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古事放談  1-20  日留山人 [日本の歴史]

239年に難升米は生口を10人連行したから、魏のスパイだったことが分かる。
 魏志倭人伝は中国の正史でしかも敗戦記録である。従って敗戦の責任を雲南系日本に押し付ける作文だから裏を読むことだ。 
 陳寿は衆を惑わす必要があるから、卑弥呼に責任を伝嫁して、卑弥呼は能く衆を惑わすと陽動作戦をやったのである。
 詔書等は何とでも後から作文出来るので信用は出来ない。しかし難升米が日本派遣軍司令官に任ぜられたことは事実である。
 魏は日本占領目的をハッキリ正史に残したむことになった。
 240年に魏から軍使が日本軍の防備態勢を視察にやって来たのである。
 このあと久米国王の懐柔を試みたが失敗した。245年には武力による占領に方針を下付されたことは出征と解すべきだ。
 しかし戦局は不利だったので247年には4000粁離れた魏の本国軍に出動命令がだされたのである。


古事放談  1-20  22頁より引用


私からの一言
 「魏志倭人伝は中国の正史でしかも敗戦記録である。従って敗戦の責任を雲南系日本に押し付ける作文だから裏を読むことだ」 この様に考えたことはありません。
 どの戦争でも、勝った国は、このようなコメントを述べるものでしょうか。

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古事放談  1-19  日留山人 [日本の歴史]

瀬戸内海等に二度高地性集落が発生したと書かれている。高知性集落とは敵の侵入を防止するために見晴らしのきく小山の上に設けた集落である。とりでと呼んでよいだろう。
 190年から250年の間のとりでが二回目である。
 奈良の東大寺山の高地性集落は、天皇勢のとりでだった。
 倭人伝には大人には4・5婦と書かれ、学者は一夫多妻だと解説した。しかし雲南系日本人は一夫多妻ではない。
 日本では一つ屋根の下で若夫婦が何組かは一緒に暮らすのが一般である。この若主人が全て出征して高地性集落で防備していたのだ。
 倭人伝を見れば卑弥呼には男弟ありて国を治むと崇神天皇の存在が書かれている。久米国王には卑弥呼に弓を引くアダ名の卑弥弓呼となっていたのである。
 日漢戦争に武力にたよったために失敗した。従って日魏戦争は中国人独特の謀略で、久米国王をおびきよせて毒殺する策を用いた。このために沢山のギフトが準備された。


古事放談  1-19  21頁より引用


私からの一言
 ①瀬戸内海等に二度高地性集落が発生した

②雲南系日本人は一夫多妻ではない。

③日漢戦争に武力にたよったために失敗した。従って日魏戦争は中国人独特の謀略で、久米国王をおびきよせて毒殺する策を用いた。このために沢山のギフトが準備された。

①②③のようなファクターは、歴史に大いに影響するとは指摘されたら、成る程と思えますが、普通は見落とすでしょう。
日留山人の得意とされる部分だと思います。

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古事放談  1-18  日留山人 [日本の歴史]

日中の一次戦争は漢の衰亡とスペイン風邪によって吉備の主力部隊だけは壊滅した。これこそ神風だった。
 しかし日本軍は制海権がなかったので、四国、九州や東北の残存兵は征伐出来なかったのである。
 敵は再度来襲することは必定である。これに対する防備策が取られた。
 先づ吉備上道国には7万戸の屯田兵を集めた。ここが邪馬台国で正確には夜麻登国と書いてヤマトと読むべきだった。
 吉備下道国には5万戸を終結させた。ここはもと漢の主力軍が居ったのである。倭人伝には投馬国すなはち玉の国と呼ばれた。
 日本海の最良港で門戸の日向浦を奪われないために松江国 (末廬国)に4千戸、根国 (奴国 - 米子) に二万戸を配備した。
 天皇の軍隊の本拠地久米国(狗奴)を死守するために、日本海側も 瀬戸内海側も護りをかためた。又物質をこの津山盆地に置いて監督したことは魏氏倭人伝で邸閣国と大倭(現在久米町)として記録されている。



古事放談  1-18  20頁より引用


私からの一言
「日本海の最良港で門戸の日向浦を奪われないために松江国 (末廬国)に4千戸、根国 (奴国 - 米子) に二万戸を配備した」
 日向浦は地図にのっていますか。

「先づ吉備上道国には7万戸の屯田兵を集めた」
ここに記された7万戸という数字は、何所に書かれていますか。7万戸の兵隊を動かすには、相当しっかりした軍隊の組織が必要ですが、どのような組織かは書かれていません。

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古事放談  1-17  日留山人  [日本の歴史]

銅鏡が多数出土したのは古墳が壊されたせいではないか。
 日本人は土地に執着が極めて強い。しかも家系を大切にする。従って離村するのは余程悪いことでもした時だ。
 都に出て出世しても故郷の墓を大切にする。従って吉備や河内等で古墳が多数壊されたのは、古墳の主とその一族が悪事をして挙句には離村したとしか考えられない。
 巨大古墳を作るには何千、万かの人を動員した筈である。しかも死者の命令でなしに子孫が作ったのである。この場合には墓守りを村人が続けるのが日本の風習である。
 この様に考えるだけでも壊された吉備や河内、山城の古墳の主は中国人と考えるべきだ。
 明日香村の石舞台は壊された古墳の残がいだから、古墳の主は極悪の敵国人だ。これは景行天皇が九州征伐した時に破壊したと考えたいのである。
 なぜこんな常識的な考え方が古代史では通らないのか不思議千万だ。



古事放談  1-17 19頁より引用


私からの一言
 「明日香村の石舞台は壊された古墳の残がいだから、古墳の主は極悪の敵国人だ」

この解説は、どうして解かるのでしょうか。

石舞台
http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/03history/04stone/03east_area/ishibutaikofun/

一度も見られた事の無い方は、一度、見に行ってください。

見て、上のような
解説の通り思われるかです。
思われなかった方は、10ヶ所程の巨大古墳を訪れてください。

それでも、「古墳の主は極悪の敵国人だ」と思われない人は、もう、10ヶ所、古墳を訪れてください。
 大きい古墳では、堺市にある仁徳天皇陵がいいかも知れません。


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古事放談   1-16  - 日留山人 - [日本の歴史]

吉備には巨大な古墳がある。この中で最大の造山古墳は107年に生口を連行し中国の正史に名前を残してもらった王師升だろう。
 石棺は九州の阿蘇の石で作られていた。
 石棺を自由に運ぶ海運力を持っていたのである。石棺は日本人が作る筈はない。呉の石工まで大量に連れて来ていたのである。
 184年に漢に内乱が起きて以後は銅鏡も銅剣も玉も日本で作らざるを得なくなった。
 わたしが予言して来たのはこの様な根拠があったのである。そして三角縁神獣鏡には中国から証人が現われて来た。
 中国の考古学者が三角縁神獣鏡は中国人の呉の人が日本までやって来て作ったと研究結果を発表したのである。
 57年9月10日の新聞では古墳から出土した刀は全て、日本の蹉跌から作ったものではなかったと科学的に解明された。
 なぜ日本製ではない武器が古墳から出土したのだろうか。素人が考えても、生産地が国内・国外何れにしても、古墳の主は雲南系日本人ではない。侵略軍の古墳となぜ云えないのか。


古事放談  1-16 18頁より引用


わたしからの一言
 新しい言葉一杯出てきました。
海運力、三角縁神獣鏡、蹉跌、雲南系日本人、阿蘇の石





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古事放談   1-15  - 日留山人 - [日本の歴史]

戦争が長期になり補給路が長くなれば漢の財政だって容易でない筈である。漢も衰亡の道を進みだしたのである。184年には漢に内乱が発生した。 (黄巾の乱)
 漢からの補給が途絶えたのである。189年頃には強烈なスペイン風邪が流行し、漢の皇帝もバタバタ死んだ。
 中国軍から感染して記紀共に、崇神天皇の御世に人民の大半が死んだと書かれている。
 この敵の勢力が衰えた時に播磨と吉備を征伐して、中国軍主力を全滅させた。
 これは7代孝霊天皇の御世の出来事と古事記には書かれている。この時崇神天皇は40才位だった。
 ここで一次日中戦争に休戦期間が出来た。魏志倭人伝は卑弥呼を共立して収ったとウソを書いたのである。
 崇神天皇の妹は大江山の伊勢大神宮の宮司(ヒミコ)だったことは古事記に書いてあった。
地図には伊勢神宮が載せてあった。


古事放談  1-15 17頁より引用

私からの一言
 「189年頃には強烈なスペイン風邪が流行し、漢の皇帝もバタバタ死んだ」
さて、この文章は正しいでしょうか。

 私もスペイン風邪のことはよく知りませんが、この病気は、このような名前が付いている通り、スペインから始まって、全世界に蔓延したと云われている風邪だと思います。
勿論中国も発生したと思われますが、それが元で、「漢の皇帝もバタバタ死んだ」という記事は本当か調べていません。

スペイン風邪
https://influ-info.jp/basic/history.html

スペイン風邪で、世界規模で多くの人が亡くなられた事は本当ですが、確か, ウイルスによる最初の病気だったので、治療は出来なかったのではと記憶しています。

 と云うことですが、歴史の一コマに、挿入しても良い記事だと思います。

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古事放談   1-14  ― 日留山人 ― [日本の歴史]

渡洋作戦で補給のことを忘れたのである。日支事変で日本軍も全く同じ失敗を重ねた。
 狩猟民族を攻める時は頭目だけを倒せば、羊は勝手についてくる。食糧は先方持ちで
ある。
 九州は不毛の地だし、瀬戸内海には稲作は始ってなかったので貯蔵食糧がなかった。日本人は奥地へ逃げればよいのである。
 何れ食糧が切れて敵は交替する外なくなる。日支事変と全く同じで終がないのである。
 中国は吉備に主力を置いた。ここが吉備王国と学者に見えたのである。古代史に出てくる地方の豪族はほとんどが占領軍である。東北にも前方後円墳があったので、東北王朝があったと云われたがこれも中国の占領地だ。
 魏志倭人伝の冒頭に漢に朝見した国が百余国と書かれている。雲南系大王が朝見する筈がない。
 前方後円墳を作った大王が朝見したと考えてよいだろう。従って全国に百余国の漢の侵略した挙点があったのである。
 鳥取県なら小山池、東郷湖、米子の3ヶ所が中国の占領地として考えられる。


古事放談  1-14 16頁より引用


私からの一言
 「鳥取県なら小山池、東郷湖、米子の3ヶ所が中国の占領地として考えられる」

どうして、この3ヶ所が、中国の占領地なのか、理由は書いてありません。

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古事放談  1-13  - 日留山人 ― [日本の歴史]

中国の文献に生口と書かれれば漢和辞典を引く手間をおしまないことだ。奴れいでなくて捕虜と書かれている。
 107年に倭面土国王師升が生口を献じたと書かれている。文字の切目で王師升が生口を献じたと書かれている。文字の切目で王師升とも国王の師升とも国王の師升とも二通りの解釈が出来る。
 国王が荒海を往復することは非常識だから面土国の捕虜を王師升が連行したと、常識通りに解釈すれば問題は至って簡単だ。
 いさか口が過ぎたかも知れない。しかし漢が107年に宣戦布告したとは思いませんでしたとすまされるだろうか。
 生口を奴れいと解した人は総退陣する位の責任があるだろう。
 漢は何十万かの水軍を日本に侵攻させたのである。漢の様な史上最大の侵略主義の国が日本だけノータッチの理論は通らないのである。元でも14万動員した以上この規模以上は当然である。
 この時九州と瀬戸内海沿岸全てを占領した。しかし重大な作戦ミスをやったのである。



古事放談  1-13 15頁より引用


私からの一言
 「 漢は何十万かの水軍を日本に侵攻させたのである」
 この部分は、私の不勉強で、正しいかどうか、知りません。 

中国のことですと、殆ど知りません。 知っているのは、万里の長城位でしょうか。

万里の長城
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E4%B8%87%E9%87%8C%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%9F%8E#mode%3Ddetail%26index%3D123%26st%3D4550

いくら写真をみても分からないと思います。

私は何時行ったかも、誰と行ったかも忘れてしまっています。 しかし、その広大な長城の中を、いくら歩いたか忘れるほど、只管歩きました。 隣の人と身体か触れ合うほど混雑する状況でした。 全く、想像すらしませんでしたが、スリにやられました。 このようなこともあるでしょうから、旅行する時は、常にお金は分散して持っていましたから、旅行は続けることができました。
 帰ってから、地図を見て、びっくりです。 延々と続くお城が建設されていたのです。

勿論、中国人が、外敵から襲われることを防ぐためのお城です。

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古事放談  1-12  - 日留山人 ― [日本の歴史]

日漢戦争は107年に始まった。この年に漢のスパイが日本人を捕虜にして連行した。
 これが今まで学者の解釈を誤った点である。
中国の文献に生口160人とあったのを、生口は捕虜のことだと主張した学者があった。
 しかし別の学者グループは、生口は奴れいのことだと主張して、捕虜との学説を封じてしまったのである。
 古代史や考古学には言論の自由がないのである。このことは樋口清之教授も〝大和の海原〟で述べて居られる。
 今までは古墳は4世紀以降と云わないと学門として認められなかった。従って間違っても卑弥呼の時代に古墳があったとは言えないのである。
 従って九州の前方後円墳は4世紀以降になる。古墳から銅鏡が出れば前漢のものでも、4世紀以降まで、わけもなく保管していたとの学説がはばをきかすことになった。
 古事記は年代的におかしいと全く相手にされないことになったのである。


古事放談  1-12 14頁より引用


私よりの一言
①日漢戦争は107年に始まった。この年に漢のスパイが日本人を捕虜にして連行した。
 これが今まで学者の解釈を誤った点である。

このことはご存じですか。確かめてください。

②古代史や考古学には言論の自由がないのである。このことは樋口清之教授も〝大和の海原〟で述べて居られる。
 〝大和の海原〟は、是非、読んで下さい。別に、日留山人と同じ様に、応援する訳ではありません。すごい本だなと思った記憶があります。----是非読んでください。

 「古代史や考古学には言論の自由がないのである」 これは、私には解かりませんが、堂々と著書に書いて居られますから、反論があれば、戦われたと思いますが、ネットで調べた所では、糸口すら見つけることは出来ませんでした。

③「今までは古墳は4世紀以降と云わないと学門として認められなかった。従って間違っても卑弥呼の時代に古墳があったとは言えないのである」
 この点も確かめてください。
 「古事記は年代的におかしいと全く相手にされないことになったのである」

古事記は、年代的におかしいという部分は、根拠がない様に思います。

それよりも、日本書紀は、日本の歴史書とされていますが、古事記と、記事を対比させて、読みますと、殆ど、同じ所がないことを日留山人氏は、指摘されています。
 ということは、日本書紀は、意図があって、書かれた歴史書と考える必要はあります。
日本書紀は、ずばり、中国人によって、書かれたと主張して居られますが、略、正しいような気がしています。
 
 古事記の完成は712年、日本書紀の完成は720年とされていますが、この数字が正しいとしますと、8年で、日本書紀を完成させることは不可能だと考えます。
 根拠は、私は自分で考えることはしなくて、現在、只管に、日留山人の著書を、一回に、1ページずつ、コピーして、コメントを書いています。これを書くのに、1~2時間かかってしまいます。
 では、この作業を10人の人で、分担してすれば、12分で終了します。コピーするだけでしたら、12分ですが、内容を考えていますと、10人の意見は、まとまらないと思います。

日本書紀の編纂は、10人の仲間では作ることは出来ません。

私は、大部分は、一人の人が考えて作ったと想像しています。

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古事放談  1-11  - 日留山人 ― [日本の歴史]

日本民族は漢民族に迫害された少数民族の混成である。これが古代史を解く鍵である。
古くはチベットや雲南からの人が隠岐に挙点を築いた。紀元前3世紀には中国の中山王国の亡命者がやって来た。これも漢民族に亡ぼされた人だ。
 ついでに秦に国を滅ぼされた周の王子、天照大神がヒルゼンに来た。月読命は天山山脈から揚子江を下って来た。スサノオの命は北朝鮮を漢に占領されて亡命して来た。
 天照大神は雲南の漢に圧迫された稲作民をデルタ地帯に入植させる様命令した。この結果何十万かの稲作民が計画的に主として日本海沿岸全域に入植した。
 この時の日本の門戸は日本海で最良の日向浦である。国土地理院の地図では境港大橋の真下である。
 神武天皇が東征に出発した港は実にここだった。ここでは数千隻の船でも安全に停泊出来る。ここにも古代人のちえがあった。
 日本民族は全て漢民族とは宿敵関係にあった混成民族である。銅鏡に無縁の人達だ。


古事放談  1-11 13頁より引用


私からの一言
 いつもと同じ、短い文章ですが、内容は豊富です。

①日本民族は漢民族に迫害された少数民族の混成である。
②古くはチベットや雲南からの人が隠岐に挙点を築いた。紀元前3世紀には中国の中山王国の亡命者がやって来た。これも漢民族に亡ぼされた人だ。
③秦に国を滅ぼされた周の王子、天照大神がヒルゼンに来た。
④月読命は天山山脈から揚子江を下って来た。
⑤スサノオの命は北朝鮮を漢に占領されて亡命して来た。

 ①~⑤までは、お互いに関連ある事項ではありません、同じころに、見られた歴史的事実を書き並べただけです。 これでは、この頃の歴史を語ったことにはならないと思います。
 この五項目を読んだ人が、時間的に、理解出来る様に書くためには、各文章の間に、補ぎなう文章が必要のように思われます。

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