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百歳まで生きるぞ その34  胸が痛くなる [思うままに]

検索語を「胸が痛くなる」にして、ネットにおいて、検索しますと、一番に次のタイトルがヒットします。

急に胸が痛くなり続いています。心臓や肺の病気でしょうか?
https://www.jrs.or.jp/modules/citizen/index.php?content_id=54

このタイトルに該当する病気には、5種類書いてあります。

その内の2番目のものは、私の症状に一番当てはまります。

胸痛の中で、とくに生死にかかわるため緊急の対応が必要になることが多いです。
狭心症や心筋梗塞などの虚血性心疾患(心臓の血管が詰まる病気)
狭心症は、労作時に胸部中央から左側にかけて締め付けられるような痛みや圧迫感があり、数分で消失します。時には首や肩などにも広がるような痛み(放散痛)や上腹部の痛みなどとして現れることもあります。安静時、夜間や明け方の寝ている時に起こるようなタイプもあります。これらの痛みがよりひどく、持続時間も長く、冷汗や呼吸困難などのその他の症状を認めた場合は心筋梗塞を疑います。

「胸痛の中で、とくに生死にかかわるため緊急の対応が必要になることが多いです」
 この文章は、他の文章と読み比べますと、それほど重要には思えません。

しかし、この文章に一番当てはまる疾患は、
「狭心症や心筋梗塞などの虚血性心疾患(心臓の血管が詰まる病気)」と記されています。
 注意して読みますと、
胸痛の中で、とくに生死にかかわるため緊急の対応が必要になる病気は、虚血性心疾患(心臓の血管が詰まる病気)であると記してあります。
 体表的な病気は、「虚血性心疾患(心臓の血管が詰まる病気)」に分類されて、
狭心症や心筋梗塞がありますと成るでしょうか。

狭心症----- http://www.jhf.or.jp/q&adb/category/c4-1/
心筋梗塞--- http://www.jhf.or.jp/q&adb/category/c4-2/

両方とも、冠動脈を流れる血液量が、減少した状態になりますが、心筋梗塞の方は、冠動脈にある部分が詰まった状態になる場合の病気の名前の様です。どうして、治療をするかは書いてありますから、読んで頂きますと、要は、詰まっている部分を取り除く事になります。
 ゆっくり読んでいますと、どうやら、心筋梗塞の方が、死亡する確率は高いように思われます。

 この様に、狭心症の症状は、初期の警報ですが、放っておきますと、心筋梗塞に進み、死亡する病気であることが分ります。
(狭心症)の状態をそのままにしておきますと、(心筋梗塞)になるとは書いてありませんが、素人考えをしますと、やはり、(心筋梗塞)になるのではないでしょうか。

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記紀(9) - 日留山人 - [日本の歴史]

源氏と秦氏は帰化人である。この帰化は、天武天皇の時に許された。680年頃で、これまでは、日本人扱いではなかった。 (〝中国人が書いた日本書紀〟)
 漢氏と秦氏はもと、七つの大罪を犯したことは日本書紀に書かれていた。七つの大罪とは、日本を相手に戦争したことではないか。
 暴力団が前科の多いことを、宣伝材料にするのと、全く同じである。
 具体的に一つ一つの悪事については、ゴマ化して、他人事にするか、かくしておいて、しかも前科7犯だと、漢氏は、威かくした、書き方をした。
 日本人は秦と漢に圧迫されて、日本に安住の地を求めて、渡来した。
 しかるにこの秦と漢の人が、市民権を得て秦氏と漢氏になったのではないか。
 この漢氏が、漢文の才を、駆使して、日本書紀を、天皇制打倒のために書いた。
 従って古い過去の記録など、日本書紀の作者は持った筈がなかった。もしあれば帰化後に書かれた筈である。



第13話 建国の日は正しかった  93ページ より 引用


私の一言
 記紀(9)に書かれている記事は、根拠になるようなものは、有るでしょうか。
最後の行に「従って古い過去の記録など、日本書紀の作者は持った筈がなかった。もしあれば帰化後に書かれた筈である」と書いて、済ませておられますが、許される範囲の想像された歴史ではないかと思います。

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記紀(8) - 日留山人 - [日本の歴史]

日本書紀には、一書に云わくの、独特の書き方がある。しかも、この書き方は、桓武天皇以降にはないと申し上げる位しか、発生しない。
 神武東征で、古事記には筑紫の岡田宮に1年、安芸のタケリ宮に7年、吉備高島に8年も天皇は滞在された。
 この滞在された付近には、沢山の神武天皇を祭る神社が密集している。沢山の屯田兵を集めたためだろう。
 この東征は、近江中心の銅たく圏の征伐だと述べて来た。銅鐸圏は瀬戸内海にまで、拡がっていたので、征伐に長年月かかって、当然である。
 しかるに日本書紀は、天皇は筑紫の岡水門に1月、安芸の埃宮に1月、吉備の高島に3年滞在されたと書かれている。
 なぜこの様に全く異っているのに、一書に云わくと書かなかったのか。一書もなかったのではないか。
 これに反して、神代には、一つの出来事に一書に云わが、10位も登場するのである。
神話の本は沢山あったと信用出来ないのだ。



第13話 建国の日は正しかった  92ページ より 引用



私からの一言
 日本書紀は、安芸における宮城の名前を「埃宮」と記し、古事記とことなる名前にしました。しかも、滞在は、「1月」と記しました。 これでは、宮城を建てるだけでも、1ヶ月を要すると思われます。

「埃宮」とは
「埃」
「漢字 ム 矢」にて検索
「つちへんに、「ム」、「矢」です。
https://kakijun.jp/page/hokori10200.html

「埃」
「塵埃(ジンアイ)」、「涓埃(ケンアイ)」、「煤埃(すすぼこり)」、「埃及(エジプト)」」

 埃と云う漢字は、どうやら、「ほこり」という意味があるようです。

日本書紀は、どうして、宮城の名前を「埃宮」としたのでしょう。古事記では、多祁理宮(たけりみや)と記されています。

神武天皇が東征のときに、立ち寄った地
https://nihonshinwa.com/archives/4375#i

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