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歴史各論 三角縁神獣鏡(74) 魏志倭人伝(25)  邪馬国は、何所に(22) [三角縁神獣鏡]

<丹波国が伊都国>  これは、田村誠一氏著『燦然と輝いていた古代・追』の115頁のコピーです。

末廬国から東南五百里(二百粁)に丹波があります。郡使の往来常に駐まる所とあり、由良川の勅使の地名が当時の名残です。この近くが天津の地名で魏志倭人伝に載せられていた津で、ここで受け取った文書等は間違いなく女王に届けられました。  この女王は夜麻登国(邪馬台国)におられた崇神の代行をしていた、伯母の夜麻登登母母曽姫です。文書等は天津から由良川、加古川経由で邪馬台国の女王に届けられました。特に差錯するを得ずと断られたものは崇神宛の文書も女王に届けることが厳重に守られたことです。これは崇神の隠れ場所を敵に分らせないためでした。  伊都国とは伊勢大神の都の意味です。崇神の妹はこの皇大神社で天照大御神のお奉りをしていたので日神子(ヒミコ)です。日神子に卑弥呼の下卑な当て字がされました。  卑弥呼は妻帯することは許されません。景初三年には八五才位で難升米はこんな年寄を人質にして、城の中の一室に閉じ込め、飲食を運ぶ男性一人しか入室を許さないで外部と隔離されていました。  人質を奪われないために物見櫓を設け、城柵を巡らせて武器をもった魏の軍隊が守っていました。この城があった所が福知山の北にある鬼ヶ城です。  この様な環境におかれているのに学者が漢の橋頭堡だった吉野ヶ里を邪馬台国だと国民を欺いて、邪馬台国の女王にしています。

以上です。如何でしたか。なんだか小説のような雰囲気ですが、

①東南五百里(二百粁)---一大国までは、一里が70mでしたが、一大国からは、一里は400mになっています。五百里に400を掛けた計算の数字と、実際の距離は、ほぼ一致します。
②勅使、天津の地名は、地図で確かめてください。
③由良川、加古川経由の意味が判りますか、全国に沢山の分水嶺がありますが、ここには、海抜100mの分水峰があります。水分かれという所に公園が造られています。不思議な所です。一度、訪れてください。 日本海から船で上り、船で加古川を降って瀬戸内海へ出ることの出来る場所です。JR福知山線が通っていますが、乗っていても分水嶺を超えても気が付かないそうです。
④卑弥呼は妻帯すること—-この部分は、田村氏のミスではないかと思います。
⑤伊都国とは伊勢大神の都の意味---この部分は、相当な説明が必要に思われます。
⑥福知山の北にある鬼ヶ城----ここも訪れてください。

歴史各論 三角縁神獣鏡(73) 魏志倭人伝(24)  邪馬はじめ国は、何所に(21) [三角縁神獣鏡]

末廬国は、正確には、どの辺りか判りませんが、島根半島だと思われます。その後にはいくつかの国が書いてあります。国名を書いた地図は、以前に見て頂きましたが、もう一度、確認してください。
http://blog-imgs-44.fc2.com/a/s/i/asilka/2012012309200975e.jpg
 
末廬国の近くの国は、不弥国と奴国なのに、陳寿は何故か、伊都国を書きました。

原文は、〔東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。〕です。
 全部見たい方は、http://homepage1.nifty.com/o-mino/page290.html をご覧ください。

伊都國の説明は、僅か、43文字です。紀元前から、中国人がいっぱいであった出雲と一部、重なる末廬国でも、〔有四千餘戸〕と書かれているのに、伊都国は、〔有千餘戸〕は、少し少ない様に思いますが、又の機会に検討する必要があるように思われます。

 一番大切なことは、陳寿が書いた倭の国の中で、唯一、蔑む漢字が使われていない国です。
陳寿は、伊都国とは、どのような国かと云いますと、〔世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐〕と書きました。
①皆統屬女王國--女王國に統屬していた。一番前の〔皆〕はどういうことでしょうか。よく判りませんが、女王國(邪馬台国)直轄の国だったのでしょうか。
②世有王---〔世〕とは、代々と云うことでしょうか。王が居た。
③郡使往來常所駐---〔郡使〕とは、何所の郡使でしょうか。これまでにあった郡は、帯方郡がありました。中国からやって来る郡使の往来が有って、駐留した。

この3つの事柄は、つながりがありません。
 陳寿は、末路国の次に書きたかったから書きましたが、伊都國のことは、良く知らなかったのでないでしょうか。女王國の直轄の所だと思いながら、簡単に、〔世有王〕と書きました。直轄ですと、王などはいない筈なのに、〔世有王〕と書きました。

 田村誠一氏は、『燦然と輝いていた古代・追』の115頁に、<丹波国が伊都国>とのタイトルで、文章を書いておられますから、次回、そのまま、紹介します。

歴史各論 三角縁神獣鏡(72) 魏志倭人伝(23)  邪馬はじめ国は、何所に(20) [三角縁神獣鏡]

今回は、もう一度、一大国に戻って書いて見ます。
 大陸からは、多くの人々がやって来ていたことは誰でも否定はされないと思います。しかし、紀元前200年からと云われますと、そのような馬鹿な云われる方が多いと思います。
 一例を挙げますと、秦の始皇帝が、徐福なる人に不老長寿の薬を探してくるように、命令した事は、此れこそ、伝説として中国には残っていたらしいです。しかし、最近は、実際にあったこととして、認められるようになっています。
 日本にも、徐福の名前が、全国のあちこちに、伝説として残っています。その内容たるは、3000人を超える老若男女の人たちがやって来たというものです。
 3000人を超えるということ、老若男女となりますと、移民を目的としたものではと考えてもいいと思われます。
 仮に、本当としますと、10人乗りの船では、300艘いることになります。後漢の軍隊は巨大なものでしたから、大きな船で、しかも頻繁に日本にやってきました。
 
 魏志倭人伝には、壱岐島の事は、一大国と書いていますが、一大国は魏志倭人伝だけで、他の時代には、一支国となっています。
 従いまして、陳寿が間違ったのだという歴史家もおられるそうです。

 しかし、中国の資料では、次の様になっています。(ウィキペディアより)

魏略逸文 [編集]
『翰苑』巻30にある魏略の逸文に次のとおり記述される。
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
— 『翰苑』卷三十魏略逸文
梁書 [編集]
『梁書』 巻54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭に次のとおり記述される。
始度一 海闊千餘里 名瀚海 至一支國 又度一海千餘里 名未盧國
— 『梁書』 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭
隋書 [編集]
『隋書』巻81 列傳第46 東夷 俀國で隋使の裴清らが訪れた国である。
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國
 後漢は、魏国より、時代は、古いですが、歴史書は、魏志倭人伝より後に作られました。魏志倭人伝を参考にしたと思われる所がありますが、何故か、〔一大国〕のことは書いてありません。
 
 このようなことを総合すると、230年ころは、一支国と中国では呼んでいたのではないでしょうか。そうだとすると、 〔一支〕に意味があるはずです。

 〔一支〕の中の〔支〕の漢字は、〔シ〕と読むだけで、〔キ〕とは読めません。
〔支〕の漢字はどのように使われたかと云いますと、熟語を見ると推察は出来ます。

しかし、長崎県壱岐市芦辺町にある一支博物館は、〔イキシ〕と読んでおられますから、中国では読まなくても、日本では〔イキシ〕と読むのでしょう。

〔支〕のつく熟語を挙げて見ます。支局・支線・支店・支部・支流/気管支
支流、支出、四肢、分岐、
〔支〕を使った漢字----枝、岐、肢,㕝

 殆どの熟語は、分かれることを著したり、分岐点を著しているようです。
〔一支〕は、中国からやって来た時に、一番最初に分岐する所にある島を著しているのではないでしょうか。
 当初、日本にやって来た人たちは、そのまま、真っ直ぐ、南に進めば九州に行くことが出来ました。前漢の時代は、殆ど、そうだったと思います。後漢の時代になりますと、壱岐の所は、行先が、別れる所であったのではないでしょうか。
 しかし、その内に、九州に居た中国人は、一支で、東に別れる人と、九州に行く人に別れたと思います。
 東へ進んだ人は、瀬戸内海に入る人と、日本海に行く人に分かれたと思います。
 三番目に分かれたのが、末路国だと思います。
 どのように分かれたかは、魏志倭人伝に書いてあります。

歴史各論 三角縁神獣鏡(71) 魏志倭人伝(22)  邪馬はじめ国は、何所に(19) [三角縁神獣鏡]

末廬国はどこにあるか。殆どの方は、九州に在るとされています。以前に、田村誠一氏の 『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の104頁にある地図を紹介しました。
100%に近い方が、馬鹿げたと思われたと思います。しかし、もう一度もご覧ください。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html 
 
 なにを見るかと云いますと、国名だけで結構です。

不弥国、奴国、狗奴国、投馬国、邪馬台国、伊都国 です。この中には、蔑む漢字もありますが、これまで、見て来たように、最高に侮辱して呼んでいたと思います。邪馬台国も、日本では、漢字を使わない頃から、ヤマトと読んでいたと思います。漢字が使われるようになってからは、〔夜麻登〕と書かれていました。現在の岡山の辺りです。この三文字には、漢字の意味はありません。音だけです。

魏志倭人伝では、末路国のことはどのように書いてあるかと云いますと、次の二行です。
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。
 対馬や一大国に比べますと、少し、良く書いてあります。それでも、草木茂盛、行不見前人とは、どの様な状態か、倭人伝を読んだ人は、ひどい所だと思います。しかし、その前の〔有四千餘戸〕で、悪口は、薄められています。人は住んでいるのだと。
 〔好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之〕陳寿は、誉めたのでしょうか。舟はあったはずなのに、その事は書かないで、素潜り漁法だと書いています。川ですと、上流下流せき止めますと、手掴みが可能です。スノコを使って、勝手に魚があがってくるような方法、網で獲るとかあります。網は出土しませんが、網に付ける石の重りなどは、見つかっていますから、いろいろ漁法はあったはずです。
 この様に考えてきますと、陳寿は誉めたのではないだろうと判断したいところです。

歴史各論 三角縁神獣鏡(70) 魏志倭人伝(21)  邪馬はじめ国は、何所に(18) [三角縁神獣鏡]

末廬国は、元々、日本にあった国名ではなく、陳寿が付けた名前ではないでしょうか。
 この国の前は、一大国でした。後漢の時代には、「一支国」と呼んでいたのではないでしょうか。それを陳寿が、「一大国」に書換えました。その理由は前回に書いています。

 そのようないい加減な事と思われるかと思いますが、漢字で書いてある地名や国名はつける時に、誰にでも解るように書いたと考えています。

では、末廬国には、どの様な意味があるかを考えて見ます。

【漢字資料23 末と廬 】のタイトルで、〔楽しい歴史〕に収納しましたので、ご利用下さい。
 大切なことですので、今回は、以下に、掲載します。

漢字資料23 末と廬  『字通』より転載。一部省略。

利用の目的。 魏志倭人伝に「末廬国」があり、どのような意味を成すかを探る。

〔末〕
指示---木の枝の末端。 その部分に肥点を加えて、その部位を示す。末端であるから、弱小、終末の意がある。
無・莫などと音が通じ、比定詞に用いる。

意味
①すえ、こずえ、さき ②こな、しも、おわり、えだは  ③よわい、かいか、小さい  ④くず


〔廬〕
声符は盧。
〔設文に「寄(カリヤ)なり、秋冬には去り春夏には居」とあって、農耕の時に寄宿する田中の廬舎をいう。
服喪するときに居るところ。そのような儀礼の場に忌小屋として用いるのが原義〕

意味
①かりや、ものかりや、いみのかりや  ②いおり、かりずまい  
③やどる、はたご  ④いえ、書斎などをいう  ⑤とのいの間、 宿直室

以上の事から、末廬国は、田村氏が、推理された通り、中国の人が読めば、〔いみのかりや〕のような、最終地点を思わせるような所を意味するように思います。

『字通』より転載しましたが、省略下部分に、〔いみのかりや〕を思わせるようなことが書いてありきす。ご自分で確かめてください。

今までに、調べた漢字は、【楽しい人生】のカテゴリー歴史資料に収めています。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/

歴史各論 三角縁神獣鏡(69) 魏志倭人伝(20)  邪馬壹国は、どこに(17) [三角縁神獣鏡]

一大国の次は、道のりは書いてありますが、方角は書いてありません。殆どの方は、南へ南へとやってきましたから、当然南の方角に、末廬国があると思われました。現在の人は、どうして、方角が書いてないと不思議に思われなかったのでしょう。
 南に末廬国があると思われた一例を紹介します。

邪馬台国を行く  http://www.ne.jp/asahi/wacoku/tikushi/yamai02.htm  の筆者も、南に船を進めましたから、九州に到達です。唐津市名護屋浦を末廬国とされたようです。全部手際よく纏ておられますから、読んでください。次は、伊都国に行ったとしておられます。
 伊都国は、「イツコク」ではなくて、「イトコク」と読まれたようです。イトと読むことができる地名が、現在もあります。糸島半島、怡土平野があります。勿論これだけではなく、発掘された遺跡が多いことも、根拠になっていると思われます。
 
魏志倭人伝では、邪馬台国の北に、21ヶ国があったと記されていますが、「邪馬台国を行く」の筆者は、「英彦山」を邪馬台国としておられます。そうしますと、邪馬台国も、
21ヶ国-----次有斯馬国、次有已百支国、次有伊邪国、次有都支国、次有弥奴国、次有好古都国、次有不呼国、次有姐奴国、次有対蘇国、次有蘇奴国、次有呼邑国、次有華奴蘇奴国、次有鬼国、次有為吾国、次有鬼奴国、次有邪馬国、次有躬臣国、次有巴利国、次有支惟国、次有烏奴国、次有奴国、此女王境界所盡。
 すべてが、山の中に国があったことになります。 すこし、無理のような気がします。

次の行先の末廬国は、どのような国だと思われますか?
漢字で書きますと、末廬国ですが、中国の人は、どのように発音したと思われますか。

「末」は、常読--バツ、マツ、すえ です。字音-----マツ、マチ 呉。バツ 漢。
 魏の国の歴史書ですから、漢の国の使い方を採用したいところです。しかし、なぜか、殆どの人は、末廬国をマツロコクと読んでおられます。田村氏は、中国人には、末路国と聞こえたであろうとしておられます。
 末路というような熟語は無いだろうと思っていましたら、『字通』に末路が掲載されています。どの様に使うのかといいますと、「唐の末路」と云うように使うそうです。
 末路に繋がるような末廬国は行きたくなくなります。
 長くなりそうなので、次回に、もう少し、精しく調べて見ます。

歴史各論 三角縁神獣鏡(68) 魏志倭人伝(19)  邪馬壹国は、どこに(16) [三角縁神獣鏡]

どうして、一大国と名前が付けられたか判りましたか。 そんなこと解るわけがありません。しかし、考えて見るのは悪くありません。

 考えるヒントは二つです。前回、書きましたように、自分達以外の中国人には、日本へ来てほしくないからです。前漢の時代から、多くの中国人がやってきました。 秦の始皇帝は、不老長寿の薬を求めてくるように、多くの人を派遣しました。どうやら、目的地は、日本の様でした。
 その1
 一大国は、何故か、魏志倭人伝だけに書いてあります。他の所では、一支國と書いてあります。

魏略逸文
『翰苑』巻30にある魏略の逸文に次のとおり記述される。
始度一海千余里 至対馬國 其大官曰卑狗副曰卑奴 無良田南北市糴南度海 至一支國 置官与対同 地方三百里
— 『翰苑』卷三十魏略逸文
梁書
『梁書』 巻54 列傳第48 諸夷傳 東夷条 倭に次のとおり記述される。
始度一 海闊千餘里 名瀚海 至一支國 又度一海千餘里 名未盧國

— 『梁書』 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭

隋書
『隋書』巻81 列傳第46 東夷 俀國で隋使の裴清らが訪れた国である。
都斯麻國迥在大海中 又東至一支國又至竹斯國
— 『隋書卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國

以上の事から、壱岐は、一支國と書いてあったのを陳寿が、一大国と書換えた。

田村誠一氏、曰く、「一大国」と書いてあるのを当時の中国人が読めば、誰でも、「一番大きい国」と思います。方300里です。 対馬は、方400里で一大国より大きいですが、その代わり、あきれるほど、何も取り得の無い島でだと書いてあります。

もう一つのヒントは、どこへ行くにも、全て、方角が書いてあるのに、一大国から末廬国へ行くには、方向が書いてありません。
 きっと、陳寿が忘れたのだろうと考えたら、魏志倭人伝は全て、信用出来なくなります。

 次回に、この点を書いて見ます。
 先日書きましたように、いろいろの事を考える所に、解決の道が拓けます。

歴史各論 三角縁神獣鏡(67) 魏志倭人伝(18)  邪馬壹国は、どこに(15) [三角縁神獣鏡]

その後、最初に登場する国は、対馬の事らしいですが、対海国と書いてあります。
この国は、どのような国かといいますと、
 始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活、乗船南北巿糴。

「其」は前に書いてある対海国の事でしょう。大官(大は一番偉い官吏) は良いですが、その人の名前でしょうか。役職名でしょうか。卑狗(ひく)は、卑しい意味の感じが二つ並んでいます。邪馬台国の狗と云うことでしょう。副官は、卑奴母離です。「奴」は1召使。金で買われた住み込みの使用人。②奴れいのように地位が低いさま。また、能力の劣ったさま。

「所居絶島」は人の住んでいる所は、絶島。(離れ小島ですめるような所ではない)
「方可四百余里」の広さである。よく判りませんが、若し、一里が70mとしますと、28000mの周囲を持つ、正方形の広さ。と云うことは、一辺が7km四方の広さと云うことになります。
 其の他の様子は、「土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活」は、漢字を並べ替えながら読むことが出来文です。このような状態だから、
最後の「乗船南北巿糴」の文章があります。
 食海物を求めて、船で南北に買い物に行ってますということでしようか。

対海国は、住んでいる一番偉い人は、卑狗と卑奴だし、島はすめたものではありませんと書いてあります。

 次は、
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。

 対海国は、どうやら、日本で読んでいる対馬のようですが、どうして、対海国と書いたのでしょう。
今度は、日本で壱岐と呼んでいる島です、陳寿は一大国と書きました。
原文は次のものです。
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。

「瀚」は、「カン」と読み、広い。広大なさま。
又南渡一海千余里---一大国は、対海国より南の方角で、1000里余の所にあります。
官亦曰卑狗---大官ではなく、ただの官です。大官よ位が低い?
副曰卑奴母離---両方とも、前記の対海国と同じ、表記ですから、卑狗と卑奴母離は、人の前ではなく、職種のようです。つまらぬ役職です。
方可三百里---対海国に比べますと、小さな島です。
多竹木叢林、有三千許家---竹や木で鬱蒼としているが、家は、3000件程あります。
差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴------畑ではなく、田が有るらしい。しかし、島民を養うだけの量は無い。----どうしてわかったのでしょう。
亦南北巿糴—と書いてありますが、北には、貧しい対海国があるだけですから、九州の本土に買い物に行ったと思われます。
 この島も、やって来ても駄目ですよ。と報告書を書きました。

国の名前が、どうして、壱岐ではなくて、「一大国」なのでしょう。

考えておいてください。次回に検討します。

歴史各論 三角縁神獣鏡(66) 魏志倭人伝(17)  邪馬壹国は、どこに(14) [三角縁神獣鏡]

又、元に戻って、原文から始めます。
●原文
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。
漢時有朝見者。今使訳所通三十国。

従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東到其北岸狗邪韓国。七千余里。
始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活、乗船南北巿糴。
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。
東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。
東南至奴国、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸。
東行至不弥国、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千余家。
南至投馬国、水行二十日。官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。
南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳鞮、可七万余戸。

①乍南乍東到其北岸狗邪韓国の部分は、どの様に解釈するのでしょう。中国の言葉は、漢字で書かれていますが、古事記に在るように漢字が音だけを表すのは無いでしょう。全部漢字には意味があります。
 「其北岸狗邪韓国」の部分の「其」は、「従郡至倭」の倭しかありません。倭の北岸である狗邪韓国となるでしょうか。そうしますと、狗邪韓国は日本の地名と云うことになります。日本の地名は、狗邪韓国だと。狗は犬のことです。いぬ。愛玩犬のこいぬ。この意味であれば、いい名前ですが、いやしいもののたとえとして用いることがある。「走狗」①狩猟などで駆け走って人のためにおいつかわれる狗。②転じて、他人の手先となって使役される人を軽蔑していう語。「権力の狗」---この場合は、韓国の狗のことになるでしょうか。

 日本のがわから判断すると、日本列島より、朝鮮半島に進出し、半島における拠点。どうやら、狗邪韓国は日本でいう任那の事のようです。この辺りまでの書き方であれば、いいですが、任那は、日本府であるという言葉を使いますと、韓国とは、国交断絶になると思います。
 「任那」をキーワードで検索しますと、「任那日本府」がヒットし、ウィキペディアには、次の様に説明されています。
 任那日本府(みまなにほんふ)とは、日本書紀の欽明紀[1]に記されている、古代、朝鮮半島南部の伽耶またはその一部である任那にあった倭国の統治機関。倭の影響力が同地域に及んだとの見方が一般的[2]。
 
 「日本」の言葉がある以上、これは、7世紀の後半ぐらいに使われた言葉で、私は、倭と呼ばれていた日本のことを中国人が使い出した国名ではないかと思います。
 ここに書いてあることは正確ではなく、任那は日本と新羅の共同の施設であったのではないかと考えています。
 その理由は、朝鮮の古代史《三国史記》の新羅の173年の記述に、173年に貢ぎ物を持って卑彌呼が使者を遣わせたとあります。卑彌呼が使者を遣わした目的は、解りませんが、任那に軍事基地を作り敵(後漢)の補給路を遮断することだったのではと考えます。使者を送ったのは、卑彌呼ですが、命令をしたのは、崇神天皇です。後漢は、日本へ来るのに、任那を通って、食糧から武器、軍人などを補給していましたが、任那が出来てからは、日本へ来ることは出来なくなったと思います。

 その後、191年にスペイン風邪のようなものが、発生し、中国では、皇帝が一年に三人も変わっています。
 崇神天皇は死にませんでしたが、開化天皇と孝霊天皇と夜麻登登母母曽姫は、亡くなったのではないかと思います。吉備にいた中国人も、証拠はありませんが、半分ぐらいは死んだのではないかと考えています。その弱体下の所へ、大吉備津彦命と若建吉備津彦命の攻撃を受けて、後漢の人たちは、殆ど、死んだのではと考えています。

173年以後の歴史は、推理の積み重ねになりますが、苗族の国の新羅と日本は、しばらく、中国からの攻撃を受けないことになったと思います。任那の存続は、何度も消滅の危機を迎えますが、日本にとっては、重要なものでしたから、なかなか手放さなかったですが、562年に潰れたことになっています。
 この頃に、又、中国の進出を受けて、645年には、事実上、中国の政府が確立し、中国の元号が初めて使われました。「大化」と云う元号です。「日本」という国名は、日本を征服した中国人が、日本と名前を付けたのではと思っています。だから、日本書紀に、任那日本府ということばを使ったのだと思います。

 推理ばかりですが、このように考えてきますと、魏志倭人伝が書いた狗邪韓国は、任那の事だと思われます。
191年の事件の後、後漢は、崩壊し、三国時代となります。

歴史各論 三角縁神獣鏡(65) 魏志倭人伝(16)  邪馬壹国は、どこに(13) [三角縁神獣鏡]

我が家の珍騒動、面白くもなにもないと思われたでしょう。
ただ、円と正方形の面積の事だけで、自分の持てる知識を使って、考えてしまうということです。
 魏志倭人伝は、中国の人の為に書かれたものです。では、中国人がこれを読めば読んだ人によって、いろいろの考え方が出来たはずです。魏、蜀、呉 もっと後の人は、又違ったことを考えたと思います。
 何故か、三国時代の前の時代の後漢の歴史書は、魏書東夷伝の後に作られています。
 当然かも知れませんが、魏書を参考にしたところが一杯あります。日本だけではなく、中国の人も、自分の国の事を知ろうとしますと、日本の歴史を抜きにしては、正確な歴史は解くことは出来ません。
 三角縁神獣鏡の場合、未だに、日本の歴史家は、卑弥呼が魏の国から貰った鏡だと云っておられます。しびれを切らした中国の学者は、中国から三角縁神獣鏡は、一枚も出土しませんと研究発表をしました。鏡は100枚だったのですが、今では、500枚を突破しています。それでも、日本の学者は、卑弥呼が貰ったと本に書いておられます。
 
 三角縁神獣鏡は中国では、作られていないと研究発表することを中国政府はよく認めたものです。中国は、勇気が要りました。何故かと云いますと、日本人が作るわけがありません。作ったのは、中国人でしょう。当時、日本に居たと思われる漢の人達、呉と魏の国の人たちが持っていたことになります。
 誰が、何のために、鏡を持っていたのか。追求していきますと、日本は殆どの地域で征服されていたらしいことが判ってきました。

 中国人が、読めば理解できるのであれば、そのような研究発表が、中国サイドからでても良い頃です。出ないということは、中国人でも、理解出来ないのかも知れません。
陳寿は読んでも理解できない様に、魏志倭人伝を書いたのかもしれません。

魏志倭人伝をはじめから考えて見ようと思います。
陳寿は、日本が魏の国と関わりがあったことを歴史書に書き残そうとしました。
ところが、この国は、取るに足らないつまらない国であることを書いたように思われます。

 本当は、素晴らしい国なのに、素晴らしくない様に書いて、他の人が来たくない様に書いた。 ???


原文から始めます。
●原文
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。
漢時有朝見者。今使訳所通三十国。

従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東到其北岸狗邪韓国。七千余里。
始度一海、千余里至対海国。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百余里。土地山険多深林、道路如禽鹿径。有千余戸。無良田食海物自活、乗船南北巿糴。
又南渡一海千余里、名曰瀚海。至一大国。官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里。多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北巿糴。
又渡一海千余里、至末盧国。有四千餘戸。濱山海居。草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深浅皆沈没取之。
東南陸行五百里、到伊都国。官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千余戸。世有王皆統属女王国。郡使往来常所駐。
東南至奴国、百里。官曰兕馬觚、副曰卑奴母離。有二万余戸。
東行至不弥国、百里。官曰多模、副曰卑奴母離、有千余家。
南至投馬国、水行二十日。官曰弥弥、副曰弥弥那利、可五万余戸。
南至邪馬壹国、女王之所都。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳鞮、可七万余戸。

①乍南乍東到其北岸狗邪韓国の部分は、どの様に解釈するのでしょう。中国の言葉は、漢字で書かれていますが、古事記に在るように漢字が音だけを表すのは無いでしょう。全部かんじには意味があります。
 「其北岸狗邪韓国」の部分の「其」は、「従郡至倭」の倭しかありません。倭の北岸である狗邪韓国となるでしょうか。そうしますと、狗邪韓国は日本の地名と云うことになります。