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No12 天御中主尊神社 [神社からさぐる歴史]

はじめに 神社から探るは、現在、No36ですが、No12が抜けていましたので、今回、掲載します。

No12 天御中主尊神社
神社からさぐる歴史 というタイトルにしていますが、神から探ると言ってもいいかもしれません。正しい日本史を解き明かそうと、考古学から研究を進めておられる方もおられます。しかし、たとえば、古墳がいつできたものか、誰の墓であるか判っても、日本の歴史に迫ることはできません。
 考古学からのアプローチのすぐれた所は、記録が残っていない古い時代を解き明かすには、威力を発揮します。
 神社はいつ頃から出来たのか判りませんが、記録に残っているものと組み合わせますと、いい線まで迫れるのではないかと考えています。

タイトルに掲げましたのは、古事記の一番最初に出てくる神の名前を付けた神社です。
書物によって、表記のしかたが異なります。

古事記-------------------天之御中主神
古語拾遺-----------------天御中主神
日本書紀・先代旧事本紀----天御中主尊
伊勢国風土記逸文・住吉大社神代記--天御中主尊
新撰姓氏録・続日本紀----天御中主命
どの資料に掲載されているかは、つぎをクリックしますと、みることができます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A0%E5%8C%96%E4%B8%89%E7%A5%9E

天御中主尊神社は、他にもあるかも知れませんが、私は、滋賀県近江八幡市中之庄で見つけ行ってきました。社はこじんまりしたものですが、綺麗に掃除がしてあり、大切に守られていると思いました。祭神は勿論、天御中主尊と思われます。創建された時は、神社がどのように呼ばれていたか判りませんが、天之御中主神か天御中主尊が祀られていたと思います。
その後、中之庄の付近は、日本書紀などを書いた人たちによって、支配されるようになったと推察します。神社を守っておられる人は、神社の名前が変わろうが、祭神が変えられようが、何らかの形で天御中主尊を先祖と思っておられる方によって、1000年以上祀られ続いていると思います。
天之御中主神は、古事記によりますと、高天原にいた神ということになっています。でも、近江八幡市中之庄のあたりは、昔、高天原であった可能性はありません。近江八幡市に住む人の話によると、この辺りは、高天原だったという人もいるとお聞きしました。
インターネットで調べたところでは、滋賀県に高天原があったということを書いてあるのは、見つけましたが、近江八幡市ではありませんでした。

私は、ヒルゼン高原が、高天原であると考えています。その根拠は、「日本大好きシリーズのNo120」http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/2007-07-09
から数回にわたって書きました。大まかなことを書きますと、古事記に登場している神が殆ど揃っているということと、その神々が隠岐島にも祀られているということです。
ヒルゼン高原が、高天原であるなら、天御中主神もどこかに祀られていても良いはずですが、見つかりません。
古事記に戻って検討してみます。
「天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神【訓高下天云阿麻下此】次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並獨神成坐而。隱身也」

上に記しましたように、三人の神の名前が書かれています。多くの人は、この三人が、地球を造ったように考えておられます。しかし、そのようなことはあり得ません。どうしてかと言いますと、アマテラスは、高天原が次第に住みづらくなってきましたので、新しい都を求めようとします。ところが、つもりをしたところには、すでに人が住んでいますので、交渉して立ち退いてもらうことになりました。その時に、多くの神に集まってもらい、皆の意見を聞きます。その時の指導者が高御産巣日神と天照大御神命です。 そのときに決まった代表者の名前が、天菩比神です。 その後、アマテラスの孫のニニギ命が降臨したストーリーになっています。だから、三人の神は、「並獨神成坐而。隱身也」と書いてありますが、高御産巣日神は、高天原へ戻ってきたと思われます。
「日本大好き No132 イザナギは近江へ行った? 」
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/2007-07-22
において、イザナギが近江の多賀に行ったことは古事記に書かれていますと書きました。しかし、日本書紀には、イザナギは淡路島の多賀に行ったと書いてあります。どちらかが、間違っているらしいことを書きましたが、私は近江の多賀に行ったと考え、白王や多賀や宮内の地名のことを書き、古事記が正しいのではないかと記しました。

このように大将が、次に攻めるというか、支配しようとするときには、必ず、調査を行います。天之御中主神は、そのような役目を負っていたのではないかと思っています。イザナギは、ツキヨミに、「夜之食國」の統治を、アマテラスに高天原の統治を命じます。その後、アマテラスを福知山近辺に派遣します。このようなときには、事前にしらべる必要があります。
「新しい日本の歴史No90アマテラスとツキヨミ福地山へ進出  2005.11.1」
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/20051118 に少し書きました。
天之御中主神は、イザナギの秘密部隊というかアメリカのCIAのような役割の人ではなかったかと思っています。そのために、古事記の最初に出てくるだけで、以後、どこにも現れません。

日本書紀にも登場しません。日本書紀の作者は、知っていたらしいです。その証拠に、別の書きものの、第4番目には書き記しています。これは、あくまで、このような記録があったという書き方で、日本書紀の本文では、国常立尊が最初の神です。では、この神は、どのように出来上がったのかが、その前に書いてありますから、ご自分で確かめてください。
ずっと、戻りますと、変なことが書いてあります。---大変尊いお方は「尊」といい、それ以外のお方は「命」といい、ともにミコトと訓む---と書いてあります。このように書いておかないと、誰にも判らないといけないので、注意書きを入れたと思われます。それまで、古事記と同じように、「神」とされていたか、「命」ではなかったかと推察します。

私の推理は、天之御中主神はあちこちで、調査を行いましたが、その痕跡が、現在祀られている神社と関係があるのではないか。 滋賀県近江八幡市中之庄は、すぐ、東に白王という地名があります。白王は、イザナギと関係があると思われます。(白山も関係があると考えています。これから調べるところです)  白王から水路を隔てた本土側に、多賀があります。

滋賀県に雪野山があり、頂上に前方後円墳があ、三角縁神獣鏡が出土したとありましたので行きました。http://www.bcap.co.jp/yokaichi-kanko/kankospot/yukinoyama.html
雪野山は別名、龍王山と言いますから、麓には、中国人が住んでいたと目星をつけて行きました。山の南の麓には、龍王寺というお寺がありました。こちらは、調べていません。その隣に「天神社」がありました。建替え中で、社はありませんでしたが、祭神が、天御中主神と書いてありました。
「天神社」はどのように読むのか判りませんが、「天神 社」ではなく、「天 神社」であることが判ります。
この時に、どうしてこんな所に、こんな神さんが祀られているのだと思っていましたが、やはり、紀元前には、天御中主神に関係のある人が、住み着いたと考えるのが、自然のように思います。この山に登ってください。戦略的に重要な場所であることが、すぐに分かると思います。

古事記に一度だけ、出現した天之御中主神ですが、このような見方をしますと、イザナギが近江の多賀にきたことの補強になります。

試しに、天之御中主神をキーワードにして、検索してヒットしたものを全部読んでください。本では、中西 進氏の『古事記を読む1』は、素晴らしい創造力や資料、他の人の説などを交えて、見事に論破しておられます。

私のお粗末です。古事記の最初の部分は、「古事記の新しい読み方
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page196.html に書いています。古事記は、なにも宇宙がどのようにして出来たかなどとは、書いてはありません。
これを読んだ日本書紀の編纂者は、よく意味が判らなかったのでしょう。みんなで、宇宙は、地球はどうしてできたか を考えて書きました。これはこれで見事です。現在でも、通用するような宇宙のでき方を書いています。
それだけに、みなさんは、古事記も日本書記も同じようなことが書いてあると捉えておられます。
両方とも、わずかの文章です。全く違うことが書いてあります。読んでください。

天御中主尊神社には、「天」がつけられています。天孫族のNO2であったと考えています。 

追記 ほかに、次のような神社に、天之御中主神が祭られています。一度、調べてください。
相当、遊ぶことができます。
天御中主神社 新宮市佐野山田 
青麻神社 宮城県仙台市宮城野区岩切字青麻沢30
祭神 天之御中主神・天照大御神・月読神
岡太神社 兵庫県西宮市小松南町2-2-8
  祭神 天御中主大神 合祀 高皇産靈神、素盞嗚神、稻田姫神、大己貴神、蘇民將來
岡太神社は、当時、海の中だと思いますが、・・・。いろいろ考えるだけで楽しいです。近くの人は行かれたら良いかも知れません。


No36 岡山県の気になった古墳 [神社からさぐる歴史]

岡山県の古墳の話は、これでお仕舞にします。前回は三輪神社に注目しましたが、元はと言いますと、宮山遺跡の前方後円墳から、芋つる式に、三輪神社に行きつきました。この周りにも、前方後円墳があり、小さな古墳も33基ありました。
 造山古墳の周囲の気になる古墳だけを調べてみましたが、まだまだ いっぱいあることが判りました。古墳の名前は判りますが、データーがありません。
 また、見つかりましたら、その度に考えてみようと思います。

最後に、備前市の鶴山丸山古墳について書いてみようと思います。データーはインターネットからのみ集めました。従いまして、正確さは保証できません。

どの点で気になったかと言いますと、随分前に、牛窓に行った時に、牛窓の近くにある古墳を調べました。同時に、三角縁神獣鏡のことを調べていました。
 この時に、鶴山丸山古墳から30面の鏡が出土したということが頭に残りました。
鏡が沢山出土した古墳となりますと、京都の椿井大塚古墳、奈良の黒塚古墳、神戸市の西求女塚古墳、岡山県備前の備前車塚古墳などを先日、挙げました。
 鶴山丸山古墳から出土した鏡は、どこにあるのか調べていましたら、8面だけ、東京国立博物館にあるのが判りました。
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?pageId=B06&processId=01&event_id=4350&event_idx=1&dispdate=2007/08/31
①内行花文鏡 ②変形方格規矩鏡 ③変形四神四獣鏡 ④変形三神三獣鏡 ⑤盤龍形鏡 ⑥だ龍鏡 ⑦変形四禽鏡 ⑧変形五獣鏡 です。
これらの鏡を、読まないで飛ばしますと、いつまでたっても、鏡のことが判りませんので、読むだけではなく、挑戦することにしました。
①内行花文鏡
写真山口県博物館 (鶴山丸山古墳のものではありません)
http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/script/detail.php?no=547
写真: http://www.bekkoame.ne.jp/i/ge6128/gkj.html
平原遺跡1号墓より出土 http://www.ss.iij4u.or.jp/~hsumi/docs/iseki/hbibutu.htm

⑥だ龍鏡 写真: 東京国立博物館
http://www.tnm.go.jp/jp/servlet/Con?processId=00&ref=2&Q1=&Q2=&Q3=&Q4=________1_41_&Q5=&F1=&F2=&pageId=E15&colid=J35507

鏡のことは、全く勉強していませんから、よく判りませんが、内行花文鏡は、銅鏡が沢山出土した古墳に見られます(?)。京都の椿井大塚山古墳からも内行花文鏡が出土しています。内行花文鏡は、前漢代末期に成立し、後漢~三国時代において最も普及した鏡と言われています。仿製鏡(中国鏡を模倣した国産鏡)もあります。中国製とは文様も違うし、大型が多いそうです。
鶴山丸山古墳からは、上記以外に、三角縁神獣鏡が出土していますが、ここの鏡と同じ鋳型で作られた三角縁神獣鏡が、会津大塚山古墳で見つかっています。
 
鶴山丸山古墳は、岡山県下では、最大の円墳です。その大きさは、南北68m、東西55mの岡山最大の円墳。くり抜き式石棺の蓋に家形文と日輪文を浮き彫りにした石棺系装飾古墳です。
竪穴式石室で、竪穴式石槨天井石に突起があるそうです。同じような古墳は、香川県けぼ山古墳があるそうです。石棺は確か、四国の石だったと思うのですが、確かめようとしましたら、証拠が見つかりません。

データーが、頼りないものになりました。
 出土した多くの鏡が仿製鏡であると、これ又、見た記憶があるのですが、見つかりません。
鶴山丸山古墳は、いつ頃の古墳かを考える時に、竪穴式石室ですから、古いことになります。いつか判りません。沢山の鏡が入っていますから、漢人の将軍級の人であったと考えています。この種の将軍の古墳は、前方後円墳が多いのですが、どうやら、貧しくなってきたために、円墳になったのでしょうか?
孝霊天皇の御代に大吉備津彦命が、吉備征伐を行ないました。
「神社から探る歴史」の「No28温羅伝説」http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/2007-09-04
に書きましたように、漢人の兵士は全滅に近いぐらいに負けたと思います。
 漢人の将軍は、本国を出る時に、内行花文鏡や画文帯神獣鏡などを自分用に貰って持っていたと思われます。他の鏡は、部下に与えるために持っていたと思われますが、三角縁神獣鏡は魏の国に変わってからの鏡であろうと思っています。

 この古墳が、仿製鏡が多いとしますと、卑弥呼の時代が終わってからのことであろうと思っています。
朝鮮の三国史記新羅の173年のところに、卑弥呼が表敬の使者を出したことが書かれています。なにも用事もないのに、使者を送るわけがありませんから、なにかの交渉に行ったのではないかと思っています。
 日本の古代史は、絹を巡って、中国人とユダヤ人と天皇家(中国の苗族)とが、争いながら、協力しながらの歴史ではなかったかと思っています。
神武天皇や景行天皇や仲哀天皇などの九州征伐。孝霊天皇の岡山征伐、その他、北陸や奥羽の征伐は、すべて、絹を巡る戦いだと考えています。
九州をほぼ、制覇するほど、漢人の勢力は強かったのですが、瀬戸内は殆ど、漢人が掌握しました。その時の、最大の拠点が吉備です。前漢時代です。
 従いまして、紀元前から、中国と日本は、資料がないだけで、頻繁人は行き来をしていたことになります。何かといえば、倭寇のことが取り上げられます。これは、被害を受けた方の歴史に残されています。倭寇とはべつに、交易があったはずです。
 この時のルートは、中国から朝鮮を経由し九州が主だったと思われます。

天皇家は、このルートを切断するのと、新羅は、そのことによって、中国からの脅威を取り除くために、日本と共同で「任那」を造ったのではないかと推察しています。これは、軍事施設だったのではないでしょうか?
この推理は、中国が負けましたので、歴史書に残さなかった可能性はありますが、新羅に残っていても良いと思われます。もし、残っていますと、その後、中国と一緒に百済をやっつけるということは起こらなかったと思われます。
 こうなりますと、中国の歴史と朝鮮の歴史の勉強が必要になります。

この仮説の良い点は、任那は、562年に滅ぶことになります。日本は、手放すのは、随分嫌であったように思われます。重要な施設であったことになります。この軍事施設が完成しますと、中国は、別のルートで絹を運ばなければなりません。
 それまで、中国の将軍は、銅鏡や鉄鏡を中国から持ってきていましたが、持って来ることができなくなりました。部下に与える鏡が手に入らなくなりました。そこで、日本で作ることになります。
 まあ言えば、偽物です。貰う方は有難味が減ることになります。そこで、次第に、立派に見えるように、大きくきれいに仕上げるようになったとの推理です。
 鏡が手に入らなくなりますと、逆に、中国への絹の貿易は止まります。中国の歴史は、知識ゼロですから、どうして、前漢が滅びたのかも知りません。
 神武天皇に叩かれて、弱り目の中国は、後漢の光武帝は建武中元二年(57年)に奴国の王に金印を与えて、自分の家来にしようとしています。なぜ、そのようなことを言うかと言いますと、前漢と後漢の間に、「新」という国がありました。その国が発行した貨幣を貨泉と言いますが、日本で沢山見つかっています。
 前漢が崩壊したら、それに代わって、 「新」の人がやってきたということを示しています。「新」の人は、日本を必要としていたのです。これが、前漢が滅びた理由の一つに、日本との絹貿易もあったのではないかの証拠としています。
 190年ころにスペイン風邪が猛威をふるったと思われます。この頃、中国と朝鮮が交流はなかったのでしょうか? 朝鮮の記録には、日本から避難民がきたことは書かれていますが、朝鮮で死者が多数出た記録はありません。
 日本では崇神天皇の御代に、国民が死に絶えたとありますから、吉備の人たちも死んだと思われます。
崇神天皇は、卑弥呼に新羅と共同で日本へのルートを遮断したと思われます。
もう一度、記しますと、173年に新羅に使者を送っています。防衛施設が完成しますと、完全にストップし、日本にいる漢人は困ったはずです。
 前漢のときと同様に、後漢も崩壊することになります。
その後、三国時代に突入します。すぐに、呉と魏の人たちがやってきます。呉は九州へ。魏は丹後半島へ。
 卑弥呼は、魏の軍人に殺されることになります。248年のことです。

 流れは、ご理解できたでしょうか? 卑弥呼って誰れ? 疑問だらけとの推理です。
歴史は、これだけではありません。この後も、ずっと、流れて行きますが、このようにつかみますと、歴史になぞはなくなります。

しばらくは「神社から探る歴史」は、中断して、また、「日本大好き」のカテゴリーの中で、先に書きました歴史の流れをよりしっかりしたものにしていこうと考えます。


No35 総社市の三輪神社 [神社からさぐる歴史]

このシリーズは、神社を調べることによって日本の歴史を探ろうというのが、私のつもりですが、すぐに、遺跡から出土したものに頭が吸い寄せられてしまいます。
どこの資料館や博物館に行っても、同じ傾向で展示、解説がなされています。

吉備の古代を神社から探ってみます。もっとも、紀元前に神社があったのかと考えますと、自信がなくなりますが。

三輪神社は、全国にいっぱいあると思います。そこで調べますと、由緒には、殆ど、奈良の大神神社から勧請したと書かれていると思います。
 ある時に、新しい村を開墾して作ることになるとします。高尾村の人たちが、開拓をして出来上がった村には、新高尾村と名付けます。 これは隣の土地に新しい村が生まれた時に、「新」がつけられたりします。村の者一族が、集団で他の地域に移動することも生じます。このようなときには、新しい土地では、自分たちがお祭りしていた神社を先に建てるのではないでしょうか?
総社市に三輪神社も、他の所にある三輪神社と同様に、奈良の大神神社から勧請したかどうかと言いますと、よく判りません。なぜ、判らないのかと言いますと、考えるもとになるデーターがないからです。
一方、奈良の大神神社は、崇神天皇7年に天皇が伊香色雄に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。日本書紀に書かれていることを元にして、確たる証拠が残っています。

一方、総社市に三輪神社のデーターを書いておきます。
総社市三輪に百射山神社が鎮座します。
 岡山神社庁のホームページには、由緒はつぎのように書かれています。
当社は、平安時代(794~1185)に完成した「延喜式」(えんぎしき)にも名を残している古社で、元は福山(倉敷、清音、山手にかかる標高302メートルの山)に奉斎されていたが、建武年中の福山合戦(1336)にて社殿を焼失した。
 後に隣山の幸山(こうやま)に遷座されたが、更に江戸時代の始め藩主池田光政公の命により寛文12年(1672)現在の宮山の麓へ移され今日に至っている。
 創建は不明であるが、御祭神の大山積命は伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の御子で、天孫瓊瓊杵尊(てんそんににぎのみこと)の后妃木花開耶媛命(このはなさくやひめのみこと)の御父神であり、第1代神武天皇の御代に伊予国(愛媛県)大三島に御鎮座された大神様である。
後の御代に命の御神裔五田守国勝長狭命(ながさのみこと)と宇津命(うつのみこと)が、水軍を率いて吉備の島々の賊を平らげ、滞在地の百射之山島(福山)に御祖神(みおやがみ)大山積命を奉斎したのが当社の始まりと伝えられている。
と書かれ、祭神は、大山積命 猿田彦命です。

合祀 御崎神社 吉備武彦命
合祀 三輪神社 猿田彦命 大物主命
写真と資料は、http://www.genbu.net/data/bicchuu/momoiyama_title.htm に詳しいです。

私が問題にしようとしている「三輪神社」は、百射山神社に合祀されている神社であるということです。この三輪神社に関するデーターは、祭神が猿田彦命 と大物主命だというだけです。
百射山神社の名前の由来は、由緒から、百射之山島(福山)からであることが判ります。それも、元々、三輪にあったのではなく、江戸時代になって移されてきたことが判ります。
 元々、此の地には、三輪神社と御崎神社があったところへ、百射山神社が移ってきたことになります。では、百射山神社は江戸時代の創建かと言います、判らないことになっています。
百射山神社は、延喜式神名帳に記載されている神社だからです。延喜式神名帳に記載されている百射山神社と現在鎮座している百射山神社が、同じ神社であるとは言えませんが、一応、同じであろうということになっています。
 延喜式内社であるとなりますと、900年頃には、すでに存在し、藤原氏の支配下にあったことになります。
ところが、百射山神社のあるところの地名は、三輪となっています。
合祀された由緒も良く判らない神社である三輪神社の名前を取って、地名が三輪となったは、考え難い推理になります。 この場合は、元々、三輪神社があって、主人が百射山神社と交代したと考えるのが、無理がないのではないかと思われます。

前回、三輪にある宮山古墳の主は、前方後円墳に葬られるぐらいですから、三輪の大物であったことになり、宮山型特殊器台と飛禽鏡が出土しましたから、紀元前か紀元後あたりの人でないかと推察しました。この頃に、神社らしき三輪神社があったかどうか分かりませんが、原型のようなものがあったのではと考えられます。
一方、奈良の大神神社は、日本書記によれば、崇神天皇の御代に造られた資料しかありません。
そうなりますと、変なことになります。
 総社市の三輪に住んでいた人たちが、奈良の大神神社を建てた、そればかりではなく、隣にある箸墓古墳から、円筒埴輪が出土しています。宮山古墳は前方後円墳ですから、箸墓古墳も造った可能性もあります。
 
ただ、祀られている大物主は、私は漢人ではないと思っています。宮山古墳の主は、漢人です。この辺りが、どうも、気持ちが良くありません。      

神社を調べることによって日本の歴史を探るつもりが、いつの間にやら、古墳の話ばかりになっていましたが、古墳の内容が判りますと、それを元に、また、このように神社のことに頭を回転させることができることのみを見て頂きました。結果的には、なにも発見できなかったことになります。 


No34 造山古墳とその周辺の古墳 –その3 [神社からさぐる歴史]

次に気になる古墳は、造山古墳と作山古墳を結ぶ延長線上にあります。総社市三輪にある宮山古墳です。三輪には、墳墓33基と前方後円墳1基があります。円筒埴輪の起源とされる宮山型特殊器台、特殊壷が大量に見つかっています。全体を総称して宮山古墳群と言われています。
 宮山古墳は長さ40メートルの前方後円墳で、後円部頂上に竪穴式石室をもつ。飛禽鏡や鉄族、剣が出土。
この飛禽鏡が注目するところです。 この鏡については、以前に調べてホームページ
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page494.html に掲載しています。また、それを元にNo145椿井大塚山古墳の周囲の古墳に文章を書いています。
http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/2006-01-23

その時の文を少し、手直しして、次に掲載します。
飛禽鏡という鏡があります。円鏡の背面に一羽の鳥が、中央の紐を背に中央にして、頭と尾部を上下に、羽を左右に広げた形を上から見た姿で文様化された図柄の鏡です。現在のところ、全国に7ヶ所(11ヶ所?)で発見されています。三角縁神獣鏡のように大きくなく、どれも9cm前後の大きさです。
 宮山遺跡        岡山・総社市三輪    前方後円墳?
 成山二号墳       京都・綾部市成山    円墳
 上大谷十五号墳      京都・城陽市久世    方墳
 岩内古墳群       福井・武生市岩内    土壙
 汐井掛遺跡?       福岡・鞍手郡若宮町   土壙
 赤塚古墳        大分・宇佐市高森    方形周溝墓
 若水A11号墳      兵庫・朝来郡山東町    円墳
飛禽鏡は枚数が少く、国産はなく、すべて舶載鏡と思われます。では何処から来たかとなりますが、中国の楽浪郡でよくは発掘されるそうです。楽浪郡の太守から、各豪族が貰った可能性が強くなります。各豪族は楽浪郡に行ったことになります。そのような資料は残っていませんから、楽浪郡の人が、皇帝から鏡を貰って、日本にやって来た可能性の方が大きいです。
いつ頃のことか検討しますと、楽浪郡は、前漢の武帝が前108年に朝鮮半島西部にあった衛氏朝鮮を滅ぼし,その地に楽浪郡を設置したのが始まりです。同時に真番・臨屯・玄菟の3郡も設置された。 しかし前82年には真番・臨屯が廃止され,臨屯郡北部の7県は楽浪郡に併合された。玄菟郡も前75年には遼東に移転している。成山二号墳から出土した飛禽鏡は舶載鏡であると書かれています。枚数が少ないので、飛禽鏡の可能性が強いと思われます。238年には、魏の国になっていますから、これ以前のものと考えられます。古墳の形態からすれば、紀元前の可能性が強いです。
上大谷十五号墳の所在地は、城陽市久世です。椿井大塚山古墳のある山城町のすぐ北に位置します。城陽市久世には中国人が早くから住んでいたことになります。
赤塚古墳は方形周溝墓から出土しました。方形周溝墓は前漢の武帝が、支配した楽浪郡にもみられます。方形周溝墓は、前方後円墳などと比較して、あまりにも沢山あるために、極普通のお墓だと無視しておられる方が殆どです。私は中国人の古い時代のお墓で、将軍級は前方後円墳などになりましたが、位の低いものは、方形周溝墓になったと考えています。方形周溝墓の多いところは、中国人が沢山住んでいた所です。

少し、強引な論法になっていますが、宮山古墳に葬られた主は、紀元前100年にやってきた可能性もあることになります。
 また、調べてはいませんが、上記の7枚の飛禽鏡の持ち主は、貰った人が同じか、他に共通するものがあるかも知れません。
 私が推理するところは、調べて書いてきた事柄は、すべて、絹に結びつくように思っています。群馬県の絹は、北陸と東海経由で、いろいろのところから、中国に運ばれましたが、はじめのうちは、九州に運ばれ、楽浪郡経由で中国、ヨーロッパに運ばれたと思っています。
又、話が横道へそれましたが、九州の漢人は、高梁川河口にたどり着きますと、少し、遡り三輪の地に本拠地を構えたと考えています。あくまで、推理ですから、此処でなければならない理由が必要ですが、考察していません。

この三輪の地には、三輪山があり、低い尾根上に宮山古墳群があります。この墳墓群に、土器棺に使われている土器を特殊器台と呼んでいます。この土器棺は宮山古墳でも出土し、その後、吉備でみられる古墳から出土する特殊器台の初期のものと考えられ、また、埴輪の元になるものと考えられています。
 この宮山型特殊器台が、奈良の箸墓古墳からも出土していることから、箸墓古墳は吉備の人が作ったという方も現れています。もう一つ飛躍して大和朝廷をつくったのも吉備の人である。これで、吉備に大型の古墳が出現していることが解けたとされている方もおられます。

このように考えますと、宮山古墳に葬られた人たちが、九州から移動し、続いて、造山古墳の人、作山古墳の人、続々と岡山にやってきた人を統括していたのが、130年ころの温羅であるというのが、吉備の古代史の流れになります。


No33 造山古墳とその周辺の古墳 –その2 [神社からさぐる歴史]

今回は、造山古墳から、少し離れた周辺の古墳を眺めてみます。一番気になるのが、作山古墳です。造山古墳よりやや南寄りの西3kmの平地にあります。総社市三須です。この線上に東から備中国分尼寺、県立吉備路郷土資料館、こうもり塚古墳、備中国分寺が真ん中に並んであります。
 作山古墳が気になる理由ですが、造山古墳と同じ方向に造られていることです。平行にあるということは、血液関係が近かったと思っています。

総社市教育委員会のホームページからのデーターです。
前方後円墳。 独立した小丘陵を削り整形、加工したもの。
全長約285m、後円部径174m、同高さ24m、前方部長さ110m、 同幅174m。
三段に築成され各段には密接して円筒埴輪。
造り出しは北側には存在。
外周には周溝はなし。
この古墳の築造は発掘調査がおこなわれていない。

墳丘の形態や円筒埴輪の研究から5世紀中葉頃の古墳とされていますが、歴史の流れからみますと、No28において、渡邉聡士氏のホームページでは、温羅は第10代崇神天皇のころ(第11代垂仁天皇のころ)、吉備の国に百済の王子と名乗る容貌魁偉の温羅がやってきたとされていますが、これは、日本書紀にも、崇神天皇の御代に、吉備津彦を西海に遣わしたと書いてあるから、このように書かれたと思っています。
温羅の伝説によると、温羅は百済の人となっていますが、私は日本書記の作者が、温羅が漢人であることを隠すために、吉備津彦という架空の人を使って、西海というどこかわからないところを書いて、ごまかしたのだと思います。
確たる証拠はありませんが、温羅の伝説の方も、創作で、実際になかったような構成になっています。日本書紀と古事記を読み比べますと、漢人である藤原不比等は、先祖の良からぬことや、自分たちに都合の悪いことは、悉く、抹消するように書いています。
特に、天皇が、伯耆の国におられたことや、高天原のことなどは、自分たちも理解できない部分もあったのかも知れませんが、判り易く書いてあるのですが、古事記に書かれていることが間違っているように書かれています。
またもや、脱線です。
温羅を攻撃したのは、孝霊天皇の皇子である大吉備津日子命と若建吉備津日子命であると書かれています。仮に、二人が20歳ころのこととしますと、紀元後120年ころのことになります。40歳ころですと、紀元後130年ころのことになります。

崇神天皇が、天皇になってすぐに、民がいっぱい死ぬできごとがあり、このことは、記紀に書かれています。日本書記を読んでください。意味が不明のことが書かれています。
この事件は、世界で流行したスペイン風邪の所為で、中国も日本もやられました。190年のことです。崇神天皇の妹は、248年ころに殺されています。崇神天皇は、258年ころに崩御です。スペイン風邪では、孝霊天皇と開化天皇が同じ190年に亡くなったと推察しています。
従いまして、吉備大臣の征伐は、日本書紀の説では、190年~258年の間になり、古事記の説によると130年頃となります。

造山古墳と作山古墳の主は、兄弟ではないでしょうか?  神武天皇が東征で、笠岡市の沖の高島に一時船を止めた時には、すでに、居たのではないかと想像しています。二人の兄弟を倒したかどうか分かりませんが、吉備大臣が大吉備津日子命の攻撃を受けたのが、130
です。その時は、吉備大臣はトップだったと思います。造山古墳と作山古墳の主が生きておれば、こちらがトップですが、その時は、全滅ですから、二人の墓は、もっと、小さかったと思われます。
 造山古墳の近くにある千足古墳のすべての石障の石は、九州の唐津湾岸周辺の砂岩製と考えられています。また、石室を構成した多くの板状の石のなかで玄武ないし安山岩系のものは、ともに北部九州から運ばれた石とおもわれる。
(『日本古代遺跡23 岡山 P124』より。)
千足古墳の主は、九州から造山古墳の主と一緒に岡山へ来た技術者ではないでしょうか? 銅鏡は、仿製五獣鏡ですから、岡山に来てから、えらくなって、造山古墳か作山古墳の主から拝受したのではないでしょうか?
榊山古墳の主は、朝鮮を経由してくる時に、連れてきた技術者ではないでしょうか?
この辺りは、全く、根拠はありません。


No32 造山古墳とその周辺の古墳 [神社からさぐる歴史]

もう一度、岡山県古代吉備文化財センター のホームページに書かれている造山古墳のことを記します。

この古墳は岡山市新庄下に所在し、墳長約360mをはかり国内で第4位、前方後円墳の墳丘は、三段に築かれ、その墳丘斜面には川原石の葺石(ふきいし)が葺かれ、墳丘には埴輪列が囲っている。埴輪には、円筒埴輪のほかに家・盾・靱(ゆき)・蓋(きぬがさ)などの形象埴輪も存在していることが、明らかとなっている。造山古墳、作山古墳とも発掘調査されていないため詳細は明らかではないが、断片的に出土している遺物から造山古墳が先に築造され、のちに作山古墳が構築されたと考えられている。

別に岡山市教育委員会のホームページには、「造山古墳の周辺には大小6基の陪塚と呼ばれる古墳があります。-------略-----その中のひとつ陪塚第5号古墳の千足古墳は千足装飾古墳とも呼ばれ、 全長75m、三段築成の前方後円墳です。吉備地方でもっとも古い形式の横穴式石室が築かれ、 石室内には直弧文が刻まれた石障があります。」

これだけのデーターから考えますと、造山古墳は、5~6世紀のころの古墳のようにも思われます。仁徳御陵も良く判っていませんが、こちらは、濠があります。大阪府高槻市の今城塚古墳も濠があります。これも陵墓に指定されていませんから、自由に入ることができます。こちらは、何度か発掘されて、その結果、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられています。ただ、不思議なことに、石室があるのかないのか発表されていません。発表されていないのに、石棺の一部が見つかった(?)ような記事を見たことがあります。
石棺が見つかっていないのに、どうして、石棺の一部なのか判りませんが、それが、阿蘇山麓のピンク石であったことが判っています。第10次の発掘のときのことを書いておられる方がありますので、こちらhttp://www.y-morimoto.com/kofun/h10_imashiro.html
を参考にしてください。このとき、私も参加しましたが、よく理解できませんでした。
その後、熊本県宇土市から産出する阿蘇ピンク石が近畿などの古墳の石棺に使用されていることと今城塚古墳とは関係ありませんが、読売新聞が主催して、阪府高槻市の今城塚古墳まで運搬するというイベントが行われました。テレビでの放映ですから、継体天皇と九州が関係あると思われた方は多かったと思います。

随分、造山古墳と関係のない今城塚古墳のことを書きましたが、今城塚古墳のピンク石が、石棺の一部であり、造山古墳の近くにある石棺が、造山古墳のものであると仮定しますと、今城塚古墳でも、埴輪がいっぱい出土していますので、関連があるなと思いました。こちらは、私がすんでいるところから近いですので、埴輪を造ったと言われているところも見てきました。埴輪を見ていますと、私の仮説の造山古墳は紀元前という数字は、とても出てこないことになります。今城塚古墳は5~6世紀とされていますが、こちらの方が説得力があります。二重の濠があるだけ、造山古墳の方が、今城塚古墳より古いかなと思います。

このように私の仮説は崩壊の感がありますが、造山古墳と今城塚古墳の主は、同じ仲間ではないかと考えています。
造山古墳のデーターが少ないので、少し、遠いですが、今城塚古墳と比較して考えてみました。
次に、岡山市教育委員会の「造山古墳の周辺には大小6基の陪塚と呼ばれる古墳があります」という文を検討してみます。仁徳御陵の周りには、見事に御陵に沿うようにお墓が見られます。これらは、確かに、陪塚と呼ばれていますが、本当でしょうか? 疑ったことはありません。しかし、最近は本当だろうかと少々疑っています。その内に、陪塚を調べてみたいと思います。

榊山古墳(第1号古墳)  前方後円墳    径35m(現状) 馬形帯鈎が出土
造山第2号古墳      方墳       一辺40m   外提の埴輪列が出土
造山第3号古墳      円墳?      径30m?    家形埴輪、短甲形埴輪
造山第4号古墳      前方後円墳    墳長55m   
千足古墳(第5号古墳)  円墳       別に記す   装飾古墳。横穴式石室。
造山第6号古墳      前方後円墳    径30m    横穴式石室
 榊山古墳と千足古墳は、駐車場から見えます。
写真は、岡山市教育委員会 http://homepage2.nifty.com/mike1203taiyo/kibiji/baicho/baicho.html
にあります。仁徳御陵のように周りではなく、前方部前面にあります。

千足古墳は墳長約74m、後円部径約55m、同高さ6.8 m、前方部長22mで、前方部が短い墳形である。前方部は一段、後円部は三段築成である。円筒埴輪がある。内部主体は、古式の横穴式石室で、内部に九州系の障壁があり、直弧文が彫刻されている。銅鏡(ほう製五獣鏡)、勾玉、鉄鏃、巴形銅器、管玉、小玉、斧、刀剣、甲胄出土。「九州系の障壁があり、直弧文が彫刻」が特徴です。

榊山古墳からは、馬形帯鈎が出土です。WEBには写真がありませんが、『日本の古代遺跡23岡山』に写真があります。現代でも通用するような 馬が走っているデザインのバックルです。朝鮮のものと書かれています。 

造山第2号古墳 
http://www.city.okayama.okayama.jp/kyouiku/maibun/zouzan2/zouzan-2.htm
埴輪列は第2号古墳の南辺,あるいは第2号古墳南側の丘陵斜面に平行におよそ100本ほどが35m程度の範囲にわたって一列に並べられています。

陪塚と呼ばれていますが、千足古墳は、造山古墳とおなじ、九州出身のようですが、陪塚とは限りません。そうなりますと、天皇家と違うことになり、造山古墳の主は、漢人ではないかと、私の都合の良いように考えてしまいます。
 そうなりますと、埴輪は、紀元元年近くまで、遡ってもいいのではないでしょうか?


No31造山古墳 いつ頃造られたのでしょう [神社からさぐる歴史]

岡山市教育委員会のホームページの石棺を見ていただけましたか? 「岡山市新庄下にある造山古墳は、5世紀頃に築かれたと考えられる全長360mの前方後円墳です」の部分が、私の意見と合わないところです。「畿内的な組み合せ式の長持形石棺に似せていますが、」と書かれてあるように、造った人は、畿内の古墳も知っていたと考えていいと思います。
どうして、5世紀頃に築かれたと判断されたか判りませんが、先に述べてきた推理の流れから言いますと、奈良の箸墓古墳より早い時期ではないかと思っています。
歴史の流れをもう一度、復讐しますと、温羅が住んでいたのは、岡山市四御神という村です。ここの海抜は、4mですから、当時は海岸であったことになります。
岡山市の北東部、岡山市草ヶ部に所在する古代山城跡・大廻小廻山城http://www.city.okayama.okayama.jp/kyouiku/bunkazai/oomeguri/0-gaiyo.htm
が近くにあるのに、遠い「鬼ノ城」まで籠城しに行ったということは、温羅がこの時の最高指導者であったからだと推察しています。それと、造山古墳や作山古墳のあたりを根拠地にしていた人たちが、逃げ城として、「鬼ノ城」をすでに、築いていたので、新たに作る必要がなかったのではと推理です。
この私の仮説の最大の欠点は、このように推理を重ねますと、造山古墳に葬られた人が、九州からやってきた時代は、温羅が殺された時より前になることです。それは、紀元後、100年より前となります。神武天皇が奈良で即位したのが、紀元元年。崩御が50年ころと計算していきますと、神武東征で、吉備に8年滞在した時に、造山古墳の主は、吉備にいたことになると思います。
神武天皇は、日本中の漢人を全滅させるために、一番に本拠地である吉野ヶ里を攻撃したと推理しています。安芸で3年居ました。ここは、天皇にとって安全なところだったから滞在しました。根拠はいろいろありますが、簡単にいえば、その後、安芸は式内社の神社が少ないことでも、藤原氏の勢力はあまり及ばなかったことが判ります。式内社は三座しかありません。隣の周防10座、長門5座です。
話がすぐに脱線しますが、造山古墳は、紀元前となります。

根拠を示すには、まだまだ先のことになりそうですが、「鬼ノ城」から南一帯には、どのような人が住んでいたのか、調べるだけは調べてみようと思っています。
初めに、造山古墳のことを書きます。
この古墳は岡山市新庄下に所在し、墳長約360mをはかり国内で第4位、前方後円墳の墳丘は、三段に築かれ、その墳丘斜面には川原石の葺石(ふきいし)が葺かれ、墳丘には埴輪列が囲っている。埴輪には、円筒埴輪のほかに家・盾・靱(ゆき)・蓋(きぬがさ)などの形象埴輪も存在していることが、明らかとなっている。造山古墳、作山古墳とも発掘調査されていないため詳細は明らかではないが、断片的に出土している遺物から造山古墳が先に築造され、のちに作山古墳が構築されたと考えられていると、岡山県古代吉備文化財センター http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/sagu16.htm のホームページに書かれていますので、最高の資料だとおもいます。この古墳は、これほど大きいですが、陵墓に指定されていませんから、古墳に登ることができます。あまりにも大きくて山を歩いている感じです。大きさで言いますと、1から3位は 仁徳天皇陵、応神天皇陵、履中天皇陵です。
 陵墓とは、天皇・皇族の墓のうち、天皇・皇后・太皇太后・皇太后のものを御陵と呼び、現在は宮内庁が祭祀、管理を行っています。しかし、それらは、確たる根拠がないということで、歴史学会では、すべての御陵は、正確には判らないのであるから、たとえば、仁徳天皇陵と呼ぶのは間違っていると、仁徳天皇陵の名は使わないで、大仙陵古墳(だいせんりょうこふん、大仙古墳、大山古墳と呼ぶようになっています。
「現在につながる天皇陵の探索および治定は、そのほとんどが江戸時代に行われており、一部のものについては明治時代以降にまでずれこんだ」という見解は、ほぼ確定のようです。学問的には、そうかもしれませんが、天皇家では、代々、やはり口頭で、つたえられてきたのではないでしょうか? 天皇陛下がそのように言われれば良いのですが、言葉にするのも、記録することもできないのだと思われます。
 京都の籠神社が、昭和62年に、伝えられていた伝世鏡二面、息津鏡と辺津鏡を公表しました。そして、平成4年3月には、「海部氏勘注系図」の全文を公表しました。
 どうして、こんなに長いこと公表されなかったのでしょう。戦前でしたら、籠神社は取りつぶしになったでしょう。明治時代でも、海部一族の人に何らかの罪が問われたと思います。天皇家は、アマテラス---ニニギ命--- 神武天皇 というように続いたことになっていますが、この系統は間違っています。 ニニギ命の兄である彦火明命から32世孫になる海部直田雄祝まで、このような系図になっていますと宣言されたことになります。
 言い換えますと、現在の天皇家はアマテラスからの直径ではなく、海部家が直径ですと言われたようなものです。私の解釈はまちがっているでしょうか? こんなことを言えるわけがありません。
 このように誰にも言えないこと、説明できないことがあります。しかし、歴史学会は、それでも、天皇かだれか判らないのだから、陵墓を発掘させるように、ずっと、要求されています。今回、発掘までは認められませんが、立ち入ることぐらいは許るされるようになりました。
 その内に、陵墓参考地と称される墓ぐらいは許可になるかもしれません。しかし、何が出土しても完璧に対応できるようになりませんと、高松塚古墳のようなことになります。

 話が、全く関係ないことに脱線しましたが、要は、造山古墳は、天皇級の墓であるにもかかわらず、宮内庁は御陵だとは言っていません。きっと、正しいのだと思います。では、どうして、こんなに大きいのか、それは、天皇と張り合ったのだと思います。天皇と張り合う豪族とは、どのような豪族でしょうか?
No29で書きましたように、椿井大塚古墳や黒塚古墳の主などを統括するような豪族だったと考えています。 それゆえに、全国で4番目の古墳を生きている間に、造ったのだと思います。
 ただ、この推理の欠点は、造山古墳の主が、九州から移動してきた漢人であるのであれば、前方後円墳が中国になければなりません。ところが、最近、これによく似たものが、朝鮮に見つかったと、どこかで目にしたように思いますが、中国にはないそうです。
 
前方後円墳は、いつから、造りはじめられたか判りませんが、石室が竪穴式であるか、横穴式であるか、石室があるか、石棺があるかも埋葬品がなにか、詳細に比較検討すれば、ある程度は、新旧別に並べることは可能と思われます。そのためには、すべてのデーターの公表と、だれにでも、安価で手に入れることができることが必要と思われます。
このシリーズは、「神社から探る歴史」ですが、「古墳から探る歴史」を設けてもいいような雰囲気になってきました。
それに加えて、御陵のことにまで脱線です。自分でもなにをかいているのやら 判らなくなってきましたので、本日は一旦中止にして、次回改めて書きます。


No30 温羅は鬼ノ城に住んでいたのか [神社からさぐる歴史]

H19.08.12~14 まで、岡山県を車で走ってきました。岡山を訪れるのは、今回で4回目になりますが、今回は、備前、美作を出来るだけ沢山巡る。そして、最後の日は、総社市の鬼ノ城でたっぷり時間を掛けて、楽しもうと考えていました。
 そのために、宿泊は総社にしました。そして、朝早く出ようとしましたら、朝食をとるところが、早いところで7時でしたので、7時出発となりました。
 
 鬼ノ城のことは、最近でこそ、発掘が進み、大分、考古学的なことは知られてきましたが、専門家は、慎重であまり語っておられません。そこで、インターネットで検索しました。有力な説は、天智天皇が、白村江の戦いの後に、中国から攻められたときの防御施設として、九州からいっぱい築かれた朝鮮式の山城の一つであるとの説です。
 私の興味は、そこで、何年も、多くの人が生活して見張っていたかどうかを知ることでした。あまりの暑さで、頭の回転はゼロ近くで、さっさと、眺めて下山することにし、滞在時間は2時間弱だったと思います。そして、総社宮、作山古墳、吉備路郷土資料館、国分寺でダウン。早々、帰宅の途に就きました。

どうでも良い話を書きました。期待が大きかっただけに、少しがっかりしました。
「温羅は鬼ノ城に住んでいたのか」を検証するには、一番は、水の確保だろうと思います。ある文章には、それらしき貯水池の後があるように書かれていました。私が眺めていた範囲にはありませんでした。次は、水道施設があるように書いてあるものがありましたが、排水施設と思いました。自然の山は、よほどの豪雨でない限り、崩壊しませんが、道路のように、人の手が加わりますと、崩壊します。毎年、いっぱいの崩壊がニュースになります。
人がすれ違うのが難しいようなハイキング道があります。普通は雨が降りますと、道の部分に雨水が集中します。そのため、整備されていないコースでは、真ん中が、一番深くなって、V字型になっています。ところが、殆どのハイキングコースは、平になっていて歩き易くなっています。皆は、久しぶりの自然の中を歩いているつもりですが、V字型にならないように常に、誰かが整備しているはずです。注意深くみますと、道に流れ込んだ水が、適当に横の茂みに流れるように斜めに溝が掘ってあります。たった、それだけのことですが、常に修理をしませんと、歩き易いハイキング道にはなりません。
鬼ノ城の排水施設は、大きなものです。それほど、大きいものを作りませんと山が崩壊したのだと思います。水の出口は、大きな石組が見られました。
生活するのであれば、麓から運ばなければならないなと思いました。高さは400mほどですから、運べないことはないと思いました。ただ、攻撃されますと、麓を占拠されますと、水は運べませんから、何日頑張ることができるでしょうか?
上に書きましたように、夏ですと、食べ物の長期の保存は無理でしょう。
遠望は効きます。もし、中国から200人乗りぐらいの船がきましたら、一番に見つけることは可能です。岡山自動車道のあたりの海抜をいっぱい調べました。2m~12mぐらいです。仮に海抜12mのところが、海岸としますと、深さは12mありますから、十分だと思われますが、4mぐらいのところが、海岸線であったのではないでしょうか? これでは、小さな舟しか無理だと思われます。
展望台に立った時に、海岸からこんなに離れていては、防御どころでないなと思いました。中国から攻められたときの防御施設は頭で考えることはできますが、上から眺めるだけで、意味がないなと思いました。
吉備津神社と吉備津彦神社がある中山は、170m高さです。吉備津の地名は、その場所が港であったから「津」が付いています。中山の周りが海だったでしょう。試みに、吉備中山の麓の海抜を調べますと、きれいに海抜4mです。従いまして、ここで待ち伏せますと、海をやってきた中国人はやっつけることができます。このように攻撃できる所は、いっぱいあります。
では、鬼ノ城は誰が、何のために造ったのかと元に戻ってしまいます。まだ、「温羅は鬼ノ城に住んでいた」の方が、ましな推理です。
普通に考えますと、たとえば、中国の万里の長城は、なぜ、造られたかを考えますと、中国の北の連中から攻められないようにと考えます。勿論、そうなのですが、攻められる前に、攻めて多くの人を殺して略奪をしたから、今度は、自分たちも同じことを遣られるであろうとの発想になります。
温羅がここを拠点にして、麓に降りてきて悪いことをしたというのは、桃太郎の話であって、逆でしょう。鬼ノ城の麓には、岡山県の最大の造山古墳があります。あれは、此の地にいた豪族の墓であると言われています。きっと、その通りでしょう。古墳に葬られている人は、あれだけの大きな古墳を作るだけの資本と技術があったことになります。造山古墳の前に、この古墳の石棺かどうか不明ですが、古墳の前に裸で石棺があります。
岡山市教育委員会のホームページ
http://www.city.okayama.okayama.jp/kyouiku/maibun/ippin/syuzouhin39.html

この石棺は、阿蘇山の麓から持ってきたものと判っています。この石棺が仮に、造山古墳の石棺だとしますと、この墓の主は、九州からやってきた可能性があります。来る前から、技術もあり、お金に代わるものを持っていたことになります。そうでなければ、岡山に来てから、略奪したか、岡山で儲かるものの生産をしていたかです。何かといいますと、鉄・絹・水銀・銅ぐらいでしょうか? 略奪していた可能性はあります。お墓が完成してから、略奪された連中が、腹立ちまぎれに、石棺を引きずり出したかです。
発想が貧しいかもしれませんが、貧しいほど、真実に近いのではないかと思っています。
もし、略奪が激しかったとしますと、略奪をした造山古墳の主は、常にびくびくしながら、生活していたはずです。秦の始皇帝も、びくびくしていたはずです。びくびくしなくて良いように万里の長城が完成しますと、今度は寿命がなくなるのでないかと心配になり、徐福を日本に派遣することになりました。
 造山古墳の主は、すぐに逃げることができるように、逃げ城である鬼ノ城を作りました。征服された元の住み人は、「鬼ノ城」と呼びました。温羅伝説と合体しました。
歴史的な根拠は全くありませんが、辻褄は合うことになります。

このように、私は「鬼ノ城」は逃げ城だと思っています。普通は籠城と言いますが、あまり籠城して成功したためしはないと思っています。丁度、備中の高松城の水攻めがあります。この話は、詳しいことは殆ど知りません。城の周りに水を溜めて、外部との連絡を遮断する作戦です。ということは、籠城した方は、外部からの援軍がくることを頼みにするのが普通です。援軍が来なかったら、3ヶ月が良いとこでしょうか? 平地ですら、水攻めのようなことをしなくても、勝つことが出来たと思いますが、確か、秀吉は織田信長に援軍を頼んだと思います。
 ということは、5~6倍の人数が必要でしょうか? これぐらいの人数で囲みますと、相手は戦意を失くしますから、戦わずして勝つことになります。
 しかし、山城ですと、10倍の人数は必要でしょうか?  ここに書いてきました数字は、根拠なしに書きました。岡山県は、重要なことですから、正式に戦争だけからの考察で、
「鬼ノ城」は逃げ城としてですと、どれぐらい持つのか、自衛隊に依頼して調べるべきです。
「鬼ノ城」の北は、山また山でしたが、義経の鵯越(神戸)の逆落としのこともありますか、北からの攻めもあり得ますが、守るには山城というだけ十分かなと思いました。
時代は紀元100年ころのことですから、まだ、刀の武器もそれほどない時代ですから、逃げ城は成り立ったかも知れません。

温羅に限らず、鬼ノ城に住むことはできないと思いました。


No29 温羅は備前車塚古墳に葬られました [神社からさぐる歴史]

このシリーズは「神社から探る」の一部として書き進めています。このタイトルは神社から外れますが、流れですから、そのまま進めます。
インターネット
「鬼ノ城は、吉備高原の最南端、標高400mの鬼城山の山頂付近に約30万㎡におよぶ広大な城跡。
朝鮮半島に進出していた大和政権は、天智2年(663年)朝鮮半島の白村江の海戦で大敗し、唐・新羅連合国の日本侵攻を恐れ、九州~瀬戸内海~機内の生駒山系にいたる西日本の要所に大野城(福岡県)をはじめとする朝鮮式山城を築城したという説」が語られていました。

この説は、岡山県の歴史関係者は、どこにも書いておられませんでしたが、全体の流れはこの説は有力でした。
 同様の朝鮮式山城と考えられている神籠石式山城が西日本を中心に16城あり、その一つであると捉えておられますが、この説は無理があるのではないかと以前から考えていました。仮に唐・新羅連合国が日本に攻めてきたときに、鬼ノ城に立て籠もって戦いになるのか、どれぐらいの兵隊を置くことができるのか知りたく思っていました。
 先日、鬼ノ城を訪れて、見晴らし台から、南をみますと、高速道路(岡山自動車道)を走っている車が、双眼鏡で捉えることができました。当時の人であれば、肉眼で見ることが出来たと思えますから、見張り台にはなったかも知れませんが、敵をこの城で迎え撃つ必要はなかったと思いました。
 なぜなら、当時は、どこまで海が来ていたか判りませんが、高速道路のあたりまでは、海でなかったかと思います。なぜかと言いますと、この高速の側に、「赤浜」という地名が残っています。鬼ノ城の兵隊が全滅させられた時に、ここが海岸で血のために赤くなったのでしょうか? 単に鉄の色で赤かったのかも知れませんが、「浜」が付いていますから、可能性はあります。ただ、ここの海抜は9mです。近くの新庄は9m、加茂、津寺、長田は、海抜6mですから、全部、海だったことになります。海抜4mのところは、海であったとは思いますが、赤浜はどうでしょうか? この辺りの遺跡をしらべる必要があります。

話は横にそれましたが、中国人は、わざわざ、鬼ノ城まで登ってきて、日本人をやっつける必要などありません。そのまま、船を進めて淀川から天皇のいる大津を目指したはずです。
 大津を僅かの兵隊で占領してなにになるでしょうか? そのようなことでは日本は制覇できません。中国にとっては、日本から絹を収奪できればいいことになります。中国は天智天皇を暗殺し、天皇の子供を天皇にして傀儡政権を樹立しました。

日本書紀に郭務そうという人のことが、何度も出てきます。これを書き出したものが、「新しい日本の歴史のNo153」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page788.html に書いています。

壬申の乱は、天智天皇側と天武天皇の皇族間の争いとされていますが、日中戦争であることが判るはずです。九州に多い神籠石式山城は、九州に居た中国人の避難場所だと考えますと、このように考えますと理屈は合うことになります。
 
「温羅は備前車塚古墳に葬られました」のタイトルを読んで、先を読むのが嫌になられたと思います。馬鹿げていると思われたと思います。岡山県にある巨大古墳を初めてとして、どれ一つとして、被葬者が判っているものはありません。どの古墳の説明書を読んでも、「此の地の豪族の墓と思われます」と書かれています。それは間違いないでしょう。京都の豪族の墓が、岡山県に造られる可能性は、まず、ないでしょう。
 私は間違っていても良いから、いつ頃に造られた古墳で、誰が埋葬されたかは想像したく考えています。
 その内に、どうやら、間違っていたとなれば、訂正すればよいことになります。これは素人だから言えることで、プロの方は、そうは参らないと思われます。私の仮説は、九州にいた中国人は、岡山にやってきました。それどころか、大阪の河内、奈良、京都、静岡、福井、埼玉、群馬まで移動し絹を手に入れるために、あちこちで戦いをしたことになります。
 No27 をもう一度ご覧下さい。岡山県の古墳のうち、石棺があった古墳の一部を書きました。⑥と⑮は、阿蘇の凝灰岩製です。遠い阿蘇から運んだとしか考えられません。どうして、阿蘇から運んだか、理由はいろいろ考えられます。細工がし易い。値段が安い。ついでがあった。石を売りに来るものがいた。他の石切り場を知らなかった。いくらでも考えられます。
 他の石切り場を知らなかったことを裏返しますと、阿蘇を知っていたことになります。造山古墳を造った人は、阿蘇に住んでいた石工か、依頼した人が、阿蘇の近辺に以前住んでいたかということになります。どちらにしても、九州からやってきた人ということになります。
 阿蘇から来たばかりではなく、はじめの頃の人になります。造山古墳は、日本で4番目に大きいとされています。
 このように考えますと、古墳は、はじめは円墳であったものが次第に大きいものになった。円墳と方墳が合体したような形の古墳が、前方後円墳であるという考えは間違っていることになります。前方後円墳は、はじめから大きく造られたことになります。はじめから大きなものを作ることは、少し無理がありますが、論法には無理がありませんから、はじめから大きい古墳で勝負をしたと考えています。見せつけなければならない相手がいたことになります。

 今回のNo29では、古墳のことを書くことが主題ではありません。温羅は歴史上の人物であることを述べるだけではなく、その時の最大の重要人物だったのではないかということを述べようと思っています。
 そのために、少々、無理は承知で「温羅は備前車塚古墳に葬られました」ということにしました。備前車塚古墳とはどのような古墳であるかをインターネットで調べます。

「岡山市四御神・湯迫にある前方後方墳で、墳長48.3m、後方部長23m、後方部高3 m、前方部長21.8mである。二段築成で、前方部が三味線のバチ形に開く最古形式の前方後方墳である。葺石が明瞭であるが、埴輪は用いられていない。内部主体は墳丘の主軸と直交する竪穴式石室で、長さ5.9 m、幅1.2 m、高さ約1.5 mである。石室内からは、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から贈られたとも考えられている三角縁神獣鏡が11面も出土している。これは大和政権がその影響力を全国に及ぼすにあたって、各地の首長に鏡を分配したという、いわゆる「同笵鏡論」の重要な基準資料である。そのほか、内行花文鏡1、画文帯神獣鏡1、鉄刀などの鉄器も出土している」
以上が、http://www.city.okayama.okayama.jp/museum/kofun1/05.html このホームページに書かれてあった文を拝借しました。

この文は、この方がプロなのか素人なのか判りませんが、素人であれば、どこかに書いてあった文を参考にされたと思います。なぜかと言いますと、大概の方は、これと同じように書いておられるからです。ただ、データーが簡潔で正確のように思えますから、専門家からデーターを入手されたのではないかと思います。私が問題にしたいのは、普通の見解となっている「邪馬台国の女王卑弥呼が魏の皇帝から贈られたとも考えられている三角縁神獣鏡が11面も出土している。これは大和政権がその影響力を全国に及ぼすにあたって、各地の首長に鏡を分配したという、いわゆる「同笵鏡論」の重要な基準資料である。」この部分です。
この部分は間違っているから、日本史が謎だらけになっているのではないかと思っています。ついこの間から、古代史が好きになっただけで、えらそうなことを言うようですが、私の戯言でも聞いてください。
三角縁神獣鏡は卑弥呼と関係はあるのですが、直接は関係ないと思っています。三角縁神獣鏡は、23cm前後の直径があります。古い鏡はこれより小さかったと思われます。なにも、すべてを自分で調べたわけではありません。岡村秀典という方の『三角縁神獣鏡の時代』を参考にしただけです。
 三角縁神獣鏡は中国で作られたものと日本で作られたものがあります。鏡は別に大きくなくても良いはずですが、大きくなったには理由があるはずです。はじめは、中国製であったのが、日本でも作られるようになった。理由はいろいろ考えることができます。材料が日本で手に入れることができるようになった。作る技術が向上した。しかし、大きくする理由が見つかりません。
 11枚もあったということは、だれかに渡そうとしていたことになります。渡された人は部下ということになります。この古墳の主は、11枚渡せば、11人の部下を持つ将軍級の人となります。古墳が作られた所は、「四御神・湯迫」です。地図を開いてください。
 四御神・湯迫の北に「龍の口山」という山があります。先日、龍王山の麓では、中国人が住んでいたと書きました。この山にも、龍の字がついています。同じように、麓の 四御神の集落には中国人が住んでいたと推察しています。古墳は「龍の口山」と集落の間の小高いところに造られています。
 ただ、この近くには、神武天皇が神武東征の折、8年間滞在したとの伝承がある高島があり、ここがそうだという大きな記念碑が建っているところがあります。その記念碑がある
高島神社 http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/okayama/takashima.html に行ってきました。この場所を見つけるのが大変で、ここだけで3時間は要しました。あまりにも、記念碑が立派過ぎて、高島の地名に合わせて無理やりに造った感じを受けましたが、探し回った時の印象では、水郷の水の流れを見ていますと、すぐ傍まで、船が来れたのではないかと想像しました。
 ということは、神武天皇がやってきたのが、紀元前10年ぐらい。孝霊天皇の息子たちが、吉備退治にやってきたのが、紀元後120年の頃としますと、温羅が葬られたのは、紀元後120年の頃となります。資料は葺石が明瞭であるが、埴輪は用いられていない。内部主体は墳丘の主軸と直交する竪穴式石室を持つとなりますと、明らかに、古墳時代の初期のころの前方後方墳と言えると思います。
 これでは、現在の歴史学会から、とてもではありませんが、認められないことになります。5代後の崇神天皇が、紀元後、300年ころとされる方が多いですから、この数字から逆算しても、紀元後、200年ころの事件だということになります。古墳が作られた時代考証は、私に合うように合わせてもらえないものでしょうか?  紀元前120年頃に。

 「これは大和政権がその影響力を全国に及ぼすにあたって、各地の首長に鏡を分配したという、」この見解は、定説と言っても良いぐらいに、よく言われることです。大和政権がその影響力を及ぼすために、部下になった者に、三角縁神獣鏡を与えたのであれば、中国製の鏡は輸入したことになります。この当時は、材料の銅は貴重なものですから、勲章替わりであれば、小さくても構わないはずです。なぜ、大きくなったかの理由にはなり得ません。ちょっと、聞いたところでは学問的でないように思えますが、自然科学では、こうした細かい点まで、立証できませんと、正しいことを証明したことにはなりません。
 このホームページには、次のデーターはありませんが、重要ですので、記しておきます。
 11枚の三角縁神獣鏡のうち、9枚が同笵鏡(同じ鋳型から作られた銅鏡)であることが判っています。
甲斐銚子塚古墳出土の三角縁神獣車、群馬県三本木所在の古墳(藤岡市)、藤崎遺跡(福岡市)出土鏡、そして真土大塚山古墳(平塚市真土字十四ノ域)と同型の鋳型をもとに作られていたことがわかりました。
ということは、これらの地域から、温羅が貰ったと考えても良いのですが、温羅は9枚も持っていたのですから。他の地域は、温羅からもらったと考えた方と無理がありません。
三角縁神獣鏡の数で言いますと、京都・山城の椿井大塚山古墳は、最多の三角縁神獣鏡32面が出土しています。そのほかに、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面が出土しています。
備前車塚古墳でも、椿井大塚山古墳と同じ、内行花文鏡1、画文帯神獣鏡が出土しています。備前車塚古墳と椿井大塚山古墳は、同じ将軍級の人物であったことが判ります。椿井大塚山古墳の被葬者は、中国人ではなく、吉備征伐の後に、征伐された孝元天皇の皇子の建波邇夜須毘古命だと思われます。
 ついでに、もっと沢山の三角縁神獣鏡が出土した古墳を紹介しておきます。奈良の天理市の黒塚古墳です。33枚もの三角縁神獣鏡が出土し、画文帯神獣鏡1も出土しています。椿井大塚古墳と同笵と思える鏡があります。この古墳は、建波邇夜須毘古命の妻は、大阪から同時に、出陣しています。
 岡山、奈良、京都の中国人の拠点は、時をおなじくして、壊滅状態になったことが判ります。その勢力範囲は恩羅から同笵の鏡を受け取った関東一円であることが判ります。
 それだけに、鬼ノ城の戦いは壮絶な戦であったことが想像できます。 それだけに、吉備津神社で、その霊をそっと、慰められていたと思われます。

内行花文鏡と画文帯神獣鏡は、九州で出土が多いような気がしています。また、三角縁神獣鏡とは別に、被葬者の頭の近くなどにおかれていることが多いようです。こうした将軍は、中国の交換から、これらの鏡を受け取ったと思われます。これから勉強する必要があります。全部調べてから発表となりますと、いつのことになるやらです。こんな調子ですから、そりゃ違うだろうと思われた方は、自分の推理をコメントに書いてください。

最後になりましたが、データーの「前方後方墳で、墳長48.3m、後方部長23m、後方部高3 m、前方部長21.8mである」は重要です。
 岡山の前方後方墳は全国的に比較しても大きいものが多いと思われます。まだ、調べたわけではありません。岡山の古墳は多すぎて、考えるのも嫌でしたが、変なことから、古墳のことを書くことになりました。
 だから、これから書くことは自信がありませんが、この古墳は、初期の古墳であるのに、小さすぎるということです。そのくせ、将軍らしく、三角縁神獣鏡は沢山持っていました。
 被葬者は戦争で死んだと思われます。残った者が、古墳を築いたことになりますが、この被葬者と温羅をダブらせますと、温羅の兵士は、全員、鬼ノ城に立て籠もりました。そして、全滅しました。残された老人と女性だけで古墳を築いたとしますと、古墳が小さいことの説明が付きます。
 このような調子で、温羅の古墳であることに当てはまる古墳を探してください。これだけを一生懸命にしますと、岡山の古墳はすべて頭に入るはずです。

神武天皇や孝霊天皇などは、実在していなかったと思っておられる方は、この馬鹿げたゲームに参加することはできません。         

参考 岡山市立高島公民館 
http://kouminkan.city.okayama.okayama.jp/takashima/shiseki/ssk22.html


No28 温羅伝説 [神社からさぐる歴史]

温羅は「うら」と読みますが、はじめは、「うんら」と読まれていたのでしょうか? タイトルに書きましたように、温羅は伝説上の人で、歴史上の人物ではないとされていますが、私は歴史上の人物であると考えています。
その根拠は、倉敷県庁に提出されたとされる、明治4年に作られた『備中一品吉備津彦明神縁起』が残っています。『吉備津神社文書』の中に、吉備津神社には、本殿の中に外陣があり、東北の隅に艮御崎神社があり、その祭神は、温羅命と王丹であることが記されています。
とは言うものの、温羅伝説の温羅とここに書かれてある温羅が同一という証拠はありませんが、伝説に登場する温羅は、「鬼としての温羅は、両目は虎や狼のように爛々と輝き、乱れた髪の毛は燃えるように赤く、身の丈は一丈四尺(約4メートル)あったという。また、頭に瘤(こぶ)があり、妖術を使って口から火を吐いたとも、変身したともいわれる」(渡邉聡士氏のホームページより
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/ura.html) 』と『吉備津宮縁起』に書かれているのでしょう。これでは、あまりにも、実際にあった話ではありませんので、歴史上の人物ではないとされたと思われます。
 
 話題は少し、飛びますが、京都に上御霊神社と下御霊神社があります。
上御霊神社 http://kamnavi.jp/yamasiro/kamigoryo.htm
下御霊神社 http://www.genbu.net/data/yamasiro/simogoryou_title.htm
 
御霊とは、政争に巻き込まれて非業の死をとげた人の霊のことであり、当時はしばしば悪疫が流行し、これを御霊の祟りと考え、祀ったとされます。御霊はもともと、怨霊だったのでしょう。この神社に祀られている人は、きっと、怨みを抱えながら死んでいったのだろう。最近、起こる天変地異などは、怨霊の所為だろうと祀ったと思われます。
 その祀り方は、尋常のものではなかったと思われます。奈良の五條市には、沢山の御霊神社があります。以前に、訪れた時に町中を歩きましたが、村全体でお祀りしたなという印象を受けました。(そのときに書いたものが、「五條市の御霊神社」です
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page875.html) これでも、まだ、安心できなくて、京都に上御霊神社と下御霊神社が作られたと思います。
 祭神の中に、吉備大臣があります。祭神は皇室関係者が多いですが、一般の人では、吉備大臣と菅原道真です。吉備と名がつけば、大臣になったのは、吉備真備しかないということでしょう。多くのホームページでは、吉備大臣と書かないで、吉備真備と書いておられます。
 吉備真備は、少し調べてみましたが、立派な人で、それほど、怨みを抱えながら死んだとは思えませ。
御霊神社の祭神である吉備大臣は、書くことはできないが、温羅ではなかったかと推察します。上御霊神社を建てたのは、桓武天皇です。昔、天皇勢力にひどい仕打ちを受けた温羅は、歴史の資料には載せることはできませんでしたが、敬意をこめて、階級を上乗せして、「吉備大臣」の称号を与えたのではないでしょうか? 

では、温羅伝説とはどういうものであったのか、もう一度、渡邉聡士氏のホームページよりお借りして掲載します。
<吉備津彦命と温羅の伝説(要約)>
 第10代崇神天皇のころ(第11代垂仁天皇のころ)、吉備の国に百済の王子と名乗る容貌魁偉の温羅がやってきた。
 温羅は新山(総社市)の”鬼の城(きのじょう)”を居城として悪事を働いて人々を困らせたために、朝廷から討伐軍を送られるがこれを負かしてしまう。
 そのため朝廷は、次に五十狭芹彦命を派遣した。
 命は、温羅の投じる岩に対して2本の矢を同時に射て温羅の左目を射抜く。温羅が雉に変化して逃げたので命は鷹に変化して追い、また温羅が鯉に身を変えてさらに逃げたので命は鵜に変化してついに温羅を捕らえた。
 命は温羅の首をはねてさらしたが、温羅は首だけになっても唸り声をあげ続け、命はその肉を犬に食わせてそれでも唸り声はやむことが無かったため吉備津宮の釜殿の釜の下に埋めたが、やまない唸り声は13年に渡って釜を鳴らし続けた。
 そしてある日、命の夢に温羅が現れて「釜で神にささげる食物を炊け、釜は幸福が訪れるなら豊かに鳴り、禍が訪れるなら荒々しくなるだろう」と告げたため、命はその通りにした。
 これが、吉備津神社につたわる釜鳴神事のおこりである。

如何でしたか?この内容は史実とはとても言えません。
ところが、岡山県総社市に鬼ノ城と呼ばれている山城があります。前回に岡山を訪れた時に、行こうと思いましたが、道に迷いに迷って、鬼ノ城ゴルフ場に行っただけで、遠くに眺めるだけでした。今月、8月14日は、失敗しないように下調べをして行ってきました。そこには、立派な城門が復元されていました。
 この遺跡は、これまでは、全く謎の遺跡でしたが、発掘が進みいろいろのことが判ってきたようですが、未だに、謎の多い山城です。次のアドレスは古代吉備文化財センター
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/kinojou-siryou-daikoukai1.html のものです。まだ、読んでいません。
写真http://www10.ocn.ne.jp/~veeten/iwakura/okayama/oni.html 

大吉備津日子命と若建吉備津日子命の攻撃をうけた温羅は、この鬼ノ城に立て籠もり戦いましたが、全滅したと思います。兵士の流した血の多さから、血吸川という名や、砂浜が赤く染まって赤浜の名が残りました。徹底的に叩いたために、怨霊となったのでしょう。
温羅は百済から来たように書いてありますが、漢人です。 


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