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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(241) 草津宿と関宿(6) [日本の歴史]

次の一覧表をご覧ください。

式内社と祭神
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page809.html
これは、927年に延喜式と称する法律が発布されて、この法律で国から幣帛料を授与される神社である式内社の一覧表です。
 
一覧表は、国別に、式内社を整理したものです。

数字多いほど、式内社が多いことが分かります。

滋賀県は、155の神社をすべて、歩いて回られますと、個人によっていろいろ感じ方が違って、新しい発見が出来ると思います。

私が感じたことは、いろいろ有りますが、言葉では、なかなか表現できませんので、
次のブログを見て頂こうと思います。

滋賀県の式内社分布図
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page809.html
 この分布図は、すごい分布図です。

(と書きましたが、間違っていました。 私ではなくて、琵琶湖の周辺に、式内社の数を棒グラフで、火と眼見ただけで、どこに多いかのグラフでした。 上のアドレをクリックはますと、棒グラフではなくて、日本全体の式内社の数が見えるだけです。  見つかりましたら、又、訂正します)

①滋賀県の北に密集しています。
②南の大津の所は、少ないです。
 ここは、天智天皇が、遷都した所です。 どうして、ここに遷都したかは、いろいろ考えれますが、一言で言えば、一番安全と思われたからでしょう。

しかし、天智天皇も、次の天武天皇も、発病されてから、4ヶ月後に、亡くなられています。

そんなに、同じ、4ヶ月後に死ぬことは、稀でしょう。
 
 証拠は、同じ、4ヶ月です。
 毒殺による死亡と推察出来ます。

では、このこと、式内社と関係が有るのかと言いますと、あるかも知れません。

式内社とは、何だとの出発点にもどります。

 927年に延喜式と称する法律が発布される。この法律で国から幣帛料を授与される神社が式内社。

素人の私でも、こんなことを考えるのに、プロの歴史家が、だれ一人として、式内社が、特別な神社の集団であることを書いて居られません。

脱線しましたので、次回から、「草津宿と関宿」に戻ろうと思います。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(240) 草津宿と関宿(5) [日本の歴史]

草津宿のことは、5回も書いてきましたのに、読まれた方は、何が書いてあるのか判らなかったのではと思います。
 私も、急に行こうと思っただけで、何も下調べは有りませんでした。

しかし、訪れてみると、 草津宿は立派に保存されていました。

以前に、一年掛けて、西国街道歩いたことが有ります。 ここ一年は、熊野古道を歩いていますが、殆ど、昔の姿は残っていません。
 熊野古道は、大阪城の近くにある八軒家船着場から歩き初めて、天王寺----やっと、堺市に入った所です。こちらは、第二次世界大戦のおり、大阪市内は、空襲に遭いましたから、ほとんと、熊野古道を示すものは残っていません。

草津宿は、映画のセットではありません。町ぐるみで、保存されていました。 私が今までに、訪れた宿場の中では、一番保存されているように思いました。

今日は、どなたも書かれなかったことを書こうと思います。

草津宿に行くためには、草津線という鉄道を利用することになったのだすが、知らなかった楽しさを体験出来ましたので、そのことを書きました。

この列車は、1時間に1本しか、有りません。なのに、満員ではありませんでした。これでは、維持することは出来ないなと思いました。
 よく、テレビで、廃線の事が放映されています。奈良や京都の文化遺産が報道されて、所謂、行楽地と言われていますが、草津宿の形で、日本の文化財として残ってほしいと思います。

次の一覧表をご覧ください。
式内社と祭神
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page809.html

927年に延喜式と称する法律が発布される。この法律で国から幣帛料を授与される神社が式内社。
考察
 ① 国の広さ・山岳地帯など、違いますから、一概に言えませんが、神社数が少ない地域が見られます。
    九州がそうです。神社数が多いこと、すなわち人間が多い、発展していると荒っぽく考えますと、
927年の頃には、勢力は九州から関西に移動していることが判ります。

 ② 九州以外で少ないところは、伯耆、安芸、美作、飛騨、安房、上総、下総が極端です。
    式内社が少なかったということは、式内社と認定していた勢力と反対の勢力が強く、式内社に出来
なかった。または、神社数が少なかったかです。
    式外社の数や神社名も調べる必要があります。

 ③入力の途中ですから、よく判りませんが、出雲の式内社は、出雲の北部に集中しているようです。

 ④ 志摩の3社は、神名帳に記されている神社とするには、すこ疑問があります。最も、少ないことに注目してください。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(239) 草津宿と関宿(4) [日本の歴史]

 近江国の式内社は、ご覧頂けましたか。

式内社は、155社有りました。
もう一度、次のブログをご覧ください

延喜式神名帳
http://www.genbu.net/engi/  
ここの、最初のページに、次のような文面が、書かれています。
平安時代の律・令・格の施行細則を集成した法典で、醍醐天皇により延喜五年(905)八月に編纂を開始、 二十二年後の延長五年(927)十二月に完成した。
 五十巻三千数百条の条文は、律令官制の二官八省の役所ごとに配分・配列され、巻一から巻十が神祇官関係である。  延喜式巻一から巻十のうち、巻九・十は神名帳であり、当時の官社の一覧表で、祈年祭奉幣にあずかる神社二千八百六十一社 (天神地祇三千百三十二座)を国郡別に羅列している。

大切な部分を挙げてみます。
①醍醐天皇により延喜五年(905)八月に編纂を開始、 二十二年後の延長五年(927)十二月に完成した。----日本書紀も、政府が作ったことになりますが、 完成まで、22年間掛かっています。 大事業です。

②祈年祭奉幣にあずかる神社二千八百六十一社 (天神地祇三千百三十二座)を国郡別に羅列している。
 (祈年祭奉幣にあずかる神社) とは、祈年祭奉幣とは、何が頂けるのでしょうか。
 金一封でしょうか。

③このブログは、神社の写真が多いです。 全部ご自分で写されたのであれば、式内社を全部歩かれた事になります。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(237) 草津宿と関宿(2) [日本の歴史]

 自宅出発は、
日頃、電車にも乗ったことのない私には、大阪駅までの電車でも、新鮮でした。車窓からの眺め、乗客者の洋服を眺めるだけで楽しいものでした。
 電車を降りて、JRの道順は、忘れている部分多く、不安を交えながら、キョロキョロしながら歩きました。

JRは、駅と駅の間が長いですから、? スピードが速いですね。
車窓を眺めながら、ふたりで、おしゃべりしながら、流れ去る町は、楽しませてくれます。

草津駅到着です。

先ずは、東海道を見つけ、歩こうと思いましたら、草津宿の案内人のおじさんが立つておられました。ボランティアで、案内をされる方です。 30分後に、お人が集ったら、出発し、一時間半ぐらいの案内です。

魅力が有りましたが、30分も待つと時間がもったいないので、二人で歩き始めました。
私達が、持って居たものは、観光案内書で頂いたパンフレットのみです。
 皆さんは、次の所をクリックして、草津宿本陣の概要を頭に、いれてください。

草津宿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E6%B4%A5%E5%AE%BF

東海道(右折)と中山道(直進)の分岐点、草津追分。


 愈々、草津線です。二両編成の電車が到着しました。
電車は、乗りたい人が、ドーアの横にあるホダンを押します。当然、押さなかったらそのまま、置いて行かれますが、運転手は、窓から、覗いて、乗客がおれば、開けて貰えるでしょうが、押した記憶がないので、空いたのでしょうね。 みなさん、自分でボタンをおして、乗り降りをして居られました。

 問題は、関駅に着いた時の事です。キップは駅の改札口で渡すものと思っていましたら、運転手席から、受け取るために、手をだされて、切符を下さいと言われました。
 この電車は、車掌さんが居られなくて、何事も全部運転手さんの仕事でした。

切符を用意していなかった家内は、強く叱られたので、朝からご機嫌悪しです。

 この文章では、どうして、機嫌が悪いか判りません。私達は、切符は改札を出る時に、機械に入れるかですが、駅に行って分かりました。
 駅員は、居られませんでした。

駅を出ますと、びっくりです。私が大阪から、電車に乗って、最寄りの駅に降りますと、駅前は、うどん屋、酒屋、食堂、写真屋、雑貨や、コンピニ。 これで、終わりです。 少し、広い道路に出ますと、銀行、交番所、理髪店と、駅前の商店街です。

草津の駅前は、大きなビルでいっぱいです。 私の町と比較しますと、
 どちらが田舎なのか判りません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E6%B4%A5%E5%AE%BF#/media/File:%E8%8D%89%E6%B4%A5%E5%AE%BF%E3%81%AE%E8%BF%BD%E5%88%86.jpg
駅を出た私達は、東海道の方向だけを尋ねたボランティの伯父さんに、教えて貰った通り、広い通りに出ました。しかし、その前に横切った狭い道(商店街の雰囲気)が、東海道ではないかと、戻って来ました。
 狭い、商店がを歩く内に、変な事に気付きました。 大阪で言えば、心斎橋通りの雰囲気でも、もう少し幅の広い道です。どんどん、乗用車が通るのです。

 でも、この道が、中山道だと言うことが、直ぐに、分かりました。
先ほどみてくださいと書きました。 「草津追分」で、写真の右にあるのが、その道標です。
 写真は、トンネルを潜った所にありますが、このトルネルの上は、公園になっています。ここは、以前は、川が流れていた所らしいです。川は、少しずつ底に土が溜り、堤を少しずつ、高くし、堤を築きます。 堤の上に登ったら、現在は、川は流れていませんでした。

 この写真の手前に、写真は写っていませんが、マンホールの蓋が有ります。 このマンホールの下は、水が流れているのでしょう。
東海道(右折)と中山道(直進)の分岐点であることが分かります。

ここで、ボランティアのおじさんが、このような説明をされていましたが、この天上川の説明が良く解りませんでした。
 
 このおじさんは、駅前で、道を教えて頂いた叔父さんでした。

と言う次第で、これから後は、おじさんの解説をお聞きすることになりました。

草津宿
http://www.kusatsujuku.jp/kaido_kaisetu/

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(236) 草津宿と関宿 [日本の歴史]

2017/09/23朝6時に目覚め、急に、草津宿と関宿に行く気になる。私はこの辺りは、車ばかりで走り回りましたので、電車での行き方が分かりません。
 家内は、一度だけですが、草津線を含めて、一日中、(10時間ほど)電車に乗り続けたことがあります。その時に、感動した草津線にもう一度乗りたいとの提案。なにが、気に入ったのかと言いますと、普通の電車にトイレがあり、窓には、普通、家庭の窓に使うカーテンがあったことです。

 東海道の宿場は、私は大阪ですから、大坂~江戸へ、順序良く行きたいとの希望有り。

 家内の一人旅は、列車に乗っての旅ですが、近くの電車に乗ることが増えました。しかし、大部分は、〔テレビの列車旅〕をすべて、見る事と成りました。

と言う次第で、朝、早くから、JRで、関西線で、奈良から行くか、私の東海道線で先に、草津まで行って、帰りは、関西線で帰宅と云ったものの、どうも、私は歩が悪かった様に思えます。
 私の経験は、車が主体ですから、地図よりもカーナビになっています。

読者が大阪の方でなかったら、こんな話はどうでも、良いことになりますが、
〔草津宿と関宿〕へ行くための地図くらいは、ネットで手に入れて、ご覧ください。
私は次の地図をコピーして持参しました。

関宿ぶらりマップ
http://kameyama-kanko.com/wp-content/uploads/2017/03/map_seki.pdf
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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(235)伊邪那岐神(4) [日本の歴史]

前回の古事記を読んでみます(234)において、書きました「大発見をしたように思えた」とは、
 太安万侶が、古事記に書きました「宇摩志阿斯訶備比古遲神此神」は、高天原の雪解けの春に、ブナの木に積っていた雪が落ちた時に、下に積っていた雪が崩れ、下に生えていた葦が見えました。
 その葦の芽が、牙のように尖っていたから、神が誕生したと思った太安万侶は古事記に書いた

と書きました。

 このお話は、実際に、このようすを見たのは、太安万侶ではなくて、稗田阿礼だ、いや、太安万侶だと、二点三点しましたが、始めに私が知ったのは、田村誠一氏だ・・・・・と書きましたから、読者のみなさんは、馬鹿らしくなられましたので、このようなことを現在の人で、信じろと言う方が無理だろうと思うようになり、私の考えでは、現代の方には、納得していただくのは無理だなと考えました。

 古事記の解明は、諦めることにした時に、「ぶらタモリ」という番組で、高野山の事が取上げせれ、空海の事が、半分を占めたでしょうか。

空海は、現在は、高野山の奥の院で、籠っておられて、56億7千万年後に弥勒菩薩が次の仏陀になって衆生を救うとされているという話が、テレビで、話されていることを知りました。
 その証拠として、一日、二回、空海に、着替え、三人の僧侶によって、運ばれている所も、放映されていました。

このようなことを私はブログに書こうとしていましたが、古事記のお話と、空海のことを平行して、書く事は不可能だなと諦めることにしました。

このブログのタイトルは、以前と同じですが、これから、空海のことも、「宇摩志阿斯訶備比古遲神此神」も、一時ストップして、伊邪那岐神が、どうして、古事記に登場したかを書くつもりにしています。

伊邪那岐神が、古事記の初めの所に、何故、太安万侶が書いたかは、不明です。

しかし、多くの神の中では、その役割を太安万侶はハッキリ書きました。

イザナギとイザナミと二人で、国土の建設をした神です。
しかし、この二人のことは、すぐ、登場したあとに、直ぐに、太安万侶は、淤能碁呂島を造った。そして、そこに「八尋殿」を造ったとかきました。

では、その二人は、どこから、高天原にやって来たか。

このようなことは古事記には、書いてありませんので、私が、中国にあった中山王国からやって来たことを書きました。

こんな話を書いた歴史家は、ゼロです。

こうなりますと、どの様に、理屈をこねても、古事記などは、読み説くことはできません。

古事記に書かれている神ではなくて、現在の日本人が考えている神とは、どのような神かを探っていましたら、空海の時より、もっと、以前に、日本人は、神の存在をどのように考えていたのかを知りたいと思っていたのでしょうね。
以前から、買って、読まないで積んでおいた『日本人の神さま』を27ページまで、読んだだけで、日本人は、紀元前より、神さん存在をしっていたことを知りました。

 そんな古い事は、古事記と日本書紀以外に書いたものはありません。
あると言われる方が書かれたものは、一杯ありますが、この話も取り込んで、書くことは不可能です。

ただ、今の私には、大事件と思えることを発見しました。
①空海のこと
②神さんのこと
 
を織り混ぜながら、私が抱いている神のことなどを書いてみようと思っています。そして、勿論、古事記に登場する、神のことを考えようと思っています。

次回は、昨日、行ってきました。 関宿のことを書きます。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(234)伊邪那岐神(3) [日本の歴史]

古事記のはじめから読むつもりになっています。
古事記の訳本を開き、確かめながら読んで下さい。

伊邪那岐神以外の神は、名前は分かっていますが、どのような神かが、判りません。
私としては、解かるのは、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神だけです。この神は、古事記の文面だけから、判断すると、高天原の雪解けの春に、葦原から芽が出たようすを太安万侶は、記し、宇摩志阿斯訶備比古遲神此神の誕生を理解したつもりで、ブログを書いていましたが、雪解けの中から、神の出現を感じ取られる読者はおられませんでした。

なんだか、大きな発見をしたように思えたのは、この世の中で、神の存在を信じる人が、おられないから、当然かと思いました。

この話は、伊邪那岐神の所に書いてありました。

古事記の訳文(倉野憲司著)から抜粋します。

これが淤能碁呂島なり。
その島に天降りまして、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。

イザナギとイザナギは、天つ神から命令されて、高天原にやって来ました。そして、「天の御柱を見立て、八尋殿を見立て」と書いてあるように、高天原な宮殿を建てたことになります。

 この八尋殿とは、どのようなものかと言いますと、ネットで調べますと、みなさん、堂々と書いて居られますが、あま良く解っておられないようです。

何故かと言いますと、書かれている高天原がと何処にあるか判らないのですから。

字面からのみ、判断すると、「八尋殿」の尋とは、両手をいっぱいに広げた時の長さをいうらしいです。それが、八つですから、仮に、一尋が1mとしますと、僅か、八メートルの宮殿と成ります。
 ネットで見ますと、「積もって生成されたオノゴロ島。そこに建てた巨大な殿舎。」というような意見もありますが、私は、オノゴロ島は、ヒルゼン高原の中蒜山の五合目に造られたと考え、実際に訪れて、頑張って登って来ました。

ここには、宮殿の欠片もありません。小さな祠があるだけです。

「中蒜山 祠」で検索しますと、一杯、表示されます。
https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%AD%E8%92%9C%E5%B1%B1%E3%80%80%E7%A5%A0&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ved=0ahUKEwil96_otrnWAhUEwrwKHQhdCO0QsAQILA&biw=1457&bih=696

写真だけでは判り難いですが、巨大な宮殿どころか、平らな面積は少なかったと思われます。
このようなことを考えますと、イザナギとイザナギは、命令された国造りは、結婚をして夢一杯の大きな住まい建設をしたと思います。でも、八尋の掘立小屋でしたが、二人にとっては、夢いっぱいの大きな家だったと思います。

これは、現代でも、同じでしょう。間借り生活だった新婚生活でも、二人の家は、素晴らしいものですが、二人で小さな家を建てた時は、「八尋殿」と云えるかも知れません。

私は、全部、両親に準備をして貰いましたから、この様な発想は出来ません。



 このように考えますと、太安万侶は、結構ロマンチックな考え方をする人だったと思われます。
「を見立て、八尋殿を見立てたまひき」と太安万侶は、書きました。
二つも「見立て」を並べました。

天の御柱を本物の神に見立てて、神さんに、八尋殿に収まって貰いました。

古事記が書かれた頃には、自分達のまわりには、家族を守って下さる神が存在すると考える人達が居られた事になります。

 何時の時代かと言いますと、紀元前のイザナギとイザナギが住んで居られた時代と成ります。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(233)伊邪那岐神(2) [日本の歴史]

前回の続きの「天の御柱」を考えてみます。

「天の御柱」ほど、皆さん、考えが、違うのには、驚きました。

先ずは、次のブログをご覧ください。

天之御柱とは どのようなものでしょう
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2004/12/post_3.html

 どうして、これが一番かと言いますと、忘れていましたが、これは私のブログでした。
随分、調べた上で、記事を書いていますが、よく解らないと書いています。


キーワードを「天御柱」に定め、検索しますと、沢山ヒットします。
①天御柱(アメノミハシラ)-----オノコロ島に建てた柱・竜田大社の祭神
http://nihonsinwa.com/page/990.html

②第64話 イザナギ・イザナミの神様、天の御柱を巡る-------柱の事
http://soseinippon.way-nifty.com/shinto/2012/07/post-8269.html

③国生み------淤能碁呂島に建てた柱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%94%A3%E3%81%BF

④見立天之御柱----見立てて建てた柱
http://www.musui.com/hosai/vanilla/2013/05/post-6.html

⑤しんのみはしら【心御柱】----出雲大社
https://kotobank.jp/word/%E5%BF%83%E5%BE%A1%E6%9F%B1-82417


大きく分けますと、御柱は、本当の「柱」と神の名前とになる様です。

本当の柱の方で、態々、見に行ったのが有ります。 

諏訪大社です。


諏訪大社で行われる御柱祭の時に、建てられる柱---この柱は、一番大きい柱でしょう。

7年に一度の天下の大祭 http://www.onbashira.jp/about/onbashira/

 御柱とは、どのようなもの  柱は柱ですが、次のように巨木です。
 御柱そのものは、長さ約17m、直径1m余り、重さ約10トンの巨木。柱を山から里へ曳き出す「山出し」が4月に、神社までの道中を曳き、御柱を各社殿四隅に建てる「里曳き」が5月に、上社・下社それぞれで行われます。諏訪の人々は氏子として全精力を注いで16本(4社×4本)の柱を地区ごとに担当します。

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(232)伊邪那岐神 [日本の歴史]

イザナギとイザナミは、古事記では、前の方に登場します。

どのように書かれているかと言いますと。
①次伊邪那岐神、次妹伊邪那美神。此二神名亦以音如上。

次に伊邪那岐神、次に妹伊邪那美神。

②於是天神、諸命以、詔伊邪那岐命・伊邪那美命二柱神「修理固成是多陀用幣流之國。」賜天沼矛而言依賜也。故、二柱神、立訓立云多多志天浮橋而指下其沼矛以畫者、鹽許々袁々呂々邇此七字以音畫鳴訓鳴云那志而引上時、自其矛末垂落之鹽累積、成嶋、是淤能碁呂嶋。自淤以下四字以音。

天津神たちが話し合って、イザナギとイザナミに
「この漂ってる国を固めて完成させなさい」と命じ、天の沼矛(アメノヌボコ)を渡しました。

二柱は天の浮橋(アマノウキハシ)に立って、天の沼矛を海に突き刺してかき回しました。そしてコロコロと鳴らして引き上げると、矛の先から塩がしたたり落ちて、積もっていきました。それが島となりました。これがオノゴロ島です。

以上の事から、
天津神たちが話し合って、イザナギとイザナミに
「この漂ってる国を固めて完成させなさい」と命じ、天の沼矛(アメノヌボコ)を渡しました。
 そして、オノゴロ島を造りました。

伊邪那岐神と伊邪那美神の二人の神が、初めて国土建設をしたことが書いてあります。

正確に言いますと、国土とは言えません。
この島に天降り、天の御柱を立てて、「八尋殿」を立てたと書いてあります。
広大な御殿でしょうか。
それよりも理解できないのは、「天の御柱」です。

似たものに、天の沼矛、天の浮橋があります。
この「天」は、「テン」とは読まないで、「阿麻 アマ」と読むと古事記の初めの方に書いてあった「天」だと思われます。
これは、「天つ神」の「天」だと思われます。

「天の御柱」はどのような柱は、次回に考えます。

「吾が身は成り成りて、成り合はざる処、一処あり」と答へたまひき。









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