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No328 夏見廃寺と軍事施設 [歴史番外編]

壬申の乱には、多くの疑問点があります。壬申の乱のことは、日本書紀にしか書かれていません。古事記の序文に当たるところには、壬申の乱のことだと思われることが書かれているのに、そのことについて書いた人はおられません。
 私の勉強不足の所為かも知れません。(一度確かめてください) 

日本書記を作ることは、天武天皇が考えられて、古事記も作るように命令されたことになっています。古事記ができて僅か、12年後に完成していますから、古事記は、国内向けで、日本書記は外国向けというように考えられています。
 しかし、それではおかしいところがいっぱいありますので、そこを研究した人によって、古事記は、朝廷が作ったものではなく、偽物である説が有力になっています。

 そこで、日本書記が日本国の正史とされています。壬申の乱の所を読んで頂きますと、そのままでも、少し、脚色するとテレビデラマになるほど詳しく書かれています。

 私はひねくれ者ですから、詳しく書くほどに、書いておかないと誤解を招くと考えて日本書記の作者は、詳しく書いたと考えたくなります。

例えば、大海人皇子は、このままでは、大友皇子にやられてしまうと決心をして吉野を出発したことになっています。
はじめから、大友の皇子をやっつけるのであれば、北へ進路をとり名張、伊賀となります。
逃げるのであれば、和歌山は、または、伊勢神宮を通って、信州だったと思われますが、そうではありません。
 吉野を出発した時は、舎人などの戦力は20人ほどです。女官は10人ほど、馬もなしとなると持ち物も無かったことになります。
 北の進路はおかしいです。
 
余程、名張は安全であったと考えなければなりません。名張の次は、東へ行って、一志町美杉村へ行った方が安全なのに、伊賀へ行っています。
伊賀は、大友皇子のお母さんの故郷です。一番危ないところです。
お母さんは、壬申の乱の後に、ふるさとに帰っています。

 そこで、名張も伊賀も、大海人皇子にとって安全な土地であったのであろうということを調べています。

他のホームページで、次の文章を見つけました。
【壬申の乱探訪名張編】http://sanzan.gozaru.jp/bb/bb60/bb60.html

「この名張の地は、伊勢神宮あるいは斎宮との関連が深く、大来皇女の次に斎王となる当耆皇女(=託基 たきのひめみこ=父・天武 母・宍人臣カジ媛娘)も夏見郷に墾田を持っていたことが伝えられています。また、奈良時代に入りますが、やはり斎王となる酒人内親王が名張郷に栗林持っていたとされています。斎王になる皇女達の御料地としての存在も考えさせられます。
 また、名張の夏見に含まれる地には、伊勢神宮領(多良牟六箇山=たらむむこやま)が広大な面積を持って存在していたことが知られています」

以上です。ここに書かれたことの根拠を探してみましたが、 WEBでは見つけることはできませんでした。
 このことが正しければ、名張の地は伊勢神宮あるいは斎宮との関連があったとみていいと思われます。

関係はあったのですが、その後、勢力を強めるために、天武天皇の菩提を弔うためと称して、天皇家の拠点を作ったのではないかと推理しています。
 
どなたにも、信用されていませんが、群馬県辺りで作られた絹は、質が良かったらしく、新潟、福井、丹後に運ばれて大陸へ輸出されました。大部分は、九州まで運ばれて、やはり中国・ヨーロッパに運ばれたと考えています。このようにいくつかのシルクロードがあったのですが、その一つとして、名張川を利用したルートがあったと思われます。
秩父の絹はどうして運ばれたか】 あたりに書いています。

 地図で、名張のところを探してください。美杉村の上太郎生を通過した名張川は、名張の村に入ってから、180度のカーブを切って、向きを変えています。このような所は、ぶつかった相手は、岩盤のある所です。内側のカーブは、水量が増えるたびに、大洪水となり、川床は増え、肥沃な土地になります。必ず、人が集まって集落を形成します。

 いろいろの面で重要な集落になります。
 夏見廃寺は、高いところに造られています。
地図では高低差は判りませんが、カシミールという地図ソフトによりますと、40mの標高差があることになっています。現在は良く判りませんが、川を航行する船などは、手に取るように判ったと思われます。(高知性集落の役目をしたと考えています)

 この廃寺の近くに、名居神社と宇流富志弥神社の二つの式内社があります。
 次回は、この神社のことを書いてみます。 

No300なぞの猿田彦大神 [歴史番外編]

No299は、如何でしたか? No293 猿田彦大神を祭っていた人たちのタイトルで、
 No292では、阿射加神社に祭られている猿田彦大神のことを書きました。は、この辺りに住んでいた悪い神であると鳥越憲三郎氏は、ご自分の著書『伊勢神宮の原像』の中で説明されています。そのために、天皇の軍隊に、攻撃されて度会の五十鈴の川上に落ち伸びていった。その地は、宇治郷です。ここには、猿田彦大神を祖神とする宇治土公の一族が阿射加から移り住んでいたのです。

鳥越憲三郎氏は、ご自分の著書『伊勢神宮の原像』の中で、素晴らしい分析をされて、阿射加神社に祭られている猿田彦大神は、この神社のある阿坂の地のあたりに住んでいたが、天皇の軍隊に、攻撃されて度会の五十鈴の川上に落ち伸びていったことを書いておられます。
しかし、No299に書きました椿大神社の歴史の中には、皇大神宮の御警衛または御用命に奉仕してきたと書かれており、天皇の軍隊に攻撃されたどころではありません。

 鳥越憲三郎氏は、この論に至るには、『倭姫命世記』に書いてあることを元に、論を進められたことを、記しましたが、『倭姫命世記』は、全く、根拠のないことで、そのようなものは、全く信用できないとされている斎宮歴史博物館の学芸員のことをNo294に書きました。

 このように見てきますと、「なぞの猿田彦大神」ということになります。
だけど、おかしいですね。なぞとされるような猿田彦大神を祀った神社が、日本に、2000社もあり、その総本宮が、椿大神社ですと、由緒書きに書いておられるのです。

 その由緒書きには、なんだか、猿田彦大神は、修験神道の元祖として「行満大明神」が、椿大神社に祭られていて、役行者を導いたと書いてあります。導いて役行者は、どこへ来たのか書いてありませんが、その行満大明神が、椿大神社の神主の山本氏であり、山本氏は猿田彦大神の子孫が、山本氏であるような理解できないことがいっぱい書かれています。

結局、山本氏にしても、鳥越憲三郎氏にしても、斎宮歴史博物館の学芸員も、自分は正しいと言われるものの、よく理解できないことばかりです。
伊勢神宮の近くにある「猿田彦神社」宮司の宇治土公(うじのつちぎみ・うじとこ)氏も、猿田彦大神・大田命の末裔とされていますから、愈々、なぞは深まります。

そこで、私も仮説を書いてみようかと考えています。
猿田彦大神は、最も、古くかかれている所は、古事記です。ニニギ命が高天原から降りてくる時に、天の八衢で、ニニギ命を待っていたことになっています。
その神の様子は、日本書紀の別の本とされる第一書に次のように書かれています。
「一柱の神が天の八街にいて、上は高天原から下は葦原の中国までを照らしています。その鼻の高さは七握、背の高さは七咫あまり、まさに七尋というべきでしょう。また、口の端は明るく光り、目は八咫鏡のようで、照り輝いていることは赤酸鞘漿に似ています」
このことから、この神は、「猿」であるとされたり、「天狗」であるとされていますが、どうして、全国で猿田彦大神を祭るとされている神社が、2000社もあり、そこで、猿や天狗をお祭りしているのか、説明できなければなりせん。
 確かに、顔が赤酸鞘漿のように赤いものとすれば、猿と天狗ぐらいになりますが、鼻が長いとなりますと、天狗に決定します。

日本書記が作られたのは、720年です。この頃には、すでに、全国に猿田彦大神を祭る神社はあったはずですから、祭神の猿田彦大神は、どのような神であったかは、日本書記を書いた人は、解っていたはずです。どうして、第一書にこのようなことを書いたのでしょう。
 その点、古事記は、天の八街で待っていたとのみ、書きました。書いてない分、日本書記は、詳しく書こうとしました。しかし、本当のことは、知らなかったのだと思います。そのようなときは、どこでも、第一書から、多くの別書を掲載していますから、確かめてください。
 これだけ、いろいろの説があると書いてあるから、日本書記の方が、古事記より正しいのだと思われています。

 退屈でしょうが、次回から、私の猿田彦大神論をかきますので、読んでください。


NO48 「石棚古墳-120年前、日本考古学の父ガウランドが見た鹿谷の古墳-」  [歴史番外編]

上記のタイトルで、亀岡市文化資料館で第23回特別展が行われていましたので、訪れました。
備忘録も兼ねて、記しておきます。特殊な古墳の形ですから、いずれ、どこかで役立つと思っています。
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石棚古墳  亀岡市文化資料館 H19.12.09訪問  展示室よりの資料より
第23回特別展「石棚古墳-120年前、日本考古学の父ガウランドが見た鹿谷の古墳-」.
H19.11.03より12.09開催

京都府亀岡市稗田野町鹿谷に存在し、英国の大英博物館が出土遺物を所蔵する「石棚(いしだな)古墳」に関する資料を収集・展示。
http://shigakuorc.nc.otemae.ac.jp/st_chamber/kyoto/tannba/kuwata/5216rokuya1.pdf

約120年前に古墳の形状や出土品を描いた絵図や出土品を英国人の研究者ガウランドが同博物館に持ち帰りました。
ガウランドは、明治の初期から中期にかけて、造幣局の技師として日本へ招聘された人。英国人であるが、冶金学等の本職の傍ら、日本各地の古墳の調査にも携わった。
 確か、展示場の説明では、ガウランドは16年も日本のために、働き、冶金学や考古学を日本人に教えたとありました。
タイトルの石棚古墳は、古墳の奥に棚状の構造を有するもので、西日本のみに150基あまりしか分布しておらず、その半数近くが紀伊に、それに次いで北九州に分布し、大部分が瀬戸内海に分布します。
 京都・亀岡市においては、「鹿谷の古墳」を含めて7基が集中して分布、さらに亀岡周辺の篠山や旧有馬郡を含めると10基が分布しています。紀伊や北九州に次いで分布が多い地域と言えます。

 石棚古墳は、奥壁から水平に突き出す「石棚」と呼ばれる独特の構造を持つ横穴式石室が特徴。瀬戸内海沿岸や北部九州など西日本のみに約150基分布している。
 同町鹿谷の石棚古墳は、明治時代に日本各地の遺跡を訪れ写真などの資料を残した英国人造幣技師ウイリアム・ガウランドが1881年、調査した。石室内を撮影、出土した馬具や須恵器を大英博物館に持ち帰った。 その内の写真だけの展示になります。
 
①拝田古墳16号墳--  所在地、亀岡市千代川町拝田
 位置は、亀岡市の一番北で隣町の八木町との境界にある拝田古墳群の一つ。

拝田古墳16号墳は、全長約35mの前方後円墳であるが、この古墳の横穴石室は3.15×1.mの玄室と幅0.8mの羨道がとりつく両袖式のもので、石棚と高い天井を持っている。
http://www.interq.or.jp/japan/kofun/tofuken/kyouto/kameoka/haida16_2.jpg
http://kofun.fan.coocan.jp/tofuken/kyouto/kameoka/fr_city.htm

②小金岐古墳1号 76,77号墳
写真 http://kofun.fan.coocan.jp/tofuken/kyouto/kameoka/fr_city.htm
 写真 http://kofun.fan.coocan.jp/tofuken/kyouto/kameoka/fr_city.htm

③鹿谷古墳 亀岡市稗田野町, 円(不明), 両袖 石棚, 馬具・須恵器,
 ウランドが見た鹿谷の古墳
 http://shigakuorc.nc.otemae.ac.jp/st_chamber/kyoto/tannba/kuwata/5216rokuya1.pdf

④岩井山3号墳 篠山市小立
  http://www.eonet.ne.jp/~mizui/kofun2.htm
総数10基、急斜面に立地 横穴石室主体、3号で石棚
写真4枚 http://www.interq.or.jp/japan/kofun/tofuken/hyougo/sasayama/sasayama.htm

⑤東仲古墳 三田市末東の東仲古墳
 神戸新聞記事 http://www.kobe-np.co.jp/chiiki/sanda04/1221hs19350.html
  写真   http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/page1086.html

⑥加茂32号墳 三田市加茂。国道176号線から東側の山塊一帯に分布する三田市最大の群集墳。

⑦尼崎学園4号墳
 神戸市(有馬郡 円墳) 両袖 須恵器出土
 構造図
http://shigakuorc.nc.otemae.ac.jp/st_chamber/hyogo/settsu/arima/kobe/inariyamajinnjya.pdf

展示場では、各地の石棚古墳の出土地の写真と出土した須恵器蓋坏、勾玉、耳環、金環、帯金具、馬具、鶏埴輪など展示されていました。


 No47 オセアニア大航海展 [歴史番外編]


 昨日、大阪府・吹田市の国立民族学博物館に行ってきました。「オセアニア大航海展」開催中でした。先日来、九州の宗像大社の沖ノ島に祀られているタキリ姫のことを書いています。沖の島は行ったことがありませんが、インターネットで見ただけでは、このような島には、人は住んでいなかったのではないかと書きました。しかし、昨日、見学をしているうちに、書き直さないといけないのではないかと思っています。その他、いろいろ新たらしいことを、勉強をしてきました。

オセアニアの島々で、人間が入っていない島はないこと。現在住んでいる人たちのルーツは、世界史の常識では、アフリカが人類発の地ですが、その後、時代が下りますと、中国大陸から移動したことが図示されていました。この小さな船が3000kmを公開した舟と思うのですが、それにしても小さい船です。どこかの古墳の壁に、確か、2本の棒を描いた船があったような記憶があります。こんな船が日本にもやってきたのでしょうか?

 内容は、オセアニアの人たちが、これまでどのような歴史を経て現在の生活があるかを民族学の立場から解明し、みなさんに提供しようという企画です。

紀元前の人たちが、行き当たりばったりではなく、星と太陽と海と動物たちが提供してくれるデーターと長年の先祖からの伝承だけで、航海をしていた様子を浮き彫りにしています。わたしの疑問は、なぜ、荷物も積むことができない小さな舟で航海する気になったのか理解できませんが、金がほしい、こしょうがほしい、絹がほしいだけでは解けないものがあることが判りました。
上の写真をクリックしますと、大きくなります。
 僅か、数分見ただけのビデオと購入した展覧会用の冊子の知識から判ったことは、ハワイからタヒチまでは往復していたようですし、ハワイからサタワル、パラオを経由して、現在の航法を使わないで、日本まで航海したホクレア号は、紀元前でも、航海の可能性を実証しています。
 また、別のチェチェメニ号がミクロネシアのサタワルから沖縄まで航海したことも知りました。チェチェメニ号はその後、日本まで来て、現在、常設展示場にあります。このことは、帰宅してから知りましたので、よく観察してきませんでしたので、また、見に行こうと思っています。

民族学博物館の30周年特別展です。近くの方は、一見の価値ありとお勧めします。


歴史番外編No46 河内飛鳥を巡る--通法寺跡 [歴史番外編]

通法寺跡と書きましたように、現在は寺院の一部が残っているだけです。通法寺は壺井八幡宮の南方にあり大阪府富田林市通法寺町と羽曳野市通法寺に見られるように、二つの市に跨って、地名として残っています。

国史跡
壷井に本拠を構えた河内源氏の祖・源頼信が長久4年(1043)、東方の山中で見つけた観音像を祀って小堂を建てたのが始まりという。その後、子の頼義が前九年の役に勝利して凱旋し、当時流行の浄土教に帰依して阿弥陀仏を本尊とする氏寺とし、壷井八幡宮の神宮寺となった。
南北朝期・戦国末期の兵火で再三焼失したが、壷井神社同様、多田義直が柳沢吉保・僧隆光を通じての5代将軍徳川綱吉への奏上で、元禄14年(1701)に再建された。

江戸時代の様子は、『河内名所絵図』(享和元年1801刊)の図でうかがうことができる。

左から二つ目の建物が、本堂です、ここは頼義墓所となっています。三つ目が鐘楼です。建物は残っていますが、鐘はありません。

 明治6年(1873)に廃仏棄釈で廃寺となり、現在は山門、鐘楼、頼義墓所(旧本堂跡)、元禄再建本堂礎石、手水鉢などを残すのみ。
通法寺は壺井八幡宮の南方にあり大阪府富田林市通法寺町と羽曳野市通法寺に見られるように、二つの市に跨って、地名として残っています。
通法寺跡 http://www12.plala.or.jp/HOUJI/shiseki/newpage908.htm 


歴史番外編No45 河内飛鳥を巡る--壷井八幡宮 [歴史番外編]

祭神=応神天皇。平安中期・寛仁四年(1020)に、源頼信が河内国司に任ぜられて、この壷井の地に邸宅を構え、以後代々河内源氏の本拠地となった。頼信の死後、その子頼義・孫義家が前九年の役(1051~1063)に出陣に際し、石清水八幡宮の神霊を奉じて陸奥に向かい、平定できたので、その帰途、康平六年(1063)に鎌倉に鶴岡八幡宮を創祀し、翌年壷井に帰って本邸東側の台地の上にも八幡宮を勧請した。それが創祀と伝えている。
 正面の石段下に「清水壷井」とあり、地名の由来となったという。
西隣の壷井神社(壷井権現)は、源頼信・義家・義光を祭神とし、天仁二年(1109)に義家の五男義時が氏神として創建したという。その時の記念に植樹したのが境内東の樟の大木と伝える。
この社は源氏由縁ということで、平清盛に焼かれ、源頼朝が再興、南北朝の戦火で焼け、足利義満が再興、さらに織田信長に焼き打ちされ、徳川綱吉が元禄14年(1701)に叉々再興。現社殿はその時のものである。これは子孫の多田義直が綱吉に奏請して実現したという。

神奈備http://kamnavi.jp/en/kawati/tuboi8.htm に写真がいっぱいあります。
源氏略系図 http://www.kamakura-burabura.com/jinbutugenjiryakeizu.htm

源氏・平氏のことは、古代史ばかりに目が行っていた私には、驚きでした。源氏とくれば、多田源氏とか、鎌倉の源氏ぐらいで、なに一ツ知りませんでした。
祭神が、應神天皇、神功皇后、仲哀天皇と天皇であるだけに、屋根には鰹木がありましたが、数が少ないのではないかと思いました。
確か、鰹木の下に、葵の紋があったような気がしたのですが、徳川家が再建したからと言って、葵の紋を入れるものでしょうか?  左の千木と二本目の鰹木の間に。金色の丸いものが見えます。葵の紋のように見えましたので、写真に撮ったのですが、うまく写っていません。

この辺り一帯は、渡来人の勢力範囲と思っていましたが、平安中期・寛仁四年(1020)に、源頼信が河内国司に任ぜられていますから、天皇家の支配力が大きくなってきたのでしょうか?
これから勉強しなければならない時代です。


歴史番外編No44 河内飛鳥を巡る-飛鳥戸神社 [歴史番外編]

初めに、レジュメに書かれてある文を記します。

式内名神大社。祭神=コン(王+昆)伎王(昆支、百済の蓋鹵王の弟)。
『日本書記』雄略天皇五年461に記す。軍君(昆支コニシキ)が蓋鹵王(455~475在位)の命で渡来し、帰国後、その一族がこの地に土着して「飛鳥部造アスカベノミヤツコ」の姓を賜り、その祖神として祀ったものと思われる。周囲の地は古墳時代に「飛鳥戸」大化改新後、「飛鳥部評ゴオリ」、和銅六年713以降は「安宿郡アスカベゴオリ」と改められて明治22年まで続く。現在は羽曳野市飛鳥。
平安中期以降に祭神を素戔鳴尊にすり替えられたというが、南北朝期から戦国末期に戦火で社殿焼失して衰退した。
 明治初期に現在地に再建されたが、明治末に壷井八幡宮に合祀。昭和27年に住民の要望で旧地に復し、同35年・36年に境内の石垣なども今見るように整備された。その石材は周辺の上ん田(ウエンダ)古墳群(飛鳥千塚の一部で6世紀ごろの小円墳の群集墳)のものを利用。村中に建つ大きな石鳥居は、元禄十五年(1702)銘を刻む。

  


飛鳥戸神社は、観音塚古墳から300m程、下ったところにありました。新しく建てられた表示塔がありました。遠くに見えている狛犬のところを上がりますと、左手に小さな社があるだけです。式内名神大社ですから、元は大きな神社であったと思われますが、現在は小さな神社です。
 下の写真は、上ん田(ウエンダ)古墳群の小円墳のものを利用とあります。わざわざ古墳に使われていた石を利用されたということは、村の人の心意気が感じられます。自分たちの先祖が渡来人であったという誇りでしょうか?
 この辺り一帯にある飛鳥千塚古墳群は、渡来系の人の古墳と考えられています。
祭神はコン(王+昆)伎王であることは伝承されていましたが、【平安中期以降に祭神を素戔鳴尊にすり替えられたというが、南北朝期から戦国末期に戦火で社殿焼失して衰退した。
 明治初期に現在地に再建されたが、明治末に壷井八幡宮に合祀。昭和27年に住民の要望で旧地に復し、同35年・36年に境内の石垣なども今見るように整備された】と書かれているように、長い間、素戔鳴尊の一族の人に村は支配され、記録には定かではありませんが、何度も戦火で社殿焼失したと思われます。このように書けば、焼けたとしか伝えられませんが、焼かれたのだと思います。当然、村も焼き打ちにあったことになります。
 そして、極、最近になって、小さな社殿ではありますが、壷井八幡宮からこの地に遷されて、35年・36年に境内の石垣が完成しています。勿論、祭神もコン伎王に戻されました。
 日本人は、どこから来たかというようなタイトルの本がありますが、元々住んでいた人は、沖縄と北海道に押しやられ、現在の日本人は、殆どが、外国から渡来したと推察しています。ここのように、祭神を元に戻し、自分たちの先祖は、渡来人であると公開されているところは、珍しいと思うと同時に、素晴らしいことだと思いました。

神社から、大分降ったところに鳥居がありました。鳥居の建てられた月日を確認しませんでしたが、江戸時代のものだと思います。きっと、鳥居のあたりが、神社の入口だったのだと思います。


歴史番外編No43 河内飛鳥を巡る-観音塚古墳 [歴史番外編]

H19.05.27 に快晴に恵まれ、大阪の飛鳥町一帯を歩いてきました。このように書きますと、自分で歩いてきたように聞こえますが、「日本大好き」とタイトルを改めて書き始めNo1 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1102.html
よりNo3で紹介しました先生に連れて行って貰いました。天気はいいですが、初夏とは思えない気持ちのいい一日でした。
 いつもの様に、先生は、4枚からなるレジュメを準備して頂き、それぞれの場所で、レジュメに書かれている以上のことをお話しして頂きました。私には、歩いた距離が多すぎて、最後の方は、夢遊病者のように歩いていたように思います。

 歴史番外編として、訪れたところの資料(レジュメより)を記し、私がなにを考えながら、歩いてきたかを書いてみようと思います。
 書いてあることが、間違っているとか、正しいとかの問題ではなく、次第に日本が、好きになっていく様をくみ取っていただければと思います。そして、できれば、同じコースを歩いて頂き、私と違った日本を発見して頂ければと思います。

観音塚古墳 国史跡
寺山(294m)・鉢伏山(211m)の南・西斜面一帯に造られた飛鳥千塚古墳群の支群の中の円墳。周辺はブドウ畑に蔽われていて、多くの古墳が破壊されて消滅したが、辛うじて保存されている。
塚は径12m、高さ3m。横穴式石室の奥に横口式石棺を造りつけにした構造。前室となる石室は、大小の石英安山岩の切石を巧妙に組合わせて作り、天井の前後の部分は斜めの切り石をわたす。
 石室は長さ2.47m・幅1.44m・高さ1.66m。奥の横口式石棺は内法長さ1.91m・幅0.93m・高さ0.78m。蓋と身石との二つの石で作られ、蓋石の裏側は屋根裏状の凹み部分が
設けてある。
 羨道部は長さ2.27m・幅1.47mで、左右の石各2が残り天井石はない。石室・石槨の入口に扉石をはめたと見られる切込みがある。7世紀全般の築造。

上の写真は、私が撮影したものです。アップしたために、全体の雰囲気が掴めません。羽曳野市のホームページの写真は、次のものです。
http://www.city.habikino.osaka.jp/info/115/bunkazai/iseki/shumatuki/t_s_kannonduka.html
全山ぶどう畑になっています。曳野市のホームページの写真ではその様子がよく判ります。さて、階段は何段登ったでしょう。途中で二度一服しましたから、100段?は登ったと思います。山でいいますと、八合目と言った位置にありました。

私の写真を見てください。石をL字型に切り、組み合わせています。しかも、石と石の隙間が殆ど見ることができません。又、石の表面が完成したときは、すべすべであったのではと思えるほど、平面に加工されています。組み合わせは、あたかもインカの石組を連想させます。曳野市の右側の写真に、石槨の天井が映っていますが、上の隅の部分が、斜めに作られています。所謂、屋根型天井に造られています。また、入口には、きれいに彫られた部分がありますが、この部分には、戸が付けられていたと思われます。
 曳野市のホームページでは、この墓の近くにある千塚古墳一帯を、300mほど下にある飛鳥戸神社の祭神が、百済のコン(王へんに昆)伎王であることから、渡来系氏族であろとしています。
 せめて、観音塚古墳は朝鮮人、奉献塔山古墳は中国人の可能性があるぐらいのことは、言えないのでしょうか? 若し、そうだとしますと、中国人と朝鮮人は仲良く暮らしていたか、すみ分けていたとかいろいろ考えるこしができて楽しいのですが・・・。
 八尾市にも千塚という地名が残っていて沢山の古墳があります。お互いに、共通するところがあるのか、ないのか、考古学者の立場からお話しをお聞きしたいところです。

つくりの精緻さから考えますと、古墳時代末期というのは、妥当なように思いました。



歴史番外編 No42 歴史は楽しむもの [歴史番外編]

日本大好きのNO66から、出雲のことを書き始めました。読んで頂けましたでしょうか?
書き始める時は、出雲のことは、あまり書くことがありませんので、気が進みませんでした。少しでも関連のあることを書き進めていますと、今では、30回を超えることになりました。当たり前のことですが、出雲だけが他の国と離れて存在したわけではありません。
出雲の人は、どこからやってきたのかを、あちこちで書きましたが、伯耆の国にいたスサノオやその一族が出雲にやってきたことを書きました。
 伯耆の国にいた一族は、出雲だけではなく、京都の山城にやってきたことを記しました。
京都のことは、資料が多すぎて、調べたくないところです。しかし、書きましたように、
アジスキ高日子根神は別雷神と名前を変えて、上賀茂神社にまつられ、宇迦之御魂は倉稲魂命に代えられて伏見稲荷神社に祀られています。なぜ、名前を変える必要があったのでしょう。調べると判るかもしれません。
比叡山の麓には、日吉神社(大山咋神)。http://www.genbu.net/data/oumi/hiyosi_title.htm
嵐山には松尾神社(大山咋神) http://www.genbu.net/data/yamasiro/matuo_title.htm
があります。
 京都へ行かれたことはありますか? その時に使われた地図を出してご覧ください。日吉神社、松尾神社、上賀茂神社、伏見稲荷神社、全ての位置を確認してください。そして、最後に、八坂神社の位置を確認してください。八坂神社の祭神はスサノオです。
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/yasaka/
八坂神社のスサノオを中心にして、京都全域をスサノオ一族が支配したことが判ります。勿論、今でも、スサノオの子孫の方が、住んでおられるはずです。
その人たちの最大のお祭りが、祇園祭です。このように眺めてきますと、祇園祭は八坂神社だけの祭りではなく、スサノオ一族の祭りであり、京都市民全体の祭りであることが判ります。
祇園祭は7月1日の「吉符入り」にはじまり、31日の境内摂社「疫神社夏越祓」で幕を閉じるまで、1ヶ月にわたって各種の神事・行事がくり広げられます。
 
まだ、間に合いますから、計画を立てて、一度京都に行かれてはと思い、このページを書きました。私の歴史の見方は、間違っているかもしれませんが、このように考えますと、八坂神社だけではなく、行かれましたら、日吉神社、松尾神社、上賀茂神社、伏見稲荷神社にも足を延ばすことになります。他のところは、またの機会にして、4ヶ所は訪れてください。旅行は二泊して、ゆっくり楽しんで頂ければとおもいます。
 折角、京都の訪問ですから、京料理を楽しんでください。京都の方は、お店に入る前から、気を使っておられます。京都のお店は間口が狭く、奥が深いですから、玄関まで細い道があることが多いです。そこには一寸した庭が作られて、水が打たれたりしているはずです。古い建物は、どことなく安心感を与えてくれます。出される料理の味は、人によって、様々ですから、楽しんで頂ければいいのですが、私は京都の料理は、遊びがいっぱいだなと思います。器一つとっても素敵だなと思うことがあります。素敵だなと思ったら、帰りに、せともの屋さんによって、冷やかして、焼き物の知識を増やしてください。懐に余裕がありましたら、ぜひ買い求めて頂ければ、旅は一層充実すると思います。

 別に、京都や旅行会社のまわし者ではありません。
歴史は楽しむものです。博物館で講演会に参加して、知識を増やすのもいいですが、やはり、楽しむものだと思います。


歴史番外編No41 脱北者漂着 [歴史番外編]

平成19年6月2日午前7時すぎ、青森県深浦町の深浦港付近に、北朝鮮からの脱北者と見られる4人が、小舟に乗って漂着した。舟には小さなエンジンを積んでいた云うものの、日本海を乗り切れるようなものではなかったようにコメントされています。
 4人は5月27日夜、北朝鮮の清津(チョンジン)を出発したらしいです。青森までの距離は850km。5日半の航海になります。対馬海流に乗るまでは、手で漕いだにせよ、エンジンを使ったにせよ、頑張らないと、リマン海流が、大陸の近くを北から南に向かって流れていますから、南に流されてしまいます。清津からどれほどのところで、対馬海流に乗れるのか知りたいところです。
 一年のうちで、霞むことは多いが、一番日本海が穏やかな時期だと新聞は書いています。

なにを言いたいのかと言いますと、私の日本史に対する見方の基本が、紀元前からユダヤ人や中国人・朝鮮人が大陸と日本の間を往復していたということです。日本海を渡った話では、遣隋使や遣唐使は有名です。遣隋使は600年(推古8)~618年(推古26)の18年間に5回以上派遣されています。遣唐使などでは、往復に相当難儀をした事が、判っています。これは船が大きかったからではないでしょうか?  
 今回のように、舟が小さいですと、わずか、6日も要しないで到着しています。今回の航海も楽なものではなかったらしいですが、舟が木ではなく、皮でできた舟であれば、もっと、安心しながら航海出来たのではないかと思います。
 その理由は、古事記に「大國主神が 出雲の御大(ミホ)の御前(ミサキ)に坐す時、波の穗自(ヨリ)天(テン)の羅摩船(カカミフネ)に乘り而(テ)、鵝(ガ)の皮を内剥(ウチハギ)に剥いで、衣服に爲(ナ)して、歸り來る神が有る。ここに其の名を問え雖も答えず。且つ所從う所の諸神に問え雖も、皆、不知と白(モウ)す」という記述があります。やってきた人物は、少名毘古那神であり、神産巣日神(カミムスビヒノカミ)の御子だとあります。神産巣日神は、別天つ神五柱の中の一人です。 

 神産巣日神の子供である少名毘古那神が、海南島に行っており、絹の製造方法や稲作などを、持ち帰ったとしますと、いろいろのことにおいて、説明がつきます。この島は、雲南省の苗族の人たちが、朝鮮や台湾に行くときの拠点になっていたのではないかと思われます。戦前の台湾には、少名毘古那神を祭る神社があったことが判っています。朝鮮半島の南の先端には、ここから移動したと思われる記録が見られます。風俗、習慣が同じと言われています。当時、国の名前は新羅と呼ばれていました。
 雲南省の苗族の人たちは、カヌーの大きいような皮布の舟で、海より危険な河をなん千キロと下って海に出ています。この舟は、転覆しても沈まないと思います。
 海南島や中国の福建省あたりを出発しますと、出雲や丹後に着くのであれば、簡単に日本に来ることができたと思われます。
 朝鮮と日本の間の最も狭いところを通って、北九州に着こうとしますと、相当、強力な人海戦術か、風の力をからないと無理なことは、随分以前に、朝日新聞社が、実験船をだして失敗した例があります。
古代史を考えるときに、目で見える証拠がないと、学問でないような風潮があるように素人には思えてなりません。奈良時代まで待たなくても、また、北朝鮮の人が、自殺用の毒薬を持って渡航したようなことをしなくても、夢をもって絹や水銀をもとめて、古代の人は日本にやってきたと考えてもいいと思います。
少名毘古那神のお話は、神話ではありません。

 脱北者漂着によって、紀元前でも、充分、貿易が可能であることが判りました。 


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