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第9話 中国人が書いた日本書紀   ※ 山城の椿井古墳 (6) [日本の歴史]

この中山王国は北京の南で日本一県位の大きさであった。しかも狩猟民族だが、前220年に滅ぼされても北方に行けず、東の山島半島に逃げたのである。
 この亡命者が日本にやって来て一部は、近江路から近江に移った。イザナギの命と何人かの王子は京都の三方五湖からビワ湖北岸に出て、湖を渡って近江八幡の多賀に本拠地を置いた。
 亡命者の他の一団は東北地方から、磐城、常陸にまで津軽海峡を越えて移って行った。
 津軽平野の亀岡遺跡や八戸市の是川遺跡の紀元前の素晴らしい出土品は、中山王国の技術が基本にあったと考えたいのである。
 古代の文明は紀元前から後退しつつあるのが世界中で共通な現象ではないか。
 古墳の年代を形式等の客観的なことで決めることは極めて危険だと主張したいのである。
 科学的に例えばカーボン14で判定した資料が公開されることを望むものである。客観的に最新式のものの方が、年代が古くないと文明の後退は日本だけが例外になる。



― 36 -  より抜粋


私からの一言
 「中山王国は北京の南で日本一県位の大きさであった」この文章はお聞きになったことがおありですか。この文章の真偽は別にして、中山王国が何所に有るかを確認してください。 
先ず、地図を出して北京を見つけて下さい。そして、本当に中山王国を見つけて下さい。
「前220年に滅ぼされても北方に行けず、東の山島半島に逃げたのである」と書いてあります。

前220年のことですから、現在の地図には残ってないかも知れません。そうしますと、古地図を探すところから はじめなくてはなりません。

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第9話 中国人が書いた日本書紀   ※ 山城の椿井古墳 (5) [日本の歴史]

吉備の造山古墳は最新の筑摩書房の年表では413年の箇所に書かれ、わたしは150年前だと主張したいのである。
 最近中国の2300年昔に忽然と消えた、中山王国の文物展を見て驚かされたのである。
 一言で言えば2300年昔の方が科学的技術は進んでいた。昭和50年代と比較すると現代っ子は不満だろうから、昭和の初めの技術より進んでいたと考えて欲しい。
 青銅鋳物の技術は、現在でもただただ感心する外なかった。
 鉄鋳物も80キロ近いものが出品され、わたし達は常識では設計しない青銅との鋳つぎまでされていた。
 黒陶すなはち一見金属としか見えない、模様を入れた黒色のの陶器が多数あったが、現在こんな製品が簡単に作れるだろうか。
水晶の15センチ近いリングは材料があるだろうか。壊れない玉の加工方法も疑問である。
ふんだんに金を使用し犬の首輪も、金と銀のリングを連ねてあった。


― 54 -  より抜粋


私からの一言
①「吉備の造山古墳は最新の筑摩書房の年表では413年の箇所に書かれ、わたしは150年前だと主張したいのである」。

主張したいという日本語、強い表現の様で、田村氏は、自信があるという表現だと思います。

② 「最近中国の2300年昔に忽然と消えた、中山王国の文物展を見て驚かされたのである」
 さらっと、書いてありますが、中山王国は、2300年前に存在した国なのですね。
日本は、今、西暦2018年です。
其頃の技術のことが書いてあります。

③ 「最近中国の2300年昔に忽然と消えた」ということは、中山王国の記録が残っていないと云うことでしょうか。

④ 「ふんだんに金を使用し犬の首輪も、金と銀のリングを連ねてあった」

  この二匹の犬は、私も見ました。
猟犬と思われます。

猟犬一覧表
https://mag.pethomeweb.com/zukan?q=%E7%8C%9F%E7%8A%AC&c=dog&search=%E6%A4%9C%E7%B4%A2

二頭の犬の種類は、何だと思われますか。

ⅰ 顔の特徴---比較的 頭部は長い様です。
ⅱ 銅体比して、脚が長い様です。
ⅲ 形はコリーの様な、面長です。 獲物を神殺すと成りますと、顎の骨が発達すると思われます。
ⅳ この頃は、既に、弓があったことは、銅たくに描かれています。と云うことは、猟犬は、獲物を殺すための犬では無くて、獲物を追い出すための犬でしょうか。

アイリッシュ・ウルフハウンド  ラフ・コリー  グレート・デン  ドーベルマン

以後の記事は、中山王国とイザナギに関係あると思われることを調べた時のものです。

イザナギは中山王国の出身か
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/01/post_13.html

イザナギは中山王国の出身か  その2
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/02/2.html

イザナギは中山王国の出身か  その3 
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/02/3.html

淡海に行ったイザナギ  -40
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/02/40.html

地名 高尾山
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/02/post_4.html


倭人は帶方の東南大海の中
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/02/post_5.html

イザナギのお墓
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/03/post_5.html

イザナギの墓 その2
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/03/2_4.html

イザナギの墓 その3
http://rakuraku.cocolog-nifty.com/tanosimu/2005/03/3_2.html

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第9話 中国人が書いた日本書紀   ※ 山城の椿井古墳 (4) [日本の歴史]

カーボン14による年代が発表されてないとすると、素人は何を頼りにすればよいだろうか。
 中国には十干十二支があった。すなはちエトが中国と交流のあった時だけは、古事記に書かれていた。 
 エトは60年サイクルだから、60年の陪数の誤差は起こり得る。
 この考え方で崇神天皇はツチノエトラに亡くなったので258年だったと前稿で証明しておいた。318年なら天皇の世継ぎが、10数才で生れ、古事記や日本書紀の天皇家の系図が成立たなくなるのだ。
 箸墓は日本書紀では崇神天皇の御代に作られたと書かれている。
 漢軍が日本各地を占領して、漢の死者を出したのは倭国大乱の時代とすれば、漢のしきたりの古墳が占領地域にあってよい。
 しかも威勢のよい初期には漢本国にない様な立派な前方後円墳を作ることは、日本書紀が満州国ても企てた例がある。大和以外で最大の吉備の造山古墳は最新式であるべきだった。


― 34 -  より抜粋


私からの一言
「 中国には十干十二支があった。すなはちエトが中国と交流のあった時だけは、古事記に書かれていた」
 上記のことは、私は確認していませんが、ここに書かれてあるということは、正しいのでしょう。

 歴史は、何所そこに、資料が書かれていると、見付けるのも良いですが、全ての資料が
゛残されていることは、少ないでしょう。有っても、その資料が正しいことを説明してからでないと、利用することは出来ないと思います。

 その場合は、どうすれば良いかと、三行目から書いて居られます。

読みましたが、まだ、私の頭は、完全に理解出来ていません。日を改めて、読み直して見ようと思っています。

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第9話 中国人が書いた日本書紀   ※ 山城の椿井古墳 (3) [日本の歴史]

吉備の造山の巨大な前方後円墳の石棺は、九州の阿蘇の石で加工して遠方の所を運んだことが、昭和56年7月に出版された〝吉備の古代史の未知を解く〟で明らかになった。
 X線回析法で科学的に石材の産地が解明されたのである。
 九州の豪族が吉備で死んだ場合には、吉備にわざわざ九州から石棺を作って運ぶことはしないだろう。
 漢の将軍が吉備に進駐して死んで、しかも中国まで死体を運ぶことが出来ないとしたら吉備に漢の古墳があってもよいのである。副葬品は漢の品であれば漢人が古墳の主と考えてよいのではないか。
 九州に漢の日本での基地があったと考えれば画一的な巨大な、しかも漢の銅鏡が沢山出土した謎は氷解するのである。
 従って造山古墳が同年表で413年頃としたのはおかしいと申上げたい。漢が協力で外征に努めていた時代すなはち150年前と考えたいのである。古墳が最新式に見えたので新しい年代だと判定したのではなかろうか。



― 33 -  より抜粋


私からの一言
 「X線回析法で科学的に石材の産地が解明された」
新しい技術が開発されますと、石材の産地が分かると云うのは、素晴らしいですね。

「吉備の造山の巨大な前方後円墳の石棺は、九州の阿蘇の石で加工して遠方の所を運んだ」

吉備の造山の巨大な前方後円墳の石棺が 九州の阿蘇の石で作られていたことが分かれば、石は、自分で、移動はしませんから、九州の阿蘇の近くに住んでいた人か、その石が欲しかった吉備の住人だったことになります。

 それにしても、吉備の造山の巨大な前方後円墳は、運搬の無理を承知で、運搬したことになります。
 と云うことは、九州で、しかも、阿蘇の近くで、勢力を有していた豪族が、吉備に新しい支配地を移すために吉備にやって来たと考えます。しかも、当時、全国で、4番目に大きかった前方後円墳になります。
 造山古墳の年代は、もう一度、考え直す必要はありますが、一覧表には、確かに、
413年のところに表示されていますから、検討の必要はあると思います。

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第9話 中国人が書いた日本書紀   ※ 山城の椿井古墳 (2) [日本の歴史]

年表に載せられた巨大な古墳群の最後に大和の桜井市の箸墓が加えられている。
 同年表で367年は神功紀47年と書かれこの下欄に12代景行天皇陵が作られた事になっている。 (桜井市とあるが実際は天理市)
 10代の崇神天皇陵はあべこべに370年と景行天皇陵より後世に作られ、おかしくないだろうか。
 日本書紀の年代はデタラメだと前項で述べておいた。卑弥呼のことは日本書紀では神功紀に登場するのが一例で、これでは古代史は謎につつまれるばかりである。
 前稿で卑弥呼は崇神天皇の妹であり、難升米は日本名がクガノミミノ御笠だと述べたことを参照願いたい。
 箸墓は卑弥呼すなはち崇神天皇の妹のミマツヒメを葬った墓だと述べておいた。
 従って上記年表で他の画一的な古墳と一緒にされては困るのである。
 漢が築造した古墳を模倣して、250年頃作ったと考えたいのである。



― 32 -  より抜粋


私からの一言
 「日本書紀の年代はデタラメだと前項で述べておいた」と、その後、田村誠一氏の考え方を述べて、

 「 従って上記年表で他の画一的な古墳と一緒にされては困るのである。
 漢が築造した古墳を模倣して、250年頃作ったと考えたいのである」

この結論は正しいかも知れませんね。 

多くの方が、いろいろの見解を述べておられます。

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第9話 中国人が書いた日本書紀   ※ 山城の椿井古墳 (1) [日本の歴史]

筑摩書房の〝年表・日本歴史〟を左記と次頁に示しておいた。昭和55年5月に出版された最新の年表であり、歴史学者の共通意見と解してよいだろう。
 300年代すなはち4世紀に畿内から瀬戸内海にかけて巨大なしかも画一的な古墳が発生した。これらの古墳からは多数の漢の銅鏡や鉄製武器が出土したと書かれている。
 後漢は200年頃は滅亡寸前だったのに、300年以降に鏡だけ、代々百年以上も引継いだ人が九州から山城にまで居ったことになって奇怪なことになる。
 これらの古墳は、107年以降漢軍が日本を占領していた証拠だったと主張したいのである。
 漢軍が死んだ数だけ鏡を埋葬したとすれば巨大の謎も、画一製の謎も鉄製武器が出土した謎も全て解けることになる。
 年代だけがおかしくなるが、カーボン14による科学的方法は、日本では弥生期と古墳期に限って使われなかった謎も解けてくれる。



― 29 -  より抜粋


私からの一言
 多くの謎が解けたことになります。
ということは、書かれてある歴史は、略、正しいとの考えを進めて良いと思われます。

田村誠一氏は、次の2ページに、筑摩書房の〝年表・日本歴史〟を示したと書いて居られます。
 最新の歴史年表だと断って有ります。
 少しだけ、記事を記しておきます。

300年
 ▽西晋に八王の乱が起こる。
302年
 ▽高句麗、玄莵郡を侵す (三国史記)
311年
 ▽洛陽陥落し、晋帝捕えられる ◎永嘉の乱

活字が 本文の3分の1ぐらいの大きさで、組み込まれています。と云うことで、詳細な記事が掲載されています。

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第9話 中国人が書いた日本書紀   ※ 最大の古墳数は鳥取県 (6) [日本の歴史]

〝謎の古代―京・近江〟 の86頁を左記に示しておいた。
 なぜ宮内庁が仁徳天皇陵と呼んでいるものを、わざわざ大山古墳と呼ばなければならないのか。
 お盆には先祖の墓参りをするのは日本の美風である。自分達の先祖の墓は自分達が一番よく知っている。5代前の墓位は間違いなく語り継がれている。
 他人の墓のことは仲々分からないものだ。他人の墓の方が立派だから勝手に自分達の先祖の墓に横どりすることが許されるだろうか。 
 天皇陵は天皇家が代々引き継いで先祖のまつりを行って来たので天皇家が一番よく知っている筈である。明治天皇陵や大正天皇陵まで桃山両、多摩陵と呼ぶべきか。
 大山古墳と呼ぶことによって古代史の謎がすっかり解けるならよい。解けないのに御陵名を変えたり、地名を新住居表示にすることは混乱を増すばかりである。
 御陵名が仮に間違って伝承されても、間違ったことが歴史の一コマである。


― 27 -  より抜粋


私からの一言
 始めに、「〝謎の古代―京・近江〟 の86頁を左記に示しておいた」とありました。

その文章をそのまま、記します。

それから三番目の特長は、日本の古墳は非常に規模がおおきいということです。よくご存じのとおり、大阪の堺市へ行きますと大山 ダイセン(仙) 古墳があります。くないちょうでは仁徳了と呼んでいる古墳ですが、私はそういう名前は使いません。このこふんは486メートルものながさがありますが、これにかぎらず日本の古墳は一般に大きい。このことは、中国とか朝鮮の支配者の墓に比較すると、いよいよ重要な特長として上げられます。
   
以上です。

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第9話 中国人が書いた日本書紀   ※ 最大の古墳数は鳥取県 (5) [日本の歴史]

神武天皇に関して古事記に出てくる地名はなぜ国土地理院の地図に現存しているのか。
 しかも九州の日向の地名であれば、古事記や日本書紀を意識して命名されたと云えるだろう。
 しかし鳥取県は因幡の白ウサギ以外には、記紀を意識して地名を付けられたことがないのに、古事記に現われる地名の、しかも一、二でなくてほとんどの地名が現存している。
 神武天皇はデートの地名も、東征に船出した日向浦も現存していることは、けんきゅうに値しないことだろうか。
 古事記に出てくる根の国は、鳥取県の米子平野ではなぜ不合理なのだろうか。ここが中国で奴国と称された所である。
 高千穂のすぐ南が蒜山高原である。ここが一時期高天原だった所として、不自然な点を指摘願いたいのである。
 ここには無形文化財の大宮踊りがある。大宮人が居ったから大宮踊りではないか。天王の地名も、4ヶ所 (現在地図1ヶ所) あることは学者が謎を解明すべきではないか。



― 25 -  より抜粋


私からの一言
 地名の話題だと思えば、大宮踊りが登場しています。

大宮踊り
https://www.youtube.com/watch?v=io874RKI1qM

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第9話 中国人が書いた日本書紀   ※ 最大の古墳数は鳥取県 (4) [日本の歴史]

〝謎の古代―京・近江〟では古墳は天皇や豪族の墓だとすれば、300年間に鳥取県に
8000人もの天皇や豪族が居ったことになって、おかしいと否定されている。
 しかし天皇や豪族の一族が古墳に埋葬されたとしたらなぜいけないのだろうか。例えば、天皇も皇后も王子も王女も、その子供達も古墳に埋葬されたとしたら不自然だろうか。
 仮に3組の子供夫婦が育ち、更に孫夫婦が9組育つとすればこの時の一族は26人になる。20才前後で子供が生まれると200年では一族は15万に達する。
 300年で8000の古墳は1ヶ月に2人平均の親類縁者の古墳に過ぎない。てんのうや豪隊の一族の墓でも少な過ぎないだろうか。
 倉吉の高千穂に政府機関は何回か述べて来た様に、12代景行天皇の時まで300年以上あったのである。
 古墳が大和より多すぎることは、大和以上の文化があったことにならないか。何故8000もの古墳があったことの解明に努力されないで否定だけされたのだろうか。



― 24 -  より抜粋


私からの一言
 上に書かれた計算は、正しいですか。
正しいようですね。

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第9話 中国人が書いた日本書紀   ※ 最大の古墳数は鳥取県 (3) [日本の歴史]

漢の進駐軍の将軍は、倭面土古国王師升とアイマイに書かれた。107年に生口160人を連行した人間だ。国王でなくて、王師升だった筈だ。
 後漢書は漢の敗戦記録である。如何に上手に敗戦とさとられない様に苦労しして作文したかの裏を読むべきだ。
 師升 (王師升を略) が吉備を占領した緒戦の頃は調子がよかったので吉備最大のしかも漢のしきたりの、最新式古墳を師升は作ってもらった筈である。すなはち吉備の造山の主は師升で年代は150年前と考えたい。
 この古墳の石棺は阿蘇の石で石工まで連れて来たことが分かった。長期戦で勝チ目がない戦争では、後から死ぬもの程古墳もお粗末にする外ない。だんだん旧式になり何れ漢からの石工も死んで、九州の阿蘇から石棺を作って運ぶことも無不可能になった。
 占領地四国の火山石を使用せざるを得なくなったと考えれば、〝吉備古代史の未知を解く〟の、火山石の謎は解けてくれる。


― 23 -  より抜粋


私からの一言
 吉備の古墳が大きい謎の解答の一つが、

「師升 (王師升を略) が吉備を占領した緒戦の頃は調子がよかったので吉備最大のしかも漢のしきたりの、最新式古墳を師升は作ってもらった筈である。すなはち吉備の造山の主は師升で年代は150年前と考えたい」 でしょうか。

「この古墳の石棺は阿蘇の石で石工まで連れて来たことが分かった」 これは、間違いないことです。運んだのは、中国人です。 道中は、日本兵の襲撃にあったはずです。 記録に無い所を見ると、この時は、少なくとも、吉備までの街道沿いは、中国人の天下であった筈です。



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