歴史各論 三角縁神獣鏡(102)魏志倭人伝(53) 邪馬壹国は、何所に(49)邪馬壹国(8) [三角縁神獣鏡]
邪馬壹国と云う国が、日本にあったとことは、誰もが信用しているのに、日本の歴史書である古事記にも、日本書紀にも書いてありません。
邪馬壹国のことが書いてあるのは、中国の歴史書で、魏の国のことが書いてある歴史書の中の日本の事が書いてある『魏志倭人伝』の中に書いてあります。ここには、卑弥呼のことも書いてあります。卑弥呼も不思議なことに日本の歴史書には登場しません。しかし、卑弥呼が死んだ年は、魏志倭人伝から推測しますと、248年になります。
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬壹国に居住し(女王ノ都トスル所)、鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)と書いてあります。
簡単です。卑弥呼は、魏の国があった時代に、日本のどこかにあった国です。誰がそれを認めたかと云いますと、魏の国の人が、自分が持っていた情報網から得たものであることが判ります。
卑弥呼は、ウィキペディアに拠れば、170年頃 - 248年頃の人とされていますが、私の推察では、160年頃の生まれで、90才近くで亡くなったと考えています。
卑弥呼は日本の史書には掲載されていませんが、200~248年の頃に、邪馬壹国の女王をしていたということになっています。
同じ頃に、日本には、初代の神武天皇以来、続けて天皇が日本を統治していたことになっています。
160年頃 - ~248年頃までの間、どの天皇の時代であったかを検討します。
天皇が治めていた日本は、「倭国」と呼ばれ、その初代の天皇は、古事記には、神倭伊波礼毘古命と書いてあります。同じ天皇を日本書紀では、神日本磐余彦天皇と記しています。
日本書紀によると、在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)とされています。
神武天皇は、紀元前660年の生まれだとされています。これが正しいとしますと、
卑弥呼が女王をしていた200~248年の頃の天皇は、どの天皇だったのでしょう。
計算しやすく、一人の天皇が、100才生きていたとしますと、神武天皇から数えて、900年ぐらいたっていることになります。そうしますと、9代か10代の天皇の頃が、200~248年になるでしょうか。
この計算は、おかしいですね。神武天皇が、100才で死んで、2代の天皇が、次の天皇になって、又、100年天皇であったと考えますと、計算は合っています。
神武天皇が、100年生きていても、天皇在位が100年ではありません。神武天皇が、20才の頃には、子供が生まれます。神武天皇が、40歳の時には、2代目は、20才になります。
20才で、天皇の位を引き継ぐとしますと、10代までの天皇の在位の合計は、200年になります。
神武天皇が生れた紀元前660年から、卑弥呼が亡くなった240年までは、900年あります。
先ほどの、20年で天皇の位を譲るとしますと、45代目の天皇が、200~248年頃に当たります。
別に、このようなことでも、いいのですが、魏志倭人伝に拠りますと、日本にあった国々は、邪馬台国だけではありません。天皇が、治める倭国以外に、20を超える国が日本にはあったことになります。
日本の歴史家は、魏志倭人伝も信じ、日本書紀も信じておられます。どちらかに書いてあることが間違っていると考えませんと、辻褄が合いません。
この辺りの矛盾を解き明かしておられる方は、WEBでは見当たりません。
魏志倭人伝に書いてあることを元にして、邪馬壹国が何所に有るかを書いてきました。、島根県の松江を末廬国と考えますと、魏志倭人伝に書いてある通りの、方角と距離の所に、全ての国が、収まります。
これほど、みごとに、一致するということは、魏志倭人伝に書いてあることは、正しいことになります。即ち、日本書紀にかいてある 「在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)」は、嘘であることが判ります。
以前にも書いていますが、崇神天皇だけは、ほぼ、正確にいつ頃の人であるかが、判りますので、書いて見ます。
ダブりますが、
次のところにもかいています。
No115 崇神天皇は、紀元200年頃の人
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-20
邪馬壹国のことが書いてあるのは、中国の歴史書で、魏の国のことが書いてある歴史書の中の日本の事が書いてある『魏志倭人伝』の中に書いてあります。ここには、卑弥呼のことも書いてあります。卑弥呼も不思議なことに日本の歴史書には登場しません。しかし、卑弥呼が死んだ年は、魏志倭人伝から推測しますと、248年になります。
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬壹国に居住し(女王ノ都トスル所)、鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)と書いてあります。
簡単です。卑弥呼は、魏の国があった時代に、日本のどこかにあった国です。誰がそれを認めたかと云いますと、魏の国の人が、自分が持っていた情報網から得たものであることが判ります。
卑弥呼は、ウィキペディアに拠れば、170年頃 - 248年頃の人とされていますが、私の推察では、160年頃の生まれで、90才近くで亡くなったと考えています。
卑弥呼は日本の史書には掲載されていませんが、200~248年の頃に、邪馬壹国の女王をしていたということになっています。
同じ頃に、日本には、初代の神武天皇以来、続けて天皇が日本を統治していたことになっています。
160年頃 - ~248年頃までの間、どの天皇の時代であったかを検討します。
天皇が治めていた日本は、「倭国」と呼ばれ、その初代の天皇は、古事記には、神倭伊波礼毘古命と書いてあります。同じ天皇を日本書紀では、神日本磐余彦天皇と記しています。
日本書紀によると、在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)とされています。
神武天皇は、紀元前660年の生まれだとされています。これが正しいとしますと、
卑弥呼が女王をしていた200~248年の頃の天皇は、どの天皇だったのでしょう。
計算しやすく、一人の天皇が、100才生きていたとしますと、神武天皇から数えて、900年ぐらいたっていることになります。そうしますと、9代か10代の天皇の頃が、200~248年になるでしょうか。
この計算は、おかしいですね。神武天皇が、100才で死んで、2代の天皇が、次の天皇になって、又、100年天皇であったと考えますと、計算は合っています。
神武天皇が、100年生きていても、天皇在位が100年ではありません。神武天皇が、20才の頃には、子供が生まれます。神武天皇が、40歳の時には、2代目は、20才になります。
20才で、天皇の位を引き継ぐとしますと、10代までの天皇の在位の合計は、200年になります。
神武天皇が生れた紀元前660年から、卑弥呼が亡くなった240年までは、900年あります。
先ほどの、20年で天皇の位を譲るとしますと、45代目の天皇が、200~248年頃に当たります。
別に、このようなことでも、いいのですが、魏志倭人伝に拠りますと、日本にあった国々は、邪馬台国だけではありません。天皇が、治める倭国以外に、20を超える国が日本にはあったことになります。
日本の歴史家は、魏志倭人伝も信じ、日本書紀も信じておられます。どちらかに書いてあることが間違っていると考えませんと、辻褄が合いません。
この辺りの矛盾を解き明かしておられる方は、WEBでは見当たりません。
魏志倭人伝に書いてあることを元にして、邪馬壹国が何所に有るかを書いてきました。、島根県の松江を末廬国と考えますと、魏志倭人伝に書いてある通りの、方角と距離の所に、全ての国が、収まります。
これほど、みごとに、一致するということは、魏志倭人伝に書いてあることは、正しいことになります。即ち、日本書紀にかいてある 「在位は辛酉年(神武天皇元年)1月1日(紀元前660年2月18日?)~ 神武天皇76年3月11日(紀元前585年4月9日?)」は、嘘であることが判ります。
以前にも書いていますが、崇神天皇だけは、ほぼ、正確にいつ頃の人であるかが、判りますので、書いて見ます。
ダブりますが、
次のところにもかいています。
No115 崇神天皇は、紀元200年頃の人
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-12-20
歴史各論 三角縁神獣鏡(101)魏志倭人伝(52) 邪馬壹国は、何所に(48)邪馬壹国(7) [三角縁神獣鏡]
日本書紀では、天皇の享年を高齢に書いてあるのに、誰も、おかしいと思わなかったのは、紀元前後には、120才ぐらいの人は、大勢いたと考えるしかないと書きました。
その2は、日本書紀に細工をしただけではなく、古事記にも改ざんを加えたからではないかと思います。では、古事記のどの部分に改ざんをしたのかと云いますと、膨大すぎて判りにくくなっています。
日本書紀に細工をした部分は、判り易いです。「一書に曰く」と書かれた部分です。古事記に書かれている部分を、いくつかの「一書に曰く」に分けて書き改めています。
日本書紀の形式は、日本書紀以外に、当時、存在した書物には、次のように書いてありますと、多いときには、10冊ぐらいの書物から抜粋したように書いてあります。不思議なことに、古事記と同じものは一切見ることは出来ません。
日本書紀では、不思議なことに、読み方は古事記と同じなのに、漢字はすべて、読むことが出来ないような難しい漢字が使われています。
田村誠一氏は、「神話にすぎない日本書紀」のタイトルで、6回に分けて書いておられます。
私の【楽しい人生】http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/03/1-d07d.html
に掲載していますから、読んでください。
古事記を改ざんした部分は、「神話にすぎない日本書紀(3)」に於いて、次の箇所だと書いておられます。
日本書紀と古事記とで、記述が矛盾していて、しかも完全に一致した天若日子(天雅彦)を葬った場所である。この場所は両書共「美濃の藍見河の河上の喪山といふ山なり」と書かれている。
意味はお分かりですか。お葬式が行われた所は、高天原から下った所なのに、「美濃」になっています。
きっと、理解出来ないと思います。高天原は、ヒルゼン高原だったのに、古事記を参考にして、日本書紀を制作する時に、意味が不明になるように、製作しましたから、歴史の学者も全員騙されることになりました。
高天原は、歴史学者だけではなく、日本人、全員が、宮崎県の高千穂という山の天上にあるとしておられます。
山の上と云いますと、宇宙ということになります。
日本書紀を編纂した影の責任者は、藤原不比等だと思われます。712年に発行された古事記は、悉く、没収したと思われていましたが、若し、どこかに残っていたのでは、天皇家は、日本の正当な支配者であったことが判ってしまうので、古事記に書いてあることは、間違っていると思わせる細工をしたと考えています。
ところが、実際には、古事記は、残っていなかったのではないかと推理しています。その古事記が、どうして、400年も後に発見されることになったか、判っていませんが、発見された古事記を眺めていますと、不備なところを見付けたのではないでしょうか。右近衛大将藤原朝臣が手を加えることとなります。
古事記の改ざんされた所は、「神話にすぎない日本書紀(3)」以下にも、書いてありますから、ご覧ください。
以上、2回にわたって、日本書紀が作られて以降、どうして、だれもが、騙されてしまうことになったかの要因を二つ挙げて見ました。
次回は、本当に、紀元前後には、120才ぐらいの人は、大勢いたという推理が、どうして、そう思うことができるのかを書いて見ようと思います。
その2は、日本書紀に細工をしただけではなく、古事記にも改ざんを加えたからではないかと思います。では、古事記のどの部分に改ざんをしたのかと云いますと、膨大すぎて判りにくくなっています。
日本書紀に細工をした部分は、判り易いです。「一書に曰く」と書かれた部分です。古事記に書かれている部分を、いくつかの「一書に曰く」に分けて書き改めています。
日本書紀の形式は、日本書紀以外に、当時、存在した書物には、次のように書いてありますと、多いときには、10冊ぐらいの書物から抜粋したように書いてあります。不思議なことに、古事記と同じものは一切見ることは出来ません。
日本書紀では、不思議なことに、読み方は古事記と同じなのに、漢字はすべて、読むことが出来ないような難しい漢字が使われています。
田村誠一氏は、「神話にすぎない日本書紀」のタイトルで、6回に分けて書いておられます。
私の【楽しい人生】http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/03/1-d07d.html
に掲載していますから、読んでください。
古事記を改ざんした部分は、「神話にすぎない日本書紀(3)」に於いて、次の箇所だと書いておられます。
日本書紀と古事記とで、記述が矛盾していて、しかも完全に一致した天若日子(天雅彦)を葬った場所である。この場所は両書共「美濃の藍見河の河上の喪山といふ山なり」と書かれている。
意味はお分かりですか。お葬式が行われた所は、高天原から下った所なのに、「美濃」になっています。
きっと、理解出来ないと思います。高天原は、ヒルゼン高原だったのに、古事記を参考にして、日本書紀を制作する時に、意味が不明になるように、製作しましたから、歴史の学者も全員騙されることになりました。
高天原は、歴史学者だけではなく、日本人、全員が、宮崎県の高千穂という山の天上にあるとしておられます。
山の上と云いますと、宇宙ということになります。
日本書紀を編纂した影の責任者は、藤原不比等だと思われます。712年に発行された古事記は、悉く、没収したと思われていましたが、若し、どこかに残っていたのでは、天皇家は、日本の正当な支配者であったことが判ってしまうので、古事記に書いてあることは、間違っていると思わせる細工をしたと考えています。
ところが、実際には、古事記は、残っていなかったのではないかと推理しています。その古事記が、どうして、400年も後に発見されることになったか、判っていませんが、発見された古事記を眺めていますと、不備なところを見付けたのではないでしょうか。右近衛大将藤原朝臣が手を加えることとなります。
古事記の改ざんされた所は、「神話にすぎない日本書紀(3)」以下にも、書いてありますから、ご覧ください。
以上、2回にわたって、日本書紀が作られて以降、どうして、だれもが、騙されてしまうことになったかの要因を二つ挙げて見ました。
次回は、本当に、紀元前後には、120才ぐらいの人は、大勢いたという推理が、どうして、そう思うことができるのかを書いて見ようと思います。
歴史各論 三角縁神獣鏡(100) 魏志倭人伝(51) 邪馬壹国は、何所に(47)邪馬壹国(6) [三角縁神獣鏡]
前回は、10代ぐらいまでの天皇は、100才ぐらいまで生きたのではと考えて見ました。それが、邪馬壹国とどのような関係があるのだと思われたでしょう。
邪馬壹国とは、関係はありません。
邪馬壹国は、中国の魏志倭人伝に書いてある国です。日本の資料には残っていないのですが、みなさん間違いなくあった国だと思っておられます。
間違いなくあったのであれば、どの辺りにあったのか。それは、どれぐらいの広さのくにであったかぐらいの事は、判っていて当然です。
私のような素人を含めますと、邪馬壹国は九州、四国、岡山(私の意見)、滋賀県(近江八幡)、奈良県などなどです。一番有力な説は、九州のようです。佐賀県で、吉野ヶ里遺跡が発掘された時は、此処が、邪馬壹国と発掘された方や、新聞社が、ほぼ決定の様に書かれました。そのように書いてある本を二冊購入しました。
なぜ騒がれたかと云いますと、魏志倭人伝に書いてあった環濠などをはじめとして、全部揃っていると云われました。
本当は、そうではなく、吉野ヶ里遺跡が邪馬壹国を彷彿させるに十分な広さがあったからだと思いました。
ほとぼりが冷めた頃に、訪れました。折角、遠くまで行ったのに、がっかりしました。
吉野ヶ里は、あまりにも狭かったからです。帰ってから、吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を調べました。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page630.html
これらの遺跡は、精しくは調べていませんが、吉野ヶ里遺跡と何等かの関係はあったと思いますが、邪馬壹国ではないと思いました。 中国人のお墓だと思われるものが、見つかっています。
魏志倭人伝には、邪馬壹国は七万戸とあります。吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を合わせますと、これぐらいの人口を養うことが出来ますが、吉野ヶ里遺跡だけでは、無理だと思いました。
七万戸には、何人の人間が住んでいたのかを知るつもりになっています。
〔崇神天皇は、享年168才となっていますが、60年を差し引いた108才が本当の享年だという一覧表です〕と書きました。
これは、魏志倭人伝ではなくて、どうやら、日本書紀に書いてあった記事から、計算されたものです。
日本書紀は、720年に完成したことになっています。 今でこそ、168才と書けば、誰も相手にしません。この時に、崇神天皇は、享年168才となっていますが、100才以上の人が、全くいなかったら、日本書紀は、誰にも信用されなかったでしょう。日本書紀は、現在でも、読める人は、歴史を勉強している人でも、一人もいないのですから、720年当時は、読める人は、殆どいなかったと思います。それにしても、中国人で一杯でしたから、500人ぐらいの人は、読むことが出来たでしょう。
日本書紀の中で、素人でもおかしいとすぐわかる箇所が、崇神天皇の享年168才でしょう。
崇神天皇一人ではありません。9人もの、享年を60年ごまかした日本書紀の編集者は、怪しまれずに済んだのでしょうか。
少しは、変だと思う人もいたでしょうが、延々と、現在までの日本人を誤魔化せたということは、いくつかと要因があったと考えるしかないでしょう。
要因その1は、当時は、168才は無理としても、120才ぐらいの人は、大勢いたと考えるしかないと思います。
ここ数年、日本人の寿命は、年々伸びています。100才を超える人が増えてきました。
後、10年もしますと、110才を超える人は、増えるのではと考えています。
次回は、要因その2を書いて見ます。
邪馬壹国とは、関係はありません。
邪馬壹国は、中国の魏志倭人伝に書いてある国です。日本の資料には残っていないのですが、みなさん間違いなくあった国だと思っておられます。
間違いなくあったのであれば、どの辺りにあったのか。それは、どれぐらいの広さのくにであったかぐらいの事は、判っていて当然です。
私のような素人を含めますと、邪馬壹国は九州、四国、岡山(私の意見)、滋賀県(近江八幡)、奈良県などなどです。一番有力な説は、九州のようです。佐賀県で、吉野ヶ里遺跡が発掘された時は、此処が、邪馬壹国と発掘された方や、新聞社が、ほぼ決定の様に書かれました。そのように書いてある本を二冊購入しました。
なぜ騒がれたかと云いますと、魏志倭人伝に書いてあった環濠などをはじめとして、全部揃っていると云われました。
本当は、そうではなく、吉野ヶ里遺跡が邪馬壹国を彷彿させるに十分な広さがあったからだと思いました。
ほとぼりが冷めた頃に、訪れました。折角、遠くまで行ったのに、がっかりしました。
吉野ヶ里は、あまりにも狭かったからです。帰ってから、吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を調べました。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page630.html
これらの遺跡は、精しくは調べていませんが、吉野ヶ里遺跡と何等かの関係はあったと思いますが、邪馬壹国ではないと思いました。 中国人のお墓だと思われるものが、見つかっています。
魏志倭人伝には、邪馬壹国は七万戸とあります。吉野ヶ里遺跡の周辺の遺跡を合わせますと、これぐらいの人口を養うことが出来ますが、吉野ヶ里遺跡だけでは、無理だと思いました。
七万戸には、何人の人間が住んでいたのかを知るつもりになっています。
〔崇神天皇は、享年168才となっていますが、60年を差し引いた108才が本当の享年だという一覧表です〕と書きました。
これは、魏志倭人伝ではなくて、どうやら、日本書紀に書いてあった記事から、計算されたものです。
日本書紀は、720年に完成したことになっています。 今でこそ、168才と書けば、誰も相手にしません。この時に、崇神天皇は、享年168才となっていますが、100才以上の人が、全くいなかったら、日本書紀は、誰にも信用されなかったでしょう。日本書紀は、現在でも、読める人は、歴史を勉強している人でも、一人もいないのですから、720年当時は、読める人は、殆どいなかったと思います。それにしても、中国人で一杯でしたから、500人ぐらいの人は、読むことが出来たでしょう。
日本書紀の中で、素人でもおかしいとすぐわかる箇所が、崇神天皇の享年168才でしょう。
崇神天皇一人ではありません。9人もの、享年を60年ごまかした日本書紀の編集者は、怪しまれずに済んだのでしょうか。
少しは、変だと思う人もいたでしょうが、延々と、現在までの日本人を誤魔化せたということは、いくつかと要因があったと考えるしかないでしょう。
要因その1は、当時は、168才は無理としても、120才ぐらいの人は、大勢いたと考えるしかないと思います。
ここ数年、日本人の寿命は、年々伸びています。100才を超える人が増えてきました。
後、10年もしますと、110才を超える人は、増えるのではと考えています。
次回は、要因その2を書いて見ます。
歴史各論 三角縁神獣鏡(99) 魏志倭人伝(50) 邪馬壹国は、何所に(46)邪馬壹国(5) [三角縁神獣鏡]
神武天皇は、初代天皇とされています。いや、そのような天皇はいなかったと説明している歴史家が居られます。その証拠として、10代天皇とされている崇神天皇が、初代天皇だと説を唱えておられる方が居られます。
本当は、お一人ずつ、本名を書いて、どこがいけないのか、論破しなければなりませんが、お一人に1年かかったとします。100人居られますと、論破するのに、100年かかります。
従いまして、どの学者が間違っておられるかを指摘しても意味がありません。
お一人だけ、例を挙げて書いて見ようと思います。
ウィキペディアの崇神天皇の所をご覧ください。
この記事を書かれた方の名前は、書いてありません。私のブログと同じです。全く無責任極まる事例です。
署名なしを非難しておきながら、署名しない私が以下の事を書くのは、矛盾していますが、私の疑問とする部分を書いて見ます。
先ず、はじめからの9行です。
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日) - 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。
崇神天皇の所は、数人の方が、討論しながら、得られた結論かもしれません。
一番おかしな部分は、太い文字で書かれている 「現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇である」の部分です。誰がこのようなことを認めたのでしょう。私は、はじめに書きました数人の方が認められたのではないかと考えます。とすれば、この9行の文章は、意味が無くなります。
上4行は、『古事記』『日本書紀』に書いてあることから、現代日本の学術上、証明されるということでしょうか。
和風諡号は
①『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と書いてある。
②『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)です。
①②の事から、現代日本の学術上から言えることは、崇神天皇が、初代天皇であると云ってもいいだろうという感触が得られます。
この後、いっぱいの記事がありますが、スクロールして、8 関連項目 に移動してください。
1:神武天皇前660-前585 / 2:綏靖天皇前581-前549 / 3:安寧天皇前549-前511 / 4:懿徳天皇前510-前477 / 5:孝昭天皇前475-前393 / 6:孝安天皇前392-前291 / 7:孝霊天皇前290-前215 / 8:孝元天皇前214-前158 / 9:開化天皇前158-前98 / 10:崇神天皇前97-前30 /・・・・
この記事はどういうことでしょうか。
神武天皇は、前660-前585 まで生きて居られたということでしょうか。天皇の在位期間でしょうか。
このような話は、素人でも、誰も認めないと思います。ここに書いてある数字は、日本書紀に書いてある数字を現在の表記の仕方に修正したものだと思われます。
と云うことは、ウィキペディアの崇神天皇の所を書かれた方は、日本書紀に書いてあることを信用して、日本書紀の歴史を考えようとしておられることが分かります。
田村誠一氏は、『日本書紀は神話にすぎない』という文章を書いておられます。まだ、全部掲載していませんが、ゆっくり読んでください。
【おかしな世の中】という私のブログに、田村氏が作られた「歴代天皇家年表」を掲載しています。コピーして、ゆっくり眺めてください。天皇家で、長生きされた天皇の小生さ
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-868.html
崇神天皇は、享年168才となっていますが、60年を差し引いた108才が本当の享年だという一覧表です。残念ながら、拍手をされた方は、お一人でした。その他の方は、この表の意味が判らなかったか、こんなバカなと思われたか、どちらかだと思います。
2000年前に、崇神天皇が108年も生きられたのか、信じられないと思われる方が殆どだと思います。
医学が発達していなかったから、この頃は、108才まで生きたと考えられます。
70年ほど前は、60才ぐらいで死んでいた人々が、医学が発達したから、最近は、110才まで生きれる様になりましたと考える人が普通の人ですが、私は、それは間違いだろうと考えています。
その証拠を知るには、110才~110才の方に、どのような人生を送ったか。例えば、どのような食事をして来たか。どのような仕事をして来たか。どのような遊びをしてきたか。どのような勉強をしたか。 結婚をしたか。今でも、夫婦二人で生活をしているか。
だれかに助けてもらいましたか。 一番楽しかった思い出はなんですか。
最後に、長生きをしてよかったか。まだ、長生きをしたいと思いますか。
全部質問してください。
長生きの条件が、浮かびあがってくると思います。
最近は、長生きしたくない人は、自殺をされます。ここ8年間、長生きしたくない人の自殺が増え続いています。一年に、30000人を超えていると思います。
神武天皇は、紀元前52年の誕生で、崩御は、紀元後、25年です。日本書紀のデーターに拠りますと、享年、137年ですが、実際の享年は 77才だったという年表です。
神武天皇は、古事記に拠れば、16年間も、戦争を続けて、柏原に宮城を建てたことになっています。
これは、西暦紀元元年の事です。今日は、2012年ですから、2012年前に、神武天皇は、始めて、日本を治めたことになります。
西暦元年という数字がハッキリしましたので、崇神天皇の五年も、ハッキリすることになります。と云うことは、神武天皇から開化天皇までは、実在した天皇であることが、立証できることになります。
ストレスの多かった神武天皇でも、108年も生きられたということは、一般の人民は、110才ほど生きていたと考えても良いことになります。
長生きをしていた古代史は、バラ色の時代だったと思います。
本当は、お一人ずつ、本名を書いて、どこがいけないのか、論破しなければなりませんが、お一人に1年かかったとします。100人居られますと、論破するのに、100年かかります。
従いまして、どの学者が間違っておられるかを指摘しても意味がありません。
お一人だけ、例を挙げて書いて見ようと思います。
ウィキペディアの崇神天皇の所をご覧ください。
この記事を書かれた方の名前は、書いてありません。私のブログと同じです。全く無責任極まる事例です。
署名なしを非難しておきながら、署名しない私が以下の事を書くのは、矛盾していますが、私の疑問とする部分を書いて見ます。
先ず、はじめからの9行です。
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇10年(紀元前148年) - 崇神天皇68年12月5日(紀元前29年1月9日))は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日(紀元前97年2月17日) - 同68年12月5日(紀元前29年1月9日))。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。
崇神天皇の所は、数人の方が、討論しながら、得られた結論かもしれません。
一番おかしな部分は、太い文字で書かれている 「現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇である」の部分です。誰がこのようなことを認めたのでしょう。私は、はじめに書きました数人の方が認められたのではないかと考えます。とすれば、この9行の文章は、意味が無くなります。
上4行は、『古事記』『日本書紀』に書いてあることから、現代日本の学術上、証明されるということでしょうか。
和風諡号は
①『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と書いてある。
②『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)です。
①②の事から、現代日本の学術上から言えることは、崇神天皇が、初代天皇であると云ってもいいだろうという感触が得られます。
この後、いっぱいの記事がありますが、スクロールして、8 関連項目 に移動してください。
1:神武天皇前660-前585 / 2:綏靖天皇前581-前549 / 3:安寧天皇前549-前511 / 4:懿徳天皇前510-前477 / 5:孝昭天皇前475-前393 / 6:孝安天皇前392-前291 / 7:孝霊天皇前290-前215 / 8:孝元天皇前214-前158 / 9:開化天皇前158-前98 / 10:崇神天皇前97-前30 /・・・・
この記事はどういうことでしょうか。
神武天皇は、前660-前585 まで生きて居られたということでしょうか。天皇の在位期間でしょうか。
このような話は、素人でも、誰も認めないと思います。ここに書いてある数字は、日本書紀に書いてある数字を現在の表記の仕方に修正したものだと思われます。
と云うことは、ウィキペディアの崇神天皇の所を書かれた方は、日本書紀に書いてあることを信用して、日本書紀の歴史を考えようとしておられることが分かります。
田村誠一氏は、『日本書紀は神話にすぎない』という文章を書いておられます。まだ、全部掲載していませんが、ゆっくり読んでください。
【おかしな世の中】という私のブログに、田村氏が作られた「歴代天皇家年表」を掲載しています。コピーして、ゆっくり眺めてください。天皇家で、長生きされた天皇の小生さ
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-868.html
崇神天皇は、享年168才となっていますが、60年を差し引いた108才が本当の享年だという一覧表です。残念ながら、拍手をされた方は、お一人でした。その他の方は、この表の意味が判らなかったか、こんなバカなと思われたか、どちらかだと思います。
2000年前に、崇神天皇が108年も生きられたのか、信じられないと思われる方が殆どだと思います。
医学が発達していなかったから、この頃は、108才まで生きたと考えられます。
70年ほど前は、60才ぐらいで死んでいた人々が、医学が発達したから、最近は、110才まで生きれる様になりましたと考える人が普通の人ですが、私は、それは間違いだろうと考えています。
その証拠を知るには、110才~110才の方に、どのような人生を送ったか。例えば、どのような食事をして来たか。どのような仕事をして来たか。どのような遊びをしてきたか。どのような勉強をしたか。 結婚をしたか。今でも、夫婦二人で生活をしているか。
だれかに助けてもらいましたか。 一番楽しかった思い出はなんですか。
最後に、長生きをしてよかったか。まだ、長生きをしたいと思いますか。
全部質問してください。
長生きの条件が、浮かびあがってくると思います。
最近は、長生きしたくない人は、自殺をされます。ここ8年間、長生きしたくない人の自殺が増え続いています。一年に、30000人を超えていると思います。
神武天皇は、紀元前52年の誕生で、崩御は、紀元後、25年です。日本書紀のデーターに拠りますと、享年、137年ですが、実際の享年は 77才だったという年表です。
神武天皇は、古事記に拠れば、16年間も、戦争を続けて、柏原に宮城を建てたことになっています。
これは、西暦紀元元年の事です。今日は、2012年ですから、2012年前に、神武天皇は、始めて、日本を治めたことになります。
西暦元年という数字がハッキリしましたので、崇神天皇の五年も、ハッキリすることになります。と云うことは、神武天皇から開化天皇までは、実在した天皇であることが、立証できることになります。
ストレスの多かった神武天皇でも、108年も生きられたということは、一般の人民は、110才ほど生きていたと考えても良いことになります。
長生きをしていた古代史は、バラ色の時代だったと思います。
歴史各論 三角縁神獣鏡(98) 魏志倭人伝(49) 邪馬壹国は、何所に(45)邪馬壹国(4) [三角縁神獣鏡]
魏志倭人伝には、末羅国から始まって、邪馬壹国まで沢山の国が書いてあります。その国を治めていた長官と副官の名前が書いてあります。名前なのか、職種なのか判りませんが、誰一人として、このことについて書いておられる方はありません。そして、外には国の人口が書いてあります。少ない方は、伊都国は千余戸、不弥国の千余家、多いところは、奴国の二万戸、投馬国の五万戸、邪馬壹国の七万戸です。
伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です。不弥国の方は、建っている家の数です。伊都国は千余戸の方は、世帯数です。建っている家の数は、だれでも、数えればいいことになります。戸数の方は、どうしてわかったのでしょう。
外の所にも、目を向けます。
奴国の長官は、兜馬觚 副官は卑奴母離です。兜馬觚は中国人でしょうか。卑奴母離は、奴国の守でしょうか。そこに「卑」が付いています。中国人でないことを著しているのでしょうか。卑弥呼の「卑」と同じです。外に、「卑」の付く名前は、対馬国の卑狗と卑奴母離、一大国の卑狗と卑奴母離です。
この名前を書いたのは、魏志倭人伝の作者の陳寿ですが、報告を受けたのは、卑弥呼の使いとして中国へ行った難升米から報告を受けたのではないでしょうか。
このようなことなども考えますと、難升米は、卑弥呼の家来ではなく、卑弥呼を捕えて捕虜にしていた説の補強になります。
千余戸ぐらいですと、調べるのは、難しくはありませんが、七万戸となりますと、どの様にしてしらべたのだろうと、この辺りですでに、疑問がわきます。しかし、七万戸は、七千戸の書き間違いであろうとは云わないで、全て正しいであるということで、検証をすべきだと思われます。
七万戸とは、一軒の家の中で、家族全員が住んでいるとして、七万家あるということでしょうか。そうではない様に思われます。
先ほど、書きました〔伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です〕で、若し、「戸」と「家」が同じものであれば、かき分ける必要はありません。別に書いたということは、「戸」の方は、大きな家族で会っても、小さな家族集団であっても、一戸は、一戸であると思われます。
吉野ヶ里遺跡では、いろいろの建物が復元されていました。生活を主体とする建物として、竪穴住居が復元されていましたが、住むには、十五人が限度でしょうか。
この一戸を表す建物は、復元してなかったように思います。例えば、二軒で一戸と分る。又は、三軒で一戸というような復元の仕方です。
伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です。不弥国の方は、建っている家の数です。伊都国は千余戸の方は、世帯数です。建っている家の数は、だれでも、数えればいいことになります。戸数の方は、どうしてわかったのでしょう。
外の所にも、目を向けます。
奴国の長官は、兜馬觚 副官は卑奴母離です。兜馬觚は中国人でしょうか。卑奴母離は、奴国の守でしょうか。そこに「卑」が付いています。中国人でないことを著しているのでしょうか。卑弥呼の「卑」と同じです。外に、「卑」の付く名前は、対馬国の卑狗と卑奴母離、一大国の卑狗と卑奴母離です。
この名前を書いたのは、魏志倭人伝の作者の陳寿ですが、報告を受けたのは、卑弥呼の使いとして中国へ行った難升米から報告を受けたのではないでしょうか。
このようなことなども考えますと、難升米は、卑弥呼の家来ではなく、卑弥呼を捕えて捕虜にしていた説の補強になります。
千余戸ぐらいですと、調べるのは、難しくはありませんが、七万戸となりますと、どの様にしてしらべたのだろうと、この辺りですでに、疑問がわきます。しかし、七万戸は、七千戸の書き間違いであろうとは云わないで、全て正しいであるということで、検証をすべきだと思われます。
七万戸とは、一軒の家の中で、家族全員が住んでいるとして、七万家あるということでしょうか。そうではない様に思われます。
先ほど、書きました〔伊都国と不弥国を較べてください。千余戸と千余家です〕で、若し、「戸」と「家」が同じものであれば、かき分ける必要はありません。別に書いたということは、「戸」の方は、大きな家族で会っても、小さな家族集団であっても、一戸は、一戸であると思われます。
吉野ヶ里遺跡では、いろいろの建物が復元されていました。生活を主体とする建物として、竪穴住居が復元されていましたが、住むには、十五人が限度でしょうか。
この一戸を表す建物は、復元してなかったように思います。例えば、二軒で一戸と分る。又は、三軒で一戸というような復元の仕方です。
歴史各論 三角縁神獣鏡(97) 魏志倭人伝(48) 邪馬壹国は、何所に(44)邪馬壹国(3) [三角縁神獣鏡]
投馬国の一回目の時に書きました。ここは、5万戸だと魏志倭人伝は記していることを。
人口に直すと、55万人です。これほど多いと、九州に投馬国や邪馬壹国があると云われた方は、説明が出来ませんから、無視されている方が殆どです。
邪馬壹国は、7万戸です。投馬国の時は、何故多かったかは、証拠がありませんでしたから、苗族の人を神武天皇が入植させたからだと簡単に書きました。しかし、7万戸となりますと、77万人です。
このような人口を有する町は、東京近辺でしたら、ザラにあるでしょう。
私の町は、131,450人です。30000人になったので、市制が開かれたのが、1956年です。56年たっても、4倍の13万人です。隣の豊中市は、1985年までは増え続けてきましたが、現在は、減少傾向にあり、389,341人です。
両市とも、家がびっしりと建っています。しかし、大阪府では、緑の多い方です。どの家でも、狭いながらも、小さな庭を持っています。地図で見ますと、広大な面積です。
我が箕面市では、まだ、米も野菜も作られていますが、131,450人の人口のお腹を満たす食糧は確保されていません。それどころか、先日、家内のお供をしてスーパーへ行き、野菜のコーナーで商品を眺めていましたら、野菜の産地が、すべて印字されていました。四国や九州から運ばれていました。
投馬国の55万人を養おうとしますと、どれほどの面積が必要なのかは、計算していませんが、福岡に邪馬台国があるとされておられる歴史家は、邪馬台国が存在するに必要な面積を計算それるべきだと思います。
紀元元年頃の1戸を形成する家族数は、10人ぐらいでしょうか。そんなに多くないだろうと思われるでしょう。何を根拠にそう思われますか。6人に減らしても、42万人です。
この数字を誰が調べたかと云いますと、難升米ではないかと思います。
投馬国と邪馬壹国、そして、これらの国を守る軍隊は、狗奴国にいました。一番警戒が強い国を調べるには、相当困難が伴ったと思います。 これらの国の面積など分りませんから、一部を調べて、何倍かするのではなく、歩いて調べたと思われます。
不思議なことに、考古学が盛んになりましたが、古代には、家族は何人ぐらいであったかを考えた方は居られません。本当は、居られるのでしょうが、私が知らないだけかも知れません。
次回は、私がどのように推察して人口を出したかを書いて見ます。
人口に直すと、55万人です。これほど多いと、九州に投馬国や邪馬壹国があると云われた方は、説明が出来ませんから、無視されている方が殆どです。
邪馬壹国は、7万戸です。投馬国の時は、何故多かったかは、証拠がありませんでしたから、苗族の人を神武天皇が入植させたからだと簡単に書きました。しかし、7万戸となりますと、77万人です。
このような人口を有する町は、東京近辺でしたら、ザラにあるでしょう。
私の町は、131,450人です。30000人になったので、市制が開かれたのが、1956年です。56年たっても、4倍の13万人です。隣の豊中市は、1985年までは増え続けてきましたが、現在は、減少傾向にあり、389,341人です。
両市とも、家がびっしりと建っています。しかし、大阪府では、緑の多い方です。どの家でも、狭いながらも、小さな庭を持っています。地図で見ますと、広大な面積です。
我が箕面市では、まだ、米も野菜も作られていますが、131,450人の人口のお腹を満たす食糧は確保されていません。それどころか、先日、家内のお供をしてスーパーへ行き、野菜のコーナーで商品を眺めていましたら、野菜の産地が、すべて印字されていました。四国や九州から運ばれていました。
投馬国の55万人を養おうとしますと、どれほどの面積が必要なのかは、計算していませんが、福岡に邪馬台国があるとされておられる歴史家は、邪馬台国が存在するに必要な面積を計算それるべきだと思います。
紀元元年頃の1戸を形成する家族数は、10人ぐらいでしょうか。そんなに多くないだろうと思われるでしょう。何を根拠にそう思われますか。6人に減らしても、42万人です。
この数字を誰が調べたかと云いますと、難升米ではないかと思います。
投馬国と邪馬壹国、そして、これらの国を守る軍隊は、狗奴国にいました。一番警戒が強い国を調べるには、相当困難が伴ったと思います。 これらの国の面積など分りませんから、一部を調べて、何倍かするのではなく、歩いて調べたと思われます。
不思議なことに、考古学が盛んになりましたが、古代には、家族は何人ぐらいであったかを考えた方は居られません。本当は、居られるのでしょうが、私が知らないだけかも知れません。
次回は、私がどのように推察して人口を出したかを書いて見ます。
歴史各論 三角縁神獣鏡(96) 魏志倭人伝(47) 邪馬壹国は、何所に(43)邪馬壹国(2) [三角縁神獣鏡]
前回に書きましたように、以下、田村誠一氏の田村誠一氏著 『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の116頁にある 【邪馬台国は夜麻登国】のコピーを記ます。
末廬国の南で、水行十日陸行一ヶ月の所に女王がいる邪馬台国があると書かれています。奴国から伯耆街道を一ヶ月かかって津山盆地に達します。ここから吉井川を高瀬舟で十日かかって下れば備前の国で邪馬台国と書かれ人口は七万戸もありました。
ここは古事記で黒姫がおられた所で、仁徳天皇が黒姫を慕って皇后に内緒で訪れました。
この時、黒姫が詠まれた歌に、この国が夜麻登として登場します。
邪馬台国は夜麻登国に下卑な当て字をしていました。当て字だから邪馬台国をヤマタイ国と読むのは間違いで、邪馬壹国が正式だと議論するのも問題の解決になりません。
郡から邪馬台国まで万二千里で、郡とは韓国の帯方郡のことです。起点が韓国なら、ここからの距離は韓国の単位で測るべきで、八四〇キロに相当します。この直線距離をどうして測ったかを考えることです。この能力があれば方角や距離は正確な筈です。
邪馬台国の東、海を越えて千里の所に倭種すなはち倭人が住んでいた
魏志倭人伝に書いてある通りの所に、邪馬壹国があります。 田村氏は、〔起点が韓国なら、・・・・・・・・この能力があれば方角や距離は正確な筈です。〕と、軽く書いておられます。
魏志倭人伝では、どこそこの方角が、間違っているとか、距離をオーバーに書いたとか、自分で訂正されているのを、軽く戒めておられます。
末廬国の南で、水行十日陸行一ヶ月の所に女王がいる邪馬台国があると書かれています。奴国から伯耆街道を一ヶ月かかって津山盆地に達します。ここから吉井川を高瀬舟で十日かかって下れば備前の国で邪馬台国と書かれ人口は七万戸もありました。
ここは古事記で黒姫がおられた所で、仁徳天皇が黒姫を慕って皇后に内緒で訪れました。
この時、黒姫が詠まれた歌に、この国が夜麻登として登場します。
邪馬台国は夜麻登国に下卑な当て字をしていました。当て字だから邪馬台国をヤマタイ国と読むのは間違いで、邪馬壹国が正式だと議論するのも問題の解決になりません。
郡から邪馬台国まで万二千里で、郡とは韓国の帯方郡のことです。起点が韓国なら、ここからの距離は韓国の単位で測るべきで、八四〇キロに相当します。この直線距離をどうして測ったかを考えることです。この能力があれば方角や距離は正確な筈です。
邪馬台国の東、海を越えて千里の所に倭種すなはち倭人が住んでいた
魏志倭人伝に書いてある通りの所に、邪馬壹国があります。 田村氏は、〔起点が韓国なら、・・・・・・・・この能力があれば方角や距離は正確な筈です。〕と、軽く書いておられます。
魏志倭人伝では、どこそこの方角が、間違っているとか、距離をオーバーに書いたとか、自分で訂正されているのを、軽く戒めておられます。
歴史各論 三角縁神獣鏡(95) 魏志倭人伝(46) 邪馬壹国は、何所に(42)邪馬壹国 [三角縁神獣鏡]
今日から邪馬壹国です。田村誠一氏は、私の様にクダクダと書かないで、どの国も、一ページで収まるように書かれました。
前回の投馬国は、その一ページをそのまま、コピーして紹介しました。
もう一度、ご覧ください。
歴史各論 三角縁神獣鏡(90) 魏志倭人伝(41) 邪馬壹国は、何所に(37)投馬国
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-07
田村氏は、投馬国が、どうして、人口が多いかの理由を次の様に書かれました。
吉備に八年駐留して苗族を入植させました。このため投馬国の戸数は五万戸に達していました。当時は若夫婦も一緒に暮らしていたので人口は五十五万人は遥かに超えていたことになります。
前の部分は、許せても、後ろの「人口は五十五万人は遥かに超えていた」は、どなたも、なんと馬鹿なと思われたでしょう。
この部分は、歴史家の頭では、書くことの出来ない部分だと思います。
投馬国に関しては、抜群の考え方だと思います。そこで、邪馬壹国のところでも、田村氏の書籍からコピーをして見て頂こうと思っています。
次回にします。
前回の投馬国は、その一ページをそのまま、コピーして紹介しました。
もう一度、ご覧ください。
歴史各論 三角縁神獣鏡(90) 魏志倭人伝(41) 邪馬壹国は、何所に(37)投馬国
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-03-07
田村氏は、投馬国が、どうして、人口が多いかの理由を次の様に書かれました。
吉備に八年駐留して苗族を入植させました。このため投馬国の戸数は五万戸に達していました。当時は若夫婦も一緒に暮らしていたので人口は五十五万人は遥かに超えていたことになります。
前の部分は、許せても、後ろの「人口は五十五万人は遥かに超えていた」は、どなたも、なんと馬鹿なと思われたでしょう。
この部分は、歴史家の頭では、書くことの出来ない部分だと思います。
投馬国に関しては、抜群の考え方だと思います。そこで、邪馬壹国のところでも、田村氏の書籍からコピーをして見て頂こうと思っています。
次回にします。
歴史各論 三角縁神獣鏡(94) 魏志倭人伝(45) 邪馬壹国は、何所に(41)投馬国(5) [三角縁神獣鏡]
岡山県の古代史を知るためには、文献は殆ど、役に立ちません。
私の場合は、投馬国も邪馬台国も岡山県にあるとしていますから、このことを立証するためには、ここに、多くの人が住んでいたことを確認しなければなりません。
岡山県には、大型の古墳がこれでもかというほどありますが、こうした古墳は、地元の豪族の墓であると片づけられています。
これでは、歴史になりません。大きな古墳が築かれたということは、余程、住民から尊敬されていたか、恐ろしくて従っていたか を説明しなければいけないと思います。
現在の歴史家が考えておられる歴史では、何も解決できないと思います。古代と寺院が
建設された時代の間には、少し、年月が経ちすぎていますが、仕方がありません。
岡山県にある廃寺をすべて、調べれば何か糸口がつかめるのではないかと、調べ始めました。その成果は、次の所に蓄積するつもりでした。
岡山県の廃寺
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page860.html
結果は、ごらんの通りです。
インターネットでは、資料を見付けることが出来ません。
と云う次第で、中断しています。
ただ、高梁川を挟んで、天皇方と中国人方が、住み分けていたのではとの感触は感じています。
〔岡山県の廃寺〕に記しました廃寺は、10年程前にその地にやって来た人が、お寺を建てたと考えるよりは、その地に、4代ぐらいの人々が、100年ぐらい住んでいて、建てられたと考える方が、無理がないと思います。
そうしますと、大型古墳時代が終了して、小さくなっていった古墳時代とドッキングをすると思われます。
と云うことで、廃寺を調べる時は、その寺の周り2キロ以内にある古墳の特徴は調べる必要があろうかと思います。
投馬国は、今回で終了です。次回は、邪馬壹国のことを書いて見ます。
私の場合は、投馬国も邪馬台国も岡山県にあるとしていますから、このことを立証するためには、ここに、多くの人が住んでいたことを確認しなければなりません。
岡山県には、大型の古墳がこれでもかというほどありますが、こうした古墳は、地元の豪族の墓であると片づけられています。
これでは、歴史になりません。大きな古墳が築かれたということは、余程、住民から尊敬されていたか、恐ろしくて従っていたか を説明しなければいけないと思います。
現在の歴史家が考えておられる歴史では、何も解決できないと思います。古代と寺院が
建設された時代の間には、少し、年月が経ちすぎていますが、仕方がありません。
岡山県にある廃寺をすべて、調べれば何か糸口がつかめるのではないかと、調べ始めました。その成果は、次の所に蓄積するつもりでした。
岡山県の廃寺
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page860.html
結果は、ごらんの通りです。
インターネットでは、資料を見付けることが出来ません。
と云う次第で、中断しています。
ただ、高梁川を挟んで、天皇方と中国人方が、住み分けていたのではとの感触は感じています。
〔岡山県の廃寺〕に記しました廃寺は、10年程前にその地にやって来た人が、お寺を建てたと考えるよりは、その地に、4代ぐらいの人々が、100年ぐらい住んでいて、建てられたと考える方が、無理がないと思います。
そうしますと、大型古墳時代が終了して、小さくなっていった古墳時代とドッキングをすると思われます。
と云うことで、廃寺を調べる時は、その寺の周り2キロ以内にある古墳の特徴は調べる必要があろうかと思います。
投馬国は、今回で終了です。次回は、邪馬壹国のことを書いて見ます。
歴史各論 三角縁神獣鏡(93) 魏志倭人伝(44) 邪馬壹国は、何所に(40)投馬国(4) [三角縁神獣鏡]
邪馬壹国と投馬国が並んであった話は如何でしたか。
邪馬壹国が九州や奈良盆地にあると思って、研究を続けておられる先生方には、100%受け入れられないことだと思います。
邪馬壹国という名前は、日本の歴史書には、残っていないのに、なぜか日本ではあったことは確実とされています。
何故かと云いますと、魏志倭人伝に書いてあるからです。
では、日本の歴史書である古事記、日本書紀、先代舊事本紀 等は、多くの歴史家は、古事記は、偽書であるとされています。先代舊事本は、ウィキペデイに執筆された先生?は、「日本の歴史的書物である。学術的には偽書とされている。ただし、部分的には資料的に価値があるとする見解もある」と誰からもイチャモンを付けられないような記述になっています。
長いこと、誰も認められないようなことを書いてきましたが、同じ事象のことを取上げてあるときに、違うことが書いてありますと、書いた人の考え方が何故違うのか、追求しますと、真実が浮かび上るのではないかと考えています。
前置きが長くなりましたが、歴史の真実を追求するには、これらの書物をいくら分析しても限度があります。
そこで、出来るだけ、いろいろのものから推察する必要があると思います。
鳥取と岡山のことを調べていますと、廃寺が多いなと思いました。
鳥取県の上淀廃寺は、日本では、二つ目の壁画が見つかりました。
歴史家の先生は、当然、法隆寺の方が、古く、上淀廃寺を造ったひとは、法隆寺を参考にして造ったと考えておられるように思います。
上淀廃寺の事は、http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2581213/ この辺りから書き始めています。この廃寺は、天皇家の人たちによって造られたのではないと推理しています。それだけではなく、法隆寺が建てられた以前に建てられていたのではないかと考えています。
このような観点から、投馬国近辺にある廃寺のことを調べたことがあります。
それは、次回にまわそうかと思っています。
邪馬壹国が九州や奈良盆地にあると思って、研究を続けておられる先生方には、100%受け入れられないことだと思います。
邪馬壹国という名前は、日本の歴史書には、残っていないのに、なぜか日本ではあったことは確実とされています。
何故かと云いますと、魏志倭人伝に書いてあるからです。
では、日本の歴史書である古事記、日本書紀、先代舊事本紀 等は、多くの歴史家は、古事記は、偽書であるとされています。先代舊事本は、ウィキペデイに執筆された先生?は、「日本の歴史的書物である。学術的には偽書とされている。ただし、部分的には資料的に価値があるとする見解もある」と誰からもイチャモンを付けられないような記述になっています。
長いこと、誰も認められないようなことを書いてきましたが、同じ事象のことを取上げてあるときに、違うことが書いてありますと、書いた人の考え方が何故違うのか、追求しますと、真実が浮かび上るのではないかと考えています。
前置きが長くなりましたが、歴史の真実を追求するには、これらの書物をいくら分析しても限度があります。
そこで、出来るだけ、いろいろのものから推察する必要があると思います。
鳥取と岡山のことを調べていますと、廃寺が多いなと思いました。
鳥取県の上淀廃寺は、日本では、二つ目の壁画が見つかりました。
歴史家の先生は、当然、法隆寺の方が、古く、上淀廃寺を造ったひとは、法隆寺を参考にして造ったと考えておられるように思います。
上淀廃寺の事は、http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2581213/ この辺りから書き始めています。この廃寺は、天皇家の人たちによって造られたのではないと推理しています。それだけではなく、法隆寺が建てられた以前に建てられていたのではないかと考えています。
このような観点から、投馬国近辺にある廃寺のことを調べたことがあります。
それは、次回にまわそうかと思っています。






