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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(189)   吉野ヶ里(32)  [日本の歴史]

前回のページを読まれたら、がっかりされたと思います。
こんな歴史なら、もう要らないと思われた方が多くて、きっと、読者は激減と思います。
(激減を書いたのは、2日前です。 750人の方に読んで頂いていましたが、一日に、100人減り。2日で、200人減り、読者は550人になりました)

昨日、岡山県の件(岡山県は、戦後、漢人の勢力地か、天皇の支配する所か)は、解決しました。
 どうして分かったかと言いますと、次のブログを眺めていて、判りました。

次のブログは、私が作ったものです。未完成のものですが、時々、私の頭を刺激してくれます。

式内社と祭神
http://o-mino.la.coocan.jp/page257.html
どうして解決したかと言いますと、神武東征では、広島と岡山においても戦をしたと考えていました。一覧表を見て頂きますと、岡山の文字は無くて、備前と備中と備後しかありません。
 これまでに書いてきました記事には、岡山と吉備と混ぜて使っていますが、頭の中では、岡山で、戦をしたと考えていたようです。

この表は、一目で、何処の国に、延喜式内社が何社在るかを纏めただけのものです。

式内社が制定されたのは、927年です。

 『式内社』をネットで検索しますと、次のように書かれています。
「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。本来「神名帳」とは、古代律令制における神祇官が作成した官社の一覧表を指し、官社帳ともいう。国・郡別に神社が羅列され、官幣・国幣の別、大社・小社の別と座数、幣帛を受ける祭祀の別を明記するのみで、各式内社の祭神名や由緒などの記載はない。延喜式神名帳とは、延喜式の成立当時の神名帳を掲載したものである。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座である。 では、延喜式とはどの様なものかと言いますと、延喜式の内の「延喜」は、平成と同じ様な、時代を表していますから、「式」が何かということになります。

虎尾俊哉著「延喜式」で見ますと、
一般的な用法においての法律や法制という意味を示すばかりでなく、もう少し限定的な意味を持っている。すなわち、「律」「令」「格」というような他の法典とは区別され、しかもこれらの法典とともに一連の体系的な法典を群を形作っている特定の法典を指す言葉なのである。(残念なことに、私には、理解出来ない事柄です) そして、こういう特定の法典 としての「式」、これは実は中国大陸に発達した漢民族の法律文化から学んだものに外ならない。前に引用した七世紀はじめの留学生の帰朝報告に見える意見具申は、そのまま政府に採用されて、その後わが国は唐の法制をとして暫時法典の編纂を行って行ったのである。 と記しています。
 
では、具体的には誰が、いつ頃から、法典の編纂を作り始めたかは、書かれていません。 漢文を読むことが出来る人が、「七世紀はじめ」以降ということになります。

「七世紀はじめ」は留学生が帰国した時です。 その後に、歴史上重要なことが、起こっています。
 645年の「大化改新」です。

「大化改新」の大化は、日本ではじめてつけられた元号の名前です。
こちらも、中国のシステムを取り入れましたから、中国語の理解出来る人しか、出来ない仕事でした。
 
 長くなりましたかので、すべて省略しますが、すべて、藤原氏が行ったことではないかと考えています。 この藤原の名前は、天皇から拝命された事になっています。

又もや、書きはじめの、「式内社と祭神」から離れてしまいました。
 次回にします。


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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(188)   吉野ヶ里(31)  [日本の歴史]

 タイトルは吉野ヶ里なのに、記事は色々の話題が混ざっていて、途中から読まれた方は、意味が良くお分かりになられないのではと、思っています。

 少し、私の考えていることを書いてみます。
九州佐賀県の海に近い所に、「吉野ヶ里遺跡」が有ります。
 遺蹟があることは、早くから(1986年)分かっていたそうですが、1989年(平成元年)2月23日の朝日新聞一面が突如、

”邪馬台国時代の「クニ」”

”佐賀県吉野ヶ里 最大級の環濠集落発掘”

”物見やぐら・土塁 倭人伝と対応”

こんな見出しで飾られました。
 この頃は、ここが邪馬台国という候補地は一杯あったころでした。 しかし、歴史好きの人は、大騒ぎで、連日、吉野ヶ里に詰めかけました。 私もその一人でした。

吉野ヶ里は、邪馬台国では無かったようですが、どのような遺蹟なのかは、説は一杯あります。

私が思っている吉野ヶ里は、『日本中で、作られる絹の集積地』ではないかです。集めた絹は、ここから中国に運ばれました。

 この説は、田村誠一氏が、提唱されたものですが、賛同する人は、どうやら、私だけのようで、正しいことを説明しようと頑張っています。

 説明のメインは、
 ①各地の生産地から、吉野ヶ里までの道を提示すること。
 ②吉野ヶ里までの距離が長いですから、協力者がいなければ、達成出来ない。
   という考えから、これまでに、出雲大社と籠神社を提示してきました。
 ③現在は、吉備国の人が、協力者であったと目星をつけて、記事を書き始めました。
  神武東征のおり、天皇が、一番手コズッタ 相手では無かったかと考えました。
これは、正しかったようです。吉備は大きな古墳が一杯です。造山古墳は、日本中で、
  第4位の大きさです。 前方後円墳後円墳も一杯です。

  古墳が多いということは、多くの人が、死んだのですから、天皇家が勝ったとも考えられますが、その後、  岡山県は、天皇家が支配していたという証拠が見つかりません。
 
 吉野ヶ里は、中国の人が、支配していたのではないかと考えています。その証拠は、一杯ですが、飛ばして、神武天皇は、紀元前、40年頃に、吉野ヶ里を攻撃して、その後、広島、岡山を征伐、そして、奈良の橿原に宮城を定めましたという歴史の流れを考えています。

 岡山では、和解して、奈良に向かったとしますと、その前に、大阪では、ナガスネヒコとの戦いで、苦戦、そして和歌山を経由して、奈良に到達です。
 
 いや、和解では、前は、ナガスネヒコ。後ろは、吉備に挟まれて負けますから、吉備は一応征伐したはずだと考えたり、大筋が定まりません。 と云う次第で、目下、思考停止の状態です。

長髄彦(ながすねひこ)  
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%AB%84%E5%BD%A6
 ウィキペディアでは
長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。
と記し、作り話になっています。

このような解釈としますと、日本の歴史は無茶苦茶ですね

作り話としますと、その後、和歌山に回った話も、作り話になります。

古事記や日本書紀は、都合のいいところだけ、本当の事で、都合の悪い所は、作り話という考えは、悪くはありませんが、その点が、太安万侶が苦心した古事記の文章でしょう。

 正直に凡て、本当のことを書いて居れば、古事記は、とうの昔に、燃やされて、新しい古事記が書かれていたのではと思います。

さあ、私の考えが、認められることはあるのでしょうか。

こうなりますと、私の吉野ヶ里は、最終の絹の集積地というお話は、あやしくなってきます。


参考資料
日本最大級の環壕集落跡「吉野ヶ里遺跡」で邪馬台国ロマンを体感
http://www.tabirai.net/sightseeing/tatsujin/0000033.aspx

吉野ヶ里遺跡の紹介
http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=19
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私のつぶやき  その10 [思うままに]

その9において、私の病気についてお知らせしました。気が進まないのですが、先生の薦めで、放射線治療を受けることになりました。治療は、39回受けるのですが、ただ、39回受けるだけでは治療にならないのです。
 いくつかの条件が、身体に揃っていないと放射腺の効果がありませんので、その身体を作るために、3日間練習しました。 これから、毎日、薬を飲んで、その体調になるように練習をして、9月11日から、39回の治療に進みます。
 
 3日間の中には、MRIの検査もあり、この3日間だけで、疲れてしまいました。
坐っているのが、しんどいので、食事の後は、朝寝、2時間、昼寝2時間、夜は8時就寝で、寝てばかりになりました。
 心配していましたこのブログは、どうにか、動いてくれますが、立ち上がるのに、長時間を要したり、立ち上がらない時は、強制的に、電源を切っています。

 私の吉野ヶ里の話は、なかなか、元に戻れず、秩父の話で、もたもたしています。又、神武東征で、難儀をしていた吉備の話も、その後、天皇の勢力地になりませんと、16年も戦をした意味がありません。
 その後、出雲や丹波のように、吉備が、吉野ヶ里の協力者になったことを書こうと思っているのですが、秩父でストップしています。

私のブログで、何度も紹介しました田村誠一氏の著書から、第6話 「正史だった古事記」を紹介しようと考えています。

 帯広発~大阪行 
http://obitikuoosaka.blog.fc2.com/
 カテゴリー---田村誠一著 をクリックしてください。

吉野ヶ里の記事に、割り込んで、ややこしいですが、面白く無いようでしたら、飛ばして、吉野ヶ里の方だけ読んで下さい。



田村誠一氏の著書
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html


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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(187)   吉野ヶ里(30)  [日本の歴史]

前回の記事は、「華中ルート」も存在するのだという大新聞社の読売新聞社が、報道されましたので、気に入らなくて書きました。
 しかし、自分で読み直してみても良く解らない文書ですね。

絹は中国から日本に伝えられたものであるという流れは、定着しているようです。それらに加えて、「最古絹片には華中ルートもある」という記事が、読売新聞の記事です。

吉野ヶ里遺跡は、日本中の絹の集積地であり、漢人が取りしきていたのではと推理しています。ただ、それだけのことですから、この遺跡から、見つかった絹が、日本製の絹であるという資料は見つけていませんが、立岩遺蹟から見つかった絹を調べた結果が、布目順郎著 「養蚕の紀起源と古代絹」に掲載されていましたので、ここに書かれた資料から判断すると、立岩遺蹟の絹は、中国製ではなくて、日本製だと判断しました。

 両国で見つけられた絹が何時作られたかは判りませんが、日本製であったということは、凡ての絹が中国からもたらされたという考えは、改めなければいけないのではと思い始めています。

 今後、発掘される絹は、必ず、布目順郎氏の手法で、①完全度と②繊維断面積を調べますと、日本製の絹を見つけることが出来るのではと考えました。

このように考えますと、世界で発掘される絹は、中国が発祥地という推理は、変えなくてはいけないのではと思いました。
では、中国の外に、どの国で作られたと考える必要があります。桑の木が生えていた国では、養蚕が行われていた可能性が出てきます。
 調べて見ましたが、紀元前に、桑の木があった国が見つかりません。

インドやインドネシアなども、桑の木があった様です。
だから、絹がつくられていたとの証拠にはなりませんが、ユダヤ人が関係していたと考えますと、紀元前の事になりますから、インドやインドネシアも調べて見る必要があります。
 中国は、絹織物の輸出は行いましたが、生糸の生産方法や技術は、制限していたようですので、この点も調べたく思っています。
 

参考資料
世界の養蚕業の変遷
http://www.silk.or.jp/silk_gijyutu/pdf/1-4setsu.pdf

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(186)   吉野ヶ里(29)  [日本の歴史]

 最古絹片も華中ルート
http://o-mino.la.coocan.jp/page990.html

上の記事は、以前に掲載していますが、もう一度、書いてみます。
数行だけ記してみます。

タイトルのフレーズは、平成10年1月1日の読売新聞と西日本新聞に掲載されたものを「文化財発掘情報3月号」に収録された記事のタイトルです。
これでは、意味がよく判りませんので、其の一部を転載します。
弥生時代の環濠遺跡としては濃くない最大規模の吉野ヶ里遺跡(佐賀県)から、1994年に出土した絹織物片が中国華中地域の絹糸の特徴と一致することが、繊維学と蚕絹史の権威である布目順郎・京都工芸繊維大名誉教授(83)の鑑定であきらかになった。また、華中地域の人骨と吉野ヶ里をはじめ北部九州の弥生人骨の特徴が一致することが、国立科学博物館や九州大学の研究者が参加した日中共同調査団で確認されており、布目名誉教授は、この二つの研究成果から、日本への渡来人による養蚕と絹織物の伝来は、定説の「華北--朝鮮半島ルート以前に」に、「華中ルート」が存在したとしている。近く、専門誌に発表する予定だ。

上の事から、布目順郎・京都工芸繊維大名誉教授は、繊維学と蚕絹史の権威者で居られる事が判ります。

布目順郎著 「養蚕の紀起源と古代絹」 昭和54年1月20日発行 484ページ
この本の10ページに 第1-3表 
同じ弥生中期に発掘された日本の立岩遺蹟外 春日市と須久岡本遺蹟の6つの資料と中国の陽高縣県漢墓の4つの資料と比較された資料が記されています。

 ここでは、①完全度と②繊維断面積の両者の比較がされています。
残念ながら、完全度の数値の意味が判らないので、中国の平絹の方が、優れているのか、日本の方がすぐれているのか判りません。
 私の素人判断に拠りますと、断面積が大きいということは、絹糸が太いということで、太い糸で、絹を織りますと、ごわごわした絹織物になると思われます。

 中国から、日本に絹が伝えられたのであれば、同じ時代の絹ですから、中国産の方が、全て、面積が小さいはずですが、資料は、中国の方が大きい絹もあり、私にとっては、この厖大な分析資料は役に立ちません。
 
 布目順郎氏は、本文の中で、これこれの資料から、日本の6種の絹と中国の4種の絹は、日本製と中国製と、はっきり分けることができますと書いて居られます。

ということは、立岩遺蹟の平絹は、中国から来たものではなくて、日本製の可能性が強いと書いて居られます。
①完全度と ②繊維断面積を調べますと、日本で発掘された資料と中国で発掘された資料が、別のものであることが判るということです。立岩遺蹟の平絹が中国の中国の陽高縣県漢墓と同じ系統であれば、立岩遺蹟の平絹は、中国から持ってこられた絹になります。

パリーゼ著の「絹の道」の訳本は、雄山閣の出版です。

布目順郎著 「養蚕の紀起源と古代絹」
10ページ 第1-3表
で確認してください。
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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(185)   吉野ヶ里(28)  [日本の歴史]

 最後にもう一度、吉野ヶ里から離れて、秩父の絹の事を書いてみます。

朝日新聞市社の発行で、『発掘された日本列島』のタイトルの本が、毎年、その年に発行されます。1995~2007年まで、購入していましたが、最近は、古書でも、高くて購入していません。
『2000発掘された日本書紀列島』がありましたので、なんの気なしに、書庫より取り出しましたら、購入しただけで、読んだ記憶がありませんでした。
 9頁が、最初のページでしたが、タイトルが 
「秩父原人」登場? 五十万年前の石器と生活跡が出土した 
 小鹿坂(おがさか)遺蹟・埼玉県秩父市  でした。

 この遺蹟の近くの多摩ローム層と比較しますと、43万年前の尾田蒔丘陵の五メートル下にあることと、尾田蒔丘陵には60~65万年前に降下した上宝火山灰が堆積していないことから、本遺蹟は50万年前に形成されたと考えていると書かれています。

 その後、17年が経過しますから、もっと、詳しいことが分かっているかもしれませんが、確かめていません。
 この遺蹟の近くでは、長尾根遺蹟も発掘されており、秩父市は関東で初めての人が住んでいたことが分かった地域になります。
 このように考えてきますと、絹を秩父に持ちこんだのは、ユダヤ人の可能性は、大いにあることになります。
 

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(184)   吉野ヶ里(27)  [日本の歴史]

 前回、「神」の字のつく地名とか、人名は、ユダヤ人に関係があるのではないかと考えていますと書きました。
 このお話はあまり人気がありません。
人気のないところは、現在は、ユダヤ人と言われる人は、この人だと知っている人は少ないからだと思われます。

 「アインシュタイン」という方が、居られます。この方は、ユダヤ人です。
ノーベル賞を受賞された人であることは、日本人であれば、お名前を知って居られる人は多いと思います。
では、名前の前の部分も知って居られる人はす少ないと思います。

 本の題名は忘れましたが、1922年に、日本を訪れた時に、
兎に角、日本と日本人が好きだったと述べられたことを知りました。

普通は、好き、嫌いには、理由があるものですが、「好き」の一言だったのです。

確か、アインシュタインは、物理学での分野で、受賞されたぐらいの知識しかありませんが、物事を順序だてて、考える分野だと思うのですが、「好き」だったのです。

 ユダヤ人のことをかいた本は、一杯出版されていますので、一度ご覧ください。私が以前に読んだユダヤ人に関する本に、著者が、日本の飛行場に着いたら、気持が落ち着くのですと書いておられました。好きではなく、空気が好きだとの誉め言葉でしょうか。

私がユダヤ人について書いたことは、次のところにありますので、ご覧ください。
ユダヤ人が、日本に、紀元前からやって来ていた証拠は、2000年も前の事になりますから、書物の様なものには残っていません。残っているのは、地名に残っていると考えています。

 随分以前に書いていますが、よろしかったら、覗いてください。

①日本大好きNo71 神の字が付く地名とユダヤ
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-05-14

②No257 神の付く地名とユダヤ
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2007-12-29
③No32 頭に「神」がつく、神と人
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-07-19
④No30 ユダヤ人と日本人の似ているところ
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2005-07-12
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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(183)   吉野ヶ里(26)  [日本の歴史]

秩父と絹の関係を知りたく思っています。

30年程前に、確か、埼玉県に住んで友達が、私が古事記の事で、絹のことを勉強していると手紙に書いたら、山の中に、大きな蚕部屋がある養蚕家があると教えてくれたので、ネットでみましたら、見ることが出来ましたが、今は見ることができません。 傾斜が急なので、住むのには、不便な所だと思ったのと、桑の木を何処に植えるのだろうと思ったことがありました。

秩父の歴史
http://www.city.chichibu.lg.jp/3983.html

上のブログで、にわか勉強をしました。

①神庭洞窟(三峰)
 随分前から、古事記を追いかけて来たことから、「神」の字のつく地名とか、人名は、ユダヤ人に関係があるのではないかと考えています。 その代表は、神武天皇(神倭伊波礼毘古命)です。広辞苑では記載されていません。日本書紀では、神日本磐余彦です。

古事記に書かれている神倭伊波礼毘古命ですと、全く漢字を読めない人は、別にして、「倭」の漢字を読むことが出来れば、「カミヤマトイワレビコ」と読むことは出来ます。
神日本磐余彦は、「カミニホンイワヨヒコ」としか読むことはできません。

このように眺めますと、昔は、神武天皇と言われていたのでしょうが、太安万侶が、神倭伊波礼毘古命と書き残したと考えるのが自然です。
 
 所が、広辞苑では、神日本磐余彦としか、記載されていないということは、太安万侶の間違いで、現在の歴史学者の意見を入れて、国語学者も賛成して、広辞苑には、神倭伊波礼毘古命を書かない様にしたことになります。
 もちろん、学校では、神倭伊波礼毘古命は教えないのでしょう。


外に、神川町、寄居町、ときがわ町、飯能市がどうして、付けられたのを知りたいです。
神の字が付いた地名だけではありません。 全部、読むことが出来ません。 このような地名を、私は難読地名と呼んでいます。 どうして、このように難読地名があるのかは、調べる必要があります。 
、ときがわ町は、ひらがなの町名にしました。 古くは、漢字だったのですが、地元の人でも、読めない人多いので、ひらがなに変えられのではないかと考えています。

②「秩父地方が東国にあっていち早く国造が任命されたことになる」
山が多い所にあって、国造が派遣された理由は、絹しかないなと思いました。

③「式内社として秩父神社、椋神社」
この事は、詳しく調べたく思っています。田村氏が、厖大な著書の中で、この式内社のことを取上げられましたので、著書は、現在、どこにもありません。(古書店にもありません)

田村氏の著書
http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page600.html

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神話ではなかった古事記・古事記を読んでみます(182)   吉野ヶ里(25) [日本の歴史]

 吉野ヶ里の原稿は、最近、吉備の話を書いています。絹を運ぶには、運ぶ人の確保もありますが、生産地と運ぶ道の確保が必要です。
 何故かと言いますと、絹は金と同じぐらいの値段がしたように思えるからです。これまでに、分かって来た所は、京都の籠神社と出雲大社です。こちらは、日本海に面した所ですが、大陸から渡って来た人は、どうしても、日本海側に、到達しますから、太平洋側では、見つかりません。

 所が先日、テレビを見ていましたら、「ブラたもり」という番組があり、秩父の銘仙を放映していました。
 木地の染色をしていましたが、意味が良く解らないのです。
年配の男性の方が、布に刷毛で2回染料を塗りますと、模様が染色されました。(ここが判らなかったので。何故模様が、出るのかです。 ビデオで取って有ったので、家内と一緒に見ました。何故かと言いますと、銘仙の着物を持っているから、見せてあげると言っていました。それと、子供の時に、泉州のタオルを作っている所で、刷毛で染色しているを見たことが有る。お父さんが、そのタオルを売る商売をして居られました) テレビを見ていた家内は、途中で寝てしまいましたから、私が一人で見ていたのですが、訳が判りません。染料が付いていた刷毛で塗ったのであれば、塗った側だけに、染料が付くのに、裏も同じ模様が、ついていました。
 その時のテレビの説明では、画面の布と思っていたのは、布ではなくて、縦糸だけが並んでいましたから、刷毛こすると、裏まで、染料が付きました。これを乾燥させてから、横糸を通して、所謂、織っていくことになります。
 翌日に、家内にもう一度、録画見せてもらいました。
 それでも、まだ、理解出来ません。
 刷毛でぬったのは、昔の謄写版やと言われました。私の年代の者は、謄写版は、、小学生の時に、鉄筆で蝋紙の上に字や絵を書いて、学級新聞を作った記憶があります。
 それでも、まだ、理解出来ませんでした。
 「たもり」さんが、同じ様に、ブラシをはしらせますと、見事に、絵柄がずれました。
そして、職人さんが、もう一度するとピタリと図柄があいました。
 
 解かるように書いたつもりですが、お解りになりましたか。

やはり、判らないので、コンピュータで、「秩父 銘仙」をキーワードにして、検索しましたら、解決です。

どうして、拘ったかと言いますと、番組では、秩父の銘仙は、大正からはじまって、戦争前まで、盛んだったことを放映していましたので、そんなことは無いだろう。日本の絹は、2000年前から行われていたということを知っていましたから、テレビの大正というのは、間違いと思っていました。
「秩父 銘仙」で検索して、三つ目のブログが、次のものです。

秩父の伝統織物『秩父銘仙』で全身コーディネートしてみたい ...
 https://grutto-plus.com/experience/008/  少し、コピーしてみます。

逸見恭子さん「秩父銘仙はね、織る前にたて糸に捺染する“先染め”の製法なの」
編集部「えっ? 織ってから染めるんじゃないんですか!」
他の織物と違って、秩父銘仙は先に染めてから織るようです。約1400本ものたて糸がずれないよう、ところどころによこ糸を通した「仮織り」の状態で染色するのだそう。その後、仮織りしたよこ糸を取りのぞきながら本織りする「ほぐし織り」を経て完成するのです。
逸見恭子さん「先染めだから、普通の織物と違って柄の裏表がないのが特徴なのよ」
なるほど〜。裏表どちらでも着られるということは、汚れても反対側に返せばもう一度着られるということ。もともと秩父銘仙は規格外のくず繭で作られた庶民の普段着だったというから、理にかなっていますね。


「秩父銘仙はね、織る前にたて糸に捺染する“先染め”の製法なの」
編集部「えっ? 織ってから染めるんじゃないんですか!」
他の織物と違って、秩父銘仙は先に染めてから織るようです。約1400本ものたて糸がずれないよう、ところどころによこ糸を通した「仮織り」の状態で染色するのだそう。その後、仮織りしたよこ糸を取りのぞきながら本織りする「ほぐし織り」を経て完成するのです。

お解りですか。
私ははじめは、縦糸許と思っていましたら、所々に、横糸があり、染色してから、この横糸を除いて、横糸をつかって、織ることになります。

以上の事から、絹糸も大正時代から作りだしたのではなくて、いつかは判りませんが、もっと、以前から、作られていた私の考えは、間違っていなかったとやっと、納得出来たのですが、一時は、秩父の住民の7割の人が、この仕事に携わって居られたと書いてありますから、完成した銘仙は、どこに集められて、どこに運ばれてたかを調べる必要があります。

銘仙が盛んになったのは、大正と有りますから、殆どが、東京に運ばれたのではないでしょうか。
どなたか調べてください。

長々と書いてきましたが、「ブラたもり」と家内の小さい頃の泉州の思い出と、銘仙の着物を持っている等、どれが欠けても、「ブラたもり」の放映は、見ただけで終わる所でした。

現在の秩父の様子も、ご覧ください。

アメリカ等の化繊にとってかわられた事が判ります。

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私のつぶやき その9 [病気の話]

 コンピュターは駄目ですが、身体もだめなのです。
5年前に、膀胱がんに罹り、昨年の8月で、完全治癒ということで、開放されました。しかし、膀胱がんに加えて、前立腺がんが見つかり治療を続けています。

pas
https://www.astellas.com/jp/health/healthcare/prostatecancer/preliminary02.html  

一般的に4ng/mL以下が標準値とされています。私の場合は、12.8 でしたから、癌と決まった訳ではありませんが、癌かどうかを調べる為に、前立腺の、12ヶ所から、組織を採取しましたら、6け所に癌細胞が見つかりましたから、男性ホルモンを減らす内服薬と腕に筋肉注射(8000円)をしましたら、pasは、0.18に下りました。

 しかし、私の癌は性質が悪いので放射線治療を行うことになりました。

まだ、確定していませんが、9月から開始して、39回することになっています。
pasは、0.18ですから、放射線治療はしたくないと言いましたら、この数値でも、必要だとの事です。


前立腺がん
http://www.zenritsusen-care.com/part01/understand.html

始めに書きました膀胱がんの時は、手術をして癌を取り除いて貰ったのですが、あまりにも、癌組織が残っていたので、ネットから調べて、温熱療法と、食事療法をしましたら、4ヶ月後には、良くなっていましたが、手術の跡は、残っており、4ヶ月後の8月に再手術
をして貰いました。7ヶ所の怪しい部分の組織を剥離し、検査をして頂きましたが、癌は見つかりませんでした。
 それから、3ヶ月毎に、診察と検査を受けましたが、5年目の昨年の8月に治癒ということで、膀胱がんの治療は終わりましたが、現在は、前立腺がんの治療続行中です。

なんだか気が進まないのですが、「私のつぶやき」に残そうかと思いました。