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歴史各論 三角縁神獣鏡(92) 魏志倭人伝(43) 邪馬壹国は、何所に(39)投馬国(3) [三角縁神獣鏡]

この記事のシリーズは、〔三角縁神獣鏡〕を眺めることによって、日本の歴史を違う角度から眺めてみようと始めました。
 今回で、92回目になります。
 三角縁神獣鏡は、判っているようでわかっていません。
この鏡は、鏡の縁の断面を見ますと、三角形になっているので、この様に呼ばれているのですが、詳細に眺めますと、どうやら、中国人が、日本にやって来て作ったのではと考えています。
 多くの人は、当時の大和朝廷が、部下に渡したように思っておられるようですが、卑弥呼の時代の前後に、作られて、殆どは、死後、お墓に埋められたことが分かってきました。

このシリーズの2回目には、歴史各論 三角縁神獣鏡(2)を書いています。
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2011-08-04
 ここでは、東之宮古墳から出土した同氾鏡のことを書いています。
 三角縁神獣鏡(2)の二つ先では、
東之宮古墳から出土した鏡の同氾鏡の事を書いています。同氾鏡が出土したお墓の主は、全部仲間だったという捉え方をしています。

歴史各論 三角縁神獣鏡(14)  手古塚古墳の鏡 月の輪古墳
http://nihonnsi.blog.so-net.ne.jp/2011-11-11
では、〔月の輪古墳〕のことを書いています。

〔月の輪古墳〕はどこにあるかと云いますと、吉井川の河口から地図上で遡ってください。英田町と吉井町の間位にあります。
 この周りの地名を眺めますと、難読地名が多いので、ユダヤ人が活躍していた所です。

 吉井川の河口にあったのが、又、後に書きますが、邪馬台国です。
 邪馬台国を遡っていきますと、久米町です。ここには、天皇家の軍隊がいました。魏志倭人伝に書かれた狗奴国です。 ここの〔大倭〕に4代から8代までの天皇が、ある時期に住んでいたと思われます。

 大倭村は天皇の故郷
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page727.html
 
 邪馬台国の西隣りが 〔投馬国〕です。 魏志倭人伝では、邪馬台国と投馬国は別の国に扱っています。
と云うことは、住んでいる人たちが少し違うグループだったのではないかと推察しています。
  どの様に違うのか、よく判りませんが、邪馬台国の人は、吉井川を中心にして栄えた。投馬国の人は、高梁川を中心にして栄えた人なのではないかと推理しています。

 前回、鷲羽山の辺りは、何時の頃からか判りませんが、中国人が支配する処庤なりました。
 一方、先ほど書きました月の輪古墳は、三角縁神獣鏡が出土しましたから、ユダヤ人の勢力地(美咲町飯岡は、ユウカ)だったのに、崇神天皇の頃には、三角縁神獣鏡を所持する中国人の勢力地に変っていたことになります。

歴史各論 三角縁神獣鏡(91) 魏志倭人伝(42) 邪馬壹国は、何所に(38)投馬国(2) [三角縁神獣鏡]

投馬国は、現在の都市名で云いますと、岡山市の南にある玉野市になります。
 岡山県の地図を出してください。
 現在の岡山駅の辺りは、海抜2mぐらいです。岡山駅から宇野線が出ています。線路の上は、全て海抜2mです。西隣りの倉敷市も2mです。 
 と云うことは、紀元元年の頃は、この辺りは、海でした。 少し、東へ移動しますと、西大寺辺りは、海抜4mですから、貝塚がみつかっています。紀元元年の頃は海岸だったと思います。ニニギ命が高千穂に降臨したのは、この頃より、まだ、150年も前のことになります。
 高千穂でも、遺跡は見付かっていません。投馬国でも同様に、遺跡は見付かっていないと思います。
 倉敷市の少し北に、早島町があります。ここも西大寺にも国道2号線が走っています。
この線は、紀元元年の頃、海岸線であったと思います。
 従いまして、2号線より、南は、海であったと思います。
 
 この様に見てきますと、玉野市は児島半島と書かれていますが、小島が一杯集った所だったのではないでしょうか。
 鷲羽山のある部分は、大きな岬になっています。ここに龍王山、近くに臥龍山が有ります。従いまして、児島半島の南一帯は、中国人の支配地で、福田のように、〔田〕の字のつくところは、苗族の人が入植して稲作を行った所だと理解しています。

歴史各論 三角縁神獣鏡(90) 魏志倭人伝(41) 邪馬壹国は、何所に(37)投馬国 [三角縁神獣鏡]

本日から、投馬国の事を書いて見ます。
投馬国は何所にあったか、地図をご覧ください。
 田村誠一氏の 『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の104頁にある地図です。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html 
 
 以下、田村誠一氏の『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の115頁にある「備中と備後が投馬国」をコピーして読んで頂きます。
 
 奴国から日野川を遡って、国境を超えれば、高梁川の源です。この二つの河川に沿って伯備線が走っており、車中からでも殆どの行程が高瀬舟が通えることが分かり、これが水行二十日と書かれました。高梁川の河口付近が投馬国と書かれて備中、備後のことです。
 高橋川の河口の西の笠岡市に神武が八年間駐留した吉備高島があり、倭人の勢力圏で、末廬国の南と書かれていて方角も正確で、投馬国は玉島に由来していると思われます。
 古代には流れが緩やかな川が道の役目をしました。嵐山を流れる保津川は最近まで舟を引っ張って亀岡に物資を運んでいたのです。水行とは舟に乗って行けることです。
 神武は安芸に七年、吉備に八年駐留して苗族を入植させました。このため投馬国の戸数は五万戸に達していました。当時は若夫婦も一緒に暮らしていたので人口は五十五万人は遥かに超えていたことになります。 
 陳寿は倭人の風俗習慣はちゅうごくとも朝鮮とも共通点がなくて海南島の平野部の民族と同じと書いていて、ここには紀元前後に苗族が住んでいました。
 この海南島の男子は稲作をやっていました。又女子は桑を栽培し蚕を飼って、繭から絹織物を紀元前に織っていたことは「前漢書」に書かれています。魏志倭人伝でも稲と麻を作り、蚕を飼って絹や木綿を織っていたと書かれています。吉野ヶ里は苗族とは全く共通した点はないのに邪馬台国と考える根拠は何ですか。

 以上、田村誠一氏の見解です。

私からの一言---ブームが過ぎた頃に、私も吉野ヶ里を訪問しました。復元された遺跡を歩き回り、疲れましたので、芝生の真ん中で、寝ていましたら、一時間ほど、寝てしまいました。
 その後、どんどん遺跡は復元されたようですが、するほどに、邪馬台国ではなかったことに、訪れた皆さんは気づかれたと思います。佐賀県の方でも、やはり邪馬台国ではないなと思っておられるでしょう。
 投馬国の人口は、吉野ヶ里とは比較にならないほど、人口が多いです。

歴史各論 三角縁神獣鏡(89) 魏志倭人伝(40) 邪馬壹国は、何所に(36)狗奴国(7) [三角縁神獣鏡]

前回、資料を「卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」と区切ったから良くないのではないでしょうかと書きました。魏志倭人伝は、何所で区切れるのか分かりません。漢字の羅列だけが続きます。
 「卑彌呼以死」の前にも、文章があります。

『其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。』
『其八年、太守王[斤頁]到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、 遣倭載斯烏越等詣郡、説相攻撃状。遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假難升米爲檄告喩之。』

その六年(245年)、倭の難升米が黄幢 (こうどう)を賜わり、 (帯方)郡経由で仮授した。
その八年(247年)、太守王[斤頁]が到着した。倭の女王卑弥呼は、もとから狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)とうまくいってなかった。倭は、載斯烏越等を派遣して帯方郡を訪問し、戦争状態の様子を報告した。(魏は、)塞曹掾史(さいそうえんし)張政等を派遣して、詔書・黄幢を齎(もたら)し、難升米に授け、檄文を為(つく)って戦いを激励した。(告喩す)
  この訳文は、http://inoues.net/mystery/kunakoku_nazo.htmlからお借りしました。

 この文章の後ろに、「卑彌呼以死」が続いてあります。

難升米とは、どの様な人でしょうか。 卑弥呼の使いとして、魏の皇帝に使いを出しました。その時の、職業というか、地位は書いてありません。「大夫」とのみありました。大夫の意味は、ウィキペディアをご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A4%AB
 
 日本での身分を表すものとすれば、日本の律令制度にも取り入れられたと書いてありますから、これが正しいとしますと、中国における身分を表すことになります。
 大陸から日本へ来る時に、いろいろの国を通過してきます。その国における官吏の名前が、魏志倭人伝には書いてありますが、太夫のような短いものはありません。
 日本の卑弥呼の一番の部下の筈ですが、どうして、身分が太夫なのでしょうか。

 もとから狗奴国の男王卑弥弓呼(ひみここ)とうまくいってなかったと書いてあります。
 卑弥呼が生きていた頃は、崇神天皇の御世です。崇神天皇は、大和と吉備の間を行き来していたと思いますが、奈良は、殆ど、中国人に征服されていて、危険ですので、狗奴国の男王卑弥弓呼に守ってもらっていました。
 このような書き方は正しくありません。
 天皇家の軍隊があった所が、魏志倭人伝に書いてある狗奴国です。この国は、難升米もなかなか、スパイを送り込んでも、国の様子は、分りませんでした。

 それどころか、卑弥呼のことすら、よく判りませんでした。

 〔相攻撃状〕だったのは、囚われの身になっている卑弥呼を助けるために、出撃した卑弥弓呼と難升米が戦になったことを著しています。崇神天皇をおびき出すために、卑弥呼を人質にしていましたが、難升米に殺されましたと魏志倭人伝に書くわけには行きません。
 
 日本の国を崇神天皇から奪うために、「遣塞曹掾史張政等因齎詔書・黄幢、拜假卑弥呼爲檄告喩之。」であれば、総司令官の軍旗(黄幢)を難升米に渡したことになります。
 
 「檄告喩之」とは、どういう意味なのでしょう。皇帝の詔書を渡したのも、卑弥呼ではなく、難升米がうけとったことになります。 詔書には、卑弥呼を殺し、日本全国への出動命令をするように書いてあったのでしょうか。
 勿論、「卑弥呼」殺しなさいと命令したことにはなっていないでしょう。
と云うことは、「難升米に授け、檄文を為(つく)って戦いを激励した」と云うような、翻訳になるのでしょう。
 
 卑弥呼は邪馬壹国の女王ですから、難升米は、邪馬壹国の将軍と云うことになります。
 古事記に書いてあることは、全部嘘で、嘘というよりは、神話だと考える方は、魏志倭人伝は、全て、正しいと考えられますと、日本史は解けないことになります。
 
 以前に、狗邪国の北にある不弥国のことを書きました。陳寿は、このような名前を付けました。政治の行渡らない国という意味です。難升米は、この国の事は調べていたので、そのように本国に報告したのでしょう。
 政治をしていた神武天皇は、神武東征以来、鳥取県にいなくなりましたし、軍隊の本拠地も、鳥取の久米郡より、句奴国に移動しました。
 現在の地名で云いますと、美作の久米郡大倭村です。
 
大倭村で生まれたり、生活をしていた天皇の名前には、「大倭」の文字が含まれます。
4代から8代の天皇の名前を確認してください。


参考に 
大倭村は天皇の故郷
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page727.html
美作国と天皇の関係
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page729.html

歴史各論 三角縁神獣鏡(88) 魏志倭人伝(39)  邪馬壹国は、何所に(35)狗奴国(6) [三角縁神獣鏡]

狗奴国の名前は、誰が付けたか判りませんが、総大将の難升米ではないでしょう。
 これから日本を手に入れようとする指揮官が、相手を誹謗するようでは、はじめから負け戦を宣言しているようなものです。
 と云いましても、結果は負け戦となりました。大国の魏が国の歴史に、負けましたというような記録は残す訳に行きません。相手を罵るように国名をつけたのは陳寿でしょう。

 難升米は100才近い卑弥呼を人質にした上に、殺したと思われますが、殺したとも書くわけにいきませんから、陳寿は、簡単に 「卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」と書きました。
 卑弥呼が自然死したのであれば、「卑彌呼死」でもいいと思うのですが、漢文では、自然死したときは、「卑彌呼以死」と書くのでしょうか。「以」とはどういう意味でしょうか。
「大作冢、径百餘歩」大きな塚を造ったのであれば、「作大冢」でしょうね。

「大作冢、径百餘歩」に書いてある〔大〕はどういう意味でしょう。

この点は、お預けしておくとして、「難升米は100才近い卑弥呼を人質にした上に、殺したと思われますが」と書きました。どうして、そのように考えるかと云いますと、
「卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、徇葬者奴碑百餘人」の部分だけですと、「卑彌呼は死至った」「大いなる卑弥呼のためにお墓を作った」となるでしょうか。歩幅が、50㎝としますと、50mほどのお墓になります。殉死した者は、奴婢100名ほど。

 原文には、〔徇葬者〕と書いてあります。〔徇〕の漢字は、元々の意味は、「従う」と云うらしいです。
 どのような使い方をするかと云いますと、
〔徇義〕----義の為に命を棄てる
〔徇国〕----国に殉じる
〔徇財〕----命をかけて財を求める
〔徇察〕----あまねく調べる
〔徇節〕----節義のために死ぬ  (魏の時代の文章にある)
〔徇難〕----国難に命を捧げる
〔徇名〕----名声のために命を棄てる

此れは、白川静著『字訓』を引用しました。すべてに共通することは、〔徇〕の次に書いてあることに対して、命を投げ出して 「従う」と書いてあります。
私たちが考える殉死の意味は書いてありません。
〔殉〕の漢字も掲載されています。こちらには、使い方として、殉死という熟語は掲載されています。主人が亡くなれば、殉じて死ぬということでしょう。

皆さんも調べてください。100人の奴婢が生きたまま、お墓の周りに埋められたのでしょうか。
 卑弥呼の部下が、殉死したのでしょうか。 
このように考えてきますと、殉死したのではなくて、「徇葬者」と書いてありますから、葬儀に参列したと読んでも良いことになります。

 これだけの事で、卑弥呼が殺された証拠にはなりません。
資料を「卑彌呼以死、大作冢、径百餘歩、徇葬者奴婢百餘人」と区切ったから良くないのではないでしょうか。

 次回は、
「難升米は100才近い卑弥呼を人質にした上に、殺したと思われますが」と私が書いた部分のことを考えて見ます。

歴史各論 三角縁神獣鏡(87) 魏志倭人伝(38)  邪馬壹国は、何所に(34)狗奴国(5) [三角縁神獣鏡]

前回、神武東征の折、岡山までやって来た時に、天皇の軍隊は、鳥取県から美作に移動してきましたと書きました。確たる証拠はありませんが、そのように考えてもいいのではないかと思える事実があります。

 倉敷を流れる天神川の河口の極めて正確な真南に富村扇山(ピラミッド状)と近衛殿の地名があります。更に南に延長すると美作の久米郡大倭村(ヤマト)です。
 天皇の護衛兵は近衛兵ですから近衛殿に大本営があったことになります。更に、欠史時代と云われた懿徳、孝安、孝霊、孝元天皇の頭字が大倭だったことは、天皇が大倭に身を隠していたか、ここで生まれたか、育ったと考えていいことになります。

しかし、近衛殿は、天皇と関係ない様な事実も見つかりましたから、次の所に書いています。
地名 近衛殿と高座
 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page1076.html
 美作は特別な国です。湯原温泉の入り口に「社」という集落があります。ここに、美作には、式内社が11社しかありません。 全国の式内社の数を確認してください。 伊勢、伯耆、美作、極端に少ないです。このような国は、天皇勢力の強かったところです。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html
 式内社の多いところは、藤原氏の勢力の強いところです。

社には、美作にある式内社11社の内、8社が見える範囲にあります。
社の八社宮
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page466.html

上に紹介しました富村・扇山(ピラミッド状)は、目印にされた山だと思います。この富村のすぐ西に地名「社」があります。
 
 このように、南北に重要な施設を造ったのは、天皇家の人たちだと推察しています。

鳥取県大山町にある宮内----毛無山(これも目印にされた)----笠岡市の高島・神ノ島は同じ東経です。
 この高島は、東西に眺めますと、淡路島の多賀、奈良の橿原、伊勢の内宮と、北緯は同じになっています。

 以上の事より、高島は、神武東征に関係する地名が、南北に並んでいます。神武は、高島に八年いましたが、この地域を行き来するのに、この古代の地図が利用されたと思われます。

歴史各論 三角縁神獣鏡(86) 魏志倭人伝(37)  邪馬壹国は、何所に(33)狗奴国(4) [三角縁神獣鏡]

難升米は、狗奴国と名前を付けました。
 「狗」は、子犬の事です。犬ころの子供だと馬鹿にし、「奴」は奴れいなどに使われます。
陳寿は、狗奴国には男王の卑弥弓呼がいたと書いています。どうやら、卑弥呼と兄弟らしいと分かったのでしょう。名前は分かりませんが、卑弥呼を奪い返すために、「弓」をもってやってくるので、卑弥弓呼と名前を付けました。
 卑弥呼は、崇神天皇の妹です。日本では、日神子と呼ばれていたのではないでしょうか。日巫女の意味です。陳寿は、難升米から、卑弥呼と報告受けましたから、「弓」を卑弥と呼の間に入れましたが、これでは意味を成しません。
入れるとするならば、 卑しい 「弓」 弥呼 のように呼ぶべきでした。 「弥呼」が巫女とは知らなかったのでしょう。ですから、邪馬台国の女王だと書きました。
従いまして、邪馬台国の女王卑弥呼と卑弥弓呼は「素より和せず」戦闘状態にあったと書いていますが、「素より和せず」であるはずがありません。
国名の狗奴国は、汚い漢字は使ってありますが、昔、久米郡と云われていた所です。国名は美作国です。
美作国は、和銅6年(713年)4月3日に、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の6郡を分けて設けられた。 同じ時に、国が分けられた所が外にもあります。 丹波と伊勢です。
 久米郡は、このように、713年にできた郡名ですが、その前から、久米という地名はありました。中国人には、「くめ」は「くぬ」と聞こえたのではと思います。
 神武天皇の軍隊は久米のつわものと云われました。 
神武天皇は兄の五瀬命と東征の相談をしました。その場所は、鳥取県の大山町の宮内か、大栄町高千穂だと思われます。
 両方とも、北緯35度27分上にあります。
http://skeikas.iza.ne.jp/blog/entry/2599600/ 高千穂はこの続きに書いているところです。

神武天皇の軍隊は、その時何所に居たかと云いますと、高千穂の周辺だったと推察します。ここは、久米郡がありました。
 久米歌に出てくる〔神風の 伊勢の海の 大石に ・・・〕の伊勢の地名は、高千穂から海岸に出た所に、地名として残っています。

 神武東征を終えた時には、奈良の柏原に宮城を定めました。何故か、明治になってから、現在の橿原市に橿原神社が造られました。その隣に、久米の地名があります。久米は天皇家の軍隊の駐屯地です。 これは、紀元元年の事です。
 神武東征に出発する時は、島根半島にある日向から出発しましたから、軍隊は、鳥取県の久米にいたと考えてよいことになります。九州を征伐し、広島を制覇し、岡山の高島で、軍備を整える時に、本拠地は、鳥取から、美作の久米郡に移動したと思われます。
 日本列島の真ん中の美作に軍隊を置いて、北から、西から、南からの攻撃に備えたと思われます。この頃の蒜山高原は、天皇家の人々によって守られていました。
 蒜山高原の五座 
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page218.html
 
蒜山高原に祭られている神さんの名前をごらんください。多くの神の名がありますから、複雑な歴史があったことは想像されますが、藤原氏の息のかかった神の名は少ないです。

参考に
崇神天皇の妹の御真津比売です。
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2009/08/1-8a4a.html

歴史各論 三角縁神獣鏡(85) 魏志倭人伝(36)  邪馬壹国は、何所に(32)狗奴国(3) [三角縁神獣鏡]

景初二年頃の様子  http://homepage1.nifty.com/o-mino/page423.html 
 原文ですが、ゆっくり眺めますと、少しぐらいは判かります。

春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東。(明帝紀)
六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、
    太守劉夏遣吏將送詣京都。(←東夷伝)
秋八月、宣王圍公孫淵於襄平、大破之、傳淵首于京都、海東諸郡平。
冬十一月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。(明帝紀)
十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼。(←東夷伝)
十二月乙丑、帝寢疾不豫。辛巳、立皇后。(明帝紀)
景初三年正月(239)魏明帝崩御

 解らないところを飛ばして読んでいますと、判るところは少ないですが、どうにか分ります。
 六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子詣でて、朝獻することを求めました。、
 この部分は、分かりますね。倭女王が大夫難升米等を使いに出して、帯方郡に詣でました。この文面からだけですと、女王が自分の部下の難升米等を遣わしたとありますから、難升米が、トップで、複数の人が、従ったことになります。依頼を受けた責任者である
帯方郡の太守劉夏は、吏將を天子のいる京都に送り、許可を得ましたが、天子に会いにきても良いとは、返事はもらえなかったようです。その理由は前と後ろに書いてあります。
 春正月、遼東を討伐したばかりです。其の後皇帝の様態が悪かった様で、次の景初3年の正月に崩御しています。

六月に卑弥呼が使いを出したのは良いですが、鬼道で衆を惑わしているような国に、銅鏡を100枚も付けて、「親魏倭王」の称号?を与える為に、一番危険な十二月に日本にやって来るでしょうか。いくら大きい軍艦であっても、沈没する可能性は、大きいです。

難升米は、魏の国から派遣された軍人であり、スパイであったので、日本における状態を報告に行ったと考えています。
 
 それがどうしたのだと云われそうですが、日本の軍隊は、狗奴国に居たのではないかと推理しています。
 卑弥呼は、倭の女王であると云ったのは、難升米で、それを聞いて書いたのが陳寿です。日本の記録には、全くありません。
 後漢が日本から引き揚げた後、呉と魏の国が、日本を制覇するためにやって来たと思われます。

 こんないい加減な話は聞きたくないと思います。
 
どこにも証拠はありませんが、日子坐王は何度も、難升米に囚われの身の卑弥呼を取り戻そうとしたはずです。
 日子坐王は、崇神天皇の軍隊の最高の責任者だったと思われます。
 
 陳寿は、日本には馬はいないと書きましたが、古事記には、スサノオが高天原へ行き、機織り小屋に馬を投げ込んだ話が、掲載されています。紀元150年の頃の話です。
 日子坐王は、馬の全てを、句奴国に集めて、崇神天皇を護っていたと思います。
 
 と云うことは、いくらスパイの難升米も、句奴国の事情は掴めなかったと思います。
 以上が、陳寿が、句奴国の様子を最後に回した理由です。
 卑弥呼の話をもう少し詳しく書いて見ます。

 卑弥呼の死んだと云われる248年の頃は、日本を治めていたのは、卑弥呼ではなくて、崇神天皇です。
 難升米は、福知山の由良川の所に、上陸しました。当時、瀬戸内海や奈良は、殆ど、中国人の支配を受けていました。 崇神天皇をとらえようとしましたが、日本の要人に会うことが出来るのは、外国人に対する窓口は、福知山の所だけでした。 その責任者が、崇神天皇の妹であることを知っていた難升米は、卑弥呼を人質にしました。崇神天皇が直ぐに、助けに来ると思いましたが、やって来たのは、義理の弟の日子坐王です。
 古事記に、「日子坐王をば、旦波国に遣わして、玖賀耳之御笠を殺さしめたまひき」と書いてある日子坐王です。玖賀耳之御笠は難升米の事です。
 
ウィキペディアの方は、卑弥呼のことは、次のように書いています。
「魏志倭人伝」によると、卑弥呼は邪馬台国に居住し(女王ノ都トスル所)、鬼道で衆を惑わしていたという(卑彌呼 事鬼道 能惑衆)。この鬼道や惑の意味には諸説あり正確な内容は不明。ただし中国の史書には、黎明期の中国道教のことを鬼道と記している例もある。
 上記のように、但し書きを付けておられますが、日本でも、中国でも、鬼は悪い奴の代表です。
 難升米は、卑弥呼を人質にしたものの、どのような人物かを知らなかったことになります。

歴史各論 三角縁神獣鏡(84) 魏志倭人伝(35)  邪馬壹国は、何所に(31)狗奴国(2) [三角縁神獣鏡]

前回に書きました魏志倭人伝の原文をご覧ください。
 末廬国以降しか掲載しませんでした。ただ、煩雑になるから割愛しただけです。どの国へ行くにも場所が判るように方角と距離が書いてあります。距離が書いてないときは、船で行くのか歩いて行くのか、行くときは何日かかるかが書いてあります。
 
書いてないということは、狗奴国の場合は、書きたくなかったか、書くことが出来なかったかのどちらかになります。
 此女王境界所盡 (ここは女王の境界の尽きる所) であることが判ったのであれば、末廬国の東南に奴国と書いたのですから、その続きに奴国の南にあると書けばよいのに、
投馬國、邪馬臺國を記した後に、狗奴国を書いたことになります。

次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王
この文章の後ろに、突然、自郡至女王國萬二千餘里 と書いてあります。郡よりとは、帯方郡の郡と思えます。
 ずっと、正確に距離を書いてあるのに、狗奴国から邪馬臺國迄が分らなかったのでしょう。 その証拠の一つが、次有奴國、此女王境界所盡。 より前の部分にあります。
 この前に、
自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳。 と書いてあります。

女王国より北は、その戸数や道のりは、ほぼ判っているが、外の国は遠く離れていて精しくは判っていないと記しています。 そして、その分らない国々の名前を列記しています。

  これらの事から、難升米等から報告を受けた陳寿は、邪馬臺國から狗奴国の間に、20ヶ国があるように解釈したようです。

歴史各論 三角縁神獣鏡(83) 魏志倭人伝(34)  邪馬壹国は、何所に(30)狗奴国 [三角縁神獣鏡]

今回は、狗奴国です。
 狗奴国は何所にあったか、地図をご覧ください。
 田村誠一氏の 『燦然と輝いていた古代 追』(平成5年出版)の104頁にある地図です。
http://asilka.blog61.fc2.com/blog-entry-889.html 
 すべての国は、末廬国を起点にしますと、方角も距離も、魏志倭人伝に書いてある通りになります。
 魏志倭人伝の原文を記します。

又渡一海、千餘里至末盧國、有四千餘戸、濱山海居、草木茂盛、行不見前人。好捕魚鰒、水無深淺、皆沈沒取之。
東南陸行五百里、到伊都國、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚。有千餘戸、世有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。
東南至奴國百里。官曰ji[冠凹脚儿]馬觚、副曰卑奴母離。有二萬餘戸。
東行至不彌國百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
南至投馬國水行二十日、官曰彌彌、副曰彌彌那利、可五萬餘戸。
南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰彌馬升、次曰彌馬獲支、次曰奴佳[革是]、可七萬餘戸。

何故か、狗奴国は書いてありません。 どこにあるかと云いますと、この後、国名だけが沢山書いてある所があり、その後ろに、書いてあります。

・・・・次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、
次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子爲王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。

陳寿は、 ・・・・次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國と、一杯国が有るのだと書き連ねて、最後に、次有奴國があると書いています。この奴國は、前回まで書いて来た奴国です。此女王境界所盡—ここは女王の境界の尽きる所 と書いてありますが、奴国が、女王の支配する処なのか、支配しない所なのか判りません。
どちらにせよ、其南有狗奴國---その南(奴国の)に狗奴国があると記しています。はじめに、示しました地図をもう一度見てください。奴国の南に狗奴国があります。
 
男子爲王---男子をして王と為す—王は男子だ 
 其官有狗古智卑狗 の部分がよく判りませんね。王はいるのですが、狗古智卑狗という役職の人がいる?
不屬女王---女王・卑弥呼には属していない。
 句奴国のある場所は分かりました。男の王がいること、狗古智卑狗という官職があること、女王・卑弥呼の支配は受けていないことなどが分りました。
 なぜか、人口が書いてありません。

狗奴国を、なぜ、最後に書いたのか。なぜ、広さとか、人口が書いてないのでしょうか。
次回に考えて見ます。