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No202 柏原市の高地性集落 [日本の歴史]

高地性集落を柏原市のところで取り上げましたのは、大した意味はありません。ただ、
金関 恕監修 「弥生時代の集落」p61 によりますと、高地性集落を大阪府下で、34ヶ所を上げておられます。その内、高尾山頂遺跡、玉手山遺跡、五十村遺跡、の3ヶ所が、柏原市にあります。「日本古代史と遺跡の謎」でも取り上げておられますが、タイトルに示されるように「古代史の謎」の一つです。
 どの方もいっておられるのは同じで、弥生時代に急に出現した、中期から後期に限定されること、防御を目的にしたことです。詳細には、その出現には、二度のピークがあったようです。山の頂上に作られていることが多いですので、隣の山と狼煙などでの連絡は出来ますが、助け合うとか、水分がありませんから長期の篭城なども無理と思われます。
時期から考えますと、「倭国の大乱」との関連を「日本古代史と遺跡の謎」において、水野祐氏は述べておられます。倭国の大乱とは、西暦142年から188年までの間に日本中が、合い乱れて戦っていたと考えておられます。私は倭国の大乱とは、倭国内で、お互いの国が、戦っていたのではなく、倭国が中国に対して乱を犯したのだと思います。魏志倭人伝に、「 「倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国、漢時有朝見者、今使訳所通三十国」とあります。翻訳は、「倭人は帶方の東南大海の中にあり、山島に依りて國邑をなす。旧百余國。漢の時朝見する者あり、今、使訳を通ずる所三十國 」日本には、昔、100ヶ国ほどありましたが、その内、30ヶ国ほどが中国のいぅことを聞きます。 このように読むのは間違っているでしょうか? 魏志倭人伝は中国の正史です。前記の文章は、230年前後のことです。
これより、400年前に、徐福というひとが、秦の始皇帝の命令で、3000人も連れて日本にやって来たと言われています。紀元前180年前後に、イザナギ、イザナミ、アマテラス、スサノオ、ツキヨミ等が、日本に上陸します。
このように考えますと、3世紀ころに、日本中で、戦国時代のようにお互いに戦争をしていたという発想は生れません。崇神天皇がはじめての天皇で、それ以前は、すべて神話であって、実際のことではないとすれば、話は別です。
 話は脱線しました。では、高地性集落の目的はなにであったか、何故、弥生時代に急に出現した、中期から後期に限定されたのかを記します。
高地性集落は全国に600以上あるそうです。全部登れば、自ずと判るであろうと先ずは、地元大阪からと云うことで、愛宕神社遺跡(大阪府池田市)、待兼山遺跡(大阪府豊中市)、会下山遺跡(兵庫県芦屋市)は登ってきました。殆どの遺跡は30m~40mが多いらしいですが、200~300mの所もあります。全部登ればいいのですが、会下山遺跡は電車の駅から麓まで歩くだけで、ダウン。死ぬ思いで遺跡まで歩いてきました。この経験が、今回、柏原市の高尾山へ車で行くことが出来るかを資料館で尋ねることとなりました。まだ、4ヶ所しか調べていませんが、愛宕神社遺跡、待兼山遺跡の近くから、陶棺が出土しています。ということで、私の資料は当分役立ちません。
 そこで、「日本古代史と遺跡の謎」からデーターをお借りします。
 「高地性集落がいとなまれた全期間を通じて、その分布のもっとも濃密なのは、北九州・山口・廣島・岡山・兵庫・大阪・奈良・京都・和歌山西南部、愛媛・香川・高知の諸府県の特に瀬戸内に面した沿岸地帯である。この最も濃密な分布を示す瀬戸内を挟んだ、岡山・兵庫・大阪・和歌山・香川・愛媛の六府県の限定的地域は、弥生時代の青銅器の分布圏からみると、平形銅剣の分布圏と重なりあっていることに注目しておきたいのである」
 最後の「平形銅剣の分布圏と重なりあっていることに注目」は希望で、その結果、確かに関係あるとかの記述はありません。著書では分布地図が掲載されていまして、見事に海沿いにあることが判ります。http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/nihon/5-5koutiseisyuuraku.htm

上のことから、なにを推理されましたか?遺跡からなにが出土したかを、一つずつ調べないとなんともいえませんが、高地性集落は、篭城して戦もしたかも知れませんが、見張り小屋であったのではと考えます。なにを見張っていたかといいますと、大切なものが、瀬戸内海を大阪から九州へ運ばれていくのを監視していたのだと思います。なにを運んでいたかといいますと、金、銀、水銀、朱、絹、鉄となるでしょう。阿蘇の凝灰岩などは西から北へ運ばれました。
なぜかと言いますと、会下山遺跡(兵庫県芦屋市)は、海岸から2kmも内陸部にあります。しかも、標高200mあります。ところが、海の真ん中を航行しているボートぐらい(本当はもっと、大きいでしょう)に見える舟が、私にもはっきり見えます。古代の人は、40km先でも見えたといいますから、舟に何人乗っているぐらいは簡単に見えたと思います。会下山遺跡には、7つの小屋が復元されていました。となりますと、水は麓から運んで、住んでいたのだなと想像しました。
  
  
全国の高地性集落を地図上に図示すれば、古代人が東北から九州まで絹を運んだ道が浮かびあがるのではないかと思っています。
柏原市の高尾山頂遺跡、玉手山遺跡、五十村遺跡は、大和川を挟んで北と南に存在します。奈良から大阪湾に出るには、大和川を通るのと木津川を通る、二つのルートがありますが、
河内国は広いのに、一番南の所に国府が置かれました。木津川も同様で、山城国の一番南に国府も、恭仁京も置かれました。 式内社が11社もあり、廃寺の多いのも納得できます。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page441.html 左は私のホームページ


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