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No304 伯耆の国はどこにあったか [日本の歴史]

出雲、伯耆、因幡 このあたり一帯を伯耆とみていいのではないかと考えています。しかし、このあたりは、魏志倭人伝にでてくる「奴国」では無かろうかと。魏志倭人伝に書かれていますから、3世紀。古事記が著されたのが、712年ですから、太安万侶は、この辺りが奴国とよばれていたことを取り込んで古事記を書きました。

スサノオが自分の娘をオオクニヌシ命に与える代わりに要求をしています。
 「お前は大国主神となり、私の娘・須世理毘売を正妻にし、宇迦の山の山本に、底つ石根に宮柱ふとしり、高天の原に氷椽(ひぎ)たかしりて居れ。 是が奴なり」又、スサノオは大国主命に向かって、「生大刀と生弓矢で以って、汝の庶兄弟を坂の御尾に追い伏せて、亦、河の瀬に追い撥(チ)らせ」と言ってます。

以前に、「根の国訪問  その4」 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page392.html において、この部分の解釈を試みたことがあります。参考にしてください。
スサノオは、八十人いた子供たち、オオクニヌシ命にとっては、庶兄弟をスサノオの命令通りに追い散らします。大国村倭字神田に住んでいた倉稲魂命は、その後、京都の伏見稲荷の祭神におさまっていますから、京都に移り住んだことが判ります。 大山咋命は西伯郡淀江町の隣の日吉津村に住んでいましたから、、京都は比叡山の麓の日枝神社と嵐山の松尾神社の祭神になっています。これらの神社の中心に当たる所に、八坂神社があり、スサノオが祭られています。
そして、オオクニヌシ命は奴国の支配権を獲得します。
 当時は、倭まで川を遡ることができました。倭はどこにあるかです。日野川を上って行きますと、溝口町があります、目を西の方へ移しますと、西伯町があります。この町は、以前大国村と呼ばれたところです。150000分の1の地図でもなぜか、倭という地名が載っています。実際に行ってきましたが、現在は、海が近くまであったとは、 想像もできないところでした。 この近くには、オオクニヌシ命の庶兄弟を祭った人が、たくさん見ることができます。
古事記に出てくる手間山事件の手間山もあります。しかし、古事記にあるので、後の世になって手間山と名づけたということも考えられます。しかし、そうではなく、稗田阿礼が、このあたりの神社をめぐり、祭神や手間山を織り込んだ物語を作ったのだと考えています。
追いやられたオオクニヌシ命の庶兄弟は、東は京都に集まりました。西に移動した者は、出雲に集まったと考えています。そのため、出雲と山城には式内社が多くなり、伯耆は少ないと推察しています。(式内社と祭神 http://homepage1.nifty.com/o-mino/page257.html ) 
スサノオは高句麗人ですから、騎馬民族です。 奴国(後の伯耆国)のを除く、出雲、因幡、山城はスサノオを祭った神社でいっぱいです。あたかも、騎馬民族が、攻め込んで日本を征服したかのように見えるために、日本人の先祖は、騎馬民族であるという説もあるぐらいです。


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