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古事放談  3-16  日留山人 [日本の歴史]

シルクロードはテレビのお蔭で何千粁も離れて居りながら雲南系日本人とあまりにも多くのかかわりあいがあることが分って来た。
 NHKから出版されたシルクロード第三巻に幻の楼蘭・黒水城のことが書かれている。
 楼蘭について愉しく書かれているが、この国は紀元前120、30年頃東洋史に名が現われた。
 しかも僅か50年後の紀元前77年には姿を消した国である。
 年代は前漢の猛烈な侵略主義者武帝の時代と一致する。
 楼蘭はシルクロードの真中にあった国で、日本からの絹がここを通ってはこばれていたのである。
 絹は適当な湿度がないことには良質のものは得られない。中国の河北ではいくら絹があったとしても空気が乾燥しすぎていた。
 又同じ前漢の武帝が紀元前139年に張騫(ちょうけん)を西域に派遣している。これはシルクロードが西安に通じてなかった何よりの証拠である。
 

古事放談  3-16  86頁より引用



私からの一言
 「楼蘭について愉しく書かれているが、この国は紀元前120、30年頃東洋史に名が現われた。 しかも僅か50年後の紀元前77年には姿を消した国である」

今から2000年以前の頃のことが記されています。古事記で云えば、古事記に書かれていることよりも以前のことが、中国では、記録に残っています。

今は、紀元2018年です。紀元0年は誰が決めたかは判りませんが、決めた紀元元年から、2018年経過していることが分ります。
 日本では、日常は、西暦よりも、日本の暦が主に使われています。
明治、大正、昭和、平成  これらの暦は、私を中心に考える時は、解かり易いだけではなくて、便利です。

参考に
日本の元号の一覧
https://jpnculture.net/gengou/

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古事放談  3-15  日留山人 [日本の歴史]

古代史は調べている内についつい派生した事象が現われてくる。従って話が横にそれることが多くなって申分けない次第である。
 中山王国を滅ぼしたのが漢民族で、この亡命者を日本まで追いかけて来て東北に征伐に行ったのが漢の皇帝の子孫だったのだ。
 この征伐の命令を出した藤原は中国人でないことには話は通じない。
 これも中国人の陳寿が240年代に雲南系日本人が2,300万人居ったと証言していたのである
 この雲南系日本人の支配者が天皇である。
前漢の武帝は猛烈な侵略主義者だった。北鮮を紀元前108年に中国の植民地にした。
 南越まで水軍を出して占領したのは紀元前111年のことである。漢の軍隊は揚子江の上流から河を降りながら雲南地区を侵略したのである。
 揚子江の上流から攻められれば雲南の少数民族はいやでも揚子江を降るわけには行かない。揚子江の謎のカーブから紅河に逃げる外なかったと考えたいのである。 


古事放談  3-15  85頁より引用


私からの一言
「この征伐の命令を出した藤原は中国人でないことには話は通じない」
この文面は難しいです。藤原氏は中国人だと断定しましたが、軟らかに表現したことになるでしょう。

「揚子江の謎のカーブから紅河に逃げる外なかったと考えたいのである」
この部分は、この辺りの地図を眺め眺めなが、考えませんと、ピンと来ません。

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古事放談  3-14  日留山人 [日本の歴史]

古事記は天皇家の歴史であり、日本書紀は不比等が天皇制すなはち即位制を創作したと述べて来た。 (〝卑弥呼に捧ぐ〟)
 神武天皇と孝霊天皇は後世に藤原が勝手にデッチ上げたのである。
 坂上田村麿呂の先祖が後漢の孝霊帝と書かれこの皇帝は中平5年4月に崩じたと系図に注が入れてあった。
 この中平5年は188年にあたる。わたしが推定した7代孝霊天皇は186年に崩御されたのである。
 藤原は同時期の天皇に皇帝の名をつけていたことになる。
 念のため神武天皇の御世は中国では後漢の光武帝である。
 神武と書いて 「ジンム」と読むことは異例中の異例である。
 神戸 (コウベーこれ以外の読み方も多い)
神代 (コウジロ) の様に神武は「コウブ」と発音すべきだ。この様に読めば同時代の中国皇帝の光帝帝と漢字が似て発音が同じだ。
 偶然として片付けられる問題だろうか。


古事放談  3-14  84頁より引用

 
私からの一言
えらいことが書かれています。

「古事記は天皇家の歴史であり、日本書紀は不比等が天皇制すなはち即位制を創作したと述べて来た」----この部分だけにしても、正しいのではないでしょうか。「即位制を創作した」。と成りますと、日本書紀は、中国の人によって、作られたことになるでしょう。

私には、よく理解出来ないのですが、日本書紀は、確かに、漢文て書かれているように思われます。
 どうして、日本の歴史を書くのに、漢文で書く必要があったのでしょうか。古事記も漢文かどうか解かりませんが、どうにか、読むことが出来、無理矢理読んでみますと、読めるような気がします。
古事記には天皇家のことが書かれている。
日本書紀は、藤原不比等らが作ったと書かれ、
藤原不比等は、天智天皇から藤原氏の姓を賜った藤原鎌足の子です。


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古事放談  3-13  日留山人 [日本の歴史]

陸奥には葦が繁るデルタ地帯には神武天皇の御世に計画的に雲南系日本人が入植したことだろう。しかし稲が育たなかったので、ここの雲南人は津軽海峡を越えて太平洋を南下し関東平野にまで入植したと考えたい。
 津軽で米がとれなくても、津軽までの日本海沿岸は先に入植者があったので、後退する余地がなかったと考えたいのである。
 津軽等に雲南系日本人より以前に白狄人がすでに居住していたことだろう。この民族は焼畑、狩猟民族だから生活圏が稲作民族とは異なり競合することはなかったと考えてよい。
 この民族が蝦夷と呼ばれ、征夷大将坂上田村麿呂が登場するのである。
 坂上田村麿呂の先祖は後漢の孝霊皇帝だった。 (〝系図綜覧〟258頁) これを派遣したのは藤原継縄で791年のことである。
 藤原は中国人だと〝卑弥呼の霊に捧ぐ〟に述べて来たが、中国人坂上田村麿呂を重視したことによって中国人だとの推理に間違いなかった。
 異民族間には戦争がないことこそおかしい。


古事放談  3-13  83頁より引用


私からの一言
① 「神武天皇の御世に計画的に雲南系日本人が入植したことだろう。」

②「しかし稲が育たなかったので」

③「ここの雲南人は津軽海峡を越えて太平洋を南下し関東平野にまで入植したと考えたい」

④「先に入植者があったので、後退する余地がなかったと考えたいのである」

⑤「津軽等に雲南系日本人より以前に白狄人がすでに居住していたことだろう」

⑥「この民族は焼畑、狩猟民族だから生活圏が稲作民族とは異なり競合することはなかったと考えてよい」

⑦ 「 藤原は中国人だと〝卑弥呼の霊に捧ぐ〟に述べて来たが、中国人坂上田村麿呂を重視したことによって中国人だとの推理に間違いなかった」

①より⑦は、文章の形から、日留山人氏の推理でしょう。 ⑦に於いて、「推理に間違いなかった」と、自分で、間違いと、判断して確認して居られます。

でも、やはり、凄い推理だなと思います。厖大な、知識があってこそ、この文章が生まれたのだと思います。

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古事放談  3-12  日留山人 [日本の歴史]

イザナギ命に関する地名や神社が各地から現われた。しかも白狄人の王にふさわしい白王の地名まで銅たく分布の中心の近江八幡市の島 (多賀、宮内、白王、玉ヶ浜の地名がある所は当時島である) に残っている。
 中山王国の人が山東半島に逃げたと書かれていた中にはイザナギ命が含まれていたと考えては如何だろうか。
 鹿児島や直方にイザナギ命を祀った多賀神社があることは、古事記を読んでから後世の人が創建したとは考えられないのである。
 古事記を読んで神社が創建されたのであれば、天照大神を祀った神社こそ全国に分布しておらないとおかしいのではないか。
 イザナギ命は津軽までも行かれたことだろう。実はここにも相馬村に多賀神社があり、イザナギ命が祀られている。
 白狄人の一部は北方に逃げたが、ここには既に先住の狩猟民族が居った筈である。従って日本海沿岸に亡命する外なかっただろう。
 一部は津軽海峡を越えて太平洋岸を犬吠崎 (犬が地名につく) まで南下しただろう。



古事放談  3-12  82頁より引用


私からの一言
 犬の字が付く、地名を重ねて行きますと、
「一部は津軽海峡を越えて太平洋岸を犬吠崎 (犬が地名につく) まで南下しただろう」に行きついています。
 その後は、中山王国から、やって来た人達は、どんどん、太平洋岸に拡がって行ったことになります。
 すこし、遅れて、気になった滋賀県の多賀に行ってきました。

多賀町(たがちょう)は、滋賀県犬上郡に属する町である。ここにも、犬の字が見つかります。

多賀という語源
https://dostoev.exblog.jp/17190992/

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古事放談  3-11  日留山人 [日本の歴史]

日本民族は騎馬民族だと東大の江上説を古代史に興味をもたれる方はお読みになったことだろう。
 北方系の騎馬民族が日本に侵略 (短期間だけ栄えたのであれば渡来ではない) して来て既に住んでいた原住民と混血したとの説である。しかも年代は別として騎馬民族にふさわしい、南方系ではない黄金製品などが出土したことが根拠になっていたのである。
 中山王国は騎馬民族であり白狄人と呼ばれていた。この民族は漢民族に囲まれて豪華な四頭立の馬車まで出土した。
 しかも装飾金具は黄金製だったのである。
すでに述べたが銅たくがあった。この銅たくは近江中心で東西に焼畑と狩猟に適する所に拡がってたのである。
 漢民族の真中にあって前296年には滅ぼされたのである。
 北京の南にあったので一部が山東半島に逃げたことは中国史に書かれていた。大部分は狩猟で生活できる北方に逃げたと考えてよい。


古事放談  3-11  81頁より引用


私からの一言
「中山王国は騎馬民族であり白狄人と呼ばれていた。この民族は漢民族に囲まれて豪華な四頭立の馬車まで出土した。 しかも装飾金具は黄金製だったのである」
 写真をみたような気がするのですが、私が持っている写真には見付かりません。
と云うことは、中山王国物産展に行った時に、見たのを記憶しているかとも思っています。
しかし、その時に購入した冊子には、多くの写真が掲載されていますが、
「豪華な四頭立の馬車まで出土した」の馬車の写真はありません。

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古事放談  3-10  日留山人 [日本の歴史]

イザナギ命が移られた所は近江八幡市の多賀で、祀られた所は犬上 (犬神)郡の多賀大社である。ここにも地名に犬がつけられていた。しかも従来の解説書は移られた所を多賀大社と同じとしたのである。
 イザナギ命を祀った多賀神社は鹿児島市、直方市、青森県の津軽平野の相馬村にある。
 多賀の地名は仙台の多賀城、茨城県の多賀郡があり、この中間の福島県に相馬市がある。津軽平野の相馬村と相馬市は無縁ではないだろう。この相馬市の合併前の五つの村の名前が共通だったのである。
 更に相馬市のやぶさめや馬追いと同じ行事が隠岐の最大の行事だった。
 これだけの連関関係がみつかってはイザナギ命を最早神話上の人物として虚像とすることが許されるだうか。
 これらの地名等は古事記や日本書紀の影響を全く受けなかったのである。
 アベコベに日本書紀ではイザナギ命を近江ではなしに淡路に移ったと曲げたのである。


古事放談  3-10  80頁より引用


私からの一言
 「津軽平野の相馬村と相馬市は無縁ではないだろう。この相馬市の合併前の五つの村の名前が共通だったのである」
 成る程、書かれている通りですね。

「相馬」という言葉は、以前に指摘があった様に、地名に「蛇」とか「猿」の名前が入っているのように、解かり易くありません。
 日留山氏は、どうして見つけられたのでしょう。小さな字で表示された地図を毎日、眺めておられて、偶然見つけられたのだと思います。

これまでの記事は、第12話のどのページから引用したかを書いてきました。
  
 「古事放談  3-10  80頁より引用」 この部分です。

52~75ページが抜けていたと思います。 気が付かれましたか。
このページには、冊子では、日留山氏が気になられた地名や古事記や日本書紀等に登場した地名に記しが付されています。例えば、美保湾を表した地図の「大国」と「倭」という地名は、マルで囲まれ、美保湾まで、棒線で、結んで居られます。
ここには、
大国村倭と根国の都 と記されています。

この地図をコピーして、皆さんに見て戴ければ良いのですが、地図をどの様にして、私のブログに掲載すればよいのか分りません。
私も、日本全土の地図を持っており、専用のケースに収めていますが、衰えた目では、地名を全部眺めることは出来ません。

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古事放談  3-9  日留山人 [日本の歴史]

 隠岐の犬来の近くにはイザナギ、イザナミ命を祀った仁があった。イザナギ、イザナミ命は中山王国から亡命した証拠があった。
 中山の地名は大山の北に中山村があり津山に中山神社がある。この津山の北にそびえる山はイザナギ命に由来する那岐山である。
 この山の中腹にはイザナギ、イザナミ命を祀る諾 (ナギ)神社がある。
 中山王国の王の燭台には蛇と猿があしらってあった。中山神の祭神に猿が含まれていたのである。
 大山の北の中山村には国主の地名があり、これはイザナギを指していることだろう。この中山村には国主の地名があり、これはイザナギ命を指していることだろう。この中山村から蒜山高原の途中に加勢蛇川と蛇ヶ峠があり蒜山高原には大蛇の地名があった。蛇の地名も中山王国に由来していた。
 お断りしておくが中山国は2300年間幻の国で発掘が始まって数年しかならないのである。
 中山王国は騎馬民族で北京の南すなはち漢民族に囲まれた白狄人の国である。イザナギ命が移られた所には白王の地名まで現われた。



 古事放談  3-9  79頁より引用


 私からの一言
あまり聞きなれない 中山王国、(蛇、猿)  那岐山、加勢蛇川と蛇ヶ峠が見えます。

出来れば、現地へ行ってでも、どのような所か、調べて戴ければと思います。

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古事放談  3-8  日留山人 [日本の歴史]

チベット式の数字の読み方を追求して行く内に隠岐にたどりついたのである。
 とだろう) 富来 (能登半島にあり近くに福浦すなはち雲南人が来たと考えたい) 戸来 (先に述べた様にヘブライ人―伝説ではキリスト、が来ただろう) 等が見付かった。この隠岐の過疎の地に犬町と犬来の地名がある。犬が来たとは珍しい地名である。参考までに目についた所は安来 (安南から来たこ
 古代の地名のつけ方の一つである。この犬がつく地名が蒜山高原に犬狭、犬畑と二ヶ所ある。
 ここで2400年昔の中山王国の文物展を思い出した。この文物展には目をみはる美術工芸品にまじって中山王の二頭の愛犬が金銀の首輪をつけたまま展示されていたのである。
 この文物展には銅たくが14ヶ音階順に並べて出品してあった。イザナギ命が移られた近江八幡市の隣りの野洲町と神戸市からも銅たくが14ヶ出土していたのである。
 イザナギ命は中山王国からの亡命者だった。


古事放談  3-8  78頁より引用


私からの一言
①「チベット式の数字の読み方を追求して行く内に隠岐にたどりついたのである」
 数字のお話

②「富来 (能登半島にあり近くに福浦すなはち雲南人が来たと考えたい) 戸来 (先に述べた様にヘブライ人―伝説ではキリスト、が来ただろう) 等が見付かった。この隠岐の過疎の地に犬町と犬来の地名がある」
 ここは、地名のお話です。

③「イザナギ命は中山王国からの亡命者だった」
 中山王国の登場。 それだけでは無くて、イザナギ命からの亡命者。

ころころと話題は変化し、日本の歴史を提供してくれます。日本にやって来た人達は、日本に新しい文化を持ち込みました。

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古事放談  3-7  日留山人 [日本の歴史]

外国から渡来するにしても、中国の水軍だけが何万かの単位で敵前上陸できたのである。
 これ以外の少数民族は仮に数人で渡来しても隠岐だけが他から攻撃されずに上陸出来た、日本でも、珍しい地形である。
 しかもここに各国人が来たことは隠岐には古事記の神代に登場するほとんどの神々を祀った神社があることで証明される。 イザナギ、イザナミ命の間に天照大神、スサノオ命、月読命が生まれたとはおかしい。伯耆の387社の神社の祭神はすべて古事記の神代に登場する神々だった謎を解いた学者があっただろうか。
 少く共古事記を神話と考えて来られた学者にとっては困った問題が出て来たことになる。
 この伯耆の南に蒜山高原があり、ここにも天照大神、スサノオ命、稲田姫、事代主神を祀った神社があったのである。
 神々が隠岐から伯耆を経由して蒜山高原に来られ、ここを高天原としたのであれば謎は解ける。蒜山高原は古代の都があったにふさわしい広大な要害の水田が出来る高原だった。


古事放談  3-7  77頁より引用


私からの一言
 ①上から三行は、このようなことを言われた方は居られないのではないでしょうか。
 ②「しかもここに各国人が来たことは隠岐には古事記の神代に登場するほとんどの神々を祀った神社があることで証明される」


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