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歴史各論  勾玉(55)  勾玉製造元(44)ヒスイ製勾玉(34) 車輸石 鍬形石 石釧 [日本大好き]

前回、車輸石 鍬形石 石釧を埋葬していた人達とヒスイ製の勾玉を埋葬した人達は、どちらが古い人たち化を書いて見ますとかいたものの、これは少し、無謀だなと感じていましたが、難しいですね。
 でも、違うグループの人たちですし、どちらが古い人達かは、いつかは、解明しなければいけないと思っています。
 少しずつ、挑戦しようかと思います。
 
先ず、車輸石 鍬形石 石釧を沢山持っていたひとのグループです。
 http://www21.atpages.jp/skeikas/page179.html
この中で、特別な古墳は、沖出古墳 嘉穂郡稲築町大字漆生字才木です。九州では、車輸石 鍬形石 石釧がそろっている古墳は、今の處、沖出古墳だけです。全国に沢山有るのですから、沖出古墳が一番古いと仮定しますと、外にも、九州にいっぱいあって、その後、日本各地に広まったことになります。しかし、沖出古墳が一件だとなりますと、逆で、
島の山古墳やメスリ山古墳が、沢山の石釧を出土していますから、こちらから車輸石 鍬形石 石釧を受け取ったと考えるほうが無理がありません。

一方、車輸石 鍬形石 石釧は出土しないが、ヒスイ製勾玉を埋葬した人達は、断然、九州の人が多くて、環濠集落の人達ということになります。
 環濠集落の人たちは、遺跡が巨大です。しかも、敵から責められないように、何重にも濠を作りました。どうして、攻められるのかといいますと、普通は、この頃ですと、金銀鉄製品を持っていたとか、食糧を一杯保管していたことになります。
 「唐古・鍵遺跡」 http://inoues.net/museum/karako_museum2.html では、宝石がいっぱいあったように書いてあります。
 〔弥生の宝石箱と書いておられますが、宝石が保管してあったのではなく、絹の取引をする所であったと考えています。
 吉野ヶ里遺跡では、稲作をしていた証拠がありませんし、稲作をしていても、それを保管しておく、倉庫の跡は、少ないように思います。どちらかといいます、集落の外に倉庫があるような気がします。
 大阪の池上・曽根遺跡は、環濠が浅すぎるように思います。
 これらの環濠集落は、すべて、紀元前からあり、次第に大きくなったのではないでしょうか。
 
 従いまして、年代を較べようがないように思います。
 しかし、それでは、いつまでたっても、どの古墳も、全部、4世紀から6世紀の築造と謂うことになります。
 
 少しずつ考えて見ようと思います。
 ヒスイ製勾玉を持っていた人たちのグループは、
http://www21.atpages.jp/skeikas/page173.html の人たちです。ここでは、環濠集落の人たちに目を向けましたが、〔丸隈山古墳〕を調べて見ます。 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E9%9A%88%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 ここには、次の資料ぐらいしかありません。敢えて言いますと、九州の前方後円墳にしては、全長84.6mで大きいです。

全長84.6m、後円部の直径60m、前方部25m。5世紀前半の首長級の墳墓と推定されている。
玄武岩で作られた横穴式石室と内部の石棺は無料公開されている。国の史跡に指定されている古墳のうち、見学者が石棺を直接見ることができる数少ないものの1つである。

大きい前方後円墳は、古い様に思うのですが、横穴式石室とありますから、ここに書いてある通り、5世紀前半の首長級の墳墓で正しいのかも知れません。丸隈山古墳だけではなく、他の古墳も目を通す必要はありそうです。
 
石室 写真 http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/iseki/markuma.htm があります。板石を積み重ねたものです。これは、朝鮮半島の人のお墓に多い様な気がします。


体調が悪くなり、考えることも、コンピューターに入力することも、出来なくなりました。しばらく、考えることをやめようと思います。 できるようになりましたら、少しずつ書いてみるつもりです。その時は、又、よろしくお願いします。 

歴史各論  勾玉(54)  勾玉製造元(43)ヒスイ製勾玉(33) 車輸石 鍬形石 石釧 [日本大好き]

勾玉の事を調べますと、全国にある膨大な、しかも大型の前方後円墳が、どうして出来たかを知ることが出来るのではないかと、タイトルに歴史各論  勾玉(54) と書き始めまして、54回目になります。
 ガラス製勾玉が出土した古墳を書きならべましたら、
http://www21.atpages.jp/skeikas/page174.html

勾玉の鋳型が、出土しましたから、こうした古墳は、仲間であることが判ります。全体では、
ヒスイ製勾玉が多いので、別に、一覧表を作りました。
http://www21.atpages.jp/skeikas/page173.html

見事に、環濠遺跡が浮上しました。これらの遺跡は、すべて、中国人のものだと考えています。
 毎日、ヒスイ製勾玉ばかりを追いかけていましたら、勾玉が出土しない古墳が気になり出しました。この一覧表も作りました。

 勾玉が出土しなかった古墳 
http://www21.atpages.jp/skeikas/page178.html

まだ6つしか資料はありませんが、④西殿塚古墳---手白香皇女衾田陵を除きますと、沢山、三角縁神獣鏡が出土した古墳の名前が、並びました。
①椿井大塚山古墳
②黒塚古墳
③大和天神山古墳
 この3つの古墳は、備前の湯迫車塚古墳と関係があった古墳です。

上の3つよりも気になったのが、⑤櫛山古墳です。 勾玉が出土しませんでしたが、
石釧107、車輪石105、鍬形石23 が大量に出土しています。

そこで、車輸石 鍬形石 石釧 が出土した古墳の一覧表を作りました。
http://www21.atpages.jp/skeikas/page179.html

①島の山古墳を見た途端に、
No368 邑久郡の古墳
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2006-12-25 のことを思い出しました。 牛窓の古墳を見に行き、次は、丸山古墳へ行こうと、準備をしていたことを書いています。
 丸山古墳や天神山古墳は、中国人の古墳だなと考えていました。
 でも、体力がありませんから、もう行くことはできません。

車輸石 鍬形石 石釧を一杯ため込んだ人と、ヒスイ製勾玉をため込んだ人は、中国人でも、仲間ではなかったのだなと思っています。

次回は、車輸石 鍬形石 石釧 を溜めた人と、ヒスイ製勾玉を持っていた人と、どちらが古い人かを考えて見ようと思います。

歴史各論  勾玉(53)  勾玉製造元(42)ヒスイ製勾玉(32) 阿蘇・凝灰岩 [日本大好き]

このシリーズは、歴史各論にしています。日本史の全体の流れを見るのではなく、勾玉のことを調べますと、勾玉から見た歴史が判るはずだと始めました。

 三種の神器という言葉があります。ウィキペディアに拠りますと、三種の神器とは、
三種の神器(みくさのかむだから、さんしゅのじんぎ)とは、天孫降臨の時に、天照大神から授けられたという鏡・剣・玉を指し、日本の歴代天皇が継承してきた三種の宝物である。
三種の宝物とは、八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣(「草薙剣」)のこと。
 上のことに加えて、次の様に書いてあります。
 天皇の践祚に際し、この神器の内、鏡と剣の形代及び勾玉を所持することが皇室の正統たる帝として皇位継承の際に代々伝えられている。
 鏡は、天皇に限らず、女性が結婚されるときには、持参されたと考えていました。しかるに、天皇家のお墓には、勾玉は出土するのは普通と考えていいのではと考えました。
 
 ところが、変な事になりました。勾玉の材料は、石、ガラス、硬玉、ヒスイなどがありますが、最も手に入りにくいと思われるヒスイ製勾玉が出土したのは、 次の所を見て頂きますと、判りますが、九州の古墳から出土しています。
http://www21.atpages.jp/skeikas/page173.htmlしかも、中国人と思われる墳墓ばかりです。では、ヒスイは中国で産するのかと云いますと、中国で産するヒスイは、軟玉だそうです。
ヒスイの産出地は世界的にも限られており、安定した量の硬玉の産出地はミャンマーのみである。(ウィキペディアより)
 日本では、 新潟県糸魚川市姫川流域、北陸の海岸や富山県の宮崎・境海岸(ヒスイ海岸)、兵庫県養父市(旧大屋町)、鳥取県、静岡県引佐地区、群馬県下仁田町、岡山県新見市の大佐山、熊本県八代市泉町などとあります。主には、新潟県糸魚川市姫川流域だそうです。
古墳からヒスイ製勾玉が出土しただけではなく、主な環濠遺跡から出土していることも判りました。これらの環濠遺跡は、すべて、中国人の遺跡だと考えています。
 九州の人が、わざわざ、糸魚川まで、勾玉を買いに行ったのではなく、環濠遺跡は、関東からの絹を中国まで運ぶ重要な拠点だったと考えています。
 此処までは、勾玉を調べることによって、日本の歴史を眺めることは出来たのですが、天皇家と勾玉が結びつくのではなく、勾玉は、鏡と同様に、中国人から切り離すことのできないものであることが判りました。
 ところが、九州の中国人の人たちは、どうやら、出雲と吉備に移動していたことが判りました。
 その大将が、造山古墳の被葬者であったらしいことや、湯迫車塚古墳の被葬者は、自分たちの家来を京都や奈良に入植させていました。古墳の名前で云いますと、天神山古墳や椿井大塚山古墳の人たちは、湯迫車塚古墳の被葬者から、鏡を貰っていました。
 余りにも多い古墳を眺めるうちに、石棺を造るのに、わざわざ、阿蘇・凝灰岩を運んでいた人がいたことが判りました。
 阿蘇石 (凝灰岩) http://www21.atpages.jp/skeikas/page105.htmlをご覧ください。見事に、阿蘇石 (凝灰岩)を使って、石棺を造った人達が浮かび上りました。
家形石棺の写真が次にあります。
http://www2.tok2.com/home/sekisitu/iegata.htm家形石棺は、桁違いに大型の石棺ですから、古墳の建設は、大変だったと思います。だから、新しいタイプとは言えないですが、岡山や奈良、大阪までやって来ても近くの石を使うことが出来なかったとしますと、やって来てまだ、勢力がなかったと考えるしかないと思われます。
⑦より後は、家形石棺です。⑦は、植山古墳と云われています。
http://inoues.net/ruins/suiko_new.htmlです。

 この古墳は、推古天皇と竹田皇子の墓とされています。そうなりますと、おかしいですね。推古天皇は、九州出身の人か、どうしても、石棺は、阿蘇石 (凝灰岩)を使ってほしいと遺言しておいたことになります。
タイトルの勾玉(53)  勾玉製造元(42)ヒスイ製勾玉 の部分は、影が薄くなりましたが、
阿蘇石 (凝灰岩)を使っている古墳は、全部、丁寧に考察する必要がありそうです。

歴史各論  勾玉(52)  勾玉製造元(41)ヒスイ製勾玉(31) 造山古墳(6) [日本大好き]

造山古墳の被葬者が吉備で活躍していた時は、一番力があった時と考えるのは簡単ですが、どれぐらい時間がかかったのでしょう。
 九州から、やって来た人たちは、多かったことは、現在残されている古墳の数を見れば分ります。 
  岡山県にある古墳をもう一度、書き出してみます。
 
 ①牟佐大塚古墳 横穴式石室、貝殻石灰岩(井原周辺産)の家形石棺
 ②八幡大塚2号墳       竜山石(兵庫県西部産)の家形石棺
 ③青陵(青ばか)古墳    花崗岩製の石棺
 ④宗形神社古墳       箱式石棺
 ⑤石舟塚古墳   横穴式石室に竜山石 家形刳り抜き
 ⑥造山古墳    阿蘇凝灰岩製の石棺 (?) 古墳の前にある。
http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htm 
 ⑦こうもり塚古墳 横穴式石室 石棺と陶棺
 ⑧箭田大塚古墳
 ⑨千朱駄古墳   竜山石  長持形石棺
 ⑩唐人塚古墳   竜山石  家形刳り抜き
 ⑪王墓山古墳   家形石棺で、井原市浪形に産する貝殻石灰岩を
 ⑫大塚古墳群   箱式石棺二基あり。
 ⑬宮山西塚    竜山石  家形刳り抜き      岡山市百枝月
 ⑭石塔塚     浪形石  家形刳り抜き
 ⑮小山古墳    九州阿蘇 舟形刳り抜き
http://bunkazai.akaiwa-rekishi.jp/42/44/69/67/68.html

  http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/page368.html
 ⑯正仙塚     竜山石  長持ち形、縄掛け突起なし  美作・高野
 ⑰花光寺山古墳   凝灰岩  長持ち形        長船町
 ⑱天神山古墳    不明               備前市新庄
 ⑲丸山古墳     讃岐火山岩  特殊家形      備前畠田
 ⑳築山古墳     二上山ピンク石  家形刳り抜き  長船町

石室の形式から判断しますと、横穴式は、新しいことになります。しかし、上の一覧表では、竪穴式とか横穴式は分りません。石棺の形から見ますと、舟形刳り抜き、長持ち形、
家形刳り抜きの順で、新しくなっていきます。
石棺の材料からの判断では、阿蘇凝灰岩製が、古いことになります。
 阿蘇石(凝灰岩)が使われている古墳の一覧表を作成しました。全部でないので、判断の材料にするには無理がありますが、傾向は分ります。
  http://www21.atpages.jp/skeikas/page105.html
①舟形石棺のあるのは、九州と四国です。
静岡県の三池平古墳は、これまでに見つけた中では、一番遠くまで阿蘇石が運ばれたことになります。 
③家形石棺は、大阪と奈良に多いです。
京都は、八幡茶臼山古墳 だけですが、3本の大きな川が集る山崎ですから、この重要な所も、早い頃から、吉備に次いで、重要なとこだった思います。すなわち、山城は全部中国人の手に落ちたと思います。
 奈良は、天皇家にとっては、危険で住んではおれなかったと負います。
 八幡茶臼山古墳は、竪穴式古墳、舟形式石棺とされていますから、古い時代のものと思うのですが、和同開珎の貨幣が、出土しています。和銅元年は西暦708年ですから、古墳は八世紀と云うことになります。

 八幡市の古墳 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page810.html
茶臼山古墳、西車塚古墳、東車塚古墳、石不動古墳 を眺めますと、鏡が出土していますから、すべて、中国人のお墓ですが、車輪石・石釧か出土していますから、勾玉を好んだ人たちと違うグループではないかと推理しています。

歴史各論  勾玉(51)  勾玉製造元(40)ヒスイ製勾玉(30) 造山古墳(5) [日本大好き]

田村誠一氏は、造山古墳のことを次の様に書いておられます。
戦争が起これば、文化は衰退の一途を辿るのが世界の常識です。中国も紀元前には、殷や中山王国には素晴らしい文化がありました。しかし秦の始皇帝以後は戦争に明け暮れて独自の文化は無くて、外国から略奪した文化遺産だけです。
 漢が進駐して来た時、一番最初に戦死した将軍は最も豪華な、しかも本国にはない様な古墳に祭られるのが、常識です。戦争が長引けばだんだんお粗末になっていきます。この考え方で吉備の古墳は考えるべきです。
 吉備の最大の古墳は造山古墳で、これが最初に進駐して来た将軍の古墳の筈です。この古墳の石棺は外に投げ出され、これは古墳の主が苗族の敵だった何よりの証拠です。
 更に間壁夫妻著「吉備古代史の未知を解く」でこの石棺の石は九州の阿蘇の石が使用されていたことが、X線解析法で分かりました。これは九州から運んだ人があり、九州からでないと、応急には石が見つからなかったためです。
 従って造山古墳が初代の墓と考えることです。
 この阿蘇の石を使用した石棺が山城国八幡町から見つかりました。ここは崇神の御代に河内の国造の漢族のタケハニヤスが拠点にした、高麗村(山城町)の近くです。この地名からも漢の軍隊は騎馬民族です。前漢が楽浪、玄莵、真番、臨屯を植民地にした以上、ここの騎馬民族を兵隊にさせることが常識です。
 吉備から騎馬民族の遺跡が見つかり、これは漢の軍隊だった証拠です。同時に楽浪等は食糧や武器の補給基地としても必要です。
 
 造山古墳には、6つの陪塚があるので、作山古墳の方が先に造られたのではないかと書きました。どちらが、先にしても、5世紀から6世紀の中ごろにはなりません。
 湯迫車塚古墳は、最後の将軍と書きましたが、この将軍が殺されたのは、190年頃だと思われます。
 次回は、阿蘇の凝灰岩のことを書きます。

歴史各論  勾玉(50)  勾玉製造元(39)ヒスイ製勾玉(29) 造山古墳(4) [日本大好き]

造山古墳はいつ造られたかは、5世紀ではなく、紀元前のこともあり得ますと書きました。
その前に、惣社市の作山古墳のほうが、造山古墳よりも古いと書きました。ただ、それ程確かな理由はありません。造山古墳は6つの陪塚がありましたから、造山古墳の被葬者が、自分より大きい応神天皇などの御陵を参考にしたかなと思っただけです。
 6つの陪塚は、どのようなものかを見ました。
http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htm
 仕えていた近親者の墓だと書いてありますが、骨が出たわけでもないし、出土物も多くありませんから、5世紀頃になって、後の世の人が造ったと考えますと、造山古墳がもっとも、早く造られたことにしても、間違いではないように思います。
 どうして、そのように思うかと云いますと、第二次世界大戦時などは、国が戦に勝っている人のお墓は、全て立派です。負けたあとは、それこそ、遺骨すら帰ってきませんでした。
 岡山県にある古墳をもう一度、書き出してみます。
 
 ①牟佐大塚古墳 横穴式石室、貝殻石灰岩(井原周辺産)の家形石棺
 ②八幡大塚2号墳       竜山石(兵庫県西部産)の家形石棺
 ③青陵(青ばか)古墳    花崗岩製の石棺
 ④宗形神社古墳       箱式石棺
 ⑤石舟塚古墳   横穴式石室に竜山石 家形刳り抜き
 ⑥造山古墳    阿蘇凝灰岩製の石棺 (?) 古墳の前にある。
http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htm
 ⑦こうもり塚古墳 横穴式石室 石棺と陶棺
 ⑧箭田大塚古墳
 ⑨千朱駄古墳   竜山石  長持形石棺
 ⑩唐人塚古墳   竜山石  家形刳り抜き
 ⑪王墓山古墳   家形石棺で、井原市浪形に産する貝殻石灰岩を
 ⑫大塚古墳群   箱式石棺二基あり。
 ⑬宮山西塚    竜山石  家形刳り抜き      岡山市百枝月
 ⑭石塔塚     浪形石  家形刳り抜き
 ⑮小山古墳    九州阿蘇 舟形刳り抜き
http://bunkazai.akaiwa-rekishi.jp/42/44/69/67/68.html
http://www2.atpages.jp/kofuntokaare/page368.html

 ⑯正仙塚     竜山石  長持ち形、縄掛け突起なし  美作・高野
 ⑰花光寺山古墳   凝灰岩  長持ち形        長船町
 ⑱天神山古墳    不明               備前市新庄
 ⑲丸山古墳     讃岐火山岩  特殊家形      備前畠田
 ⑳築山古墳     二上山ピンク石  家形刳り抜き  長船町

⑮の 小山古墳は、九州の阿蘇となっていますから、ピンク石かどうか判りませんが、阿蘇から運んだのでしょう。加えるに、石棺の形式は、 舟形刳り抜き ですから、長持形石棺や家形刳り抜きより古い形ですから、3つの中では、一番古い築造となります。

歴史各論  勾玉(49)  勾玉製造元(38)ヒスイ製勾玉(28) 造山古墳(3) [日本大好き]

造山古墳の被葬者が、吉備王国の首長だとしますと、それでおしまいです。その他の多い古墳がどうしてあるのか説明が付きません。専門家が云われる5世紀から5世紀の中ごろまでのものとしますと、岡山にある古墳は、6世紀中ごろまでに、相当のラッシュで作らなければなりません。
 造山古墳が、吉備王国の首長のお墓としますと、王国を支える人民がどれほどいたことになるかです。仮に10万人いたとします。その人たちは、なにをして生計をたてていたか考える必要があります。
 所が、関東から絹を運ぶ仕事をしていたのであれば、湯迫車塚古墳の被葬者と同じで、産業らしきものはなくても、あの大きな古墳を築ことは出来たと思われます。
 では、いつ頃、造山古墳を造った人達は、岡山へやって来たのでしょう。
私は、いつでも来ることが出来たと思います。例えば、紀元前100年でも可能です。問題は、そのころにやって来たとして、あの大きな古墳を造る技術を持っていたかどうかです。
 平地に前方後円墳を造るためには、あの形が、重要だったのではないかと考えます。次に、周濠、葺石、円筒埴輪は、必要だったのではないかと考えます。その前方後円墳は、中国では作られていませんから、造山古墳の被葬者には、無理だったのではと思います。
 もっとも、古墳を造ったのは、土師ですから、そのころに、周りに土師がいたことが判れば解決です。
 これを全て備えていたのは、神戸市の五色塚古墳ではないかと思います。造山古墳の被葬者は,明石沖を通った可能性はあります。ただ、難儀なことは、神戸市の専門家は、5世紀前後に造られたしておられますから、紀元前100年に見ることはできません。
  前回に書きましたように、荒神社の手水鉢が、造山古墳のもので、阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分であるとしますと、話は違ってきます。
 造山古墳の被葬者は、古墳を造るときに、石棺は、近くの竜山石や四国の石を使えばいいのに、態々、阿蘇から凝灰岩を運んだことになります。ひょっとすると、石さえあれば石棺はできるとは限りませんから、石工も呼んだか、九州で造らせたかも知れません。
 どうして、そのようになったかです。竜山石は、いまでこそ、竜山と〔竜〕の字がついていますから、中国人が取り仕切っていましたが、造山古墳の被葬者が吉備にやって来た頃は、竜山石を使うことはできなかったのだと思います。
 では、造山古墳の被葬者が吉備にやって来た頃はといえば、何時の頃か判りません。
 神武東征が行われたのは、紀元前です。全行程で、16年かかったことになっています。神武天皇が、吉備を征伐しようとしましたら、吉備は8年かかったと古事記は伝えます。奈良のナガスネヒコ等と戦って、柏原に宮城を造ったのが、紀元元年1月1日ですから、
紀元前10年ぐらいは、広島から岡山に掛けて、中国人の勢力が強かったことが判ります。

 ただ、この頃に、造山古墳が造られたとしますと、五色塚古墳は、それ以前にあったということになり、日本中の歴史家を相手に戦いをするようなことになります。
 それでも、造山古墳は、全国で4番目に大きいので、仁徳天皇陵と同じ頃の5世紀では、吉備王国の歴史は、語れないことになります。

歴史各論  勾玉(48)  勾玉製造元(37)ヒスイ製勾玉(27) 造山古墳(2) [日本大好き]

前回、ウィキペディアは、いい加減なことを書いていると批判しながら、又、利用するのもおかしいですが、古墳の前方部について、次のようなことが書いてあります。

前方部の墳丘は破壊されており、その跡に造山集落の荒(こう)神社が作られており、鐘突き堂が付属している。この鐘突堂のそばに手水鉢があり、その手水鉢が阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分であり、風雨に晒されている。また、社の右横側後ろに石棺の蓋の破片が放置されている。この石棺はある時期に盗掘、乱掘されたものだと推測され、新庄車塚古墳より運ばれたものであるという伝承がある。

 ここに書いてあることは、どういう意味でしょうか。荒神社の手水鉢は、阿蘇凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式の長持型石棺の身部分である。棺桶であることを知っていながら、現在でも、造山集落の皆さんは、手水鉢として使っておられるのでしょうか。
〔風雨に晒されている〕とも書いてあります。手水鉢として使っているのであれば、屋根ぐらいは作ると思われますが、屋根はないのでしょうか。
〔この石棺はある時期に盗掘、乱掘されたものだと推測され、〕ここまで、推測されたのであれば、石棺が、盗まれた例は外にもあるのでしょうか。石棺を使って、お地蔵さんを作ってあるのは見ました。この文章から、〔新庄車塚古墳より運ばれたものであるという伝承がある〕が続いていますから、この石棺は、新庄車塚古墳より盗んできたということでしょうか。
 新庄車塚古墳は、造山古墳から近くにあったらしいですが、現在は、消滅しかかっています。他人のお墓を壊わす理由は、どのようなものがあるのでしょう。盗まれたのではなく、壊されたものは、埴輪、銅鏡が多いと思われます。
 円筒埴輪は、穴の開いた部分だけを地上にだして、後は、古墳の崩壊を防ぐために、地下に埋めてあるのが正しいと思います。地上に出た部分は、1300年も経てば、壊れるのが当たり前です。
 銅鏡は、古墳に拠りますと、粉々に割れているのもあります。これは、粉々にされたのだと思います。憎しみが強いほど、粉々にされたと思います。
 例えば、明日香の石舞台があります。これは、石棺はどうなっていたのかわかりません。石槨のおおきな石が残っています。ほんらいなら、あの石の上に土でオウワレていたと思いますが、土はゼロです。雨で、土は流れてしまったのでしょうか? そうではなく、この墓の被葬者は、石舞台が立派であるだけに、恨みもいっぱいであったために、壊され、石棺も、壊されたと考えたいです。
  造山古墳は、発掘されていませんから、後円部に石棺はあるはずですが、古墳が巨大であるだけに、石棺も放り出されている可能性は大きいです。前方部まで、引きづり出しましたが、放置されたのではないでしょうか。
仮に、余所から運ばれたにせよ、1300年も経った今でも、〔風雨に晒されている〕ということは、荒神社を祭っている人達からは、余り喜ばれない存在のように思われます。
 いい加減な記事ばかりですから、私もいい加減なことを書いて見ます。

 この手水鉢は、造山古墳から引きずり出されたものとしてのお話を次回に書きます。

歴史各論  勾玉(47)  勾玉製造元(36)ヒスイ製勾玉(26) 造山古墳 [日本大好き]

造山古墳の被葬者はだれか。 ウィキペディアによると、

 大きさから古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解もある。一方で、吉備の首長ではなく、中央の大和王権が造った古墳であり、その被葬者も倭王の一人ではないかと見ている研究者[2]もいる。

この文章はいい加減ですね。造山古墳が何時できたか分らないのに、そのころに、中央にヤマト王権というものがあったと書いてあります。中央とはどこかは書いてありません。
ヤマト王権があったことにします。そのヤマト王権に対抗しうる強力な王権が吉備にあった、これを吉備政権という、こうした見解がある。 どなたの見解でしょうか。
 いや、そうではなく、〔中央の大和王権が造った古墳〕。外に、大和王権が造ったという古墳はあるのでしょうか。倭王かも知れないとも書いてあります。と言うことは、倭王は、大和政権の中の一人である。言い換えますと、天皇だということになります。
 この3つに、どこか共通点があるのかと云いますと、全く、有りません。
 いい加減なものです。

 他人の悪口を書いてどうするのだといいますと、これから書く私の話も、これといい勝負の話なので、風当りを減らそうという魂胆です。

 ウィキペディアの担当者は、古墳の大きさからだけの判断で、上に書いたようなことを書かれました。

 全国の前方後円墳の一覧表をご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page017.html 私はいい加減な仮説を立てて、此れが正しいかどうかを眺めてみようと思っています。
多くの古墳が3世紀を中心に、全国的に造られたのは、五色塚古墳と箸墓古墳とを実際に見た人が、自分もこのような古墳を造りたいと思ったのではないかと考えました。
 箸墓古墳は、⑫です。これより上に書いてある古墳は、桁違いに大きい古墳です。

 造山古墳の被葬者は、その上には、三人しかいません。どれも天皇のお墓ではないという歴史家が多いために、仁徳天皇陵とは呼ばないで、大仙陵古墳と云われています。 仮に、上位3人のお墓は、天皇のお墓だとしますと、確かに、造山古墳の被葬者は、古代吉備に強力な王権があったと云えると思います。 しかし、3人は、大和(奈良)ではなく、堺と羽曳野ですから、大阪です。
 ウィキペディアの担当者が書いておられるヤマト王権は、奈良の事だと思います。
前方後円墳の一覧表を、下の方へ眼を移しますと、⑪~⑳が、奈良ばかりです。⑯は崇神天皇のお墓ではないと云われる方もおられますが、この辺りの大きな古墳は、天皇のものだろうと考えています。しかし、その周りには、鏡がいっぱい出土した古墳があります。
こうした、 龍王山麓に、実際に住んでいたのは、天皇家以外の人達だと考えています。
 では、崇神天皇は、どこに住んでいたかと云いますと、吉備に住んでいたと思います。景行天皇も、奈良は危険なので奈良には住んでいなかったのではないかと考えています。
 崇神天皇の5年に、伝染病で多くの人が死んだ記事が掲載されていますが、これは、192年の出来事です。従いまして、崇神天皇が居られた時代は、150年から250年ぐらいの間のことになります。
 造山古墳の被葬者は、墓の大きさからのみ判断しますと、確かに、⑪~⑳の人たちと、張り合ったことになります。
 と言うことは、200年前後の人の筈です。ウィキペディアによると、5世紀の築造と書いておられます。 
 私の考えと、200年のずれがあります。
 私の考えと書きましたが、ウィキペディアに書いてある
〔古代吉備にヤマト王権に対抗しうる、または、拮抗した強力な王権(吉備政権)があったとする見解もある〕が正しいことにした分析です。

歴史各論  勾玉(46)  勾玉製造元(35)ヒスイ製勾玉(25) 湯迫車塚古墳(8) [日本大好き]

岡山県にある古墳を前回、書き出しました。しかし、古墳の数は、こんなものではありません。どうして、こんなに多いのかは、余り話題になっていません。なぜ多いのかの理由は簡単です。沢山住んでいたからです。その上に死ぬ人が多かったからです。
 どうして、沢山住んでいたのかと云いますと、自然に増えたのではなく、九州から移動して来たのではないか考えています。
 ①~⑳ までのうち、誰が九州からやって来たかと云いますと、
⑥と⑮ではないかと思います。
⑥は、造山古墳です。造山古墳については、精しいことは分っていません。
 特徴は http://www.bell.jp/pancho/travel/kibiji/tukuriyama-a.htmに書いてあります。

全長約350~360mを測る全国第4位の巨大古墳
つぎは、陪塚といわれている6つの古墳があること。
次は、高さ27mの前方部の頂上に荒神社があり、その社の前には石を刳りぬいた石棺の身が置かれていることです。
 この石棺は、どこにあったものか判りませんが、普通に考えますと、造山古墳のものでしょう。形は、畿内的な組み合せ式の長持形石棺に似せているが、材質は九州阿蘇山系の凝灰岩で、形態も九州系の石棺に似ているという。
 
 全国第4位の巨大古墳であるということは、意識して大きく作ったということでしょう。
誰を意識して大きい古墳を造ったのかです。
 次のページは、前方後円墳の大きいものを一覧表にしたものです。
 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page017.html
 箸墓古墳と五色塚古墳を青色にしておきました。この二つの古墳を実際に見て、これより大きいものを作ってみようと思ったと単純に考えました。

 造山古墳の被葬者は、岡山に居たのですが、箸墓古墳も五色塚古墳も見たと考えています。と言うことは、ここより、東へ旅をしていた筈だと推理しています。
 似たような名前の古墳があります。⑨の作山古墳です。 岡山県惣社市にあります。
 この古墳は、独立した小さい丘陵を加工した、三段築成の前方後円墳である。各段には密接した円筒埴輪が立ち並んでいたと推測されており、斜面は角礫が葺かれている。北側(前方部から見て左側)に造り出しがある。外周には周濠がない。後円部の外周には幅約20メートルの段が巡っていた。前方部前面と南東部に小さな丘が残っていて見栄えに欠け、また、巨大古墳としては陪塚が伴っていない。
 作山古墳も、精しいことは分っていませんが、独立した小さい丘陵を加工したということは、造山古墳よりは、造るときには、技術的には、楽だったと思われます。巨大古墳としては陪塚を作らなかったのは、箸墓古墳も五色塚古墳も陪塚を持たなかったからではないかと思います。
 造山古墳は、6つの陪塚を造った理由は、箸墓古墳も五色塚古墳と比較したのではなく、陪塚を持っている古墳を意識したことになります。
造山古墳は、4番目に大きい古墳ですから、それより大きい古墳としますと、大仙陵古墳と誉田御廟山古墳と上石津ミンザイ古墳を意識したことにしますと、3つとも、陪塚を持っていたから、造山古墳も陪塚を造ったとなるのですが、参考にしたにしては、大仙陵古墳と誉田御廟山古墳と上石津ミンザイ古墳よりも、小さい古墳になっています。
 これでは競争したことになりません。
 ⑤河内大塚古墳~⑧土師ニサンザイ古墳の5つの古墳のどれかを参考にしたことになります。
 ウィキペディアに拠れば、
 河内大塚古墳は 6世紀後半
 見瀬丸山古墳は、6世紀後半
 渋谷向山古墳   4世紀後半
 土師ニサンザイ古墳 5世紀後半
 上記の古墳のうち、どれかを参考にした可能性があるのですが、どれも、陪塚を持っていないのと、時代が、私が考える造山古墳の時代とは合いません。

私が間違っているのかも知れませんが、次回に、私が考えている時代を示してみようと思います。

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