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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(81) 妹伊邪那美神(12) [日本の歴史]

 伊弉諾神と妹伊邪那美神の間には、子供が産まれました。ところが、水蛭子が産まれたと書いてあります。
 どうして産まれたかと云いますと、伊弉諾神と妹伊邪那美神と書いてある様に、二人は、兄妹の関係であったからでしょう。
 兄妹の関係であれば、必ず、水蛭子が生まれるとは限りませんが、生れる可能性の強いことは分かってます。
 分かっているからと言って、そのまま、天皇家の歴史の中に、書く必要があるのかと云いますと、一つには、高天原がヒルゼン高原に在ることを伝えたかったのです。

もう一つは続けて、次の文章が有るからです。

雖然、久美度邇此四字以音興而生子、水蛭子、此子者入葦船而流去。次生淡嶋、是亦不入子之例

 水蛭子の次に生れたのは、「淡島」でした。「是亦不入子之例」と書いたと言うことは、水蛭子も淡島も子供には入れませんと書きました。
 その後、次には、狭別島、二名島が産まれたことを書いています。
このことは、又、書く事にして、水蛭子のことです。 太安万侶は兄妹の間に産まれた子供は、水蛭子に成ることをどうして知っていたかです。

話は飛びますが、ひろさちや著 『ゆうゆう人生論』44ページに、古代インドの説話にある「ブラーナ文献」というものが有ることを紹介して居られます。
 ひろさちや氏は、哲学者で、インドの哲学書を読んで居られて見つけられたそうです。
 この文献の中に、「昼夜の起源の物語」という説話があり、この説話には、「ヤマとヤミーとの名の双生児—兄妹」が書いてあるそうです。 この話題の時代には、まだ、昼と夜の区別は無くて、どうして、夜賀誕生したか分かりませんが、哲学書に書いてあると言うので、印度は凄い国ですね。
 このお話は印度から、中国を経由して日本に伝わったと思われますが、中国も古い国ですが、中国にも、哲学書あったかどうか調べていません。

「ヤマとヤミーとの名の双生児—兄妹」は、気付かれましたか。

イザナギとイザナミ  双生児‐‐兄妹

私の興味は、其の当時、日本の絹は、中国を経由して、ユダヤ人によってローマに運ばれていたのではないかと考えています。

 この話は次回にします。

<すみません。 大幅に、掲載する原稿を間違っていました。前、半分が抜けていました。>

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(80) 妹伊邪那美神(11) [日本の歴史]

 前回、最後に変なことを書きました。

「オノコロ島を漢字で書いてください」

書けましたか。ウィキペディアでは、次のように書いてあります。

古事記は ----淤能呂島(おのごろじま)
日本書紀 ----磤馭慮島(おのころじま、初字は「石殷」で一字)と表記する。
 この漢字を書くことのできる人は、あまり、おられないでしょう。日本書紀の最初の漢字は、どうして、「初字は「石殷」で一字」と書いてあるのでしょう。
カシオの EX-word は、(おのころじま)で検索しますと、「磤馭慮島」はヒットします。
同じく、漢字辞書で、(おの)で検索しますと、「磤」はヒットしません。
 これは、多分、「磤」の漢字は、日本にも、中国にも、存在しない漢字ではないでしょうか。(古い漢字辞書)ですと、存在するかも知れません。
 どうして、このようなことに拘っているかと云いますと、日本書紀の方が、先に書かれて、古事記はその後に書かれたと言う歴史家が居られて、ただの学説で無くて、これまでに、三冊の本を出版しておられるとネットに書かれていたからです。
この方の本を買って、どのようなことを書いて居られるかを調べなければなりませんが、私には、その為のお金も、時間もありません。
もし、日本書紀が先に書かれて、太安万侶が、この日本書紀を参考にして古事記を書いたとしますと、それは間違いだろうと、誰にもいうことは出来ません。
もし、日本書紀に書かれている、「磤馭慮島」を見て、太安万侶を書いたとしますと、当時、存在しなかった「磤」を太安万侶は、「お」と読んだことになります。それだけではなくて、「磤馭慮島」に書かれている漢字には、意味があった筈です。
古事記の方は、同じ様に漢字が使われていますが、漢字には意味は無くて、読む時の「音」を表しています。
歴史家は、どなたも、どうして、イザナギとイナミが造った淤能碁呂島が、どうして、このような名前になったかは説明して居られません。
日本書紀の方は、「馭」は、馬をならして、あやつる人。御者。
「慮」はおもんばかる。思いめぐらす。読みは、「ロ」と読ませています。
「碁」の読み方は、ゴ、キ、ギ  のみです。 古事記は、(おのごろじま)の読み方に成ります。
もし、太安万侶が、日本書紀を見て、淤能碁呂島(おのごろじま)と書いたとしますと、おかしいことになります。たかが、「コ」と「ゴ」の違いではありません。
イザナギとイザナミが、初めて造った島の名前です。
その後、二人は、次々と「島」を生んだと書いています。全部、実在する島です。
他の島の事は、忘れても良いですが、淤能碁呂島は、太安万侶が付けたのでしょう。
そのようなことは、どうでも良い様ですが、どうやら、淤能碁呂島(おのごろじま)は、イザナミとイザナギが、最初に造ったようで、しかも、ヒルゼン高原の日留神社の所にあったことを太安万侶は、書き残したのではと、古事記を読むようにしています。
では、淤能碁呂島の名は、なにをヒントにして決めたのでしょうか。日本書紀が先に書かれたのであれば、読むことのできない「磤馭慮島」を見て、太安万侶は、どうして、淤能碁呂島としたのでしょうか。
記紀のどちらが、先に出来たとしても、どこからヒントを得たのでしょうか。

あるとしますと、妹伊邪那美神の「妹」にあると----即ち、「水蛭子」にあるのでしょう。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(79) 妹伊邪那美神(10) [日本の歴史]

 妹伊邪那美神に付いて、9回も書いたのですが、脱線して、10回目になりました。

しかし、古事記の始めのほうに登場する神の内、天照大御神よりも、イザナギとイザナミの方が、太安万侶は重要視したのではないかと思っています。

 そこで、太安万侶は、「高天原」のことから書き始めました。
始めの部分では、「高原」の間に、「天」を入れて、ひるぜん高原のことを記したのですが、
「高天原」の「天」は、天つ神のことだと説明しました。ひるぜん高原であることは、何処にも書きませんでした。

その変わり、突然、 イザナギとイザナミの事を挿入しましたが、イザナミの事を「妹伊邪那美神」と記し、「妹」を付けました。 ということは、イザナギとイザナミは、兄弟だということを知らそうとしました。本当かどうか判りませんが、兄弟であれば、「ヒルコ」が産まれるのだと、「水蛭子」と記しました。

日本書紀には、〈可愛少女歟。遂爲夫婦、先生蛭兒、便載葦船而流之〉と記されて、「古事記」と違った「蛭児」と記されています。

(日本書紀が完成した721年には、古事記は、処分されて無かったと推察しています。その為に、古事記に水蛭子と書いてあることを知っていたことになります。 日本書紀を書いた人は、『古事記』を持っていて、「水」を取って、「子」を「児」に書き替えたのだと思います。 

ウィキペディアでは、
ヒルコは日る子(太陽の子)のことだと書いてあります。 これは、歴史家が書かれたのでしょうか。実際の「ヒルコ」を見られたことが無いのだと思います。見る機会のあるのは、お医者さんか産婆さんでしょう。実際に見られておれば、(太陽の子)
という発想などは、浮かびません。


「ヒルコ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB%E3%82%B3

所が、太安万侶は知っていたのです。どうしてだと思われますか。

しかし、太安万侶は、蛭とヒルゼンに共通する「ヒル」を書きたかったのだと思います。ということは、712年の頃には、既に、オノコロ島がある一帯は「ひるぜん」と呼ばれていたのだと思います。

 オノコロ島は、イザナギとイザナミが住んでいた御所と思われます。
オノコロ島を漢字で書いてください。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(78) 妹伊邪那美神(9) [日本の歴史]

 前回、日本の何処で絹が作られていたかを見て頂きましたが、これでは少ないので、もっと、多く作られていた所を紹介します。
 全国に、延喜式内社が3132座あります。延喜式内社とは、延喜式(えんぎしき)の巻9・10の《延喜式神名帳(じんみょうちょう)》に記載された神社を言います。
これは、927年に制定されましたが、「原則として祈年祭(きねんさい)の官幣(かんぺい),国幣(こくへい)の奉幣にあずかる神社」と説明されていますが、私は、藤原氏が、この神社には、絹の買い取りを約束した神社では無かったかと考えています。
 いくら絹を生産しても、売れなくては、生産をつづけることは出来ません。
 このようなことは、どの歴史書をみても書いてあると思います。
 この証拠を掴むために、全国にある延喜式内社が3132座を全部訪れることを決心しましたが、殆ど達成出来ていません。
 どうしてかと云いますと、例えば、滋賀県だけで、三年掛かりました。
 どうして滋賀県にしたかと云いますと、滋賀県はお金持ちだったからです。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%BC%8F%E5%86%85%E7%A4%BE%E4%B8%80%E8%A6%A7

近江国の式内社一覧
どうしても、行きたい神社を絞ったのと、多過ぎる大津市の古墳は、大津京遷都を知る上で、是非とも必要と思いましたので、一泊して回れる神社は、8~10社でしたので、多くは、訪問出来ませんでした。

 厖大な古墳の名前は、次に書いています。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(2)大津北郊の群集墳
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2015-11-14

大津市の古墳を調べますと、壬申の乱に行きつきました。
 タイトルから判りますように、 大津市の古墳の記事はも141回も書いたことになります。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(141) 壬申の乱(92)
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2016-10-09


神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(77) 妹伊邪那美神(8) [日本の歴史]

 日本史の根幹の部分に、突然、ユダヤ人が登場しましたので、馬鹿らしくなって、読むのを止められた方が多いのではないかと思っています。

ユダヤ人どころか、吉野ヶ里遺跡のことも、聞かれたことは無いと思います。
 全国で絹が作られていたことは、ご存じだと思います。秩父の伊勢崎に、建御名方神を祀った神社が、三座あります。建御名方神は古事記には登場しますが、日本書紀には、登場しません。又、倭文神社があります。建御名方神は絹の運び屋でした。
 この倭文神社は、絹の集散地であったと思われます。
その一部を掲載します。
• 伊勢国鈴鹿郡 倭文神社(現 加佐登神社(三重県鈴鹿市)に合祀)
• 駿河国富士郡 倭文神社(静岡県富士宮市)
伊豆国田方郡 倭文神社(現 鍬戸神社(静岡県三島市)ほか論社複数)
• 常陸国久慈郡 静神社(茨城県那珂市)
• 甲斐国巨摩郡 倭文神社(山梨県韮崎市)
• 上野郡那波郡倭文郷 倭文神社(群馬県伊勢崎市)
• 丹後国加佐郡 倭文神社(京都府舞鶴市)
• 丹後国与謝郡 倭文神社(京都府与謝郡野田川町)
• 但馬郡朝来郡 倭文神社(兵庫県朝来市)
• 因幡国高草郡 倭文神社(鳥取県鳥取市)
• 伯耆国河村郡 倭文神社(鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内)
• 伯耆国久米郡 倭文神社(鳥取県倉吉市)

この広い範囲に分布する絹の生産地から、吉野ヶ里に絹を運ぶには、それぞれの生産地が、吉野ヶ里とどのような位置関係に在るかを測量出来たのは、ユダヤ人だけだったようです。

吉野ヶ里の時代と倭文神社の時代は、離れていますが、日本では、何処で米が作られていたかを知って頂くために、記しました。

こんな馬鹿げたことを書いて居られる歴史家は見つからないかも知れません。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(76) 妹伊邪那美神(7) [日本の歴史]

 妹伊邪那美神。 この前にある(妹)がどうして付いているのか。
 ふと思っただけで、書き始めましたら、後が続きませんでした。

太安万侶は、何が何でも、水蛭子のことは書きたかったのですが、蛭子のことは、知らなかったようです。どうして、水蛭子がうまれたかの原因を書いています。

この部分では、古事記には、イザナギ命とイザナミ命の間に、「水蛭子」が産まれた話を入れました。
 「水蛭子」のことは、コンピューターで調べただけですが、古事記以前には、記録は無かった様に思います。しかし、古事記の直ぐ後に、書かれた日本書紀には、古事記より詳しく書いています。しかし、こちらは、「水蛭子」ではなくて、「蛭子」です。

日本書紀を書いた人は、太安万侶よりも、知っていることを見せる為に詳しく調べて、書いたのではないか。

 太安万侶は、古事記に書いた高天原は、どこにあるかヒントを書こうとしたのでは無いかと推理しました。
 日留神社の日留は、「ヒル」です。ひるぜん高原の「ヒル」を知らせる為に、日留神社を書いたのではないでしょうか。

 僅か、言葉のごろ合わせで、日留宮とひるぜん高原が、「ヒル」が共通するからだけで、「日留神社は、高天原の中心だった」と考えたのではありません。

高天原の中心である高天原は、日本にやって来た天ツ神が、住処に定めた所だと推定出来ます。
神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(70)に於いて、イザナギ命とイザナミ命が住んでいた年代を無理矢理に、推定し、紀元前300年ころかと記しました。

 この人たちよりも、早くから日本にやって来た人達がいました。漢人です。この人達は、すべて、日本海の沿岸に辿りついたと思われますが、多くの人は、九州を制覇するようになったと考えています。
 古い文献では、遺蹟が発掘されますと、鏡や刀などが出土しました。銅鐸なども見つかりました。これらは、全て、日本人の遺跡のように考えられていましたから、歴史が無茶苦茶に考えられていたと思われます。

ところが、「吉野ヶ里遺跡」が見つかった時は、大騒ぎでした。 「邪馬台国ではないか」と。
吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%87%8E%E3%83%B6%E9%87%8C%E9%81%BA%E8%B7%A1#.E7.B8.84.E6.96.87.E6.99.82.E4.BB.A3
 現在は、ここに書いてあることが、これまでの研究から、判ったことになっています。
 
 環濠集落の環濠が見つかった時に、どのようなものかを見たくて、行ってきました。その時は、まだ、建造物等の復元は見られず、ただ、広い草原が有るだけでした。 そこで、寝転んでいるだけで、ここは、邪馬台国では無いなと思いました。

ところが、環濠の濠に降りましたら、私の背の倍ほどの深さがあると思いました。ということは、外部からの敵の侵入を防ぐための構築物だと思いました。

 帰途、佐賀県と長崎県にある遺蹟に立ち寄り、楽しみました。

以前に紹介しました田村誠一氏は、この吉野ヶ里は、日本全国から集めた絹の最終集積所であったと記して居られます。
 その集積を指導していたのは、ユダヤ人だったと。
このユダヤ人は、紀元前、4世紀に日本に来ていましたし、その絹を印度、中近東わ経由して、ローマ等に運んでいたのが、ユダヤ人であったと書物に書いて居られます。

 こんな日本の歴史は、初めて聞かれると思います。 この壮大な歴史の一部が、ひるぜん高原になります。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(75) 妹伊邪那美神(6) [日本の歴史]

蒜山高原に、茅部神社があります。この神社には、日本一の石の鳥居がありますが、この鳥居は安政七年(1860)の作ですから、新しいですが、ここから本殿までの500mの参道に桜が植えられています。一直線の桜並木です。この参道は古いものではないかと思われます。茅部神社の裏山にある天の岩戸と日留宮を結んだ線上にあるといわれています。
 
と推測しましたが、肝心の茅部神社の詳しい事は判りません。
この外にも、蒜山高原には、沢山の神社があります。
それらの神社の特徴は、祭神の種類が多いことです。
 
茅部神社
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page470.html
全ての祭神を数えますと、古事記に登場する祭神が、殆ど、見つけることが出来るのではないかと思います。

ただ、茅部神社のアマテラスは、天照大神となっています。古事記に書かれているアマテラスは、天照大御神と記されて、「御」が入っていますから、茅部神社は、天皇家と違う人達が、造ったのではと考えています。

太安万侶は、稗田阿礼に調べさせたとされていますが、高天原は、このように細部まで、書き残しましたから、何処にあるとは書かないで、詳しく書いたのではないでしょうか。

 当然、稗田阿礼は、ひるぜん高原の出身者と思われます。

茅部神社は何時造られたか判りませんが、少なくとも、古事記が完成した712年には、存在しなくて、古事記に併せて、天の岩戸を神社の裏に造ったのではないでしょうか。

 
天照大神、天の岩屋戸に避難
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/03/post_3.html

天照大神、天の岩屋戸に避難 その2
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/03/2_2.html

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(74) 妹伊邪那美神(5) [日本の歴史]

①次のブログは、蒜山観光協会のものです。

蒜山・天空の郷 神話紀行
http://cms.top-page.jp/p/maniwa/hiruzen/5/4/1/
 
ここには、次のようなことが書かれています。
「美作国での高天原伝説ではアメノハジメアメハシラが奈義山系に降臨し、日天津国を建国したのに始まり、天神七代、続いて地神五代が治世しています。これが奈義山系の高天原であるといわれています」
 このように記し、沢山の伝説が残っていると紹介して居られます。

しかし、私が書いた記事は、「日留神社は、高天原の中心だった」です。いくら伝説が残っていても、奈義山系が高天原だとは決定の証拠にはなりません。

②次のページは、
蒜山観光協会のものです。
 〒717-0503 岡山県真庭市 蒜山富山根303-1

蒜山の語源
http://cms.top-page.jp/p/maniwa/hiruzen/5/4/4/

 このページでは、考えるだけの全てを書かれたと思われる程、蒜山に関する言葉等をあげられています。
 なんだか、自暴自棄になられた様な表現が、続きます。 結論は、どうして、ひるぜん高原と呼ばれるようになったかは判りません。

①も②もどうして、ひるぜん高原と呼ばれる様になったかは判らないようです。

それに比べて、自画自賛ですが、
 
【日留神社は、高天原の中心だった】
ひるぜん高原は、日留山高原だったと断定しています。
古事記の始めは、ひつこい(私は大阪ですから、しつこい をひつこいと言います)様ですが、が、次の文になります。
天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下效此、次高御產巢日神、次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。
次、國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時流字以上十字以音、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神名以音、次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。此二柱神亦、獨神成坐而、隱身也。

天と地が分かれた頃に、高天原へ、天之御中主神と高御產巢日神と神產巢日神、そして、
宇摩志阿斯訶備比古遲神此神と天之常立神がやってきました。
 これらの神は、独神で、身を隠してしまいました。

 神の名前だけで、どのような神のかは、なんら説明しないで、何所かへ行ってしまったと記しています。
 そして、イザナギとイザナミが、結婚して、子供が産まれましたが、水蛭子だったと書いてあります。

これ以外では、高天原は、何処だとは書いていませんが、
①季節は「國稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時」と記し、雪解けの様子を述べています。
②「如葦牙、因萌騰之物而成神名、」と記し、雪がバサーと落ちた時に、雪の下から、葦の葉が牙をむいたように、元気に現われて、其の時に生れたのが、「宇摩志阿斯訶備比古遲神」

ですと太安万侶は、高天原の様子を表現しました。

それは、日留神社から見渡せる広い高原ですと書いたものの、この高原が、何処に在るとか、名前はなんという名前の高原かは記しませんでした。

そこで、古事記には、イザナギとイザナミを登場させますが、二人の間に生れたのは、水蛭子だったと記し、その後、二人は、どんどん島を生んだと書いています。いくら、神話だと言え、人間が、島を生むわけがありませんが、「淡島」を生んだと記しました。

沢山の島の名前が、書かれていますが、「淡島」はありません。これは、淡路島の事だが、日本書紀を書いた人が、淡路島と書いてあったのを「路」を抜いたのだと言う人。

「淡島」という島は、無いが、「淡島神」という神が居られるなど、研究? は、益々、複雑になります。
(これを書き終えてから、ネットで、淡島を調べましたら、一ケ所見つかりました)

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(73) 妹伊邪那美神(4) [日本の歴史]

 前回の文章の意味はお解りになりましたか。

「於其嶋天降坐而」から始まる厖大な漢字ばかりの文章は、難しくて、読む気が起こりませんが、「我身者、成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處、刺塞汝身不成合處而、以爲生成國土、生奈何。」の部分の倉野憲司氏の翻訳ですと、「吾が身は、成り成りて成り合はざる處あり。」と答へたまひき。
 
「と答へたまひき」の部分は、沢山書きました「「吾身者、成成不成合處一處在。」爾伊邪那岐命詔「我身者、成成而成餘處一處在」の前部に、「汝身者、如何成。」答曰 と書いてあります。
  この翻訳文が、判らなければ、自分で、翻訳しようとしても、判らないでしょう。

古事記の多くの文章に見られる字は、「音」だけを表し、漢字がもつ、本来の意味を表さないことが多いですが、倉野憲司氏は、適当に、意味が通る様に、都合よく、取り入れて、翻訳して居られる事が判ります。

 この古事記を書いた太安万侶は、このように苦心しながら、蛭子の話を挿入しましたが、古事記では、「水蛭子」と書いてあります。日本書紀にも蛭子の事が書かれていますが、古事記より詳しく書かれています。

 どうして、「水蛭子」と書いたのでしょう。この古事記の水蛭子をみて、日本書紀の編集者は、古事記より詳しく、蛭子の事を書いたのでしょう。

とは云うものの、日本書紀の編集者は、蛭子のことは、三回書いていますが、その一つは、生れまれてから、三年間、育てたが、歩く事が出来ないので、流したと記しています。

古事記の前に、蛭子の事を書いたものは、無いそうです。その直ぐ後に、日本書紀に書かれた蛭子は、他の方の研究では、日本書紀を元にして、いろいろの所に流れ着いた記事は存在するそうです。

 以上の事から、712年に初めて書いた太安万侶は、兄妹の間に生れた子供には、蛭子が多く生れることはどうして知っていたのだろうと考えましたが、古事記には場違いの記事ですから、やはり、高天原は、ひるぜん高原だと言うことを暗に知らせる為の記事で無かったかと考えました。

 これを考えたのは、私ではなくて、田村誠一という方でしたが、田村氏の論法では、ひるぜん高原に在る、中蒜山の五合目にある日留神社のある所が、古事記に書かれているオノコロ島です。



『古事記』では淤能呂島(おのごろじま)、『日本書紀』では磤馭慮島(おのころじま、初字は「石殷」で一字)と表記する。

のような話は、歴史学会では、100%、無視されています。

 100%無視されている事を、素人の私が挑戦しても無理かも知れませんが、その後、ヒルゼン高原の五合目をはじめとして、 その一帯を歩き、関連した所へは、田村誠一氏の真似をして歩きまわりました。 二年はかかったでしょうか。
以下、その頃に書いたものです。

日留神社は、高天原の中心だった
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page485.html

日本大好きNo120 高天原はヒルゼン高原だった 
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-09

No121高天原はヒルゼン高原だった—2
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-10

日本大好きNo122高天原はヒルゼン高原だった—3
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-11

日本大好きNo123高天原はヒルゼン高原だった—4
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-07-12

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(72) 妹伊邪那美神(3) [日本の歴史]

兄弟で結婚することは普通にはありません。別れ離れに成っていて、知りあうことになって結婚すれば別ですが、普通は結婚しません。
 
 普通は結婚しないことを太安万侶は知っていたから、蛭子が生れたと書きました。それだけではなくて、何故、蛭子が産まれかの理由も書きました。
 
於其嶋天降坐而、見立天之御柱、見立八尋殿。於是、問其妹伊邪那美命曰「汝身者、如何成。」答曰「吾身者、成成不成合處一處在。」爾伊邪那岐命詔「我身者、成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處、刺塞汝身不成合處而、以爲生成國土、生奈何。」訓生、云宇牟。下效此。伊邪那美命答曰「然善。」爾伊邪那岐命詔「然者、吾與汝行廻逢是天之御柱而、爲美斗能麻具波比此七字以音。」
如此之期、乃詔「汝者自右廻逢、我者自左廻逢。」約竟廻時、伊邪那美命、先言「阿那邇夜志愛上袁登古袁。此十字以音、下效此。」後伊邪那岐命言「阿那邇夜志愛上袁登賣袁。」各言竟之後、告其妹曰「女人先言、不良。」雖然、久美度邇此四字以音興而生子、水蛭子、此子者入葦船而流去。次生淡嶋、是亦不入子之例。
 原文を読んで頂けましたか。出来れば、ご自分で、読んで下さい。 太安万侶は、どうして、蛭子が産まれただけではなくて、どうしたら、子供が生れるかを次の様に、説明しています。
 「我身者、成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處、刺塞汝身不成合處而、以爲生成國土、生奈何。」
 そして、何故ヒルコが産まれたかを説明しています。
「阿那邇夜志愛上袁登賣袁。」各言竟之後、告其妹曰「女人先言、不良。」
 
ヒルコ  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB%E3%82%B3