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古事放談  1-6  - 日山山人 ― [日本の歴史]

月読命を祀った神社が多数あることは、月読命は偶像では無かったと考えるべきである。
 大江町に天照大神と月読命を祀った伊勢大神宮 (古事記の崇神天皇の項にこの様に書かれている)があることは天照大神も実在のしかも独神の男性の神だったと考えてよい。
 津軽平野には神武天皇を祀った神社は2社ある。これも神武天皇が津軽まで行かれた今一つの証拠である。
 熊本県の天草には、ここにも天がつく地名がある。熊本県には神武天皇を祀った神社が70社もある。これは異常に多い。
 更に天草だけでこの中の40数社が見付かる。これが神武天皇が雲南系日本人を呼び寄せた証拠である。
 雲南から河を降れる底の浅い船なら偏西風で海面をすべることが出来る。揚子江の南の会稽から季節風が吹く日に隠岐にでれば一両日で天草に間違いなしに渡れる。
 天草と天がつく地名には雲南ゆかりの意味が含まれていたのである。地図を眺めながら古代のロマンを愉しむことである。


第12話 河を忘れた古代史 
古事放談  1-6     8頁より引用

私からの一言
①「津軽平野には神武天皇を祀った神社は2社ある」
②「熊本県の天草には、ここにも天がつく地名がある。熊本県には神武天皇を祀った神社が70社もある。これは異常に多い」
③「雲南から河を降れる底の浅い船なら偏西風で海面をすべることが出来る。揚子江の南の会稽から季節風が吹く日に隠岐にでれば一両日で天草に間違いなしに渡れる」
④ 「 天草と天がつく地名には雲南ゆかりの意味が含まれていたのである」

文章に書けば、上記の4つですが、次から次へと地図上に鉛筆で記しを付けながら、夢中の日山山人の笑顔 が浮かびます。
 以前に、同じ地図を二枚用意してくださいと書いた意味がお分りになられるのではと思います。

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古事放談  1-5  - 日山山人 ― [日本の歴史]

津軽平野の海岸に天皇山と称する珍しい地名が見付かる。この地名こそは神武天皇ゆかりの地名である。神武天皇は古事記ではカムヤマトイワレヒコと書かれ天皇の文字が始めて登場する。
 〝卑弥呼にささぐ〟で神武天皇は西暦紀元元年に即位され、73年に崩御されたと根拠を示しておいた。従って、1900年昔の水田は神武天皇の御世に相当する。
 天皇山の様に天がつく地名は、雲南ゆかりと考えて見ることだ。天山山脈、通天河 (揚子江の源流)と同じ使い方である。
 地名に天王がつく所が蒜山高原や各所に出てくる。これは雲南系大王に縁のある所だ。
 丹波の天田郡には雲南経由で西域から来られた月読命が居られた。月読命はイザナギ命にここの夜久野 (古事記では夜食之国と書かれ写本の時夜之食と変った筈) に行く様命令されたのである。
 天田郡に数社と隣りの伊勢大神宮 (大江町)に月読命を祀った神社が存在する。これこそ月読命が実在した証拠ではないか。


 第12話 河を忘れた古代史 
古事放談  1-5     7頁より引用

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古事放談  1-4  - 日留山人 ― [日本の歴史]

雲南から東北にまで稲作民を計画的に入植させた根拠は津軽平野には十三潟すなはち葦が繁るデルタ地帯がある。 天照大神が「豊葦原の水穂国を作れ」と天孫ニニギ命に命令した。これは葦が豊かに繁っている所に水田を作れと命令したのだ。
 日本海側の葦が繁ったデルタ地帯には例外なしに福や宮がつく地名と稲に縁のある地名が密集して、独特の地名パターンがある。
 これが天照大神の命令を忠実に実行された証拠である。古事記で天照大神の田のあぜをスサノオ命が壊した。 
 あぜとあるからには陸稲でなくて水田である。天照大神は揚子江の中流から亡命して来たと私論を別稿で述べておいた。
 従って揚子江中流のジャポニカ種のもみは天照大神が始めて日本に導入し、雲南系
日本人が全国に普及させたのである。
 日本民族の2, 300万人が雲南系だったことは魏志倭人伝で風俗習慣が海南島人と同じだと、これも1700年昔にすでに証言されていたのである。



倭国ゼロ世紀   第12話
河を忘れた古代史 
 6ページより転載


私からの一言
 証拠となるものとして、魏志倭人伝が登場しています。 日本書紀は、証拠にならないことは、以前に述べておられます。

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古事放談  1-3  - 日留山人 ― [日本の歴史]

倭国ゼロ世紀   第12話
河を忘れた古代史 
 5ページより転載

第12話 古事放談1-3
日本本土には、先住民としてアイヌ人が居った。中国山地には毛無山といった不思議な山が数ヶ所ある。
 ここから1000キロ離れた青森と岩手にも毛無山が数ヶ所あった。これは地名をつけた人が同じグループだったことだ。 
 アイヌ人は毛深いので毛人と呼ばれていたのである。毛無山があることはこの付近にはアイヌ人が住んでいたと解してよいだろう。
 米が全く取れない所に田のつく地名が、集っている所がある。
 例えば津軽平野には田のつく村は実に8ヶ村と更に稲垣村がある。稲が育つ筈がない所にこの様な地名が発生する理由を解けばよい。
短期間に数年間に何万かの稲作民を入植させないことにはこの様な現象は起らない。
これが計画的に移民を入れた根拠である。津軽の様な雲南から遠い所まで稲作民を入植させたことは、入植が全国規模で行われたことを教えてくれる。
 従来の学説では津軽には稲作は行われなかったが1900年昔の水田跡が現れた。

私からの一言
①日本本土には、先住民としてアイヌ人が居った。
②アイヌ人----毛無山
③米が全く取れない所に田のつく地名----津軽平野には田のつく村は実に8ヶ村
④稲垣村---稲が育つ筈がない所----計画的に移民を入れた
⑤津軽の様な雲南から遠い所まで稲作民を入植させた---入植が全国規模で行われた

以上、5つのことは、お互いに関係無いことですが、

最後の行が、事実であったことが、解かります。

【従来の学説では津軽には稲作は行われなかったが1900年昔の水田跡が現れた】

<津軽で水田の跡が見つかった> この事は、学者によって、水田の跡であることは解かったのですが、「1900年昔の水田跡」であったことは、立証出来なかったと思います。

このような文章を「理路整然としている」と云うのではないかと思います。

この様な文章は、論文を書くときに使われます。

「河を忘れた古代史 」のような歴史書では、珍しいのではないでしょうか。


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