数字が勝手に移動する訳はありませんから、チべットと日本の間を、人間が移動していたことになります。

ユダヤ人は、どこの国に、移動しても、自分の現在地を知る術を知っていたことになります。しかも、現在居る「時」も知っていました。ところが、ローマの人は、ローマの暦を使っていました。日本の人は、昭和とか、平成という元号を使っていました。ただし、日本の場合は、西暦645年から、初めて元号を使い始めました。

 各国にある暦を使っていますと、全ての国を通して、時間の流れを掴むことは出来ませんから、ユダヤ人は、神武天皇が即位された時を西暦元年として使っていた可能性があります。
 今年は、2017年ですから、今から、2017年前が、神武天皇が即位されたことが判ります。
 現在の天皇は、125代天皇ですから、2017÷125=16.1 とあまり意味がありませんが、
16年で一回、天皇が代わられた事になります。
我ら平民は、15歳くらいで、身体が、略、一人前に成ります。それから、五年位の間に、結婚をし、子供が産まれますから、20歳あたりで、世代交代です。



宣伝----次のタイトルは、私が作った本のタイトルです。

西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日
http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/category29-2.html

 書店で、売って頂こうと思いましたら、個人で出版したものは、扱っていませんと断られました。知人に読んで頂こうと思いましたら、こちらも断られました。
そりゃ、そうですね。この分野では、プロの方の書籍だけでも、一杯ですから、自費出版の本など、読む時間がありません。

 そこで、自画自賛して、読んで頂こうと、次の所に、少しずつ、掲載しています。
例えば、神武天皇が即位されたのは、橿原宮とされていますが、柏原宮ですと書いています。どちらも、「かしはらのみや」と読みます。

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