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No22 美作国の高野神社と中山神社 [神社からさぐる歴史]

この二つの神社は、大いに関係があったのではないかと考えています。別々に眺めますと見えませんが、一緒に眺めますと、別のことが浮かんできます。

その関係とは、『今昔物語』に「今昔、美作國二中参・高野卜申神在マス。其神ノ体ハ、中参ハ猿、高野ハ蛇ニテゾ在マシケル」と書かれているそうです。No19とNo20に書いた祭神と違います。
『今昔物語集』は、作者は判りません。いつ頃できたかも確かではありませんが、成立時期はこの1120年代~1449年の間ぐらいであろうとされています。『今昔物語』は難しいと書かれていましたので、実際には読んでいません。

 「今昔、美作國二中参・高野卜申神在マス。其神ノ体ハ、中参ハ猿、高野ハ蛇ニテゾ在マシケル」と同じような内容のものが、宇治拾遺物語 巻10-6の「吾妻人生贄をとゞむる事」に書かれていますので、この内容を書いてみます。

中山神社では、現在では行われていないと思いますが、鹿を生贄として供えていたらしいです。その前は、人間の娘を生贄にしていましたが、鹿になったのだという理由が、宇治拾遺物語 巻10-6 に書かれていることになります。

 いつの頃からか判りませんが、この中山神社の神である猿に、毎年、人間の娘を生贄に差し出すことが、ずっと、続けられていました。その年も、愈々、その時が近づき親子ともども泣いていました。そこへ、東人で狩人を仕事する男が通りかかりました。狩人は助けることとし、猿を捕まえてきて、犬が猿を見たら噛みつくように訓練をして、その日に備えます。
 生贄を差し出す日に、箱の中に犬と狩人がはいり、猿の神の前に神主によって届けられます。いつものように猿が箱を開けますと、犬は猿に飛びかかり噛みつきます。犬たちは、多くの猿をかみ殺します。大将の大きな猿を捕まえて、殺そうとしますと、一人の神官に神が乗り移って、叫びました。
「私は、今日より後、永遠に生け贄を取らず、人の命も奪わない。また、あの男も、私をこんな目に合わせたからといって、殺めてはならない。生け贄の娘や、その両親・親族も罰してはならんぞ。ただ、何とか私を助けてくれろ。」
これを聞いた宮司らは、皆社の中に入って、狩人の男に、命乞いをして許してもらいます。
それからというものは、生贄に娘を使わないで、猪や鹿を供えるようになった。

宇治拾遺物語 巻10-6 を判り易く書いてあるホームページがありますから、こちらで読んでください。http://www.eonet.ne.jp/~jujiro/setuwa/konj26-7.htm
さて、このお話が、どこまで、中山神社と関係があるのかどうかは、確かめる術はありませんが、中山神社の境内を左に100mほど進みますと、高台に登っていく道があります。小いさな祠ですがあり、猿が祀られています。この猿は猿田彦命であると書いてあるものを見ましたが、そうではないのではと思っています。

そこで、私の少々強引とも思える推理を書いてみようかと思います。一番のポイントは、中山神社の名前です。現在は「なかやま」と呼んでいますが、かつては、「ちゅうさん・中参」と読んでいたと思われます。
備前国と備中国の一の宮は、中山のいう山の麓にあります。この山の真ん中が、備前国と備中国の国境になっています。この山は神聖なる山で、この山から由来するのであろうということを書いておられる方がありました。国境に国の一の宮が並んであるというのは、尋常ではないのですが、なぜ、このようなことになっているのか、それは、中山という山がも神聖視されたからであろうとの推理かと思います。その両国から、美作国が生まれた
(?)のですが、同じ、一の宮だから、中山神社のなまえになったという推理は納得がいきません。
北京の南50kmぐらいのところにあった中山国が忽然と消滅しました。2300年前のことです。その国の遺跡が、1973年だったと思いますが、発見され発掘されました。どうして、そんなに早いのかと思えるほど、早い時期に、19000点の遺物のなかか146点が日本に持ってこられて、1981年3月17日~5月5日まで、東京国立博物館で「中山王国文物展」が開催されました。こ展示会は見なかったのですが、その時に発売された冊子に、中山国のことと、出展されたものの写真が収められています。 多くの銅製の製品が紹介されていますが、二つの燭台があります。ここには、猿と龍が戯れている姿が生き生きと形作られています。
ただ、それだけのことですが、この国の人間は、元遊牧民の白狄人とされています。 少なくとも、彼らは、猿と龍が好きであったようですし、犬も好きであったのではないかと想像しています。
イザナギとイザナミが、日本という国を作ったということが、古事記に書かれています。高天原に、次々の神がやってきたところから、古事記は始まりますが、その中の神として、イザナギとイザナミが紹介されています。
このイザナギとイザナミが、中山国からやってきたのではないかとの仮説を知って頂くために、
「イザナギとイザナミはどこから来たか」http://homepage1.nifty.com/o-mino/page663.html
のタイトルで、書き始めています。「新しい日本の歴史」のNo69になります。H17.10.13にホームページに書き込んでいます。
 中山国は2300年前に建国し、200年ほど続いたとされています。イザナギらは、隠岐島にやってきて、ヒルゼン高原の高天原に来たのは、紀元前180年ころかなと推理していますと、少々、年代が合わないかなとの不安もあります。
 上に書きましたように、中山の由来・猿が神・鉄や鏡を作る技術は完璧なものがあったと、すべて、クリアーします。スサノオが襲撃した出雲の横田町大呂は、イザナギらによる製鉄所だったのではないでしょうか? 銅鐸は、作るのが難しいように言われていますが、縄文人にとっては、難しものですが、イザナギにとっては、なんでもない簡単なことであったのではと思っています。

『今昔物語』に「今昔、美作國二中参・高野卜申神在マス。其神ノ体ハ、中参ハ猿、高野ハ蛇ニテゾ在マシケル」と書かれていますが、宇治拾遺物語 巻10-6には、
「今は昔、山陽道美作國に、中山、高野と申神おはします。高野はきちなは、中山は猿丸にてなんおはする」と書かれています。「高野はきちなは」 とはどういうことでしょうか?  

先ほど、紹介しました二つの燭台に造られている龍には、足がありますから、蛇ではないのですが、所謂、龍でもないような気がします。「中山王国文物展」の冊子には、この龍のことをキ龍(虁龍)と書いてあります。キの漢字は、虁です。どのような意味があるか判りません。「きちなは」は、判りませんが、龍は架空の動物ですから、「きちなは」と「キ龍」は関係があるのかもしれません。
生贄の祭りは、中山神社と高野神社が一緒に行ったとは、書いてありませんが、一緒に行わないのであれば、「今昔、美作國二中参・高野卜申神在マス。其神ノ体ハ、中参ハ猿、高野ハ蛇ニテゾ在マシケル」の表記にはならないと思います。
両神社を祀る人々は、同じようi外国の出身でしょうか?

この辺りを 次回に探ってみます。 


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美作国高野のひま人

高野はきちなは

ここいらの方言でマムシを「クチャメ」それ以外のヘビを「クチナワ」というだけのことですよ
by 美作国高野のひま人 (2019-05-24 00:48) 

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