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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(145)   高天原(5) [日本の歴史]

 滋賀県は、式内社が多いです。
 式内社と祭神
http://o-mino.la.coocan.jp/page257.html
 
どうして多いと思われますか。全国で、一つの県で、式内社をすべて訪ねたのは、滋賀県だけです。多いと言うことを知っていました。

滋賀県は、式内社だけではなくて、お寺も多い所です。 このことと関係あるかどうか分かりませんが、古墳も多い所です。

 全ての式内社と比叡山の麓の古墳(古墳は極一部でした)を回るだけで、三年掛かりました。

滋賀県の式内社
https://www.google.com/maps/d/viewer?mid=1ZT-20Ly9NXHtPEB3tpGEpZ5p8Rw&hl=en_US&ll=35.23923333191698%2C136.1207945000001&z=10  
地図に見られるように、湖北に多いです。

ここに、賤ガ岳があります。
 賤ガ岳は「しずガ岳、しづガ岳」と読みます。

 賤ガ岳
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E3%83%B6%E5%B2%B3
この名前がどうして、付けられたか判りません。倭文という言葉があります。

倭文---しずり、しづり、しつり。 梶(かじ)の木や麻などで青・赤などの縞を織り出した古代の布
http://www.weblio.jp/content/%E5%80%AD%E6%96%87

湖北は、古代から絹の生産が行われていたから、賤ガ岳と命名でしょうか。

所が、「賤」の漢字は、難しいのに、「いやしい」と読める人が多いです。漢和辞典で調べてみますと、この漢字は、
「貝+戈」です。貝は、お金、宝ものを表します。「貝+戈×1」ですと、財産の財です。
戈が二つですから、宝よりも、武力の強さを表しています。----これは私の勝手な解釈です。

部首:かい・かいへん(貝)の漢字リスト
http://kanji.jitenon.jp/cat/bushu07001.html
「賤」は、音の[しず]を採用したのではと推理します。

[しず]の漢字では、静岡県の[静]があります。静岡県は静かな丘があったと考えるのは、適当ではありません。こちらも、倭文(しずり)の生産が盛んであったからではないかと推理しています。
 
賤ガ岳では、古代から、蚕の餌である桑の葉の生産が行われていたのではないでしょうか。
麓に「大音」という集落が有りますが、この集落の南は、琵琶湖で、北は賤ガ岳です。

「大音」の大は、イザナギ・イザナミの人達を表す「大」ではないかと考えています。
イザナギに関係のある方が、昔から住んで居られたのではないかと考えています。

賤ガ岳は、北からの防衛に重要な所ではないかと推理しています。
 
「賤ガ岳 戦」をキーワードにして、検索してください。

賤ガ岳の戦い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%A4%E3%83%B6%E5%B2%B3%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 

ネットでは、「賤ガ岳の戦い」しかありませんが、
 大音から山上まで登ることができます。地図と双眼鏡を持って登りますと、素人でも、重要な山であることが分かります。戦略上、重要な所であることが分かります。


★★★---余談ですが、ここ滋賀県の古墳では、心臓が止まるのではないかと思いながら、山を登ったり降りたりしました。
 
 そして、日本の歴史で、ここが一番重要な所だったのだと思いました。


マイカテゴリ—の一番下をご覧ください。
古墳から探る歴史(143)になっています。 古墳から判ったことばかり書いていますが、ここをクリックしていただきますと、 最後のページが、表示されます。 
一番上の欄の「前の10件」をクリックする度に、10件ずつ、表示されます。10回、クリックしますと、壬申の乱の事を書いたぺージのトップに戻ります。

壬申の乱の事ばかり、 92回も書いています。

時間がございましたら、読んで頂ければと思います。 普通に云われている歴史と全く違うことを書きました。

簡単に壬申の乱と呼んでいますが、日本と唐の戦いだったのだなと思いました。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(144)   高天原(4) [日本の歴史]

 「日本各地の高天原」をご覧になられましたか。

ここに書かれている中で、次の所へは行ってきました。
①滋賀県米原市伊吹山山麓。
②葛城・金剛山高天台 - 奈良県御所市高天
③蒜山(ひるぜん) - 岡山県真庭市
 
①滋賀県にはどうして行く気になったかです。
 古事記に書かれている神々が、いつの頃に、高天原に集って来たかということです。神武天皇の時代より以前になります。
『西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日』というタイトルで、本を出版しました。しかし、一冊も売れることなく、貰って頂きましたが、誰一人として、面白いとの感想も頂けませんでした。

 ということは、私の考えは間違っていたことになります。

この本を出版する気になったきっかけは、田村誠一氏の著書の影響によることは大きいのですが、西暦元年は、何処の国の誰が始めたかは分かっていません。調べれば簡単なこと思われるでしょうが、イギリスフランス、スペインでも無い様です。
これを調べるには、これらの国の言葉を習得し、各国の歴史書を調べる必要があります。

日本の古いことを記したものは、古事記と日本書紀ですが、ここにも書いてありません。
古事記が出来たのが、712年ですから、西暦元年は、この時より、712年前の事になります。
 こんな古い時代の事は、いくら、中国韓国の古い資料を調べても無理だろうと都合の良い様に、考えました。

所が、古事記は、始めから、「高天原」から書きだしています。
 高天原にやって来た神さんは、どうやら、あちこちからやってきたようです。

イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ 等です。

 高天原へやって来たスサノオは、大暴れをして、アマテラスが作っていた田の畔を壊して、溝を埋めたと記されています。
 お米を作ったったとは書いてありませんが、稲作をしていたのでしょう。
スサノオの悪行は、それだけではありません。
アマテラスが、忌服屋に坐って、神御衣を織っていた時に、スサノオは、天の班馬を逆剥きにして、部屋に投げ込みました。それを見て驚いた服織女に、機織りの道具が、女の陰部に刺さって、死んだと書いてあります。 こんな馬鹿な話無いだろうと思われますが、まだらの馬の皮を尾の方から、剥いで毛皮にする話が、延喜式の大祓詞に掲載されていることを太安万侶は、知っていたのでしょう。このような突拍子もないストーリーを書いたと思われます。
このように、スサノオとアマテラスという人が、実在していた様に古事記を書いています。このように古事記を眺めますと、当時のことを知ることができます。

そのようなことより、このお話は、紀元前のことですのに、機織りの道具を使って、着物を作っていたことが分かります。

この機織りの道具を使って作っていたのは、絹製品ではなかったかと推理しました。
どうして、急に絹が出てくるのかと言いますと、日本の歴史は、縄文、弥生時代から、紀元前に始まっています。 紀元前には、証拠は有りませんが、ユダヤ人が、日本にやっていた形跡があるからです。
この痕跡が、滋賀県に有るのではないかと考えました。

次回につづく。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(143)   高天原(3) [日本の歴史]

 さて、高天原探しです。田村誠一氏と私は、 高天原は蒜山高原です。
私は、一度だけ、ヒルゼン高原に行ってきました。 田村氏は、ヒルゼン高原に住んでおられました。

御所のあった所は、中蒜山の五合目にある日留宮のある所です。

では、皆さんはどの様に考えておられるかは、コンピューターの力をお借りします。
 キーワードに、「高天原」を入力してください。

 コンピューターの力は、最初から驚きです。

大阪市に高天原関連の神社が三社もあります。 必ず、目を通して下さい。
1・高天原本宮    大阪府大阪市大正区
2・高天原本宮奥津宮神社  大阪府河内長野市
3・高手管神社  大阪府河内長野市
 近くにあるのに、知りませんでした。

<高天原>を入力して、最初に表示されるのは、
<高天原 - Wikipedia >です。そのまま、スクロールしますと、タイトルと短いコメントがありますから、10ヶほど、眺めて下さい。

 高天原遙拝所・高千穂町が凄いです。
 このエネルギーを知りますと、うっかり、高天原は、ヒルゼン高原だなどと、言えない様に思います。
 このまま、高天原の検索を続けるとしますと、トップに表示されている

<高天原 - Wikipedia> しかないように思えます。


「日本各地の高天原」に、沢山の高天原が書いてありますが、私も、実際に、高天原と言われている所へ行ってきました。
 その時のことを次回書いてみます。

 


神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(142)   高天原(2) [日本の歴史]

日本書紀を参考にしますと、前回、見て頂きました通り、「筑紫日向高千穗」に降臨したことになりますから、宮崎県の日向の高千穂は確定でした。

古事記の資料は、遷都した場所は、「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」と記しています。しかし、これでは、現在のどの地名を表すかが、解っていません。

 大切なことは、太安万侶は、天皇家の正しい歴史を書くように、天武天皇に頼まれました。筑紫の高千穂であれば、誰れでも分かってしまいます。
 分かったら、どうなると思われますか。高千穂の峰を削って、平らにすることぐらいはわけが有りません。
 試しに、9号線を、京都の方から、鳥取の方へ、車で走って下さい。富士山のように、真ん中が、尖った山は少ないですが、真ん中が高くて、両側が、同じ高さで、「山」の字になっている山が、沢山現われます。山は、普通は、真ん中は、高いとは限りません。
 私の想像が正しいかどうか、自信はありませんが、私はこのような山が見えた時は、昔の人は、山を整形して、目印にしたのではと思いながら、車を走らせました。

古事記が提供する資料は、
 「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」だけです。

竺紫の日向の高千穂は、筑紫の日向の高千穂と読んで、高千穂は100パーセント、宮崎県になってしまいました。 しかし、宮崎県の高千穂はこまることは、前回記しました。

 太安万侶は、誰にでも、高千穂が判る様に書くわけが有りません。

「竺紫の日向の高千穂」の竺紫を筑紫と読みますと、宮崎県になります。 しかし、田村誠一氏は、「竺紫」の事を次のように、書いて居られます。
 田村氏著書 【平成古事記】131ページより。

稗田阿礼は現地を訪れて地名のない所は、地形を描写しています。したがって、古事記を理解するには現地を訪ねることが必要です。
 一日、高千穂を訪れて古代人の立地条件のすばらしさに驚かされました。なだらかな丘が日本海まで六キロも続いていて海岸は北条砂丘です。ここを訪れて初めてクジフルタケの意味が分かり国土地理院の上種の海抜108米の地点に御所が建てられました。
 視界150度の前面に日本海が広がっています。支配している地域が全部見渡せる中央に高千穂は位置しています。
 東に谷があって木が茂っています。気の茂みが尽きた所が、ツクシで竺紫の文字が当てられました。一日中日光が当たるところが日向で珍しくなだらかな丘がクジフルタケでした。
 大山は真西からは富士山そっくりで伯耆富士と呼ばれています。南からの眺めは、北アルプスと同じ岸壁で南壁とよばれています。高千穂からは大山連峰の頂上が鋸の歯の様に連なって見えます。この山容から高千穂と名付けられたのです。
 苗族は識字能力がありませんが、高千穂は漢字が分からなくても意味が通じます。「記」で多祁理宮とか白檮原宮とあるのは、識字能力から考えて藤原朝臣在判の作為です。

(作為とは、多祁理宮とか、白檮原宮いうように一般の人でも、読めない漢字に書き換えたという意味でしょうか?)



神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(141)高天原 [日本の歴史]

、ニニギ命は、高天原から、高千穂に遷都したことになっています。
 もし、高千穂の場所が確定しますと、高天原は、高千穂の近くに決定します。高天原の場所が、確定しますと、高千穂の場所は、高天原の近くにあると限定されます。

 どの様に限定されるかと言いますと、
高天原の方が、高千穂より高い所に位置するのではないかと考えます。
古代史には、「天孫降臨」という言葉があります。
この語句の[降]という漢字には、降りるという意味があります。降臨は、高千穂から高天原へ行われたか、逆に、高天原から高千穂に行われたかは、断定できませんが、この「天孫降臨」の意味から、高天原と高千穂は、近くにあって、上下の位置関係が有ることが判ります。
 では、この「天孫降臨」は、何処に記録されているかと言いますと、ウイキペディアに依りますと、次のようになります。

天照大御神の命令を受けた建御雷神と天鳥船神が大国主から国譲りを受けて葦原中国の統治権を確保する。 その後に天照大御神の命により、ニニギノミコトは葦原中国を統治するため高天原から地上に降りたという[2]。これを天孫降臨と呼ぶ[1]。『古事記』では、この降臨の地については「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気(くしふるだけ)に天降りまさしめき」と記述している。『日本書紀』では、「日向襲之高千穗峯」あるいは「筑紫日向高千穗」と記述している。

 以上の事から、日本書紀によりますと、高千穂の場所は、「筑紫日向高千穗」と確定です。
古事記によりますと、「竺紫の日向の高千穂の久士布流多気」と書かれ、この場所は、誰にも分かっていないようです。
 私の頭を長年使った所によりますと、日本書紀は、日本国の正式な歴史書。古事記は、偽書ということになっています。
 
 最後の私の説は、一番信用置けないことは、自分でも分かっていますから、軍配は、日本書紀に上がると思われます。

そうしますと、高千穂は、宮崎県に確定です。
そうしますと、高天原も宮崎県の高千穂の近くにあることになります。
ただ、困るのは、宮崎県の高千穂は、山の名前ですから、ここより高い所に高天原は、あり得ません。
 すると、天孫降臨は、高千穂から、高天原に向って、行われた事になります。
高天原は、高千穂の麓にあるということになります。

 以上の次第で、今回のタイトルは、「高天原」にしました。

次回から、「高天原」がどこにあったかを調べてみようと思います。

*****
熱は下がったのですが、しんどさが取れませんので、殆ど、コンピューターを開いていません。 記事は短くなりますが、少しずつ書きます。ご自分でも、高天原を探してください。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(140)   高千穂(4) [日本の歴史]

 前回は、田村誠一氏著 『燦然と輝いていた古代』 高天原は高原  平成元年八月 発行 88ページ  古事記を読む (43) 高千穂に遷都 
 に書いてあったページに、

蒜山高原から、高千穂にニニギ命が、遷都された時の様子を古事記から、書き出して、それを元に、高千穂は、昔は久米郡にあったことを述べておられました。

 その証拠は、「高千穂はここからだけは大山連峰は鋸の歯の様に尖って見えることに由来した地名です」と書かれました。
 
 この文章は、高千穂という所へ、実際に行って、見ないと書けない文章です。少し、離れた所から、見ても、鋸の歯の様に尖って見え無いことを知って居られる事になります。

 もう一度、全文を書いてみます。
 高千穂は韓国に向かって居り北には北条砂丘があります。砂山が笠のように見えますから笠砂の表現は、正確です。蒜山高原は周囲が千米級の山に囲まれた盆地ですから朝日が出ても直ぐには刺してくれません。太陽が西に傾くと山に隠れて夕日が照る景色は全く見られません。ニニギ命が高千穂が良い国だと感想を漏らされたのは蒜山高原に住んだ経験がない人には分かりません。これは蒜山高原が高天原だった状況証拠です。
 大山は見る方角によって富士山の様に見えたりアルプスと同じ北壁や南壁があります。高千穂はここからだけは大山連峰は鋸の歯の様に尖って見えることに由来した地名です。
 この高千穂は昔は久米郡で、ここに遷都したのは紀元前240年頃です。神武は五瀬命と高千穂で東征を相談されるまで政治の中心でした。東征に発進した紀元前16年頃まで、ここに都がありました。高千穂にも藤原は高千穂峰を宮崎に作って衆を惑わせました。



この文章を初めから、少しずつ、区切って眺めてみます。
①高千穂は韓国に向かって居り北には北条砂丘があります。砂山が笠のように見えますから笠砂の表現は、正確です。
この文章から、田村誠一氏は、勿論、高千穂に行かれた事になります。
 
 ②蒜山高原は周囲が千米級の山に囲まれた盆地ですから朝日が出ても直ぐには刺してくれません。太陽が西に傾くと山に隠れて夕日が照る景色は全く見られません。ニニギ命が高千穂が良い国だと感想を漏らされたのは蒜山高原に住んだ経験がない人には分かりません。これは蒜山高原が高天原だった状況証拠です。

 この部分は、ご自分が、蒜山高原に住んでいたから分かるのだと書いて居られる事になります。
 高天原は、古事記の一番初めに書いてありますが、ヒルゼン高原とは、確定している訳ではありません。正確に言いますと、解らないが正しいと思います。
 しかし、解らないでは無くて、「これは蒜山高原が高天原だった状況証拠です」と書いて、自信を持って、書いて居られます。 「状況証拠」という言葉は有るのでしょうか。
 と書きましたが、もっと、多くの証拠の積み重ねをしますと、有ると断定しなければ仕方がない様な気がします。

③ 「大山は見る方角によって富士山の様に見えたり、アルプスと同じ北壁や南壁があります」
この文章は、田村氏は、一つの角度からだけでは無くも色々の方向から眺めた意見を書いて居られる事になります。短い文章ですが、この文章から、高千穂の辺りに、何度も歩かれた事が判ります。

 全体は短い文章ですが、この三つの言葉から、
「 高千穂は韓国に向かって居り北には北条砂丘があります。砂山が笠のように見えますから笠砂の表現は、正確です」の文章が、確かで有ることを強く表現された文章になっています。

このように強く印象付けられて、私も、「高千穂」へ行って、大山や蒜山高原の山々を眺めて、「高千穂はここからだけは大山連峰は鋸の歯の様に尖って見えること」を確かめる気になりました。

 大阪からは、遠かったですが、車で行きました。

雨ではありませんでしたが、天候が悪く、空全体が、今にも雨がふりそうな一色の天気であったことを記憶しています。翌日に期待しましたが、山の形すら見えませんでした。

 しかし、先に書きましたように、三ヶ所の表現された文章から、今でも、
高千穂はここからだけは大山連峰は鋸の歯の様に尖って見えることに由来した地名です」は、正しいと思っています。

最後に、付けたしたように、書かれた「高千穂にも藤原は高千穂峰を宮崎に作って衆を惑わせました」の文章は、長いこと理解できませんでしたが、最近は、日本の歴史を考える時には、この文章を抜きには、語たれないように思っています。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(139)   高千穂(3) [日本の歴史]

  いつ行ったか記録が無いのですが、田村誠一氏の著書の次のところに書いてあった「高千穂」に、随分以前に、行きました。

田村誠一氏著 『燦然と輝いていた古代』 高天原は高原  平成元年八月 発行
 88ページ  古事記を読む (43) 高千穂に遷都  

 このタイトルで、 1ページに、次の文章が書いてありました。
 全文を掲載しますので、読んで下さい。

高千穂は韓国に向かって居り北には北条砂丘があります。砂山が笠のように見えますから笠砂の表現は、正確です。蒜山高原は周囲が千米級の山に囲まれた盆地ですから朝日が出ても直ぐには刺してくれません。太陽が西に傾くと山に隠れて夕日が照る景色は全く見られません。ニニギ命が高千穂が良い国だと感想を漏らされたのは蒜山高原に住んだ経験がない人には分かりません。これは蒜山高原が高天原だった状況証拠です。
 大山は見る方角によって富士山の様に見えたりアルプスと同じ北壁や南壁があります。高千穂はここからだけは大山連峰は鋸の歯の様に尖って見えることに由来した地名です。
 この高千穂は昔は久米郡で、ここに遷都したのは紀元前240年頃です。神武は五瀬命と高千穂で東征を相談されるまで政治の中心でした。東征に発進した紀元前16年頃まで、ここに都がありました。高千穂にも藤原は高千穂峰を宮崎に作って衆を惑わせました。

 いかがでしたか。書かれていることは、納得できましたか。

 多くの難しいことが一杯あって、よく理解できませんでしたが、
「高千穂はここからだけは大山連峰は鋸の歯の様に尖って見えることに由来した地名です」の部分だけは正しいと思いました。どうしてかと言いますと、歴史の会に入れてもらって、五年間程は、地名の事ばかり、考えていました。特に、滋賀県の小字をすべて、眺めることに寄って分かったことを発表させて貰いました。

①「高千穂は韓国に向かって居り北には北条砂丘があります。砂山が笠のように見えますから笠砂の表現は、正確です」
 この文章には、省略された部分が有ります。「正確です」が浮いています。

この文章は、古事記に書いてあります。気付かれたかたも居られたと思いますが、古事記の何処に書いてあったかは、なかなか見つかりません。

 ご自分で、必ず、見つけて下さい。
 方法を次に記しておきます。

【古事記 全文検索】を使って、「高千穂」を検索してください。グーグルの検索で、【古事記 全文検索】を入力します。
三ケ所にあると表示されます。この最初に表示されている「古事記 上-6 邇邇芸命」をクリックしますと、「邇邇藝命」の全文が表示されます。
 このページを「韓国」か「笠砂」で、再検索をしますと、ヒットして、韓国が黄色で表示されます。「笠砂」では、ヒットしません。これは、古事記では、「笠紗」なのに、田村氏が、著書で 「笠砂」とされたからです。

 この前後を書きだしたのが、次の文章です。

於是詔之「此地者、向韓國眞來通、笠紗之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地。」詔而、於底津石根宮柱布斗斯理、於高天原氷椽多迦斯理而坐也。

 この文章の前後に、田村氏は考えを書いて居られますが、皆さんはどの様に読まれましたか。

長くなりますので、次回にしたいと思います。



話題は変りますが、6月18日夜から、熱がでて、起きておれなくなりました。大げさにいいますと、意識が無くなる様な状態で、寝てしまいますが、トイレの近い持病があるために、2時間経ちますと、目覚め、寝るの繰り返しが、続き、22日、10時頃にやっと、解熱し、これを書いています。

 ずっと、毎日のように、原稿を書いてきましたが、なんだか頭があまり回転してくれないなと思ったり、やはり、しんどさは取れていません。

どうなるか判りませんが、時々覗いて戴ければと思います。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(138)   高千穂(2) [日本の歴史]

 古事記には高千穂の事が書いてあります。
 
ネットでは、どの様に書かれているかを
「古事記 高千穂」を入力しましたら、次の二行が、

古代史、高千穂
www.iokikai.or.jp/kodai.takatiho.html
 
と表示されている「古代史、高千穂」をクリックしましたら、
タイトルは 天孫降臨 と書かれ、かっこに囲まれた中に、記事が書かれていました。

そして、一つ目の記事の最後には、
私は、ダビデやソロモン王の活躍した紀元前600年頃のエルサレムやイスラエルの各地をも訪ねてみたが、高千穂の地の方が美しく、幻想的であり、深い感動を覚えた。
と書いてありました。
 
そして、次の[]で囲まれた記事には、「幻想的であり、深い感動を覚えた」様子を 2枚の写真の貼付がありました。

読み終えて、もう一度、「古事記 高千穂」をキーワードで検索しましたら、
今度は、次の2行が、一番上に、表示されました

古代史、高千穂
www.iokikai.or.jp/kodai.takatiho.html

 同じように、「古代史、高千穂」をクリックしますと、
このとき この記事の書かれているアドレス
http://www.iokikai.or.jp/kodai.takatiho.html  と有りました。おかしいですね。

古代史 高千穂をキーワードにして検索したのに、一回目は、三行目だったのに、二回目は、トップに表示されました。

1時間程、どうしてだろうと、同じ動作を繰り返しましたが、良く解りませんでした。
解ったことは、この間、私が何度も 「古代史、高千穂」の入力をしましたので、見やすい所に表示される事になり、

<私は、ダビデやソロモン王の活躍した紀元前600年頃のエルサレムやイスラエルの各地をも訪ねてみたが、高千穂の地の方が美しく、幻想的であり、深い感動を覚えた。> と書かれた文章を読んだことになりました。
 この記事を丁寧に読みました。 本文は、黒の濃い ゴシックで書かれ、下地は黄色にして、一層、文章が、鮮明に見える工夫がしてあると思いました。

[みそぎの御池(宮崎市]とのタイトルの所には、実在する禊の御池の写真が掲載され、読んだ人は、高千穂は、宮崎県にあったと信じただろうと思いました。

以上のことを、今日、投稿してから、自分で行いましたら、再現できません。 

申し訳ありません。 今日も、40分ほど、経過しましたが、前述しました現象は起こりませんでした。


次回は、私が鳥取県北栄町にある高千穂まで、確かめに行った時のことを書きます。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(137)   高千穂 [日本の歴史]

高千穂というのは、山の名前であったり、地名であることが判ります。
高い山であれば、「高」の付く、山の名前が多いでしょうか。「千」は、峰の数が多いという意味でしょうか。
 鳥取県の高千穂は、どうだろうと、「鳥取 高千穂」をキーワードにして検索しましたら、ヒットしません。
 その内に、次のブログが見つかりました。

真実の古代史
http://ysaino11.blog.so-net.ne.jp/2015-02-17

 ここに、vettyの名がありますが、これは私です。佐竹淳如氏は学校の教師をされていましたが、このようなことを発表したから、左遷させられました。

幻の書「 神代遺蹟考 」ついに入手
http://kibi33.com/kibi/2007/11/15/%E5%B9%BB%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%80%8C-%E7%A5%9E%E4%BB%A3%E9%81%BA%E8%B9%9F%E8%80%83-%E3%80%8D%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%AB%E5%85%A5%E6%89%8B/

天照大御神が譲れといった葦原中津国は鳥取県北栄町にあった
https://plaza.rakuten.co.jp/kodaisi/diary/201511290000/   
これも、真実の古代史を書かれた方です。素晴らし分析だと思います。
しかし、この方の日本の歴史も、私の主張と同じで、現在では、認められていない日本の歴史ですから、始めに書きましたように、「鳥取 高千穂」をキーワードにして検索をしてもヒットしません。
 
 ただ、感心したことは、この方は、藤原氏のことを書いて居られます。この事に関しては、私はコメントしないでおこうと思っています。

皆さんは、特に注意して、読んで下さい。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(136)   黄泉の比良坂(4) [日本の歴史]

 黄泉の比良坂は、実際にこのような所が有るわけでは無くて、太安万侶の創作の言葉という話はお解り頂けたと思います。
 わからないなと思われる方のために、もう一度書いてみます。

 前回の終りの所に、
 「高千穂は何県にありますかと質問しますと、だれでも知っています」と書きました。

解らない人は、グーグルで検索して戴きますと、一杯書いてあります。古代から上高千穂という地名があったと書いてあります。

高千穂町 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8D%83%E7%A9%82%E7%94%BA#.E7.A5.9E.E8.A9.B1.E3.80.9C.E5.8F.A4.E4.BB.A3

 この記述は正しいで良いと思います。


古事記(原文)の全文検索 で高千穂を検索しますと、古事記では3ヶ所で使われていることが判ります。ここに登場する神の名前は、紀元前の神ばかりです。 ということは、古事記に寄りますと、高千穂は、紀元前からあったことになりますが、古事記が出来た時は、712年ですから、書いた太安万侶の記憶ちがいかも知れません。

古事記に寄りますと、日本の歴史の始まりは、高天原から始まっています。
高天原が住みづらくなって、高千穂に移動したと書いてあります。

 この高千穂が何処にあったかは、なかなか難しくて、プロも素人を含めても、どこか解っていません。
 高千穂の説明を書かれたウィキペディアの執筆者の方は、高千穂ではなくて、高千穂町の説明を書いて居られます。現在の高千穂町の名前を決める時に、高千穂という山の名前があったので、高千穂町と決めたであれば、これでも、 いいのですが、古事記と関連がある様に書いて居られます。
 しかし、高天原から、高千穂の山に移動したとは、書いてありません。

高千穂峰(たかちほのみね)は、宮崎県と鹿児島県の県境に位置する火山。標高は1,574 mで、霧島連峰の第二峰。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8D%83%E7%A9%82%E5%B3%B0  

このページ書かれている牧場辺りであれば、住むことは出来ますが、標高は1,574 mの所では、住むことはできません。
 この様に見てきますと、古事記に書いてあった高千穂という山は、宮崎県にあったと言うのは、間違いではないでしょうか。 
 古事記が書かれた頃は、写真に写っている連山の事を高千穂と読んでいたのかもしれません。それにしても、1,574 mの山の何処かに、人が住んでいたという遺蹟が見つかったのでしょうか。

太安万侶は、嘘は書か無かったのです。天皇家の歴史を書き残したと考えています。


次の記事は、田村誠一氏が書かれた『古事記が解いた古代史』のp153をコピーしたものです。
高千穂の位置が含まれる地図を付けましたのでご覧ください。 ヒルゼン高原から、平地に下りた所に有ります。

古事記が解いた古代史  高千穂
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2013/07/index.html

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