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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(135)   黄泉の比良坂(3) [日本の歴史]

 播磨の三木郡に住んでいた大国主神は、スサノオの所にやって来て、スサノオの娘と恋仲になります。
 スサノオは次々と嫌ごとをして、二人の結婚に反対します。

大国主神とスセリ姫は、スサノオが眠っている間に、逃げ出します。
もう、二人に追いつく事が出来なくなった時に、黄泉比良坂に於いて、二人に叫びました。

故爾に黄泉比良坂に追い至りて遥かに望みて、大穴牟遲神を呼ばいて謂ひしく、「其の汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏せ、亦河の瀬に追いはらいておれ。
大國主神となり、亦宇都志國玉神となりて、其の我が女、須世理毘賣を、嫡妻として、宇迦の山の山本に、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に、氷木たかしりて居れ。是奴也。」

スサノオのいた所は、根の堅洲国(西伯郡高麗村)です。
 
どの辺りかと言いますと、唐王神社があります。

唐王神社
http://www.daisen.jp/p/kankou/4/umigawa/8/
地図 https://www.google.com/maps/@35.479083,133.455556,17z?hl=ja-JP
 
根の国堅州は高麗村唐王   69  -101- [真説 建国史]
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2016-01-09
 このページは、田村誠一氏の[真説 建国史]の一ページに、コピーし、私のコメントを加えたものです。

古事記に、スサノオが、母の国に帰りたいと言った記事は、この根の堅洲国(西伯郡高麗村)になります。

 唐王神社はの由緒には、「須勢理毘売は大国主大神と共に夜見の国より帰り坐して土地経営の功を畢へ・・・」と記されているので、古事記にも、「黄泉」の国ではなくて、「夜見」と書いてあったのではないかと田村誠一氏は、著書 『古事記が解いた古代史』の113ページ書いて居られます。

加えることに、次のように、記しています。
実はスセリ姫は、もう一社日野郡根雨町の板井原神社にも祀られ、伯耆ではこの二社だけだ。
 板井原神社の祭神は大己貴命 須勢理姫命 となっています。 祭神の大己貴命が問題です。
 ネットで、出来るだけ読んで見ました。この村は、廃村になったのですが、村全体をそのまま、保存されています。
 勿論、2000年前からの集落ではありませんが、立派なお家が残っていると書いてありました。
 この大きなお家と大己貴命は関係あるのだなと思いました。

 この神社のことも、稗田阿礼は、訪れて、太安万侶に報告したのではないでしょうか。

このように考えますと、「宇迦の山の山本に、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に、氷木たかしりて居れ。」も太安万侶の創作ですが、大国主は天皇家の世の中を引き継ぐために、大国主に託したとしました。
 その代わり、出雲と山城は、大国主の他の兄弟の住むところとなりました。


「大國主神となり、亦宇都志國玉神となりて、其の我が女、須世理毘賣を、嫡妻として、宇迦の山の山本に、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に、氷木たかしりて居れ。是奴也。」

上記の「底津石根に宮柱ふとしり、高天原に、氷木たかしりて」の部分は、古事記では、漢字で書いてあります。
於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。

「此四字以音」--漢字は、意味はなくて、音だけと書いてありますから、ひらかなにしました。
意味は、解りましたか。

古事記を書いたのは、712年ですが、太安万侶は、紀元前にいた大国主神のことを白兎の話を挿入することによって、古事記が嘘である様に、装うとしたのではないでしょうか。

しかし、確かめるために、八上比売の生れたところも行ってきました。地元では、このストーリに力を入れておられて、白兎の話は、作り話でしたとは書きにくいですが、太安万侶の創作では無いかと書いてしまいました。
これと同じことは、高千穂でも同じパターンでは無いでしょうか。
 高千穂は何県にありますかと質問しますと、だれでも知っています。

 
 黄泉という言葉は、誰も説明が出来ない言葉だと思いますが、古事記で使われるものに限れば、これ以上すすめない所に使われているような気がします。夜見の比良坂は、太安万侶の苦心の作ではないでしょうか。

こうしたために、黄泉の比良坂や黄泉の国が、現在のどこにあるか、判っている人は、歴史の専門家を含めても、判った人はおられないと思います。判れば、その村ごと、消えてしまうことになったと思います。

勿論、古事記を読む人も居られなくなったと思います。



神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(134)   黄泉の比良坂(2) [日本の歴史]

 黄泉の比良坂とは、どのようなものかを知りたくて、前回は、古事記の一部の翻訳文を書いてみました。

 簡単に復習しますと、田村誠一氏の著書の一部です。

 古事記に奴国が書かれていたので、次の記述から考えることにします。大国主神には別名が合計五つあり、大穴牟遅神、葦原志許男神等で日本書紀の大己貴命は無関係です。
 大穴牟遅神は伯耆での庶兄弟の迫害を逃れて木の国に移りました。この木の国は播磨風土記から播磨の三木郡でした。ここの御坂社に大国主神の別名葦原志許男神で祭られていて大穴牟遅神の業績は有馬風土記に書かれています。
 しばらくして根の堅洲国(西伯郡高麗村)のスサノオ訪ねました。
そしてスサノオの女スセリ姫と恋仲になります。しかしスサノオはこの結婚を認めないで、大穴牟遅神を殺そうとします。これに耐え兼ねて、大穴牟遅神はスサノオが居眠りしている隙にスセリ姫を背負って駆け落ちしました。
 スサノオは目が覚めて、二人を「黄泉の比良坂」に追いかけました。この「黄泉の比良坂」はイザナギが禊した時にも登場します。この時禊に現われた底筒男神や綿津見神を祭った吉原神社や大河原神社が日野郡江府町にあることからこの場所が「黄泉の比良坂」でした。
 更に唐王神社の由緒に大国主神とスセリ姫とが夜見国から帰って国土経営を行ったとあります。日野郡日野町の坂井原神社に二人が祭られていたので、「黄泉の比良坂」は夜見国の三平山の麓の意味でした。三平山(みひら)は海抜1010mもあり遠方から目標になり、これから夜見国は日野郡のことと分りました。
 以上までが 翻訳文の一部です。

古事記に奴国が書かれていた----是奴也  対になっています。
 スサノオが命令したのは、
「宇迦の山の山本に、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に、氷木たかしりて居れ。」

宇迦の山の山本は、日野川沿いにある溝口の西に、「大国村倭」という地名があります。ここは、大国主神やその兄弟が生れ育った所です。ここに宇迦の山があります。山本は、山の麓の意味です。ここへ、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に、氷木たかしりて居れ をして、ここの主になれとスサノオは命令しました。
 ということは、先ず、ここの征服者になれと命令しました。それから、八十神もいる兄弟を追い払えとスサノオは、命令しました。

是奴也の奴は、奴国のことです。こうして、大国主神は、奴国の統治者になります。
大国主がスセリ姫と出合う前は、播磨の三木郡にいたと書いてありますので、三木郡に行ってきました。
奴国に当たる「大国村倭」の所は、根の国(西伯郡)と黄泉国(日野郡)になります。

 こんな複雑なことは、判りませんよね。ということは、古事記は、誰かに書き直された可能性は有ります。
 書き直したのは、太安万侶かも知れません。日本書紀を書いた人かもしれません。
 田村氏は、日本書紀を書いた人の可能性を、記事にして居られます。
 この点は、確認していませんが、可能性は高い様です。

 「大国村倭」も当てになりません。しかし、今まで、調べて来た所では、大国主とその兄弟が生れ育った所です。

八上姫と結婚したくて、ここから求愛の旅に出発したことになります。そして、途中で、皮膚を剥がされた白兎を助けた話が、古事記に有りますが、確認するために、同じコースを、私は車で、2泊3日をかけて、旅行してきました。古事記に書いてある所は、出来るだけ、訪れました。 

田村誠一氏も、訳の解らないことを書かれました。「日本書紀の大己貴命は無関係です」の部分です。
 田村氏の文章で、おかしい所があります。「名が合計五つあり、大穴牟遅神、葦原志許男神等で日本書紀の大己貴命は無関係です」と記しながら、後の二つは書かないで、「日本書紀の大己貴命は無関係です」がかいてあるようにも思えます。

簡単に復習しますと、書き始めましたが、簡単どころか、複雑になりました。

タイトルは、「黄泉の比良坂」にしました。大国主神とスセリ姫が、スサノオに追いかけられて逃げた道ということになり、又もや、頭混乱です。
 
 一服します。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(133)   黄泉の比良坂 [日本の歴史]

お詫び---前回の古事記を読んでみます(132)は、2時に起きて、半分書きさしの原稿を寒さで震えながら、書きました。 1時間程して、目が覚めて読み直しましたら、間違いが一杯有り、既に、15名ほどの皆さんに読んで頂いていましたが、すべて、消去して、もう一度書き直しました。
 3時46分にもう一度、掲載しました。
 今、もう一度読み直しましたら、まだ、ミスが見つかりました。 
 もう一度、読んで頂ければと、思います。 すみませんでした。


神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(133)  黄泉の比良坂
今回も、田村誠一氏の著書から
 黄泉の国の解明はまだ、中途ですが、似たような言葉で、「黄泉の比良坂」という言葉が、古事記に登場します。

 次に、田村誠一氏の著書 『燦然と輝いていた古代・ 追』 高天原は蒜山高原 平成五年八月 から、そのまま、109ページの文章を書介します。

「黄泉の比良坂」
 古事記に奴国が書かれていたので、次の記述から考えることにします。大国主神には別名が合計五つあり、大穴牟遅神、葦原志許男神等で日本書紀の大己貴命は無関係です。
 大穴牟遅神は伯耆での庶兄弟の迫害を逃れて木の国に移りました。この木の国は播磨風土記から播磨の三木郡でした。ここの御坂社に大国主神の別名葦原志許男神で祭られていて大穴牟遅神の業績は有馬風土記に書かれています。
 しばらくして根の堅洲国(西伯郡高麗村)のスサノオ訪ねました。
そしてスサノオの女スセリ姫と恋仲になります。しかしスサノオはこの結婚を認めないで、大穴牟遅神を殺そうとします。これに耐え兼ねて、大穴牟遅神はスサノオが居眠りしている隙にスセリ姫を背負って駆け落ちしました。
 スサノオは目が覚めて、二人を「黄泉の比良坂」に追いかけました。この「黄泉の比良坂」はイザナギが禊した時にも登場します。この時禊に現われた底筒男神や綿津見神を祭った吉原神社や大河原神社が日野郡江府町にあることからこの場所が「黄泉の比良坂」でした。
 更に唐王神社の由緒に大国主神とスセリ姫とが夜見国から帰って国土経営を行ったとあります。日野郡日野町の坂井原神社に二人が祭られていたので、「黄泉の比良坂」は夜見国の三平山の麓の意味でした。三平山(みひら)は海抜1010mもあり遠方から目標になり、これから夜見国は日野郡のことと分りました。

急に、109ページを抜書しましたので、意味が判りにくかったかもしれません。

「古事記原文」をキーワードにして、グーグルで検索してください。
古事記(原文)の全文検索 を選択して、クリックしますと、「」が表示されますから、その中に、二つ表示されますから、か黄泉比良坂を入力して、クリックです。

二つ表示されますから、下の部分の「古事記 上-4 大国主命」をクリックしますと、「黄泉比良坂」を含む、前後の文章、全てが表示されます。

27行目から、次の部分をコピーしてください。
故爾追至黃泉比良坂、遙望、呼謂大穴牟遲神曰「其汝所持之生大刀・生弓矢以而、汝庶兄弟者、追伏坂之御尾、亦追撥河之瀬而、意禮二字以音爲大國主神、亦爲宇都志國玉神而、其我之女須世理毘賣、爲嫡妻而、於宇迦能山三字以音之山本、於底津石根、宮柱布刀斯理此四字以音、於高天原、氷椽多迦斯理此四字以音而居。是奴也。

翻訳
故爾に黄泉比良坂に追い至りて遥かに望みて、大穴牟遲神を呼ばいて謂ひしく、「其の汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏せ、亦河の瀬に追いはらいておれ。
大國主神となり、亦宇都志國玉神となりて、其の我が女、須世理毘賣を、嫡妻として、宇迦の山の山本に、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に、氷木たかしりて居れ。是奴也。」

「 」の中が、スサノオが、大国主神に命令した言葉です。こう言って、二人の結婚を許しました。

大国主命主の兄弟は高天原から追放されました。この騎馬民族が出雲と山城に住みつきましたと田村誠一氏は、説明しました。

コピーして貰いました文章は、太安万侶が書きました。 「是奴也」の意味はお解りですか。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(132)  黄泉の国(3) [日本の歴史]

 黄泉の国があろうが無かろうが、どうでも良いだろう思わるでしょう。
しかし、太安万侶は、黄泉の国の事を書きました。その古事記を読んだ田村誠一氏は、
古事記に書かれている底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命と、底筒男命、中筒男命、表筒男命は、大河原神社と吉原神社の祭神で有ることを発見されました。

この神さんは、全て、「海の神」であることを見つけられました。

大河原神社と吉原神社を北上しますと、大山に至りますが、その少し、前方に笛吹山を見つけて、きっと、この山に登られたのだと思います。
 夢中になって登っている内に、夜になりました。 見えた明りは、白水川当たりの道に沿って、うっすら見える集落だけだったと思います。

この笛吹山は、どうして、このような名前が付いたのでしょう。 私も考えたぐらいですから、田村氏も、考えられたでしょう。底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命や底筒男命、中筒男命、表筒男命を祭っている大河原神社と吉原神社の氏子の皆さんは、笛吹山で、情報を受けて、発信していたのだろうと想像されたのでしょうか。

 こんなことを誰にも見破られない様に、太安万侶は、底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命や底筒男命、中筒男命、表筒男命 は、どうして、生れた(禊をしている時に生れた)か、その生れた人の名前を古事記に、書き残したのではないかと、田村氏は、古事記を読まれた事になります。

以上書きましたように考えたのは、私ですが、その根拠は、田村氏は、ご自分の著書に、書かれました。

 黄泉の国は、実在した国では無くて、ある山(三平山、笛吹山)から夜に見える範囲の所を夜見の国と考えて古事記に書かれていると、次の著書の三ヶ所に書いてあります。。

 ①平成元年8月15 日発行の「燦然と輝いた古代史 高天原は蒜山高原」において、三平山(1010m)から見える地域が夜見の国ですと書かれました。

②平成5年8月15日は「燦然と輝いた古代史・追」
P30は、次の文章から始まっています。
 大山は山頂が複雑で、目標には適しませんが、支脈の海抜997米の笛吹山は遠方から目標になる山は遠方から目標になる山で、大国村倭も溝口町の御墓原も笛吹山の真西にあることは目標だったことです。比婆山は島根半島の高尾山の真南にありました。この高尾山と淡路の多賀を結んだ線上に笛吹山も蒜山高原の城山もあり、古代の人の目標を選択した考え方が判ります。

③平成12年4月29日発行の「西暦は日本の建国紀元だった」の39ページにおいて
禊の場に現れた底筒男命、中筒男命、表筒男命は笛吹山麓の吉原に、底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命は同じく大河原に住んでいました。・・・・・底筒男命、中筒男命、表筒男命は笛吹山の烽火台の番人で、三交替していたのです。・・・

と記しています。

①と②の著書の間には、丁度4年の差があります。 このように丁度4年にされた事には、
①に書かれた三平山の事は、間違いであったが、訂正はできませんので、平成元年8月15に買われた読者にお詫びの気持ちもあったのではないかと推察しています。

 いかがでしたか。私の書いた文章の意味はお解りでしょうか。

私はこの三冊の本を何度も読み返して居りながら、理解の出来なかった部分です。

太安万侶が書き残したかった底筒男命、中筒男命、表筒男命と、底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命は、こうして、田村氏に寄って、ばれてはしまいました。

と私が考えるようになったのは、最近のことです。


神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(131)  黄泉の国(2) [日本の歴史]

黄泉の国のことは、ネットでもあまり見つかりません。太安万侶が、712年に古事記を書いた時には、太安万侶の頭には、そのイメージはあったと思われます。
 この頃に、他の人が、黄泉の国のことを書き残して居れば、黄泉の国は存在していたの問題ではなくて、死後の世界を考えていたことになると思われます。
 この頃の中国では、「黄泉の国」という言葉は使われていたと書いてあるものを読んだことはありますが、中国語が判りませんから、確かめようがありません。
 ただ、太安万侶が中国人であれば、「黄泉の国」の概略は判ることになります。

 数回前に、「黄泉の国」というような表現は、日本語として正しいのかどうかを書いたことが有ります。
 住吉大社の参道の国道26号線に近い所に、「汐掛道」と「出見の浜」のことが書かれた碑のことを書きました。
 この「出見の浜」と「黄泉の国」との使い方が似ているように思ったのです。

この「出見の浜」は、なにが出てくる浜なのかが判りません。
① 摂津 住よし 出見のはま
http://blog.livedoor.jp/mainichi_art/archives/51205197.html
②住吉 出見濱 柴莫苅曽尼 未通女等 赤裳下 閏将徃見
https://blogs.yahoo.co.jp/kairouwait08/33027697.html

③浅沢小野---浅沢神社
http://saigyo.sakura.ne.jp/asazawaono.html

 住吉大社の東南に位置します。近いですから行って下さい。浅沢神社の前に疏水があります。きっと、万葉の時代でもあって、ここの水は、出見浜に注がれていたと思います。

④出見の浜(大阪市住吉区)
http://saigyo.sakura.ne.jp/ideminohama.html  
この中に、広重の描いたこの浜の絵が収録されています。


⑤歌川広重 筆「六十余州名所図会」
http://www.mainichi-art.co.jp/pages/arcadelinks/60plus/60plus.html

広重の出見浜の図
http://blog.livedoor.jp/mainichi_art/archives/51205197.html

いろいろネットで、助けを借りようと思いましたが、解決にはなりませんでした。
 「出見」は、出たものは、月しか思い浮かばないのですが、浜辺から見て、海は西に在りますから、おかしいですね。月が出るのは、東からだろうと・・・・。

これだけではありません。広重の絵に描かれている出見浜の直ぐ、西に家の屋根らしきものが書いてあります。手前の松林の所に、高い灯籠の絵が有りますから、ここが、出見浜と思われるのに、集落が有ると言うことは、「住吉 出見濱 柴莫苅曽尼 未通女等 赤裳下 閏将徃見」の歌が作られた時と、広重が書いた絵の時代が違うことになります。

頭混乱です。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(130)  黄泉の国 [日本の歴史]

読者のみなさんは、ご自分が死んだ後は、どうなるか考えられたことがありますか。
 私は77歳になりましたから、黄泉の国への射程距離に入りました。
 こんな国があるとすれば、そろそろ準備をしておかなければなりません。

私は判りません。有ると無いのどちらかの返事をするとしますと、9割以上無いと思っています。真面目に今までに、考えたことが有りませんから、ネットで、それらしきものを探してみます。

「死後の世界」のキーワードで検索
①【脳神経外科の権威も認めた】死後の世界はこうだ!体験談ほか
https://matome.naver.jp/odai/2135884904087926401
②「死後の世界必ずあります。亡くなった肉親らがお迎え」信じたくなる京大教授『臨死体験研究』
https://www.j-cast.com/tv/2013/08/19181721.html?p=all
 ③実際の死の直後の体験談
http://www5a.biglobe.ne.jp/~spk/about_sp/sp-thought1/sp-thought1-3/sp-thought1-3-2.htm
タイトルだけを含めて眺めた所では、医学者が書かれたものが多いように思いました。次は、死んだという意識は、確かにあった後の体験を語ったものが、上の例に認められます。

 夢にしては、相当長い時間に起こったことを述べておられます。夢で無かったとすれば、その記憶の間は、生き返った状態で有るが、証拠は有りません。その後、実際に生きている状態を確認されたことになります。
 時間は判りませんが、死の世界に居られたと判断しても間違いではないでしょう。

私が考える死後の世界は、 「天国と地獄」です。
天国は、どのようなところか判りませんが、有るとしたら、天上界となるでしょうか。 どんどん、上へ上へと登って行きます。秒速で、表現出来ない程のスピードで上昇したところに存在すると考えたいです。そうなると、到達するには、相当時間が掛かるでしょう。見て帰って来た人は居ないですから、どのよう世界なのかは、これ以上書く能力はありません。しかし、実在するのです。

 地獄の方は、漢字のイメージは、良くありませんが、地中にある監獄のような所なのでしょう。監獄ですから、捕えられた者が行く所で、自由はありません。その代わり、地中ですから、空気は無い所でしょう。空気が無くても、生きておれるのです。

 如何でしたか。本当に有るとすれば、なんだか、どちらも行ってみたくないような所です。
 
 体験談を書かれた人は、やはり、一度、死という状態になられましたが、直ぐに生き返られた事になります。
 せめて、10年ぐらいは、天国でも、地獄でもおりませんと、死後の世界とは言えないでしょう。

急いでいましたので、あまり多くの体験談は読んでいません。
少なくとも、死の世界から帰って来たのであれば、なにか証拠の物を持って帰ってほしいです。持って帰れないのであれば、せめて、行った時と帰りの服が違っていたという体験だんがほしいです。

「天国と地獄」で検索しますと、殆ど、映画ばかりです。「天国と地獄」で文章を書くとするとどうなるか、無い知恵を絞って書いてみました。 すぐに、終わってしまいます。

タイトルの黄泉の国は、考えることは難しいと思います。

このように考えてきますと、田村誠一氏の黄泉の国の解釈は、悪く無いように思っています。

 笛吹山から、眺めた夜の情景です

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(129)  大河原神社と吉原神社(4) [日本の歴史]

 もう一度、両神社の辺りの地図を開いて下さい。

吉原・大河原の地図
https://www.mapion.co.jp/m2/35.32987854,133.51844294,16

 一番上に表示されたタイトルをクリックします、地図が表示されて、この現在地の海抜が520mであることを確認してください。

その上に、緯度も表示されていますら、頭に入れてください。
緯度経度は[35.32987854,133.51844294]です。

表示された地図の縮尺を 1メモリを小さくして、右上の方向へ、移動してください。
「笛吹山」が表示されます。この場所を右クリックしますと、986m
が表示されます。
 
次のアドレスのブログから笛吹山の山頂は、997mであることが判ります。 
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-630929.html  
この方は、笛吹山から、下の方は、興味が無かったと見えて、大山の方ばかり、写真に収めておられます。 きっと、下には、広大な海抜500m辺りの江府町が見えただけだったのだと想像します。

 ところが、田村誠一氏は、笛吹山から夜に眺められたのだと思います。夜ですから、見えたのは、町の明かりだけだったと思います。 それも、現在のような明るい町では無くて、暗い明りだったと思います。

○田村氏は、ここから見えた地域を「夜見の国」=「黄泉の国」と呼ばれました。

このような日本語は通じるのでしょうか。
少し、無理のように思っていました。 しかし、この無理な部分を除きますと、田村誠一氏の古事記解読は、正しい様に思ってきました。

田村誠一氏の古事記解読とは、何処に書いてあると思われますか。
 次の所に、その全てを記しておきました。

 田村誠一氏の著書
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html
 
 この多くの本の何処に書いてあったか、忘れてしまいました。

可能性のあるのは、「真説 建国史」という本ですが、現在はどこにも売られていません。少しずつ、打ち直して、ネットに掲載しました。
 現在読んで頂いている所と同じ所に掲載しています。


「真説 建国史」を始めるに当って
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2015-06-05-1" target="_blank">http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2015-06-05-1 各ページの左に、カテゴリーの一覧があります。ここに、「真説 建国史」があり、(170)とありますから、170ページあるために、どなたも読まれないと思います。

真説
とありますように、これまでに、日本の歴史書は、こうだという本は、一杯出版されていますが、どれも間違っている。 これが「真説」だとの意気込みで書かれましたから、読まれますと、普通に言われている歴史書と異なるために、きっと、誰も読まれなくなるのだと思います。
 一度、試しに読んでください。



神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(128)  大河原神社と吉原神社(3) [日本の歴史]

 この確認をする調査には、どうしても、大河原と吉原に行ってみなければわからないと思っていましたが、地図上で、海抜を調べることが出来るようになりましたので、吉原はどのような所に在るのかを地図で確認することにしました。

吉原・大河原の地図
https://www.mapion.co.jp/m2/35.32987854,133.51844294,16

①右へ移動しますと、御机という地名があります。蒜山高原との境まで、広大な敷地です。 「御」の字が付く所は、天皇家と関係のある人が住んで居られたのではと推理します。(根拠なし) 蒜山高原は、天高原と古事記では呼ばれ中蒜山五合目に日留宮が祭られています。


中蒜山 日留宮 を訪ねて
http://kibi33.com/kibi/2007/11/28/%E4%B8%AD%E8%92%9C%E5%B1%B1-%E6%97%A5%E7%95%99%E5%AE%AE-%E3%82%92%E8%A8%AA%E3%81%AD%E3%81%A6/  
ここに祠の写真があります。これだけのものですが、日留宮と呼ばれています。

日留宮の所に、御所が造られたのでは考えていますが、ヒルゼン高原は、古事記に拠れば、日本の建国がここで行われた事を、太安万侶は、宣言したことになります。

 宮殿は中蒜山の五合目に造られましたが、国民は、ヒルゼン高原で生活した筈です。

失敗はしましたが、アマテラスが 雲南省から引き連れて来た苗族の人は、稲作を試みたらしく、「田」字の付く地名が残っています。

 高原自体は、周りに防衛するものは見当たりませんから、御机の人達が、自衛を担当する人であったのではと推理しています。

ここにいたる迄に、「大滝」という地名があります。 ここに本当に大きな滝があったかどうかは、確かめていません。 大瀧をはじめとして、「大」の字が付く地名が沢山あります。
 ここは、イザナギの家来が、住んでいた所ではないかと推理しています。

-------------------------------------------

①大河原神社の現住所を調べてください。 そして、この住所と地図と入力して、大河原神社の地図をご覧ください。 マピオンを使用してください。表示された部分の右クリクックをしますと、海抜が表示されます。

②吉原神社の現在住所を調べてください。①同様に、海抜を調べてください。 大瀧は441m。吉原531m。 大河原587m。

東に移動するほどに、高くなっています。
③御机の東は、ヒルゼン高原です。 

④吉原からは、地図の北の方を眺めてください。 笛吹山があります。 もう少し、北をながめますと、大山です。 ここにも、「大」がつきます。 この近くに住んでいた人たちが、「大山」と呼んでいたのでしょう。

勿論、笛吹山の海抜も調べてください。

神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(127)  大河原神社と吉原神社(2) [日本の歴史]

 古事記を読んでみます(116)の続きになります。
 
 大河原神社と吉原神社は、古事記では、二社で、重要なことを教えてくれますので、11回前は、二社を並べて、タイトルしていましたが、複雑ですので、別々に、神社の事をしらべて、解ったことを書いてきました。 しかし、太安万侶は、この二つの神社をならべて、書き残したかったのだと思いました。
 地名や神社名では無くて、二つの祭神を並べて残したかったのだと思います。

 ということは、
底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命、底筒男命、中筒男命、表筒男命の六人の神というよりは、六人と天皇家の家来として、書き残したかったのだと思います。

そこで、本日は、この六人の家来たちが、ここで何をしていたのかを推理してみようと思います。


 この神社は、どうやら、ヒルゼン高原に通じる街道に位置する様です。即ち、イザナミのお見舞いに行ったイザナギが、蛆の湧いた姿で寝ている姿を見たために、1000人を越える鬼達に、追いかけられて、黄泉の国から、逃げ出す話が、古事記に書かれています。黄泉の国は、地下に存する世界で、イザナギは、その為に、身体が穢れたので、禊をしたと書かれています。

 それは、何処だと言いますと、海だと言っておられる人もあれますし、田村氏のように、白水川の川で身体を清めたと考えておられる方も居られます。
 
 その根拠になるかどうか判りませんが、
 その時に生れた神さんの名は、

底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命 であり、底筒男命、中筒男命、表筒男命
と古事記に書いてあります。

本当に、生れたのかと言いますと、そんな馬鹿なことは無いでしょう。
しかし、
大河原神社には、底津綿津見命、中津綿津見命、上津綿津見命現在が祭神として、祭られています。
吉原神社には、底筒男命、中筒男命、表筒男命が祭られています。

という次第で、この神々が生れたと書いたのは、太安万侶で、大河原と吉原という集落を通る道を蒜山まで、逃げたのだと書いたのは、田村誠一氏だと言うことになります。
 それが本当かどうかを調べているのが、私ということになります。

 その調査には、どうしても、大河原と吉原に行ってみなければわからないと思っていましたが、吉原はどのような所に在るのかを地図で確認しました。

吉原・大河原の地図
https://www.mapion.co.jp/m2/35.32987854,133.51844294,16

①右へ移動しますと、御机という地名があります。蒜山高原との境まで、拡がっています。広大な敷地です。 「御」の字が付く所は、天皇家と関係のある人が住んで居られたのではと推理します。(根拠なし) 蒜山高原は、天高原と古事記では呼ばれ中蒜山五合目に日留宮が祭られています。


中蒜山 日留宮 を訪ねて
http://kibi33.com/kibi/2007/11/28/%E4%B8%AD%E8%92%9C%E5%B1%B1-%E6%97%A5%E7%95%99%E5%AE%AE-%E3%82%92%E8%A8%AA%E3%81%AD%E3%81%A6/
 ここに祠の写真があります。これだけのものですが、日留宮と呼ばれています。

日留宮の所に、御所が造られたのでは考えていますが、ヒルゼン高原は、古事記に拠れば、日本の建国がここで行われた事を、太安万侶は、宣言したことになります。

 宮殿は中蒜山の五合目に造られましたが、国民は、ヒルゼン高原で生活した筈です。
失敗はしましたが、アマテラスが 雲南省から引き連れて来た苗族の人は、稲作を試みたらしく、「田」字の付く地名が残っています。

 高原自体は、周りに防衛するものは見当たりませんから、御机の人達が、自衛の人であったのではと推理しています。(机の前で仕事をする人たちが大勢居られたのでしょうか)

ここにいたる迄に、「大滝」という地名があります。 ここに本当に大きな滝があったかどうかは、確かめていません。 大瀧をはじめとして、「大」の字が付く地名が沢山あります。
 ここは、イザナギの家来が、住んだ所ではないかと推理しています。



神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(126) 住吉大社参拝記(5) [日本の歴史]

国道26号線が古代の人々が、歩いた道であることを確認出来た嬉しさは、
 古事記を読んでみます(124)で書きました「汐掛け道・汐掛道顕彰碑」を見た時でした。
---ここは、大社の前の浜辺でした。その浜の絵が残されていました----それで、住吉大社の太鼓橋を見ただけで、失礼して、国道26号線に戻りました。
 
 この日の住吉大社は、三度目の訪問でした。しかし、大和川大橋を渡る時は、嬉しかったのです。 この時に歩いた時は、妻が、盛んに、「お父さん、前に歩いた遠里小野橋の時は、ずっと、坂やったね」と言いますので、今度も、坂の様子に注意しながら、歩きました。 遠里小野橋の時は、左側の住宅を見ますと、目の前に、二階建てのお家の屋根が見えていました。
 ということは、住吉大社前から大和川までの僅かの距離を歩く間に、ここの土手は、3m程の高さになったと言うことです。

 土手が、これほど高いと言うことは、はじめから高かったのではない。始めは、26号線と同じ高さだったのに、この辺りは、何度も洪水で、土手が壊され、その度に、堤防を築くことを繰り返し、今の堤防の高さになったのだと、とっさの知識で返事をしましたから、僅かに、納得した様子でした。
 ここ最近は、雨は降っていませんでしたが、大和川の水量は、川幅いっぱいの流れで、。淀川よりも水量が多い様に思いました。
 
 頭は、帰りの電車の駅を気にしていました。大社前の駅に戻るより、手前の駅のほうが、近そうだと思っていましたら、南海電車が、鉄橋を走っているのが見えました。
 私たちの位置よりみると、斜めに歩けば、隣の駅が有るはずだと、大和川大橋を渡ってから、左に曲って、斜めに歩こうと方針を決めました。

 橋を渡った所に、とてつもない大きな建物がありましたので、左折して、歩く内に、私の頭は、トイレ探しでしたが、見渡すかぎりありません。 
 そのうちに、この大きな建物は、イオンモールであることが判りました。
 私は、イオンモールとは、なにか知らなかったのですが、そのようなことより、飛びこんで、あわてて、トイレに直行です。
 例によって、トイレをお借りしたお礼に、ジュースを飲む事にしました。
 妻は、10m程先にある開いて展示してある日傘が気になって、もう、買う気になっていましたが、私の方は、これまでに見ていた百貨店は、この巨大なお店には、勝てないなと別の事を考えていました。ジュースは、お金を渡すと、紙コップをくれまして、自分で好きなジュースを選ぶのですが、どうして、ジュースを入れるのかを理解するまでに、時間が掛かりました。
 愈々、南海電車の駅へ行こうと思うのですが、どこの出口から出ていいのか判りません。妻か゛いつもの勇気を出して、店員さんに聴きに行きました。始めの女性の方が、慌てているようすが、私にも見えました。 妻の表現を借りますと、口に手をあてて、一瞬聞かれた駅が判らないので、驚いて、次なる女性の店員さんに、尋ねた様です。次の方もも、驚いたようで、10歩程歩いた所の男性に聞きました。 この方も、驚いた様子でしたが、なにか、ポケットから、白いものを取りだしたようでした。 それは、スマホだったそうです。駅の名前は、知っているのに、どの方向にあることすら、ご存じ無かったので、驚いたというか、慌てられた様子でした。
 これれで解決です。
 巨大な出口というか、入口から、出て、驚いたのは、私たちです。 南海電車の駅は、出た、ま、前に在りました。 イオンモールは、電車の駅前に造られた筈なのに、電車からのお客さんはおられないのでしょう。
 イオンモールに入る時には、巨大な駐車場に並ぶ、自動車を眺めながら、入口から入りました。

 世の中は、電車など使う時代では無いことを知りました。 これを知って、疲れがどっと出ました。
 歴史ばかりを振りかえっていて、今の時代を知らなかったのには、がっくりでした。

 それにしても、「七道駅」を知らない 三人の店員さんには、二人で驚きながら、慰め合いました。

 前回、グチを書きましたので、これは可哀そうだと思われたのか、人数は、同じでしたが、検索回数は、初めて、500件を越えました。

 有難うございました。