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小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北13) [神社からさぐる歴史]

 如何でしたか。 私の心が曲っているのでしょうか。

 私は古事記に書いてあることが正しいと思っているのですが、インターネットで、調べる限りでは、古事記は、間違っていることを書いているのではなくて、歴史を歪めて書いてあると捉えています。即ち、古事記は[偽書]である。

 それに対して、「日本書紀」は、正しい歴史が書いてある書物として捉えられています。
 どうして、現在の歴史家がこのように信ずるようになったかと云いますと、研究が進んだからだと思います。

その証拠として、
大津京|テーマ展示|常設展示室|大津市歴史博物館を見て頂きました。

外のブログを紹介します。
〔大津の歴史〕
http://www.city.otsu.lg.jp/ikkrwebBrowse/material/files/group/92/4eba22e0002.pdf

ここには、『日本書紀』『懐風藻』『藤氏家伝』等の資料から、内裏、浜台、大蔵、宮門、朝廷、大殿、漏刻、内裏仏殿などの施設があったことがわかっていますが・・・・。

 此処まで読みますと、素人の人であれば、これだけで信用します。

〔大津の歴史〕を書いた人は、名前は書いてありませんが、『日本書紀』『懐風藻』『藤氏家伝』に書いてありますから、以下の文章は、正しいですよと、知らせる為に、書かれれました。
 三冊の書物に、内裏、浜台、大蔵、宮門、朝廷、大殿、漏刻、内裏仏殿などの言葉が書いてあるから、実際に存在した証拠にはなりません。

私は、騙されないぞと最近は思っていますから、全く知らない『懐風藻』『藤氏家伝』を調べることにしました。
 調べるとは聞こえが良いですが、インターネットで検索しただけです。


①『懐風藻』
奈良時代、天平勝宝3年(751年)の序文を持つ。編者は大友皇子の曾孫にあたる淡海三船と考える説が有力である、また他に石上宅嗣、藤原刷雄、等が擬されているが確証はない。
近江朝から奈良朝までの64人の作者による116首の詩を収めるが、序文には120とあり、現存する写本は原本と異なると想像されている。作品のほとんどは五言詩で、平安初期の勅撰3詩集が七言詩で占められているのと大きく異なる。
作者は、天皇をはじめ、大友・川島・大津などの皇子・諸王・諸臣・僧侶など。作風は中国大陸、ことに浮華な六朝詩の影響が大きいが、初唐の影響も見え始めている。
古代日本で漢詩が作られ始めるのは、当然大陸文化に連なろうとする律令国家へ歩みが反映されている。『懐風藻』の序文によれば、近江朝の安定した政治による平和が詩文の発達を促し、多くの作品を生んだという。
なお、『懐風藻』には『万葉集』に歌のない藤原不比等の漢詩が収められており、大伴家持は、『万葉集』に漢詩を残すものの、『懐風藻』には作品がない。大伴家持の「族をさとす歌」は、天平勝宝8歳に、淡海三船の讒言によって大伴古慈悲が出雲守を解任された時に詠まれたものである。


②藤氏家伝(藤氏家傳・ とうしかでん)は天平宝字4年(760年)に成立し、古代から藤原氏に代々伝えられてきた、藤原氏初期の歴史が記された伝記であり、上・下とある。日本書紀や続日本紀には無い歴史が記述されている。
家伝とは、その家の歴史・伝承などをまとめた書物だが、特に藤氏家伝のことを指して家伝ということもある。
家伝上(「大織冠伝」)
• 藤原鎌足と定恵と藤原史(藤原不比等)の伝記を記したものである。ただし、藤原不比等の条は現存しない。
• 著・編者は恵美押勝(藤原仲麻呂)。
家伝下(「武智麻呂伝」)
• 藤原武智麻呂の伝記を記したもの。
• 著・編者は僧延慶。

これ以上のことは、調べていません。 しかし、これだけで、『懐風藻』『藤氏家伝』とも、藤原氏と関係があることは分ります。
 『日本書紀』は、勿論、朝廷が作ったのではなくて、藤原氏が作ったと考えています。

これら以外で、藤原氏が関与した書物は、出雲風土記、延喜式の祝詞、延喜式神名帳、そして、『懐風藻』『藤氏家伝』だと思っています。

すべて、古事記が出来た712年以後に作られています。

書いてあることは、すべて、間違っているとは思いませんが、作り話が多いのではないかと疑っています。
 今、日本書紀がおかしいのではないかと云うために、

神話でなかった古事記 http://blog.goo.ne.jp/skeikas
に於いて、出雲風土記がおかしいのではないかと、書いています。

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北12) [神社からさぐる歴史]

 前回、大津京は日本書紀には載っていないことを書きました。 それは、その前のページで、自分で、

 「白村江の戦いで中大兄皇子が敗れて、逃げて帰った後に、都を定めたことになっているのが、近江京です。 大津京とも云われ、この事が、日本書紀に記されているのが、曲者です」と書いたからです。

 この時は、日本書紀に書いてあるかどうかを調べたわけではありませんでした。
 Google の検索を利用しました。「大津京」で検索しました所、三番目に、

大津京|テーマ展示|常設展示室|大津市歴史博物館
 が有りましたので、クリックしました。
 選んだ理由は、地元の大津歴史博物館のブログだったからです。

最初のページをそのまま、コピーします。

 天智2年(663)、日本は百済(くだら)を救援するため朝鮮半島へ出兵した。しかし、日本軍は白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅(しらぎ)連合軍に大敗し、日本はいつ唐軍に攻められるかという緊迫した状況を迎える。こうした東アジアの情勢の下、天智6年(667)、天智天皇によって飛鳥から近江への遷都が行なわれる。大津京の誕生である。国の中心となった大津京では、初の戸籍「庚午年籍(こうごねんしゃく)」の編成などの政治改革が進められた。しかし、天智10年(671)、天智天皇が崩御すると、翌年大友皇子と大海人皇子との間で壬申の乱が起こり、乱後再び飛鳥へと遷都される。大津京はわずか5年余りの都であった。

 今読み返しますと、さすがにプロの文章です。

大津京が出来た時の様子が、書いてあります。
① 何故、大津京に遷都されたか。--------白村江(はくすきのえ)の戦い との関連。
② 何故、飛鳥へ遷都されたか。-------- 壬申の乱との関連。

 試しに、外のブログも読んでください。
 なぜ、大津京に遷都したか、理由は分らないがと書いてあるのが多いです。
 その他に、大津宮のことは、遺蹟か見付かったことが書いてありますが、大津京の事は、条坊制が見付かっていない不思議を書いて居られます。

私は、白村江(はくすきのえ)の戦いは、百済から援軍の要請を受けて、日本が、出撃したことになっていますが、百済に騙されたと考えています。
と云うことは、中国と新羅と百済を相手にして戦争をしたことになります。

壬申の乱は、天皇の子供の大友皇子と天智天皇の弟の大海人皇子との皇位の争いと思っていました。

しかし、壬申の乱は日唐戦争だったことが判りました

 どのように考えたかは、次の所に書いておきました。

壬申の乱は日唐戦争だった
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page718.html

No357 帰ってきた捕虜と壬申の乱
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2008-05-08

「帰ってきた捕虜」の事は、日本書紀に書いてあります。しかし、中大兄皇子は騙されたのだとは書いてありません。考えたのは、私です。

いや、正確に云いますと、田村誠一と云う方が、考えられて、『壬申の乱は日唐戦争』とのタイトルで、本を出版されました。 1984/11/21 のことです。

 所が、この本は、どこにもありません。 抹殺されたのだと考えています。 抹殺しなければならない程の事が、書いてあったことになります。どのような内容かと云いますと、書いてあることが正しかったことになると考え、追及しています。

田村誠一氏の著書
 http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page600.html
 に書いていますが、 この中に、『真説 建国史』が、コピーで手に入りましたので、現在、一日置きに、<新しい日本の歴史>http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/
に掲載しています。(田村誠一氏の原文です) 

このブログに、検索機能がありますから、<白村江>と入力して戴きますと、<白村江>と関連あることを書いてあると思います。

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北11) [神社からさぐる歴史]

前回、 大津京とも云われ、この事が、日本書紀に記されているのが、曲者ですと書きましたが、正確には、日本書紀には

日本書紀 巻第二十八 天武天皇紀上 に
或有人奏曰「自近江京至于倭京、處々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舍人運私粮事。」
と書かれ、大津京はみることは出来ません。

この様に日本書紀には、近江京と書いてあると云うことは、近江京は有ったことになります。 しかし、藤原京や平城京にあるような条坊制は見付かっていません。

何故だと思われますか。 天皇は、大津におられましたが、いわゆる「京」は無かったと思います。

大津市錦織の遺跡が近江大津宮の跡であることが、見つかったことを前回述べましたが、近江京が見付からないと云うことは、近江京は無かったのではないでしょうか。

ウィキペディアでは、近江朝の事が、次の様に書かれています。

天智天皇が近江大津宮に都を置いた西暦667年から、大友皇子(弘文天皇)が西暦672年の壬申の乱で滅亡するまでの期間を近江朝(おうみちょう)と言う。名称は、近江大津宮に都が置かれたことに由来する。ほぼ天智天皇の治世と重なることから天智朝とも呼ばれる事がある。
 この近江朝のことは
日本書紀では、次の様に使われています。

日本書紀 巻第二十八 天武天皇紀上臣君手・身毛君廣、曰「今聞、近江朝庭之臣等、爲朕謀害。是以、汝等三人、急往美濃國・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路。」甲申、將入東時、有一臣奏曰「近江群臣元有謀心、必害天下....→ このページで合計4件ヒット

日本書紀 巻第二十九 天武天皇紀下
可也。是以、從小墾田御世至于近江朝、常以謀汝等爲事。今當朕世、將責汝等不可之狀以隨犯應罪。然頓不欲絶漢直之氏、故降大恩以原之。從今以後、若有犯者必入不赦之例。」秋七月辛酉朔癸亥、祭龍田風神・廣瀬大忌神。八月辛卯朔乙巳、大設齋於飛鳥....→ このページで合計1件ヒット

 次の部分は、天武天皇が云われた内容です。
曰「今聞、近江朝庭之臣等、爲朕謀害。是以、汝等三人、急往美濃國・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路。」

今聞、(今、私は聞いた)に始まって、朕今發路(朕も今直ぐに出発する)と、ドラマの台本の様に思われます。
<宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道>の部分は、実際にあったことと、受け止めて良いのでしょうか。

 藤原氏の創作に思えてなりません。

ただ、創作にしても、「今聞、近江朝庭之臣等、爲朕謀害。 」近江朝庭之臣等
とは、近江朝廷の中の家来の中に、朕を害しようとする者がいる。

とは、殺そうとする者が居ると云うことでしょうか。 このような話を日本書紀を書いた人は、どうして知っていたのでしょう。
  
 知っていたと云うことになりますと、日本書紀を書いた者も、その一味だったことになりますから、天皇が喋った形の文章になっているのではないでしょうか。

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北10) [神社からさぐる歴史]

  滋賀県には式内社が多い理由は判りましたか。

 アメリカは、日本のお金のある所に標準を定めて空爆をしたのではないかと推理しました。
 では、式内社のある町は、お金持ちなのかと云いますと、現在の方でも、そのようなことを考える方は、誰一人として居られないと思います。

 式内社が制定されたのが、927年です。中には、延喜式神名帳には掲載されてはいるが、現在は無くなっている神社もあります。
 きっと、此処であろうという神社は、自分達の神社は、『式内社』と大きな字を彫り込んだ、門標の石碑が建てられています。 
 1000年も掛けて、次第に大きな神社になったと思われますが、殆どの式内社は、立派です。
 私の頭は、直ぐに、立派、即、お金持ちの村、町と発想してしまいます。 もっとも、大きな神社は、昔、大社とか県社と呼ばれていたことの表示がされています。

 滋賀県に式内社が多いことは分りましたが、どうして、湖北に多いのかが判りません。
いろいろ調べましたが、判りません。

 そこで、発想を変えました。
琵琶湖の南の方では、何故、式内社が少ないのだろうと考えました。

滋賀県で知っている町の名前は、大津です。 [津]は港です。[大]とか、天照大御神とか、大王を表す「大」というように、偉大な人に付けたり、例えば、天皇が住んで居られた所にも付けられた名前だと思います。

白村江の戦いで中大兄皇子が敗れて、日本に逃げて帰った後に、都を定めたことになっているのが、近江京です。 大津京とも云われ、この事が、日本書紀に記されているのが、曲者です。

宮城の有った所は、現在では、滋賀県大津市錦織の遺跡が近江大津宮の跡とされています。行きましたが、一軒の家が建てれるような敷地に、ここがそうですという石碑が建てられていました。

徒然万歩計 http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=222
 ここに写真があります。

この周りが「大津」ですが、現在は、琵琶湖大橋の北も大津市になっています。

と云うことは、琵琶湖の西側が、古代の大津京のメインの部分ではないかと思い、今月、22~23日に、この地の式内社を歩いて来ようかと思っています。

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北9) [神社からさぐる歴史]

滋賀県には、式内社がどうして多いのかに対する理由を見付ける為に、始めから、第二次世界大戦の時に、滋賀県は、空襲が多かったのではないかと推理し、調べて見ました。
 調べるといっても、調べた人の成果を見るだけになりました。

 爆撃の多さは、滋賀県だけではなくて、全国に及んでいました。
少なくとも、私が住んでいたまわりでは、工場らしきものは一つもありませんでした。
 しかし、現在の伊丹空港の近くに住んでいましたから、アメリカの駐留軍のジェット機が毎日のように、自宅の屋根をすれすれに飛ぶのを経験していました。
 本当かどうか判りませんが、飛行場の周りには、多くの池があって、その水溜りは、爆弾によって出来た穴に水がたまったものだと言われていました。
 どれぐらいの深さがあるのかは知りませんでしたが、近づいては危険だからと云われていましたが、この池で魚を釣ることが、其頃の遊びの一つでした。

 全国でも、空爆の受けた所は、大きなものでは、このような穴が一杯開いたのだろうなと考えました。
 あまり、工場がないのに、どうして、これほど、全国に空爆を行ったかの疑問はありました。

 最近知ったことの一つに、 
「マッカーサーが、1951年のアメリカ軍事外交委員会で、
日本の戦争は“生存”のためだったと証言」が有ります。

http://www.geocities.jp/arikawa_sandai/MacWitness.htm

1945年8月15日に 敗戦を宣言しました。日本には、「日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無い」と発言したのは、戦後、3年目だったと思います。
 
 ただ、この様に発言したのと、アメリカの国の議会で、証言したのとは、全く別問題です。
 日本は、軍国主義の国で、侵略戦争をしたと云うのは、最近、特に激しく抗議しているのは、中国と韓国です。 
 勿論、謝罪をすることと賠償金を支払う様に求めています。
 アメリカも裁判をして、日本が間違った戦争をしたと云うことは、決着がついています。
 しかし、世界の歴史上で、戦争をして、勝った方が、裁判をして、間違った指導者を死刑にした例は無いと思います。

しかし、裁判の良し悪しではなくて、「マッカーサーが、1951年のアメリカ軍事外交委員会で、日本の戦争は“生存”のためだったと証言」とアメリカの新聞に書いてあると云うことは、日本は、侵略戦争をしたのではなかったことを世界に公表した様なものです。
 しかし、この事の事実を知っていた日本人は、誰一人居なかったことが、最近も発刊された『歴史通 7月号』に渡部昇一氏が執筆されています。

この裁判が間違っていたことを述べた書物が有ります。
『パール判事の日本無罪論 』田中正明著 です。購入しましたが、まだ、読んでいません。
 パール判事は、戦勝国十一人の判事の中で、唯一人被告人全員の無罪を云った人です。


 又、話題が本筋からそれました。

マッカーサーは、「日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い」と証言したと云います。
 この事実は、戦後、調べたから分ったのでしょうか。

私は日本から没収した資料の中に、絹が日本の収入である資料を見付けたのだと思いました。
 確信を持ったから、「日本の戦争は“生存”のためだったと証言」と証言したのだと思いました。
 
 しかし、日本を空爆する時は、B29からの映像では、工場らしきものは無かったと思います。ただ、戦前の調査では、養蚕が盛んであることは把握していましたから、空爆の対象にしたはずだと考えました。

 どれぐらいの絹が生産され、金額に治しますと、どれぐらいの金額になるかは知らなかったのではないでしょうか。
 
 この資料は、現在の日本政府も知らない秘密の資料だったのではないかと考えています。
 どういうことかと云いますと、正確な生産額も、その時の税収等も、誤魔化していたのではないでしょうか。
 資料がないと云うことは、当時の日本人も、「綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い」ということは、知らなかったのではないでしょうか」。

全く無いのであれば、4年間も、戦争は出来なかったと思います。戦艦も造ることは出来なかったと思います。
 きっと、日本は、どのように戦ったかと云う記録もないと思います。有れば、それこそ、もっと多くの軍人が死刑になったと思います。

こんな云加減な推理で、アメリカ軍は、空爆の対象物として、絹の生産地を攻撃した筈だと考えて、日本本土空襲 一覧表を見付けました。
 何の気なしに、岐阜県を選びましたら、桑の畠に変えた記事が有りました。

あと、続けて調べて、一つの桑の話題が出なければ困りますので、チョックしていません。
 但し、絹の生産の話は、江戸時代以降しかありません。

私が考えている絹の生産は、紀元前からのお話です。 資料は、皆無ということは絹は作られていなかったのかと云いますと、そのような事は有りません。
正倉院展にいきますと、見ることが出来ます。
 とは、いうものの、此処に有るものは、聖武天皇に関するものばかりです。

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北8) [神社からさぐる歴史]

 全国の式内社の分布をもう一度ご覧下さい。

 式内社と祭神 
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page809.html
 県別に式内社を眺めますと、式内社は、多い県や少ない県が有ります。
どうして、多い化少ない化を判断するには、式内社とは、どのような神社を云うのかを良く知っていないと、どうして多いのかは判断できません。

延喜式(えんぎしき)とは、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つです。
 延喜とは、延喜(えんぎ)は、日本の元号の一つ。昌泰の後、延長の前。901年から923年までの期間を指します。
 この時に作られた法律書と考えていいと思います。
 全部で、50巻からなっていますが、巻9と巻10 - 神名帳 (通称:延喜式神名帳)と呼んでいます。

「式内社」とは、ウィキペディアから拝借しますと、次のようなことになります。

延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。本来「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表を指し、官社帳ともいう。国・郡別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。延喜式神名帳とは、延喜式の成立当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座である。


式内社の一部を見て頂きましたが、
「式内社」は、一種の社格となっている。と書いてあります。社格のことは、
次の所に書いてありますから、ご覧ください。

延喜式神名帳

ここには、神社には、次の種類の神社が有り、「格の上下が有ることが書かれています。
• 官幣大社 - 0198社 0304座
• 国幣大社 - 0155社 0188座
• 官幣小社 - 0375社 0433座
• 国幣小社 - 2133社 2207座
これらの式内社は、国から、幣帛を受け取ることが出来ます。では幣帛と派どのようなものかを五度ぶんで調べて貰えば解りますが、大きな神社をいじできるたけの物を朝廷から頂けるのといいますと、そのようにも思えません。

 延喜式について書いたも本を買って、勉強して、内容かは、私にとっては、難しいだけで、何の役にも立ちません。

実際に、延喜式式内社と云われている神社に沢山行ってますと、次第にどの様な神社であるかがわかってくると思います。

分って来ると云うことは、解らないことが大部分ですが、解らない所を自分で勉強する気が起ってきます。

何が判って来るかと云いますと、
 式内社と祭神 
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page809.html
に書いておきました様に、
  青色は天皇家の勢力が強かった所。

赤色は、藤原氏の支配力が強かった所--式内社の数が多い
が言えることになります。

 このようなことは、どなたの歴史書にも書いてありません。

話題は全く異なりまして、前回は、どうして、空襲の話題になったかの説明を
次回にします。

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北7) [神社からさぐる歴史]

 前回、
マッカーサーは、どうして、
日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いを知っていたのでしょう
と記しました。 アメリカの新聞でも、このようなことは 残っていないと思います。
 上の文章の表現を変えますと、

日本は、固有の産物はほとんど何も無かったが、絹産業だけは、盛んでした。
となり、アメリカは、その主要産業を潰そうとした筈です。

日本本土空襲 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2#.E4.B8.BB.E3.81.AA.E7.A9.BA.E8.A5.B2.E4.B8.80.E8.A6.A7

一覧表
1945年7月21日米軍報告書[編集]
米軍陸軍第20航空部隊が対日爆撃の中間総括を試みる報告書「中小工業都市地域への爆撃」のなかで、6月15日の大阪への空襲(第4回大阪大空襲)を以って第20航空軍によって優先目標と認められた「指定工業集中地区」の実質的な破壊を完了したとし、さらなる破壊効果増大のために攻撃目標として中小都市を含む180都市を人口に基づいて順位付けし、リストアップした。

 (以下、ウィキペディアの資料をコピーして、貼り付けましたが上手く表示されません。 辛抱してご覧ください。 いくら戦争と言え、日本人を皆殺しにするつもりだったことが判ります。 この時、10000メートルを超える上空から爆撃したのですが、高射砲は届きませんでした。 攻撃する前に、上空から、写真を撮っていますが、家が一軒ずつ、鮮明に写っているのを見た事があります。 当時、夜の電灯が見えないように、どこもかしこも、真黒に塗りました。黒い壁が、70年たっても残っています。 航空写真を見れば、そのようなものは、全く役に立たなかったことになります。 爆撃は、どの家がどのような建物であるか、確認してから、爆撃出来た事になります。 絹を作っている家は、稲を作っていない集落を爆撃すればいいことになります。この表を写しながら、悔しくて、涙が出ました)

No 都市  都道府県  No 都市  都道府県 No 都市    道府県 No 都市  都道府県
1 東京  東京都   46 宇部市   山口県 91 今治市  愛媛県 136 石巻市  宮城県
2 大阪   大阪府  47 青森市   青森県  92 松江市  島根県   137 日田市  大分県
3 名古屋市 愛知県 48 福井市   福井県  93 沼津市  静岡県 138 土浦市  茨城県
4 京都市 京都府   49 川口市   埼玉県  94 宇治山田市三重県 139 彦根市  滋賀県
5 横浜市 神奈川県 50 秋田市   秋田県  95 宇和島市 愛媛県 140 鶴岡市  山形県
6 神戸市 兵庫県   51 千葉市   千葉県  96 小田原市神奈川県 141 池田町  北海道
7 広島市 広島県   52 盛岡市   岩手県  97 小松市  石川県 142 玉野市  岡山県
8 福岡市 福岡県   53 久留米市 福岡県 98 弘前市 青森県 143 松阪市 三重県
9 川崎市神奈川県 54 若松市 福岡県 99 岩国市 山口県 144 上田市 長野県
10 呉市 広島県 55 宇都宮市 栃木県 100 船橋市 千葉県 145 飾磨市 兵庫県
11 八幡市 福岡県 56 旭川市 北海道 101 佐賀市 佐賀県 146 川内町   青森県
12 長崎市 長崎県    57 前橋市   群馬県  102 東舞鶴市 京都府 147 能代市   秋田県
13 仙台市 宮城県   58 桐生市   群馬県 103 鳥取市  鳥取県   148 立川市   東京都
14 札幌市 北海道   59 戸畑市   福岡県 104 半田市  愛知県 149 西条市   愛媛県
15 静岡市 静岡県   60 岡崎市   愛知県 105 熊谷市  埼玉県 150 八代市   熊本県
16 熊本市 熊本県   61 日立市   茨城県  106 米沢市  山形県 151 伊丹市   兵庫県
17 佐世保市長崎県 62 延岡市   宮崎県  107 尾道市  広島県 152 下松市   山口県
18 函館市 北海道 63 大分市   大分県  108 足利市  栃木県 153 三島市   静岡県
19 下関市 山口県   64 長野市   長野県  109 福島市  福島県 154 宮古市 岩手県
20 和歌山市 和歌山県 65 八戸市 青森県 110 会津若松市 福島県 155 佐伯市 大分県
21 横須賀市神奈川県 66 松本市 長野県 111 明石市 兵庫県 156 新宮市 和歌山県
22 鹿児島市鹿児島県 67 高崎市 群馬県 112 米子市 鳥取県 157 萩市 山口県
23 金沢市 石川県 68 一宮市 愛知県 113 直方市 福岡県 158 浜田市 島根県
24 堺市 大阪府 69 山形市 山形県 114 飯塚市 福岡県 159 倉敷市 岡山県
25 尼崎市 兵庫県 70 津市 三重県 115 岸和田市 大阪府 160 酒田市 山形県
26 小倉市 福岡県 71 清水市 静岡県 116 小野田市 山口県 161 福知山市 京都府
27 大牟田市福岡県 72 大津市 滋賀県 117 瀬戸市愛知県 162 八幡浜市 愛媛県
28 岐阜市 岐阜県 73 長岡市 新潟県 118 豊中市大阪府 163 敦賀市 福井県
29 浜松市 静岡県 74 宮崎市 宮崎県 119 諌早市長崎県 164 唐津市 佐賀県
30 小樽市 北海道 75 水戸市 茨城県 120 平塚市神奈川県 165 高山市 岐阜県
31 岡山市 岡山県 76 吹田市 大阪府 120 新居浜市愛媛県 166 栃木市 栃木県
32 新潟市 新潟県 77 別府市 大分県 122 釜石市岩手県 167 島原市 長崎県
33 豊橋市 愛知県 78 釧路市 北海道 123 桑名市三重県 168 高田市 新潟県
34 門司市 福岡県 79 八王子市 東京都 124 鎌倉市神奈川県 169 平市 福島県
35 布施市 大阪府 80 奈良市 奈良県 125 岡谷市長野県 170 七尾市 石川県
36 富山市 富山県 81 銚子市 千葉県 126 伊勢崎市群馬県 171 舞鶴市 京都府
37 徳島市 徳島県 82 大宮市 埼玉県 127 津山市岡山県 172 柏崎市 新潟県
38 松山市 愛媛県 83 浦和市 埼玉県 128 芦屋市兵庫県 173 洲本市 兵庫県
39 西宮市 兵庫県 84 高岡市 富山県 129 三原市広島県 174 中津市 大分県
40 高松市 香川県 85 防府市 山口県 130 徳山市山口県 175 海南市 和歌山県
41 室蘭市 北海道 86 都城市 宮崎県 131 川越市埼玉県 176 館山市 千葉県
42 高知市 高知県 87 市川市 千葉県 132 山口市山口県 177 飯田市 長野県
43 姫路市 兵庫県 88 郡山市 福島県 133 藤沢市神奈川県 178 丸亀市 香川県
44 四日市市三重県 89 福山市 広島県 134 帯広市北海道 179 多治見市 岐阜県
45 甲府市 山梨県 90 大垣市 岐阜県 135 三条市新潟県 180 熱海市 静岡県

どれだけ、爆撃されたか、知っている人は、殆どおられないと思います。

都道府県別被害数をご覧ください
調査団体、研究者、新聞社各紙によってばらつきがあり、約24万から100万人と考えられている。
と書いてありますが、日本の場合は、どこの戦死者も、遺骨はなかったかも知れませんが、遺族の方は、お墓を作られてますから、これから調べても調べることが出来ます。

 中国は、最近、南京で日本軍は、虐殺をして、120万人(?)も殺されと主張していますが、以前は、4万人ぐらいであったのが、どんどん被害が増えて、120万人と報道されています。

 広島は、20万人ですから、どれほど、日本軍の虐殺がひどいものであったかを主張しています。

 1つの町で、いくら中国の人口が、日本の10倍としても、有り得ない話です。


話題が逸れました。
ここに記された爆撃地には、戦後、日本人が生きていけないほどのダメージを与えられるものがあったことになります。

 それは、飛行場であり、工場であり、絹の生産地だったと考えています。

例えば、岐阜市をクリックしてください。 (ウッキペディアの画面からご覧ください)
次は 歴史沿革をクリックしてください。

空襲は、次の様に書いてあります。
1945年(昭和20年)7月9日 - 岐阜空襲。死者863名、負傷者520名、焼失戸数2万426戸

岐阜空襲をクリックしてください。
次は、鏡島村をクリックしてください。

この村の事は、次の様に書いてあります。こんな小さな村をどうして、爆撃したのかと思われますか。

鏡島村(かがしまむら)はかつて岐阜県稲葉郡に存在した村である。 現在の岐阜市西部に該当し、長良川の東岸・南岸である。 奈良時代、この地は乙津島と呼ばれていたという。伝承によれば、813年(弘仁4年)、嵯峨天皇の勅命を受けた空海がこの地に赴き、秘法を用いて龍神に向け鏡をかざしたところ、この地が桑畑に変わったという。このことからこの地を鏡島と名づけたという。
岐阜県稲葉郡と名付けられていますから、この一帯は、稲作が大半であったと思われます。

アメリカは、どうして、この様なことを知っていたのでしょう。
マッカーサーは知っていたのです。 これは、平安時代の話です。

 滋賀県内の空襲に新見解 長浜北星高教諭、米軍資料分析し本出版http://www.sankei.com/region/news/140815/rgn1408150068-n1.html

この資料は、始めてみましたが、 日本人を虫けらのように殺したうえに、 ポツダム宣言を出して、直ぐに、広島と長崎に原子爆弾を落としました。 

その前に、ここには書かれていませんが、電磁波を使って、名古屋で地震と津波で攻撃して、 ビラを撒いて楽しみました。 日本では、ニュースにもなりませんでしたが、この事を最近になって、テレビで放映したところ、アンウンサー夫妻はも殺されました。
 このようなことを書いている私も殺されると思いますが、 原子爆弾は、落とさなくて良かったことが判ります。

 現在は、アメリカとオーストラリアと日本だけが、取り残されて、中国と戦争になりそうな気配ですが、このようなアメリカですから、何時、二の舞をくらうか判りません。 せめて、防衛の意識だけは持ちませんと、中国だけではなくて、アメリカとロシアからも電磁波の攻撃を受けるか分かりません。
 
 このようなアメリカに対して、日本軍では、「武士道」を毎日の教材として、兵隊を教育していたとある本に書いてありました。 
 卑怯なことはしないという気持ちは、今の日本人でも、誰しもが持っている気持ちです。



 

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北6) [神社からさぐる歴史]

 滋賀県の湖北に、式内社がどうして多いかの理由に拘っています。全く関係の無い所から、考えようとしています。

 次の記事を読んでください。
マッカーサーが、1951年のアメリカ軍事外交委員会で、 日本の戦争は“生存”のためだったと証言

 第二次世界大戦後、珍しいことに、戦争を引き起こした日本人をさばくために、裁判が行われました。その時の内容は、よく把握していませんが、日本は[侵略戦争を起こした]が、裁判を起こすにあたって、前提にありました。

当然ですね、戦争に勝った方の国は、間違っていたから、負けた国が、裁判をして、勝った国の責任者を死刑にするということは有り得ない話でした。

正式には、極東国際軍事裁判と云うらしいですから、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4
 お読みください。

これは、第二次世界大戦で日本が降伏した後の1946年(昭和21年)5月3日から1948年(昭和23年)11月12日にかけて行われた裁判です。

所が、どうしたことでしょう。
マッカーサーは、日本は、[侵略戦争を起こした]のでは無かったと証言したのです。 [侵略戦争]でなかったのであれば、裁判は無効です。しかし死刑になった人は戻りません。

その証言の中身が問題なのです。
このブログの方の文章をお借りしますと、
 「日本は八千万に近い膨大な人口を抱え、それが四つの島にひしめいているのだということを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接したいずれにも劣らない優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けている時よりも、働き、生産している時の方がより幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでもよいようなものを発見していたのです。  これほど巨大な労働力を持っているということは、彼らは何か働くための材料が必要だということを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らは手を加えるべき原料を得ることができませんでした。日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在していたのです。  もしこれらの原料の供給を断ち切られたとしたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。したがって彼らが戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」

文章が長いので、もう少し、部分的に記します。
日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如している。 

日本は、ほとんどの物をアメリカを初めとして、多くの国から、輸入していたのを知りながら、アメリカは、停止して、日本は怒らせるようにしたと書いてあります。そして、誰でも知っている真珠湾攻撃となりますが、怒って、攻撃して来るのも知っていましたから、沈没されてもいい軍艦を並べていましたから、人敵被害も軽微であったとされています。

この証言は、日本人は、外務省の人すら、知らなかったと、渡部昇一氏が、『歴史通 7月号』に書いて居られます。ご自分も知らないから、東大に電話をして聴いたら、やはり皆さんご存じがなくて、調べて教えて貰ったと書いてありました。 それは、何所に掲載されていたかと云いますと、アメリカの新聞に載っているそうです

ということは、アメリカ人であれば、多くの人は読んで居られて、知っている筈なのに、日本が、無茶苦茶な戦争をしたから、原子爆弾を落としたのは正しかったのだと。 ・・・・
 
 それがどうしたのだと云われそうですが、アメリカ人が、本当に、今でも、思っているのであれば、それでいいと思います。
日本人も、今でもそのように思っています。国会議員も全員、そのように思っています。 

そのように思わせたのは、中国と韓国です。
 
中国、抗日戦争勝利70年の軍事パレード 
https://www.youtube.com/watch?v=qeZ3VXCHwNI
 もっとも、残虐な日本人に、 私達中国は、70年前に勝ったのですと アピールしたのですか。 そうではありませんね。 アメリカまで、飛ばせるミサイルはこれだけありますよとアピールしたのだと思います。

中国は、本気で、日本を叩くつもりらしいです。

【米イージス艦南シナ海派遣】「侵略者を撃沈せよ」「南シナ海に防空識別圏を」中国で飛び交う強硬論、習政権は抑制に躍起 http://www.msn.com/ja-jp/news/world/%e3%80%90%e7%

かつてのアメリカと同じやり方で、 中国の国民が、日本人は ケシカラと思わせるのに成功しました。

しかし、気が付いたら、アメリカと同盟国は、日本とオーストラリだけです。

しかし、アメリカ人は、日本人を真から信用するよりも、下の下に見ています。 

このような事を知った上で、覚悟は必要です。 憲法に書いてあるから、戦争は放棄するでは、国を守れません。

 こんな文章を書いている場合ではないように思います。

上に書きました産経新聞の記事は、周主席が、国民の怒りをおさえようとしていると書いてあるのは、間違いです。 怒らせることに成功したのです。

『楽しい人生』---私のブログ
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/
に、10月25日まで、9回、「日本を潰したい中国」を書いてきました。 軍備をしなくても、日本は潰されることはないのだと書き続けました。これからも、同様に、 潰されることは無いのだと書こうと思っていますが、韓国は、アメリカ中に、慰安婦を慰める像を立て続けています。 アメリカ人は、信用するでしょう。

日本人は、 正しい事をすれば、世界の人が、信用してくれると思っています。

インドネシア新幹線、真に敗れたのは誰か http://toyokeizai.net/articles/-/87558
 私は報道からの内容しか知りませんか、 インドネシアは、これまで、アジアの国では、一番、援助をしてきたと書いてありました。 このような援助は、なんにもならないことが判りました。 それでも、安倍首相は、どんどん援助すると言っておられますが、日本の防衛に回す必要があると思います。 何に使うのかと言いますと、武器ではなくて、電磁波による攻撃を避ける技術の開発です。

中国は、先日、イギリスへ行き、原子力発電所の建設の商談に成功しました。 イギリスは、アメリカと離れる事を決断しました。
 その時のパーティで、中国は、何度も、日本人の残虐さをアピールしたと産経新聞は、報道しましたが、他のメディアは、商談のことは、報道しましたが、パーティの事は、報道しませんでした。

戦争にむかって、各国は、どの国と組むかを決定したようです。

一旦、怒りだした中国の国民を抑えることは、周主席でも、抑えることは無理だと思います。

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北5) [神社からさぐる歴史]

 式内社と祭神 
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page809.html
 をご覧ください。

全てを調べたわけではありませんが、自分が住んでいる町を中心に考えますと、東西より、南北の町同士の交流が良かった様な気がします。
 これは、どうしてかと云いますと、日本列島は、多くの場合、南北に山が走っていますから、東西には、交流がしにくいからだと思います。

この様に、考えて上記の式内社の一覧表を眺めますと、上下に、道が走っていることが分かります。
 滋賀県は、米原から、北陸道(国道8号線)と、東山道(国道365号線?)に分れます。

東山道は、余り聴きなれませんが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E9%81%93  の地図をご覧ください。
• 近江国(現在の滋賀県)
• 美濃国(現在の岐阜県南部)
• 飛騨国(現在の岐阜県北部)
• 信濃国(現在の長野県)
となります。
 此のうち、近江国が京都に近いので、155社で多いのですが、その内、湖北に多いことが分かります。
 
 式内社が制定された927年は都は、京都ですが、その前は、大津に近江京が作られたのは、663年の白村江の戦いの後になります。
そうであれば、大津も南の所で、式内社がおおくて良い筈ですが、湖北に多い理由が判りません。


所が、余呉の辺りが、南北に通行するのが大変だったようです。その為に、賤ガ岳を制するものが、有利になった様に思われます。

式内社は、絹を生産する村に特権を与えたと考えています。
 生産された絹は、京都・奈良・大阪で消費されましたが、その多くは、畿内でも生産していたことが分かります。しかし、山陰道では、但馬を筆頭にして、丹後と丹波から供給されたと考えます。

この様に、
 式内社と祭神 
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page809.html
を立てに眺めて下さい。
 近江国は、式内社が155社あると云うことは、特殊なことになります。

小さな発見・新しい発見 滋賀県の式内社(湖北4) [神社からさぐる歴史]

ここ10年ぐらいは、式内社を主に訪れています。
 なにが役に立つのかと云いますと、式内社は、927年に決められました。

 と云うことは、其の地に、927年より以前から神社は存在した可能性があります。誰が制定したかといいますと、藤原氏が、長い事掛かって制定し、その後、この村を中心にして、式内社のある集落は、どんどん村人の人数が増えたと推理しています。
 それだけではなくて、裕福になりましたから、現在でも、全国に存在していると考えています。
 元々は、住民は、同じ先祖を有する人達が、神社を作りお祭をしたのではないでしょうか。
 いつ頃から藤原氏はこのような神社をつくるようになったかと云いますと、645年(大化の改新)からではないかと考えています。

漢字が中国から伝えられますと、記録として残されるようになり、ただ、暗号の様に、呼び習わされていた所に地名が漢字として記録されるようになり、歴史が生れるようになったと考えます。

このようなことを幾ら書きましても、推理するだけで、何も根拠はありませんが、式内社のある所に共通する歴史は、その廻りでは、絹が生産され、絹織物が作られていました。そして、現在でも、絹が生産されているところは、式内社と重なります。

 所が、この絹を求めて日本にやってくる人がいました。
シルクロードという道があることは、皆さんご存じですが、何時からだと云いますと、紀元前かららしいと云うことが分かってきました。

 古い時代は、ユダヤ人が絹を運んでいたようです。

 その後は、中国人と韓国人の人が多くなりました。

滋賀県は、その後、朝鮮半島の人が渡来されたと見え、その痕跡は、神社にも残っていることになります。

『金 達寿』のお名前で、素晴らしい研究が一杯です。『日本の中の朝鮮文化』とタイトルで、随分執筆されています。

 滋賀県と関係ある書物は、
『司馬遼太郎の風景 2』 日本放送出版 1998年
『近江古代史への招待』 松浦俊和著 京都新聞出版センター 2010年
『滋賀のなかの朝鮮』 朴鐘鳴編著 明石書店 2003年
『近江朝と渡来人』 金達寿著 雄山閣出版 1996年
『古代近江の原風景』 松浦俊和著 サンライズ出版 2003年
『日本の中の朝鮮文化 3』 近江・大和 金達寿著 講談社 1972年
『近江・大和の古代文化論』 児玉正幸著 文理閣 1994年
『日本と朝鮮の関係史』 日朝友好促進京都婦人会議編 アジェンダ・プロジェクト 2004年
『古代豪族と朝鮮 』京都文化博物館編 新人物往来社 1991年

出来れば、この方が見付けられたこと以外で、なにか
発見出来ないかと考えている所です。

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