No27 吉備津彦神社と吉備津神社(備中) その3 [神社からさぐる歴史]
ご理解いただけましたか? No26 は少し長過ぎたようで反省しています。どの方のホームページを読んでも、プロの方のものでも、この祭神が、ごちゃ混ぜです。吉備津彦神社と吉備津神社(備中) は、仲良く、これまで存在してこられたから、少々、間違っていても良いのだと思います。
しかし、神社の方や氏子の方は、そうはいかないと思っています。イラクやイランやイスラエルの人たちが、2000年たっても、譲ることのできないということは、どこそこに書いてあるということではなく、先祖から延々と言い伝えられているからだと思います。
両神社の主祭神は、同じとされていますが、それほど、両神社は離れていません。
備前と備中の一之宮であれば、それぞれの国の真ん中にあっても不思議ではありません。それが、隣どうしにあります。
両方とも行きましたが、岡山市の伊勢神社が元伊勢だというので岡山へ行きました。時間が余りましたので、両神社に行ったのですが、兎に角、その建物の立派さには驚きました。ことに、吉備津彦神社の灯篭の大きさにはびっくりしたことのみ、記憶にあります。このようなことを書くのであれば、もっと、詳しく観察しておけば良かったのですが、他には、記憶がありません。どれほど大きいかは、私の写真ではありませんが、見てください。
http://www.genbu.net/data/bizen/kibituhiko_body.htm
http://www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phkibituhikojinjya11.html
安政の大灯篭と呼ばれ、日本一だそうです。
今も昔も同じことです。大きいものを作るということは、見る者を驚かすためと思います。
少なくとも、吉備津彦神社と吉備津神社(備中)は、江戸時代には、灯篭だけではなく、建物でも競争していたことが判ります。吉備中山が神聖な山であったから、僅か、2km離れただけと所に建てたと考えるよりは、これ以上は譲れないところの国境に建てたことになります。
それにしても、祭神が同じであれば、喧嘩などしないで、仲良くすれば良いと思います。私は岡山県の者ではありませんから、要らぬ詮索をしない方が良いのかも知れません。
まあ、もう少し、迫ってみることにします。岡山県には、日本で4番目に大きい造山古墳のほか、巨大古墳がいっぱいあります。先に述べましたように、大きさを競う必要があったということです。岡山県には、数1000以上の古墳があるそうです。しかし、古墳の中から、石棺が出土したものは、それほど多くありません。重要なことですので、その一部を掲載します。
岡山県の石棺
①牟佐大塚古墳 横穴式石室、貝殻石灰岩(井原周辺産)の家形石棺
②八幡大塚2号墳 竜山石(兵庫県西部産)の家形石棺
③青陵(青ばか)古墳 花崗岩製の石棺
④宗形神社古墳 箱式石棺
⑤石舟塚古墳 横穴式石室に竜山石 家形刳り抜き
⑥造山古墳 阿蘇凝灰岩製の石棺 (?) 古墳の前にある。
⑦こうもり塚古墳 横穴式石室 石棺と陶棺
⑧箭田大塚古墳
⑨千朱駄古墳 竜山石 長持形石棺
⑩唐人塚古墳 竜山石 家形刳り抜き
⑪王墓山古墳 家形石棺で、井原市浪形に産する貝殻石灰岩を
⑫大塚古墳群 箱式石棺二基あり。
⑬宮山西塚 竜山石 家形刳り抜き 岡山市百枝月
⑭石塔塚 浪形石 家形刳り抜き
⑮小山古墳 九州阿蘇 舟形刳り抜き
⑯正仙塚 竜山石 長持ち形、縄掛け突起なし 美作・高野
⑰花光寺山古墳 凝灰岩 長持ち形 長船町
⑱天神山古墳 不明 備前市新庄
⑲丸山古墳 讃岐火山岩 特殊家形 備前畠田
⑳築山古墳 二上山ピンク石 家形刳り抜き 長船町
このほかに、石棺は多数あるが、古墳名の不明のものは記載せず。
吉備の中山には、矢藤治山古墳があります。前方後円墳で竪穴式石槨ですから、初期のものです。中国製の方格規矩鏡が出土していますから、私は単純に、中国人の墓としています。
中央部に吉備中山茶臼山古墳があります。吉備津彦命の墓とされ、古くから御陵と呼ばれています。発掘されていませんから、正確には、誰の墓であり、いつ頃のものかは判りませんが、墓域から特殊器台型埴輪の欠片が見つかっていますから、最古級の前方後円墳と判断されます。
北側の一尾根上に尾上車山古墳があります。墳長約135 m、後円部径約80m、後円部高7 m、前方部長約60mで、三段築成で堂々たる古墳です。詳細は不明。
他にたくさんの横穴式古墳があるそうですが、石舟古墳からは、石棺が出土していますから、時代は遅いころと思われます。石棺は播磨の竜山石で、 家形刳り抜きですから、天皇家の支配力の大きい備前を超えて、播磨から石を運んだことになります。天皇方の人のお墓でしょうか? ちょっと、判断が荒っぽいでしょうか? 吉備津彦神社と吉備津神社(備中)は見かけは、仲良く暮らしているようで、ことある度に、いろいろの面で競争をしていたのではないかとの推理上、お墓をどちらの方の墓であるかを判断したくなります。
大きい古墳を4つ挙げましたが、こんな狭い山中に、お墓が多いということは、諍いが多かって死亡するケースが多かったのではないでしょうか? となりますと、境界線があるとすれば、境界線の東は、天皇家の者のお墓となるでしょうか? 調べていません。
お墓の上に神社が建てられていることも結構ありますから、お墓は忌み嫌う対象でなかったと論を張りますと、私の仮説は意味がなくなります。
No26吉備津彦神社と吉備津神社(備中) その2 [神社からさぐる歴史]
吉備津彦神社の由緒が間違っているのではないかと、失礼なことを書きました。由緒が正しいとしますと、なぜ、吉備津彦神社が式内社でなくて、吉備津神社が式内社であるのかの説明が付きません。
式内社が、全部、一度に制定されたのか、少しずつ、増やして制定されたのか、調べれば判ると思いますが、調べていません。これほど重要なことですが、どの天皇が、詔を発せられたのか判りません。聖武天皇が全国に、国分寺を作るように言われたのとは、随分意味が異なります。
式内社に指定された神社の祭神は、すべて、日本書紀に書かれている神の名前になっています。式内社でない神社の祭神は、古事記にかかれている神の名前であることが多いです。式内社に指定された神社の祭神は、藤原氏によって、書き換えるように強制されたのではないかと意地悪く推理しています。
前回は、吉備津彦神社の祭神に拘っていましたが、今回は、吉備津神社の祭神を書こうと調べました。吉備津神社のホームページはありませんので、由緒が判りません。インターネットで調べましたら、殆どの人が吉備津彦命と書いておられます。一部には、大吉備津彦命と書いておられます。大吉備津彦命が正しいとしますと、備前の吉備津彦神社と同じだということになります。
日本書記の孝霊天皇のところに、稚武彦命は吉備臣の先祖であると書かれています。吉備津彦が先祖かと思ったら、違うのですね。ハエイロド(絚某弟)が、彦狭島命と稚武彦命を生んだと書かれています。古事記には、蠅伊呂杼(ハエイロド)が、日子寤間命と若日子建吉備津日子命と書いてありますから、どうやら、稚武彦命は若日子建吉備津日子命と同一人物らしいです。
日本書紀の「絚某弟」はどう読んでも、ハエイロドとは読めません。古事記の「蠅伊呂杼」はどうにか読むことができます。日本書紀の編纂者は、絶対に、古事記に書かれている漢字をつかわないで表現しています。
吉備津神社は式内社ですから、主祭神の名前は五十狭芹彦命と書いてあったはずですが、何故か、吉備津彦命と大吉備津彦命のどちらかが書かれています。
もう一度、復習です。備前の吉備津彦神社の主祭神は大吉備津彦命と書かれていて、その右に---大吉備津日子命(比古伊佐勢理毘古命)
この神社は、式内社と違いますから、主祭神は、大吉備津日子命か 比古伊佐勢理毘古命のどちらかが書かれていたはずです。
備中の吉備津神社には、大吉備津彦命ではなく、吉備津彦命と書いてあったはずです。
なぜそのように考えるのかを、いくつかのことより、述べてみようと思います。
もう一度、由緒の一部を拝借します。
「当神社は古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。第10代崇神天皇の御世に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命もこの山に祈り吉備の国を平定し、現人神として崇められました。諸民と国を深く愛し、永住された吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社のはじまりとなります」
由緒のうち、次の部分が、最近に付け加えられた文章だろうと推察しています。
「当神社は古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました」特に、「山全体が神の山として崇敬されて」という部分です。この考え方は、昔からある考え方でしょうか? 古代の神社の形式は、全部そうであったと殆どの本に書かれています。その代表例は、奈良の大神神社です。この神社は、本殿がなく、裏の三輪山がご神体になっていると。
では、神さんが山におられるので、昔の人は山に向かって、五穀豊穣・家内安全をお祈りしていたのでしょうか? そのように皆が神として崇めていた岡山の中山の麓に住んでいたところ、攻めてきた大吉備津彦命を慕って、大吉備津彦命の死後、立派な社を建てて、今でもお慕い申し上げているということでしょうか?
この理屈は、一見理解しやすいようですが、私は疑問に思っています。
岡山県には、竜王山という山がいっぱいあります。全部ではありませんが、分布図を作りました。http://www.hcn.zaq.ne.jp/caarc303/page435.html
真中の16が、吉備津彦神社の後ろにある竜王山です。いつの頃からか判りませんが、全国にある竜王山と呼ばれる麓には、中国人が住んでいたのではないかと推理しています。
16のところの龍王山の周りには、龍王山が少ないように思われます。
神武天皇が、日向より奈良に軍隊を進めた時に、古事記では、安芸で7年、吉備の高島で8年滞在したことが記されています。日本書紀には、安芸では、3ヶ月、高島では3年、船舶を揃え兵器や糧食を蓄えるために滞在したと書かれています。高島と現在、呼ばれている所は、笠岡市の8番のところから船に乗りますと、高島という島があります。岡山市賞田にも高島があります。JRの岡山駅より大阪よりに高島という駅があります。どちらも、当時、多くの船を係留するのに適していたと思われますから、はじめは、笠岡市の高島に滞在していたのではないかと思われます。
地図の21番に牛窓の地名が見えます。ここの西が西大寺です。ここに、安仁神社があります。ここに神武天皇の兄の五瀬命が船をつないだという伝説があります。大切な神社であったと見えて、備前の一之宮でした。
神武天皇が、東征で岡山にやってきたときは、すでに、この地図の龍王山のうち、多くの麓に、中国人が住んでいたと思われます。日本書紀が書いているように、確かに、船舶を揃え兵器や糧食を蓄えるために滞在したと思われますが、記紀に書かれている年数は、どちらが正しいのでしょう。
古事記の方が正しいのではないかと思っています。なぜかと言いますと、中国人が、8年にも亙って、天皇の軍隊に負けたとは書きたくなかったのだと思います。吉備津神社より西は、中国人の勢力が強く、完全に制覇することはできず、海を通り、牛窓のところへ終結したと考えています。紀元前のことになります。
吉備津彦神社の東では、中国人は大きな打撃を受けたと思われます。そのために、3世紀末には、外国に資料に書かれている邪馬台国は、備前にあったと推理しています。
話はあちこちに飛びますが、2代天皇から9代天皇までは、記紀にあまり詳しく書かれていません。この天皇のうち、4人の名前に「大倭」の名前がついています。この4人は、美作の「大倭」で生まれたと思います。神武天皇は、紀元元年1月1日に、奈良の柏原で即位されまたが、5代孝霊天皇が、宮を「黒田の廬戸宮」(奈良県田原本町黒田)に定め、御陵は片丘馬坂陵と記されています。この頃になって、やっと、奈良にいても安全でしたが、それまでは、不安定のために、美作を拠点にしていたと推察しています。
2代、3代は、神武天皇と同様に、伯耆国で生まれたと思っています。
吉備津彦神社と吉備津神社(備中)は、中山の麓にありますが、最高峰が竜王山で170mの低い山です。吉備津神社のあるところは、吉備津ですが、津(港)であったと思われます。中山の周りが海ですから、竜王山は少ないのかも知れません。
吉備津彦神社の東は、いっぱいの龍王山がありましたが、卑弥呼が死んだ239年ころには、この辺りは、天皇家の支配地であったと思われます。その後、日本書記ができたころは(720年)の頃も、天皇家の支配力が強いところだったと推察されます。天皇家の支配力が強いところは、式内社の神社が少ないです。
美作国と伯耆国は、はじめの頃の天皇が生まれられたところだからです。
参考――式内社数一覧表 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html
「新しい日本の歴史」のタイトルで、考えたことを書いていますが、H2006.11.18 に
No350に、岡山県の龍王山 http://blog.so-net.ne.jp/nihonnsi/archive/20061118 を書いています。完全なものではありませんが、ご興味ありましたら、読んでください。
そのときに全国の龍の字のつく地名や山の所在地の傾向を書いています。
① 九州における分布が多い。
② 岡山56、廣島36、山口38、兵庫31、愛媛32が突出して多いです。瀬戸内海を挟んで多い。
③ 京都26、滋賀22、奈良39、愛知19、静岡35、山梨27、福島30、茨城22
この多い県の名前は、九州から茨城県まで続いています。
次に、同じ方法で、「竜王」が前に付く地名や山です。全部で136件あります。
岡山33、廣島23、山口5、愛媛8、香川7、京都8、滋賀7、山梨5 となります。
前回と随分違う結果がでました。九州がなくなり、岡山33、廣島23、山口5、愛媛8、香川7、京都8、滋賀7 は同様に多いです。信じられないような話ですが、中国人が絹を九州まで運んでいたときの、通過地点になります。
竜王が付く所は、長い年月にわたって絹を運ぶときに従事した中国人の勢力地であろうと思っています。「竜」の付くのが多いのは、九州です。絹を直接運ぶ以外に生活の場を九州にしていた中国系の人がいたのだと考えます。
まだ、調べてはいませんが、この分布に平行して高地性集落が発達していると思います。高地性集落は、二度にわたってピークがあると言われていますので、異なる系統の人が関連した可能性があります。
この地方の式内社の分布をご覧ください。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html
備前26、備中18、備後17です。備前は多いですが、河内113、大和286、山城122、伊勢253、出雲187 に比べると少ないです。伯耆6、美作11に近いことが判ります。これは、式内社が制定されたころの勢力図と見ていいと思います。式内社が多いところは、藤原氏、言い方をかえますと、中国系の人の勢力が強かったことになります。
このように考えますと、竜王山と名づけたのは、古い時代のことで、神武東征が行われたころのことだと思われます。その後、岡山では、天皇家の力が強くなったと想像されます。
ところが吉備津神社(備中)は、式内社ですが、吉備津彦神社は式内社でありません。
中山の真ん中が、備中と備前の境になりますが、それまでは、中山が神聖な山どころか、主戦場になっていたのではと考えています。古墳が30以上あるそうです。
そのことに関して、書ける能力はありませんが、次回に少しだけ触れてみようと思います。
No25 吉備津彦神社と吉備津神社(備中) [神社からさぐる歴史]
タイトルの神社は、ご存じですか?
JR吉備線に、備前一宮という駅があります。駅からすぐ近くに吉備津彦神社があります。町の名前は岡山市一宮です。県外の方は、必ず、地図で確かめてください。
吉備津神社(備中)は、JR吉備線の吉備駅からすぐの所にあります。備前一宮の隣の駅です。町の名前は岡山市吉備津です。吉備津神社は、広島県にもありますが、吉備津彦神社と吉備津神社(備中)はともに岡山県にあります。
吉備津彦神社のことは、岡山県の人であれば、詳しく知っておられるかといいますと、きっと、詳しくは知っておられないと思います。いろいろ説がありますから、ややこしいのですが、吉備津彦神社は、吉備国一宮であった吉備津神社より勧請したものと考えておられるようです。この論法でいきますと、吉備国が、備前、備中、備後と分れる前に、一宮があったことになります。仮に、吉備国一宮があったとします。備前と備後に勧請したということになります。本当に、そのようなことを書いたものがあるのでしょうか?
もし、本当であれば、吉備津彦神社と吉備津神社(備中)と吉備津神社(備後)の三社とも、式内社であっても良いはずですが、吉備津彦神社は式内社ではありません。
どうして、吉備津彦神社は式内社ではないのでしょう。
このような調子で考えていきますと、吉備国が備前、備中、備後と分れた頃の岡山一帯の様子が判るのではないかと考えます。
神社となれば、一番に祭神を知る必要があります。この祭神というものは、はじめから同じかといいますと、どんどん、変わったと思えるケースがいっぱいです。はじめにあった祭神は、末社とか摂社の形で、名前は違った神社が同じ境内にあり、祀られてあることもあります。
吉備津彦神社
主祭神は大吉備津日子命
相殿に以下の神を祀る。
吉備津彦命 -- 大吉備津彦命の子
孝霊天皇 -- 大吉備津彦命の父
孝元天皇 -- 大吉備津彦命の兄弟
開化天皇 -- 孝元天皇の子
崇神天皇 -- 開化天皇の子
彦刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと) -- 大吉備津彦命の実兄
天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと) -- 孝昭天皇の子
大倭迹々日百襲比売命(おおやまとととひももそひめのみこと) -- 大吉備津彦命の姉
大倭迹々日稚屋比売命(おおやまとととひわかやひめのみこと) -- 大吉備津彦命の妹
金山彦大神
大山咋大神
以上は、吉備津彦神社 http://www.kibitsuhiko.or.jp/main10.htm のホームページに掲載されている祭神です。
実際には、大吉備津彦命と書かれていて、その右に---大吉備津日子命(比古伊佐勢理毘古命) と書いてあります。神社の方としては、大吉備津彦命が主神で、別名は、大吉備津日子命(比古伊佐勢理毘古命)だと説明されたつもりですが、これでは、正しく伝えたことになりません。吉備津彦神社に伝えられている最も古い記録にどのように書いてあるかが問題です。
由緒の一部を拝借します。
「当神社は古代より背後の吉備の中山に巨大な天津磐座(神を祭る石)磐境(神域を示す列石)を有し、山全体が神の山として崇敬されてきました。第10代崇神天皇の御世に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命もこの山に祈り吉備の国を平定し、現人神として崇められました。諸民と国を深く愛し、永住された吉備中山の麓の屋敷跡に社殿が建てられたのが当神社のはじまりとなります」
この由緒では、「第10代崇神天皇の御世に四道将軍として遣わされた大吉備津彦命」と書いておられますが、日本書紀には、次のように書かれています。
『日本書紀』巻五崇神天皇十年(癸巳前八八)九月甲午《九》◆九月丙戌朔甲午。以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波。
大吉備津彦命ではなく、吉備津彦になっています。「大」も「命」も付いていません。
では、古事記ではどのように書かれているかをご自分で確かめてください。
「ご自分で確かめてください」とあちこちで書いてきました。これをしていますと、前へ一向に進みませんが、確かめませんと、自分のものにならないからです。
古事記の孝霊天皇のところでは、大吉備津日子命と若建吉備津日子命が、「吉備国を言向け和したまひき」と書かれ、攻撃はしたが、言葉で解決したようなことになっています。
古事記の孝霊天皇のところでは、孝霊天皇の子供が、八人書いてあります。
①大倭根子比子玖琉命
②千千速比売命
③夜麻登登母母曾毘売命
④日子刺肩別命
⑤比古伊佐勢理毘古命、またの名、大吉備津日子命
⑥倭飛羽矢若屋比売
⑦日子寤間命
⑧若日子建吉備津日子命
よく理解できないのは、若日子建吉備津日子命と子供の紹介がしてあるすぐ後に、
大吉備津日子命と若建吉備津日子命が吉備国を攻撃したことが書いてあります。若日子建吉備津日子命と若建吉備津日子命は同じ人でしょうか?
若日子建吉備津日子命は生まれたときの名前。若建吉備津日子命は戦に従った時の名前でしょうか?
日本書記では
孝霊天皇は、倭国香媛と結婚して、倭迹々日百襲姫命と彦五十狭芹彦命と倭迹々稚屋姫命が生まれたとあります。又、別の妃との間に、彦狭島命と稚武彦命が生まれ、五人は、孝元天皇とは兄弟です。
書きますと、かえってややこしいかも知れませんが、崇神天皇の9年9月9日に、吉備津彦を西海に派遣したことが、書かれています。ところが、同じ9年の9月27日に、孝元天皇の皇子の武埴安彦の妻である吾田媛が大阪から軍を率いて都を攻めてきました。そこで、五十狭芹彦命に討たしめたとされています。宇治谷孟氏は、日本書紀の訳本の中で、この五十狭芹彦命の後ろに(吉備津彦命)と注釈を付けておられます。
そうしますと、(吉備津彦命は、9月9日に西海に征伐に出かけていたのに、9月27日には、奈良の都に戻ってきて、吾田媛をやっつけたことになります。
もう一度書きます。
古事記は、 彦五十狭芹彦命。
日本書記は、五十狭芹彦命です。
似てはいますが、明らかに違います。日本書紀の編纂者も、生まれたときの名前には、「彦」を付けて、戦をするような年齢だから、「彦」を取って、五十狭芹彦命としたのでしょうか?
古事記と日本書紀では、よく似ている名前が登場しますが、それぞれ、孝霊天皇と崇神天皇の御代であったり、戦争の相手が違います。日本書紀に書かれている、西海に派遣された「吉備津彦」の名前は、他の六国史の『続日本後紀』『文徳実録』にも見つかりません。
西海の書き方がいい加減(西海としどこのことでしょうか)ですし、吉備津彦という名前も、日本書紀の編纂者の創作ではないでしょうか?
長くなりますので、次回にします。
先に書きました吉備津彦神社の由緒は間違っているのではないかということを書くつもりになっています。この由緒は、ここ50~60年ぐらい前に、歴史の学者に書いてもらわれたのではないでしょうか? 矛盾に満ちているように思います。昔から伝えられている由緒であれば、このようにはならないと思います。
No24 美作の高野神社 その3 [神社からさぐる歴史]
中山神社と高野神社は、対になっていたのではないかと推理しましたが、あまり結びつくものは発見できません。
そこで、違った見方をしてみようと思いました。中山神社は現在でこそ、「なかやま」ですが、昔は「チュウサン」と言われていたようです。となりますと、その頃は、高野神社は、「こうや」ではなかったかです。
「こうや」とくれば、誰でも頭に浮かぶものは、高野山です。
H19.05.02 水銀を求めて、紀ノ川沿いに川を上り、高野山まで行きました。その時に、三船神社がありました。紀の川市桃山町神田101に。 祭神は木霊屋船神、太玉命、彦狭知命です。境内社には、 丹生神社と高野神社がありました。なぜか、頭に残っていただけで、これ以上のことは、調べていません。
三船神社 http://www.kamnavi.net/ki/itonaga/mifune.htm の写真を見ることができます。
三船神社の後、いくつかの遺跡をめぐった後に、丹生都比売神社に行きました。
この神社の祭神は、4柱です。
第一殿 丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ。丹生明神)
第二殿 高野御子大神(こうやみこのおおかみ。狩場明神)
第三殿 大食津比売大神(おおげつひめのおおかみ。気比明神)
第四殿 市杵島比売大神(いちきしまひめのおおかみ。厳島明神)
高野御子大神は、神社のホームページでは、「たかのみこのおおかみ」となっています。
また、高野御子大神は、丹生都比売大神の御子であり、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた狩人に化身して現れ、弘法大師を高野山へと導きましたと言われています。
高野山と高野御子大神のどちらが先に、「高野」という名前がついたか判りませんが、美作の高野神社が、中山神社と一緒に祭りをしていたとしますと、「タカノジンジャ」ではなく、はじめは、「コウヤジンジャ」と呼ばれていたかも知れません。
高野御子大神が狩場明神であると書いてありますが、高野神社の人たちも、狩をする人たちだったのではないでしょうか?
空海は遣唐使として中国に渡りましたが、同じ時に、天台宗の最澄も渡りました。少し、いい加減なところがあるのですが、最澄は国費で派遣されましたが、空海は自費で渡ったと本で読んだ記憶があります。空海のことは割合知られているのですが、遣唐使に加わる前は、行動が不明とされています。
私は変な推理をしました。中国では水銀が大切なものでしたが、あまり取れませんでした。そこで、空海は空白の4年間を、四国の狩人と一緒に、山を走り回って水銀を求めようとしたのではないか? その痕跡が四国八十八ヶ所霊場ではないかと推理しています。空海の中国における滞在日数は、短いものでしたが、膨大な宗教関係のものを持ち帰えりました。それは、空海が偉大な人物であったからとの説もあります。最澄とて偉大な人でしたから、持ち帰っても良かったのですが、あまり持ち帰っていないようです。
帰国後、空海は、京都が生活の場としますが、その後、高野山に移ります。その時の伝説が、黒と白の犬を連れた狩人が、空海を高野山に導いたことになっています。
その狩人である高野御子大神が、三船神社や丹生都比売神社に祀られています。紀ノ川流域だけで、丹生神社が50以上ありますので、できるだけ多くの丹生神社を訪れようと勇んで出かけましたが、数えるほどの丹生神社を訪れただけで、丹生都比売神社、そして、高野山に一泊して帰ってきました。
なにも収穫はありませんでしたが、空海は宗教だけではなく、水銀が関係しているのではないかと未だに思っています。
空海の狩場明神の話は、中山神社の娘の生贄の話と同様に、今昔物語集に載っているそうです。
もう一つ気になることは、宇治拾遺物語 巻10-6の「吾妻人生贄をとゞむる事」に登場する狩人は、どうして、遠くの吾妻人なのかが気になります。中山神社では、関東の狩人もやってきたのでしょうか? 空海も東北の鉱山師の家の出とか、頼りないですが、頭に残っています。
もう一つ、全国の高野神社をしらべてみますと、前回に書きましたが、インターネットで検索しましたら、随分沢山見つかりました。多いので、驚いただけで調べていません。案外、全国の高野神社は、狩人を神さんにしているかもしれません。
なにか発見出来ましたら、教えてください。
高野神社は諦めて、中山神社をインターネットで調べてみました。中山は単純ですから、いくらでもあるというのが予想でした。意外にありませんでした。ということは、中山神社は特別な神社と言えます。
全国にある「中山神社」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page270.html
高野神社は結局、なにも判りませんでした。
関係ないことかもしれませんが、私にとっては、美作の中山神社と高野神社は、日本の建国に関わる神社のように思えています。建物は、江戸時代かも知れませんが、その規模の大きさが、重要であったことを物語っているように思いました。
二宮という地名を目にしてから、どれだけ車で走りまわったでしょう。くたくたになるほど走りましたのに、神社の表示すらありません。誰かにお聞きしようとしても、誰一人として見かけません。神社の荒廃ぶりには、がっかりしました。 三年前に台風が通過した後に、中山神社を暗くなりかけていましたが、訪れました。全山の大木が倒れていました。社も倒れた大木によって、傷ついていましたが、お社は堂々たるものでした。今回は、明るい時であったためか、修理をしないと崩壊だなという印象を受けました。修理のための寄付を募る立て看板がありましたが、神社や氏子さんだけの力では追いつかないように思えました。県でも駄目でしょう。 国の力を借りませんと、ここだけではなく、同じような神社を見てきました。全国の歴史上、重要なものは、すべてなくなっていくように思えました。
明くる日、総社の鬼ノ城は、莫大な費用をかけて山中、整備され、山門が復元されていました。これはこれで、悪くはありませんが、月曜日だったためでしょうか? 私は山でゆっくりしていましたが、50人の人も来ていませんでした。観光にもならないのだなと思いました。
それに比べて、中山神社と高野神社は、津山市の人の心を育ててきた神社だと思います。
津山城周辺の観光施設も大切ですが、お金の掛けるところを間違っているのではないかと思いました。
でも、仮に、国と県が費用を全部負担して、建て替えたとしても、神社は津山の人の産土にはならないでしょうね。例え、僅かずつでも、市民の皆さんがお金を出し合って、そして、国にも援助を求めないと皆さんの神社とはならないように思いました。
No23 美作国の高野神社と中山神社 その2 [神社からさぐる歴史]
中山神社の氏子は、中国の中山国から逃げてきた人たちではないかと、誰にも支持されない考えを披露しました。名前だけではなく、鏡作命の前は、猿が神さんであったことが想像できること。その猿は、神社の奥に猿神社として、消されることなく、今でも祀られていること、次に写真があります。http://homepage2.nifty.com/hatazoku/mimasaka.htm
この猿神社が、宇治拾遺物語 巻10-6の「吾妻人生贄をとゞむる事」に登場する大猿らしきことなど、断片的に述べてきました。だからと言って、中山神社の氏子は中国の中山国からやってきた人とは、立証できたことになりません。
ただ、彼らがそうであれば、紀元前200年ころでも、製鉄が行われていたし、鏡がつくられていても何ら不思議ではありませんことがいえるだけのことです。
これ以上に、私が興味を抱いたのは、中山神社で、鹿の生贄を使ってお祭りをしていたらしいということです。
鹿を生贄に使ってお祭りをする例が、諏訪神社で行われているということを知り、見に行きたく思いました。お祭り当日に行くことはなかなかできませんので、こちらの都合の良い時にと、連休のH16.05.02から2泊3日で出かけました。旅館を取ろうとしますと、予約でいっぱいでとることはできません。インターネットで検索しているうちに、七年目ごとに行われる御柱祭の日にあたっていることが判りました。
私は、祭りはいいから、諏訪大社の近くにある史料館に鹿の生贄の祭りが再現されているというので、それさえ見ることができればいいと思って、旅館が取れないままに、行くことに決めました。数日前に、あるホテルでキヤンセルがありましたので一日目は泊まるところを確保しましたが、二日目はなくて困りました。
行ってみてびっくりです。お祭りと言うと京都のように観光客がいっぱいですが、観光客というよりは、全国に散らばっている諏訪の人たちが、全員帰ってきてお祭りに参加しているというのではないかと思えるほど、町中でのんびり、お祭りを楽しんでいる世界にどっぷり浸かってきました。
メインの神長官守矢史料館
http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn015/jintyouk/jintyou1.html
は、お祭りのために、お休みで見ることはできませんでした。
昔は、鹿をたくさん(75頭)供えていましたが、最近は、二頭ぐらいと本で読みました。現在でも行われています。(?)
祭神の建御名方神は大国主神と高志河比売神の御子神で、八坂刀売神は妃神です。
この神社は、また別の機会に書こうと思います。祭神の建御名方神は、大国主神の子供ですから、渡来人でないように思えますが、外国の神さんの匂いがいっぱいという感じがします。
生きた動物を神に供えるという行為は、日本の神社には、あまりないように思われます。
中山神社のことは、判らないなりにも、いろいろ書いてきました。問題は中山神社と関連があると思われるのに、高野神社は、一向に書くことがありません。そこで、全国に高野神社がどれほどあるか調べる気になりました。
高野神社のことは、次回にまわそうかと思います。
No22 美作国の高野神社と中山神社 [神社からさぐる歴史]
この二つの神社は、大いに関係があったのではないかと考えています。別々に眺めますと見えませんが、一緒に眺めますと、別のことが浮かんできます。
その関係とは、『今昔物語』に「今昔、美作國二中参・高野卜申神在マス。其神ノ体ハ、中参ハ猿、高野ハ蛇ニテゾ在マシケル」と書かれているそうです。No19とNo20に書いた祭神と違います。
『今昔物語集』は、作者は判りません。いつ頃できたかも確かではありませんが、成立時期はこの1120年代~1449年の間ぐらいであろうとされています。『今昔物語』は難しいと書かれていましたので、実際には読んでいません。
「今昔、美作國二中参・高野卜申神在マス。其神ノ体ハ、中参ハ猿、高野ハ蛇ニテゾ在マシケル」と同じような内容のものが、宇治拾遺物語 巻10-6の「吾妻人生贄をとゞむる事」に書かれていますので、この内容を書いてみます。
中山神社では、現在では行われていないと思いますが、鹿を生贄として供えていたらしいです。その前は、人間の娘を生贄にしていましたが、鹿になったのだという理由が、宇治拾遺物語 巻10-6 に書かれていることになります。
いつの頃からか判りませんが、この中山神社の神である猿に、毎年、人間の娘を生贄に差し出すことが、ずっと、続けられていました。その年も、愈々、その時が近づき親子ともども泣いていました。そこへ、東人で狩人を仕事する男が通りかかりました。狩人は助けることとし、猿を捕まえてきて、犬が猿を見たら噛みつくように訓練をして、その日に備えます。
生贄を差し出す日に、箱の中に犬と狩人がはいり、猿の神の前に神主によって届けられます。いつものように猿が箱を開けますと、犬は猿に飛びかかり噛みつきます。犬たちは、多くの猿をかみ殺します。大将の大きな猿を捕まえて、殺そうとしますと、一人の神官に神が乗り移って、叫びました。
「私は、今日より後、永遠に生け贄を取らず、人の命も奪わない。また、あの男も、私をこんな目に合わせたからといって、殺めてはならない。生け贄の娘や、その両親・親族も罰してはならんぞ。ただ、何とか私を助けてくれろ。」
これを聞いた宮司らは、皆社の中に入って、狩人の男に、命乞いをして許してもらいます。
それからというものは、生贄に娘を使わないで、猪や鹿を供えるようになった。
宇治拾遺物語 巻10-6 を判り易く書いてあるホームページがありますから、こちらで読んでください。http://www.eonet.ne.jp/~jujiro/setuwa/konj26-7.htm
さて、このお話が、どこまで、中山神社と関係があるのかどうかは、確かめる術はありませんが、中山神社の境内を左に100mほど進みますと、高台に登っていく道があります。小いさな祠ですがあり、猿が祀られています。この猿は猿田彦命であると書いてあるものを見ましたが、そうではないのではと思っています。
そこで、私の少々強引とも思える推理を書いてみようかと思います。一番のポイントは、中山神社の名前です。現在は「なかやま」と呼んでいますが、かつては、「ちゅうさん・中参」と読んでいたと思われます。
備前国と備中国の一の宮は、中山のいう山の麓にあります。この山の真ん中が、備前国と備中国の国境になっています。この山は神聖なる山で、この山から由来するのであろうということを書いておられる方がありました。国境に国の一の宮が並んであるというのは、尋常ではないのですが、なぜ、このようなことになっているのか、それは、中山という山がも神聖視されたからであろうとの推理かと思います。その両国から、美作国が生まれた
(?)のですが、同じ、一の宮だから、中山神社のなまえになったという推理は納得がいきません。
北京の南50kmぐらいのところにあった中山国が忽然と消滅しました。2300年前のことです。その国の遺跡が、1973年だったと思いますが、発見され発掘されました。どうして、そんなに早いのかと思えるほど、早い時期に、19000点の遺物のなかか146点が日本に持ってこられて、1981年3月17日~5月5日まで、東京国立博物館で「中山王国文物展」が開催されました。こ展示会は見なかったのですが、その時に発売された冊子に、中山国のことと、出展されたものの写真が収められています。 多くの銅製の製品が紹介されていますが、二つの燭台があります。ここには、猿と龍が戯れている姿が生き生きと形作られています。
ただ、それだけのことですが、この国の人間は、元遊牧民の白狄人とされています。 少なくとも、彼らは、猿と龍が好きであったようですし、犬も好きであったのではないかと想像しています。
イザナギとイザナミが、日本という国を作ったということが、古事記に書かれています。高天原に、次々の神がやってきたところから、古事記は始まりますが、その中の神として、イザナギとイザナミが紹介されています。
このイザナギとイザナミが、中山国からやってきたのではないかとの仮説を知って頂くために、
「イザナギとイザナミはどこから来たか」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page663.html
のタイトルで、書き始めています。「新しい日本の歴史」のNo69になります。H17.10.13にホームページに書き込んでいます。
中山国は2300年前に建国し、200年ほど続いたとされています。イザナギらは、隠岐島にやってきて、ヒルゼン高原の高天原に来たのは、紀元前180年ころかなと推理していますと、少々、年代が合わないかなとの不安もあります。
上に書きましたように、中山の由来・猿が神・鉄や鏡を作る技術は完璧なものがあったと、すべて、クリアーします。スサノオが襲撃した出雲の横田町大呂は、イザナギらによる製鉄所だったのではないでしょうか? 銅鐸は、作るのが難しいように言われていますが、縄文人にとっては、難しものですが、イザナギにとっては、なんでもない簡単なことであったのではと思っています。
『今昔物語』に「今昔、美作國二中参・高野卜申神在マス。其神ノ体ハ、中参ハ猿、高野ハ蛇ニテゾ在マシケル」と書かれていますが、宇治拾遺物語 巻10-6には、
「今は昔、山陽道美作國に、中山、高野と申神おはします。高野はきちなは、中山は猿丸にてなんおはする」と書かれています。「高野はきちなは」 とはどういうことでしょうか?
先ほど、紹介しました二つの燭台に造られている龍には、足がありますから、蛇ではないのですが、所謂、龍でもないような気がします。「中山王国文物展」の冊子には、この龍のことをキ龍(虁龍)と書いてあります。キの漢字は、虁です。どのような意味があるか判りません。「きちなは」は、判りませんが、龍は架空の動物ですから、「きちなは」と「キ龍」は関係があるのかもしれません。
生贄の祭りは、中山神社と高野神社が一緒に行ったとは、書いてありませんが、一緒に行わないのであれば、「今昔、美作國二中参・高野卜申神在マス。其神ノ体ハ、中参ハ猿、高野ハ蛇ニテゾ在マシケル」の表記にはならないと思います。
両神社を祀る人々は、同じようi外国の出身でしょうか?
この辺りを 次回に探ってみます。
No21 美作国の高野神社 その2 [神社からさぐる歴史]
両神社の祭神を並べてみます。
高野本郷の神社は、祭神 高野造祖大神 主神 鵜葺草葺不合命
二宮の神社は、祭神 彦波限建鵜葺草葺不合尊 配祀 鏡造命(中山神),大己貴命(総社神)
いろいろの見方はできますが、
高野本郷の神社--- 鵜葺草葺不合命
二宮の神社------- 彦波限建鵜葺草葺不合尊
の祭神だけに絞って眺めます。
日本書記と古事記では、鵜葺草葺不合命の名前と全く同じ名前では出ていませんが、よく似た名前は、記載されています。
古事記では、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命、日本書紀では鸕鶿草葺不合尊
古事記では天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命の後ろに、【訓波限云那藝佐、訓葺草云加夜】の注釈があります。波限は、どこかに書いてあったのでしょうが、書いたものの読むことができないといけないので、「那藝佐」と書いていますから、「ナギサ」です。ナギサという漢字は、渚と汀があるのに、どうして使わなかったのでしょうか?
日本書記にかかれてある「瀲」はレンと読み、「なみうちぎわ」の意味です。
日本書記に書かれている鶿は、訳本では 慈の上の部分が左横に、鳥が右に書かれた漢字が書かれていますが、辞書にはありません。鶿は慈の心の部分が鳥です。
どうして、このように拘っているかと言いますと、日本書紀に書かれている漢字は、辞書を引いてもでてこない代物です。
日本書紀の作者は、古事記を眺めながら、古事記とは別の漢字使って日本書記を書いたと思っています。どうして、日本書紀をみながら、古事記を書くことは、難しいからです。他の部分を含め、100パーセント書き改められています。ご自分でゆっくり、本当かなと疑いながら、眺めてください。
日本書紀の祭神では、「命」が「尊」に書き改められています。日本書紀は、特に位の高い人を「尊」とし、普通の人はと書くと断っていますから、「命」も使われています。
高野神社では、
高野本郷の神社--- 鵜葺草葺不合命
二宮の神社------- 彦波限建鵜葺草葺不合尊
と、二宮の神社では、尊が使われていますから、二宮の高野神社は、藤原氏の支配下になり、祭神を彦波限建鵜葺草葺不合尊に書き直されたと考えています。
高野本郷の神社には、稗田阿礼は訪れたのではないでしょうか? そして、祭神が鵜葺草葺不合命であることを知ったのではないでしょうか? ひょっとすると、日子波限建鵜葺草葺不合命と書いてあったのかも知れません。太安万侶は、天皇家が連続して続いていることを古事記に記すために、天津日子の間に、「日高」を入れて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と書いたのではないでしょうか?
天津日子番能邇邇芸命----アマテラスの孫
天津日高日子穂穂手見命--- ニニギとコノハナノサクヤビメとの間の子。火遠理命又は
山幸彦と言われます。
上記のように、天津日子の漢字が使用されています。この人たちの子孫ですよということでしょう。
高野神社は、両社とも式内社であると言っておられますが、高野本郷の神社は鵜葺草葺不合命と古事記と同じ表記ですから、藤原氏の指示に従わなかったと判断しています。
そうしますと、考えられることは、二つです。藤原氏は、天皇勢力の強い美作で、中山神社と高野神社を支配下に置こうとしましたが、高野神社は言うことを聞かないので、二宮に高野神社を新たに造り、それを式内社高野神社とした。
もう一つ考えられることは、高野神社の氏子は、意見が合わなくて、二つの村に分かれました。その内の二宮の神社は、藤原氏の命令に従ったが、高野本郷の神社は従わなかった。
両方の神社へ行ってきました。建物は当時のものではなくて、最近のものです。二宮にある神社の方が、断然スケールが大きいです。それだけでなく、町も大きいですから、その後、二宮の集落の方が発展したことが判ります。
式内社になったから、町が発展したのかどうか知ることはできませんが、最初に神社が建てられた時の規模がどちらが大きかったか知ることができれば、判断がもう少し正確にすることができると思います。
地名から判断しますと。高野本郷とはおかしい名前です。この集落は、以前、高野村だったと思われます。ところが、二宮はどんどん大きくなって行き、高野神社も壊れて、長い間再建されなかったのではないでしょうか? 高野の本家は私のところですよと訴えたかって、高野の本郷と村の名前を改めたのではないでしょうか? ここにJRの高野駅があります。駅にはいきませんでしたが、開通したときは、重要な村だから、駅が出来たと考えます。
一方、二宮のほうは、二宮という駅はなく、院の庄と津山駅の間に、神社があります。この二つの集落の方が、高野より重要視されたことになります。(駅が作られた時の経緯を津山市の方で、調べて頂ければと思います) 二宮という地名は、二の宮と呼ばれるようになってから使われるようになった地名ですから、高野本郷の方が古くからあった地名と考えています。
このようなことを調べる方法としては、もう一つ方法があります。両方の神社の玉垣や神社の修理のときに寄付をされた方の名前が書かれています。氏子の方が多いと思います。氏子の方のお名前を調べてみますと、意外なことが発見できるかもしれません。
そんなことより、地元の方に、直接お聞きすると新しい発見があるのではと思います。
美作にある式内社のうち、湯原町社にある八つの式内社も、抵抗したのではないでしょうか? そのために、不自然にも、狭い社という集落に集められて、式内社の名前を与えられたのではと推察していますが、この件は、もう少し検討する余地があります。
No20 美作国の高野神社 [神社からさぐる歴史]
美作には高野神社が二社あります。
その1 岡山県津山市高野本郷1014に鎮座
式内社 美作國苫東郡 高野神社 旧郷社
祭神 高野造祖大神 主神 鵜葺草葺不合命 相殿 応神天皇,神功皇后
由緒 高野神社の創祀年代は不詳であるが、はじめて国史に登場するのは貞観六年(西暦八六四年)従五位に叙せられたことに始まる。ついで貞観一七年(西暦八七五年)正四位下に昇叙され、さらに、延喜五年(西暦九〇五年)から編纂された「延喜式」の神名帳に登載され、式内社となった。式内社は、美作国では十社しかなく、津山市内では中山神社と高野神社のみである。
御祭神は、古くは鵜葺草葺不合命一柱であったが、中世に武家の勃興とともに、相殿に応神天皇、神功皇后をお祀りして、明治維新頃までは八幡宮と称して、篤く信仰を寄せられてきた由緒ある古社で、現在ではこの高野の地を開拓し、繁栄に導かれた祖神として、高野造祖大神と称えている。
この近くに、ある遺跡のことについて、次のような文章がホームページにあります。
「北方三町大字山西東字夏目の古墳より大正9年陶棺を発掘し、各種の巖瓮、各種の金環、水晶の切子玉、鉄片残缺を出せしこと。寺址の西方十町大字山西の西方。東台山、正仙塚の如き円丘古墳の存すること。中にも正仙塚は明治十七年の発掘によりて其の見事なる組み合わせの石棺なること。且、その内部より古刀二、古鏡一を出せしこと。又大字下押入、能萬寺の古墳群。又南方一里許に美作国分二寺の存すること等に依りて当代、高野夜半寺造営の偶然にあらざるを知るべし」
「玄石の風景」
http://2.csx.jp/users2/wakatake2400/NagaData/narahaiji/35kouya/nagayama-35kouya.htm
ここに書かれた遺跡について、確認する時間がありませんが、陶棺が発掘されたということに関心があります。
陶棺は、ユダヤ人の棺桶だと考えています。ということは、この辺りにユダヤ人が住んでおり、絹を生産して、中国やヨーロッパに輸出していたと推理しています。
このことにつきましては、「新しい日本の歴史」のNo24 において書きましたので、このナンバー近くの記事を読んでください。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page585.html
その2 岡山県津山市二宮601に鎮座
式内社 美作國苫東郡 高野神社 旧県社
祭神 彦波限建鵜葺草葺不合尊 配祀 鏡造命(中山神),大己貴命(総社神)
由緒 安閑天皇二年(西暦紀元五三四年)の鎮座にして延喜式内社である。美作国二宮として官民の尊崇厚く源頼朝は神門を建立し、山名氏は社殿の修造神馬の奉献毛利元就及小早川隆景は祭祀厳修を令し社殿を修造した国主森氏は代々深く崇敬の誠を尽し社領八十石を献じ寛文三年(紀元一六六三年)長継公は現社殿を造営した。旧社格は県社である。
中山神社との一関係は、高野本郷が南東、二宮がほぼ南に、同じくらいの距離にあります。
高野本郷と二宮の中間ぐらいのところに、国分寺があります。
高野神社は、両方とも式内社と書いてありますが、両方の高野神社が、そのように主張しておられるのだと思います。私は、高野本郷の方が、元々あったのだと思いますが、藤原氏の言うことを聞かなかったので、二宮の高野神社が式内社になったと考えています。
長くなりますので、この話は次回にします。
No19 美作国の中山神社 [神社からさぐる歴史]
神社は岡山県津山市一宮に鎮座し、JR津山駅より北へ5kmの位置にあります。
祭神は、鏡作神 相殿 天糠戸神,石凝姥神 です。
由緒 美作国の一の宮として高い社格と農耕の神牛馬の守護神として広く人々の信仰をあつめてきた中山神社は、鏡作命を祭神として、慶雲四年(七〇七年)創建され、その後戦国時代の天文二年(一五三三年)尼子氏の美作攻略のとき兵火により焼失したが、永禄二年(一五五九年)尼子晴久によって再興された。 以下省略****
私に理解できないのは、一の宮、二の宮です。神さんよりえらい人がおられまして、いつの時代からか、各神社に祭られている神さんに神位というものを授けています。そして神位を含めてその神社の偉さを神格と呼んでいます。
この中山神社は『日本三大実録』貞観2年(860)正月戌寅条に「美作国正五位下中山神に従四位下を授く」とあるのが史料上の初見であり、同6年(864)8月官社に列せられ、同17年(875)4月には正三位に昇叙された(以上、同書)とあります。No18において、美作国の他の神社の神格を記しましたが、同じく貞観6年8月で、他は従五位上ですから、中山神社は社格が上であることが判ります。
朝廷から派遣された国司は、赴任しますと、神格の高い順に参拝する慣習があったらしいです。神格が高い神社を社格が高いというらしいです。社格は、朝廷への忠誠心の表れなのか、朝廷への経済的援助によって決まったのかよくわかりません。天皇家の血筋が濃いほど社格が高かったのか、これから調べることになります。
一之宮は参拝の順序につけられる呼び名ですから、一之宮が二つあることはあり得ませんが、時代によって、他の神社と一之宮を交代するケースも見られます。
はじめに書きましたように、神社の祭神は、鏡作神となっていますが、長い年月の間には、神官の間で、いろいろの主張があったようです。この一宮の地に、どのようにして中山神が鎮座されたかには、3つの説があります。
① 降 臨 神 説 この地に初めて降臨した神とする。
以前からの住んでいた神を排除し、降臨した中山神が土地を占拠したとする。中山の
名は鎮座地の背後の山名とする。
② 吉 備 神 説 古代吉備の吉備神(吉備武彦命・吉備津彦命など)の分霊を, 吉備から分国して美作国を設置したときに招来したとするもの。 この場合,中山神の名の由来は吉備神の鎮座する吉備の中山にあるとする。
この説を支持する人は、多く、あちこちに見ることができます。
③ 鏡 作 命 説 美作の分国時に吉備神を招来し分祀した神は、吉備武彦・吉備津彦ではなく「鏡作命」だったとする。
鏡作命を祀る神社は、詳しく調べていませんが、あまりないように思います。イシコリドメ(石凝姥)を祀った神社は、奈良の唐古遺跡の周りにあります。鏡作神社です。
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page176.html
鏡作命は、鏡を作っていた人だと思われます。津山市の北に、鏡野町という地名があり
ますが、この町ですら、鏡に関係するものを見つけることができません。中山神社の祭
神は、金山彦命であるとも言われています。
古事記の天岩屋戸の事件の折に、「天の金山の鉄をとりて、イシコリド命に、鏡を作らせ
た」と書かれていますから、紀元前180年ころに、すでに、鉄は作られ、鏡も作られて
いたと思われます。相殿の天糠戸神は、石凝姥神の父になります。この二人は鏡の生産の技術者
です。鉄を作る人が先にいないことには、おかしなことになります。
中山神社では、はじめに金山彦命が祀られていて、その内に、鏡の作り手である天糠戸神は、石凝姥神が一緒に祀られることになったと思われます。神社が伝える祭神である鏡作神は、同じ鏡作りとなり、矛盾します。
最後の三行を除きますと、殆どの方が書いておられるものに合致しますから、中山神
のことについは、ほぼ正しいことと思われます。
しかし、私は全く異なったことを考えています。 次回No20では、違った考え方が正しいことを説明するために、二の宮である高野神社について判っていることを述べます。
No18美作国の神社 [神社からさぐる歴史]
美作市は、旧勝田、大原、美作、作東、英田町、東粟倉村の6町村が合併して平成17年3月31日に誕生しました。岡山県の北東部に位置し、東を兵庫県、西を勝田郡及び久米郡、南を和気郡、北を鳥取県と接しています。(市のホームページより)
この辺りの町の名前をやっと覚えたと思っていましたら、上記のように変わりました。
次々と町の名前が変わるのは、どうにかならないものでしょうか?
その度に、古い地名が消滅します。日常生活は便利になるのでしょうが、その町の歴史は、地名から探れなくなります。
ただ、美作市の場合に限り、元に戻ったので良かったとの思いもあります。どのように元に戻ったのかと言いますと、この辺りは、古くは美作国と言われたところです。和銅6年に、当時、備前国があり、6つの郷から成り立っていました。郷名は、勝田郷、英田郷、斗苫田郷、久米郷、大庭郷、真島郷です。この各郷の一部が削られて美作国が成立したことになっています。
朝廷に武蔵国秩父郡から、和銅(精錬の必要の無い自然銅)が献じられたことを記念して、和銅という元号が付けられたと言い、708年から714年までの期間を指します。この時代の天皇は元明天皇です。これを記念して、和同開珎と言う銅貨も造られています。
ついでに、この頃の注目すべきことをあげて置きます。
和銅3年、藤原京から平城京に遷都。 (710)
和銅5年1月28日、古事記完成。 (712)
和銅5年9月28日、出羽国を建てる。
和銅6年4月3日、丹後国・美作国・大隅国を建てる。 (713)
和銅6年5月、諸国に風土記の編纂を命じる。
どうして、同じ日に、丹後国・美作国・大隅国が誕生したかは、理由があるのでしょうが、判りません。私は古事記が完成したことと関係があるのではないかと推理しています。引き続き、諸国に風土記の編纂を命じたのが、日本書紀を作るためであったのではと考えています。根拠はこれから探すことになります。上に挙げました事柄は、すべて関係があると思われます。
このように日本の激動の中で誕生した大きな国が、どうしたわけか、どんどん小さくなり、長い間「美作町」でしたが、元に戻ったなと嬉しく思います。
タイトルは「美作国の神社」としました。いつかは全部調べなければなりませんが、まずは、式内社だけを取り上げようと思います。
美作国の式内社は、次の11座(大1座・小10座)のみです。
大庭郡 8座 並小
佐波良神社 (四宮 佐波良神 社村谷口)
http://www.genbu.net/data/mimasaka/sawara_title.htm
形部神社 (五宮 形部神=神阿多津比売命=木花咲夜姫 社村谷口)
佐波良神社と同じところに祭られている。
以下の五座は、二宮神社(ふたみや) に祭られています。
http://www.genbu.net/data/mimasaka/futamiya_title.htm
壱粟神社二座 (六宮 壱粟神=神大市姫命 社村於和佐)
(相殿 大笹神社 (七宮 社村於和佐)
久刀神社 (八宮 久刀神 社村於和佐)
兎上神社 (三宮 兎上神 社村於和佐)
長田神社 (九宮 長田神 社村於和佐)
横見神社 (十宮 横見神=大山津見命 社村加佐美山 )
http://www.genbu.net/data/mimasaka/yokomi_title.htm
五社ありますが、すべて、社村にあり、すぐ近くにあります。
苫東郡 2座(大1座・小1座)
中山神社 (一宮 )
神社資料
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/dbindex/jinja/450101.html#jyougan
航空地図 http://21coe.kokugakuin.ac.jp/modules/dbindex/jinja/4501011.html
高野神社 (二宮)
英多郡 1座(小)
天石門別神社 (天石門別神 宮地村)
以上11座は、『延喜式』に記載されている神社です。『延喜式』は、延喜5年(905)の勅により、延長5年(927)に完成したものですが、それより50年以前の貞観時代に神階を受けていますが、大庭郡の8社は、貞観6年8月に、従五位下から従五位上に変わっています。
しかし、苫田郡大篠村の大佐々神は、貞観5年5月 従五位下から従五位上に変わっています。また、勝田郡の成松村の奈義神は、貞観5年5月 従五位下から従五位上に変わっています。また、天石門別神も貞観5年5月 従五位下から従五位上に変わっています。
このように見てきますと、大庭郡の八社が固まって存在することが、異常であることが判ります。大佐々神と奈義神のように、大庭郡の八社は、美作国に散らばって鎮座したものが、集められたと推察できます。だれが、何のために集めたかです。
佐波良神は、和気氏の先祖であるらしいですが、此の地の大物である和気氏も、力が及ばなかったようです。
大山津見命は、ニニギ命と結婚した木花咲夜姫の父です。神大市姫命は、木花咲夜姫と姉妹。
神大市姫命はスサノオと結婚しました。
長田神は、事代主命のようです。事代主命は大国主命。これらのことから、何か見えてこないでしょうか? すべて、祭神は天皇家とつながりがあるのでは?
八座は式内社ですから、藤原不比等の息がかかっていることになります。
この八座は、H16.07.18に、気になり訪れました。そして、調べましたが、良く判りませんでした。どのように考えたかは、
「歴史楽」の中のhttp://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page474.html
に書いていますから、覗いてください。
先日、12日~14日まで、美作の中山神社と高野神社に行ってきました。美作の一宮と二宮です。地図を眺めていますと、二宮の北に鏡野町があります。「鏡」の字があるので、なにかあると調べましたが、なにも見つかりませんので、現地を見てこようと鏡野町へ行きました。博物館がありましたので行きましたが、役場があるだけで、博物館は見つかりません。役場でお聞きしましたら、月曜日ですから、休館ですとのこと。
それでは、たたら博物館がありましたので、お聞きしましたら、「休みですが、支所がありますので、行ってもらったら、オープンします」とのことで、走り出しましたが、しんどくなりましたので、あきらめました。
博物館のある地名が「富」でした。地図でながめているだけですので、良く判りませんが、先ほどから述べています、社村の隣になりそうです。社村は、町名は変わりましたが、湯原温泉のある湯原町です。きっと、山越えになるでしょうが、美作---富村—社村と人々は、移動したと思われます。
行かなかったのですが、たたら博物館ですから、この辺りは製鉄が行われていたと思われます。中山神社の祭神は、鏡作神です。まんざら、製鉄と無関係ではありません。 変なところでつながりができました。
話は飛びますが、式内社がこれだけ少ないということは、美作国は、伯耆の国と同様に、間違いなく天皇家の勢力が強かったことになります。
次回は、中山神社のことを書いてみようと思います。






