歴史各論 三角縁神獣鏡(84) 魏志倭人伝(35) 邪馬国は、何所に(31)狗奴国(2) [三角縁神獣鏡]
前回に書きました魏志倭人伝の原文をご覧ください。
末廬国以降しか掲載しませんでした。ただ、煩雑になるから割愛しただけです。どの国へ行くにも場所が判るように方角と距離が書いてあります。距離が書いてないときは、船で行くのか歩いて行くのか、行くときは何日かかるかが書いてあります。
書いてないということは、狗奴国の場合は、書きたくなかったか、書くことが出来なかったかのどちらかになります。
此女王境界所盡 (ここは女王の境界の尽きる所) であることが判ったのであれば、末廬国の東南に奴国と書いたのですから、その続きに奴国の南にあると書けばよいのに、
投馬國、邪馬臺國を記した後に、狗奴国を書いたことになります。
次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王
この文章の後ろに、突然、自郡至女王國萬二千餘里 と書いてあります。郡よりとは、帯方郡の郡と思えます。
ずっと、正確に距離を書いてあるのに、狗奴国から邪馬臺國迄が分らなかったのでしょう。 その証拠の一つが、次有奴國、此女王境界所盡。 より前の部分にあります。
この前に、
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 と書いてあります。
女王国より北は、その戸数や道のりは、ほぼ判っているが、外の国は遠く離れていて精しくは判っていないと記しています。 そして、その分らない国々の名前を列記しています。
これらの事から、難升米等から報告を受けた陳寿は、邪馬臺國から狗奴国の間に、20ヶ国があるように解釈したようです。
末廬国以降しか掲載しませんでした。ただ、煩雑になるから割愛しただけです。どの国へ行くにも場所が判るように方角と距離が書いてあります。距離が書いてないときは、船で行くのか歩いて行くのか、行くときは何日かかるかが書いてあります。
書いてないということは、狗奴国の場合は、書きたくなかったか、書くことが出来なかったかのどちらかになります。
此女王境界所盡 (ここは女王の境界の尽きる所) であることが判ったのであれば、末廬国の東南に奴国と書いたのですから、その続きに奴国の南にあると書けばよいのに、
投馬國、邪馬臺國を記した後に、狗奴国を書いたことになります。
次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王
この文章の後ろに、突然、自郡至女王國萬二千餘里 と書いてあります。郡よりとは、帯方郡の郡と思えます。
ずっと、正確に距離を書いてあるのに、狗奴国から邪馬臺國迄が分らなかったのでしょう。 その証拠の一つが、次有奴國、此女王境界所盡。 より前の部分にあります。
この前に、
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 と書いてあります。
女王国より北は、その戸数や道のりは、ほぼ判っているが、外の国は遠く離れていて精しくは判っていないと記しています。 そして、その分らない国々の名前を列記しています。
これらの事から、難升米等から報告を受けた陳寿は、邪馬臺國から狗奴国の間に、20ヶ国があるように解釈したようです。
歴史各論 三角縁神獣鏡(83) 魏志倭人伝(34) 邪馬国は、何所に(30)狗奴国 [三角縁神獣鏡]
今回は、狗奴国です。
狗奴国は何所にあったか、地図をご覧ください。
田村誠一氏の 『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の104頁にある地図です。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html
すべての国は、末廬国を起点にしますと、方角も距離も、魏志倭人伝に書いてある通りになります。
魏志倭人伝の原文を記します。
又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。官曰ji[冠凹脚儿]馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸。
何故か、狗奴国は書いてありません。 どこにあるかと云いますと、この後、国名だけが沢山書いてある所があり、その後ろに、書いてあります。
・・・・次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、
次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
陳寿は、 ・・・・次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國と、一杯国が有るのだと書き連ねて、最後に、次有奴國があると書いています。この奴國は、前回まで書いて来た奴国です。此女王境界所盡—ここは女王の境界の尽きる所 と書いてありますが、奴国が、女王の支配する処なのか、支配しない所なのか判りません。
どちらにせよ、其南有狗奴國---その南(奴国の)に狗奴国があると記しています。はじめに、示しました地図をもう一度見てください。奴国の南に狗奴国があります。
男子爲王---男子をして王と為す—王は男子だ
其官有狗古智卑狗 の部分がよく判りませんね。王はいるのですが、狗古智卑狗という役職の人がいる?
不屬女王---女王・卑弥呼には属していない。
句奴国のある場所は分かりました。男の王がいること、狗古智卑狗という官職があること、女王・卑弥呼の支配は受けていないことなどが分りました。
なぜか、人口が書いてありません。
狗奴国を、なぜ、最後に書いたのか。なぜ、広さとか、人口が書いてないのでしょうか。
次回に考えて見ます。
狗奴国は何所にあったか、地図をご覧ください。
田村誠一氏の 『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の104頁にある地図です。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html
すべての国は、末廬国を起点にしますと、方角も距離も、魏志倭人伝に書いてある通りになります。
魏志倭人伝の原文を記します。
又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。官曰ji[冠凹脚儿]馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸。
何故か、狗奴国は書いてありません。 どこにあるかと云いますと、この後、国名だけが沢山書いてある所があり、その後ろに、書いてあります。
・・・・次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、
次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。
陳寿は、 ・・・・次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國と、一杯国が有るのだと書き連ねて、最後に、次有奴國があると書いています。この奴國は、前回まで書いて来た奴国です。此女王境界所盡—ここは女王の境界の尽きる所 と書いてありますが、奴国が、女王の支配する処なのか、支配しない所なのか判りません。
どちらにせよ、其南有狗奴國---その南(奴国の)に狗奴国があると記しています。はじめに、示しました地図をもう一度見てください。奴国の南に狗奴国があります。
男子爲王---男子をして王と為す—王は男子だ
其官有狗古智卑狗 の部分がよく判りませんね。王はいるのですが、狗古智卑狗という役職の人がいる?
不屬女王---女王・卑弥呼には属していない。
句奴国のある場所は分かりました。男の王がいること、狗古智卑狗という官職があること、女王・卑弥呼の支配は受けていないことなどが分りました。
なぜか、人口が書いてありません。
狗奴国を、なぜ、最後に書いたのか。なぜ、広さとか、人口が書いてないのでしょうか。
次回に考えて見ます。
歴史各論 三角縁神獣鏡(82) 魏志倭人伝(33) 邪馬国は、何所に(29)奴国6 [三角縁神獣鏡]
現在は、魏志倭人伝に書いてある日本にあった古代の国々のみを書いています。
どうして、日本の歴史書に、卑弥呼のことも、邪馬台国のことも書いてないと思われますか。
伯耆の国は、紀元前150年の頃から、アマテラスやスサノオが活躍していたのに、日本書紀を書いた人たちは、徹底的に、住んでいた証拠を無くそうとしたと考えています。特に、神武天皇は、徹底的に消そうとしました。大物主神は、神武天皇の岳父ですから、さすがに、消す訳には行きませんでしたから、三輪山の神さんだと日本書紀は書いています。
神武天皇の妃の伊須気余理比賣は、鳥取県の神社には、全く祀られていません。別の名前でしたら、祀られています。 なんという名前か判りますか。神武天皇は、神倭伊波礼琵古命と云います。これは間違いで、神日本磐余彦命と思っておられる方が殆どです。おかしいですね。神武天皇は、紀元前60年頃の人です。そのような時に、〔日本〕という言葉あったのでしょうか。
日本書紀には、〔日本〕という言葉が、215以上あり、古事記には、ゼロだそうです。
【楽しい人生】http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/02/post-ef8f.html
田村邦夫氏調べ。
魏志倭人伝を理解するためには、古事記に書いてあることをある程度は、正しいと考え、日本書紀は、利害関係がある部分は、100%正しくないと考えませんと解けないと思います。
魏志倭人伝も同様です。正しい部分と正しくない部分を分けませんと、謎ばかりになります。
こんな話は、歴史の専門家であれば、誰でも知っておられますが、文章に書いて、世間に発表しますと、所属しておられる所では、生活できなくなると思います。
話は、全く、別のことになりますが、前回に、書きました古事記の一節です。
「その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。この奴。」
底つ石根に宮柱ふとしり この部分は、宮城を建設する時に、基礎に石を使って、建てようということでしょうか。もし、そうであれば、紀元前150年頃に、太い柱を使って、宮殿を建てたことになります。これより、もう少し前にイザナギとイザナミが、中ヒルゼンの中腹に、オノコロ島を建設した記述があります。
弥生時代に掘立小屋しかなかったような、歴史は、考え直さなくてはいけないのではないでしょうか。
次回は、狗奴国です。
どうして、日本の歴史書に、卑弥呼のことも、邪馬台国のことも書いてないと思われますか。
伯耆の国は、紀元前150年の頃から、アマテラスやスサノオが活躍していたのに、日本書紀を書いた人たちは、徹底的に、住んでいた証拠を無くそうとしたと考えています。特に、神武天皇は、徹底的に消そうとしました。大物主神は、神武天皇の岳父ですから、さすがに、消す訳には行きませんでしたから、三輪山の神さんだと日本書紀は書いています。
神武天皇の妃の伊須気余理比賣は、鳥取県の神社には、全く祀られていません。別の名前でしたら、祀られています。 なんという名前か判りますか。神武天皇は、神倭伊波礼琵古命と云います。これは間違いで、神日本磐余彦命と思っておられる方が殆どです。おかしいですね。神武天皇は、紀元前60年頃の人です。そのような時に、〔日本〕という言葉あったのでしょうか。
日本書紀には、〔日本〕という言葉が、215以上あり、古事記には、ゼロだそうです。
【楽しい人生】http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/02/post-ef8f.html
田村邦夫氏調べ。
魏志倭人伝を理解するためには、古事記に書いてあることをある程度は、正しいと考え、日本書紀は、利害関係がある部分は、100%正しくないと考えませんと解けないと思います。
魏志倭人伝も同様です。正しい部分と正しくない部分を分けませんと、謎ばかりになります。
こんな話は、歴史の専門家であれば、誰でも知っておられますが、文章に書いて、世間に発表しますと、所属しておられる所では、生活できなくなると思います。
話は、全く、別のことになりますが、前回に、書きました古事記の一節です。
「その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。この奴。」
底つ石根に宮柱ふとしり この部分は、宮城を建設する時に、基礎に石を使って、建てようということでしょうか。もし、そうであれば、紀元前150年頃に、太い柱を使って、宮殿を建てたことになります。これより、もう少し前にイザナギとイザナミが、中ヒルゼンの中腹に、オノコロ島を建設した記述があります。
弥生時代に掘立小屋しかなかったような、歴史は、考え直さなくてはいけないのではないでしょうか。
次回は、狗奴国です。
歴史各論 三角縁神獣鏡(81) 魏志倭人伝(32) 邪馬国は、何所に(29)奴国6 [三角縁神獣鏡]
古事記の文章をもう一度、掲載します。
「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。この奴。」
前回は、〔坂の御尾〕が南部町清水川であることを書きました。
今回は、〔河の瀬〕を考えて見ます。
瀬川と川瀬とは、どのように違うのでしょうか。前者は流れの急な川。後者は、川の一部で、急な所。前者は、傾斜が急な上流になるでしょうか。
〔河の瀬〕は、河は大きな河でしょうか。伯耆の国で大きな河といいますと、一番は、日野川になります。
以前にも小波浜のことについて、10回ぐらい書いた記憶があるのですが、主なことは、三輪神社のことを書きました、この辺りは、昔は海であって、小波浜と云う地名の所で、天孫降臨の際に、談判が行われたのではないかと云うお話を書きました。
この小波浜から、西へ行きますと、日吉津村があります。ここは、海岸縁でもあり、〔河の瀬〕があったのではと推察しています。
地図を出して、淀江の方から、日吉津村までをご覧ください。国道9号線が走っていますが、これより、北は、2000年程前は、海だったのではと思います。
河の瀬は、地図から見ますと、日野川の河口になります。川瀬は、河の浅瀬を云うらしいですから、河の瀬は、日吉津村でよさそうです。
日吉津村は、日吉とありますから、ここに住んでいたのは、大山咋神の筈ですが、この名前は見当たりません。この村には、蚊屋島神社があります。
資料は、http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-237.html に納めています。
祭神は、天照皇大御神、天照高比売命、天若彦神、豊受姫命、大年神、天栲萬幡豊秋津姫命、天手力雄命、級長津彦命、月夜見命、猿田彦大神、神倭姫命、天太玉命、大己貴命、事代主神、素盞鳴尊、金山彦神 です。
大己貴命の名前がありますから、藤原不比等の息がかかっていたと思われますが、天皇家の表示も多くみられます。
ゆいしょは、長く難しいですから、ゆっくり分析しませんと理解できません。大山咋神の名前が見えませんから、追い出されたのかも知れません。
そして、どこへ行ったのかと云いますと、京都の比叡山の日枝神社、嵐山の松尾神社に祭られています。
大国主命に追われたオオクニヌシの庶兄弟は、出雲と東へと分れて移動したと思われます。追跡していません。最終的には、京都に集合したことが判ります。
スサノオの略系図と伯耆の祭神数
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-901.html
〔奴国〕が出来たのは、 葦原志許男神の名前であった男が、大国主命になってからの事です。紀元前150年頃のことになります。
魏志倭人伝に登場する国は、中国人が付けた名前ですが、伯耆の国が、〔奴国〕であったことは、難升米は知っていたことになります。
大国主神の時代から、400年も経っています。どうして、人口が、二万余戸であったことの理由が分ると思います。
【楽しい人生】http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/02/1-70a6.html
に、田村氏の 〔建国発祥の地 伯耆〕を掲載しています。
次の所には、
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2601496/
天神ライン上のみに限定して、建国に関わった人や、遺跡の追跡をしています。
「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。この奴。」
前回は、〔坂の御尾〕が南部町清水川であることを書きました。
今回は、〔河の瀬〕を考えて見ます。
瀬川と川瀬とは、どのように違うのでしょうか。前者は流れの急な川。後者は、川の一部で、急な所。前者は、傾斜が急な上流になるでしょうか。
〔河の瀬〕は、河は大きな河でしょうか。伯耆の国で大きな河といいますと、一番は、日野川になります。
以前にも小波浜のことについて、10回ぐらい書いた記憶があるのですが、主なことは、三輪神社のことを書きました、この辺りは、昔は海であって、小波浜と云う地名の所で、天孫降臨の際に、談判が行われたのではないかと云うお話を書きました。
この小波浜から、西へ行きますと、日吉津村があります。ここは、海岸縁でもあり、〔河の瀬〕があったのではと推察しています。
地図を出して、淀江の方から、日吉津村までをご覧ください。国道9号線が走っていますが、これより、北は、2000年程前は、海だったのではと思います。
河の瀬は、地図から見ますと、日野川の河口になります。川瀬は、河の浅瀬を云うらしいですから、河の瀬は、日吉津村でよさそうです。
日吉津村は、日吉とありますから、ここに住んでいたのは、大山咋神の筈ですが、この名前は見当たりません。この村には、蚊屋島神社があります。
資料は、http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-237.html に納めています。
祭神は、天照皇大御神、天照高比売命、天若彦神、豊受姫命、大年神、天栲萬幡豊秋津姫命、天手力雄命、級長津彦命、月夜見命、猿田彦大神、神倭姫命、天太玉命、大己貴命、事代主神、素盞鳴尊、金山彦神 です。
大己貴命の名前がありますから、藤原不比等の息がかかっていたと思われますが、天皇家の表示も多くみられます。
ゆいしょは、長く難しいですから、ゆっくり分析しませんと理解できません。大山咋神の名前が見えませんから、追い出されたのかも知れません。
そして、どこへ行ったのかと云いますと、京都の比叡山の日枝神社、嵐山の松尾神社に祭られています。
大国主命に追われたオオクニヌシの庶兄弟は、出雲と東へと分れて移動したと思われます。追跡していません。最終的には、京都に集合したことが判ります。
スサノオの略系図と伯耆の祭神数
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-901.html
〔奴国〕が出来たのは、 葦原志許男神の名前であった男が、大国主命になってからの事です。紀元前150年頃のことになります。
魏志倭人伝に登場する国は、中国人が付けた名前ですが、伯耆の国が、〔奴国〕であったことは、難升米は知っていたことになります。
大国主神の時代から、400年も経っています。どうして、人口が、二万余戸であったことの理由が分ると思います。
【楽しい人生】http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/02/1-70a6.html
に、田村氏の 〔建国発祥の地 伯耆〕を掲載しています。
次の所には、
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2601496/
天神ライン上のみに限定して、建国に関わった人や、遺跡の追跡をしています。
歴史各論 三角縁神獣鏡(80) 魏志倭人伝(31) 邪馬国は、何所に(28)奴国5 [三角縁神獣鏡]
古事記には、次の文があることを紹介しました。
「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。この奴。」
スサノオは、坂の御尾と河の瀬にいる庶兄弟を追ひ伏せ、追い払えと命令しました。
坂の御尾に追い伏せと書かれた神は宇迦の御魂で西伯郡南部町清水川の上流に住んでいた清水川の祭神です。 地図--http://www.mapion.co.jp/address/31389/29/
ここに清水川神社があったはずですが、倭には行ったのですが、清水川には行きませんでした。
今は無くなっているのではと考えた理由は、鳥取県西伯郡南部町天万1009番に、天萬神社があります。ここの住所は、以前は、西伯郡手間村大字天萬下宮尾 です。
手間村は聞かれたことがありますか。聞くではなくて、古事記に登場します。庶兄弟から苛められたオオクニヌシは、山の上から猪に似た、赤く焼けた大石を落とされ殺されました。て゜も、続きが古事記に書いてあります。
「伯岐国の手間の山本に至りて云ひしく、「赤き猪この山にあり。故、われ共に追ひ下しなば、汝待ち取れ。もし待ち取らずは、必ず汝を殺さむ」と云ひて、火をもちて猪に似たる大石を焼きて、転ばし落としき。ここに追ひ下すを取る時、すなはちその石に焼き著かえて死にき。・・・・」この後に、キサガイ比売とハマグリガイ比売が出てきて、オオクニヌシを助けます。
坂の御尾は、何所だといいますと、「手間の山本」は手間山の麓ですから、坂です。御尾は宮尾の住所になっています。
天萬神社の資料は、次の所に掲載しています。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-288.html
ここに、清水川神社を合祀ししたと書いてあります。ただし、大正9年の事らしいです。一度、丁寧に祭神をご覧ください。
多いのは、直ぐに分ります。多いほど、事情があったことが判ります。
祭神の倉稲魂命、大日本根子彦大瓊尊は、古事記では掛れていない神です。
大日本根子彦大瓊尊は、日本を征服した中国人が、日本書紀に書きこんだ名前です。日本が使われていますが、中国人が、倭人と呼んでいた倭の国は、「日本」と云い、中国にアピールしたのではと考えています。
次回は、河の瀬です。同じ、手法で、今のどこかを探してください。
「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。この奴。」
スサノオは、坂の御尾と河の瀬にいる庶兄弟を追ひ伏せ、追い払えと命令しました。
坂の御尾に追い伏せと書かれた神は宇迦の御魂で西伯郡南部町清水川の上流に住んでいた清水川の祭神です。 地図--http://www.mapion.co.jp/address/31389/29/
ここに清水川神社があったはずですが、倭には行ったのですが、清水川には行きませんでした。
今は無くなっているのではと考えた理由は、鳥取県西伯郡南部町天万1009番に、天萬神社があります。ここの住所は、以前は、西伯郡手間村大字天萬下宮尾 です。
手間村は聞かれたことがありますか。聞くではなくて、古事記に登場します。庶兄弟から苛められたオオクニヌシは、山の上から猪に似た、赤く焼けた大石を落とされ殺されました。て゜も、続きが古事記に書いてあります。
「伯岐国の手間の山本に至りて云ひしく、「赤き猪この山にあり。故、われ共に追ひ下しなば、汝待ち取れ。もし待ち取らずは、必ず汝を殺さむ」と云ひて、火をもちて猪に似たる大石を焼きて、転ばし落としき。ここに追ひ下すを取る時、すなはちその石に焼き著かえて死にき。・・・・」この後に、キサガイ比売とハマグリガイ比売が出てきて、オオクニヌシを助けます。
坂の御尾は、何所だといいますと、「手間の山本」は手間山の麓ですから、坂です。御尾は宮尾の住所になっています。
天萬神社の資料は、次の所に掲載しています。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-288.html
ここに、清水川神社を合祀ししたと書いてあります。ただし、大正9年の事らしいです。一度、丁寧に祭神をご覧ください。
多いのは、直ぐに分ります。多いほど、事情があったことが判ります。
祭神の倉稲魂命、大日本根子彦大瓊尊は、古事記では掛れていない神です。
大日本根子彦大瓊尊は、日本を征服した中国人が、日本書紀に書きこんだ名前です。日本が使われていますが、中国人が、倭人と呼んでいた倭の国は、「日本」と云い、中国にアピールしたのではと考えています。
次回は、河の瀬です。同じ、手法で、今のどこかを探してください。
歴史各論 三角縁神獣鏡(79) 魏志倭人伝(30) 邪馬国は、何所に(27)奴国4 [三角縁神獣鏡]
「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。この奴。」
奴国ではありませんが、「宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。 是を奴としなさい」とスサノオ、遠くから二人に結婚の許可をしました。
宇迦の山の麓には、兄弟が住んでいますから、皆を追い払いなさい。その汝が持っている生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、そして、大国主神となりとなり、宇都志国玉神となりなさいと口上しました。
そこで、奴国の所は、大きな国となり、後に大国村と呼ばれるようになり、「底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ」と書かれて様に、宮城が造られたと思われます。その場所は、と云いますと、「倭」と云う地名で残っています。
播磨の三木市から、スサノオの居る堅洲国にやって来たスサノオは、来た時は、葦原志許男神でしたが、大国村で村を建設が成就したときには、大国主神と呼ばれるようになりました。
大国主神は、少名毘古那神と全国を回り、稲作、薬や絹の製造の指導をしています。その時に、東北では、宇都志国玉神は、岩木山(イワキヤマ)神社 に祭られています。
岩木山神社。 津軽國一宮。
青森県中津軽郡岩木町百沢。
祭神:顕国玉神、多都比姫神(たつびひめのかみ)、大山祇神、坂上刈田麻呂命、宇賀能売神。
大国主になったのですが、アマテラスから、支配地を明け渡す様に云われます。オオクニヌシとコトシロヌシは、直ぐに従ったのですが、従わない神がいました。何の神が調べてください。
古事記と日本書紀では少し、異なります。
古事記では、建御名方神がいちゃもんを付けます。力比べをして、建御名方神は負けて逃げます。長野県の諏訪湖迄逃げましたが、此処でつかまり、命乞いをして許して貰います。
どうして、許して貰えたか、推理してください。
建御名方神は、現在、諏訪神社の祭神として祭られています。
諏訪神社は、全国に約25,000社あるとされています。
これほど、大きな勢力を持つ集団なのに、どうして、 建御名方神は力比べに敗けたのでしょう。このような疑問を呈した歴史家もおられません。
奴国は、末廬国を出発点にしますと、「東南至奴国、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸」と書いてあります。
百里=400×100 で40000m=40kmです。 戸数は、二万余戸です。5人家族として、10万人です。吉野ヶ里が発掘された時は、邪馬台国だと云われました。行ってきましたが、あの広さですと、常時2500人位でしょうか。まだ、発掘途上ですら、何とも言えませんが、甕棺墓の数は、10000を超えるそうです。しかし、吉野ヶ里は、随分長いこと使われた村ですから、それぐらいの甕棺墓は当たり前でしょう
難升米が探った所では、二万余戸と見たのでしょう。すごい、調査力だと思います。
何分、沢山スサノオの子供たちが住んでいたのに、追い払われたのですから、二万余戸は当然の数字だと思います。
奴国ではありませんが、「宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。 是を奴としなさい」とスサノオ、遠くから二人に結婚の許可をしました。
宇迦の山の麓には、兄弟が住んでいますから、皆を追い払いなさい。その汝が持っている生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、そして、大国主神となりとなり、宇都志国玉神となりなさいと口上しました。
そこで、奴国の所は、大きな国となり、後に大国村と呼ばれるようになり、「底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ」と書かれて様に、宮城が造られたと思われます。その場所は、と云いますと、「倭」と云う地名で残っています。
播磨の三木市から、スサノオの居る堅洲国にやって来たスサノオは、来た時は、葦原志許男神でしたが、大国村で村を建設が成就したときには、大国主神と呼ばれるようになりました。
大国主神は、少名毘古那神と全国を回り、稲作、薬や絹の製造の指導をしています。その時に、東北では、宇都志国玉神は、岩木山(イワキヤマ)神社 に祭られています。
岩木山神社。 津軽國一宮。
青森県中津軽郡岩木町百沢。
祭神:顕国玉神、多都比姫神(たつびひめのかみ)、大山祇神、坂上刈田麻呂命、宇賀能売神。
大国主になったのですが、アマテラスから、支配地を明け渡す様に云われます。オオクニヌシとコトシロヌシは、直ぐに従ったのですが、従わない神がいました。何の神が調べてください。
古事記と日本書紀では少し、異なります。
古事記では、建御名方神がいちゃもんを付けます。力比べをして、建御名方神は負けて逃げます。長野県の諏訪湖迄逃げましたが、此処でつかまり、命乞いをして許して貰います。
どうして、許して貰えたか、推理してください。
建御名方神は、現在、諏訪神社の祭神として祭られています。
諏訪神社は、全国に約25,000社あるとされています。
これほど、大きな勢力を持つ集団なのに、どうして、 建御名方神は力比べに敗けたのでしょう。このような疑問を呈した歴史家もおられません。
奴国は、末廬国を出発点にしますと、「東南至奴国、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸」と書いてあります。
百里=400×100 で40000m=40kmです。 戸数は、二万余戸です。5人家族として、10万人です。吉野ヶ里が発掘された時は、邪馬台国だと云われました。行ってきましたが、あの広さですと、常時2500人位でしょうか。まだ、発掘途上ですら、何とも言えませんが、甕棺墓の数は、10000を超えるそうです。しかし、吉野ヶ里は、随分長いこと使われた村ですから、それぐらいの甕棺墓は当たり前でしょう
難升米が探った所では、二万余戸と見たのでしょう。すごい、調査力だと思います。
何分、沢山スサノオの子供たちが住んでいたのに、追い払われたのですから、二万余戸は当然の数字だと思います。
歴史各論 三角縁神獣鏡(78) 魏志倭人伝(29) 邪馬国は、何所に(26)奴国3 [三角縁神獣鏡]
私の文章は、分かりにくいので、田村誠一氏の文章をお借りします。
『燦然と輝いていた古代・追』109ページより コピー
田村氏の文章は、次のように始まりますが、
「黄泉の比良坂」
古事記に奴国が書かれていたので、先ず右の記述から考えることにします。
と書かれ、前のページに古事記に書いてある翻訳文が書いてあります。
「右の記述」の翻訳と少し異なりますが、以前に私が翻訳したものです。
是に於いて、其の妻の須世理毘賣は、喪具を持って哭(ナ)いて來ると、其の父の大神は
已(ス)でに死んだと思って、出立其の野に出て立ちました。そして、其の矢を持ちて奉る時、家に率いて入って、八田間(ヤタマ)の大室(オオムロ)に喚(ヨ)び入れて、其の頭の虱(シラミ)を取るように命令しました。そこで、頭を見ますと、呉公が多くいました。そこで、其の妻は、牟久(ムク)の木の實と赤土を取って、其の夫に授(ツ)けました。そして、其の木の實を咋(ク)い破り、赤土を口に含んで唾を出すと、其の大神(スサノオ)は、呉公を咋い破って唾を出したと思って、心に愛(?)しく思って寢てしまいました。其の神の髮を握って、其の室の毎椽(?)結び著(ツ)けて、そこに、五百引の石を其の室の戸に取り塞いで、其の妻の須世理毘賣を背負うやいなや、取持其大神の生大刀(イクタチ)と生弓矢(イクユミヤ)及び其の天の詔琴(ノリゴト) を取って、逃げ出す時、其の天の詔琴が樹に拂(フ)れて、地は動き鳴りました。
其の所で寢ていた大神は、それを聞いて驚いて、その部屋を引き仆(タオ)しました。然し、椽に結んである髪を解いている間に、遠くに逃げました。すると、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)に追い至り、遙かに望んで、大穴牟遲神は、呼(サケン)で謂いました。「其の汝の所持(ショジ)する生大刀と生弓矢で以って、汝の庶兄弟を坂の御尾に追い伏せて、亦、河の瀬に追い撥(ハ)って、意禮(オレ) 大國主神と為(ナ)って、亦、宇都志國玉神と爲って、其の我の女(ムスメ)の須世理毘賣を嫡妻と爲して、宇迦能山(ウカノヤマ)の山本に於いて、底の石根(イワネ)に、宮柱布刀斯理(ミヤバシラフトシリ)、高天の原に於いて、氷椽(ヒギ)多迦斯理(タカシリ)して居利なさい。是が奴(ヌ)也」
此処までは、古事記の文章です。
大国主神には別名が合計五つあり、大穴牟遅神、葦原志許男神等で日本書紀の大己貴神は無関係です。 大穴牟遅神は伯耆での庶兄弟の迫害をを逃れて木の国に移りました。この木の国は播磨風土記から、播磨の三木郡でした。ここの御坂社に大国主神の別名葦原志許男神で祭られていて大穴牟遅神の業績は播磨風土記に書かれています。 しばらくして根の堅洲国(西伯郡高麗村)のスサノオを訪ねました。そしてスサノオの女スセリ姫と恋仲になります。しかしスサノオはこの結婚話を認めないで、大穴牟遅神を殺そうとします。これに耐え兼ねて、大穴牟遅神はスサノオが居眠りしている隙にスセリ姫を背負って駆け落ちしました。 スサノオは目が覚めて二人を「黄泉の比良坂」に追いかけました。この「黄泉の比良坂」はイザナギが禊をした時にも登場します。この時禊に現れた底筒男神や綿津見神を祭った吉原神社や大河原神社が日野郡江府町にあることから、この場所が「黄泉の比良坂」でした。 更に唐王神社の由緒に大国主神とスセリ姫とが夜見国から帰って国土経営を行ったとあります。日野郡日野町の板井原神社に二人が祭られていたので「黄泉の比良坂」は夜見国の三平山の麓の意味でした。三平山は(ミヒラ)は海抜1010米もあり遠方から目標になり、これから夜見国は日野郡のことと分かりました。
上に書きました古事記の原文と翻訳文は、次のページとその次のページに有りますから、興味ありましたら、原文で確かめてください。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page391.html
板井原神社----http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-264.html
この資料には、祭神は大己貴命、須勢理姫命 と書いてあります。
大国主神は古事記では、全部で、5つの名前があります。上の文章から、オオクニヌシが住んでいた所によって名前が違うことが判ります。
スセリヒメは、古事記では、須勢理毘賣です。日本書紀では出てきません。
、『先代旧事本紀』では須世理姫と表記する。また『出雲国風土記』では須佐能袁命の娘で大穴持命の妻の和加須世理比売命(わかすせりひめ)が登場します。
日本書紀では、オオクニヌシのことをどのように書いてあるかと云いますと、大己貴命の外、大物主もそうだと書いています。
このように見てきますと、板井原神社は、いつからか判りませんが、藤原氏によって、祭神を大己貴命に書換えさせられたと思われます。では、久津懸谷鎮座の久津懸大明神を合祀したということは、この神はどのような神だったのでしょう。
唐王神社-- http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-331.html
こちらは、祭神は須勢理毘売命だけが書いてありますから、須勢理毘売命が若いときにも住んでいたと考えたいです。
『燦然と輝いていた古代・追』109ページより コピー
田村氏の文章は、次のように始まりますが、
「黄泉の比良坂」
古事記に奴国が書かれていたので、先ず右の記述から考えることにします。
と書かれ、前のページに古事記に書いてある翻訳文が書いてあります。
「右の記述」の翻訳と少し異なりますが、以前に私が翻訳したものです。
是に於いて、其の妻の須世理毘賣は、喪具を持って哭(ナ)いて來ると、其の父の大神は
已(ス)でに死んだと思って、出立其の野に出て立ちました。そして、其の矢を持ちて奉る時、家に率いて入って、八田間(ヤタマ)の大室(オオムロ)に喚(ヨ)び入れて、其の頭の虱(シラミ)を取るように命令しました。そこで、頭を見ますと、呉公が多くいました。そこで、其の妻は、牟久(ムク)の木の實と赤土を取って、其の夫に授(ツ)けました。そして、其の木の實を咋(ク)い破り、赤土を口に含んで唾を出すと、其の大神(スサノオ)は、呉公を咋い破って唾を出したと思って、心に愛(?)しく思って寢てしまいました。其の神の髮を握って、其の室の毎椽(?)結び著(ツ)けて、そこに、五百引の石を其の室の戸に取り塞いで、其の妻の須世理毘賣を背負うやいなや、取持其大神の生大刀(イクタチ)と生弓矢(イクユミヤ)及び其の天の詔琴(ノリゴト) を取って、逃げ出す時、其の天の詔琴が樹に拂(フ)れて、地は動き鳴りました。
其の所で寢ていた大神は、それを聞いて驚いて、その部屋を引き仆(タオ)しました。然し、椽に結んである髪を解いている間に、遠くに逃げました。すると、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)に追い至り、遙かに望んで、大穴牟遲神は、呼(サケン)で謂いました。「其の汝の所持(ショジ)する生大刀と生弓矢で以って、汝の庶兄弟を坂の御尾に追い伏せて、亦、河の瀬に追い撥(ハ)って、意禮(オレ) 大國主神と為(ナ)って、亦、宇都志國玉神と爲って、其の我の女(ムスメ)の須世理毘賣を嫡妻と爲して、宇迦能山(ウカノヤマ)の山本に於いて、底の石根(イワネ)に、宮柱布刀斯理(ミヤバシラフトシリ)、高天の原に於いて、氷椽(ヒギ)多迦斯理(タカシリ)して居利なさい。是が奴(ヌ)也」
此処までは、古事記の文章です。
大国主神には別名が合計五つあり、大穴牟遅神、葦原志許男神等で日本書紀の大己貴神は無関係です。 大穴牟遅神は伯耆での庶兄弟の迫害をを逃れて木の国に移りました。この木の国は播磨風土記から、播磨の三木郡でした。ここの御坂社に大国主神の別名葦原志許男神で祭られていて大穴牟遅神の業績は播磨風土記に書かれています。 しばらくして根の堅洲国(西伯郡高麗村)のスサノオを訪ねました。そしてスサノオの女スセリ姫と恋仲になります。しかしスサノオはこの結婚話を認めないで、大穴牟遅神を殺そうとします。これに耐え兼ねて、大穴牟遅神はスサノオが居眠りしている隙にスセリ姫を背負って駆け落ちしました。 スサノオは目が覚めて二人を「黄泉の比良坂」に追いかけました。この「黄泉の比良坂」はイザナギが禊をした時にも登場します。この時禊に現れた底筒男神や綿津見神を祭った吉原神社や大河原神社が日野郡江府町にあることから、この場所が「黄泉の比良坂」でした。 更に唐王神社の由緒に大国主神とスセリ姫とが夜見国から帰って国土経営を行ったとあります。日野郡日野町の板井原神社に二人が祭られていたので「黄泉の比良坂」は夜見国の三平山の麓の意味でした。三平山は(ミヒラ)は海抜1010米もあり遠方から目標になり、これから夜見国は日野郡のことと分かりました。
上に書きました古事記の原文と翻訳文は、次のページとその次のページに有りますから、興味ありましたら、原文で確かめてください。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page391.html
板井原神社----http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-264.html
この資料には、祭神は大己貴命、須勢理姫命 と書いてあります。
大国主神は古事記では、全部で、5つの名前があります。上の文章から、オオクニヌシが住んでいた所によって名前が違うことが判ります。
スセリヒメは、古事記では、須勢理毘賣です。日本書紀では出てきません。
、『先代旧事本紀』では須世理姫と表記する。また『出雲国風土記』では須佐能袁命の娘で大穴持命の妻の和加須世理比売命(わかすせりひめ)が登場します。
日本書紀では、オオクニヌシのことをどのように書いてあるかと云いますと、大己貴命の外、大物主もそうだと書いています。
このように見てきますと、板井原神社は、いつからか判りませんが、藤原氏によって、祭神を大己貴命に書換えさせられたと思われます。では、久津懸谷鎮座の久津懸大明神を合祀したということは、この神はどのような神だったのでしょう。
唐王神社-- http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-331.html
こちらは、祭神は須勢理毘売命だけが書いてありますから、須勢理毘売命が若いときにも住んでいたと考えたいです。
歴史各論 三角縁神獣鏡(77) 魏志倭人伝(28) 邪馬国は、何所に(25)奴国2 [三角縁神獣鏡]
奴国が書いてある所は見つかりましたか。見つからなかったかも知れません。正確に云いますと、「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。この奴。」
と書いてあり、奴国ではありませんでした。
原文
故其所寢大神。聞驚而。引仆其室。然解結椽髮之間。遠逃。故爾追至黄泉比良坂遙望 呼謂大穴牟遲神日。其汝所持之生大刀、生弓矢以而。汝庶兄弟者追伏坂之御尾。亦追撥河之瀬而。意禮【二字以音】爲大國主神亦爲宇都志國玉神而。其我之女爲須世理毘賣。爲嫡妻而。於宇迦能山【三字以音巳】之山本。於底津石根。宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】而居。是奴也。
奴国と書いてないのであれば、魏志倭人伝に書いてある奴国ではないではと思われるでしょうが、ここに書いてある文章が、どうして、この様な経過となったかを知りませんと、全体を把握できません。
次回は、古事記の原文や翻訳文では、読む気がしませんので、歴史の流れを書いて見ます。(この部分は、歴史ではなくて、神話だから、全く信用ならないとされています。)
古事記が、きらいな方は、読まれても意味がないと思います。
と書いてあり、奴国ではありませんでした。
原文
故其所寢大神。聞驚而。引仆其室。然解結椽髮之間。遠逃。故爾追至黄泉比良坂遙望 呼謂大穴牟遲神日。其汝所持之生大刀、生弓矢以而。汝庶兄弟者追伏坂之御尾。亦追撥河之瀬而。意禮【二字以音】爲大國主神亦爲宇都志國玉神而。其我之女爲須世理毘賣。爲嫡妻而。於宇迦能山【三字以音巳】之山本。於底津石根。宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】而居。是奴也。
奴国と書いてないのであれば、魏志倭人伝に書いてある奴国ではないではと思われるでしょうが、ここに書いてある文章が、どうして、この様な経過となったかを知りませんと、全体を把握できません。
次回は、古事記の原文や翻訳文では、読む気がしませんので、歴史の流れを書いて見ます。(この部分は、歴史ではなくて、神話だから、全く信用ならないとされています。)
古事記が、きらいな方は、読まれても意味がないと思います。
歴史各論 三角縁神獣鏡(76) 魏志倭人伝(27) 邪馬国は、何所に(24) [三角縁神獣鏡]
今日は、奴国です。
日本の歴史家は、おかしいですね。魏志倭人伝のことについては、これでもか云うほど、研究をされています。そして、邪馬台国は、九州だとか、奈良だとか結論付けておられますが、日本の歴史書には、邪馬台国も卑弥呼も登場しません。
卑弥呼が死んだ年は、およそですが、分かっています。248年頃です。そうであれば、崇神天皇の時代だと思います。調べてください。崇神天皇は、300年以降の人だとされています。
そうしませんと、崇神天皇が倭国を支配していた時には、邪馬台国をはじめとして、一杯国があって、お互いが戦をしていたと云われています。
だから、どうしても、崇神天皇は、300年以降に居られたことになります。
いや、そんなことはないぞとウィキペディアの先生は、次のように書いておられます。
生まれは 紀元前148年
崩御は、紀元前29年1月9日
自分の兄弟の生年月日すら、忘れかけているのに、紀元前の人の死んだ日が分っているのです。きっと、日本書紀に書いてあるのでしょうね。
しかし、神武天皇だけは、およそ いつ頃に生れたかは判るのです。神武東征が行われて、最後の敵を奈良でやっつけた年を、紀元元年一月一日と決めて、日本人ではなくて、ユダヤ人が、自分たちのものとして、世界中で使っていました。世界中に日本から絹を運んで生計を立てていたユダヤ人は、商売をするうえで、世界に共通する暦は無くてはならない物でした。
どうして、ユダヤ人が、神武天皇が、戦争に勝ったことを知っていたかと云いますと、自分たちが、神武天皇を助けていたからです。
神武天皇は、戦争に16年以上費やしています。きっと、20年はかかったと思います。戦争に出かけたのが、仮に、20才の時であれば、神武天皇は、紀元前40年の生まれになります。40才の時に、出陣したのであれば、紀元前60年の生まれになります。
他の天皇の生れは、よく判っていませんが、天皇が、20才の時に、長男が生まれたとしますと、崇神天皇は、10代の天皇ですから、10×9で、180才、神武天皇より遅い年代となります。
神武天皇が、仮に、紀元前60年の生れであれば、崇神天皇は、紀元後、120年の生まれになります。前後、20年の余裕を見ても、崇神天皇は、紀元後、100年~140年の生まれになります。
間違っても、紀元前とか、300年後の生まれなどにはなりません。
寄り道が多くなってしまいました。
卑弥呼が死んだとされる248年頃は、崇神天皇の時代です。
魏の国が、どうして、自分の国の歴史書に日本のような遠い国のことを書いたのかと云いますと、日本が重要だったからです。
従いまして、邪馬台国は、無かったと云われる方もおられますが、間違いでしょう。私は、有ったと考えています。
日本の歴史書である古事記には、「奴国」のことが書いてあります。それなのに、誰も「奴国」のことは書いておられません。
古事記のどこに書いてあるか、探しておいてください。
日本の歴史家は、おかしいですね。魏志倭人伝のことについては、これでもか云うほど、研究をされています。そして、邪馬台国は、九州だとか、奈良だとか結論付けておられますが、日本の歴史書には、邪馬台国も卑弥呼も登場しません。
卑弥呼が死んだ年は、およそですが、分かっています。248年頃です。そうであれば、崇神天皇の時代だと思います。調べてください。崇神天皇は、300年以降の人だとされています。
そうしませんと、崇神天皇が倭国を支配していた時には、邪馬台国をはじめとして、一杯国があって、お互いが戦をしていたと云われています。
だから、どうしても、崇神天皇は、300年以降に居られたことになります。
いや、そんなことはないぞとウィキペディアの先生は、次のように書いておられます。
生まれは 紀元前148年
崩御は、紀元前29年1月9日
自分の兄弟の生年月日すら、忘れかけているのに、紀元前の人の死んだ日が分っているのです。きっと、日本書紀に書いてあるのでしょうね。
しかし、神武天皇だけは、およそ いつ頃に生れたかは判るのです。神武東征が行われて、最後の敵を奈良でやっつけた年を、紀元元年一月一日と決めて、日本人ではなくて、ユダヤ人が、自分たちのものとして、世界中で使っていました。世界中に日本から絹を運んで生計を立てていたユダヤ人は、商売をするうえで、世界に共通する暦は無くてはならない物でした。
どうして、ユダヤ人が、神武天皇が、戦争に勝ったことを知っていたかと云いますと、自分たちが、神武天皇を助けていたからです。
神武天皇は、戦争に16年以上費やしています。きっと、20年はかかったと思います。戦争に出かけたのが、仮に、20才の時であれば、神武天皇は、紀元前40年の生まれになります。40才の時に、出陣したのであれば、紀元前60年の生まれになります。
他の天皇の生れは、よく判っていませんが、天皇が、20才の時に、長男が生まれたとしますと、崇神天皇は、10代の天皇ですから、10×9で、180才、神武天皇より遅い年代となります。
神武天皇が、仮に、紀元前60年の生れであれば、崇神天皇は、紀元後、120年の生まれになります。前後、20年の余裕を見ても、崇神天皇は、紀元後、100年~140年の生まれになります。
間違っても、紀元前とか、300年後の生まれなどにはなりません。
寄り道が多くなってしまいました。
卑弥呼が死んだとされる248年頃は、崇神天皇の時代です。
魏の国が、どうして、自分の国の歴史書に日本のような遠い国のことを書いたのかと云いますと、日本が重要だったからです。
従いまして、邪馬台国は、無かったと云われる方もおられますが、間違いでしょう。私は、有ったと考えています。
日本の歴史書である古事記には、「奴国」のことが書いてあります。それなのに、誰も「奴国」のことは書いておられません。
古事記のどこに書いてあるか、探しておいてください。
歴史各論 三角縁神獣鏡(75) 魏志倭人伝(26) 邪馬国は、何所に(23) [三角縁神獣鏡]
末廬国は、正確には、どの辺りか判りませんが、島根半島だと思われます。その後にはいくつかの国が書いてあります。国名を書いた地図は、以前に見て頂きましたが、もう一度、確認してください。
http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/2012012309200975e.jpg
今回は、不弥国です。この国名もあまり悪い漢字は使われていません。一大国のきと同様に、陳寿が付けた国の名前ですから、漢字に意味があります。
「弥」は、普通は、私は「や」と読んでいました。この字の異体字は、「彌」です。これですと、「み」です。【字通】によりますと、「み、び」しかありません。と云うことは、中国人は、「ふみこく」か「ふびこく」です。「み」は呉の使い方。「び」は漢の使い方ですから、
「ふびこく」と呼んだのでしょうか。
さて、「弥」の意味は、 ①ひさしい ②ひさしきにわたる、おわる あまねく、きわめる ③ひろい、とおい、おおきい、ふかい ④みちる、みたす、おおう ⑤いよいよ、ますます
この漢字の成り立ちは、この意味の前に、いっぱい書いてありますが、理解困難ですので、省略しました。
【字通】では、良く使われる意味でしょうか。・
「広く端までいきわたる」「いつまでも程度がおとろえない」というようにつかわれるとかいてあります。 この意味に否定の「不」がついていますから、「今では、力が行き渡らなくなった国」となるでしょうか。
末廬国は、島根半島だとおもわれますと前回、記しましたが、此れでは範囲が広すぎますので、〔末 まつ〕の字に拘りますと、島根半島の真ん中に、松江があります。これから以後の国までは、松江を起点にしますと、松江の東百里に不弥国があるとされています。百里は、100×400で、4000m=40kmになります。この地域は、大栄町の高千穂がある所です。ここは、瓊々杵命が、蒜山高原の日留宮から、遷都した所です。
高千穂は北緯35度27分上にあります。同じ、北緯35度27分上をもう少し、西へ行きますと、「宮内」という地名があります。こみは、神武天皇が、ここに宮城を定めた所です。
「高千穂・東伯郡」は瓊々杵命が、「宮内・西伯郡」は神武天皇が治めていたのですが、末廬国から40kmとなりますと、「高千穂」が当てはまります。
陳寿は、紀元前120年ころには、瓊々杵命が、この地方を収めていたことを知っていたのでしょう。昔は、政治が行き渡っていたのに、今では、さびれてしまっている国があると書いたことになります。
このようなことを調べたのは、卑弥呼の部下の難升米ということになります。難升米は、太夫の称号を付けていますが、魏の国が派遣したスパイであったことになります。
方角も、距離も正確に測量していたことが判ります。
北緯35度27分上には、天皇に関係のある遺跡や地名が並んでいますので、天神ラインと呼んで、紹介しています。
次の辺りに書いています。
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2593826/
天神ライン---日ノ御碕―---粟島—佐陀川河口—小波浜—上淀廃寺--岩塚古墳---宮内(西伯郡)—高千穂(東伯郡)—岡益・梶山古墳—出石-―天座—皇大神社
http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/2012012309200975e.jpg
今回は、不弥国です。この国名もあまり悪い漢字は使われていません。一大国のきと同様に、陳寿が付けた国の名前ですから、漢字に意味があります。
「弥」は、普通は、私は「や」と読んでいました。この字の異体字は、「彌」です。これですと、「み」です。【字通】によりますと、「み、び」しかありません。と云うことは、中国人は、「ふみこく」か「ふびこく」です。「み」は呉の使い方。「び」は漢の使い方ですから、
「ふびこく」と呼んだのでしょうか。
さて、「弥」の意味は、 ①ひさしい ②ひさしきにわたる、おわる あまねく、きわめる ③ひろい、とおい、おおきい、ふかい ④みちる、みたす、おおう ⑤いよいよ、ますます
この漢字の成り立ちは、この意味の前に、いっぱい書いてありますが、理解困難ですので、省略しました。
【字通】では、良く使われる意味でしょうか。・
「広く端までいきわたる」「いつまでも程度がおとろえない」というようにつかわれるとかいてあります。 この意味に否定の「不」がついていますから、「今では、力が行き渡らなくなった国」となるでしょうか。
末廬国は、島根半島だとおもわれますと前回、記しましたが、此れでは範囲が広すぎますので、〔末 まつ〕の字に拘りますと、島根半島の真ん中に、松江があります。これから以後の国までは、松江を起点にしますと、松江の東百里に不弥国があるとされています。百里は、100×400で、4000m=40kmになります。この地域は、大栄町の高千穂がある所です。ここは、瓊々杵命が、蒜山高原の日留宮から、遷都した所です。
高千穂は北緯35度27分上にあります。同じ、北緯35度27分上をもう少し、西へ行きますと、「宮内」という地名があります。こみは、神武天皇が、ここに宮城を定めた所です。
「高千穂・東伯郡」は瓊々杵命が、「宮内・西伯郡」は神武天皇が治めていたのですが、末廬国から40kmとなりますと、「高千穂」が当てはまります。
陳寿は、紀元前120年ころには、瓊々杵命が、この地方を収めていたことを知っていたのでしょう。昔は、政治が行き渡っていたのに、今では、さびれてしまっている国があると書いたことになります。
このようなことを調べたのは、卑弥呼の部下の難升米ということになります。難升米は、太夫の称号を付けていますが、魏の国が派遣したスパイであったことになります。
方角も、距離も正確に測量していたことが判ります。
北緯35度27分上には、天皇に関係のある遺跡や地名が並んでいますので、天神ラインと呼んで、紹介しています。
次の辺りに書いています。
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2593826/
天神ライン---日ノ御碕―---粟島—佐陀川河口—小波浜—上淀廃寺--岩塚古墳---宮内(西伯郡)—高千穂(東伯郡)—岡益・梶山古墳—出石-―天座—皇大神社






