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<title>新しい日本の歴史</title> 
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<modified>2012-02-14T18:06:13Z</modified> 
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<tagline><![CDATA[中国は、「日本人は、日本史の勉強をしなさい」と忠告してくれました。日本は、感謝して忠告を聞き、お返しをすべきです。]]></tagline> 
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<title>歴史各論　三角縁神獣鏡（77）　魏志倭人伝（28）　　邪馬国は、何所に（25）奴国2</title> 
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  <modified>2012-02-14T18:06:13Z</modified> 
  <issued>2012-02-15 03:06:07+09:00</issued> 
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  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-15">
<![CDATA[
奴国が書いてある所は見つかりましたか。見つからなかったかも知れません。正確に云いますと、「その汝が持てる生大刀・生弓矢をもちて、汝が庶兄弟をば、坂の御尾を追ひ伏せ、また河の瀬に追ひ撥ひて、おれ大国主神となり、また宇都志国玉神となりて、その我が女須世理毘売を嫡妻として、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ヒギ)たかしりて居れ。この奴。」<br />
　と書いてあり、奴国ではありませんでした。<br />
　原文<br />
　故其所寢大神。聞驚而。引仆其室。然解結椽髮之間。遠逃。故爾追至黄泉比良坂遙望　呼謂大穴牟遲神日。其汝所持之生大刀、生弓矢以而。汝庶兄弟者追伏坂之御尾。亦追撥河之瀬而。意禮【二字以音】爲大國主神亦爲宇都志國玉神而。其我之女爲須世理毘賣。爲嫡妻而。於宇迦能山【三字以音巳】之山本。於底津石根。宮柱布刀斯理【此四字以音】於高天原氷椽多迦斯理【此四字以音】而居。是奴也。<br />
<br />
　　奴国と書いてないのであれば、魏志倭人伝に書いてある奴国ではないではと思われるでしょうが、ここに書いてある文章が、どうして、この様な経過となったかを知りませんと、全体を把握できません。<br />
<br />
　次回は、古事記の原文や<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%BF%BB%E8%A8%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">翻訳</a>文では、読む気がしませんので、歴史の流れを書いて見ます。(この部分は、歴史ではなくて、神話だから、全く信用ならないとされています。)<br />
<br />
古事記が、きらいな方は、読まれても意味がないと思います。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
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<title>歴史各論　三角縁神獣鏡（76）　魏志倭人伝（27）　　邪馬国は、何所に（24）</title> 
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  <modified>2012-02-14T18:06:13Z</modified> 
  <issued>2012-02-14 06:29:16+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49842936</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-14">
<![CDATA[
今日は、奴国です。<br />
日本の歴史家は、おかしいですね。魏志倭人伝のことについては、これでもか云うほど、研究をされています。そして、邪馬台国は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>だとか、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A5%88%E8%89%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">奈良</a>だとか結論付けておられますが、日本の歴史書には、邪馬台国も卑弥呼も登場しません。<br />
<br />
　卑弥呼が死んだ年は、およそですが、分かっています。248年頃です。そうであれば、崇神天皇の時代だと思います。調べてください。崇神天皇は、300年以降の人だとされています。<br />
　そうしませんと、崇神天皇が倭国を支配していた時には、邪馬台国をはじめとして、一杯国があって、お互いが戦をしていたと云われています。<br />
　だから、どうしても、崇神天皇は、300年以降に居られたことになります。<br />
　いや、そんなことはないぞとウィキペディアの先生は、次のように書いておられます。<br />
　生まれは　紀元前148年<br />
　崩御は、紀元前29年1月9日<br />
　　<br />
　自分の兄弟の生年月日すら、忘れかけているのに、紀元前の人の死んだ日が分っているのです。きっと、日本書紀に書いてあるのでしょうね。<br />
　しかし、神武天皇だけは、およそ　いつ頃に生れたかは判るのです。神武東征が行われて、最後の敵を奈良でやっつけた年を、紀元元年一月一日と決めて、日本人ではなくて、ユダヤ人が、自分たちのものとして、世界中で使っていました。世界中に日本から絹を運んで生計を立てていたユダヤ人は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%95%86%E5%A3%B2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">商売</a>をするうえで、世界に共通する暦は無くてはならない物でした。<br />
　どうして、ユダヤ人が、神武天皇が、戦争に勝ったことを知っていたかと云いますと、自分たちが、神武天皇を助けていたからです。<br />
<br />
　神武天皇は、戦争に16年以上費やしています。きっと、20年はかかったと思います。戦争に出かけたのが、仮に、20才の時であれば、神武天皇は、紀元前40年の生まれになります。40才の時に、出陣したのであれば、紀元前60年の生まれになります。<br />
　他の天皇の生れは、よく判っていませんが、天皇が、20才の時に、長男が生まれたとしますと、崇神天皇は、10代の天皇ですから、10×9で、180才、神武天皇より遅い年代となります。<br />
　神武天皇が、仮に、紀元前60年の生れであれば、崇神天皇は、紀元後、120年の生まれになります。前後、20年の余裕を見ても、崇神天皇は、紀元後、100年～140年の生まれになります。<br />
　間違っても、紀元前とか、300年後の生まれなどにはなりません。<br />
　寄り道が多くなってしまいました。<br />
　卑弥呼が死んだとされる248年頃は、崇神天皇の時代です。<br />
　魏の国が、どうして、自分の国の歴史書に日本のような遠い国のことを書いたのかと云いますと、日本が重要だったからです。<br />
　従いまして、邪馬台国は、無かったと云われる方もおられますが、間違いでしょう。私は、有ったと考えています。<br />
　日本の歴史書である古事記には、「奴国」のことが書いてあります。それなのに、誰も「奴国」のことは書いておられません。<br />
　<br />
　古事記のどこに書いてあるか、探しておいてください。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡（75）　魏志倭人伝（26）　　邪馬国は、何所に（23）</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13" />
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  <modified>2012-02-14T18:06:13Z</modified> 
  <issued>2012-02-13 02:45:53+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49814785</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13">
<![CDATA[
末廬国は、正確には、どの辺りか判りませんが、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B3%B6%E6%A0%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">島根</a>半島だと思われます。その後にはいくつかの国が書いてあります。国名を書いた<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%B0%E5%9B%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地図</a>は、以前に見て頂きましたが、もう一度、確認してください。<br />
<a href="http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/2012012309200975e.jpg" target="_blank">http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/2012012309200975e.jpg</a><br />
<br />
今回は、不弥国です。この国名もあまり悪い漢字は使われていません。一大国のきと同様に、陳寿が付けた国の名前ですから、漢字に意味があります。<br />
「弥」は、普通は、私は「や」と読んでいました。この字の異体字は、「彌」です。これですと、「み」です。【字通】によりますと、「み、び」しかありません。と云うことは、中国人は、「ふみこく」か「ふびこく」です。「み」は呉の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%BD%BF%E3%81%84%E6%96%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">使い方</a>。「び」は漢の使い方ですから、<br />
「ふびこく」と呼んだのでしょうか。<br />
<br />
　さて、「弥」の意味は、　①ひさしい　②ひさしきにわたる、おわる　あまねく、きわめる　③ひろい、とおい、おおきい、ふかい　④みちる、みたす、おおう　⑤いよいよ、ますます<br />
<br />
　この漢字の成り立ちは、この意味の前に、いっぱい書いてありますが、理解困難ですので、省略しました。<br />
　【字通】では、良く使われる意味でしょうか。・<br />
　「広く端までいきわたる」「いつまでも程度がおとろえない」というようにつかわれるとかいてあります。　この意味に否定の「不」がついていますから、「今では、力が行き渡らなくなった国」となるでしょうか。<br />
　<br />
　末廬国は、島根半島だとおもわれますと前回、記しましたが、此れでは範囲が広すぎますので、〔末　まつ〕の字に拘りますと、島根半島の真ん中に、松江があります。これから以後の国までは、松江を起点にしますと、松江の東百里に不弥国があるとされています。百里は、100×400で、4000ｍ＝40ｋｍになります。この地域は、大栄町の高千穂がある所です。ここは、瓊々杵命が、蒜山高原の日留宮から、遷都した所です。<br />
　高千穂は北緯35度27分上にあります。同じ、北緯35度27分上をもう少し、西へ行きますと、「宮内」という地名があります。こみは、神武天皇が、ここに<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%AE%AE%E5%9F%8E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">宮城</a>を定めた所です。<br />
「高千穂・東伯郡」は瓊々杵命が、「宮内・西伯郡」は神武天皇が治めていたのですが、末廬国から40ｋｍとなりますと、「高千穂」が当てはまります。<br />
　陳寿は、紀元前120年ころには、瓊々杵命が、この地方を収めていたことを知っていたのでしょう。昔は、政治が行き渡っていたのに、今では、さびれてしまっている国があると書いたことになります。<br />
　このようなことを調べたのは、卑弥呼の部下の難升米ということになります。難升米は、太夫の称号を付けていますが、魏の国が<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%B4%BE%E9%81%A3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">派遣</a>したスパイであったことになります。<br />
方角も、距離も正確に測量していたことが判ります。<br />
<br />
　北緯35度27分上には、天皇に関係のある<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%81%BA%E8%B7%A1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">遺跡</a>や地名が並んでいますので、天神ラインと呼んで、紹介しています。<br />
　次の辺りに書いています。<br />
　　<a href="http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2593826/" target="_blank">http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2593826/</a>　<br />
　<br />
　天神ライン---日ノ御碕―---粟島—佐陀川河口—小波浜—上淀廃寺--岩塚古墳---宮内(西伯郡)—高千穂(東伯郡)—岡益・梶山古墳—出石-―天座—皇大神社<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡（74）　魏志倭人伝（25）　　邪馬国は、何所に（22）</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-12" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49785895" title="歴史各論　三角縁神獣鏡（74）　魏志倭人伝（25）　　邪馬国は、何所に（22）" />
  <modified>2012-02-14T18:06:13Z</modified> 
  <issued>2012-02-12 06:27:47+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49785895</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-12">
<![CDATA[
<丹波国が伊都国>　　これは、田村誠一氏著『燦然と輝いていた古代・追』の115頁の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">コピー</a>です。<br />
<br />
<strong>末廬国から東南五百里(二百粁)に丹波があります。郡使の往来常に駐まる所とあり、由良川の勅使の地名が当時の名残です。この近くが天津の地名で魏志倭人伝に載せられていた津で、ここで受け取った文書等は間違いなく女王に届けられました。
　この女王は夜麻登国(邪馬台国)におられた崇神の代行をしていた、伯母の夜麻登登母母曽姫です。文書等は天津から由良川、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%8A%A0%E5%8F%A4%E5%B7%9D&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">加古川</a>経由で邪馬台国の女王に届けられました。特に差錯するを得ずと断られたものは崇神宛の文書も女王に届けることが厳重に守られたことです。これは崇神の隠れ場所を敵に分らせないためでした。
　伊都国とは伊勢大神の都の意味です。崇神の妹はこの皇大神社で天照大御神のお奉りをしていたので日神子(ヒミコ)です。日神子に卑弥呼の下卑な当て字がされました。
　卑弥呼は妻帯することは許されません。景初三年には八五才位で難升米はこんな年寄を人質にして、城の中の一室に閉じ込め、飲食を運ぶ男性一人しか入室を許さないで外部と隔離されていました。
　人質を奪われないために物見櫓を設け、城柵を巡らせて武器をもった魏の軍隊が守っていました。この城があった所が<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%A6%8F%E7%9F%A5%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">福知山</a>の北にある鬼ヶ城です。
　この様な環境におかれているのに学者が漢の橋頭堡だった<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%90%89%E9%87%8E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">吉野</a>ヶ里を邪馬台国だと国民を欺いて、邪馬台国の女王にしています。</strong><br />
<br />
以上です。如何でしたか。なんだか<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B0%8F%E8%AA%AC&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">小説</a>のような雰囲気ですが、<br />
<br />
①東南五百里(二百粁)---一大国までは、一里が70ｍでしたが、一大国からは、一里は400ｍになっています。五百里に400を掛けた計算の数字と、実際の距離は、ほぼ一致します。<br />
②勅使、天津の地名は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%B0%E5%9B%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地図</a>で確かめてください。<br />
③由良川、加古川経由の意味が判りますか、全国に沢山の分水嶺がありますが、ここには、海抜100ｍの分水峰があります。水分かれという所に公園が造られています。不思議な所です。一度、訪れてください。　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">日本海</a>から船で上り、船で加古川を降って瀬戸内海へ出ることの出来る場所です。ＪＲ福知山線が通っていますが、乗っていても分水嶺を超えても気が付かないそうです。<br />
④卑弥呼は妻帯すること—-この部分は、田村氏のミスではないかと思います。<br />
⑤伊都国とは伊勢大神の都の意味---この部分は、相当な説明が必要に思われます。<br />
⑥福知山の北にある鬼ヶ城----ここも訪れてください。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡（73）　魏志倭人伝（24）　　邪馬はじめ国は、何所に（21）</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-11" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49758695" title="歴史各論　三角縁神獣鏡（73）　魏志倭人伝（24）　　邪馬はじめ国は、何所に（21）" />
  <modified>2012-02-14T18:06:13Z</modified> 
  <issued>2012-02-11 04:51:31+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49758695</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-11">
<![CDATA[
末廬国は、正確には、どの辺りか判りませんが、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B3%B6%E6%A0%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">島根</a>半島だと思われます。その後にはいくつかの国が書いてあります。国名を書いた<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%B0%E5%9B%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地図</a>は、以前に見て頂きましたが、もう一度、確認してください。<br />
<a href="http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/2012012309200975e.jpg" target="_blank">http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/2012012309200975e.jpg</a><br />
　<br />
末廬国の近くの国は、不弥国と奴国なのに、陳寿は何故か、伊都国を書きました。<br />
<br />
原文は、〔東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。〕です。<br />
　全部見たい方は、<a href="http://homepage1.nifty.com/o-mino/page290.html" target="_blank">http://homepage1.nifty.com/o-mino/page290.html</a>　をご覧ください。<br />
<br />
伊都國の説明は、僅か、43文字です。紀元前から、中国人がいっぱいであった出雲と一部、重なる末廬国でも、〔有四千餘戸〕と書かれているのに、伊都国は、〔有千餘戸〕は、少し少ない様に思いますが、又の機会に検討する必要があるように思われます。<br />
<br />
　一番大切なことは、陳寿が書いた倭の国の中で、唯一、蔑む漢字が使われていない国です。<br />
陳寿は、伊都国とは、どのような国かと云いますと、〔世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐〕と書きました。<br />
①皆統屬女王國--女王國に統屬していた。一番前の〔皆〕はどういうことでしょうか。よく判りませんが、女王國(邪馬台国)直轄の国だったのでしょうか。<br />
②世有王---〔世〕とは、代々と云うことでしょうか。王が居た。<br />
③郡使往來常所駐---〔郡使〕とは、何所の郡使でしょうか。これまでにあった郡は、帯方郡がありました。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>からやって来る郡使の往来が有って、駐留した。<br />
<br />
この3つの事柄は、つながりがありません。<br />
　陳寿は、末路国の次に書きたかったから書きましたが、伊都國のことは、良く知らなかったのでないでしょうか。女王國の直轄の所だと思いながら、簡単に、〔世有王〕と書きました。直轄ですと、王などはいない筈なのに、〔世有王〕と書きました。<br />
<br />
　田村誠一氏は、『燦然と輝いていた古代・追』の115頁に、<丹波国が伊都国>との<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>で、文章を書いておられますから、次回、そのまま、紹介します。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡（72）　魏志倭人伝（23）　　邪馬はじめ国は、何所に（20）</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-10" />
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  <modified>2012-02-14T18:06:13Z</modified> 
  <issued>2012-02-10 06:09:15+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49723572</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-10">
<![CDATA[
今回は、もう一度、一大国に戻って書いて見ます。<br />
　大陸からは、多くの人々がやって来ていたことは誰でも否定はされないと思います。しかし、紀元前200年からと云われますと、そのような馬鹿な云われる方が多いと思います。<br />
　一例を挙げますと、秦の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">始皇帝</a>が、徐福なる人に不老長寿の薬を探してくるように、命令した事は、此れこそ、伝説として<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>には残っていたらしいです。しかし、最近は、実際にあったこととして、認められるようになっています。<br />
　日本にも、徐福の名前が、全国のあちこちに、伝説として残っています。その内容たるは、3000人を超える老若男女の人たちがやって来たというものです。<br />
　3000人を超えるということ、老若男女となりますと、移民を目的としたものではと考えてもいいと思われます。<br />
　仮に、本当としますと、10人乗りの船では、300艘いることになります。後漢の軍隊は巨大なものでしたから、大きな船で、しかも頻繁に日本にやってきました。<br />
　<br />
　魏志倭人伝には、壱岐島の事は、一大国と書いていますが、一大国は魏志倭人伝だけで、他の時代には、一支国となっています。<br />
　従いまして、陳寿が間違ったのだという歴史家もおられるそうです。<br />
<br />
　しかし、中国の資料では、次の様になっています。(ウィキペディアより)<br />
<br />
魏略逸文 [編集]<br />
『翰苑』巻30にある魏略の逸文に次のとおり記述される。<br />
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里<br />
— 『翰苑』卷三十魏略逸文<br />
梁書 [編集]<br />
『梁書』 巻54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭に次のとおり記述される。<br />
始度一 海闊千餘里 名瀚海 至一支國 又度一海千餘里 名未盧國<br />
— 『梁書』 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭<br />
隋書 [編集]<br />
『隋書』巻81 列傳第46 東夷 俀國で隋使の裴清らが訪れた国である。<br />
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國<br />
　後漢は、魏国より、時代は、古いですが、歴史書は、魏志倭人伝より後に作られました。魏志倭人伝を参考にしたと思われる所がありますが、何故か、〔一大国〕のことは書いてありません。<br />
　<br />
　このようなことを総合すると、230年ころは、一支国と中国では呼んでいたのではないでしょうか。そうだとすると、　〔一支〕に意味があるはずです。<br />
<br />
　〔一支〕の中の〔支〕の漢字は、〔シ〕と読むだけで、〔キ〕とは読めません。<br />
〔支〕の漢字はどのように使われたかと云いますと、熟語を見ると推察は出来ます。<br />
<br />
しかし、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%95%B7%E5%B4%8E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">長崎</a>県壱岐市芦辺町にある一支<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">博物館</a>は、〔イキシ〕と読んでおられますから、中国では読まなくても、日本では〔イキシ〕と読むのでしょう。<br />
<br />
〔支〕のつく熟語を挙げて見ます。支局・支線・支店・支部・支流／気管支<br />
支流、支出、四肢、分岐、<br />
〔支〕を使った漢字----枝、岐、肢，㕝<br />
<br />
　殆どの熟語は、分かれることを著したり、分岐点を著しているようです。<br />
〔一支〕は、中国からやって来た時に、一番最初に分岐する所にある島を著しているのではないでしょうか。<br />
　当初、日本にやって来た人たちは、そのまま、真っ直ぐ、南に進めば<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>に行くことが出来ました。前漢の時代は、殆ど、そうだったと思います。後漢の時代になりますと、壱岐の所は、行先が、別れる所であったのではないでしょうか。<br />
　しかし、その内に、九州に居た中国人は、一支で、東に別れる人と、九州に行く人に別れたと思います。<br />
　東へ進んだ人は、瀬戸内海に入る人と、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%B5%B7&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">日本海</a>に行く人に分かれたと思います。<br />
　三番目に分かれたのが、末路国だと思います。<br />
　どのように分かれたかは、魏志倭人伝に書いてあります。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡（71）　魏志倭人伝（22）　　邪馬はじめ国は、何所に（19）</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-09" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49691130" title="歴史各論　三角縁神獣鏡（71）　魏志倭人伝（22）　　邪馬はじめ国は、何所に（19）" />
  <modified>2012-02-14T18:06:13Z</modified> 
  <issued>2012-02-09 06:01:16+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49691130</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-09">
<![CDATA[
末廬国はどこにあるか。殆どの方は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>に在るとされています。以前に、田村誠一氏の　『燦然と輝いていた古代　追』(平成５年<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%87%BA%E7%89%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">出版</a>)の104頁にある<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%B0%E5%9B%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地図</a>を紹介しました。<br />
100％に近い方が、馬鹿げたと思われたと思います。しかし、もう一度もご覧ください。<br />
<a href="http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html" target="_blank">http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html</a>　<br />
　<br />
　なにを見るかと云いますと、国名だけで結構です。<br />
<br />
不弥国、奴国、狗奴国、投馬国、邪馬台国、伊都国　です。この中には、蔑む漢字もありますが、これまで、見て来たように、最高に侮辱して呼んでいたと思います。邪馬台国も、日本では、漢字を使わない頃から、ヤマトと読んでいたと思います。漢字が使われるようになってからは、〔夜麻登〕と書かれていました。現在の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B2%A1%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">岡山</a>の辺りです。この三文字には、漢字の意味はありません。音だけです。<br />
<br />
魏志倭人伝では、末路国のことはどのように書いてあるかと云いますと、次の二行です。<br />
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。<br />
　対馬や一大国に比べますと、少し、良く書いてあります。それでも、草木茂盛、行不見前人とは、どの様な状態か、倭人伝を読んだ人は、ひどい所だと思います。しかし、その前の〔有四千餘戸〕で、悪口は、薄められています。人は住んでいるのだと。<br />
　〔好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之〕陳寿は、誉めたのでしょうか。舟はあったはずなのに、その事は書かないで、素潜り漁法だと書いています。川ですと、上流下流せき止めますと、手掴みが可能です。スノコを使って、勝手に魚があがってくるような方法、網で獲るとかあります。網は出土しませんが、網に付ける石の重りなどは、見つかっていますから、いろいろ漁法はあったはずです。<br />
　この様に考えてきますと、陳寿は誉めたのではないだろうと判断したいところです。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡（70）　魏志倭人伝（21）　　邪馬はじめ国は、何所に（18）</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-08" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49648725" title="歴史各論　三角縁神獣鏡（70）　魏志倭人伝（21）　　邪馬はじめ国は、何所に（18）" />
  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-02-08 03:12:03+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49648725</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-08">
<![CDATA[
末廬国は、元々、日本にあった国名ではなく、陳寿が付けた名前ではないでしょうか。<br />
　この国の前は、一大国でした。後漢の時代には、「一支国」と呼んでいたのではないでしょうか。それを陳寿が、「一大国」に書換えました。その理由は前回に書いています。<br />
<br />
　そのようないい加減な事と思われるかと思いますが、漢字で書いてある地名や国名はつける時に、誰にでも解るように書いたと考えています。<br />
<br />
では、末廬国には、どの様な意味があるかを考えて見ます。<br />
<br />
【漢字資料23　末と廬　】の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>で、〔楽しい歴史〕に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%8F%8E%E7%B4%8D&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">収納</a>しましたので、ご利用下さい。<br />
　大切なことですので、今回は、以下に、掲載します。<br />
<br />
漢字資料23　末と廬　　『字通』より転載。一部省略。<br />
<br />
利用の目的。　魏志倭人伝に「末廬国」があり、どのような意味を成すかを探る。<br />
<br />
〔末〕<br />
指示---木の枝の末端。　その部分に肥点を加えて、その部位を示す。末端であるから、弱小、終末の意がある。<br />
無・莫などと音が通じ、比定詞に用いる。<br />
<br />
意味<br />
①すえ、こずえ、さき　②こな、しも、おわり、えだは　　③よわい、かいか、小さい　　④くず<br />
<br />
<br />
〔廬〕<br />
声符は盧。<br />
〔設文に「寄(カリヤ)なり、秋冬には去り春夏には居」とあって、農耕の時に寄宿する田中の廬舎をいう。<br />
服喪するときに居るところ。そのような儀礼の場に忌小屋として用いるのが原義〕<br />
<br />
意味<br />
①かりや、ものかりや、いみのかりや　　②いおり、かりずまい　　<br />
③やどる、はたご　　④いえ、書斎などをいう　　⑤とのいの間、　宿直室<br />
<br />
以上の事から、末廬国は、田村氏が、推理された通り、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>の人が読めば、〔いみのかりや〕のような、最終地点を思わせるような所を意味するように思います。<br />
<br />
『字通』より転載しましたが、省略下部分に、〔いみのかりや〕を思わせるようなことが書いてありきす。ご自分で確かめてください。<br />
<br />
今までに、調べた漢字は、【楽しい人生】のカテゴリー歴史資料に収めています。<br />
<a href="http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/" target="_blank">http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/</a><a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(69)　魏志倭人伝(20)　 邪馬壹国は、どこに(17)</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-07" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49590717" title="歴史各論　三角縁神獣鏡(69)　魏志倭人伝(20)　 邪馬壹国は、どこに(17)" />
  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-02-07 04:52:30+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49590717</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-07">
<![CDATA[
一大国の次は、道のりは書いてありますが、方角は書いてありません。殆どの方は、南へ南へとやってきましたから、当然南の方角に、末廬国があると思われました。現在の人は、どうして、方角が書いてないと不思議に思われなかったのでしょう。<br />
　南に末廬国があると思われた一例を紹介します。<br />
<br />
<strong>邪馬台国を行く</strong> 　<a href="http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai02.htm" target="_blank">http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai02.htm</a>　 の筆者も、南に船を進めましたから、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>に到達です。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%94%90%E6%B4%A5&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">唐津</a>市名護屋浦を末廬国とされたようです。全部手際よく纏ておられますから、読んでください。次は、伊都国に行ったとしておられます。<br />
　伊都国は、「イツコク」ではなくて、「イトコク」と読まれたようです。イトと読むことができる地名が、現在もあります。糸島半島、怡土平野があります。勿論これだけではなく、発掘された<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%81%BA%E8%B7%A1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">遺跡</a>が多いことも、根拠になっていると思われます。<br />
　<br />
魏志倭人伝では、邪馬台国の北に、21ヶ国があったと記されていますが、「邪馬台国を行く」の筆者は、「英彦山」を邪馬台国としておられます。そうしますと、邪馬台国も、<br />
21ヶ国-----次有斯馬国、次有已百支国、次有伊邪国、次有都支国、次有弥奴国、次有好古都国、次有不呼国、次有姐奴国、次有対蘇国、次有蘇奴国、次有呼邑国、次有華奴蘇奴国、次有鬼国、次有為吾国、次有鬼奴国、次有邪馬国、次有躬臣国、次有巴利国、次有支惟国、次有烏奴国、次有奴国、此女王境界所盡。<br />
　すべてが、山の中に国があったことになります。　すこし、無理のような気がします。<br />
<br />
次の行先の末廬国は、どのような国だと思われますか? <br />
漢字で書きますと、末廬国ですが、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>の人は、どのように<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%99%BA%E9%9F%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">発音</a>したと思われますか。<br />
<br />
「末」は、常読－－バツ、マツ、すえ　です。字音-----マツ、マチ　呉。バツ　漢。<br />
　魏の国の歴史書ですから、漢の国の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%BD%BF%E3%81%84%E6%96%B9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">使い方</a>を採用したいところです。しかし、なぜか、殆どの人は、末廬国をマツロコクと読んでおられます。田村氏は、中国人には、末路国と聞こえたであろうとしておられます。<br />
　末路というような熟語は無いだろうと思っていましたら、『字通』に末路が掲載されています。どの様に使うのかといいますと、「唐の末路」と云うように使うそうです。<br />
　末路に繋がるような末廬国は行きたくなくなります。<br />
　長くなりそうなので、次回に、もう少し、精しく調べて見ます。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(68)　魏志倭人伝(19)　 邪馬壹国は、どこに(16)</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-06" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49537631" title="歴史各論　三角縁神獣鏡(68)　魏志倭人伝(19)　 邪馬壹国は、どこに(16)" />
  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-02-06 05:46:01+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49537631</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-06">
<![CDATA[
どうして、一大国と名前が付けられたか判りましたか。　そんなこと解るわけがありません。しかし、考えて見るのは悪くありません。<br />
<br />
　考えるヒントは二つです。前回、書きましたように、自分達以外の中国人には、日本へ来てほしくないからです。前漢の時代から、多くの中国人がやってきました。　秦の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">始皇帝</a>は、不老長寿の薬を求めてくるように、多くの人を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%B4%BE%E9%81%A3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">派遣</a>しました。どうやら、目的地は、日本の様でした。<br />
　その1<br />
　一大国は、何故か、魏志倭人伝だけに書いてあります。他の所では、一支國と書いてあります。<br />
<br />
魏略逸文 <br />
『翰苑』巻30にある魏略の逸文に次のとおり記述される。<br />
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里<br />
— 『翰苑』卷三十魏略逸文<br />
梁書 <br />
『梁書』 巻54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭に次のとおり記述される。<br />
始度一 海闊千餘里 名瀚海 至一支國 又度一海千餘里 名未盧國<br />
<br />
— 『梁書』 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭<br />
<br />
隋書 <br />
『隋書』巻81 列傳第46 東夷 俀國で隋使の裴清らが訪れた国である。<br />
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國<br />
— 『隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國<br />
<br />
以上の事から、壱岐は、一支國と書いてあったのを陳寿が、一大国と書換えた。<br />
<br />
田村誠一氏、曰く、「一大国」と書いてあるのを当時の中国人が読めば、誰でも、「一番大きい国」と思います。方300里です。　対馬は、方400里で一大国より大きいですが、その代わり、あきれるほど、何も取り得の無い島でだと書いてあります。<br />
<br />
もう一つのヒントは、どこへ行くにも、全て、方角が書いてあるのに、一大国から末廬国へ行くには、方向が書いてありません。<br />
　きっと、陳寿が忘れたのだろうと考えたら、魏志倭人伝は全て、信用出来なくなります。<br />
<br />
　次回に、この点を書いて見ます。<br />
　先日書きましたように、いろいろの事を考える所に、解決の道が拓けます。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(67)　魏志倭人伝(18)　 邪馬壹国は、どこに(15)</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-05" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49491206" title="歴史各論　三角縁神獣鏡(67)　魏志倭人伝(18)　 邪馬壹国は、どこに(15)" />
  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-02-05 05:50:52+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49491206</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-05">
<![CDATA[
その後、最初に登場する国は、対馬の事らしいですが、対海国と書いてあります。<br />
この国は、どのような国かといいますと、<br />
　始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%9F%E5%9C%B0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">土地</a>山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%87%AA%E6%B4%BB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">自活</a>、乗船南北巿糴。<br />
<br />
「其」は前に書いてある対海国の事でしょう。大官(大は一番偉い官吏) は良いですが、その人の名前でしょうか。役職名でしょうか。卑狗(ひく)は、卑しい意味の感じが二つ並んでいます。邪馬台国の狗と云うことでしょう。副官は、卑奴母離です。「奴」は1召使。金で買われた住み込みの使用人。②奴れいのように地位が低いさま。また、能力の劣ったさま。<br />
<br />
「所居絶島」は人の住んでいる所は、絶島。(離れ小島ですめるような所ではない)<br />
「方可四百余里」の広さである。よく判りませんが、若し、一里が70mとしますと、28000mの周囲を持つ、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%AD%A3%E6%96%B9%E5%BD%A2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">正方形</a>の広さ。と云うことは、一辺が7km四方の広さと云うことになります。<br />
　其の他の様子は、「土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活」は、漢字を並べ替えながら読むことが出来文です。このような状態だから、<br />
最後の「乗船南北巿糴」の文章があります。<br />
　食海物を求めて、船で南北に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%B2%B7%E3%81%84%E7%89%A9&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">買い物</a>に行ってますということでしようか。<br />
<br />
対海国は、住んでいる一番偉い人は、卑狗と卑奴だし、島はすめたものではありませんと書いてあります。<br />
<br />
　次は、<br />
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。<br />
<br />
　対海国は、どうやら、日本で読んでいる対馬のようですが、どうして、対海国と書いたのでしょう。<br />
今度は、日本で壱岐と呼んでいる島です、陳寿は一大国と書きました。<br />
原文は次のものです。<br />
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。<br />
<br />
「瀚」は、「カン」と読み、広い。広大なさま。<br />
又南渡一海千余里---一大国は、対海国より南の方角で、1000里余の所にあります。<br />
官亦曰卑狗---大官ではなく、ただの官です。大官よ位が低い?<br />
副曰卑奴母離---両方とも、前記の対海国と同じ、表記ですから、卑狗と卑奴母離は、人の前ではなく、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%81%B7%E7%A8%AE&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">職種</a>のようです。つまらぬ役職です。<br />
方可三百里---対海国に比べますと、小さな島です。<br />
多竹木叢林、有三千許家---竹や木で鬱蒼としているが、家は、3000件程あります。<br />
差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴------畑ではなく、田が有るらしい。しかし、島民を養うだけの量は無い。----どうしてわかったのでしょう。<br />
亦南北巿糴—と書いてありますが、北には、貧しい対海国があるだけですから、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>の本土に買い物に行ったと思われます。<br />
　この島も、やって来ても駄目ですよ。と報告書を書きました。<br />
<br />
国の名前が、どうして、壱岐ではなくて、「一大国」なのでしょう。<br />
<br />
考えておいてください。次回に検討します。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(66)　魏志倭人伝(17)　 邪馬壹国は、どこに(14)</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-04" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49439483" title="歴史各論　三角縁神獣鏡(66)　魏志倭人伝(17)　 邪馬壹国は、どこに(14)" />
  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-02-04 06:49:09+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49439483</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-04">
<![CDATA[
又、元に戻って、原文から始めます。<br />
●原文<br />
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。<br />
漢時有朝見者。今使訳所通三十国。<br />
<br />
従郡至倭、循海岸水行歴<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%9F%93%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">韓国</a>、乍南乍東到其北岸狗邪韓国。七千余里。<br />
始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%9F%E5%9C%B0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">土地</a>山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%87%AA%E6%B4%BB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">自活</a>、乗船南北巿糴。<br />
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。<br />
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。<br />
東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。<br />
東南至奴国、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸。<br />
東行至不弥国、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千余家。<br />
南至投馬国、水行二十日。官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。<br />
南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳鞮、可七万余戸。<br />
<br />
①乍南乍東到其北岸狗邪韓国の部分は、どの様に解釈するのでしょう。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>の言葉は、漢字で書かれていますが、古事記に在るように漢字が音だけを表すのは無いでしょう。全部漢字には意味があります。<br />
　「其北岸狗邪韓国」の部分の「其」は、「従郡至倭」の倭しかありません。倭の北岸である狗邪韓国となるでしょうか。そうしますと、狗邪韓国は日本の地名と云うことになります。日本の地名は、狗邪韓国だと。狗は犬のことです。いぬ。愛玩犬のこいぬ。この意味であれば、いい名前ですが、いやしいもののたとえとして用いることがある。「走狗」①狩猟などで駆け走って人のためにおいつかわれる狗。②転じて、他人の手先となって使役される人を軽蔑していう語。「権力の狗」---この場合は、韓国の狗のことになるでしょうか。<br />
<br />
　日本のがわから判断すると、日本列島より、朝鮮半島に進出し、半島における拠点。どうやら、狗邪韓国は日本でいう任那の事のようです。この辺りまでの書き方であれば、いいですが、任那は、日本府であるという言葉を使いますと、韓国とは、国交断絶になると思います。<br />
　「任那」をキーワードで検索しますと、「任那日本府」がヒットし、ウィキペディアには、次の様に説明されています。<br />
　任那日本府（みまなにほんふ）とは、日本書紀の欽明紀[1]に記されている、古代、朝鮮半島南部の伽耶またはその一部である任那にあった倭国の統治機関。倭の影響力が同地域に及んだとの見方が一般的[2]。<br />
　<br />
　「日本」の言葉がある以上、これは、7世紀の後半ぐらいに使われた言葉で、私は、倭と呼ばれていた日本のことを中国人が使い出した国名ではないかと思います。<br />
　ここに書いてあることは正確ではなく、任那は日本と新羅の共同の施設であったのではないかと考えています。<br />
　その理由は、朝鮮の古代史《三国史記》の新羅の173年の記述に、173年に貢ぎ物を持って卑彌呼が使者を遣わせたとあります。卑彌呼が使者を遣わした目的は、解りませんが、任那に軍事基地を作り敵(後漢)の補給路を遮断することだったのではと考えます。使者を送ったのは、卑彌呼ですが、命令をしたのは、崇神天皇です。後漢は、日本へ来るのに、任那を通って、食糧から武器、軍人などを補給していましたが、任那が出来てからは、日本へ来ることは出来なくなったと思います。<br />
<br />
　その後、191年に<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">スペイン</a><a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%A2%A8%E9%82%AA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">風邪</a>のようなものが、発生し、中国では、皇帝が一年に三人も変わっています。<br />
　崇神天皇は死にませんでしたが、開化天皇と孝霊天皇と夜麻登登母母曽姫は、亡くなったのではないかと思います。吉備にいた中国人も、証拠はありませんが、半分ぐらいは死んだのではないかと考えています。その弱体下の所へ、大吉備津彦命と若建吉備津彦命の攻撃を受けて、後漢の人たちは、殆ど、死んだのではと考えています。<br />
<br />
173年以後の歴史は、推理の積み重ねになりますが、苗族の国の新羅と日本は、しばらく、中国からの攻撃を受けないことになったと思います。任那の存続は、何度も消滅の危機を迎えますが、日本にとっては、重要なものでしたから、なかなか手放さなかったですが、562年に潰れたことになっています。<br />
　この頃に、又、中国の進出を受けて、645年には、事実上、中国の政府が確立し、中国の元号が初めて使われました。「大化」と云う元号です。「日本」という国名は、日本を征服した中国人が、日本と名前を付けたのではと思っています。だから、日本書紀に、任那日本府ということばを使ったのだと思います。<br />
<br />
　推理ばかりですが、このように考えてきますと、魏志倭人伝が書いた狗邪韓国は、任那の事だと思われます。<br />
191年の事件の後、後漢は、崩壊し、三国時代となります。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(65)　魏志倭人伝(16)　 邪馬壹国は、どこに(13)</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-03" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49381866" title="歴史各論　三角縁神獣鏡(65)　魏志倭人伝(16)　 邪馬壹国は、どこに(13)" />
  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-02-03 04:24:17+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49381866</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-03">
<![CDATA[
我が家の珍騒動、面白くもなにもないと思われたでしょう。<br />
ただ、円と<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%AD%A3%E6%96%B9%E5%BD%A2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">正方形</a>の面積の事だけで、自分の持てる知識を使って、考えてしまうということです。<br />
　魏志倭人伝は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>の人の為に書かれたものです。では、中国人がこれを読めば読んだ人によって、いろいろの考え方が出来たはずです。魏、蜀、呉　もっと後の人は、又違ったことを考えたと思います。<br />
　何故か、三国時代の前の時代の後漢の歴史書は、魏書東夷伝の後に作られています。<br />
　当然かも知れませんが、魏書を参考にしたところが一杯あります。日本だけではなく、中国の人も、自分の国の事を知ろうとしますと、日本の歴史を抜きにしては、正確な歴史は解くことは出来ません。<br />
　三角縁神獣鏡の場合、未だに、日本の歴史家は、卑弥呼が魏の国から貰った鏡だと云っておられます。しびれを切らした中国の学者は、中国から三角縁神獣鏡は、一枚も出土しませんと研究発表をしました。鏡は100枚だったのですが、今では、500枚を突破しています。それでも、日本の学者は、卑弥呼が貰ったと本に書いておられます。<br />
　<br />
　三角縁神獣鏡は中国では、作られていないと研究発表することを中国政府はよく認めたものです。中国は、勇気が要りました。何故かと云いますと、日本人が作るわけがありません。作ったのは、中国人でしょう。当時、日本に居たと思われる漢の人達、呉と魏の国の人たちが持っていたことになります。<br />
　誰が、何のために、鏡を持っていたのか。追求していきますと、日本は殆どの地域で征服されていたらしいことが判ってきました。<br />
<br />
　中国人が、読めば理解できるのであれば、そのような研究発表が、中国サイドからでても良い頃です。出ないということは、中国人でも、理解出来ないのかも知れません。<br />
陳寿は読んでも理解できない様に、魏志倭人伝を書いたのかもしれません。<br />
<br />
魏志倭人伝をはじめから考えて見ようと思います。<br />
陳寿は、日本が魏の国と関わりがあったことを歴史書に書き残そうとしました。<br />
ところが、この国は、取るに足らないつまらない国であることを書いたように思われます。<br />
<br />
　本当は、素晴らしい国なのに、素晴らしくない様に書いて、他の人が来たくない様に書いた。　???<br />
<br />
<br />
原文から始めます。<br />
●原文<br />
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。<br />
漢時有朝見者。今使訳所通三十国。<br />
<br />
従郡至倭、循海岸水行歴<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%9F%93%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">韓国</a>、乍南乍東到其北岸狗邪韓国。七千余里。<br />
始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%9F%E5%9C%B0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">土地</a>山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%87%AA%E6%B4%BB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">自活</a>、乗船南北巿糴。<br />
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。<br />
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。<br />
東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。<br />
東南至奴国、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸。<br />
東行至不弥国、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千余家。<br />
南至投馬国、水行二十日。官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。<br />
南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳鞮、可七万余戸。<br />
<br />
①乍南乍東到其北岸狗邪韓国の部分は、どの様に解釈するのでしょう。中国の言葉は、漢字で書かれていますが、古事記に在るように漢字が音だけを表すのは無いでしょう。全部かんじには意味があります。<br />
　「其北岸狗邪韓国」の部分の「其」は、「従郡至倭」の倭しかありません。倭の北岸である狗邪韓国となるでしょうか。そうしますと、狗邪韓国は日本の地名と云うことになります。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
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<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(64)　魏志倭人伝(15)　 邪馬壹国は、どこに(12)</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-02" />
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  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-02-02 05:32:27+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49332400</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-02">
<![CDATA[
いかがでしたか。方300里の意味は?<br />
日頃、頭をあまり使わない我が家では、久しぶりの珍騒動でした。<br />
一日置いて、珍しく息子から電話がかかってきましたが、行き違いになり、2日後に私から電話をすることになりました。今度は、日曜日ですから、起きた所だとの返事でしたが、食事を待たせて、おしゃべりをすることになりました。<br />
　あれから、このことで振り回されたとの事でした。<br />
<br />
①円の方が、意外に大きくて、1.28倍だったかな。皆さんはどうでしたか。<br />
　なんだか、コサインの話などもでてきて、頭混乱でした。<br />
②面積の単位に、エーカーがあります。　この単位は、始めに出来た時は、二頭の牛が一日に耕すことが出来る範囲だったと息子の言。ほんまかいな。<br />
　<br />
　つぎは、「里」です。これもできた時は、距離を表す単位ではなくて、仕事量を著したのだろうと云うのが、息子の考えです。ほんまかいなと、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">インターネット</a>で、検索しましたが、見つかりませんでした。<br />
しかし、正しいのではないかと云う気がしています。何故かと云いますと、息子の仕事は、山のいろいろの仕事をしています。測量もしますし、先日、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">和歌山</a>・<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A5%88%E8%89%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">奈良</a>であった台風による災害の時に忙しくなる仕事です。そろそろ、20年が近づくのではないかと思います。<br />
　<br />
　例えば、山の中の小路の測量は難しいらしいです。正確に、測量しても、距離は意味があまりありません。曲がってばかりです。険しいところや平らな所の連続です。<br />
　ハイキングの時に使われる簡単な<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%B0%E5%9B%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地図</a>があります。一応、距離が書いてありますが、正確ではありません。それよりも、そこに歩いてかかる時間が書いてある方が役に立ちます。<br />
　同じ道の所なのに、昔は、1里と書いてあり、帰りは、2里と書いてあれば、同じ距離ですが、2里の方は、上りが多かったことになります。その方が、直ぐに、理解出来ました。<br />
　東海道には、一里ごとに、印をつけて、いまでも、一里塚とよばれて、残っています。<br />
　これは、江戸時代になって定められたもので、その前は、地方によって、一里といっても、長さがちがうことは、あったことになります。<br />
<br />
　このように考えますと、狗邪<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%9F%93%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">韓国</a>と対馬、対馬と壱岐が、どちらも1000里ですが、実際の距離と違ってもいいことになります。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(63)　魏志倭人伝(14)　 邪馬壹国は、どこに(11)</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-01" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49277497" title="歴史各論　三角縁神獣鏡(63)　魏志倭人伝(14)　 邪馬壹国は、どこに(11)" />
  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-02-01 05:43:25+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49277497</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-02-01">
<![CDATA[
魏志倭人伝に書かれている距離とか、国の大きさのことは少しずつわかってきたように思います。でも、やはり、国の面積を表すのに、方400里とか、方300里と、どうして、四角のめんせきで表現しなければならないのだろうというモヤモヤがあります。この表現の方法は、三国時代だけの事でしょうか。たしかに、だれでも知っている<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%AE%AE%E5%9F%8E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">宮城</a>が10ヶ分の広さだという云い方は、解り易かったのかも知れません。しかし、例えば、壱岐の島を測量する時は、船でぐるりと一周した筈です。となりますと、円周を測量しておきながら、方300里という、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%AD%A3%E6%96%B9%E5%BD%A2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">正方形</a>に換算したことになります。例えば、島が円形であったとします。その円周の長さで、正方形を作ったとします。正方形と円周の長さが同じてあれば、円周を4等分して、二乗すれば、円の面積も正方形の面積も出ることになります。3.14をつかわなくても済みます。<br />
　<br />
　そこで、家内に　<同じまわりである円と正方形は、どちらの面積が大きいか>と質問しました。家内は、即座に、同じだと返事をしました。<br />
　そこで私は、次のように説明しました。<br />
　円周の長さで、適当に同じ長さの<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%95%B7%E6%96%B9%E5%BD%A2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">長方形</a>を作ったとします。どちらが大きいかは、いろいろの形が有るので、一概には言えないけれど、その長方形の一辺の長い部分を、少し長くする。どんどん、長くすると、終に、短い部分はゼロに近くなる。そうすると面積は、ゼロになる。どんどん逆にしていくと、正方形を通過して、又、長方形は、ゼロになるということは、正方形の時は、一番大きいが、円より小さい筈やと云いましたら、だまりまして、食後の片づけがすみましたら、お<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%A2%A8%E5%91%82&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">風呂</a>に入りました。<br />
　「円の方が大きいわ」と云いながら現れたのは、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%AA%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">バスタオル</a>を巻いた家内でした。お風呂から上がったのかと思いきや、まだなのに、解ったとのことです。風呂上りに、円と正方形が、重なる図を白板に書きました。一部は、円弧の部分、一部は、正方形の四隅の掛けた部分の図です。きっと、お風呂どころでなかったのだと思います。<br />
<br />
　直ぐに、息子に電話をしました。「もう寝る時間でしたか」といいますと、「いや、残業で今帰った所」「電話、かまへんか」「いいよ」と云うことで、事情を話したら、それは、平面で考えるから、ややこしいといって、立方体と球を例にして、説明をはじめました。メモを取りながら、ついて行くのがようようです。そして、「あれ、これやったら、立方体の方が大きい」なるなと。<br />
　食事もしていないので、考えておいてと云って電話を切ることになりましたが、対馬、壱岐、方300里のことなど、簡単に説明しました。<br />
<br />
　みなさんも、計算してください。例えば、周囲が同じであれば、円と正方形は、1.2対1だとか、その逆であるとかです。<br />
計算はできても、当時の人が、方300里に換算できなければ意味はありません。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(62)　魏志倭人伝(13)　 邪馬壹国は、どこに(10)</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-31" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49228003" title="歴史各論　三角縁神獣鏡(62)　魏志倭人伝(13)　 邪馬壹国は、どこに(10)" />
  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-01-31 08:37:19+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49228003</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-31">
<![CDATA[
まあ、これぐらいで、天体などが観測して、自分のいる位置を知ることが出来たことにします。<br />
　それでは、Google <a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=earth&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">earth</a> を開いてください。帯方郡と狗邪<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%9F%93%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">韓国</a>の距離を出したいのですが、両方とも、場所は正確に分りませんので、帯方郡はソウルとし、対馬の間の距離を求めようと思います。<br />
　ソウルの経緯度は、<br />
北緯　37-33-53<br />
東経　126-58-38<br />
　さて、この二点間の距離を求めるのが大変です。地球の赤道の周りは、およそ、40000キロです。経度は360等分ですから、40000÷360=111 分は、これの60分の1　と計算していましたら、これは赤道上の話。北緯を北の方へ移動しますと、地球儀では次第に円は、小さくなっていきますから、なんだか心配になってきました。グラフで、二点間の距離を求めるのと違うのではないか?  調べますと、同じだと書いてあります。ところが、頭が前に進みません。なにか、簡単に計算してくれるものがあるのではないかと探しましたら、見つかりました。<br />
　　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">インターネット</a>川地図　<a href="http://uminchu.pepper.jp/river-map/kyori/" target="_blank">http://uminchu.pepper.jp/river-map/kyori/</a><br />
　これは利用できるのかどうか、心配ですが、良いのではと使ってみました。<br />
<br />
狗邪韓国を飛ばして、ソウル---対馬(品木島)を測定することにしました。<br />
<br />
対馬(品木島)<br />
北緯　34-37-56<br />
東経　129-29-22<br />
　直線距離が出ました。方向は、東北東　　372km<br />
<br />
帯方郡から狗邪韓国は、7000里。狗邪韓国から対馬までは、1000里です。合計、8000里。<br />
帯方郡から狗邪韓国までは、海岸に沿って水行したと書いてありますから、1里を70m<br />
で計算しても、7000里ですと、7000×70=490000　となり、490キロです。<br />
ソウルから対馬までの直線距離が372kmですから、1里を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>の1里で計算したのでは、全く計算が合わなくなります。<br />
　どうやら、帯方郡から、壱岐までは、1里は70m<br />
の計算をしますと、ほぼ、計算が合うことになります。<br />
<br />
二回前に使用回しました、「自郡至女王国万二千余里」は、帯方郡から邪馬台国までの道のりです。<br />
12000里ですから、全部、朝鮮の1里(70m) を使用しますと、<br />
　　12000×70=840000m=840kmです。<br />
<br />
どんどん、南へ針路をとりますと、840 kmで、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%94%90%E6%B4%A5&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">唐津</a>などは通り越してしまいます。<br />
<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>辺りから、進路を東へむきを変えます。840 km が、どのあたりか計算はしていませんが、すくなくとも、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A5%88%E8%89%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">奈良</a>の大和は、もっと距離があるでしょう。<br />
<br />
魏志倭人伝が正しいとしますと、残念ながら、邪馬台国は、九州にもない、大和(奈良)にもないことになります。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
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<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(61)　魏志倭人伝(12)　 邪馬壹国は、どこに(9)</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-30" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49167545" title="歴史各論　三角縁神獣鏡(61)　魏志倭人伝(12)　 邪馬壹国は、どこに(9)" />
  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-01-30 05:39:51+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49167545</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-30">
<![CDATA[
Coogle <a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=Earth&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">Earth</a>で、対馬と壱岐を見て頂きましたか。<br />
対馬の広さは、方400里、壱岐は方300里です。これは、面積の単位ですが、ここに書いてある400里と300里は長さです。と云うことは、面積は、二乗比になりますから、<br />
対馬と壱岐の面積比、16対9 になります。おかしいですね。見た感じでは、対馬の方が大きく見えます。<br />
　この話は、250年頃の事です。紀元前後は、国道2号線の辺りは、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%B5%B7%E5%B2%B8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">海岸</a>線だったと思っています。地名で云いますと、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B2%A1%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">岡山</a>駅の辺りは、海でした。それから、250年経っていますから、陸の部分は広くなっていたでしょうが、やはり、16対9どころか、壱岐の方が小さく見えます。<br />
　Coogle Earthではなくて、日本の対馬の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%B0%E5%9B%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地図</a>をご覧ください。Coogle Earthでは、対馬は一つの島の様に見えていますが、もっと、拡大すると、島が多く見えるのでしょう。<br />
　朝鮮半島から船で対馬にやってきますと、対馬海流に流されて、対馬の北の方へ着いたのではないでしょうか。その時に、島が多いとしますと、400里とは書いてありますが、測量を間違えたのではないかと。<br />
陳寿に応援し、陳寿が書いた方400里と方300里は、あくまで正しいとなるように考えるつもりになっています。<br />
<br />
　どうして、島の大きさを方400里というような表現を使うのでしょう。<br />
昔は、ある広いところを表すのに、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%94%B2%E5%AD%90%E5%9C%92&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">甲子園</a>球場　何個分の広さと云いました。国民皆が甲子園球場をの広さは知りませんが、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A4%A7%E9%98%AA&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">大阪</a>なら知っています。ドームは、全国あちこちにあるから、これも分りやすいかも知れません。<br />
<br />
　【東夷伝】で高句麗は遼東より東に千里、方四千里とあります。これも、対馬や壱岐と同じ、表現です。しかし、壱岐ですと、島の周りを船で測量できますが、高句麗は、陸地ですし、大き過ぎます。　船では測量出来ないし、とうして測量したのでしょう。<br />
　<br />
　測量方法は、私の頭で考れる方法は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A4%A9%E4%BD%93&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">天体</a>を利用するしかないでしょう。この頃の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>に六分儀のようなものはあったのでしょうか。<br />
　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">ヨーロッパ</a>ですと、確か、紀元前には、既に、有ったように記憶します。そのころ、中国とヨーロッパは交流があったでしょう。交流があったのであれば、当然、天体の利用はあったであろう。<br />
　と勝手に決めることにしました。<br />
<br />
　次回につづく。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(60)　魏志倭人伝(11)　 邪馬壹国は、どこに(8)</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-29" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49118299" title="歴史各論　三角縁神獣鏡(60)　魏志倭人伝(11)　 邪馬壹国は、どこに(8)" />
  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-01-29 07:05:41+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49118299</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-29">
<![CDATA[
魏志倭人伝を<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%BF%BB%E8%A8%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">翻訳</a>された石原道博氏は、末廬は、肥前松浦郡。今の名護屋か<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%94%90%E6%B4%A5&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">唐津</a>付近であろう。梅豆羅、末羅(『古事記』)・松浦(『日本書紀』)　と書いておられます。殆どの方は、古事記は、偽書で、日本書紀は正式な歴史書と考えておられますから、上の注釈で、だれでも、信用すると思います。<br />
<br />
　かし、宇宙から見た対馬と壱岐し唐津を見たら、3つのところが、等間隔でないことは、直ぐに分ります。<br />
　疑問が生じますと、原点に帰れです。<br />
<br />
●原文<br />
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。<br />
漢時有朝見者。今使訳所通三十国。<br />
<br />
従郡至倭、循海岸水行歴<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%9F%93%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">韓国</a>、乍南乍東到其北岸狗邪韓国。七千余里。<br />
始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%9F%E5%9C%B0&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">土地</a>山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E8%87%AA%E6%B4%BB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">自活</a>、乗船南北巿糴。<br />
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。<br />
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。<br />
東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。<br />
東南至奴国、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸。<br />
東行至不弥国、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千余家。<br />
南至投馬国、水行二十日。官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。<br />
南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳鞮、可七万余戸。<br />
<br />
自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳。次有斯馬国、次有已百支国、次有伊邪国、次有都支国、次有弥奴国、次有好古都国、次有不呼国、次有姐奴国、次有対蘇国、次有蘇奴国、次有呼邑国、次有華奴蘇奴国、次有鬼国、次有為吾国、次有鬼奴国、次有邪馬国、次有躬臣国、次有巴利国、次有支惟国、次有烏奴国、次有奴国、此女王境界所盡。<br />
<br />
其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。<br />
<strong>自郡至女王国万二千余里</strong>。<br />
<br />
一番最後の行に、「自郡至女王国万二千余里」と書いてあります。<br />
　面倒な、間の国は、省略して、帯方郡から邪馬台国までの距離が書いてあります。<br />
<br />
こう書いてありますと、ありがたいですね。12000余里です。仮に、1里が70米としますと、12000×70=840000米です。と云うことは、840キロです。少なくとも、帯方郡を中心にして、840キロの範囲の中に、邪馬台国はあることになります。<br />
　邪馬台国がどこか分らないのに、840キロの範囲の内というのは、乱暴です。<br />
<br />
　みなさん、早速、魏志倭人伝に書いてある距離を足し算されました。　どう計算しても、<br />
12000余里になりません。そこで、あるところでは、分岐するのだと、いろいろの案を出されましたが、後は、魏志倭人伝は、方角を書き間違えたとか、中国人は、数字はオーバーに書くとか、珍案続出です。<br />
<br />
　帯方郡から狗邪韓国までは、本当にどれぐらいの距離があるのか知りたくなりました。<br />
　次回につづく。<br />
<a name="more"></a>
]]> 
</content>
</entry>
<entry>
<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(59)　魏志倭人伝(10)　 邪馬壹国は、どこに(7)</title> 
  <link rel="alternate" type="text/html" href="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-28" />
  <link rel="service.edit" type="application/x.atom+xml" href="http://blog.so-net.ne.jp/atom/blog_id=32252/entry_id=49068495" title="歴史各論　三角縁神獣鏡(59)　魏志倭人伝(10)　 邪馬壹国は、どこに(7)" />
  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-01-28 06:17:08+09:00</issued> 
  <id>tag:blog.so-net.ne.jp,2012:nihonnsi.49068495</id> 
  <summary type="text/plain"> </summary> 
  <dc:subject></dc:subject> 

<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-28">
<![CDATA[
陳寿は、帯方郡から邪馬壹国までの行く方法を書いています。その中に、道のりが書いてある所と書いてない所があります。田村氏は、この点を指摘しておられます。<br />
　そして、次の二つを見付けられました。<br />
　朝鮮の帯方郡から壱岐までは<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%9F%93%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">韓国</a>の里の単位すなはち70米を採用しました。次は、壱岐から、その後は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B8%AD%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">中国</a>の里の単位をつかったと書いておられます。<br />
　<br />
　先ず、朝鮮の帯方郡から壱岐までは韓国の里の単位すなはち70米を採用しましたの根拠は、「壱岐が方三百里と書かれ、径が23キロの円形の島だったこと」と書いておられます。<br />
<br />
　しかし、この意味が分らないのです。<br />
「方三百里」とは、長さかと思いましたが、面積のことが判りました。四角形の周りが三百里の長さの面積を云うらしいです。正確には、方とは<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E6%AD%A3%E6%96%B9%E5%BD%A2&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">正方形</a>の事らしいです。らしいと云うのは、このようなことは当たり前のことで、私だけが知らないらしいです。その証拠にこのようなことは、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">インターネット</a>には書いてありません。<br />
<br />
　壱岐は、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%B0%E5%9B%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地図</a>で見る限り、円形に近いです。円形の面積を出すのであれば、魏志倭人伝を読む限りでは、上陸をしているようですから、島の直径を計れば、半径×半径×円周率で求められますが、どうやら、この頃は円周率の概念はなかった様です。では、どうした測量をしたのでしょう。船で周囲を計ったら周囲が出ます。その周囲と同じ長さで、正方形を作りますと、元の円と正方形の面積は同じですか?  少し、円の方が大きいと思うのです。<br />
　円周率が無かったという私の判断もおかしなものです。3.14という正確な数字は無かったにしても、3ぐらいのことは知っていたと思われます。そうすれば、直径が分れば、面積は分かるだろうとも考えました。<br />
　そうであれば、壱岐の直径は23キロと分かっていると田村氏は書いておられます。又、方300里は、300里を周りとする四角形とする面積らしいですから、300里÷4で、一辺が<br />
75里の正方形とします。そうしますと、75里×75里で、島の面積が出ます。<br />
直径23キロを信用して、(23÷2)×(23÷2)×3.14で、等式が成り立ち、これで1里を計算しますと、田村氏が言われる、1里が70米になりません。<br />
　円周率が無かったという思いながら、3.14を使って計算したのがいけないのだと又、別のことを考えることにしました。<br />
<br />
　壱岐の外に、その前の対馬にも大きさが書いてあります。<br />
こちらは、方四百余里です。　壱岐と対馬は、実際にはどれだけ大きさが違うかを見るつもりになりました。<br />
　島の大きさは、数字をみれば分りますが、形を見て大きさを較べようとしますと、資料がありません。<br />
　Coogle <a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=Earth&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">Earth</a> を開いて、「対馬」を入力してください。<br />
<br />
　魏志倭人伝には、島の間の距離が書いてあります。<br />
<br />
朝鮮半島から、対馬までは1000里<br />
対馬から壱岐まで、  1000里<br />
壱岐から末廬まで、  1000里<br />
<br />
　Coogle Earthの威力はすごいですね。<br />
朝鮮半島から対馬と、対馬から壱岐までは、ほぼ同じであることが判ります。しかし、壱岐から末廬は1000里もありません。<br />
　魏志倭人伝に書いてあることがね正しいとしますと、末廬は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>の松浦であるというのは、全く駄目であることになります。しかし、末廬は九州の松浦が正しいとしますと、魏志倭人伝は、デタラメを書いたことになります。<br />
<br />
もう一つ不思議なことに、壱岐はほぼ、円形ですが、測量した人が、島の周りを船で走ったとしないで、東西南北に、四角形になるようにして図ったのではないかと考えました。<br />
　しかし、対馬は、四角形でもないです。いや、直方体だと考えればと、あくまで、魏志倭人伝が正しいこととして、考えて見ることにしました。<br />
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続く。<br />
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<a name="more"></a>
]]> 
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<title>歴史各論　三角縁神獣鏡(58)　魏志倭人伝(9)　 邪馬壹国は、どこに(6)</title> 
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  <modified>2012-02-14T18:06:14Z</modified> 
  <issued>2012-01-27 10:05:11+09:00</issued> 
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<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-27">
<![CDATA[
素人の田村氏の説など、どうでもいいと思われたでしょう。私がなるほどと思っているのであれば、まだしも、首をかしげている事柄を、いくら皆さんに説明しようと書きましても、ご理解頂けないと思っています。<br />
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　ただ、自分では、すっきりしないのです。<br />
100年間も、日本の歴史家が、邪馬台国のことを研究しても、なに一つ判っていないのです。<br />
邪馬台国は<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E4%B9%9D%E5%B7%9E&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">九州</a>にあるという人や、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%A5%88%E8%89%AF&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">奈良</a>にあるという人や、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9B%9B%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">四国</a>にあるという人、私のように、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%B2%A1%E5%B1%B1&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">岡山</a>県にあるという人など、・・・。　日本には、歴史を学問する人が居ないと云っていいと思います。<br />
<br />
　次の所に、邪馬台国をはじめとして、末廬国、奴国、不弥国などがあった所を、<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%9C%B0%E5%9B%B3&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">地図</a>の上に書いたものを掲載しました。　これは田村誠一氏の　『燦然と輝いていた古代　追』(平成５年<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E5%87%BA%E7%89%88&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">出版</a>)の104頁にあるものです。<br />
<a href="http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html
" target="_blank">http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html</a>　<br />
　ここに図示されている国は、魏志倭人伝に書かれている国々ですが、魏志倭人伝に書いて無くても、これらの国というか、村があったことは、説明できると思います。ただ、魏志倭人伝に書いてある国々と一致しますと、崇神天皇の頃に、崇神天皇が治める国の実質的な国会のようなものが岡山にあったことが、証明できることになります。<br />
<br />
　『魏志倭人伝は解けた』の<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">タイトル</a>の小冊子には、その様子が、溢れる様に書いてあります。　この冊子は、次に発行する『燦然と輝いていた古代　<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E7%B7%8F%E9%9B%86%E7%B7%A8&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">総集編</a>　』の下書きになる筈でしたが、「総集編」に書いてあったものは、<br />
　①陳寿は朝鮮の帯方郡から壱岐までは<a href="http://match.seesaa.jp/afr.pl?hid=25&sid=nihonnsi:000240328710&k=%E9%9F%93%E5%9B%BD&ic=utf8" class="affiliate-link" target="_blank">韓国</a>の里の単位すなはち70米を採用しました。これは壱岐が方三百里と書かれ、径が23キロの円形の島だったことが根拠です。<br />
　②【東夷伝】で高句麗は遼東より東に千里、方四千里とあり、この一里は460米です。倭国には、この単位を使用すべきでこの為に方角を隠したのです。<br />
<br />
②の460米を405米に訂正して、論を進めておられます。<br />
　　<br />
　それでも、まだ、都合の悪い箇所なども生じてきます。<br />
<br />
このようなことを踏まえて、魏志倭人伝を読んでいます。大半は、田村氏が書いておられることになりました。<br />
　<br />
　どの様に考えたかを次回から、記します。<br />
<a name="more"></a>
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