So-net無料ブログ作成
検索選択
古墳から探る歴史 ブログトップ
前の10件 | -

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(141) 壬申の乱(92) [古墳から探る歴史]

 「小さな発見・新しい発見」は、今回でお仕舞いにさせて頂きますと書きました。

申し訳ありませんが、今回の記事を書いたままで、中止にしましたので、今回、投稿させて頂きます。


 田辺昭三氏の仮説は如何でしたか。
 もう一度書きます。
天智朝に至って、にわかに西日本各地に築造された朝鮮式山城については、その築城の意義をいま一度整理してみよう。結論から先にいえば、この山城は日本防衛のために築造されたのではなく、唐がその配下にあった百済の傀儡勢力を利用して構築した軍事施設ではなかったかとする一つの仮説である。
 
 具体的に云いますと、
天智天皇の時に集中して日本書紀に見られる山城は、覚えておられますか。

長門城    天智天皇4年(665年)8月条(築城)
長門城    天智天皇9年(670年)2月条(築城)
屋嶋城    天智天皇6年(667年)11月条(築城)
大野城    天智天皇4年(665年)8月条(築城)
大野城    文武天皇2年 (698年)5月25日条(修造)
基肄城(椽城)天智天皇4年(665年)8月条(築城)
基肄城(椽城)文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
鞠智城    文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
金田城    天智天皇6年(667年)11月条(築城)

 これだけでは済みません。
白村江の戦いの後は、どうなったか、調べることにします。

白村江の戦い ウィキペディアによると
 防衛体制の整備の項目が有ります。
 白村江での敗戦を受け、唐・新羅による日本侵攻を怖れた天智天皇は防衛網の再構築および強化に着手した。百済帰化人の協力の下、対馬や北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海沿いの西日本各地(長門[要曖昧さ回避]、屋嶋城、岡山など)に朝鮮式古代山城の防衛砦を築き、北部九州沿岸には防人(さきもり)を配備した。さらに、667年に天智天皇は都を難波から内陸の近江京へ移し、ここに防衛体制は完成を見た。

 上の見える様に、大宰府の水城(みずき)が有ります。これはどのようなものでしょうか。
この後、水城はどの様な城かを調べるつもりでした。

 おかしいと思ったことは、今は、水がないらしいですね。 深さはあるから防御には役立ちますが、幅は2.5kmでしたか。 この距離ですと、廻れば、幾らでも攻撃できます。

本当に、天智天皇が造らせたのでしょうか。
 何分、私は大阪住まいで遠いですから、確かめようがありません。

お近くの方で、興味ございましたら、教えて下さい。
 netmino@nifty.com で届くと思います。

 有難うございました。


田村誠一氏はどのような人 その2 [古墳から探る歴史]

 前回、田村誠一氏の著書  
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html
を見て頂きました。
 
前回に記しましたように、余りにも常識的に知っている日本の歴史と違いますから、第一話から、順番に読もううと思いましたが、古書店には有りませんでした。ネットではアマゾンが一番利用していましたから、検索しましたら、田村氏の本は、歴史だけではなくて、病気の本も出版されていました。

アマゾンで探して下さい。
https://www.amazon.co.jp/%E7%94%B0%E6%9D%91-%E8%AA%A0%E4%B8%80/e/B00JIBEPMG
 ネットでは、本の資料は掲載してありましたが、「現在、在庫切れ」でした。近くの図書館に行って、コピーしようと思いましたが、見つかりませんでした。どれほど、探したでしょうか。一冊も見つかりませんでした。
 コンピューターで、本のタイトルを入力しますと、全国で蔵書している図書館は記載されていましたが、遠くばかりで諦めました。

本は出版されましたが、世の中から消えた書物とくれば、一番にひらめいたのが、 「古事記」でした。 
 712年作られた古事記は、その後、どうなったか判りませんが、8年後には、古事記に代る日本の正史である「日本書紀」が出来ました。
 その後、400年経って、古事記が見つかったことになっていますが、今では、古事記は、偽書扱いとされ、信用されていません。
 古事記には、本当の歴史が書いてあったので、抹殺し、自分達に都合の良い日本書紀を作ったと考えました。
古事記を頑張って読んできましたら、古事記に書いてあることの方が、日本書紀よりも正しいなと思うようになっています。

田村誠一氏の著書に書かれた本が、日本では、一冊も無くなったと云うことは、書いてあったことが正しかった証拠だと思い、できるだけ購入して、読みました。

 と云うことは、歴史のプロも含めて、日本書紀を信じた人の歴史観は間違っているのでないかと考え、手に入れました本は、コツコツとコピーして、ネットに掲載し、皆さんに読んで頂こうと頑張ってきました。

以下に、保存して居りますから、読んで頂ければと思います。

どの本も難しいですので、私なりに、考えた日本の歴史を書いたのが、今、読んで頂いているペー゛です。
「新しい日本の歴史so」 http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/  です。

3041回も書いてきましたが、みなさんから見はなされてしまいましたので、辞める決心をしました。

長い事、読んでいただきまして、有難うございました。




田村氏の著書は、ネットでは、次の処に掲載しています。

 第一話 神々のふるさと ヒルゼン --めぐりあい
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2007/12/post_4854.html

第二話  地図が解いてくれた倭国と邪馬台国のなぞ
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/10/page2-4099.html

第三話  ヒルゼン古事記 
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/06/2_eff0.html

第四話 西大寺ヤマト
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2008/12/4page-3-2f67.html


第六話 正史だった古事記 はじめに
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/12/6-aeb4.html

十七話 古事記が解いた古代史 まえがき
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2012/04/17-5128.html


十九話  壬申の乱は日唐戦争
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2011/08/19-1a2e.html

真説 建国史
http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/ 

上のアドレスをクリックして、表示されたページをスクロールして、最初のページがトップページです。

129回まで、保存しています。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/archive/c2305582278-1 
129がトップになっています。一番上の左側をクリッリしますと、「前のページ」が表示されます。

このページは多すぎて読みにくいので、次のところに、少しずつ、掲載しています。
帯広発~大阪行 http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/

田村誠一氏の著書
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html

田村誠一氏はどのような人 [古墳から探る歴史]

田村誠一のお名前を知ることになったのは、何時の事かは、随分前で忘れてしまいました。
 次のタイトルの古書をお店で手に入れて以来です。

西暦は日本の建国紀元だった
古事記に真実が書かれていた
燦然と輝いていた古代・総集編

 裏表は、金色の表紙で、輝いていました。
 田村氏が出版された本は、一杯ありますが、歴史関係のものは、次の所にまとめました。
田村誠一氏の著書  
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html 
 多くの研究成果をこのように本の形にされて、「第十九話の壬申の乱は日唐戦争」を書かれました。白村江の戦いの事ではありません。この後に、日本で起こった壬申の乱は日本と唐の戦いだったと云う内容です。
そんなことはありませんね。壬申の乱は、天智天皇が亡くなられた後にありました皇位継承の争いとされています。
 「第十九話の壬申の乱は日唐戦争」は第十八話までの成果を総動員させて書かれた事に成ります。
 日本の歴史を纏められたのが、第二十話 燦然と輝いていた古代に成ります。書き足りなくて、続、追の両書です。
 これらの本を理解して戴くには、どうしても、古事記を理解して戴かなくてはならないと思われたのでしょうか。古事記は、間違って、理解されている様ですので、古事記の解説書として、「平成古事記」の出版となりました。

著書一覧表に記しました発行日は、1989.08.15にしましたが、私が手にした「西暦は日本の建国紀元だった  燦然と輝いていた古代・総集編」は、平成12年4月29日に成っていました。
 この本の302pには、第一から第二十話までのタイトルと発行日が記されていました。

303ページは、欄外のページ数は記載されず、
 「ホケノ山古墳は三世紀前半の謎」とのタイトルで、一ページだけの文章を書いておられます。
その裏面は、

著者略歴と振り込み口座の資料

平成12年4月29日発行
 著者 田村誠一
 住所 大阪市-----2-18
 電話番号 -----192
 定価 2800円(税別) この電話番号は、御自宅の電話番号だったのではと思いました。

 変っているでしょう。この1ページは、次回の本の出版の時に、書かれれば良かったのです。 しかし、「総集編」ですから、おしまいにしようと思われたのでしょう。

 こんな変な編集は見たことが有りません。 きっと、この記事は、大発見だったので、後には廻したく無かったのだと思います。
 田村氏のお人柄がわかりますね。

最も、変わっているのは、タイトルの「西暦は日本の建国紀元だった」
こんなタイトルでしたら、誰も買わないでしょう。

西暦とは、日本人が作ったのではありませんが、誰が作ったか、調べましたが判りませんでした。今は、西暦2018年です。ということは、西暦元年は、今から2018年前です。

 私も真似をして、『西暦元年一月一日は神武天皇の即位の日』とのタイトルで、本を出版しましたが、こんなタイトルでは誰も買ってくれませんでした。30冊も売れたでしょうか。
 
 私は田村誠一氏の書かれたことを信じたことに成ります。 
 なぜ、信じて自分までも、本を出版したのかを、回を改めて書いてみます。


閑話をもう一度 [古墳から探る歴史]

 今日は お願いです。
 ブログでは、何度か、田村誠一氏のことを書いたかもしれません。田村氏のことを書いて、田村氏が残された日本の歴史を、覗いて頂ければと思っています。

 その前に、前回かきました大津市の【大津宮遷都】天智称制6年(667) 3月19日 の事です。天智天皇が住んで居られた所は、錦織二丁目でみつかりました近江大津宮錦織遺蹟
 http://www.bell.jp/pancho/travel/oumi/ootunomiya.htm
は、確定していますから、納得出来るのですが、後の八ツの遺跡がどうして、ばらばらに離れていたのでしょうと云う疑問です、
 理由はお解りに成られましたか。

このような疑問を呈した方が居られることも聞いたこともありません。

田村氏は、天智天皇の時代は、征服された中国人に、錦織の遺跡のところに幽閉されていたと著書に書いて居られます。
 それだけであれば、近江大津宮錦織遺蹟の周り一杯、遺蹟が発掘されてもいいですが、9ヶ所に分れて、見付かっています。
確か、この周りは、100ケ所ほど、発掘されたと書いたものを読んで記憶があります。 その100ケ所でなにが発掘されたのか、なにも発掘されなかったかで、随分歴史は変わってきます。
普通は、異物が発掘されなかった時は、公開されないでしょう。 なにもない所を100ケ所も掘ってなにをしていたのだ。 お金はいくらかかったのだとメディアは書くでしょう。

 例えば、弥生時代のものは、一杯出たのですが、7世紀の頃のものは出てなければ、次のような想像もできます。
 そこで、頭の悪い私の推理ですが、天智天皇の家族を初めとして、あらゆる縁者、特に、兵士は、バラバラに住まわせたと考えます。 この部分のことを 日本書紀は、「鼠の移動」として書いたのでしょう。多くの者は殺されたと思いますが、其の時に、天皇の住居として、直径が30cmもある宮殿が造られたと推理します。 この時に使った大工を初めとして、監視・警備を行ったのは、唐によって、滅ぼされた百済の人ではなかったかと考えます。
 
 如何にも遷都した様に、立派な宮殿も造られたのですが、こうした宮殿は、五年後には、壊される事となりました。
 必要無くなりましたから、全て、壊されたた筈ですが、殆どの柱は、抜き取られた跡が残っており、再利用されたと思われます。

天智天皇は、征服された中国人に、錦織の遺跡のところに幽閉されていたと考えられた田村誠一氏は、どのような方なのかを次回に見て頂こうと思っています。





小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(140) 壬申の乱(91) [古墳から探る歴史]

 前回、次のように書きました。

 田辺昭三氏の『よみがえる湖都』には面白い事が書いてありましたが、其の内容には、考えが異なるので、林 博通氏が、『大津京』とタイトルを付けて、態々、出版されたのだと云うことを発見。

田辺昭三氏の『よみがえる湖都』には、林 博通氏とは違うことが書いてあるとは、どういうことかと云いますと、『よみがえる湖都』の152ページに『謎の山城』のタイトルが書かれ、158頁まで続きます。
全部、転記するわけにはいきませんから、 1円ですから、買って下さい。この本は、どこの図書館にもありますから、コピーして読んで下さい。、

山城の築城は、天智天皇の時に集中して日本書紀に見られます。
天智天皇と文武天皇だけを取り出してみます。

長門城    天智天皇4年(665年)8月条(築城)
長門城    天智天皇9年(670年)2月条(築城)
屋嶋城    天智天皇6年(667年)11月条(築城)
大野城    天智天皇4年(665年)8月条(築城)
大野城    文武天皇2年 (698年)5月25日条(修造)
基肄城(椽城)天智天皇4年(665年)8月条(築城)
基肄城(椽城)文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
鞠智城    文武天皇2年(698年)5月25日条(修造)
金田城    天智天皇6年(667年)11月条(築城)
三野城    文武天皇3年(699年)12月4日条(修理)
稲積城        文武天皇3年(699年)12月4日条(修理)
金田城    天智天皇6年(667年)11月条(築城)---対馬

これらのお城を今一度、調べ直す必要が有ります。

次の所に、山城のことを書きましたので、ご覧ください。
 ①日本書紀が書いた本当の話  城造り
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/3e7872fcdf11aa4226e7762b8e1e674e

②日本書紀が書いた本当の話  城造り その2
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/d8f17e1aa370d2b3b1106505c19725f6

 ③日本書紀が書かなかったお城の話  城造り その3
http://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/9141afa4a3035e639cbdb4b2fb2e59f9
田辺昭三氏の『よみがえる湖都』の158ページの最後のページには、次のように書いて居られます。


天智朝に至って、にわかに西日本各地に築造された朝鮮式山城については、その築城の意義をいま一度整理してみよう。結論から先にいえば、この山城は日本防衛のために築造されたのではなく、唐がその配下にあった百済の傀儡勢力を利用して構築した軍事施設ではなかったかとする一つの仮説である。それは、ただちに軍事行動を起こすための実戦的なものというよりは、大和の中央政権を遠まきに包囲することによって、軍事的な圧力を掛ける目的を持った施設だったと思う。各地の山城は、唐や新羅の外来勢力にむかってたのではなく、逆に日本の政治的中枢を包囲し、軍事的・政治的圧力を加えて行くための道具だてであったとかんがえるのである。
 この天智朝にあらわれた朝鮮式山城から、太平洋戦争の敗戦後、たちまち日本書紀各地へ設置された数百におよぶ米軍基地を想起するのは、いささか想像にすぎるであろうか。


 私からの感想 田辺昭三氏がこの文章を書かれた時は、『鬼ノ城』の発掘は、進んで居なかったので、この程度の発想に成りましたが、天智天皇の頃に、この城があったことを知っている人は、僅かだったでしょう。
鬼ノ城に限りますと、中央政権を軍事的な圧力を掛ける目的を持った施設だったとは言えないでしょう。
 
私は九州に上陸した中国人が、逃げる時に籠る城だったと考えます。

 それにしても、駐留軍の話は、もう、戦後70年に成ると云うのに、存在を当り前のように考えている日本人は、本当にお人よしですね。

 幸い、トランプ氏は、お金を出さないのであれば、米軍を引きあげると云ってますから、大統領に成った時は、引きあげて貰えばいいと思います。

 この辺りの文章になれば、脱線かもしれませんが、少なくとも、自衛するように憲法改正は必要です。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(139) 壬申の乱(90) [古墳から探る歴史]

 ①日本書紀の孝徳紀には「鼠」を含む文章が五回出ています。
 ②大津宮に関連する言葉を天智天皇の時代に多かった所を見て頂きました。

 他の天皇の書かれている記述は確認していませんので、断定出来ませんが、日本書紀の作者は、大津京という言葉は使わない代わりに、このような記事を書く事によって、大津京が、天智天皇の時代に存在したことを浮かびあがるようにしたのではないかと疑っています。
 このことを現在の学門を使って証明しようとされた人が江戸時代から一杯登場されました。
 『大津京の研究をした人一覧』に保存しました。
 http://asilka.blog61.fc2.com/ 
 
ここに掲載しましたものは、林 博通著 さざなみの都 大津京 より拝借しました。一部、自分で調べた資料も付け加えました。

林 博通氏は、多くの研究者の全てを研究された上で、「さざなみの都 大津京」を書かれたのですが、どうやら、タイトルは『大津京』ですが、大津京は無かった様な内容に感じられます。
 この後に、林 博通よりも多いのではないかと思われる程の、著書を参考にして、新しい見解を 「よみがえる湖都」 大津の宮時代を探る 
出版されたのが、田辺 昭三氏です。

 素人の私は、永い間、どちらの本も、似たような内容と思って、所々拾い読みをしていましたが、この書籍の一年後に、林 博通氏が、『大津京』というタイトルで出版されました。
 この本も、「さざなみの都 大津京」と似たようなものと見ていましたが、似たような内容なのに、どうして、林 博通氏が、『大津京』を出版されたのか、気に成りました。

 両書とも、内容が歴史の素人には難しいですね。

田辺昭三氏の『よみがえる湖都』には面白い事が書いてありましたが、其の内容には、考えが異なるので、林 博通氏が、『大津京』とタイトルを付けて、態々、出版されたのだと云うことを発見、三回前の
「小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(136) 壬申の乱(87)」に記しました。

お話が複雑ですので、『よみがえる湖都』を購入してくださいと書きました。
一円でしたので、私は、もう一冊購入しました。古い本には、一杯書き込みをしながら読んで居ます。

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(138) 壬申の乱(89) [古墳から探る歴史]

 日本書紀の作者は、
天智六年(667)、三月一九日の条に、「都を近江に遷す」と記しましたが、大津京を大津に造ったとは、記しませんでした。

日本書紀 天智天皇五年に次の記事が有ります。
それに代るものとして、
「是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國」と記しました。これでは、解らない人がいるのではと、
日本書紀の孝徳紀には「鼠」を含む文章が五回出ています。
①「老人等相謂之日、自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也」  (大化元年冬十二月条)
②「越国之鼠、昼夜相連、向東移去」         (大化二年是歳条)
③「数年鼠向東行、此造柵之兆乎」          (大化三年是歳条)
④「鼠向倭都而遷」               (白雉五年春正月朔条)
⑤「老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也」      (白雉五年十二月条)
 と記録に残しました。

しかし、これだけでは、大津に都を遷した証拠にはなりません。そこで、大津の宮を表現した記事を残しました。

 具体時に、記事を並べてみます。
①群臣を内裏に宴す         天智天皇7年正月壬辰。
②浜台(はまのえてな)の下に、もろもろの魚、水を覆いて至る   天智7年7月
③大蔵に災けり           天智8年12月
④大きに宮門に射る         天智9年正月辛巳
⑤殿の前に進みて、賀正事を奏す   天智10年正月庚子
⑥漏剋を新しき台に置く       天智10年4月辛卯
⑦天皇、西の小殿に御す       天智10年5月辛丑
⑧内裏に於いて、百仏の眼を開けしむ 天智10年10月辛未
⑨内裏の仏殿の南に向い----      天智10年10月庚辰
⑩内裏の西殿の織の仏像の前に在り   天智10年11月丙辰
⑪大蔵省の第三倉より出でたり     天智10年11月丁巳
⑫大炊に八つの鼎有りて鳴る      天智10年是歳
⑬東宮に召して、大殿に引き入る    天武即位前紀

私の考えからしますと、これらの記事を歴史的に残す必要があったのか疑問に思いました。
確かに、内裏という言葉、古代都城の宮城における天皇の私的区域のことですから、天皇が居られたことを日本書紀の作者は確認した上で、このような記事を書き残したと思われます。
 13の文章を書き残したから、大津京が存在したことにはなりません。それで、大津京があったとは書かないで、このような文章を残しましたから、現在の歴史学者は、全員、大津京が有った筈だと考えて、いろいろ論文を発表されました。

 しかし、結論は出ていません。皆さんの論文の一部を拝見していますと、今後の発掘の結果を待ちたいとのコメントが殆どです。

 歴史のプロも素人の歴史好きの人達も、全員、日本書紀を書いた人に騙されたのではないかと疑っています。



日本書紀に騙された証拠を求めて、次の所に資料を作っています。

日本書紀が書いた本当の話  城造りhttp://blog.goo.ne.jp/skeikas/e/3e7872fcdf11aa4226e7762b8e1e674e

小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(137) 壬申の乱(88) [古墳から探る歴史]

前回の記事は、お読みいただいても、お解りにならないだろうなと思っています。少なくとも、大津京に関する歴史の学界は、大混乱の時代だったようです。

 日本書紀の天智六年(667)、三月一九日の条に、「都を近江に遷す」という記事があります。しかし、日本書紀には、大津京という字は使われていません。
日本書紀 天智天皇五年に次の記事が有ります。

是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國

この記事の「是冬、京都之鼠、向近江移」の部分の意味が判りません。 これは私だけではなくて、昔の人も、意味を考えられました。


日本書紀に「鼠」と蔑まれた九州王朝と八面大王説話の真相
http://blogs.yahoo.co.jp/rich036kit/11859448.html
日本書紀岩波版の注は、
「北史巻五・魏本紀」に「是歳二月、・・・群鼠浮河向鄴」とあって、鄴への遷都の兆としている、と述べている。日本書紀の「鼠が移動する」記事は北史に倣った表現をしていると解説している
 他の書物に依れば、中国の歴史資料にも、「鼠」が登場します。

 このように考えてきますと、日本書紀は、中国人によって書かれたのではないかと疑っています。

 そこで、もう少し、日本書紀に、「鼠」の話は無いかと調べましたら、ありました。
日本書紀の孝徳紀には「鼠」を含む文章が五回出ています。
①「老人等相謂之日、自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也」  (大化元年冬十二月条)
②「越国之鼠、昼夜相連、向東移去」         (大化二年是歳条)
③「数年鼠向東行、此造柵之兆乎」          (大化三年是歳条)
④「鼠向倭都而遷」               (白雉五年春正月朔条)
⑤「老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也」      (白雉五年十二月条)

びっくりです。孝徳紀だけで5つもありました。 日本書紀の作者は、どうしても、遷都したことを書きたかったことに成ります。
①は大化元年です。
大化元年とは、
『日本書紀』によれば「天豊財重日足姫天皇の四年を改めて大化元年とす」と記され、皇極天皇4年6月19日(ユリウス暦645年7月17日)の孝徳天皇即位のときから実施された。

これまでは、日本では元号は無かったのですが、始めて使われるようになりました。
私はこの時が、中国に征服されたのだと考えています。

すでにあった天豊財重日足姫天皇の四年を大化元年に改めたと、日本書紀に書き残しています。
ということは、天豊財重日足姫天皇は、中国人のロボットに成られたと考えます。

この時に、中国のやりかたに従って、京域を定めて、日本で、第二の中国帝国を造ろうとしたのではないでしょうか。

 しかし、天智天皇5年になっても、まだ、大津京という名前は、日本書紀には書けなかったのだと思います。
 そこで、

 是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國
の記述に成ったと思われます。








小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(136) 壬申の乱(87) [古墳から探る歴史]

林 博通氏は二冊の [大津京]のタイトルの本を出して居られます。
 ①〔さざなみの都 大津京〕     昭和53年11月15日
 ② 考古学ライブラリー  27 〔大津京〕昭和59年9月20日

 前回、大津京に関する研究者を見て頂きました。
 ①に於いては、林 博通氏は、他の方の研究を列挙して、皆さんは、大津京が有った様に述べておられますが、ご自分は、大津京はなかったような研究を発表して居られます。

所が、6年後に書かれた②でも、他の方の研究を紹介して居られます。 他の皆さんは、大津京があったとは書いてありませんが、あったことを前提にして、崇福寺と梵釈寺が現在の大津の何所にあったかを追求して居られます。

 崇福寺創建の縁起 http://oumijingu.org/publics/index/112/ より記事をお借りしますと

大津京の乾の鎮めとして天智天皇の勅願により創建されたと伝える。『扶桑略記』『今昔物語』などに創建説話が掲載されている。志賀の山寺として、平安時代を通じて多くの都人が往来した志賀越え山中の名所であった。
  波にたぐふ鐘の音こそあはれなれ夕べさびしき志賀の山寺                         藤原良経

 『扶桑略記』によると、天智天皇7年(668)の創建とされる。平安初期には、東大寺・興福寺・薬師寺などと並ぶ十大寺の一つとして朝野の信仰が厚く、弥勒信仰の聖地として繁栄した。その後火災地震等で焼失・倒壊と再建を繰り返しながらも国家的な保護・崇敬が続聖けられていたが、鎌倉初期には園城寺の支院とされ、室町時代には廃絶することになる。
 この事から、崇福寺の位置が判りますと、大津京の位置が判ります。

林 博通氏が、  考古学ライブラリー  27 〔大津京〕昭和59年9月20日
をどうして、『大津京』のタイトルで、2冊目を出版されたのかを知りたくて、考えています。

大津京のことを知りたくて、早くから林 博通氏の二冊の本は、購入して、何度も読んでいましたが、素人には難しい本でした。
  出来るだけ、大津京の事を知りたくて、早くから、次の本を購入して読んでいました。
田辺昭三著 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る 
発行 昭和58年12月01日

 しかし、この本は、大津京の字は、タイトルにありませんから、拾い読みをして、都合の良い所のみ、頭に取り込んでいました。
 ところが、この本の発行日が、発行 昭和58年12月01日でした。

 考古学ライブラリー  27 〔大津京〕昭和59年9月20日

林 博通氏は、田辺昭三氏の 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る の著書を読まれた上で、9ヶ月の後に、 考古学ライブラリー  27 〔大津京〕昭和59年9月20日を出版された事になります。
 
 林 博通氏は、二冊目も又、大津京は無かったような事を記しながら、ズバリ、副題は無くて、『大津京』だけにされたのでしょう。


林 博通氏は、田辺昭三氏に反論を書かれたのだと、考えて、林 博通氏の二冊を読み直しました。
 私の目に入ったものは、「大津京の研究をした人」の記事でした。
林 博通氏は、
 ①〔さざなみの都 大津京〕   に記された研究者のお名前や、研究された事柄は、そのままの記事を ② 考古学ライブラリー  27 〔大津京〕 に掲載して居られました。
 林 博通氏は、田辺昭三著 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る  に対する反論ではなくて、「大津京の研究をした人」の記事をだぶって、上げることに依って、やはり、「大津京」は無かったのだが、やはり、日本書紀には書かれませんでしたが、大津京はあったのだと書かれたのだと判断しました。

 しかし、今日(平成28年9月24日)1時30日に、『大津京』を読み直していましたら、

『大津京』のp140 に於いて、<寺院の役割>のタイトルで、崇福寺は防御の役割を持っていたのではないかとの記事を書き、   p142では、<防御の都大津京>のタイトルで記事を記し、最後のページでは、
次のように書いておられます。
こうみると、近江遷都は、唐、新羅に対する防御対策の一環としての遷都で合ったと考えられ、大津京は防御的色彩の強い都であったと想定されるのである。

この文章で、考古学ライブラリー 27 『大津京』は終わっています。
と云う事で、見事、林  博通氏は、田辺昭三著 『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る に書かれたことに反論された事が判りました。

田辺昭三氏は、『よみがえる湖都』大津の宮時代を探る  の中で、どのように書かれたのかと云いますと、本を購入して戴いて、読んで頂くしかありません。

中古ですと、1円と記されています。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%88%E3%82%8B%E6%B9%96%E9%83%BD%E2%80%95%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E3%81%AE%E5%AE%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-448-%E7%94%B0%E8%BE%BA-%E6%98%AD%E4%B8%89/dp/4140014482

簡単に書きます、白村江の戦いで、日本に勝った唐は、日本を占領して、沢山の山城を自分達の防御の為に、造り、大津に 天智天皇を移動させて、自分達の身を守ろうとしたという歴史のシナリオも考えられると書いただけで、林  博通氏が反論するお話ではありませんでしたが、反論しませんと、それまでの林  博通氏の研究は、無になってしまいます。

 やはり、反論されたのだなと思いながら、書いています。



小さな発見・新しい発見 滋賀県大津市の古墳(135) 壬申の乱(86) [古墳から探る歴史]

 小さな発見をもう一度眺めてみます。

 小さな発見を133と134の二つを見て頂きました。
133では、大津宮に関する建物跡の検出されたのは錦織地域に限られていたことが判ります。
134は、 133で判ったことの補強する為に、錦織地域だけが土地の高低差が少ないことを数字で示されました。
 麓から湖岸までは、現在では、1000m近くありますが、当時は、500m程しかなかったことなどです。
130からは、〔JR湖西線の建設現場からは、見付からなかったことが重要です。大津京には必ず存在する大きな道路は見付かりませんでした〕
 これは 大津京の存在の証しの中で、最も重要である碁盤の目の道路が無かったことを記しています。

 三つの事から、大津京は100%無かったと断定してもいいですが、林 博通氏は 『大津京』というタイトルで本を書かれました。
発行日は昭和59年9月です。
 所が、本全体の雰囲気は、やはり、大津京はあってほしいと云う気持ちが感じられます。

 林 博通氏は、本のタイトルが〔さざなみの都 大津京〕を昭和53年11月に発行して居られます。
この中で、
大津京論争史と題して、当時の他の大津京研究者のことを記して居られます。 その概略をお伝えしようと、現在、準備中ですが、途中までの成果を次の所へ掲載しました。

ブログの名前は、『おかしな世の中』です。
大津京の研究をした人一覧
http://asilka.blog61.fc2.com/
まだ、完成していませんが、ここまで記事を書いてきて、[おかしいな]と思いましたので、この記事を書いています。

 どこか おかしい所が有りますか。読んでいただければと思っています。

前の10件 | - 古墳から探る歴史 ブログトップ